カードからの気づき

「力」と」世界」、言葉の関係

今日、浮かんできたのも「力」のカードのことであり、それについて記事にしようとか思っていたのですが、すでに三年前に書いていたようなので、その記事を再アップします。

「力のカードがあなたを変える」

それでも、ただ再アップするだけでは面白くありませんので、ちょっとこの記事に付け加えたいと思います。

少々引用が長くなって恐縮ですが、この記事で、

『もともと、「自分はできる存在だ」「私にはその力がある」と思って取り組むのと、「自分は何もできない」「自分には力がない」と思ってやるのとでは、きっと、最初から達成力に違いが出てくるものだと想像できます。あなたの自我意識が認識できていない、もっとすごい力、内なる可能性が、あなたにはあるのです。それはあなたが自分にはない、できない、ダメだとしている(そう信じ、決めている)から見えない(発現しない)だけで、そこ(自分)にあるのです。「力」のカードのように、見えないエネルギーをライオンとして実体化、視覚化することで、その力も実感し、それをコントロールすることにもつながります。自分の力、フォースを信じた時、それは現れるのです。』

と書いている部分があります。

ここは言葉の使い方にも大きく関係することだと思います。力がたとえあっても、その使い方次第で、正義にも悪にもなるからです。その鍵のひとつが「言葉」だと言えます。

」のカードのライオンは、口を開けており、そして「世界」のカードにもライオンがいて、こちらは口を閉じています。その象徴の詳細については、ここでは述べませんが、二匹が対になっているのは明らかです。

「力」と「世界」のカードを並べて、「世界」側から「力」を見ると、文字通り、「世界」は「力」(の扱い)による、「力」の影響があるという読み方ができます。逆に言えば、まさしく、「力」が「世界」をつくるわけです。

両カードは、ともにローマ数字の「」を持ち、始まりが強調されますが、ある象徴によって終わりも示唆されます。

言葉」というものをカードのライオンの絵に関係づけますと、口を開けるということは、言葉(音)を発することを意味し、口が閉じられることは、言葉を受けとる、言葉の意味を噛みしめている、発した言葉の結果を見ている(受け取っている)と言ってもよいかもしれません。

ということは、すでに述べたように、言葉の使い方次第で、(自分の)世界は変わるということです。

最初からダメだ、できない、どうせ自分なんて・・・と否定やネガティブな言葉を発していれば、その言葉はそのまま世界をつくる(その通りの世界をつくろうと働く)ことになります。(実際に口に言うだけではなく、心でそう発することも同じでしょう)

聖書ではありませんが、まさに「はじめに言葉ありき」です。

ですが、人間、へこんだり、メンタルが弱くなったりして、そういう言葉を発することは、結構、誰にでもあります。

そこで、口を閉じている「世界」のライオンです。

こちらは口を開けていないので、言い直しができると考えます。心の中で、さっき(力のライオンが)発した言葉をキャンセルし、仕切り直しの準備をしていると見ます。また、「世界」のライオン側には、天使など、ほかの存在も周囲にいます。

ですから、自分が気弱な言葉を発そうとしても、ほかの存在たちが応援してくれて、思い直しもできることが考えられます。

世界はあなたが創造し、あなたはその力を持ちますが、だからと言って、あなた一人によって完成するわけではないと、「世界」のカードが示しています。

捨てる神あれば拾う神ありです。

とは言え、大元であるあなた自身が、自分の力(言葉によって変えられる力でもあります)を、いい意味で創造的に使っていかないと、あなたの世界は闇に閉ざされることになります。

グノーシス神話では、光が闇側の勢力に取り込まれて、その光を救出するというストーリーから始まります。あなた自身が動けなくても、きっと救援部隊はやってきます。しかし、あなた自身にも救いを求めて、自分が光であることを思い出す必要があるのです。

それが言葉の使い方にも関係するという話なのです。


様々な「待つ」ことの意味

マルセイユタロットには、「待つ」ことを示唆するカードたちも少なくありません。

そもそもタロットの象徴自体、大きく分けて二元的なエネルギーの表現をしており、その二元をしっかり把握し、その中でバランスを取る現実感覚とともに、二元を統合して大元に回帰する、いわば空とか無(しかし光であり有の可能性のすべてである)の境地に到達することも示唆しています。

つまりは、現実への認識をうまく調整しながら、この世と経験を楽しむか、現実を超越して、自分自身が天国を創造する(宗教的にいえば 神の国に帰る)かということになります。

本当に私自身、長年マルセイユタロットをやってきて思うのは、「愚者」というカードがあるように、自分の自由性を尊重しているということであり、タロットは自分の選択によって、いかようにでも道を示してくれるという面白さです。

タロットの精霊の形ともいわれる「愚者」と、その「愚者」に寄り添う犬、その犬がいろいろな種類で現れ、私たちが「愚者」になる時、犬は姿を臨機応変に変えるみたいな感じですね。

話を戻しますが、タロットには、進め、変革、GOみたいなことを示すカードと、先にも述べたように、待つ、様子見、保守、ストップみたいなカードのふたつの表現や象徴があるわけです。

後者の代表で言いますと、「吊るし」です。このカードが出るということは、イケイケゴーゴー(笑)みたいなことでは決してないと思ったほうがいいでしょう。(ただし、例外はありますが、それはややこしくなるので、今回は説明しません)

さて、一般的に「待つ」ことで迷うのは、それが受動的か能動的かでも異なるからです。

だいたいにおいて、「つ」と言えば受動的なものですが、これにも、待たされる、待たされているという状態の時と、自分からあえて待っているという状態の時があります。

これが、受動的か能動的かの違いと言えましょう。

そう、受動的と思える「待つ」姿勢にも、よくよく考えると、その中に、さらに受動的なものと能動的なものとに分かれるわけです。(ここにも二元の働きが見て取れます)

能動的な「待つ」の場合は、あまり迷いや悩みはありません。あるとすれば、待つ姿勢を解除するタイミング、ゴーサインを、どう見落とさないかというくらいです。

とは言え、そのタイミングはかなり大事なので、慎重かつ大胆に見る必要があります。「吊るし」と「運命の輪」、「戦車」などが重なれば、このようなことも表すと見ていいかもしれません。

問題は、待たされる「待つ」です。

これもタイミングが重要とはなってきますが、自分から選択できないので、判断や次の行動が難しいわけです。

自分からはわからないのですから、ひとつには、自分が何とかしようとする気持ちをあえて捨てるというのもありです。

言い換えれば、相手や自然に任せることを自分が許し、支持するということです。まさに「吊るし」のように、手も足も出さずに待っているような感じです。

イライラしたり、早く動きが出てくれとあせったりすればするほど、そうできない状況と比較して、心は苦しくなるばかりです。

だから、もういっそのこと、いい意味でのあきらめをして、天や自然のタイミング教えてくれるという感じでいると、心は楽になります。

また劇的な変化を望むのではなく、一見、膠着状態、出口が見えないとあせり、苦しいかもしれませんが、その状況を悲嘆せず、一定期間の膠着状態を経験する必要があると切り替え(もがいても変わらないモードに今は入っていると考え)、やれることだけを淡々としていくというのもあります。

もちろん、今何とかしないと死ぬとか、本当に危機で追いつめられるという状況になれば別ですが、しかし、それも、そのような絶体絶命の大変な状況になっているという「お知らせ」であり、「タイミング」であると言え、ここは動かざるを得ない、変えざるを得ない、本当にあきらめるようなことに、事態は待機モードから変わっているわけです。

ここで、悪い意味での能動的な「待ち」についても言及しておきます。

それは、やるべきことがあるのに、できないことの理由を自分が作り、それで「待つ」という状態にしている場合です。

何が能動的なのかと言えば、動かない理由、待つ理由を作って、能動的に「待っている」ことです。言ってみれば、動かないことに能動的(笑)だというわけです。

私自身にもよくありますが(苦笑)、人は不思議なもので、やりたくない、面倒だと思うようなことに対して、何かと理由を作って、それに取り掛かかれない(着手・完遂することに向かわない)ようにします。

それはそれは見事で、自分どころか、他人に対してさえも、論理的で正当だと思えるような理由を創造してしまいます。

本当は感情的なものなのですが、そこに論理性(屁理屈ですが)をつける能力は、意外にどの人にもあり、相反しているとよく言われる論理(思考)と感情でも、蜜月関係(笑)になれば最強であることを、ここに見ることができます。

まあ、平たく言えば「言い訳づくり」で、それは職人芸の域にあるみたいなものです。

さらにこれがひどくなると、自分の中での言い訳がパワーと権力を持ち、カードで言えば「正義」となり、また「悪魔」とも結びつき、自分の行為を正当化して、誰の声も聞こえなくします。

ライトスピリチュアルや心理系の誤解では、「心の声」とか「ありのままの自分」という錯覚さえ起こすことがあるので、注意です。

そうなる前に、「待つ」ことの状態をもう一度振り返り、それが本当に苦しいことなのか、つらいことなのかを確認してみましょう。

待つ、何もしないということが一見楽なようでいても、それが自分にとっては本当は心苦しく、つらいことである、気になって仕方ないことであるのなら、自分の心や成長したいという気持ちに嘘をついているのかもしれません。

そのつらさは、動きたいのに、変わりたい(元に戻りたい)のに、状況・環境的にそうできないというつらさとはまた別です。

このままではダメだとわかっているのに、動かない、ずっと待っているほうが楽だからと、何かと理由をつけてそうしている、でもそれは本当は苦しい・・・というのならば、どこかで一歩踏み出し、厳しくても本心に即した行動に向かうほうが、結果的にはつらさは消えていくことになります。

やるつらさ、何もしないでいるつらさは、同じ(つらさの)ようでいて、まったく質は違うのです。

マルセイユタロットでは、ナンバーの前後や、ある並びの絵図が、ひとつのカードの問題性を解決したり、癒したりする場合があります。

「吊るし」の場合でも、詳しくは言いませんが、「法皇」や」太陽」とも関係し、そこからしますと、父性的なほかの力や段階が働いて「吊るし」の救済があると考えられます。

よって、自分一人で膠着し、出口が見つからない待機モードになってしまった人には、その問題を整理し、上の段階や別の見方から助言をしてくれる者(あるいは考え)の存在が打開の可能性を持ちます。

止まっている理由、止まりたい理由は、抵抗・ブロックでもあり、実は自分にとって大切なこと、大事にしていることでもあるのです。それを切り捨てられたり、否定されたりすると、余計にかたくなになってしまうおそれもあります。

誰かに相談する場合は、これらをきちんと見てくれたうえで、「吊るしモード」を解くことに、勇気をもたらしてくれる人がよいです。

また「吊るし」が長引いている人自身においても、よき方向に変わりたいことを心の中で宣言し、その支援を天や神(これは内的な高次の自分というように考えてもよいです)に本気に頼めば(祈れば)、事態はそれに見合うものに変化してくるでしょう。

それに見合うというのは、人によっては、まだ「吊るし」として「準備」、浄化・調整としての期間が必要な場合もあり、必ずしも、自他が物理的に、今、変化する必要があるわけではないからです。もちろん、必要な人には、そういうことが「神の家」として起こることもあるでしょう。

いずれにしても、自分を貶めないことです。言い訳モードの待機でも、人は安心安全でいたい気持ちがあるのが当然ですから、それも責められることではありません。

自分のことを尊重していけば、動かない理由をつけて自分を守っていることが、逆に自分を貶めていることにも気がつく時がやってきます。言い訳している自分を責めても、自己尊重とは逆のことをしているわけですから、本当の気づきは訪れにくくなります。

このあたりは、タロットを学んでいると、きっとわかってくるでしょう。


新たな「手品師」の誕生に向けて

マルセイユタロット、アルカナナンバー1、私たちは「手品師」と呼んでいるカードがあります。

ちなみに、ウェイト版などのほかのタロット種では、同じ数のアルカナは「魔術師」と呼ばれ、そのほうが一般的です。

しかし、マルセイユタロットの図柄を見てもらえばわかるように、このカードは大道芸を披露している人の絵であり、彼はテーブルの上で手品道具を見せ、やはり手品をしていると想定するのが、素直な見方だと思います。

ですから、「手品師」、もしくは「奇術師」、あるいは広い意味で「大道芸人」と呼ぶのがふさわしいと個人的には思います。

さて、これからの時代、この「手品師」をモチーフにした時代が新たに始まるのではないかと予想しています。

実は、タロットカードに時代を象徴させることもでき、それは逆に考えれば、タロットに時代の進展も描かれていると見ることができるのです。

そういうと、ナンバーごとに時代が進むのでは?と予想する人もおられるでしょう。確かに、それも一理あるのですが、ことはそう単純なものではないのです。

これは宇宙の進化の構造を考えないと見えてこないところがありますが、それだけに、宇宙の進化・発展のプロセスがおぼろげながらでもつかめてくると、その時、改めてマルセイユタロットを見直すと、タロットがすでにそのシステムを描ていること、タロットのシステムと宇宙のシステムがシンクロするように作られていることに気がつきます。

それはまた、自分の理解や気づき、解放が現れれば現れるほど、タロットは宇宙の秘密を開示させていくようなものになっています。

最初は、そうしたこと(タロットの象徴システムの基本知識)を誰かにに教わる必要はあるとしても、やがて、自分でいろいろと気がついてくるようになります。だからこそ、タロットは智慧の宝庫あらゆるものの象徴図と言われる所以になります。

話を「手品師」に戻します。

「手品師」について、書物やスクールでマルセイユタロットを学んだ人においては、主な意味に「仕事」として覚えられた人も少なくないと思います。

実際それは言えることで、しかも、アルカナナンバーが1であることで、現実的に暮らしていくための基本の「最初、始まり、第一の理」として、人との関わり、仕事を持って報酬を得て生活していく象徴として「手品師」をとらえてきたこともあるでしょう。

私たちの社会・暮らしを見ても、その意味では、ほとんどの人が「手品師」であり、それを経験していると言えます。まあ中には、「愚者」のように、仕事や定住性を持たず、フリーに生きている人もいますが。

そうすると、「手品師」になるということは、現実生活の基本をマスターする、経験するみたいな、ちょっと固い意味と言いますか、とても堅実な感じがしてきます。

しかし、最初にも述べたように、この「手品師」は大道芸人で手品をしているわけです。たとえそれが彼の仕事であっても、大道芸人は、今でいうサラリーマンではないでしょう。

中世から近世の頃のヨーロッパの風習・民俗性をもとに描かれているマルセイユタロットです。その頃の大道芸人と言えど、今でも芸を披露して生活する人がそうであるように、(特に収入的に)安定した確実性のある仕事とみなされていたわけではないでしょう。

ならば、この「手品師」の意味は、忠実に絵柄を見ると、今でいう雇用者、普通に勤務して仕事する人を象徴しているとは言い難いことになります。

もし、そのまま大道芸人の意味を中心に据えるとどうなるでしょうか?

すると、興味深いことに、これからの時代の基本みたいなものが、もしかすると見えてくるかもしれないのです。

突飛な話に聞こえるかもしれませんが、これからは、皆さんが大道芸人化すると考えるのです。

例えば、すでにユーチュバーなどが一般化してきまして、誰もが動画で発信することが容易になり、まるでそれは「YouTube」という舞台(大道)で、芸を披露する芸人たちのように見えます。

この芸もいろいろです。

料理を作る人もいれば、歌やダンスをしたり、釣りしたりする人もいる、難しいことを簡単に解説する人もいる、怖い話や陰謀論を話す人もいる、自分の趣味や得意分野を皆に見せる人もいる・・・とにかく皆さん、なにがしかの「芸」を見せているわけです。

これには、YouTubeからの広告収入が入るという「仕事」の面もありますが、それだけのために、これだけの人がYouTubeで芸を披露しているわけではないでしょう。つまりお金や生活のためだけではないのです。

今、Zoomなどのオンライン会話・会議システムが一般化しつつあります。そのことで、これまでより、例えば人に何かを教えたり、伝えたりする講師的な仕事をしてみようと思い立つ人もかなり増えている状態です。

今までは「講師」というと、ちょっと堅苦しく、何か遠い存在であり、教えるための設備や準備もなかなか大変だと思われてきました。

ところが、コロナウィルスのことがきっかけでオンラインでのコミュニケーションが普通になり、案外、簡単に自宅からでも、全国、世界の人にモノごとを伝えられるということがわかってきました。

前にも書いたように、リアル(実際)でのものと、オンラインでのものが相対化してきたわけです。

今はまだ、経済的な意味で生活のための労働があり、また「手品師」の意味は、経済的・人間関係的生活の基盤の確保ということが大きいかもしれません。

しかし、もし新たな時代に、これまでのような、とにかく経済ベースで仕事を選び、働かなくてはならないという状況が変化した時、人はその時存在するツールを利用して、ほとんどの人が何らかの発信をしていくのではないかと予想します。

言ってみれば、皆が大道芸人(パフォーマー)になるような社会です。

それで報酬をもらう人もいるかもしれませんが、報酬・生活のためだけに芸を披露するわけではないので、そこに大きな自由性があります。

本当の意味で「愚者」と向き合う「手品師」であり、「手品師」と関係性の深いカードと言われる(マルセイユタロットを学んでいる人にはわかります)「恋人」とも結びついてきます。

これは「手品師」のレベルや次元が上昇したものと言えますし、本来の「手品師」に回帰した状態と言えるかもしれません。

タロットは時代をそのまま反映させ、それぞれのカードの意味さえ変えていくようです。

「手品師」が1の数を持っていることは、すでに述べました。

まさに新たな始まりがある時、「手品師」はそれにふさわい新しい「手品」を習得し、披露するのです。

今から、昔風の「手品師」を脱して、新たな時代の「手品師」になるため、準備したり、実践したりしていくのも面白いと思います。

それには。まず自分自身を「愚者」のように思い、軽やかに次に渡り歩いていく気持ちも大事です。「愚者」を逆向きにしてしまうとわかるように、悪い意味でこだわりを持ちすぎると、いつまでも動けない状態・人物になってしまいます。

それと、仕事とか報酬(お金・経済)を強く意識し過ぎないことも大事です。

芸を披露して報酬を得るのはすばらしいことですし、それが仕事だといえるかもしれませんが、すべてをお金に換算する価値観のもとではそうであっても、誰かに喜んでもらえること、また自分自身が楽しめること、という内的なエネルギーとして見ると、必ずしもお金にごたわらなくてよいと思います。

労働報酬や経済的基盤のための芸だとしてしまうと、いくら誰もが簡単に自分のものを出せる環境になったとしても、人に見てもらうため、人から選ばれるためには、競争意識が働き、最初はよくても、次第に厳しい「売れる」芸人のための生き残り、熾烈なレース社会に入っていくことになります。

それは旧来の、仕事は厳しくて当たり前、苦労して当然、勝ち組になるために頑張る・・・みたいな意識に囚われます。(「仕事」をなめてかかれとか、楽がとにかくよいと言っているわけではありません)

旧来意識をはずし、もっと愚者的になり、自分がただ大道芸人として発信することだけでも、思ってもみなかった人とのつながり、展開が現れるかもしれません。それがこれからの財産になる可能性もあります。

あくまで仕事として、報酬を目指す(芸)人はそれはそれでまたひとつの道です。そこは簡単ではないと思いますし、才能の問題や、相応の努力は、今しばらくは社会や全体が変わらないと、続くと思います。

それでも、新たな時代に向け、仕事や報酬の意味だけにとらわれない「手品師」になっていくのも、もしかすると、あなたの可能性をもっと開いていくかもしれませんので、気軽にチャレンジしてみるのもよいと思います。


「皇帝」となるチャンスを活かす

今日はマルセイユタロットの「皇帝」のカードについて書きたいと思います。

その前に、知っておいてほしいのは、このブログでは、カードの基礎的な内容については、ほとんど言わないようにしているということです。

ここでいう基礎的なこととは、例えば、カードの意味などノーマルな事柄についてで、いわば教科書的な内容ということです。それは世に出ている本とか、マルセイユタロットでなくても、ほかのタロット種などでも、同じカードであれば共通していることも多いですので、それらを参照していただけれはわかることだからです。

今回の「皇帝」のことで言っても、「皇帝」には、現実性とか経済性とか、指導・統治、父性みたいな意味が出てきますが、それら(がなぜ意味として出るのか)をいちいち解説しても、たぶんこのブログを読んでいる皆さんにはつまらない(知ってる人も多い)から、あえて説明しないみたいな理由です。

また、それらを教えている先生とか学校に対しての営業妨害(笑)にもなりかねないので(苦笑)、基本事項の解説を体系的には書かないようにしています。ということで、このブログで、タロットの基本を学ぼうとしてもダメですよ。(笑)

まさに私が好き勝手書いている雑文タロットブログなんです。もしかしたら、ちょっとタロット、特にマルセイユタロットをかじっている人には有益かもしれませんが。

さて、話を「皇帝」に戻します。

「皇帝」はその名の通り、国を治めるトップです。(厳密な意味で「皇帝」となれば、単なる国王を超えた存在ですが、そのことも実は大事なことです)

もっと拡大解釈していくと、いわゆる組織や集団のトップの象徴と言ってよいかもしれません。

今の世界的危機のご時世、国のトップはもとより、組織のトップの手腕が真剣に問われています。

ある意味、平和で穏やかな世の中よりも、ピンチで危機な時ほど、皇帝(という役割)が際立つと言ってよいでしょう。一般的には現実性の意味が強い「皇帝」なのですが、意外にも、非日常の状況こそが、「皇帝」の強さが現れるわけです。

でもそれは非現実ということではなく、より現実に向き合わされるから、非日常時、つま非常時にその仕事が重要になってくるというものです。やはり、彼と現実は深く結びついていると言っていいでしょう。

マルセイユタロットの教えでは、実は現実から離れていくというものがあるのですが、それは夢や幻の世界に逃げ込む意味ではなく、現実の世界に生きながら、(通常認識している)常識を超えていくことにある、現実と非現実の統合を果たしていくというような意味であり、現実逃避ではないのです。

よって、「皇帝」を自分のものにしないと、真の意味で進化していくことができないわけです。

「皇帝」が治め、コントロールすべきは、自分の現実にあるのですが、それは一見、外にあるようでいて、内の現実性も象徴するのです。

結局、自分という国を支配すること、それが「皇帝」の役割であるのかもしれません。

「皇帝」の基本的な意味のひとつに、父性や男性性、まさ父親そのものを象徴することがあります。

自分というものは、最初は母性的なもの、母親に守られる存在ではあっても、やがて父的な者がライバルとなって、その父的なものを乗り越えて自立する過程を経ると言われます。(特に男性の場合はですが、女性にも関係します)

マルセイユタロットでは、特に男性的カード、自立・自活・独立をテーマとすると言ってもよいのですが、「皇帝」はその典型でもあるでしょう。

自立は、つまるところ、自分という国を治めることと象徴的にも言えます。

しかし、さきほど述べたように、自立する前には父親、あるいは自分を強く支配する存在(思いや感情、思想、論理、正義などということもあります)から独立していく必要があるのです。

それまでは、自分が「皇帝」ではなく、誰かや何かが「皇帝」となっています。あなたという国を仮に支配している者、代わりにやってくれている者と言っていいかもしれません。

そうすると、自分は息子や娘としてふるまっていればよく、甘えた子供でいたり、逆に反抗したり困らせたりしますが、ともに未熟なままの仮の「皇帝」への抵抗なようでいて、保護を求めていることにもなります。

本当にあなたが子供でいる場合はよいのですが、すでによい年をした大人であるのに、いまだ仮の父親、「皇帝」にあなたの国を任せていては、いつまで経っていも、自分の国の力(民であり資源であり国力そのもの)を思う存分、使うことはできません。

もしかすると、成長に応じて、一部の国を治めることが許されるようになったかもしれませんが、それは国王であって「皇帝」ではないのです。

「皇帝」の命令には背けず、ビクビクとしつつ、ほんの一部の国の力が出せるに過ぎない状態です。

この仮の「皇帝」が、虚勢の意味での権力やお金などと結びつくことも多く、(仮の)「皇帝」の命令・欲望によって、どんどん自分は働かせられることになり、仮の「皇帝」を満足させるため、あなたは従者となり、暴君皇帝の奴隷となっていくこともありえます。最終的にはその「皇帝」が「悪魔」のカードになっていくこともあり得ます。

ですから、あなた自身が「皇帝」の座につくよう、勇気を持ち、成長し、自立の精神を醸成していくことなのです。支えや助けはあってよいのですが、依存ではなく、あくまで自立するための手段として考えることです。

アドバイスはもらっても、自分で決める、自分で行動する、自分が行ったことはだれかや何かのせいにするのではなく、自分の責任と考えること、こういうことが重要になります。

マルセイユタロットのヒントで言えば、王冠を持つカードたちと関係し、「皇帝」も当然ながら王冠を持ち、その王冠のカードたちの象徴、示唆を自分のものにすることが求められるのです。

先述したように、「皇帝」は、日常よりも、非日常、危機の時に真価が問われます。

ですから、今のような時は、あなたが女性であれ、男性であれ、内なるリーダー性、男性性、言ってみれば、あなた自身の国の「皇帝」になることが促進される事態となり、立ち位置や自信がとても揺らぐようなことになるとは思いますが、それこそが「皇帝」になるチャンスでもあるのです。

今まで、自分では無理だと思っていたこと、人に任せて自分が保護されてきたこと、甘えてきたことの視点を変え、自分の今の時点でできること、独立的にやれること、どんな小さいことでも、あるいはささやかな瞬間・機会であっても、トップ(リーダー)になること、そういうものに目覚めてください。

あなたは無力ではないのです。そして女性性や、保護し、包み込む優しい母親的な性質だけでもないのです。(もちろん女性・男性の性別的な特質はありますが、人は性質としては象徴的に両性を持つと言えます)

これは「無理をしましょう」と言っているのではありません。

まずは自分を国王として見て、仮の「皇帝」から委託されている範囲の支配を現実的に把握し直し、少しずつ思い込みや依存から脱し、国の勢力を拡大し、やがて「皇帝」の座を回復しましょうと言っているのです。

「皇帝」は建築家のシンボルも有しています。

建設は一気にするのではなく、土台作りから、ひとつひとつ築き上げていくものです。その完成された建築物、家がどれになるのかは、マルセイユタロットではすでに示されているのが、たぶんわかるでしょう。そこにも王冠があります。

と言っても、一人の力だけではなかなかうまくいかないこともあります。

そんな時は、パートナーである「女帝」と歩むことです。「女帝」と「皇帝」は並べると向き合う形になります。この二枚に共通する鷲の盾のシンボルにも意味があります。

「女帝」は女性であることから女性性も示しますし、アイデアや計画性としての意味も出ます。「皇帝」の独立、国の治世には、女性・パートナーとしての「女帝」が必要でもあるわけです。この逆も言え、「女帝」には「皇帝」が必要です。

あなたが女性であれば、「女帝」側から「皇帝」を見てもいいですし、男性ならば、「皇帝」側から「女帝」を見てもよいのです。これらは、 実際の人物を表すこともありますが、あなた一人にいるふたりの人物・性質と言ってもよいのです。

特に、非日常や危機感にあふれる時は、アイデアや発想という「女帝」の性質も大事ですが、それを決断し、実行する「皇帝」の力が鍵となります。

まさに今、誰もが王となり、「皇帝」となっていく機会が、訪れていると見ていいのかもしれません。


2020年の数秘とタロット的象徴

タロットにはがあります。

構成的には、大アルカナが22枚、小アルカナが56枚あり、このうち、大アルカナ小アルカナの数カード(数札)には、ナンバーともいえるがあてがわれています。

これらの数にはもちろん意味があります。

ところで、数と言えば数秘術が思い浮かびますが、数秘術というのはその名の通り、数を基本概念といいますか、象徴の元としています。

数秘的には、いわば、数=神であり、数は神の現れ、表現であるとみなすことができるわけです。

ただ、タロットには数もありますが、基本は絵柄です。

数そのものを象徴とする数秘(術)と、数より絵柄が象徴の根源であるタロットとは、その数の扱い、解釈に違いがあるのも当然のところがあります。

タロットの場合、先述したように、数とは無関係ではありませんが、それはあくまで象徴としての絵柄・図柄とリンクさせたものであり、根本は似ているところはあっても、数の象徴の範囲や次元が異なっているのだと考えたほうがよいです。

けれども、矛盾するようですが、範囲や次元は異なっても、やはり、数としては共通のところがあるのも、数秘とタロットとの関係では言えると思います。

このあたりがわからないと、そのまま数秘で学習した意味をタロットにあてはめたり、逆に、タロットの絵柄の象徴性を、数にあてがったりして、混乱してしまうことになります。

何度もいいますが、数秘的解釈の数の意味と、タロットに使われている(配当させられている)数は違っていながら、奥底では共通しているということなのです。

さて、それを踏まえながらも、今日はあえてと言いますか、わざと単純に、数とタロットを見てみたいと思います。一種のお遊び、ゲームだとみなしていただければよいです。

今日、数的に見るのは、「年」です。

今年は西暦では2020年で、ここに「2020」という数が出ます。

まず、見た目で2と0が並ぶのがわかります。出ている一桁としての数は「2」で、二桁では「20」、3桁では「202」が見え、4桁ではそのまま「2020」ですね。

数秘術では単数化、数字根といって、二桁以上の数を一桁に戻す方法があり、これは数をばらして足すことによって、単数化するものです。

すると、「2020」では、2+0+2+0=4となり、「4」という数が出ます。

さきほど、見た目から抽出した二桁「20」、3桁「202」も、同様に単数化すると、それぞれ「2」、「4」となります。まあ、当たり前みたいなことですが、結局「4」という数が「2020」からは現れますし、その半分である「2」も基本の数としてあるのがわかります。

すると、今年は「2」であり、「4」の年だと、単数的、数の象徴的には言えるかもしれません。

さらに二桁という数で見ると「20」がふたつ並んでいるように見え、20×20の400とかも現れるかもしれませんが、タロット的に見ますと、大アルカナ「審判」の数が、ふたつ並ぶことになります。いわば、ダブル「審判」です。

さきほど、2と4も出たので、タロットの大アルカナに置き換えると、「斎王」(一般的には女教皇)と「皇帝」になります。

まあ、「0」という数もありますので、これをタロットであえて示せば、「愚者」となるかもしれません。ちなみに、「2020」の「0」をないものとすれば、二桁的に「22」という数も出て、これもタロットでは「愚者」を示す数といわれているものです。どの道、「愚者」は出るわけです。

ということで、「2020」をいろいろと数的に分解して、タロットの大アルカナにしてみると、「愚者」「斎王」「皇帝」「審判」ということになります。

ちなみに、日本の和暦的には、令和2年ですから、「斎王」となりますね。(ということは、数の「2」、タロットでの「斎王」が、洋と和の暦で共通していることになります)

これらのカードを、マルセイユタロットで並べてみましょう。

大アルカナの数の順で並べると「愚者」「斎王」「皇帝」「審判」となります。(愚者は本当は数を持ちませんので、ほかの三枚のカードのどの間でも、さらには外にでも位置することができます)

さらに、この4枚をいろいろと並び替えすると、今年の意味が、もしかするとタロットで象徴されるかもしれません。

例えば・・・「審判」「愚者」「斎王」「皇帝」

こうすると、密集するところから逃れて、家に籠る状況の年のようにも見えてきます。「皇帝」が現実での対応や、政治のトップの人の号令みたいな意味にも見えてきますよね。

カードの正逆を取ると、より問題性も露わになり、さらに興味深いことになるかもしれません。

ちなみに・・・「今年のメッセージ」としてカード(正立のみで)を展開してみると、「皇帝」「愚者」「審判」「斎王」となりました。

奇しくも、西暦と和歴での共通する「2」の数を持つ「斎王」が最後に来る展開となり、「審判」が本来のタロット的な象徴の意味である「(真の)復活」「覚醒」的な感じに見えるようになっています。(それを受け入れる「斎王」という図)

皇帝」はおそらく、これまでの次元、システムの象徴なのでしょうね。

タロットは数だけではなく、絵柄があるのが大きな特徴であり、物語としても見やすく、個別のレベルから世界や宇宙的レベルまでを象徴することができますから、あなた個人の今年の意味を、この4枚のカードを並べて(シャッフルして引くのもよい)考察するのも面白いでしょう。

マルセイユタロットを持っている人はやってみてください。


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