カードからの気づき
悩み、苦しみの救いの段階・ルート
苦しい時、悩んでいる時、人はまず自分で考えます。
しかし、たいていの人は耐えきれず、身内や親しい人、友人など身近な人に相談するでしょう。
また専門的なことは、まさにその道のプロに相談したり、対処してもらったりします。
しかし、それでもどうしようもない時、または、現実的にはどうにもならないと自分が思ってしまった時、最後には神や仏様に祈る、文字通り、神頼みをするかもしれません。
これは信じている宗教とか信仰に関わらず、日本人ならば、自然にやってしまうところがあるのではないでしょうか。
さて、こうやって見てきますと、人は、自分の危機において、自分頼み、他人頼み、最後は、神や仏のような、超越したものに頼ってしまうという流れ、段階があるように思います。
もちろん、一律に皆がそうなるというわけではありませんし、段階においても、途中で、神がかりな人とか、人間離れした能力者に頼る、最近ではAIやネットの情報に頼る(笑)というのもあるかもしれません。
それでも、多くの人は自分の問題を自分だけで収めてしまえるほど強くもないですし、逆に言えば、自分だけに抱え込まないからこそ、救いがあるのだと考えることができます。
自己責任という言葉が暴力的に唱えられるところもありますが、人間、何でもかでも一人できるものではなく、まれに強い人もいますが、一人では弱い存在でもあります。
注意しなければいけないのは、問題や悩み、困難状況に対する精神的な負担への思い、実際の対応能力には、個人差と言いますか、個性があるということです。
まったく同じ条件の悩みであっても、Aさんにとっては、まあ、ちょっと大変だな思う程度かもしれませんが、Bさんにとっては、死ぬほどつらいことなのかもしれないのです。
それをもって、Bさんは情けない、自己責任だから自分で何とかしろ、というのは酷だと思います。
もちろん、明らかに甘えすぎであるとか、嘘をついているなどのことがあれば問題ですが、まじめにやっているのに、つらい、苦しいというのは、平均を取ったり、皆と比べたりするのではなく、その人個人の苦しさとして受け止めてあげたほうが、その人にとっても救いとなるでしょう。
特に人の相談をするような人は、当然わかってはいることでも、この「相手の立場になって考える、共感する」ということが意外にできない人もいます。つまりは自分とか、イメージ上の常識集団の感覚で見てしまうのです。
さて、話を戻しますが、やはり、先ほどの、「悩みや苦しみをどのように解決や処理していくのかの段階」で言いますと、自分だけですべて完結できる、解決できると思い込むのは危険だとわかります。
それができる軽度の問題・悩みならいいのですが、悩むということは、もう自分ひとりのレベルや経験・知識では難しいということもあります。
よって、次の段階には、他人に相談することになります。
そして、一人ひとりが、まさに「一人」で苦しまないないよう、相談できる仕組み、システム、社会の雰囲気が重要であるとも言えます。
自分の次は他人へ相談するという流れがあるのですから、この「他人」の部分を、社会的にもっと拡大したり、充実したりすればよいのです。
人類の集合知と言いますか、誰れもが相談でき、相談を受けて、一人一人の悩みを解決する雰囲気の醸成、困ったことをお互いで解決し合う社会的常識を作り上げるわけです。
専門家が必要な時は、それにつなげるルートや仕組みも充実させます。いわば、共助・公助の部分を厚くしていくことと言えるでしょう。
マルセイユタロットで言えば、誰もが「節制」の天使になると例えてもよいです。
しかしながら、これでも、最後は神頼みという段階もあるかもしれません。
ここで、実際に神様がおられるとか、神様の力が発動させれるとかということを議論したり、言ったりするのではありません。
神様や仏様に頼る、祈るという、別の救いの段階、悩みや問題の軽減ルートがあってもよいと語っているわけです。
その仕組み・理由を説明しましょう。実は、このことは結構、秘儀に近いことで、タロットの霊的技術にも関係します。
私たちは神仏など、超越的なものに祈る時、神社とか仏閣などに行きます。そこに行けない時は、自宅の神棚、仏壇などに祈ることもあるかもしれません。
こういうものがない人でも、手を合わせて神仏に祈ったり、心の中で、何か言葉・マントラなどを唱える方もいるでしょう。
いずれにしても、その瞬間、日常ではない感覚になっているはずです。その非日常感が、自分と神仏などの超越的存在とをつなげるのです。
そういう意味では、非日常的空間にいるほうが、超越的なものと感応しやすい可能性があります。少なくとも、祭壇などがあったほうが、雰囲気が出やすいわけです。
そして、実は、神仏は、外にいる(在る)のではなく、自分の中にいる(在る)のだということです。
つまり、祭壇や社などは、仕掛けというか舞台演出のようなものだと思えばよいでしょう。
そういう仕掛けがあるからこそ、自分の中の、祈りに呼応した神仏的なものが現れるのです。(現れやすくなる)
神に祈って、実は自分に祈っているようなものです。
とはいえ、人は弱い存在だとも言いました。
ところが、反面、神性や仏性もあるのです。それが普段、日々の事象に悩む弱き人間としての部分がほとんどを占めてしまうので、なかなか表出して来ないわけです。
そのために、日常と切り離す、非日常的な仕掛け、舞台演出がいるのです。
こうして祈ることで、自分の強さが出て、私たち自身が奇蹟のようなことを起こす可能性を秘めています。
自分→他人→神仏(超越存在)と来て、最終的には→自分となって、結局自分に戻るのです。
人は救ってほしいと思った時に救われているというのは、このようなシステムがあるからと考えられます。
世の中はうまくてきています。
まずは自分として悩み考え、他人に救いを求め、ひとつの救いがなされると、他者を救いたくなるようになり、それでも難しい時は、神仏を頼りますが、その過程で、自分の中にある神や仏と出会うようになるわけです。
神仏に祈る時は、結構、大変な時でしょう。中には、祈ったところでどうにもならないことを自覚しながらも、仕方なく祈るという場合もあるかと思います。
そう、神仏に頼る段階では、結果は不明確で予想もつかず、そうそう奇跡が起こるわけではないのは承知のうえです。
だからこそ、一種の諦観と言いますか、悟りのような気分もやがて生まれてくるのだと思います。
その時、悩みはあっても、消えている感覚を持つ人もいるでしょう。それが奇蹟なのかもしれません。
この世は確かに悩み、苦しみの多い世界です。(そう思えない人もたくさんいて、それはそれでいいことです)
ですが、同時に、助けや救いも多いのです。自分を救いたければ、他人が救えるような社会に、皆で少しでもしていくことだと思います。
また霊的には神仏が救いをもたらし、それが結局は自分だったと気づくことがあるでしょう。
弱さ、強さを旋回しながら、私たちは、霊・魂の中心を磨き、存在として高めているのだと感じます。
そして、マルセイユタロットには、こうしたことを覚知させる智慧が隠されているのです。
社会情勢のマイナス・プラスと見出される意味
2/2に、新型コロナウィルスの記事を書きました。
占い的に見れば、それほど悲惨にはならないと思えるタロットの展開ではありましたが、注意書きしたように、それは対策・対処によって変わってくることも示唆されていたことも付け加えていました。
現状、どうも懸念されていた方向に進み、いよいよ、二次感染、三次・四次感染と思われる人たちも現れ始め、広くウィルスが拡散されているニュアンスが濃厚となってきました。しかし、これはほとんどの人が、世界の情勢、日本政府・行政の対応を見ていれば、予想できたことではないかと思います。
感染者が発見されてきたのも、中国武漢などの渡航関係者、濃厚接触者以外に検査の範囲が拡大してきたからと言え、つまりは、すでにウィルスはかなり前から広まっていて、一般向けに、ただ検査や調査がされていなかっただけということになります。
検査キットの製造問題、不安やバニックを避ける意味合いなどあっての措置だったとは思いますが、正確な情報とその公開、迅速な決断が逆にパニックを抑止すると考えられますから、隠蔽とか下手な忖度、気遣いは、かえって悪手となりかねないと思います。
こうなりますと、私たちも、ウィルス問題が次の段階、フェーズに入ったと認識し、それなりの対応と精神が求められてきます。
ウィルスの拡大と感染の危険ということそのものも、大きな不安と問題ではありますが、日常の活動が抑制され、全体的に引きこもり傾向になってしまうのも、いろいろな意味で問題だと言えます。
しかし、2/2の記事でも書いたように、このようなマイナス面にも、必ず、それに見合うプラス面があると推測することができます。
まず、当然ながらウィルスへの対抗策が医学的にも進まざるを得なくなりますから、医学の進歩、ウィルスと防疫に関する実践的な知識と経験も増え、今後に必ず役立つはずです。仮に、まことしやかにささやかれる生物兵器や人工ウィルス説だとしても、それに対する善なる力の増大・対策も出てくると思います。
また、日本では、熱があっても仕事に出るなど、あまりにも奴隷のような働き方が普通に行われていて、このような労働と環境の常識観念が大きく変化して、覆っていく可能性があるでしょう。私の公務員時代でも、熱が39度もあるのに出勤して、残業までして頑張っていた方がおられました。いくら仕事とは言え、こうなってしまう日本人の心、労働環境・仕組みは非常識ではないでしょうか。
すでに進みつつあった在宅ワーク・テレワークということも、これを機に、最初はやむを得ずの形からであっても、やってみれば案外うまくできてしまい、今後、当たり前になっていくことも予想されます。
あと、生活においても、引きこもりは、悪いことばかりではありません。
仕事が在宅ワークになり、外での活動が控えられるようになると、家での時間が増えることになるでしょう。
ということは、それだけ家族とか自己に向かう人も増えるわけです。ここで家族との関係を見直したり、温め直し、絆を深めたりすることもあるでしょうし、自分自身と向き合い、自己研鑽や自己学習に集中することもできるでしょう。
中には、精神的な学び、霊的なことへの関心に向かう人もいるかもしれません。
そして、一度内に向かった目で、再び外を見れば、これまで普通に思ってきたこと、常識だと疑いもしなかったこと、ただ惰性で毎日流していた日々のことを、違った目で見られるようになるはずです。
マルセイユタロットに流れる教義で言えば、グノーシス(自己の神性の認識)に目覚めるきっかけとなるかしもれません。
これまでは、自分を世界(環境)に合わすことができず、ただ無理にでも合わせる生き方をしてきたかもしれません。またお金とか他人の評価ばかりを気にして、それが自分の価値の重要なものとして思い込まされてきたこともあるでしょう。
しかし、ひとたび、自分の内なるものに向かえば、おかしいのは、常識と思っていた「みんなの」世界のほうで、自分本来は何もおかしくはなく、むしろ、違和感を持っていなかった自分のほうが変であったことに気づくでしょう。
2/2の記事でも少しふれましたが、すでに、皆さんも、このことには気づきはじめていると思います。
人が人として尊重されない世界、これが今の現実(実はずっと続いていた世界観、世界のルール)でもあるのです。
別に陰謀論に加担したり、世界が悪い!とひねくれたり、するのではありません。
言いたいのは、人として本当の自分、人間(いのち・調和)というものを大切にしていくことを主としていくのであれば、こんな今の世界のシステムにはならないだろうということです。
だからと言って、過激な社会運動をしましょうというのでもありません。
一人ひとり、本来の自分に戻る機会が、このような危機的なことで、実はやってきているのだということです。
日本の場合、本当はあの東日本大震災と原発事故の際に、大きく転換する必要がありました。
その可能性はかなりあったと思いますし、それだけの犠牲があった危機と事件でした。
その犠牲を、私たちは、再び、真に思い起こす必要があります。新型コロナウィルスで犠牲になる人を少なくするためにもです。
犠牲による変革は、古くからの宗教的な型です。
昨年、新海誠氏のアニメ映画「天気の子」が公開されましたが、新海氏の意図かどうかはわかりませんが、犠牲によって望むことや変革を期待する精神構造からの転換、一人一人の自らの気づきによる次元の上昇・ステージへの移行が示されていたように感じました。
あれも、長期の尋常ではない雨降りという、“異常な事態”を設定にしていたものです。
今回の新型コロナウィルスのことも、霊的にはやはり、何かの示唆であるように思います。
ちなみに、コロナという名前はウィルスの形が王冠とか太陽のコロナみたいなものなので名づけられたと言われますが、太陽は自己の本質を示すとされ、ひとつの時代とバージョンの象徴でもあります。(太陽系という、ひとつの世界の象徴にもなる)
マルセイユタロットでは「太陽」のカードは、アルカナナンバー19であり、奇しくも、今回の新型コロナウィルスは、2019年から発生流行したということで、COVID-19という名前になり、19の数が当てられています。これは常識的には単なる偶然でしょうが、見えない世界、霊的な示唆としては、何か意味があるのかもしれません。
しばらく事態が落ち着くまでは、大変だとは思いますが、だからこそ、内に向かう時間で、皆さん、何か重要なことを思い出していただければと思いますし、社会がよい意味で変わっていくきっかけになってほしいものです。
「斎王」と「法皇」の学び
今日は学びをテーマにして、マルセイユタロットの「斎王」(一般名「女教皇」)と「法皇」(同「教皇」)について述べたいと思います。
マルセイユタロットにおいて、「学び」の象徴や意味は、究極的には自己の内面におけるものと言えますが、その内面も単に心理的なものを指すのではなく、自己にある、神性的なものを思い出すための学びといったほうがいいかもしれません。
つまりは、トータルな自己の統合や回復という意味です。
しかし、よく考えれば、内なるものと言っても、外のものとの違いは、実は、突き詰めてしまえば同じものと言え、例えば、物理学的に見ても、量子のような小さな世界で統一して見れば、内も外もないのがわかるでしょう。
心理的な意味においても、内なるものが外に投影されることもあり、スピリチュアル的には、ただひとつの世界を(二面から)見ているだけと表現できますし、また、内と私たちが普段思っているものこそ外的世界で、逆に言えば、外的世界が内なるものなのかもしれないのです。
おそらく、「斎王」と「法皇」の違いも、そうした、あるひとつの二面性、内と外が違うようで同じことを二枚で表しているように思えます。
そして、ふたつのカードは、「女帝」や「皇帝」に比べ、精神的・宗教的なカードに見えます。
ここから、やはり、二枚は内面的なことに関わるカードであることはわかるでしょう。
しかし、「斎王」は確かに、内に秘めている感じが強いですが、「法皇」のほうは、弟子や聴衆と思しき人たちの前で、何かを言っているように見え、その姿は活動的であり、外に関心があるようにも感じます。
それでも「法皇」は、一般的には教皇などと呼ばれ、キリスト教の教皇様を彷彿させますから、たとえ教皇様そのものではなくても、カード人物の姿・形からして、何か宗教的な権威者であろうことは想像できます。
とすると、「皇帝」とは別の役割であることも推測できます。そうやって論理的にカードを見れば、「女帝」と「皇帝」に対して、「斎王」と「法皇」という別の役割の人たち(ペア)がいることも理解でき、当然、意味や象徴性も異なってくるわけです。
さて、ここで「学び」をテーマにして考えてみましょう。
「斎王」と「法皇」は、ともに精神や内面、あるいは外向きであっても、宗教的な人物の姿から、実際的なことや政治的なことよりも、やはり精神的・教育的・理想的なことに関わっていることがイメージできます。
学びは、実際的なことの学びも当然ありすが、学んでいる最中そのものは、実際的ではありません。わかりやすく言えば、学びと実践は(次元や場面が)異なるということです。
もちろん、実際に物事をやりながら学ぶというスタイルはあります。しかし、それ(行動)を学びだと思う意識がなければ、学びにはなり得ません。
つまり、学びは精神や心、意識にあるのです。
内面や精神的なものをイメージさせる「斎王」と「法皇」は、このことをもっとも強調しているのだと思います。
ただ、「斎王」と「法皇」では、女性と男性の違いもありますし、「斎王」は一人だけであるのに対し、「法皇」のカードでは、複数のほかの人物たちが描かれています。
ここから、学びの方法が違うことがわかります。
単純に言えば、「斎王」は本も持っていますので、独学・自習であり、時間的には予習・復習も入りますが、「法皇」は、聴く側の人物に自分があてはまる場合は、法皇から教えられる者(生徒)たちとなり、時間的には現在の学習そのものになります。
さらには、自分が「法皇」であれば、自らが教える側、先生・講師になるわけです。一方の「斎王」は、その気になれば人に教えることはできるのかもしれませんが、絵柄だけからすれば、教える段階にはない、あるいは他人に教える役割ではないのかもしれません。
「斎王」は、女性の宗教的な権威者のように見えますから、ある意味、高い位(レベル)の巫女的な女性と言えます。
巫女自身がたとえ知らなくても、その文字自体が示すように、まさに、人の間に立ちながら、上(天上)と下(地上)をつなぐ女性なのですから、言わば、神を降ろすことができる者で、すると、その知識は、人間でありながら神そのものと言えます。
ということは、「斎王」は学ぶ必要があるのか?という疑問にもなってきます。これは、女性性における「理解」の本質の鍵を握る秘密であり、女性の皆さんは、「斎王」に注目することは、とても有意義だと思います。
古代では、なぜ巫女的な人が活躍したり、重視されたりしたのかの答えにもなってきます。
一方の「法皇」は、話す(教える)ことで実は自らの知識・学びも向上させているように見えます。
このことは、人に教えることをしている方にはよくわかることだと思います。人にものを教えることは、自分の今までの理解だけでは難しく、人に伝えるための工夫、技術、さらなる物事への理解度が必要となります。これは言い換えれば、一般化とか普遍化の技術です。
「斎王」が自分だけの理解で済むのに対し、「法皇」は他人への説明、他人に理解させることが必要になります。「法皇」の力は、男性性に関係します。
たとえ、高度で深いことを知っていても、それをほかの人にうまく教えたり、伝えたりすることができるかは別です。
神様も、普通の人間に、正確に神様の知っていることを伝えるのは苦労されるでしょう。(笑)
このように見てくると、学びの根本は精神や意識にあるのですが、自分だけの範囲で学びと理解を留めておくか、他人にまで範囲を広げ、シェアしたり、さらなる刺激を受けたりして学びの質を高めるかによっては、「斎王」か「法皇」かの違いも出てくると言えましょう。
どちらかの優劣の問題ではなく、まさに自分にとって「学び」をどうするかによります。また、現実問題としての、時期や方法、自分の段階・レベルにもよります。
ですから、あなたは今、「斎王」になる必要がある場合もあれば、「法皇」でなければならないこともあるわけです。
また、自分の希望や思いとは別に、実際では、強制的に「斎王」や「法皇」にならなければならない環境・状況が起きます。
「学びは意識である」と言いました。
従って、あなたが意識的に「斎王」になる、「法皇」になることをすれば、まさに、「学び」は、そのスタイル・性質によって、あなたのものとすることができるのです。
「1」の数を例にしたカード解釈
数とタロットは無関係ではありません。
しかし、数秘術をされている方で、タロットを学習すると、どうしても、数をメインとしてしまう傾向があります。
数をメインとしますと、マルセイユタロットの場合、まだ小アルカナの数カードならばいいのですが、大アルカナでは、比較的具体的な絵柄がありますから、絵柄から思い浮かぶ象徴と、数そのものの象徴との食い違い、違和感が出てきて、迷ってしまったり、意味がわからなくなったりします。
タロットが詳しくわかってくるようになりますと、アルカナの数とそのシステムも、数秘的なもので言われている数の意味との関連性は見えてきますが、まだ浅いうちだと、混乱のほうが大きいでしょう。
そのため、おススメしているのは、数秘術を習った方でも、いったんその知識はおいておき、タロットはタロット、数秘は数秘として、別々で見ておく(学習していく)やり方です。
そのほうが、最終的にはふたつを統合しやすいのではないかと思います。
そんな中でも、最初から、タロットにおいても、あまり解釈の違わない「数」があります。典型的なのは、おそらく「1」でしょう。
これは、数秘というより、普通に、現代の皆さんが思う「1」のイメージが、そのまま意味になっていることが多いと思います。
すなわち、始りとか、最初とか、新しさとか、フレッシュさ、シンプルさみたいな印象です。
深くは、完全性、統合性などあるのですが、それは図形を考えないといけませんので、とりあえずは、一般的なイメージと意味で、「1」を見ていくことにして、その「1」の数を持つ、大アルカナ(マルセイユタロット)をあげて見ましょう。
すると、まずは1の「手品師」(一般名称では奇術師とか魔術師と呼ばれるカード)、そして11の「力」、最後は21の「世界」です。
つまりは、10番ごとに違う、1の位を持つ三枚ということですね。
10というのは、数カードの単位・セット・一組にもなっており、ここからも、ひとまとりの象徴性の数に「1」と「10」がなっていることが伺えます。
大アルカナは、10を基本システムとしているわけではないと想像されますが(3や7のシステムのほうが強い)、10を単位とできないわけではありません。
ともかく、新しさを象徴する「1」を持つ大アルカナが三枚あり、それぞれにやはり、「新しさ」の特徴の段階があるのだと推測されます。さきほど、述べた「10」の単位ごとにリニューアルしたり、レベルがアップしたりしているのだと考えられるわけです。
1の「手品師」はまさに初めの中の初めと言え、初心(者)と例えることができます。それゆえ、若い姿で、テーブルの上にもいろいろな(手品)道具が散らばっています。よくありますよね、道具から入る、形から入るみたいな人が。(笑)
なお、マルセイユタロットの種類によっては、この「手品師」の足元に、“若葉マーク”のようなものが生えているように見えることもあります。不思議?ですよね。
「さあ、やるぞ」と道具をそろえてみたものの、初心者はそれらをどう使うのか、整理して学ばないといけません。「手品師」も、心なしか、視線がテーブルの道具類にはなく、何か指導書とか頼るへき誰かを見てるようにも感じます。
次の11の「力」は、ライオンを従えた女性の姿です。女性にも若々しさがあり、やはり新しい感じがします。
「手品師」の男性から女性に変わったことで、柔軟さや包容力も出た印象があります。もしかすると、「手品師」だった時がライオンに象徴されているのかもしれません。つまりは、「手品師」の経験を受け入れ、コントロールしているようにも見え、新しさといっても、また別の次元や段階に来たことが見て取れます。
「手品師」時代の経験は完全に自分のものにして、未来に向かってより力を発揮していく姿が想像されます。
そして、最後は21の「世界」です。
ここまで来ると、新しさというより、完成した感じが強く、「1」のカードは登場する動物が次第に多くなりますが、「世界」ではそれが際立ち、「力」にいたライオンだけではなく、さらに三つの生き物、合計四つの生物に囲まれ、中の人も、一見女性のように見えつつも、男性にも見え、いわば、中性、両性を持つ者ではないかと考えることができます。
終着点、完成されたようにも見える「世界」ですが、異次元レベルで、次の段階の新しいことに向かうことになると言えます。まさに「新世界」です。それは中央人物のダンス姿や動きからも、何かこれから始まるのではないかという見方ができるからです。(その他の理由も、もちろんあります)
「手品師」が道具だけを扱っていたのに対し、「力」から「世界」にかけては、それが生物というものに変化していることも重要ですし、「世界」に至っては、再び、「手品師」のような道具も中央の人物は手にしています。
単純に絵柄だけを追って行っても、「手品師」から「力」「世界」へと、拡大・成長・複雑・高度化しているのがわかります。
ここではわざと、優しく書いていますが、本当は、今書いてきたことは、非常に深く高度な象徴性と意味が隠されており、それがわかると、マルセイユタロットが周到に用意されたシンボリズム、体系にあることが明瞭になります。
要するに、マルセイユタロットは、明らかに意図をもって、複雑に計算された描写のもとに成立しているということであり、ただの印象とか直感、あるいは芸術的な意味をもって描いているのではなく(芸術の影響はあるとは思いますが)、私たち、カードを見る者に、ある種の企画と意図を発見するよう促している仕掛けがあるわけです。
さて、再び、「1」を持つ三枚のカードに戻ります。
リーディングにおいても、このような段階やレベルの違いを、同じ「1」を持つカードに見ておくことで、どのカードが出たかによって、カードを引いた人物、またはリーディングを受けているクライアントに、どういう「新しさ」の質が求められているかというのがわかります。
「手品師」が出るのと、「力」で出る場合、「世界」が登場した時とでは、それぞれ違いがあるうえに、同時にこれらのカードで出た時や、もし正逆の位置を採っていた場合なども、さらに意味合いが変わってくることになります。
しかし、基本として、数のシンボルをとらえた時は、「1」という数が浮かび上がり、段階やレベル、質は違っても、やはり何らかの新しさが求められていること、または、そのためのテーマがあることは確かなのです。
あなたなりの、新しさをもって、今年に活かしてください。
違うものが同じに見える「∞」
2020年も、早くも10日近く過ぎようとしていますね。
わざと、あせるような見方で書きましたが、逆に言えば、まだたった10日程度しか経っていないわけです。
前にも書きましたが、マルセイユタロットの大アルカナを数の順で見て、21の「世界」から見るか、1の「手品師」から見るか(ちなみに「愚者」は移動していく存在そのものとして考えます)の視点によって、変わってくることを言いました。
つまり、ゴールから見るか、出発点から見るかの違いであり、時間的に言えば、終わりから見るか、始まりから見るかになります。
まあ、実は、マルセイユタロット的に言えば、終わりも始まりもなく、循環するもので、ゴールかと思えば出発でもあり・・・という不思議なことになってきます。それをひとつの図形で象徴したのが、「∞」の図です。
そして、マルセイユタロットの、特に始まりや終わりを示すと考えられるカードには、それが描かれています。(言われないと気づけないものもあり、これらは秘伝的にもなります)
通常、始まりと終わり、出発とゴールが同じなんて発想や見方はできません。それは私たちが、運動について、直線的なイメージを持ちすぎているからで、しかも三次元的な時空の思考とでもいうべき感覚に囚われてもいるからです。
普通、どこかに行こうと動いた場合、最初の動いていない地点が出発点であり、着いた場所がゴールということになります。
しかし、別の見方になってきますと、これが、着いたところが元の出発点だった・・・ということになります。(笑)
とすれば、その人は、まったく動いていなかったのでしょうか?
そうとも言えますし、違うとも言えます。
例えば、自分が動くのではなく、周囲が動いていたとしたらどうか?です。
言わば、バーチャルゲーム空間みたいな機械の中に入っていたり、3D投影メガネみたいなものをかけたりして、自分が動いているように錯覚していた(景色のほうが動いていた)と仮定すると、出発地点は当然ゴールとイコールになります。
もうひとつは、「∞」の図形からヒントを得た見方で、この図形の中心点が、自分のまさに中心点であり、常にここが基準だと考えます。
そして、ある地点に移動する場合、この中心点から、右か左かに、ループを描く線のままに進んで行くとしますと、いつの間にか、ぐるっと回ってまたもとの中心点に戻ります。
この輪を通っている過程が移動している実態だとすると、やはり、私たちは必ず中心点である出発点に戻ってくることになり、そして実はそこは、移動している者からするとゴール地点の感覚にもなっています。
さらに言えば、この中心点が立体構造のようになっていれば、ぐるっと回って中心点に戻ってきているように見えても、立体なので、ちょうど螺旋階段を上ったり下りたりしているように、空間的には別の位置へと来ていることになります。
もしかすると、元の中心点の位置であることを忘れてしまっているかもしれません。(例えば、階段の上下みたいに、上から覗くと同じ地点ではあるけれど、自分は二階に来ているので、別の場所にいると思うようなもの)
一度、自分の中心、元の場所には戻ってきてはいるのですが、いつの間にか、新しい出発が始まっており、次なる旅に進んでいるわけです。それはまた、今まで通った輪、ループからすると反対側、逆のものに入っていくことにもなります。
こうして、私たちは、いつも中心を通りながらも、移動している自分自身は、「ずっと前に進んでいる」「かつての場所はもう遠くに離れている」と直線的に感じてしまうわけです。
「∞」の見方からすると、まったく同じ場所ではないにしても、進み方は同様であり、出発点とゴール、始りりと終わりは(次元は異なっていても)同じであるという考え方ができるのです。
ただし、螺旋階段の上り下りのように、それ(階段の階層)をレベルや次元と考えれば、私たちは、同じような道を辿りつつも、成長や後退を繰り返していると言えるのかもしれません。
さきぼどのバーチャルな見方を入れますと、この世界はまさにバーチャルゲーム空間のようなものであり、私たち自身が移動しているのではなく、周囲の景色が、私たちに移動させているように思い込ませるために動いているという発想が出てきます。
この移動を「(人生の)経験」と言い換えれば、私たちが経験することは、すべて周囲がさせていることであり、私たちの本分、本質は、何も動いていない、ことになります。これは経験させる自分と、経験させられている自分との、ふたつの自分がいると見ることが可能です。
これが分離であり、現実の仕組みと言ってよいのかもしれません。
となれば、その分離が統合すれば、移動する自分と移動させている自分の境がなくなり、結局のところ、自分はここにいる、すべてを仕組む本当の自分との出会いを果たす(戻る、回帰する)ことになるでしょう。
しかし、ゲームとして楽しんでいるとするのなら、わかっていても、ひとつに戻るのは野暮な話なのかもしれません。(笑)
ゲームとしての楽しみではなくても、きっと、霊的には、こうする理由が必ずあるはずなのです。
それでも、自分を錯覚させながら、自作自演で右往左往するレベルの楽しみ方は、もう卒業していくような新たなゲーム段階もあるのだと思います。そして、そういう時代に、人類全体が目覚めようとしている気がします。
言ってみればゲームのバージョンアップです。もう皆さん、戦闘や支配もの、戦いに明け暮れ、誰かが多くを支配し、勝利したものが利益や欲を叶えるみたいな、ネガティブな意味で、ドキドキするような世界は飽き飽きしていませんか?
そういうゲームの楽しみ方は、だいぶん螺旋階段の下のほうの世界ではないかと思います。螺旋階段は、同じ構造ではあっても、次第にレベルが上がれば、輪自体が拡大していくものと考えられ、それだけ世界観が大きくなるのです。多様性が増すと言ってもよいかもしれません。
ですから、今までのような支配型ゲームがお好きな人はどうぞそれで、ということもありはするでしょう(螺旋階段を直線に降りる道もあるのかもです)が、もっと別の楽しみ方のあるゲームも、拡大した輪の中に入ってくるはずです。人々の意識が変わってくるのも当然になるでしょう。
ところで、「∞」の象徴図は、これにひねりをさらに加えれば、メビウスの輪になります。
メビウスの輪になれば、裏側の世界も通って(経験して)、元の中心点に来ます。ただの∞構造では、始まりと終わり、出発とゴールが同じでしたが、メビウスの輪になれば、表の世界と裏の世界の統合も(同一性)も出てくるわけです。
左右の輪と、表裏で、四元構造とも言え、それらが何を表すのかを想像すると、意識が変わりそうです。次元的には三次元を超えて、四次元以上を考える世界ですね。
マルセイユタロットで描かれていると言われる教義のひとつ、グノーシスは、神と人の同一性を説くものです。普通なら、三次元感覚にいる私たちには全く考えも及ばないことですが、それでも見方を変えれば、確かに、人と神は同じとなる次元があるのかもしれません。
いやはや、本当に、マルセイユタロットの象徴(図)は、面白いものです。