カードからの気づき
ひもつきのカード
マルセイユタロットの大アルカナで、ロープやひもが描かれているカードがあります。
どれが、ひも・ロープなのかは、様々な見方はあると思いますが、一応、目立って明らかにひも・ロープ(の描写があるもの)だと考えられるのが、次の三枚ではないでしょうか。
●「正義」
●「吊るし」(一般には吊るされ人などと呼称されるカード)
●「悪魔」
これらのひもには、それぞれ固有の意味があるものと推測されますが、この三枚のひも・ロープ(以降、「ひも」と書きます)を「ひも類」とひとまとめにしつつ、同時に、各々の「ひも」の違いを見ると、面白い考察ができます。
そのひとつとして、「ひも」を「私たちを縛るもの」の例えとして見て、そのテーマで書いてみます。ただし、全部、意味とか象徴性を詳しくはあえて書きません。読んでいる皆さま自身にも、考えてもらいたいためです。
では、三枚のひもについて、その観点で見て行きましょう。
まず「正義」です。「正義」のカードでは裁判官のような者が、首に「ひも」をかけています。
次に、「吊るし」
このカードでは、「ひも」は吊り下がった逆さまの人の足にくくりつけられている感じです。
そして、「悪魔」のカードでは、悪魔(厳密には悪魔が載っている台のようなもの)に人間とおぼしき者が、「ひも」によってつなげられています。
どの「ひも」も、そんなキツそうではないので、「縛る」というテーマで考えることは適当ではないのかもしれません。しかし、キツさ・緩さに関係なく、「ひも」である以上、縛っていることも確かです。
このうち、縛っている(縛られている)ことを自覚しているものと、そうではないものに分けてみると、「正義」と「吊るし」は自覚があり、「悪魔」カードの悪魔自身は自覚しているものの、つながれている二人の人物は自覚していないと想像されます。
いや、もしかして、「悪魔」のカードにいる人物たちも、つながれているのは自覚しているのかもしれません。
普通、ひもで縛られるというのは苦痛であったり、自由を奪われたりして、よいものとは思えない状態です。
それでも、たまに縛られることがうれしい、心地よいという人もいます。いわゆるマゾ的な人ではありますが、もっと広い意味でとらえていくと、つながれていることに安心感を得ている人や状態とも言えます。
縛られることがよい、そんなことってあり得るのかと思うかもですが、例えば、会社につながれることで、給料が安定するのなら、そのほうがよいという人もいますし、自分が尊敬したり、すごいと思っていたりる人、その仲間やグループの集団につなげられているのは、安心だと思う人もいるでしょう。
一方、「正義」のひもはこれは「悪魔」とは逆で、もしかすると見た感じ、無自覚である可能性もあります。
裁判官として考えるのなら、裁判官としての一種の資格や立場を表す「ひも」なのかもしれませんが、裁判のルールを作ったり、そもそも裁判というその形式、行為自体を統括し、演出するもの(行わさせているもの)が、裁判官の自覚・無自覚に関わらず、ひもを結わえている(縛っているもの)とすると、この裁判官とひもが、それ(裁判すること自体)を示す様式や制服の一部になっているのではと推察されます。
言ってみれば、「ひも」そのものが権威や力を象徴し、自他ともに縛るものとして、まさに象徴としての見た目の効果もあるということです。
さて、「吊るし」ではどうでしょうか。
「吊るし」のひもは、一見、とてもキツいように見えます。逆さまの人を縛っているのですから、それは強烈なものではないかと想像してしまいますが、「吊るし」の人物をよく観察すると、苦しそうなどころか、笑みを浮かべているようにも見えます。
ということは、案外、この「ひも」は緩いのかもしれません。でも、足をひっかけているだけのようにも「吊るし」の図像からは見えますので、「ひも」が緩いとすると、物理的な力で「ひも」と人物がつながれているわけではないということがわかります。
いずれにしても、「吊るし」の人物は、「ひも」によって縛られていることは嫌ではなさそうで、少なくとも早く解放されたい、逃れたいと思ってはいないように感じます。
ということは、あえてこのひもでつながれる状態を望んているのか、何か意図があって、この状態にしていることが予想されます。
つながれていることが苦痛ではないということでは、三つのカードともに共通していますが、特に、「悪魔」と「吊るし」は、縛られている当人は楽しそうにさえ見えます。
「吊るし」が「悪魔」の「ひも」と違うのは、つなげている(縛っている)ことを見ているほかの存在(「悪魔」のカードでは、まさしく悪魔)がいないことと(つまり「ひも」と、それにつながっている者という関係だけが強調されている)、当の人物が逆さまであるということです。
また、「吊るし」は絵柄全体からも、何か囲まれている感が強いです。すると、「ひも」と合わさって、牢獄や、何か、逆さ吊りの刑を受けているようにも見えて、「ひも」が拷問用具にもなってきますが、先述したように、当人は気楽な感じさえします。
ここから考えると、やはり、「吊るし」の人物自身が望む意図的な縛り、あるいは、見た目とはまったく違う、「ひも」の機能や状態があると見て取れます。このような変わったことをする理由があるわけです。
「吊るし」と「悪魔」のひもでつながれた人物の共通点として、後手にしているというのがあります。
ここにもし、手を縛っている別のものがあるとすれば、隠された「ひも」があることもイメージできます。それは手錠のようなもので、拘束具となっている可能性はありますが、「吊るし」のカードでは特に、イリュージョン的ショーみたいに、縄抜けをして楽しませている(楽しんでいる)かもしれません。(笑)
「ひも」は、自分で縛ることもできますし、他者から縛られることもあります。「悪魔」の項目で述べたように、縛られることがよい場合もあると同時に、やはりそれは人を拘束し、自由を奪い、苦痛や制限を与えるものにもなります。
さらに、「ひも」がないと、例えば、高所の作業などては危険でもありますし、モノを運ぶ時にも縛らないと中身が出てしまうおそれがあります。ということでは、「ひも」によって便利になったり、安全になったり、団結・関係性を強めたりすることもあるわけです。
人は基本、縛られることを嫌いますが、場合によっては、縛られる期間・状態を必要とする時があります。
それから、「ひも」を別の意味にすると、自分で稼がない男性のたとえでよく言われるように、いわゆる「誰かのヒモとして暮らしている」みたいに、ぶら下がるもの、依存するもの、すがるもの、余分なものの象徴の場合もあります。
こうして、「ひも」を見ていくと、それぞれ三枚のカードのひもの意味、そこからくみ取れる私たちの自由や縛りとの関係性が見えてきます。
すると、この三枚のうちのどれか、あるいは、二枚の組み合わせなどによって、どういう状態の「ひも」が必要なのか、望ましいのか、リーディングとして活かすこともできます。
ひもつき(笑)のカードは、自分自身を見つめる意味でも、とても興味深いと思います。
正義と悪魔 罪悪感
マルセイユタロットの「正義」のカードと「悪魔」のカードでは、まったくの正反対の意味のように思いますが、この両者は、ある心理的な観点からすると、関連性を持って見ることができます。
それは罪悪感にまつわることです。
罪悪感がない人、持ったことのない人は、中にはいるかもしれませんが、普通は、皆さん、何らかのことで抱いたことはあると思います。
それはまさに文字通り、「悪いこと、罪だと感じる感覚」ですので、悪を断じたり、悪いと思うことを自分で認めたり(反省したり)することにもつながりますから、決してダメなことではないでしょう。むしろ人間の成長のためには、よいことなのかもしれません。
しかし何事もバランスであり、歪(ひずみ)をもった罪悪感、本当は持たなくてもよい過剰なる罪悪感であるのなら、それはやはり問題となります。
そもそも「悪」や「悪いこと」と思うには、その反対の正しいこと、正義という基準・価値観がないと生まれません。
ということは、自分にとっての悪は、自分にとっての正義の反対であり、その逆(自分にとっての正義の反対が自分の思う悪)もまた真なりです。
やっかいなことに、個人の場合は、そのふたつの線引き、価値基準が人によって違うことです。
国家的・社会的なものは、一応、明文化された法律・規則というものがありますから、それに反することはたいてい悪(というよりルール違反ですが)になり、順守しているほうは正しいとなります。それが個人的感情として納得するかどうかは別としても、あくまで公式ルールなので、従うしかないわけです。
ここ(はっきりとした客観的規則があるもの)はタロット風に言うのなら、4組(四大元素)の剣(風)の世界であり、杯(水)、つまり感情によってゆらめいても、線引きは可能だということになります。
しかしながら、個人の場合は自分の中に法律があるようなもので、しかもそれは明文化されていませんし、主観ですから、ずっと同じ基準で固定されるわけでもなくも流動的です。つまりは、正義も悪も人によって異なり、あやふやで、感情や気分によっても左右されます。
とはいえ今の自分、個人として、なにがしかの善悪、正義と悪の基準を持っているのは確かです。そして、その内なる自分の法律に従い、自らを、あるいは他人や物事を裁こうとします。いわば、誰もが内なる法律の裁判官なのです。
そこで罪悪感です。
罪悪感は、このように、自分の内的な価値基準、内なる法律のようなもので、自分では正しくないと思った(裁いた)こと(悪、悪いと思ったこと)に、刑罰を与えようとします。それが、自分にとっての心理的なバランス調整なのです。(「正義」のカードに、剣と天秤があるのも、極めて象徴的です)
これが自分に向かう場合は、自己を罰することになりますから、いわば大きな意味での自傷行為、自罰行為を成すことがあります。
これは自分に対する罰を自分が行っている(執行している)ようなものです。
例えば、恋愛や人間関係でわざと気まずくしたり、よい関係を壊そうとしたり、仕事では大事なところで失敗したり、無理な案件や内容を自分に課そうとしたり、残業など肉体を酷使したりします。
かなりのパターンであるのは、神経か肉体を痛めさせるというもの(罰)です。つまりは何らかの病にかかる、あるいは病気のような状態を呈するのです。
問題は、この罪悪感から来る自罰行為を、自分の表面的な意識は自分がやっているとまったく思っていないことがあるのです。
人生のシーンで、何かうまく行かない、目標や望みが達成できない、心や体が何か調子悪いというようなことに、こうした罪悪感が関係し、自罰行為のシステムが潜在的に働いている場合があり、それが自分ではわからないというケースが結構あります。
これは、カウンセリング、心理的なことを含む相談やセッション、リーディング、セラピーの過程で判明することがあるので、何となく心当たりがある人は人に見てもらうのもよいでしょう。
一方、これが自分ではなく、他人に向かう場合があります。自分の罪悪感を外に押し付けることで自分の責任逃れや、罪悪感から解放されたいという行為です。
この場合は、他人への嫌悪感(結局、投影に近いことですが)とか、攻撃、批判という形になります。
これとは少し異質なのですが、タロットの「悪魔」と「正義」の並びで浮かんでくることは、罪悪感とは逆の、自分の正しさを保証(意味的には保障にもなります)してくれる人を求めて、悪魔のような強い人、カリスマ的な人の下につながれに行く、つまりは依存するというパターンもあります。
場合によっては罪悪感の裏返しの正義(悪いこととは思っていても、自分は悪くないと思いたいがために、開き直るがごとく、他人を利用して自分が正義であることを守るもの)のために、悪魔的な、一般に影響力の強い人とつながろうとすることもあります。
さらいえば、「悪魔」の下に入った人たちは、傷をなめ合うかのように、自分(たち)は悪くない、正しいんだと思い込んで集団で安心するケースもあります。
ただ、言っておくと、誰しも大なり小なり、この「正義」と「悪魔」との、罪悪感と正しさ(自分は悪くないこと)の調整はやっています。小さいことなら、それこそ無数にあるのではないでしょうか。
そうして、私たちは心のバランスを図っているとも言えます。
しかしながら、自分の内的な法律があまりにも厳しくて、自分を縛り過ぎ、いつも自罰行為をしたり、他人へ批判的になったりしていては、自分で牢獄の中に入っているようなものてす。いわば、自分の法律によって世界をとても小さく、窮屈なものにしてしまっているのです。
しかも、自罰、自傷をしていると、自分にとってよいわけがありませんし、実害が自分だけではなく、他人にもかかってくることがあります。
先にも述べたように、公のもの、社会的に明文化されたルール、法律は変えることは難しく(変えることはできますが)、公共の利益・福祉、皆の生活のためには、従うのは当然のことです。それだけにはっきりしていて、誰にとっても明確で悩むことは少ないでしょう。
けれども、個人の内的なものは、不安定でもあり、その正義と悪、善悪の線引きも可変的です。そのため、悩みや葛藤も発生します。
それでも、一生従わなくてはならないことはなく、自らがどうとでもすることができるのです。法律を作るのはあなた自身であり、裁くのもあなたなのですから。
罪悪感で自分を縛る人は、タロットでいえば、もっと「悪魔」と仲良くなること(エゴ、自分が自分であることを受容すること)であり、その反対の、あまりに緩すぎる人は、「正義」を思う必要があります。
罪悪感は、宗教的なこと、育った家庭教育の中から生まれていることもあります。一度、本当にそれは自分にとって悪いことなのかどうか、冷静に、いろいろな経験と知識を得た今の自分から検証してみる必要はあります。
同時に、この自分の思う正義、正しいことというのは、どのレベルで言っているのか、ということも考えるとよいでしょう。
よく勘違いされますが、正義や悪は本来ない(人が決めている)のだから、何をやってもいいのだ、自由だという人がいますが、レベルや次元、階層別に、きちんとルールは存在します。
確かに次元が上がれば、その下の善悪、正義と悪はどちらでもないような観点になるでしょうが、上の次元においても、下とは違うものであっても、それなりに善悪はあるはずです。ここは難しいところで、下と上の階層では、二元的なものがまったく逆に入れ替わるようなこともあるのです。
ですから。あるレベルからすると、それは悪いものだよと言われても、また別のレベルでは、必要な良いもの、正義という場合もあるわけですから、一概には決められないと言えます。
言い換えれば、レベルの高い人が言うことは、あなたにとって(あなたの今感じている次元やレベルにおいて)必ずしも、正しいとは限らないということです。
タロットの「正義「と「悪魔」、正反対のようですが、なかなか両者をともに考察していくと、面白いことが見えてくるものです。
波に乗る 乗らない
量子力学的な引用で、この世界(素粒子レベル)は波動と粒子の両方の性質を持つと言われます。
とぢらでもあって、どちらでもないわけで、それは少し古い言い方にはなりますが、「観測者(の存在)によって変わる」という、一見不確かなようにも見える世界でもあるということです。
ともあれ、粒子とともに、波動、波としての状態もあるということはわかります。
ということは、私たち自身が波であるのか、はたまた粒子であるのかによっても、見え方、感じ方といいいますか、世界そのものの在り様も変わるのではないでしょうか。
私たちはよく波に乗るという言い方をします。
これは調子がいい時や、何か幸運をつかむような時の表現でも言われます。
反対に、調子が悪いと、波に乗れないとか、波からずれている、はずれている、落ちている、合っていないというような言い方もします。
波に乗る、乗らない(乗れない)という表現で、イメージされてくるマルセイユタロット(大アルカナ)と言えば、やはり「運命の輪」でしょうか。
「運命の輪」には、その名の通り、運命を象徴するような輪があり、それに「乗る」ような形で、三匹の動物が描かれています。
そして下には大海のようなものがあり、この輪のマシーン的なもの自体が海に浮かび、波に揺られている状態で、つまりは、波(乗り)との関係性が二重で示されていることになります。
この「波乗り」の二重性は、なかなか興味深いところです。
まず、輪のほうの「乗り」で見ますと、やはり、三匹の動物たちの乗り方が特徴的です。向かって左側の動物は輪からずれたり、降りようとしていたりするようにも見え、方や、向かって右際の動物は、必死で振り落とされまいとしがみついているようにも見えます。
さらに、一番上の動物は、悠然と構えていて、輪の「乗り」を楽しんでいるか、まったく回転を意に介さないかのような印象です。
もし輪がそのまま文字通り、運命を示すのであれば、私たちはこれらの動物のように、ある時は運命の流れから落とされるかのように感じたり、またある時は、必死で運をつかもうと作為したりするかのように見えます。
そういう中で、真ん中の動物だけは、運命を知っているのか、そういうものを意識し過ぎないのか、輪自体には確かに乗っていますが、回転の影響は受けていないので、ある意味、「乗っていない(動いていない)」とも言えます。
ただ、この真ん中の動物としても、下の大海の上下のような波の運動は感じているかもしれず、その影響はあるようには思います。
それでも、まるで海を進む船が、この船は大丈夫だと確信しているかのように、大海の波乗りと、輪の波乗りのふたつを同時に楽しんでいるかのようです。
一方、輪の中の左右二匹の動物たちは、おそらく大海の波の動きには関心がなく、それを感じてはいても、輪の回転、輪の動きだと誤解したり、混同したりして、波乗りについては、輪のほうに意識が偏っていると推測されます。
私はあえて、大海が何であるかとか、輪が何であるかということを答えのように、ここでは示しません。さきほど、「輪は運命だとしたら・・・」と表現こそしましたが、それはそうかもしれませんし、そうでないのかもしれないのです。
ここは皆さん自身で、自分なりの回答とか、象徴しているものの意味をつかんでほしいと思います。
もう一度、大切なことなので、「運命の輪」から見えてくる構造を、「波乗り」を、描かれている動物を比喩にして書きます。
●回転する輪に翻弄され、それに乗ろう(落ちまい)とする動物と、輪からはずれたり、落ちようとする(落ちてもいいかのような)動物
●輪の回転に影響されないが、輪には乗っている動物
●大海の波を知りつつも、動揺しない動物(輪の上の真ん中の動物)
●大海の波の運動を、輪の左右二匹の動物は知らないか、感じ取りにくい(輪の波乗り、波降りに集中している)
ここで、最初の話に戻ります。
すでに古典的なものではありますが、量子力学では、波動と粒子の二重性が言われていて、もし私たちに波動か、粒子かの選択があるとすれば、波動状態そのものであれば、実は波を実感することはできず、粒子であれば、つまり物質的な形のようなものであれば、逆に波は感じられるのかもしれません。
しかし、波の運動によっては、私たちは、自分が小舟のように右往左往してしまうかもしれず、何とか、うまく波乗りしようと頑張って、上手に乗りこなしていると見える時と、まったく波と合わずに、サーフボードから落下してしまったり、船が沈没してしまったりするかのようなこともあるでしょう。
「運命の輪」の真ん中の動物は、なぜ回転の輪の波乗りを平然とこなすことができるのか、そして、大海の波に翻弄されることがないのか、このことは、「運命の輪」のカードそのものからの重要な示唆であると考えられます。
輪の二匹の動物は、絵としての二次元表現でも、動いているように見えます。
それは輪(の絵)とともにあるからとも言えます。ちなみに、輪をよく見ると、マルセイユタロットでは、「運命の輪」が立体的、三次元にも見えるのですが、その三次元感覚でさえ超えるような、不思議な描かれ方もしています。(例えば、輪の中の向こうの景色、背景が見えないなど)
さて、こうして見ていくと、「波に乗る、乗らない」という表現と態度は、もしかすると、逆に私たちを波から遠ざけているのかもしれないのです。
しかし、また反対に、その表現があるからこそ、実体として見えない運命のような波、何かの流れ、波動のようなものを感じ、外に表現することができるとも言えます。
ここに、物質性と精神性、または霊性とのつながりが見え隠れするのです。
ちなみに、「運命の輪」は、詳細は言いませんが、時間とも関係するカードです。
流れる時間と空間の感覚こそが三次元を生み出しているとも言え、波乗り、波降りに振り回される二匹の動物がごとく、私たちは、時間と空間の中で、もがいているようにも見えます。
ところで、大アルカナは22枚ありますが、ある分け方をしますと、10枚×2の分類で、残り二枚が「愚者」と「世界」になるというものがあります。つまりは、「10」という数と括りが、セットやサイクルを象徴することになります。
その数を持つ「運命の輪」が、重要な位置(終わりと始まり、プロセスの重要な転換点)にあるのは想像できます。
運に対しての私たちの考え方も、言葉で言えば、運に乗る、運をつかむ、運から見放される、運に振り回される、運がない、運がよい・悪いという、運をあたかも客観的に自分とは別に存在するかのような表現をよくします。
これがもし主観的なものだったら、どう表すでしょうか。
こうしたことも、波とそれに乗る者、扱う者との関係性で、「運命の輪」をもとにして考察できると思います。
縁と行動とタイミング
今日のタイトル(縁、行動、タイミング)は、マルセイユタロットで言えば、「恋人」、「皇帝」、「運命の輪」という感じです。
ただ、レベルが変われば、例えば、縁は「審判」とも言えますし、「運命の輪」でも表せるほか、別の見方では、もっとほかのカードでも象徴となります。
もちろん、行動、タイミングも同じようなことが言えます。(タイミングだけは、かなり「運命の輪」に絞られてきますが・・・)
また、実は「恋人」カード一枚に、この縁、行動、タイミングのすべてが入っているとも言えるのです。どれがどれなのかは、図柄の詳しい説明をしないといけないので、ここでは省きますが、少しだけ述べれば、恋人の三人の人物が行動、上空のキューピッドが縁、タイミンクは秘密としておきます。(笑)
同じようなことでは、「運命の輪」でも、縁、行動、タイミングを一枚で表せます。
ところで、この「縁」「行動」「タイミング」についてです。
人生をそれなりに生きてきますと、これらが重要な要素を占めているのが、おそらく皆さんにもわかってきているのではないでしょうか?
いわゆる経済的な成功についてもそうですし、健康問題、人間関係など、およそ、生きていくうえで人が関心を持ったり、問題となったりすることのほとんどが、実は、これらの三つに左右されるのではないかと想像できます。
簡単にひとつひとつ見て行きましょう。
まず「縁」です。
縁、特に人の縁がつながって、人が紹介されたり、出会ったりすることで、その人の人生は大きく変わります。あの人との出会いがなければ今の私はなかったとか、あのこと(縁)があったので、このような仕事に就いているとか、パートナーや家族になったとか、あるわけです。
時には病で、ある縁がつながって、名医や適切な治療ができる病院を知って、命が救われたという場合もあるでしょう。
それだけ縁は大事だということです。まあ、カルマ的な話を持ち込めば、縁も自分でつけることのできる縁以外に、見えない力やデータが働いて、つけられる縁もあるということで、まさに良縁は自分のよい思考や行いに由来するとも言え、逆に悪縁もしかりで、自業自得なところもあるのかもしれませんね。
ということは、良縁を望むということは、現実での普段の考え方、行為とともに、天・宇宙・先祖など、見えないものに対する感謝のような気持ちも大きな要因となりそうです。
さて、縁の中で「行為」という言葉が出たように、次は、「行動」についてです。
いくらよい縁がつながったとしても、自分がその人に会うとか、そこに行くなど、何か行動しないと、何も始まらないわけです。
これは腰の重い人や考えすぎ傾向の人には結構あることで、せっかくよい縁が来ているのに、疑ったり、面倒になったりして、行動を起こさず、みすみすチャンスを逃してしまうことがあります。
それに、たとえ悪縁であっても、行動次第では悪縁を断ち切り、よいものに替えていくことも可能です。
私たちは想念だけの世界に生きているわけではなく、現実の形ある世界にいるのですから、そこに実際に働きかけること、行動を起こすことをしないと、形としての結果は変わらないことが多いわけです。
そして、最後は「タイミング」です。
これはいわば、縁と行動の両方に関わる(ついて回る)ことと言ってもよいでしょう。
よい縁があり、そしてそれに向けて行動したとしても、タイミングが悪いと、出会えなかったり、効果か薄かったりすることもあります。
また、言い方を換えれば、よい縁とはよいタイミングであるとも考えられ、さらに行動が重なると、グッドなことが起こると想定できます。
ということは、逆に言えば、自分の成すタイミングがよくなればなるほど、良縁に恵まれ、行動と結果もスムースになり、望んだもの(人生)になっていくと言えます。
自分の「タイミングがよい」ということはどういうことでしょうか?
ひとつには、自然や宇宙の流れと一致している(大きなズレがない)ということがあるかもしれません。それならば、自然・宇宙の流れとは何なのかということを知る必要があります。
もうひとつは、現実次元において、スピード(間)が適切であるということでしょう。俗に「間が悪い」とか「間に合う」という言い方をするように、間・間隔、時間の刻み方、速さが、物事のタイミングと合っているわけです。
人の場合だと、その人の望むタイミングでこちらも連絡したり、会ったりできるという感じで、要するに、シンクロ率の高さ、上昇とも言えます。
間(ま)、タイミングは、万人に共通な時計時間の世界において、それぞれの内的な時間が関係していると考えられ、それはカイロス時間、精神時間とも表現することもできます。
タロットで言えば、大きな時計時間(クロノス時間)の回転の中で回っている、別のそれぞれの内的な時間(カイロス時間)という感じです。
その内的時間同士が合いやすいというか、合わせやすい人は、タイミングがよく合う人、よいタイミングで動く人と言えます。
現実世界は、分離世界といえ、タロットで言うと小アルカナの四大元素、4組の世界です。
4組は、風・水・火・地のエレメント(元素)を象徴する剣・杯・杖・玉(ソード・カップ・ワンド・コイン)で示されています。これらがバラバラで分かれているように思える世界が現実世界で、人で言えば、全員個性があって同じ人がいないという感覚のものです。
ですから、土台、現実世界では分離、バラバラなものなので、「合う」ということが難しいのです。
そういう中で、たとえ偶然でも「合う」というのは、一種の奇跡が働いているようなもので(神の力で起こっていると見れば、「奇蹟」になります)、すごいことなのです。
古代ギリシアでは、四大元素の集合離散について、愛・憎によって起きていると考える人がいました。(エンペドクレス)
最初は?と思うでしょうが、四大元素や宇宙の仕組みを知ってくると、なかなかに興味深い説だと思います。
この説からすれば、四大が分離した世界、つまりは私たちの認識する現実世界において、愛があれば、響き合い、統合していくものと考えることができます。
つまり、タイミングについても、シンクロしたり、合ったりするには、愛が重要な鍵となるのです。
タイミングが合うことを望むのなら、合わせたい人や物事を愛し、時間や縁、運といえるものからも愛されなければならないのです。
ちょっと古いですが・・・サンシャイン池崎氏のギャグ(笑)ではありませんが、人に愛され、縁に愛され、時間に愛されて、ジャスティスならぬ、ジャストタイミングが来るのです。
孤立を深め、エゴの塊になればなるほど、誰からも何からも愛されなくなり、もちろん自分が愛することもできず、四大は分離していきます。
すると、シンクロも起きず(起きていても気づかず)、良縁は来ず、行動はしても一人よがりになって非効率的になり、タイミングはますます、ずれていきます。
ちなみに、「運命の輪」の輪の上にいる動物(スフィンクス)は、統合のシンボルでもあり、輪の中にいる犬と猿とでは次元が異なること示しています。
犬と猿のような状態で、必死にタイミングを合わそうとしたり(犬)、逆に無為無策と言いますか、棚ぼたに期待するような姿勢で幸運を待ち望んでいたりしても(猿)、本当のジャストタイミングになるのは難しく、反対に、二匹のレベルから脱しているスフィンクス状態になれば、自然にタイミングは合うのです。
縁、行動、タイミング、これらがスムースに運ばれ、よくなっていくためには、自他の愛が必要であること、逆に見れば、愛の振り分けが縁となり、行動となり、タイミングを決めていくとも言え、縁だけ、行動だけ、タイミングだけをエゴ的に固執していても、総合的には良く働かないことを、タロット的に述べてみました。
シンクロニシティのちょっと変わった考察
シンクロニシティ、つまり必然性があるかのような意味ある偶然、あるいは偶然の中の意味の取れる必然性というような現象で、スピリチュアルに関心のある人は、シンクロと略しつつ、よくそのことを述べられます。
タロットリーディングにおいても、シャッフルなどして、どのカードかわからない状態のものから引き出したカードが、自分の問題や知りたいことを示していると見るのも、シンクロニシティを前提にしないと成り立たないものです。
ただ、人間は関心を抱いたものを情報として集め、さらに言えば、関心のないもの、今特に(生存において)必要性のないものは逆に遮断する傾向もあるため、言ってみれば、偶然のように起こった意味ある事も、自分があることに関心をずっと持っているため、何を見ても(何が起こっても)自身が関連づけをしてしまっているとも考えられ、極端に言えば、関心事関係しか目に入らない状態、もしくは関連せさてしまう精神状態にあるからと、シンクロ現象を分析できるかもしれません。
となると、シンクロニシティは偶然の必然と言うより、すべて自分が意図的に起こしている必然の可能性もあります。
ところで、シンクロニシティ(以下、シンクロとも表現します)が特にテーマとなってくるもののひとつに、シンクロニシティによる答えや進むべき方向性がわかるかどうかというものがあります。
自分が何かの問題状況にあったり、進路・選択に迷いがあったりする時、およそ関連性のないもの同士の出来事なのに、自分の問題に関して回答を得られたような必然的な意味・関係性を見出せる場合があります。
時計やレシート、車のナンバーなどの数字、看板の文字、カフェやレストランでの知らない人の会話の内容、雲の形、虹の現れ、日が急にさしてくる、風が吹くなどの自然現象等が、自分の問いに対して、なぜか答えや道が示されたかのようなシンクロ性を感じることがあるわけです。
これは、何がシンクロしていると感じるかと言えば、結局、タイミングです。
関係ないことでも、タイミングが自分にとって絶妙だった、タイミング的に偶然とは思えないから意味あるものと感じます。
逆に言えば、タイミングがバラバラで、間が悪い時に起こったことは、シンクロとは感じないことが多いと言うことでもあります。
タイミングと言えば、文字通り、時間に関することになりますが、この時間というものがちょっと曲者です。
時間には種類があると言われます。一般的によく取り上げられるのは、皆に等しく流れる時計的・機械的な時間と、一人ひとり個人の心に流れる精神的な時間です。
シンクロだと感じる場合、この時計時間の中に、精神時間が入り込んで、現象を意味あるもののように結び付けているとも考えられます。
別の言い方をすれば、精神時間に私たちが移行している時、シンクロを感じやすいということです。
マルセイユタロットからも言えるのですが、私たちは時計時間で生きる自分と、自分の中の時計、いわば精神の時間で生きる自分との二人がいて、それが時にはせめぎ合ったり、邂逅(クロス・融合)したりしているように思います。
メルヘン的な言い方をあえてするとすれば、精神時間を駆けている自分が、普通の時間で生きているもう一人の自分に会いに来るわけです。(笑) その瞬間、偶然でバラバラであると見られていた物事・現象が、意味あるものとして結びつきます。
精神時間の自分は、時計(通常)時間で生きているあなたの問い(の答え)を検索している存在でもあります。
精神時間は過去→現在→未来という流れとは限らず、その逆であったり、時間がそれぞれ並行したり、時計時間的には伸び縮みしているかのような感じにもなります。いわば、一定の時間の流れや方向性ではないのです。
ゆえに、例えば、未来や過去の出来事にも問いに対して検索がかけられ、それに見合うものを引き寄せてくるような感じになります。
普通の時計時間的な世界では、過去・現在・未来の流れを中心とした論理性、つまりは因果関係が目に見えて明確な形でないと、それぞれの関連性、結びつきが理解できない、あるいは必然性があるとは考えられないものです。
しかし、精神の時間では、その縛りから解放され、別の論理性や理由をもって、物事に関連性がもたらされます。
言ってみれば、睡眠中に見る、一見混沌とした「夢」に、何らかの意味を見たり、関連を通したりすることができるというようなことに似ています。
シンクロによる問いの回答が正しいのか、そうでないのかは、はっきりとは言えません。
なぜなら、その正しい・間違いの判断の基準が、どのレベル(法則)のものなのかがはっきりしていないからです。
一般的に言われる正誤の判断は、現実の人の多くの一般的価値観の判断によるものと考えられますが、それは個人として見た場合、絶対基準とは言えません。
あの人にとってよいことも、自分にとっては悪いこと、またその逆もあるのです。つまりは、一般的にはそれは正解と考えられていても、個人で見た場合、正解とは言えず、自分なりの正解は別ということも個人レベルでは普通にあるわけです。
シンクロを見て、回答や進むべき道を知るということでも、それはどちらかと言うと、ニュアンス的には個人的レベルなものです。
そうであるならば、シンクロで感じられる答えというのは、個人の中にあるもので、自分がもともと持っている回答とか進みたい方向性と言えます。
ひねくれた言い方をすれば、本当にしたいこと、やりたいこと、あるいはその逆に辞めたいこと、したくないことなどの本音の世界(気持ち)を、シンクロという現象を理由にして(創り出して)、自ら後押しや理由をつけたがっているとも言えます。
ただ、シンクロで知る答えは、本音とは限らないこともあります。
先述したように、シンクロ現象は、精神時間で生きるもう一人の自分による検索や、別の観点による意味付け(別次元の論理)とも考えられますから、抑圧したり、心の奥にしまっておいたりしている潜在的な気持ち、さらには忘れてしまってはいるものの、実は結構重大な情報ということもあり得ます。
要するに、シンクロからの情報による答えが正しいか正しくないかで見るよりも、シンクロとして感じたことは、普段や常識で思考したり、感じたりしている自分とは別の情報ソースの扱いだったり、いつもとは違う答えの導き方として起こっていたりする出来事として見ればよいのではないかということです。
端的に言えば、精神時間の自分からの現実(時計)時間の自分へのアドバイスみたいなものです。ですから、時計時間で生きているこちらの自分との協議であってもいいのです。
ただ、向こう側の自分は、時空を超えた情報世界にいますし、自分の内側をよく知る存在です(実はややこしいですが、自分の真の外側を知る者とも言えます)。
ですから、シンクロと思える情報や感じは、結構深いところを突いていたり、的を射ていたりする場合が多いのです。スピリチュアルな合理性を持つと言ってもよいでしょうか。
ただ、自分の通常意識が関心を持っているから、そのように見えてきたという、単なる意識の特定事項のフォーカスによって、あたかもシンクロのように見えるものとの違いはあると思います。
やはり、その最大の違いは、シンクロの訪れるタイミングであり、ずっと注目していたからやはり現れたというより、むしろ関心事から意識をずらしたり、当の出来事から離れたりしている時に、突如飛び込んでくるものや、あとあとで、意識の上に、まるで一本の線が次々と結ばれていくかのように、バラバラで別々のこと同士がすべて関連づけられて、「ある種の型」とか「象徴的なメッセージ」が形成されてくるのは、シンクロ現象だと言えます。
とにかくも、絶妙なタイミングで起こるものに、これまで述べてきた自分の中の二人の出会いがあると言えます。
マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の回転で象徴され、ふたつの別の「運命の輪」がまさにシンクロ・同調して一致した時、あなたに偶然のような、意味のある必然性が起こるのです。
シンクロで回答を得ることを求めたり(シンクロしたことが正解と思ったり)、必要以上に特別な意味を持たせたりするのではなく、意識上の違いをよく認識し、むしろバランス修正や、統合の視点で見ていくと、シンクロに振り回されることも少なくなるでしょう。
一般の人は、もっとシンクロに意味を見たほうが、特に情緒的世界が広がりますし、逆に、スピリチュアルに傾倒し過ぎている人は、自分の意識が起こしていること(同じように意味付けしやすい心のパターンにはまっていたり、洗脳されたりしている恐れもあります)だというように、冷静に見ることも必要かもしれません。