カードからの気づき
変化したい心と、変化したくない心
自己改革と言えばかっこいいですが(笑)、人は自分をいい意味で変えたい、変化させたい、向上させたいという思いが誰しもあるものです。
たとえ、世間から悪人のように思われている人でも、おそらく自分なりの価値観に基づいて、今の自分より変化させたいと思っているでしょう。
それは、一般人から見ると悪を強めている、堕落させているように見えて、本人自体は、その人の思う強さ(破壊であってもそれにつながります)、変化と思ってやっている者が多いと想像されます。
ということは、人間にはずっと同じ(自分)でいること、それに抗うような、そんなプログラムが施されているのかもしれません。
この現実世界が束縛や困難が多い反面、それだからこそ自由や楽しさを追求できたり、多様性に満ちて変化に富むことを味わえたりするのも、そういう理由があることが考えられます。
しかし、一方で、皮肉というか、面白いことに、まったく正反対の志向も人間には備わっています。
それは、変わりたくない、このままがいい、安定したままでいたいという思いです。むしろ、こちらのほうが、通常では強い力が働いていると言ってもいいでしょう。
その一番大きな理由は、たぶん、人間の体の仕組みにあると思います。恒常性と言われるように、人間の身体は、体温とか心臓などの動きを一定に保とうとする働きがあるのは知られています。
そうしないと生命が維持できないですし、太古の昔にさかのぼれば、環境的にも変化の多いむきだしの状態が多かったわけですから、生命を守り、維持・安定させていくのには、多大な機能とエネルギーが使われていたのは、容易に想像がつきます。
それが遺伝子的に記憶されているのであれば、直接的な命の危険がほとんど去った現代であっても、何かのことで、その機能がオンになってしまうことも十分に考えられます。
こうしたものが過剰反応となり、まるで免疫機能がおかしくなって攻撃しなくてもよいところに攻撃(防御の意味の攻撃ですが)して、体がおかしくなるような状態に似て、本当は変化してもいいのに、いや、むしろそれが望まれるのに、ずっと前(今)のままでいようという働きが起きてしまっている人は少なくないのではないと考えられます。
また、変化を決意しても、三日坊主で終わったり、躊躇や恐怖が出てしまったりするのも、このような理由のせいもあるでしょう。だからある意味、変化ができないのは、自分のせい(意志の弱さなど)ではないのだと、慰めることもできます。
やはり、何事も、無理に何かをしようとして、その力を強くすればするほど、当然それに対抗する力、抗おうとする力も増えてきます。
車でいうと、アクセルをふかそうとすればするほど、動かせまいとするブレーキの力も強まり、両者の力が激しくぶつかりあえば、機械が壊れるおそれが高まります。ひどい時は爆発してしまうかもしれません。マルセイユタロットでは、「戦車」のネガティブ象徴みたいなものがイメージされます。
それでも、最初に述べたように、人には、変化したいという欲求もありますので、厄介なものです。
変わりたいけれど変われない、変わりたくないけれど変わりたい・・・この振り子作用で、莫大なエネルギーが消耗されて、結局、何もできないどころか、心が消耗し、また変化して自分の意識や資源(収入や、よき人間関係など)を拡大することなく、悩んでしまう人がたくさんいるのだと思います。
ですから、この両方の相反する思い、欲求というものをうまくコントロールしていく必要が人生ではあると言えます。これもマルセイユタロットの「戦車」のカードの象徴性に関わることでもあります。
ふたつをうまく扱うには、まず、やはり、相反するこのような欲求とでもいうべきものがあることを、素直に自分に認めることからでしょうか。(変化できない自分を責めたり、安心安全を求める自分を否定したりしない)
そして、たいていは変化の欲求のほうを叶えようとする時に、問題性や危険性が増しますので、変化したいと思った時にはチャンスでもあるのですが、無為無策では危ないです。
同時に、状況は明らかに、どんどん悪くなっているのに、変化しないでいるのは、安心安全の変わりたくない欲求の奴隷になっている可能性が高いです。
だからと言って、変化を急激にしようとすると、抵抗の力もそれだけ増大するという作用反作用の仕組みも、考慮することです。
まあリスクが大きければ、得られるのも大きいのでしょうが、自分のタイプ(冒険に向いているタイプか、石橋をたたいて渡るタイプかみたいな傾向)を知り、人がうまく行ったからと言って自分がうまく行くとは限らないことと、その反対に、人はダメでも自分はうまく行くこともあるという、個性の把握も重要です。
マルセイユタロットからの示唆でもありますが、変化の際には、非常識を常識化していくステップも大事です。
それは情報と行動による、自分にとっての非日常化から日常化への変化と言い換えてもいいのですが、無理だと思っていること、自分の常識外のことに、自分の世界を移行させていくことなのてす。
しかも、それが安心安全の逆方向の欲求とあまりにも相反しないように(抵抗の力が増大しないように)、安心と思う部分を残しつつ、変化の過程を踏んて行くのが望ましい(冒険を好み、恐れがもともと少ない人は、それをしなくてもジャンプできますが)と思います。
このステップを踏むには、独力ではなかなができません。
安心安全保持機能により、自分の世界観が今のままで強固になっているからです。それを崩すには、安心安全部分をだませる(笑)くらいの他者の力や、自分の非常識がすでに常識になっている人からのアドバイスや助力が必要なのです。(実際に、今の自分の世界外に、その人が安心安全で存在していることを実感すれば、自分の安心安全の縛りはむしろ弱まるわけです)
マルセイユタロットにおける杖(火)の存在でもあり、剣や鷲(風)の存在の重要さでもあると言えるでしょう。
例えば、お金で言いますと、月収20万円の人が、50万になる常識の世界、100万になる常識の世界、300万になる常識の世界・・・みたいに、ある種、世界そのもの(情報空間)の認識が違うわけです。
いきなり、月収500万になるぞ、と引き寄せイメージしても、そもそもその人には月収20万円の常識世界が限界ですから、それを安定させようという知識や行動は出ますが、そこからかけ離れた世界に行くのは、ブロックがかかる(そもそも情報がない)のが当然なのです。
自分の夢と現実化というのは、かけ離れ過ぎていると、今に安定(現状維持かそれ以下に)させ、留めさせる力のほうが強く働くことが多いでしょう。
従って、変化や上昇のためには、自分の世界観を、安心安全(の欲求)に配慮し(本当はそうではないとしても)、一部でも説得させながら(笑)、徐々にステップアップ(世界の移行)を図るほうが、一般の人には有用だと考えられます。
それは、一人ではなかなかできないことでもあるのは、前述した通りです。
私たちは、マルセイユタロットていえば、「吊るし」と「愚者」を繰り返しながら、成長していく存在なのかもしれません。
「吊るし」のメッセージ
今日、浮かんできたマルセイユタロットのカードは「吊るし」でした。
時々、このように、ふと浮かんでくるカードをテーマに、記事にすることがありますが、タロットと親しくなってきますと、自分からだけではなく、タロット側から、自然とメッセージやアドバイスのようなものを送ってくることがあります。
この理由・仕組みとしては、いろいろな考え方ができますが、霊的なことやサイキック的な意味合いで見るのがあまり好きではない人は、心理的に思えばよく、つまりは、自分の普段は意識していな部分からの、心の領域が見せているものと説明することもできます。
それには、タロットカードの意味と象徴が、自分の心にはっきりと入り、整理がある程度できていればこそですが、タロットは意識の元型も描いていると言われますから、実は意味がわからない初期の頃でも、見た(なんとなく記憶している)カードが、無意識のうちに浮かんでくることがあります。それはやはり、何らかの(心の)理由があるからと考えられます。
さて、私がカードを思い浮かべる時、個人的なことよりも、ブログを書いたり、タロットの講師をしたりしていますので、読者や生徒さん対象ということもあると思っています。
ということは、「吊るし」のメッセージや示唆は、これを読んでいる人には、必要なのかもしれません。
このカードは、大アルカナの中で、唯一、逆さまが正立という不思議な図像になっています。(逆さまの人物自体は、ほかのカードでもいますが、メインであるのはこのカードだけです)
タロットは単体で考えるだけではなく、全体を含めての構造・システム・ストーリーで見る必要があり、そうした場合、大アルカナのシステムの中でも、このカードは異色で、しかし、やはり数の前後、すなわち、11の「力」、「名前のない13」の間にある理由が明確にあります。
その詳細な説明は、講座に譲るとしまして、ただ、それでも、このカードが、かなり特別なポイント・位置になっていることは挙げておきたいと思います。個人的には、霊的にも、今の時代を象徴しているもの、いや、こうなる必要がまずあるのだという意味で見ています。
大アルカナの流れから見る理由でも、また図像の象徴から見ても、「吊るし」は、一種の停止状態や保留を表し、その名の通り、吊るし、英語で言えばペンドしている様子とも、とらえられます。
ただ、これを消極的に「保留しなければならない状態」「固まってしまって、動けない状態」と取るか、あえて、こうした状態を取ると見て、積極的に休息したり、落ち着きを取り戻そうとしたり、様子見したりしていると見るかで、かなり印象が違ってきます。
ほかのカードでは、犠牲的な、何か吊るされて罰を受けているかのような苦しい意味、閉塞的な状況で読まれることも多いと聞きますが、マルセイユタロットでは、基本、能動的な(自らの意志で行う)吊るし状態と見ます。
吊るしという状態を取ることが、いかに重要てあるかは、これまでの記事でも述べたことがあると思いますし、皆さんも、動くばかりでは、ますます事態が悪くなることは経験済でしょう。
ですから、そのことは今日は取り上げませんが、ほかの「吊るし」のテーマも、ふれておきたいと思います。
そのひとつが、逆さまの姿勢から来る象徴と意味です。最初に、「吊るし」は逆さまが正立の変わった図像だと言いました。
だからこそ、そのまま、逆こそ正しいみたいな考え方ができるのです。まさに、発想の転換と言いますか、反転したモノの見方、今までとはまるで違う考え方が必要だと言っていることがあるわけです。
実はこの「転換」にも、段階があり、「吊るし」の図像にそれは描かれています。数カードと併用すると、さらに効果的にわかるのですが、それはまた、受講生のセミナー等で教えたいと思います。
発想の転換は、普通、急にできるものではありません。「吊るし」の人物が、なぜ手足を縛っている(縛っているかどうかは本当は不明ですが)ように見えるのか、これも転換や反転に関わると考えられます。
発想の転換と言いますと、自由性をイメージしますが、自由は、その反対に、束縛あって、その自由性という概念が把握できます。
そう、ここにも、反対、逆さまのことが出るのです。全部は言いませんが、(さらなる)自由になりたければ、束縛されているもの、縛っているものを認識しないとならないわけです。
また、制限が逆に、発想の転換を生むことがあります。
一般的な「吊るし」のカードは、吊るされ人(吊るされた男)と言われますが、たとえ吊るされていたとしても、ただ死を待つのではなく、縛られた手足の縄抜けを図るなどして、脱出を試みているかもしれないのです。
その意味では、ただ待つのではなく、待ちながらも、脱出や見えない範囲で打開の計画をしていくという、よい意味での逃げも想定できます。
あと、「吊るし」は単独性や孤独性を、絵柄から象徴するのは確かですが、同時に、他のカードとの組み合わせによって、それこそ、発想の転換ではありませんが、意外性を発揮するアイデアマンのようなカードになります。
そもそも、今までとは別の視点を持てと言われても、それができないから「問題」となっている(問題の解決策がわからない)わけです。
それは、端的に言えば、自分の世界にどっぷり浸かり、新しい世界が見えないからで、こういう場合は、自分だけではなかなか自己の世界を打ち破ることは難しいものです。
そこで、「吊るし」と一緒に引くなど、別のカードの助けを得ることで、苦境を脱するアイデアや行動方針が見えてくることもあるのです。「吊るし」の縄抜けを援助する方法が見つかるという感じです。
ただ、ほかのカードの出方によっては、「吊るし」の基本的意味である。停止や保留、熟成するなど、そのまま動かない姿勢が強調されることもあります。
余談ですが、「吊るし」は、時に、神社の鳥居もイメーシさせ、そうした神的な領域、聖域と聖なるものへの帰依や奉仕を象徴する場合もあります。
このカードを見て、思うところがある人は、縁のある神社や聖域などに行ってみるのもよいでしょう。
いろいろと書きましたが、やはりこのカードは、外的なものより、内的な力・叡智を認識するための特別な姿勢状態であり、内なるものに沈潜しつつ、新たに自分を浮上、再生させるための、「吊るし」の期間と言えるのです。
一枚引きでこのカードが出れば、基本は待ちであり、停止で、むやみに動かず、内を見つめることです。あなたの神性が計画するのを待ちましょう。
壁にぶち当たること。
人間、誰でも壁にぶち当たるというシーンがあると思います。
中には一度もそういった経験がなく、順調に人生を過ごして来られた方もいらっしゃるかもしれませんし、そもそもポジティブな人は、壁を壁と感じることはないのかもしれません。
日本人は不安因子が高い民族と聞いたことがあり、壁のようなものがあっても、障害物競走やゲームではありませんが、それを陽気な他の国の人のように楽しむというのではなく、真剣に壁について考え込んでしまう、まさにぶち当たってしまう・・・という人が少なくないような気がします。
またよく言えば、なんでも「なになに道(どう)」にしてしまうように、困難こそ自分を鍛えるとして、歯を食いしばって乗り越えようとする人もたくさんいるでしょう。そういう哲学・美徳のようなものが、日本人は刷り込まれている民族と言っていいのかもしれません。
しかなしがら、現代社会は、あることに対して単純な壁一枚というような状況は少なく、複雑化された社会において、やはり壁も複雑・複層・多重化しているように思え、ひとつ乗り越えたと思ったら、また別のものがすぐ現れたり、一見、優しい通り道のように見えながら、実は見えない壁があった・・・というようなこともあるのが今ではないでしょうか。
言ってみれば、私たち全体を覆う壁があるような閉塞感もあります。そんな状況で希望を抱くのは、昔よりも難しいのかもしれません。
話の内容とレベルが違うので、まったく参考にならないかもしれませんが、タロットリーディングをしている中でも、壁にぶち当たることがあります。
その一番大きいものは、タロットが読めなくなってしまうという事態です。
まだ講師まではしていませんでしたが、当時、私はタロットリーダーを主体としてやっていこうと決意し、実践を繰り返していました。
まだ学習中ではありましたが(そもそも技術の向上に終わりはありませんが)、そこそこリーディングに自信もつきかけていた頃です。
そして、機会が巡り、その時学んでいた学校の上級コースに行くことになりました。これは私の経歴にもあるように、当時のタロット大学から、フィリップ・カモワン氏の講義するフランスでのコースへの参加でした。
先述したように、私自身は、通称カモワン・タロットのリーディングにおいて、それなりに読める、リーディングできる段階に来ていたと自負もありました。
しかしながら、実際にグランドマスターであるカモワン氏のリーディングを目の当たりにした時、自分の実力のなさを思い知りました。
いや、グランドマスター・師匠なのですから、自分のものより、レベルや次元が違うことは当然承知しておりました。私もそんな傲慢な人間ではありません。(笑)
何がショックだったのかと言えば、それまで自分がやっていたリーディングのシステムが、まったくカモワン氏の方法とは(本質的に)異なるものであったことだったのです。形だけ真似していたと言いますか。
つまり、自分がそれまで築き上げてきたものが、間違いや無駄であったかのように思えたのです。
そして、同時に、これはまた、一からやり直さねばならないという、その遠大な道を思うと、目の前に巨大で長い壁がそびえ立っているかのように感じたのです。
それから、私はどうタロットを読めばいいのかわからなくなり、混乱の極みに至りました、
タロットリーダーとして独立しようと思って、勢い込んで高いレベルの技術を学ぼうとフランスまで来たのに、これではタロットリーダーになれないことを宣言されて帰国するようなものです。(苦笑)
事実、日本に帰ってから、しばらくタロットを読むことができなくなり、時差ボケもあったのか、またほかの何かの原因があったのか(これは実はあったのですが・・・)、本当に呆けたような感じに私はなっていました。
まあ、それでも、やはり私はマルセイユタロットが好きなのか、少しずつ、わからないなりにもタロットリーディングを、やってみることにしました。
すると、混乱はしていたのですが、今までとは違う、不思議な感覚でタロットが見えてくるようになりました。
ここで、分析好きの傾向のある私は、自分に起こったことを、一度振り返って、整理してみました。この時も、実はマルセイユタロット自体が(物事を整理するための象徴道具として)役立ったのです。
自分に起こったことは、端的にカードで言えば、「神の家」のようなことと言えました。
それまでの積み上げて来た技術が、強い衝撃的な出来事によって、いったん崩壊したかのように見えて、それは新しいレベルへの引き上げを意味する事件であったわけです。
幸い、「神の家」にある土台のように、それは私の中に残っていたので、再度、「神の家」を組み上げていくことができ、これまで目指していた「神の家」は、むしろ「悪魔」の幻想でもあったわけで、これにより、真の「神の家」が見えて来たということでもありました。
そして、自分が新たに作り上げていく「神の家」は、自分自身の「神の家」であり(正しい言い方をすれは、自分「が」神の家)、私の例で言えば、それはカモワン氏のリーディングでもなく、これまで私が培い、目指してきたリーディングとも違う、新しい自らの「家」なのです。
半年後から約一年かけ、私はこれまでとは違う感覚と論理で、リーディングができるようになりました。
ちなみに、ここでできた「神の家」は、また新たな刺激によって壊されることになりますが、再生して、また次の「神の家」ができるようになります。つまり、言い方を変えれば、「神の家」は「悪魔」の家(笑)にもなり、そうなると、もう壊されなくてはならない運命になるのです。
ただし、「13」の象徴もそうですが、この積み上げ、再生には時間を要することもあれば、試練のように厳しい時代を象徴することもあります。
さて、壁の話に戻りますが、「神の家」は、そのまま出会うと、まさに高くそびえたつ塔であり、壁です。自分が小さいほど、塔は巨大な壁のように見えることでしょう。
しかし、塔(神の家)には、まさに神の光が降りてきているのです。
私たちは、壁は高く、強固で、大変な障害だと認識してしまいます。ですが、その上には、神の光が注ぎ、塔を通して私たちにその光のエネルギーを授けてくれるかもしれませんし、塔があなたの幻想である時は、破壊を促してくれます。
壁はいわば、恩恵でもあり、あなたに次のレベル、見るべき真の姿を教えてくれる象徴と言えましょう。
ですが、何も、壁に真っ向から立ち向かわなくてもいい場合もあるでしょう。壁は文字通り、壁という障害の場合もあるのです。
障害ならば、取り除く必要があります。そして、こういう見方もできます。
壁と思うものは、確かに障害かもしれませんが、それは壁と見せかけているだけで、本当の取り除く壁は、自分自身の中にあるという考えです。
この時、「13」というカードの象徴性が思い浮かびます。
あなたには何か捨てるべきもの、変えるべきものがあると、壁の形で示してくれているわけです。
壁にそのまま立ち向かい、登ったり、壊そうとしたりして、「戦車」のように戦いを挑む必要はないのです。(マルセイユタロットの「戦車」も、本来は戦うものではありませんが)
それをすればするほど、抵抗となって、かえってつらく、苦しくなるかもしれません。
それよりも、あなたの生き方、考え方、身の振り方、人との付き合い方、生活サイクルなどにおいて、象徴的に言えば、捨てるもの、変えるものがあるということ気づくとよいでしょう。壁を見せ、壁だと感じさせるものは、環境や外側の問題ではなく、あなた自身の中の問題だという話ですね。
「13」も「神の家」も、その次のカードは、「節制」や「星」という癒しのようなカードたちであり、それぞれ、壺をふたつ持っています。
このことから、壁を乗り越えるためには、独力だけではなく、他者の力や、時には人間を超えたもののサポートがあることも示唆されているように思います。
タロットカードの流れには絶望や停止で終わることがありません。そう思うと、壁に当たっても、必ず救いの光、希望の道は残されていると感じます。
タロットの78枚と私たちの個性
タロット、そしてこのブログの主題となっている「マルセイユタロット」は、78枚もの枚数があります。
これら、一枚一枚が違うカードであるのは、もちろん絵柄から見ても違いは明白であり、だからこそ、数多の物事をカードで例えたり、事象をシンボル(象徴)として扱うこともできるわけです。
このことは、ごく当たり前のことを言っているのですが、それでも、実は、ある意味、重要なことなのです。
それは逆から考えてみればわかります。
占いでもリーディングても、タロットを引くことで、それが私たちの生活や物事、さらに心まで表していることを知りますが、ということは、この世界は、タロットの数だけ、いやそれ以上のバラエティさ(違い、種類)があるのだということになります。(たくさんの枚数を持つタロットが、私たちの世界を表すことができるのなら、私たちの世界も多数からできていると考えることができるという意味)
タロットの枚数が多いのも、私たちの世界を象徴させるためには必要だったと考えられます。
このことを踏まえて、改めてタロットを見ますと、マルセイユタロットにおいては、すでに「手品師」によって示されていたのでした。「手品師」のどの部分がそれを表すのかということは、暗号事項にもなりますから、ここではふれませんが。
ともかく、結局、この世界は、個性や違いでできていると言ってよいでしょう。
ところが、タロットは、現実の世界だけを象徴しているのではありません。
さきほど、「心」についても言及しましたが、心は自分や他人の部分として目には見えませんが、実際的であると言えます。それは、「(心が)ある」ということを、普通は意識できるものだからです。
しかし、もっと大きな範疇とも言える、宇宙の真理とか、集合的な意識など、全体的ともいえる目に見えない領域になりますと、あやふやなものになってきて、どうとらえていいのか、わからなくなります。
すると、タロットで言いますと、78枚に分離した、それぞれのカードの個性という見方ではなく、ある括りや、グループ、統一された概念、法則のようなものを見ていくことになります。
面白いことに、マルセイユタロットはそれさえも可能なのです。
ということは、マルセイユタロットは、私たちの(現実的な)世界の表現だけではなく、もっと何か別のものまで表している、または表すことができるのだと考えることができます。
とまあ、ここまでは前提の話、前振りです。(笑)
さきほど、私たちの世界は、個性の世界で、タロットで言えば、78枚のそれぞれの世界だという言い方をしました。
タロットでは、一枚一枚、本来はいい・悪いの意味はないのですが、シチュエーションによっては、ポジティブ・ネガティブな意味合いに取れることもあります。占いの場合は、明らかに、吉凶に分かれるカードの区別を持つ(区別をつけている)こともあります。
個性の世界(つまり現実の世界)では、それぞれが別々の価値観や思いを持つことになりますから、タロットカードのように、一枚一枚、つまり一人一人や各物事ごとに、違い(個性)を帯びることになり、それには、いい・悪いとか、良し悪し、ポジ・ネガみたいな見方も当然出てくるわけです。
仮にあなたが、ポジティブ、よいことだと思う個性を持っていたとしましょう。その個性は、皆からも認められ、賞賛され、言わば、華々しく自分の個性を表現できている状態と言えます。
ところが、こんな自分はダメだとか、劣等感のごとく、ある自分の部分が嫌だとかという意識でいますと、それはある意味、ネガティブな個性とも言え、自分で自分の個性を認めたくない、忌避したくなる心境となるでしょう。
加えて、周囲からはあまり良く思われず(実状は、自分がそう思っているだけのことが多いのですが)、とにかく、自分を認められず、そんな自分と周囲であるこの世界(現実)をも、否定したくなるかもしれません。
要するに、ポジティブな個性では自分の人生がよいように感じ、ネガティブな個性では、悪く思ってしまうことになります。
ネガティブな個性を自分自身が信じ、それに凝り固まってしまうと、なかなかその心境から抜け出せなくなります。先にも述べたように、ネガティブな個性にあると認めてしまうと、人生そのもの、いや、自分の生きている現実世界そのものが、悪くなってしまいます。
タロットカードで言えば、ある一枚に悪い意味を付与して、その意味だけで解釈してしまうような状態です。
できれば、自分は悪いカードになりたくありませんよね。(笑)
ここで、余談ですが(しかし極めて重要なことでもあるのですが)、「自分はネガティブな個性でもよい」と、あえてネガティブを選んでしまう人もいます。
それはなぜかと言いますと、たとえ悪い意味でも、目立つからです。いや、むしろ、悪ければ悪いほど、強烈な個性を放ち、周囲から埋もれることがなくなります。まあ、悪目立ちみたいなものです。
こういうタイプの人が恐れることは、没個性になってしまうことであり、凡人であること、普通であること、無視されることなのです。また、何らかの事情で、ある特定の人か、グループに向けて、自分の存在、すなわち個性を訴えなくてはならないと(潜在的に)思っているケースがあります。
すると、悪かろうが良かろうが、とにかく自分が目立てばよい、注目してもらえればよい、気づいてもらえればよいとなり、簡単なのは、むしろ良いことでよりも悪いことでのほうなので、その選択を自覚・無自覚に関わらず、やってしまう場合があります。
自分の問題(状況)、例えば、経済・健康・恋愛・人間関係等、よくある人の悩みは、これが起因していることもあると考えられます。
さて話を戻しますと、人はネガティブな個性を自分で認めてしまうと、人生や世界が悪くなる(ネガティブになる)と言いました。
ならば、自分の個性をポジティブなものに書き換えたり、思い直したりすればよいわけです。
そのための、特に実際的方法や、心理的技法などは、いろいろと紹介されたり、セッションされたりしていますよね。
結局、自分がどう思うかのことなので、自分の心と関係するのですが、自分への思いというのは、環境や他人によってもかなり影響されますから、外側から働きかける(環境の変化、実績づくり、成功体験、自分をよい意味で認めてくれる人たちと交流するなどの)ことでも、ポジティブな自我(個性)認識は可能です。
もちろん、心理的に、癒し・浄化、書き換えなどで、ポジティブな自分への変換ができます。どちら、あるいは両方をやってもよく、自然に人は、誰ても、何からの方法で、ネガティブな自分認識を、ポジティブなものへと、変えようとはしていると思います。
ただ、ネガとポジの関係は、次元(世界)が異なれば、実は表裏一体なものであり、ネガ、もしくはポジを意識すればするほど、その逆の性質も増えたり、強くなったりする仕組みがあります。
タロットカードで言いますと、ネガティブなカードを作れば(意味を与えれば)、逆のポジティブな意味のカードも同じだけ存在しないといけなくなるようなものです。あるカードの意味を変えたところで、ほかのカードが代わりに、その意味を受け持つだけです。
そこで、こういう方法を考えます。
それは、「統合」の概念や意識を使うということです。ポジもネガも表裏一体であるのなら、その表裏一体が見える(認識できる)位置にまで、意識を上昇(統合)すればよいのです。
タロットで言うと、一枚のカードにネガもポジも、両面の意味を見るということになりますし、78枚をバラバラで見るのではなく、ある種の統一感(法則、原理)をもって俯瞰するような形になります。
いい・悪いでカードを受け取ったり、78枚のそれぞれの個性を別々にして意味を見ていたりすると、いつまでもバラバラな次元(バラバラでつながりのない世界)に閉じ込められた見方に固執してしまいます。
それは、言い換えれば、私たちの現実世界で、個性をよい・悪いで見てしまって、いちいち起きる事柄に、吉凶的運命を感じ、喜んだり、悲しんだりする状況とも表現できます。
従って、自分の個性を、現実の常識に照らし合わせて、ただよい・悪いと判断するのではなく、そもそも個性とは何かとか、個性を超越した統合的本来的存在が自分であると認識することによって、少なくとも、ネガティブな個性を思って、自分と自分のいる世界を闇に変えてしまう恐れからは脱却できます。
タロットカードで言えば、カードを個々に、吉凶的に見る(と意味を覚える)状態から、カード全体を俯瞰し、グルーピング化を図り、最終的には78枚を巨大な一枚にしてしまうような感じです。
すべてのカードは我(われ)であり、違いと見えていた世界から、本質的に同じであると認識する世界への移行(旅)です。スピリチュアル的に言えば、自己アセンションとなりますし、心理学的には、人格統合、ユングの個性化のプロセスと言ってもよいでしょう。
言い換えれば、複雑で個性あるバラエティの世界から、単純で、ひとつであり、無(でいて、有)である世界に変わっていく過程です。しかし、不思議な言い方になりますが、同時に、正反対の方向にも進んでいることになります。(例えば、複雑から単純の方向でもあっても、裏の見方では、単純から複雑にも進んでいるということ)
正反対も同時発生しているというのは、なかなかわかりにくいと思います。ですが、タロットを見ればイメージができるのです。
タロット(マルセイユタロット)も、「手品師」と「世界」とか、小アルカナの数カードのエースと10番の関係、宮廷カードの小姓と騎士の関係などから、そのようなことが見て取れます。
ですから、個性を消すことでよくなると言っているのではなく、逆に、個性において、ネガティブもポジティブも受け入れ、認めることで、本当は進化し、悩みや問題もなくなっていく(本当は、なくなるのではなく、認識が変わる)ことを述べているのです。
人は天使になっていく
マルセイユタロットには、グノーシスという思想や背景が隠されていると言われます。
グノーシスについては、細かくなれば、いろいろな考え方がありますが、端的に言えば、自分が神的存在であることを知るという意味になります。
言い換えれば、自分が神(いわゆる外在的な神ではなく、完全性を象徴する内在的な神)であることを認識する叡智の獲得と言いますか、想起(思い出し)、覚醒のようなものです。
私は、マルセイユタロットを学習し、教えているうちに、グノーシスの方向性に自分がひかれるとともに、そこに自他(つまりは全体)の救いがあるのではないかという、確信めいたものを感じ、いわば、グノーシス探究が使命のようなものにもなっています。
さきほど、グノーシスにはいろいろな考え方があると言いましたが、そうなると、実は様々な探求、覚醒の方法があることにもなります。
言ってみれば、スピリチュアルや精神世界で言われるようなことは、皆、グノーシスに関係するとも言えるのですが、そこは、タロットの4組ではありませんが、タイプによって、自分の好みや関心もあり、導かれる方法・技術・論理も、それぞれに違ってくるのは、個性を持つ人間である限り、当然でしょう。
換言すれば、自分の覚醒には、もちろん、全体に共通するものはあったとしても、自分なりの方法があるということです。
この(個性の)違いを認めて行かないと、例えば、(変な)宗教の救済方法絶対論、ドグマに浸食されます。(救いの方法はひとつしかないとか、皆、同じ神を信じないといけないとか)
マルセイユタロットの小アルカナと、大アルカナの、特に一桁の数を持つカードたちは、そうした個性ある世界を象徴しているとも考えられ、どの道の覚醒方法を選ぶのかは、人によって任されている、あるいは各人の特徴(低いレベルでは好き嫌い、得意不得意にも関係します)によって決められるようなところがあると言えましょう。
しかしながら、大アルカナの中盤から後半の数を持つカードたちになってきますと、いくつかの目立った共通点も出てくるようになり、これらは、まさに統合的な存在に進化していくことを象徴しているようにも感じます。
すると、途中から大アルカナのカードには、天使なとの羽をもった存在が出たり、裸の人物たちが多く登場してくることに気づきます。それには、きちんとした意味(絵画的のルール的な意味と、タロットの隠された意味など)があるのですが、単純に言えば、見た目通り、次第に軽やかになって行っているように見えます。
軽さと言えば、、軽薄さとか、チャラいとか(笑)、悪い印象もないわけではないでずが、反対の「重い」という言葉と比較すると、ポジティブなイメージもたくさん出てきます。
だいたい、重いものは、あるところに固定するのにはいいですが、持ち運ぶには不便です。とすると、移動ができにくい、こだわってしまうという意味も出てきます。けれども、軽くなると、移動もしやすく、道具だと数も持てます。
パソコンでも、動きがにぶい時は「重い」と表しますよね。つまりは処理速度が遅くなり、軽いものは、処理スピードが速く、いろいろなことが高度に扱えるようになります。
心の表現で言っても、重い心と軽い心では、苦しさの印象がまるで違ってきます。
要するに、私たちが向上や覚醒を目指そうとすると、軽くなる必要があるということです。スピリチュアル的な言い方をすれば「浄化(による魂の浮上)」ということにもなります。
いくら自分が上昇しようとしても、足を引っ張られるがごとく、なかなか浮上できないのは、重しのような、重たいものをつけているか、気づかない重い何かが残っているからです。
重い・軽いは、苦・楽とも関係するように思います。苦は重さと結びついており、そのため、よい面では、苦によって、重厚で、何ものも動かしがたい信念や決意のようなものも芽生えます。人間としても軽佻浮薄にならず、しっかりした謹厳な人にもなります。
しかし、苦ばかりになると、やはり文字通り、苦しく、つらくなり、心も折れるでしょう。何かにしがみつていないと離れることのできない、重いしがらみを(自分で)抱え、ループのような生き地獄を味わう恐れもあります。
考えてみれば、これまでの普通の歴史(有史)では、人間中心の時代に向かって進んできたと言え、軽く楽しいことも、個々の人ではあったと思いますが、全体としては人間のいろいろなしがらみ・ネガティブなものに悩まされ、重たく苦しいことが多かったのではないでしょうか。
人々の想念は、もしかすると、宇宙の法則では、ネガとポジは半々なのかもしれませんが、今までの人類の蓄積、現在の世界の人々の出す想念は、ネガティブなほうが多いのではないかという気がします。いまだ人類が、そういうレベルにあるという印象です。
ですから、これからのことを思うと、なるべく軽いほう(軽薄という意味ではなく)、簡単なほう、楽なほうを思い、選ぶということが、タロットの絵図からしても、よき方向性ではないかと考えられます。
ただ、すでに述べたように、羽をつけただけでは、自分が重たいままだと飛べません。
自分自身の重しを軽くする、落としていく作業が必要でしょう。
そのために、今後、地球全体としても、また、個人個人として、すでに羽をつけて飛んでいるに近い感覚の人はともかく、まだ重たいものをつけている多くの人には、一層の浄化、重し落としのような出来事が加速度的に増えていくのではないかと想像しています。
重しを落とすには、それを破壊するくらいの衝撃、重しをぶつけるという方法が、ひとつには考えられるため、その場合は、苦や大変なこととして、自分の身に起こるかもしれません。(少しずつ、水が浸透していくかのように、内部から破壊していく方法もありますが)
もしかすると、今まで肉体的・精神的・経済的・人間関係的なことなど、様々な理由で苦しいばかりだった人は、自ら浄化役を人類の蓄積分も背負って、知らず知らず勤めてきたのかもしれません。こういう人は、非常に感謝される存在ですし、また、希望的観測で言いますと、浄化が全体で進む分、このような人は、ある日を境に、急激な上昇・(霊的)覚醒を起こす可能性があるようにも思います。
常識とは違う観点ですから、実際に苦しく、大変な人に安易なことは言えませんが、そういう人は、天使的な意味(地上的な意味とは異なる意味)で、「幸い」に近い人だと言えるのではないでしょうか。
ひどく落ち込んだり、絶望したりするような状況も人生ではあります。
それでも、光を見ることをあきらめず、自分の苦しみが、すでに実は備わっている自身の羽によって飛べるように、身を軽くしている(浄化していね)のだと思うと、光の存在が少しずつ見えてくるように思います。苦しみによって、確かに重たさを感じますが、だからこそ、逆の軽さ、楽しさの世界を志向することができるのです。
マルセイユタロットでは、光は(象徴的に)至るところに表現されていますが、「隠者」というカードでは、具体的なランタンの光のような形で登場します。この「隠者」の光は、一見、見えづらく、絵でも光っていませんが、まさに進む道を照らす光明として、あなた次第で、輝きを見ることができるようになっています。
「隠者」自身も、その名の示すように、耐え忍び、隠れている存在です。それがために、かえって、彼は光を持つ(見る)ことができるのです。
あなたの羽は、この時代、すでに羽ばたき始めていると思います。あとは、本当に飛べるように、あなたの重たい部分を軽くしていくことです。
それには、楽しさや軽やかさを、現実的な世界で求めていくことが向いている人もいれば、浄化役として、つらさも受けながら、成長していくような人もいらっしゃるでしょう。
それでも、全体的には、もっと軽く、もっと楽しく、もっと希望を持つこと(あきらめず、堕落せず、自暴自棄にならず、そうした思いが出る道、方法を探すこと)がよいように思います。ただ、人類全体の蓄積の影響か、なかなか明るく、軽く、楽に思えない人も少なくありません。それも個性です。
ですが、「蓄積」といったように、蓄積には蓄積が効果的でもあります。少しずつ、自分のネガティブな思いを払拭できる環境、心境、状況へと、瞬間・瞬間でも(たとえわずかでも)移行していくと、その積み重ねは、やがてあなた自身だけではなく、人類全体の蓄積にも影響し、クリーニングされ、重さは軽さに書き換えられていくことでしょう。
おそらく、どんな苦しみにあっても、象徴的な言い方をすれば、皆、統合されたイデア的・天上世界には向かっているのだと思います。あとはその実現のリアリティさの問題でしょう。人のリアリティ(現実感)は、つまるところ、人それぞれの感覚によりますから、希望を持つ想念の状態は、現実的にも大きな影響を持つと考えられます。
自分自身で希望が持てなくても、励まし、夢、応援、明るい未来図などを描けたり、提案したりする人と関わったりすることで、自分の中の光も消えずに済むことがあります。自分では見えない光も、他人には見えていることがあるからで、その逆もまたしかりであり、だからこそ、シェアし合うこと、助け合うことで、希望は出ます。
マルセイユタロットの「節制」の天使は、シェアや共有、助け合い、交流も意味するのです。一人では運べない重さも、二人三人と、天使の羽が集まれば、重たい人も飛べることが可能なのです。