カードからの気づき

「手品師」と「節制」から

最近は、アルカナナンバー14、「節制」に関する記事をよく書いておりますが、実際に浮かんでくるカードも「節制」のことがよくあります。

それだけ、個人的にも、また全体(社会)的にも、「節制」のカードの象徴性に、大きな意味がある時なのかもしれません。

そして、今日は、「節制」だけではなく、「手品師」(アルカナナンバー1)も併せて出てきました。

この二枚のカードを並べてメージされたものが、今日の記事の内容になります。

ところで、「手品師」のカードと「節制」のカードは、まったく似ていませんし、一見すると無関係なカード同士に見えます。

しかし、マルセイユタロットでは、どのカードとも連繋をしますし、関係性を持ちます。(これはタロットの種類に限らず、いわゆるコンビネーションでリーディングすると、当然、どのカードも関係性をお互いに持つことになります)

言葉や文章のように、カード同士がつながると、一枚単体の意味だけではなく、新しい意味なども出てくるのです。

私が当初から学んでいた「カモワン流」のタロットでは、視線カードという概念があり、カードの人物の視線の先に置くカードとの関係性を強く読む(意識する)ことが普通でした。

このことは、今の私のカードの見方(読み方)に受け継がれています。

カモワン流の視線カードの技法の良さは、まるで人間のように視線を追うことで、カード同士の関連性を、特別な意味を覚えることなく、物語やストーリーのように視覚的にとらえて、カードからの示唆・意味を見出しやすくすることがあります。

これが、例えば、カードがたとえ複数あったとしても、それぞれがバラバラで、あるいは置く場所が決まっていたとしても、カード同士が離れたところに置かれていると、カードをつなげてひとつのストーリーにすることが難しくなります。

もっとも、一般的にタロットのスプレッド(展開図・展開法)自体が、ストーリーを作るシナリオ構成になっていることが多く、カードが単体で離れていても、ひとつひとつ、置く場所の意味と出たカードの意味とを重ねていけば、物語ができるようにできているので、必ずしも、視線を追わなくてもストーリーは作ることができるわけです。

話題がタロットの展開や読み方の技法の話になってきましたので、元に戻します。

ともかく、「節制」と「手品師」は、二枚を並べると、共通性がないようでいて、よく見ると、ともに局所的なことを示しているのがわかります。

「手品師」はテーブルの上にある手品道具を使って、大道芸をしてお客を楽しませています。

一応、手にも道具を持ってはいますが、基本、道具類はテーブルの上にあり、つまりは、この「手品師」にとっては、テーブル内こそが彼の使える範囲であり、手品が自由になる世界なのです。

一方、「節制」は、天使がふたつの壺を持ち、そこから液体を移し替えている、もしくは混ぜ合わせているように描かれています。

ふたつの壺を持つカードにはアルカナナンバー17の「星」がありますが、その「星」とは違い、「節制」の壺の水は、ふたつの壺の間でしか移動・交流がありません。そういう意味では局所的なのです。

ということは、「手品師」・「節制」の二枚からは、限定的・局所的な意味が強調されることになります。

ここで、「節制」をメインにした場合、「節制」は天使でもあり、詳しくは延べませんが、救済や癒し、サポートに関わるとされるカードです。

そして「手品師」は、手品をする大道芸人ですが、彼にとってはそれが仕事でもあるので、仕事という意味も出ます。あるいは、日々している作業と取ってもよいです。

すると、「節制」をメインとして今考えるわけですから、救済やサポートの仕事、作業をするということになり、さらに前述の両者(二枚)における「限定的・局所的」である共通点を考えますと、その救済は、誰彼なくやるものではなく、この範囲でとか、この人(たち)にとか、自分として本当にサポートできる範囲で施すという意味合いが出てきます。

例えば、親孝行をしたいと思っている人がいて、しかし、自分はお金もない、親とは距離があって会いに行きにくいとか、少しわだかまりが残っている・・・などのことがあって、なかなか思うような親孝行ができていないと考えているとします。

そのために結局、何も親にはしていない、してあげられないと、苦悶しつつも、放置しているような状態となっています。

ですが、ここで「節制」と「手品師」のように、まさに自分ができる範囲で、自分が許可できることの中でやればよいとなりますから、ただ親のために祈るとか、感謝を心で言うとか、メールや手紙を送るとか、お金ではなく、何かささいなモノでもよいので送るとか、親には買いにくいものとか、ネット関係の情報・労働を提供するとかで、完璧や理想の親孝行というものを一度手放し、限定的でもいいので、とにかく何かやる(パフォーマンスする→「手品師」です)という示唆になってきます。

「手品師」をメインに考えた場合も同じで、「手品師」が仮に仕事の意味だとすると、テーブルの上だけは自分の裁量範囲で自由ですので、狭いながらも、自分が今取り掛かれること、やれること、たとえ制限はあっても何とか自由にできる範囲のことをやればよいのです。

それが「節制」の意味として合わさると、仮に「節制」の象徴性が経済の流れ(壺の水から)、つまりお金(の流れ・扱い)だと見れば、それが局所的・限定的(支払える範囲、使える範囲)ですから、仕事で自分のやれる範囲で投資をするとか、節約しつつも、創意工夫で手品師のように、すでにある手品(仕事)道具・ツールで、うまくお客さんに見せる(魅せる)ことができるはずと考え、実行していくというアドバイスができます。

結構多くの人が、完璧主義と言いますか、全部そろわないと動けないとか、自分の思う理想的な状態がやってこないと実行しないというところがあります。

タロットリーディングなどもそうで、すでにかなり学びをしているのに、自分のリーディングに自信がないと言って、なかなか他人に対してリーディングを実践することをためらってしまう人がいます。(他人リーディングをやってみたいという思いがある人の場合です。もともとそれをやることを求めていない人は別です)

人によって、実行するための条件というのは違います。

条件がすごく緩やかで、簡単な人もいれば、これとあれとそれと・・・と、かなりの条件が整わないとやれないという人もいます。この「条件が整う、そろう」という意味では、不安や心配がなくなるとか、心のブロックがはずれるという意味のことも入ります。

心理的な条件がきつい場合、なかなか実行には至りにくいものです。それは心理的ゆえに、モノや環境が揃っても、必ずしも心理面のブレーキがはずれ、アクセルが踏まれるとは限らないからです。

逆に言えば、心理的ブレーキがはずれれば、条件は完璧でなくても進めるわけです。

そのひとつには、「節制」と「手品師」のように、限定的・局所的でもいいのでやってみるということがあります。

言い方を換えると、自分が許可している範囲、今の自分が自由な扱える範囲でやるということも検討しましょう、ということです。

例えば、瞑想をやると決めても、30分は無理ということなら、今の自分なら3分くらいならできるし、許せるというのなら、それでまずはよしとするわけです。やらないよりましで、「手品師」ではないですが、大事なのは、仕事のように作業化(習慣化・ルーチン化)してしまうことです

私が思うに、現実世界は、形が重視される世界ですので、いかに実際に外に表現し、行動するかに(現実的)変容はかかっていると思います。

もちろん、その裏には精神や心が作用しているわけですが、頭で理解し、心で納得しても、何も外に向かってやらなければ、そのままであることが多いのです。

「手品師」はアルカナナンバー1です。始まりでもあるわけで、完全ではなくても、始めることに意味があるとも言えます。

ちなみに完全を意味するカードは「世界」ですが、これは21のナンバーであり、その間にはたくさんのカードがあるわけです。

いきなり21になる(至る)のは難しいのは当然です。しかし、21の「世界」と1の「手品師」には、明確なシンボルの共通性があり、それこそが、始まり(始めること)が完成の種、エッセンスであることを如実に示しています。

ためらっていること、条件がそろったらやろうと思っていることの中で、限定的でもやれることは表現してみると、その実現への線路に乗ることになるのです


質問の受動と能動、自他の救済

タロットにおける質問について、今までも何度か書いておりますが、ここで、今の時期に特に重要だと考えられますので、タロットへの質問をネタにしながらも、人生における質問・問いについても言及したいと思います。

私の中で、タロット占いとタロットリーディングの違いを決定的にもたらせているのは、「質問」と「それに答えるタロットの読み方」にあると考えています。

占いは、一言で言えば、「どうなる?」「(これ・あれ、あの人は)どうなの?」みたいな質問と、それに答える方法でしょう。

そして、リーディングは、「どうすればよいか?」「どう考えればよいか?」というような問いと、それへの回答と言えるかもしれません。

言わば、状況推移(予測)や運勢の流れのようなものを見て、それを基準に選択を示すみたいなものが(タロット)占いで、タロットリーディングは、過去から続く要因を探り、未来の予想も立てますが、今、どうすればよいかを「創造」していくものと考えられます。

ですから、占いはどうしても運命論的にならざるを得ませんが、リーディングはストーリーを創るという点もありますので、自分が運命を創る、変えるみたいな観点になって行きます。(たとえ大元の運命のようなものがあっても、その範囲での自由意志や選択、創造があると見ます)

タロットカードをどう読むのかは、もちろん、カードの意味を知ることが大事ですが、その意味をどう解釈するのか応用するのかにもよりす。

それが、実は質問によって左右されることが、意外に知られていません。

「どうなる?」という質問をすれば、当然、「こうなる」というような答えになりますし、「どうすればよいか?」という質問ならば、「こうして行こう」「このように考えよう」というように、能動的・創造的になれます。

これは、人生における私たちの態度にも関わってきます。

受動的にただ、運命に翻弄されるかのように、何か問題やピンチが起きた時に、「どうしよう」「どうなるんだろう・・・」と思う(自問自答する)より、「これは(深くは)何の意味があるのだろう?」「どんなことを私に学ばせようとしているのか?」「どうすればこれを乗り越えていくことができるのだろう?」と問うほうが、波をコントロールして、創造的に生きていくことにつながるのは明確です。

ただし、私も弱い人間ですので、「うわー、どうなるんだろう・・・」と先を心配したり、不安になったり、未来の推移・予測をただ見たい、知りたいと思ったりする感情はあります。むしろ、人よりそれは強いかもしれません。(苦笑)

ですから、必ずしも、受け身の質問が悪いわけではなく、それは当たり前の人としての気持ちだと認めることも大切です。

その意味(人間的欲求や感情に応えるため)では、時には占いをしてもよいかと思います。

しかし、未来予測なんてものは確実でもないですし、皆さんももう薄々わかってはいると思いますが、未来の選択肢、ゲーム・アニメ的表現で言えば「世界線」がたくさんあり、ぞの世界をどう選ぶか(創るか)は、ある程度(と言うより、かなり)自由があるということです。

過去・現在・未来と時間は流れますが、本質的には時間はなく、すべてが今にあると言われます。

そうすると、今をどう思うか、どう行動するかで、未来も(過去も)、今現在のここに集約的に「運命の輪」があると言え、その輪を回すことができるのは、ほかならぬ自分自身でもあるのです。

「運命の輪」をどう回すのかによって、まさに世界線、これからが(過去の認識も)変わるのです。

今の混乱にある世界の中で、悲惨で望みのない、あるいは前のまま何も変わらない状態に戻ることをひたすら思っても、それは受け身に、ありもしない、でも自分が強く不安として願うと実存してくる「運命」に身を任す、犠牲することと同じだと言えます。

過去・現在・未来という時間の流れを反転するか、今に集約されていると見てください。

不安や恐れは、これまでのパターン・型が「過去→現在→未来」と続くと思っているから、出てくる「根拠」なのです。

その根拠は通常の時間軸の流れにありますが、反転したり、今に集約したりすれば、根拠は揺らぎます。

いい意味で、どうなるかわからない、のです。そんなところなので、占いをしてみても始まりません。

だからこそ、どうするのか、どう意味を考えるのか、自分にテーマが与えられていると見てみましょう。

できることは限らていても、あなたが通常の時間軸に囚われた根拠から導く不安や恐れ、迷いから自分を解放し、未来へ向けた新たな希望、生き方、世界へのよい意味での変貌を創造(想像)していくことで、今この時から、あなたと世界の、まさに「世界線」は変わっていくのです。

一人一人は救済者になれるのです。あなた自身を救えば、それは他人を救うことと同じになります。

そのためには、最初の「どうなる?」という質問から次第に抜けて、どうすればよいか、どう考えればよいか、何を教えてくれているのだろう、何を学ぶのだろう、ここからどう希望とよい変化を見い出せていけるだろう・・・というような質問に進歩させましょう。

これができなくても、「どうすれば自分を助けられるだろう?」でもいいのです。

もっと極端に、「どうすれば助けてもらえるのだろう?」でもいいかもしれません。

一見、依存的ではありますが、つまりこれでも、助けをただ待つ姿勢(得体の知れない運命に任せること)から、助けを求める、協力し合う、解決策が見つかる、他人も助けられる、みたいな、能動的に自力を動かし、他力と合体し、新たなものが生まれる流れになる可能性があるのです。


「13」と「節制」のセット、再び。

今日もふと思ったことを書こうとした時、「ああ、これは前に書いたな」と思い出すことがありました。ただし、きちんとデータベース化していませんので、いつのどの記事だったのかはわかりません。

というわけで、今回の話も前に書いたものと似たような話にはなるのかもしれませんが、でもたぶん、以前のとは、また違うニュアンスになっていると思いますので、読んでいただければと思います。

今日のテーマは「13」と「節制」です。

大アルカナナンバーでは、13と14の続き番号になります。

私はカモワン流から入った者ですので、カモワン流のメソッドや考え方を受け継いでいるところが多いです。その中で、カップルカードとか、ペアカードという概念があります。

「13」と「節制」も、一種のそのカップルカードということになります。意味的には、救われる者・救う者という組性です。

以前は、確か、自分の身に起こったことを例にして、苦しい時でも必ず救いがセットになっているというような話をしたような記憶があります。

そう、今もって見ても、やはり、この「13」と「節制」の組み合わせ(の意義)は、この世の中と言いますか、宇宙の仕組みとして働いていると私には思えます。

「節制」における人物は天使の姿をしていますから、メルヘン調に言えば、つらい時でも、救いの天使はいるよということです。

その天使は、現実の人もあれば、事柄(援助・相談とか組織とかお金とか)のこともあります。つまりは心の救いもあれば、モノ・形による救いもあるわけです。

また天上的と言いますか、目に見えない領域や超越的な存在からの救いもあるかもしれませんし、地上的・現実的な救いも当然あります。

さらに言えば、この「節制」の天使は自分自身でもあるのです。

マルセイユタロットにおいては、すべてのカードは自分の内にあるものと考えることができ、そのことからしても、「節制」はあなた自身の中に存在しているのです。

当然、大変な試練を迎えている状態と言える「13」も、自分であると言え、すると、「13」と「節制」のペアは、「自分を助ける(天は自らを助くる者を助く)」という意味になりますし、「13」側から見ると、自分を天使にするための試練に挑戦していると考えることもできます。

自分を天使にするというのは象徴的言い方ですが、それは、愛を目覚めさせる、愛のレベルを上げると換言してもよいかもしれません。

自分自身が救えれば、同じ状態に遭って困っている他の人を、今度は自分が助けることができ、すなわち自らの天使的立場への上昇と言えます。

天使に羽がついているのも、救済視点として、より上の俯瞰する高次の視野が持てること、(イデア・理想・神・霊・魂・浄化的天国世界)と地(地上・物質・現実・肉体・欲望的世界)の間に、自由に位置させることができる意味があると想像されます。

「13」を経験すると、少なくとも、ひとつの(見えない)羽が、あなたには生えてくるのです。

それから、この組み合わせ(「13」と「節制」)には、ほかの見方もできます。

「13」は、恐れと不安を示し、「節制」は愛と癒しを表すと考えますと、恐れ・不安の出る状態を経験し、それを乗り越えると、愛ある状態が訪れるということになるわけです。

これも逆に言うと、「節制」という愛や助け合い、救い、シェア、治療を象徴するような世界、あるいは精神になっていくには、「13」という不安や恐れ・危機を体験する試練が必要であると見ることもできます。

もちろん、そういう、「13」的なものがなくても、人は愛に目覚め、救いをもたらすことはできます。

しかし、もっと大きな範囲や高いレベル、深く確実な変容を遂げなくてはならない時、また多くの人に自覚をもたらすため、あるいは個人としても、本気で変容に向かう気持ちと行動を起こすには、時には「試練」という形が求められるのかもしれません。

「13」は怖く、つらく、苦しい状態でしょう。カードの絵を見ても、恐ろしいですし、骨状の人物が盲目のように大鎌をふるって、必死で作業をしている様がうかがえます。先行きが見えないのか、あるい見えているからこそ、何かを変えようとしているのか、見方はそれぞれです。

ですが、この状態の先には、自身が、あるいは世界が変容した「節制」が待っているのです。それはまるで、さなぎから蝶(天使の羽を見てください)へと変わっていく様子にも似ています。

不安や恐れから逃げていては、「13」は逆位置になり、その鎌は襲いかかってくるかのように見えてきます。

本来、鎌は農作物の収穫に使う道具です。ですから、人を殺めたり、傷つけたりするものではないのです。

収穫した作物はどうしますか? それは穀物とか野菜として私たちの食べ物、栄養になるわけですよね。生きる糧と言ってもよいです。

「13」の鎌は、そぎ落とす意味もありますが、このように、もともとは私たちに恩恵をもたらすための道具であるわけです。

それが、位置を逆(逆さ)にすれば、怖い道具・凶器にもなってしまいます。不安や恐れが強く、尻込みし、あるいはパニックになったり、逃避し続けたりすると、結局、その鎌は自分か他人かに悪い意味で振り下ろしていることになります。

これをきちんと正しい位置に戻すと、鎌は余分なものはそぎ落とし、必要なものを収穫していく、自分に恩恵をもたらし、前進を助ける補助杖ともなっていくのです。

ただ、一人で立ち向かうのは大変で、難しい時もあります。

そこに、「節制」がまた登場するのです。

不安や恐れに対して、無理からに克服しようとしても、かえって危険ですし、苦しいことになります。

まずは、外や内からやって来る恐れや不安、それが自分にあるのを認めることが大切です。怖いことは怖い、苦しいこと苦しい、これを素直に自分に認め、感じている自分を赦します。

次に、それを抑えようとするよりも、不安の原因や元になっているものに対して、怖くても、ちゃんと向き合う、調べるということも必要です。

調べていくうちに、意外に自分の思っていた不安とか恐れが、まったく別の要因・原因から来ていたということもあり得ます。

さらに、最悪の事態を想定してみて、そこまで行くと、もう「生きているだけでとOK」とか、プライドや他者の評価とか、そういうものが消えてしまい、最後には「まあ、なんとかなる」とか「案外、最悪と言ってもこんなもんか」と楽になることもあります。

また、自己責任論で凝り固まるのではなく、積極的に「節制」、この場合は、他者とか組織とか行政とか、ほかの支援・協力・シェアも思うことです。自分で何とかしようとし過ぎると、かえってつらくなります。

「あの人ではこれはできない」「この人に、これは頼れない・・・」

こういうふうに、できないことを自分や他者に挙げていくのではなく、

「この人でもこれならできるだろう」「あの人だったら、何とかこれくらいなら助けてくれるかも・・・」

というプラス、助け合いの視点で、わずかでもできることを想像していくほうが心の安定にはよいです。

何もできないと思っていた自分や他人が、案外、思ったより役に立つ、できることはあるものです。

「13」と「節制」は、助けられる者・助ける者の組み合わせだと言いました。

一人でつらい時、困難な時は、誰かの助けを求めればよく、結局、現実世界において、一人では生きていけなく設定されているようなものですから、いかに助け合うか、智慧や力を出し合うか、それぞれが愛と理性をもって行動していくかによって、「節制」が実際に救済力(仏教的には観音力)を持つかどうかが決まってくるように思います。

大丈夫です。

私はタロットの示唆から見ても、俯瞰的に見て、人類はよい方向に向かっていると言いますか、必ずそのように、実はプログラムされているのだと感じます。

たとえ一見悪い状況のように思えても、それは進化や成長の視点から見て、らせん状ではありますが、上昇していっていると見ることができます。

今は「13」かもしれませんが、「13」には必ず「節制」がついています。

個人でも全体でも、「13」がやって来ているのなら、それは「節制」に近づいている証です。「13」の一番のキーワードは「変容」と言えますから、変容中の私たちに待つのは、新しいレベルの「節制」的世界(観)なのです。

それは、今までよりもっと「天」に近い位置となることを思えば、未来は明るいと思うことができるでしょう。

「節制」の天使の持つふたつの壺は、科学と自然の調和、精神と物質の同意(位)性が進むことも暗示していると思います。


「節制」の象徴する社会へ

マルセイユタロットには、数の連鎖と言いますか、サイクルのようなものがあります。

すでにかなりの人に知られているのは、7のサイクルや10のサイクルです。

諸説・いろいろな見方はあると思いますが、大アルカナは3と7が基本で、小アルカナは4と10のシステムにあると私は見ています。

この、特に大アルカナのシステムで、7というのを基本にしますと、7のひとまりがひとつの完成形ととらえることができます。

7と言えば、身近なところでは、一週間とか、そのもとになっている七惑星とか、霊的なところでは、チャクラの数にもなっています。

ラッキーセブンという名前で、幸運の数にもなっていますよね。

このことから、7がいかに重要な数であるかがわかります。

さて、大アルカナを見た場合、数を持たない「愚者」は別として、最初の数「1」を持つカードは「手品師」(通常タロット名称では「魔術師」)です。

そして7を持つ数は「戦車」です。この「戦車」からさらに7つ進めば(進むは六つですが)、「節制」というカードになります。

マルセイユタロットの「手品師」は、その名の通り、手品を見せて商売していると言える大道芸人です。ここから「仕事」を意味するカードでもあります。

私たちの今の時代、雇用されて働く人が多いですが、独立して起業する人、ビジネスを起こし、会社や営利団体を経営していく人もいます。そういう人にまた雇用されていく人も出ます。

マルセイユタロットで言えば、経営者は「皇帝」段階かもしれませんし、いわゆる成功を収めていくと、まさに「戦車」となったと例えることもできるでしょう。

こうしてみると、「手品師」から「戦車」にかけては、現代的な(過去から続くとも言える)仕事やビジネスの段階と見ることもできます。

しかし、さきほど、さらなる7段階に進むと、「節制」が出てくる話をしました。

今の資本主義経済・金融システムに慣らされた私たちには、あまり想像できないかもしれませんが、「節制」的な仕事・働き方・雇用・ビジネス・社会の表現があるのかもしれません。

「節制」は、天使がふたつの壺の水を混ぜ合わせている姿が描かれています。

そこで、助け合いとか、シェアとかの意味合いが出ます。そもそも天使なので、救済・治療・援助・融資的な意味合いがあります。

今、あえて言いませんが、日本はもとより世界的に、あることで、大きな不安や障害、衝撃が来ています。

皆さんの間では、自分の仕事はどうなるのか、経済はどうなるのか、行先にとても不安や心配を感じていらっしゃる方が多いと思います。

さきほど述べました、マルセイユタロットの示唆からしますと、もしかすると、「手品師」から「戦車」という従来型の仕事やビジネス・経済の形を、私たちは卒業する段階が来ているのかもしれません。

そして、これからは、「節制」的業務形態と言いますか、社会になるように促されている気がします。

これはあくまで仮想ですが、「節制」的なことで見ますと、「節制」の天使が壺の水を混ぜ合わせているように、資本主義的なことと社会主義的なことが混淆し、半分全体や社会で支え、半分自由主義みたいなことができてくるのではないかと思います。

例えば、ベーシックインカム的なことで、まず生存不安を払拭し、物質と精神の基本的安心を獲得したうえで、自由に仕事を選んだり、起業・経営したりできるようにします。

すると、ベーシックに収入はあるのですから、経営側の支払うお金も、雇用側のもらうお金も、それほど多くなくてもOKとなります。その分雇用時間も少なくて済み、企業間の競争は減り、職業選択の自由、掛け持ちとかもでき、肉体的・精神的負担も少なくできるでしょう。

ひとつの会社とか組織、個人が利益・儲けを独占していくような形ではなく、ひとつのひとつの規模はスモールにはなりますが、全体としては皆で支え合う形になってきます。

できれは、土地の売買も禁止し、土地がお金を生むようにならず、共有財産としたほうがよいと思います。

そうなると住居も完全に個の邸宅として自由にするのではなく、移動・引っ越しはOKですが、マンションや団地的なものを基本としたほうが、災害などで破壊されても、すぐ入居できるので生活は困らないと思いますし、家に対する個人の負担が巨大になったり、災害による何重もの負債になったりすることから逃れることができます。

ただ、それでは無個性な家ばかりになるので、余暇やレクリエーション、癒しや元気のために、独自のセカンドハウスとか、宿泊施設としての旅館・ホテルとか、こうしたものは比較的自由に建築できるとするとします。

普段はマンション的な家住まいながらも(家族数によって部屋の割り当て・大きさは決まっているものとします)、休みや余暇では(これも皆が土日とか決まった曜日に集中しないような働き方になっているのて、フレキシブルです)、共有的なセカンドハウス、宿泊先の旅館・ホテルなどの個性的な売りのところで、おのおの過ごすというものならば、無個性な家ばかりとはならないでしょう。

今述べたような社会は、あくまで夢想の範囲かもしれませんが、助け合い、シェアしていく、節制を基本とした社会、働き方に向けて、これからの時代、変化していく道があるのではないかと思っているところです。

社会主義が失敗したところには、結局、自由を制限する権利者(一党独裁など)の支配になるところと、同じ時間働いても同じ給料になるということから来るサボタージュ、社会や人の意識の硬直化が問題と言えました。

これはつまるところ、人の意識の低さにあります。自分さえよければよいという意識が、支配やサボり、独占、硬直を生むのです。

ですから、仮ではあっても自由を実現していくには、過酷とも言える自由資本主義経済、金融システムでなければならない時代が長く続いてきたわけで、それは私たち一人一人の意識がまだ新しい社会になるためまで成長していないということもあったかと思うのです。

今の世界的問題をきっかけに、一人一人の意識が高められ、成長が促され、もはや「戦車」を超えて、「節制」に行かねばならない時代になってきていることを、多くの人が認識すれば、社会・世界はよい意味で大きく変わると思います。

多くの人がもっと安心で、幸せになれる社会になっていけるはずなのです。

実現不可能と思うのではなく、少しでも実現可能だとイメージや方法論で現実に落とし込んでいくこと、つまりはリアリティを理想に多くの人が近づけることで、本当になっていくのです。


悩み、苦しみの救いの段階・ルート

苦しい時、悩んでいる時、人はまず自分で考えます。

しかし、たいていの人は耐えきれず、身内や親しい人、友人など身近な人に相談するでしょう。

また専門的なことは、まさにその道のプロに相談したり、対処してもらったりします。

しかし、それでもどうしようもない時、または、現実的にはどうにもならないと自分が思ってしまった時、最後には神や仏様に祈る、文字通り、神頼みをするかもしれません。

これは信じている宗教とか信仰に関わらず、日本人ならば、自然にやってしまうところがあるのではないでしょうか。

さて、こうやって見てきますと、人は、自分の危機において、自分頼み、他人頼み、最後は、神や仏のような、超越したものに頼ってしまうという流れ、段階があるように思います。

もちろん、一律に皆がそうなるというわけではありませんし、段階においても、途中で、神がかりな人とか、人間離れした能力者に頼る、最近ではAIやネットの情報に頼る(笑)というのもあるかもしれません。

それでも、多くの人は自分の問題を自分だけで収めてしまえるほど強くもないですし、逆に言えば、自分だけに抱え込まないからこそ、救いがあるのだと考えることができます。

自己責任という言葉が暴力的に唱えられるところもありますが、人間、何でもかでも一人できるものではなく、まれに強い人もいますが、一人では弱い存在でもあります。

注意しなければいけないのは、問題や悩み、困難状況に対する精神的な負担への思い、実際の対応能力には、個人差と言いますか、個性があるということです。

まったく同じ条件の悩みであっても、Aさんにとっては、まあ、ちょっと大変だな思う程度かもしれませんが、Bさんにとっては、死ぬほどつらいことなのかもしれないのです。

それをもって、Bさんは情けない、自己責任だから自分で何とかしろ、というのは酷だと思います。

もちろん、明らかに甘えすぎであるとか、嘘をついているなどのことがあれば問題ですが、まじめにやっているのに、つらい、苦しいというのは、平均を取ったり、皆と比べたりするのではなく、その人個人の苦しさとして受け止めてあげたほうが、その人にとっても救いとなるでしょう。

特に人の相談をするような人は、当然わかってはいることでも、この「相手の立場になって考える、共感する」ということが意外にできない人もいます。つまりは自分とか、イメージ上の常識集団の感覚で見てしまうのです。

さて、話を戻しますが、やはり、先ほどの、「悩みや苦しみをどのように解決や処理していくのかの段階」で言いますと、自分だけですべて完結できる、解決できると思い込むのは危険だとわかります。

それができる軽度の問題・悩みならいいのですが、悩むということは、もう自分ひとりのレベルや経験・知識では難しいということもあります。

よって、次の段階には、他人に相談することになります。

そして、一人ひとりが、まさに「一人」で苦しまないないよう、相談できる仕組み、システム、社会の雰囲気が重要であるとも言えます。

自分の次は他人へ相談するという流れがあるのですから、この「他人」の部分を、社会的にもっと拡大したり、充実したりすればよいのです。

人類の集合知と言いますか、誰れもが相談でき、相談を受けて、一人一人の悩みを解決する雰囲気の醸成、困ったことをお互いで解決し合う社会的常識を作り上げるわけです。

専門家が必要な時は、それにつなげるルートや仕組みも充実させます。いわば、共助・公助の部分を厚くしていくことと言えるでしょう。

マルセイユタロットで言えば、誰もが「節制」の天使になると例えてもよいです。

しかしながら、これでも、最後は神頼みという段階もあるかもしれません。

ここで、実際に神様がおられるとか、神様の力が発動させれるとかということを議論したり、言ったりするのではありません。

神様や仏様に頼る、祈るという、別の救いの段階、悩みや問題の軽減ルートがあってもよいと語っているわけです。

その仕組み・理由を説明しましょう。実は、このことは結構、秘儀に近いことで、タロットの霊的技術にも関係します。

私たちは神仏など、超越的なものに祈る時、神社とか仏閣などに行きます。そこに行けない時は、自宅の神棚、仏壇などに祈ることもあるかもしれません。

こういうものがない人でも、手を合わせて神仏に祈ったり、心の中で、何か言葉・マントラなどを唱える方もいるでしょう。

いずれにしても、その瞬間、日常ではない感覚になっているはずです。その非日常感が、自分と神仏などの超越的存在とをつなげるのです。

そういう意味では、非日常的空間にいるほうが、超越的なものと感応しやすい可能性があります。少なくとも、祭壇などがあったほうが、雰囲気が出やすいわけです。

そして、実は、神仏は、外にいる(在る)のではなく、自分の中にいる(在る)のだということです。

つまり、祭壇や社などは、仕掛けというか舞台演出のようなものだと思えばよいでしょう。

そういう仕掛けがあるからこそ、自分の中の、祈りに呼応した神仏的なものが現れるのです。(現れやすくなる)

神に祈って、実は自分に祈っているようなものです。

とはいえ、人は弱い存在だとも言いました。

ところが、反面、神性や仏性もあるのです。それが普段、日々の事象に悩む弱き人間としての部分がほとんどを占めてしまうので、なかなか表出して来ないわけです。

そのために、日常と切り離す、非日常的な仕掛け、舞台演出がいるのです。

こうして祈ることで、自分の強さが出て、私たち自身が奇蹟のようなことを起こす可能性を秘めています。

自分→他人→神仏(超越存在)と来て、最終的には→自分となって、結局自分に戻るのです。

人は救ってほしいと思った時に救われているというのは、このようなシステムがあるからと考えられます。

世の中はうまくてきています。

まずは自分として悩み考え、他人に救いを求め、ひとつの救いがなされると、他者を救いたくなるようになり、それでも難しい時は、神仏を頼りますが、その過程で、自分の中にある神や仏と出会うようになるわけです。

神仏に祈る時は、結構、大変な時でしょう。中には、祈ったところでどうにもならないことを自覚しながらも、仕方なく祈るという場合もあるかと思います。

そう、神仏に頼る段階では、結果は不明確で予想もつかず、そうそう奇跡が起こるわけではないのは承知のうえです。

だからこそ、一種の諦観と言いますか、悟りのような気分もやがて生まれてくるのだと思います。

その時、悩みはあっても、消えている感覚を持つ人もいるでしょう。それが奇蹟なのかもしれません。

この世は確かに悩み、苦しみの多い世界です。(そう思えない人もたくさんいて、それはそれでいいことです)

ですが、同時に、助けや救いも多いのです。自分を救いたければ、他人が救えるような社会に、皆で少しでもしていくことだと思います。

また霊的には神仏が救いをもたらし、それが結局は自分だったと気づくことがあるでしょう。

弱さ、強さを旋回しながら、私たちは、霊・魂の中心を磨き、存在として高めているのだと感じます。

そして、マルセイユタロットには、こうしたことを覚知させる智慧が隠されているのです。


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