カードからの気づき

吉野の蔵王権現とタロット

マルセイユタロットにはいろいろな使い方があります。

そのひとつに、たとえ信仰や宗教は違っても、マルセイユタロットの描かれている図像が、共通的に、ある種の神仏のエネルギー(本質と表現)とリンクし、カード自体をミニ像と見立てることができることです。

ところで、先日のGW中、最後の日でしたが、奈良の吉野に行ってきました。

吉野と言えば、が有名であり、吉野を訪れる観光客のほとんどが、桜の時期に占められるというほどです。

まあ、そんなわけで、桜のシーズンは吉野は激混みするわけですが、それでも上千本、奥千本と上に行けば行くほど、人も少なくなってきますので、場所を選べば、観桜期でも落ち着いて見られるところもあるかと思います。

と言っても、やはり桜目的でなければ、桜のシーズンは、はずしたほうがゆったり観光できます。今回の私の目的は、観桜期の四月とGWに特別に開帳される秘仏・金峰山寺の金剛蔵王権現拝観です。

当初は、ほかの神社・仏閣に参る予定でしたが、いろいろとあって、あるいは呼ばれたのか、ここになりました。五年前にも、観桜目的ではありましたが、吉野に来ていて、その時初めて拝観させてもらっていました。ただ、今回はこちらの参拝が主ということが違います。

というのも、この秘仏(写真撮影が禁止されていますので、HPをご覧ください)、巨大なうえに三体あり、しかも最大の特徴と言ってよいのが、ほぼ全身が「青色」に塗られているのです。その迫力は、実際に拝観すればわかりますが、すごいものがあります。

私が特に興味持ったのは、三体であることと、やはり青い色であるということでした。

青い色の神となれば、インドのヒンドゥー系の神によく見られ、シヴァ神や、クリシュナなどが有名かもしれません。

これらのヒンドゥー系の青い神は、実は本来は黒い色をしていると言われ、つまりは(をつかさどるもの)の象徴と考えられます。

また「3」ですが、インドで、神による3区分となると、そのシヴァ神を含んでのブラフマー、ヴィシュヌの創造・維持・破壊三神が浮かびます。このうち、シヴァ神は破壊(と再生)を担当すると言われます。

つまり、インドのヒンドゥー系を中心にして、青い神とは、宇宙の死と再生のシンボルでもあるわけです。

そして、マルセイユタロットにもこのような空色に近いブルーが使われており、私たちの間では、これが霊性を示す色だと伝えられています。

特に、大アルカナの中で、その空色(水色ぽいブルー)を見ていけば、私たちが、いかに霊性を取り戻していくかの過程がわかると言われます。

さきほど、インドの青い神は死と再生の神だと述べましたが、タロットがヨーロッパだけではなく、地中海湾岸、北アフリカ、中東、中央アジア、果ては中国などの思想や表現も入っていると考えると(その証拠はあります)、インドとの関連も十分に考えられます。

すると、私たちが霊性を獲得したり、その状態に回帰したりすることは、死が必要であることがわかります。ただ、その死は肉体の死の意味というより、象徴的な死、自我の死と言ってもいいかもしれません。

そして、死だけではなく、再生という意味も併せてあるように、私たちは不死鳥のように死んでも蘇る必要があるのです。

おそらく、黒は完全なる死を象徴するでしょうが、空色的なブルーで表現されるということは、そこに光や白が入っているから、その色になるのであり、それは象徴的にはあ叡智や再生の光ということになるでしょう。

空色(青い色)の仏像は、私たちの中にある死や恐怖、ネガティブなもの、自我の深い欲求なども表すと同時に、そこに取り込まれず、むしろ逆に力と変え、美なるもの、真なるもの、智慧なるものとして輝き、再生(本当の霊的な自分に生まれ変わること、悟れること)の可能性が自らに眠っていることを告げていると考えられます。

マルセイユタロットでは、「審判」に描かれている真ん中の人物、天使からラッパを鳴らされて目覚めたとも、覚醒したことで天使が祝福のファンファーレを鳴らしたとも取れるその人物が「空色」なのです。これぞ、本当の意味で蘇ったことを表し、仏教的には仏になった姿と言えるかもしれません。

ちなみに三つというのは、時間とも関係し、過去・現在・未来を意味します。

私たの世界は、時空認識をもとに、現実を主体としたところにいます。言い換えれば時間がある、時間が進んでいるという意識の世界です。

時間を認識するためには、今述べた三つ捉え方(過去・現在・未来)がないとできません。しかし本質的には時間はないと言われており、時空認識が超越したところに神や仏の世界があります。

ということは、三体の仏像は、現世とあの世(此岸と彼岸)、現実の苦しみや楽しみが時間によって生み出される世界(つまり現実)と、そこから超越している永遠の世界を、暗に示しているとも言えます。

こうした見方で、改めて吉野の秘仏を拝観しますと、両端の仏像が真ん中に統合されるようにも見えますし、左右の性質を分離させることで、身近に私たちの権現としての仏・神を感じることができるような仕組みになっているのに気づきます。

つまりは、私たちは実はひとつで、自分の中にある神や仏を、目の前の三つの仏像に分離されたものとして見ることで、現実の自分(自我)としての親和性が生み出され、三つのうちのどれかに親しみや会話をしたくなる傾向が出るのです。

それは時間として、過去の自分、今の自分、未来の自分とも言えます。あるいは両端のふたつとしては、女性性・男性性とか、能動・受容、ペルソナと本質などの二元性の自分も見ることがあるでしょう。

そして最終的には、どれか(特に真ん中)の存在によって、一度、象徴的な死を与えられ、最終的には三つが統合されて、(内なる)仏や神と邂逅することになるのです。

それは「宇宙」と言ってよく、だからこそ、東大寺の大仏(廬舎那仏)のように巨大でもあると言えるのです。

こうした仕組みは、光がろうそくのみで照らされる夜間拝観の時のほうが、よく感じられるかもしれません。

あと、個人的に思うのは、この吉野の蔵王権現、死と再生の色であることから、真剣に参ると、カルマの浮上と浄化、まさに自分の中での何かの破壊と再生が起きる気がします。くすぶっていたものがついに開かれ、強引にでも浄化や再生の道に進まざるを得なくなる感じと言えましょうか。そういう意味では不動明王的でもあります。

マルセイユタロットを通した、神仏像の考察の記事でした。


自由・不自由 個人と全体の幸せ

心理・スピリチュアル系でも、自由を説く人は多いですね。

もっと自由になっていいんだ、自分のルールや心を解放しようという主張がよくあります。

それはもっともなことだと思います。

一方で、社会的には法律やルール、規則があり、これは順守しないといけないところがあります。

そうしないと、自分も皆も生活に困るからです。

自由の意味は様々に定義できますが、たいていのもの(言葉・状態)には反対の意味があるからそれが出るように、自由に対して不自由(束縛)があるからこそ、自由がわかるという仕組みがあります。

ということはまったくの自由というものは、もしかすると存在しないというか、私たちは捉えることができない(自由という意味さえわからなくなる)のかもしれません。

逆説的ですが、自由を知るには不自由を経験しないといけないわけです。

自由の主張で、「自分(一人)は自由に、好きなままに行動(生活)することができているので、自由は大切とか、自由になることは誰でもできる」と言う人がいますが、それは多くの不自由にいる人、不自由とは感じなくても、ルールや規則を守っている人がいるからこそ、それが可能になっている(全員が勝手気ままにすると成立しない世界)という、当たり前の社会構造が意識のうえで欠落している場合があり、それは子どもならまだしも、大人としては未熟なことだと言えます。

あと、この上記のような自由を叫ぶ人の論理では、わがまま、嫌なことから逃げることが自由と誤解していることも結構あります。

自らは既成の制度やルールを破壊することで悦に入るような、昔の中学生の不良のような幼い自我の人もいます。

ルールや規則を破つたり、変えたりしたいのなら、その代案や、皆がそれで暮らしやすい社会のプランを作ることが求められます。

俺流、ワタクシ流で「こんなやり方でも生活できる、自由に生きている、だから君もできる」という論理(理屈)は、先にも言ったように、まじめにルールを守っている人がいるからこそ成りたつもので、多くの普通の人の恩恵のうえでの自由と例外であり、都合のよいわがままに過ぎないことがあります。

しかしながら、やはり、従来の規則・ルール、仕組みを守るだけがよい生活を作るとは言えないところもあります。

私たちの生活はなるほど、確かにかなり便利にはなりましたし、日本は特に安全で清潔、サービスもすばらしいところがあります。

けれども、多くの人の労働や暮らしの実態は、非常に厳しいものがあり、日本は一般のサービス水準の要求が高いだけ、労働環境と条件もキツくなっているという、自己矛盾的なおかしな構造も抱えています。

昔はそれでも、そこそこそこの給料対価と、雇用の安定ということで、それらが我慢できる状況もあるにはありましたが、今はそれさえ崩壊していると言えます。

こんな中で、人間性や創造性が失われていくのも当然と言えます。世の中の人たちはますますギスギスし、イライラし、余裕というものが感じられなくなっています。

こうした中で、もっと自由に、楽に、生きたいように生きるという人たちが現れるのも、むしろ自然の流れかと思います。

ところで、「楽して儲けてはいけない」みたいな言い方もありますが、よく考えると、お金(キャッシュであれキャッシュレスであれ、お金としての価値のあるもの)さえに入ればいいという状況に、現代社会がなっていますから(つまり法律に違反しなければ、お金を稼いだり、手にしたりすることは、その過程が精神的に評価されることはあっても、物理的・数量的に多くしたものが実質的には価値がある・勝ちという実態なので)、賢い人は、労働で非効率に稼ぐより、お金を動かして楽に稼ぐという方法を選択するのも当然なわけです。

これは、モノと精神・霊が切り離されている今の時代だからこそ、そうなるのが当たり前なのかもしれません。

ですから、とても大きな視点で見れば、わがままだろうと、楽に走ろうとする人であろうと、なにがしかの現代社会へのアンチテーゼ、警鐘・警告の現れだと見ると、当人が自覚・無自覚かに関わらず、どの人も役割があるのだと見ることができます。

多くの不自由な人の中で、自由を選択していく人も、不自由な人に自由をもう一度考えさせ、社会変革の兆しとして、影響を与えていると考えることができます。

すべてはバランスではありますが、そのバランスのレベルを向上させていくことが今求められているように感じます。

どの時代も、どの状態においても、バランスは究極的には取れているのかもしれませんが、それぞれにおいて、レベルや次元が異なるのです。

例えば、今の時代のバランスが3段階目のバランスだとすれば、せめてあとふたつくらいあげて、5段階レベルバランスにしたいところです。

別の言い方をすると、自己犠牲を必死にして何とかバランスを取っている段階から、皆がもっと自然体に楽にしても社会全体と生活のバランスは取れているというレベルへの引き上げです。

そのためには、ただライトスピリチュアル的に精神論ばかり述べていてもだめでしょうし、特別な人だけが自由な生活というものを実践していても、それは先述したように、多くの不自由な暮らしを選択している人の犠牲で成りたつもの(結局勝ち組・負け組と同じような構造です)ですから、自由の象徴や刺激としての意味はあっても、皆のレベルを上げる具体論にはなりにくいです。

と言っても、政治家になって具体的な政策などを考えましょうと言っているのではありません。

まずは、今の社会や全体の暮らしにこれでいいのかという疑問を持つことが重要です。ただ従来の政治思想やカルト的なもの、果ては子どもじみた陰謀論からは距離をおいてです。

ちょっと前までは、個人の幸せや心の解放がよく言われていましたが、これからは、全体としての視点も持ち、皆のレベルが向上する暮らしや社会とは何かをイメージしていくことが大切だと思います。

そして、そのイメージの共有と実現性へのシフト(あきらめから可能性、実際性へと変化させていくこと)を目指すのです。

しかし、やはり個としての解放も同時進行で大事で、自分の心を縛り過ぎていては、全体としてのレベル向上のイメージを持つことが困難になります。(自己の解放より社会や全体の解放を先に志向し過ぎると、テロリストのような過激思想にとりつかれたり、すべては外の仕組みのせいだと人任せや、責任転嫁をしたり、虚無感にとらわれたりしがちになります)

また、心の解放の過程では、自分を鍛えるというのと、自分をいじめるというのでは別だという区別も大事です。そこに「自分を愛する」「自分を大切にする」という視点があるかどうかです。(ただ、楽にすることだけが解放ではありません)

精神とモノを切り離さず、モノの背景に心があること、心がモノを動かしていること、この意識も回復していくことも重要です。一言で言えば、失われたスピリチュアリティ(霊性)の回復です。

そうすると、物質だけ、精神だけに偏り過ぎず、統合のとれたバランス性を取り戻していくことができます。

一人ひとりにおいては、よいこだわりと悪いこだわりも分けていくとよいでしょう。

よいこだわりとは、好きなものとか、探求へのこだわりというもので、それをやっていて、周囲に迷惑はあまりかけずの、自分として幸せで楽しいものです。(周りの人も和やかになったり、勇気をもらえたり、知識や技術を与えてもらったりできるもの、または無害なもの)

悪いこだわりは、簡単に言えば、それによってますます自分が不幸になったり、視野が狭くなったり、周囲の人を悪くしていったりするものです。

簡単に言えば、選択の幅を増やすということが、解放につながってきます。

マルセイユタロットでも、現実の世界で霊的な意味を帯びてくるカードの象徴は「恋人」が顕著です。「恋人」の図像は、迷いのようにも見えるカードですが、迷いがあるということは、選択肢があるからこそとも言えます。

ですから、前向きに解釈すれば、選択が増えることが、現実(現状、今の状態・レベル)を超えるきっかけにもなると読めます。

迷いなく決定できることはすばらしいことですが、それは選ぶことがひとつしかないことでもあり、新しい変革はその場合、生まれにくいわけです。

ということで、迷いや悩みから、実はあなたや社会の変容か始まりつつあると見れば、問題もまた別の視点で見ることができますし、一人ひとりの問題・悩みを通して、選択の幅が増えることで、社会の選択肢も増加していくことになり、膠着した時代に変革がもたらされて、もしかすると、社会全体のレべルが上がるきっかけとなるかもしれないのです。

自分の幸せが全体の幸せとどうつながり、関係するのか、交互に思いながら、自己(それはイコール他人でもある)の本当の幸せを求めていく時代が来ているのだと思います。


マルセイユタロット、光の象徴。

アメブロの機能で、数年前に書いた同時期(月)の記事が自分のページにクローズアップされるものがあります。

それによると、私は以前、この時期に「隠者」のカードの光について書いたようです。

ようです・・・って、自分で書いた記事を覚えてないの?と思われるかもしれませんが、私自身は何を書いたのか、過去記事はほとんど覚えていないのです。(苦笑)

このブログは、タロットを見ていて降りてきた内容とか、近辺の日々で思っていたことなどを記事にしているので、自分でも、あまり書いたものは記憶していないのです。

さて、過去記事のタイトルを参考に、今日は「隠者」だけではない、マルセイユタロットにある光について、見ていきたいと思います。

ところで、「」というものを象徴的に解釈すると、統合や完成の状態であると言うこともできます。

ただ、二元論的な概念になりますと、光に対して闇という、対抗や相反するものが出てきます。

これは案外重要なところで、光の象徴を二元としての闇との対比で用いるのか、一元的なもの(状態・究極)の象徴として見るかは、区別しておく必要があります。

多くの人(特にスピリチュアルに関心のある人)は、このふたつを混同して見ている場合があるのです。

今回とりあげる光の象徴は、闇との比較のものではなく、主に統合や究極、完成の意味での光、もしくはそれに至るための叡智や導きのようなものとしてとらえていただきたいと思います。

では、具体的に、マルセイユタロットの大アルカナで「」が描かれているものを見て行きましょう。

数(カードの番号)の少ない順から行きますと、「恋人」における天使(クピド)背後の光、「隠者」のランプ(しかし光自体は隠れています)、「悪魔」の松明、「神の家」での降下する巨大な光、「」での星々の輝き、「」の月の裏に見える光、「太陽」の太陽そのものの光、「審判」の天使の背後の光、といったところでしょうか。

このほかにも、秘伝・暗号的には、実はたくさんの光の象徴性がその他のカードにもあるのですが、これは「秘密」としておきます。実は、いわば、すべてのカードに光の象徴はあると言えるのですが、この場合は、闇との対比の光も含まれることになります。

話を戻しますと、カードに直接描かれている光(見てわかる光)は、先述のカードたちにあるものですが、それをさらに細かく分けてみますと、何かの光芒としての光天体の輝きそれ以外と分類できるかもしれません。

ほかの分け方をすると、天使的なものに付随する光(「恋人」や「審判」の背後の光芒など)、ある人物や存在が手に持つ光(「隠者」のランプとか「悪魔」の松明)、そして天体的なもの自体の輝きの光という見方もできるでしょう。

この中で、異質なのは、光を手に持つ存在と、その光自体ですが、これは先に述べたように、「隠者」と「悪魔」に顕著です。しかし、厳密に言えば、「隠者」の光はカバーで覆われたランタンの中にあると“推測されるもの”で、見た目にはわかりません。

そして、「悪魔」の松明も、マルセイユタロットにおいて、だいたいは赤く塗られており、光というより、火のように見えます。そもそも松明ですから、火と見たほうが自然かもしれません。

この「隠者」と「悪魔」の光の描かれ方からでも、その違いが見て取れますので、それぞれを比較することで、光の与え方、受け取り方の意味合いを、皆さんも汲み取ってほしいところです。

最初に、光は統合や完成、究極、(神性なものの)叡智の象徴だと言いました。それでも、闇と対比される光という二元もあることも指摘しました。

「悪魔」は一般的には、悪い存在として見られていますが、「隠者」よりも数においては上に位置し、マルセイユタロットでは、大アルカナの数の進行が、そのまま自己や全体の成長を示すという伝承があります。

ては「悪魔」の松明の光(火)は、「隠者」より優れたものなのでしょうか? もしかすると闇にも関係するのでしょうか?

そして、「隠者」はその名前の通り、なぜか光をあまり目立たせず、覆いのあるランタンによって、光があるかもしれないという示唆に、その表現を留めています。

目立つものと目立たないもの、自身の道を照らようでありながら、まるで誰かに光を託そうとするかの「隠者」、強烈な火の光によって、周囲を照らし、人々を引き寄せる「悪魔」、このような描写から、光と私たちの関係、そして光を扱うものについて、皆さんも考えてみてください。

それから天使に付随する光芒です。これらも色々と考えることができますが、天使は神ではありませんが、通常の人間より高次な存在と見てよいかと思います。

またその言葉通り、天(神)の使いとして考えれば、私たちに(神としての)光を伝えるもの、与えるもの、指し示すものという見方もできますし、天使側からすれば、天・神のサポートを受けている存在、そのエネルギーや意思を背負っている存在だということを想像することができます。

それらの象徴として、光芒があるものと思われます。

ただ、その光に(人間が)気がついているか、気がついていないか(感じられるか・感じられないか)の違いは、例えば、「恋人」と「審判」では違いがあると言えます。

しかし、天使は光をもたらし、また、光を受けながら活動していることがわかります。ということは、天使を自分の中に受け入れることで、光が入ってくることにもなるのです。

ここでいう「天使を受け入れる」とは、象徴的な言い方です。実際に天使を見たり、存在と会話したりしなければならないというわけではないですし、天使を信じなさいと言っているわけでもありません。

信じる信じないの問題ではないのです。そのような態度は物理的に物事を見る現実認識に囚われている世界のもので、光と天使を受け入れるには、現実的な発想そのものを変えないといけません。(ただし、信じてはいけないという意味でもなく、信じることで存在が生み出されることもあるので、信じていくという方法もあります)

最後に、数のうえでは、「神の家」から「審判」に至るまで、光や光芒が連続していることも指摘しておきます。先ほどの「悪魔」も入れると、まさに15番からずっと続くようなものです。

このうち、天体として星・月・太陽は、占星学的な意味合いも考えることができ、光だけではなく光を放つその天体・惑星の象徴性も加味することができます。

しかしながら、マルセイユタロットの秘伝では、そして占星学上においても、これらタロットに描かれる天体が、、今の天文学による物理的な星々ではないことは言っておきます。

そして、「神の家」です。

これこそが、マルセイユタロット的には、光の神髄と言ってもいいものかもしれません。

この光の描写が、単一の色ではないことも重要です。

ほかのタロットなど、一般的には、むしろ災厄のようにとらえられるこの光とカードですが、マルセイユタロット的には名前のごとく、神の光、天からの光が強烈に降ってくることで、むしろ輝かしい祝福になると見ます。

神の光に包まれることは、どれだけの恩寵であるか想像してみてください。

しかし、それはあまりにも強力であり、それが受けきれる状態でないと、危険でもあるのです。

実際的なリーディングにレベルを下げて、この「神の家」の光を解釈するにしても、個人にとっての強烈な一撃であることでしょう。(予想外のこととは限りません。予想されたものというか、自分があえて厳しくも真実の自分の道を意識的に選択する場合ということもあります)

しかし、光として受け取る場合は、真の成長や幸せに導く、あるいは囚われた思考・感情、状況を打ち砕く、神からのまさしく「栄光」なのです。

グノーシス神話では、私たち人間は、天上(神の)世界の光(神性)、その破片を受け継いでいると言われます。

マルセイユタロットをグノーシス的に見る場合は、自分の光の破片をもとに、世界中に散らばった光をもう一度集める作業を描いていると言えます。

それは、それぞれ(関わる人々や経験)が違う色と光を持ち、それらを交換し合うことで、次第に完成された光へと変容・統合していく過程でもあります。

闇と対比すれは、闇へのコンクエスト(征服)であり、光のクエスト(探求)です。

しかしこの闇は悪いものというより、光を光として認識するための光の別要素とも言え、私たちを純粋な光の世界に回帰させるための役割をもっているのです。

すでにあなたは光の子であり、それゆえに、闇と格闘しながらも光に気づき、引き寄せられ、光に満ちようと生きているのです。


純粋でいること、いないこと。

人は純粋なものにあこがれます。

純粋といえば、混じりけのないピュアのものというイメージがあり、何か「それ唯一」という崇高さも漂います。

極める」ということでも、至高の純粋さと同意義で見られる場合もあります。

ですから、何らかの技術や知識においても、ただ一筋に求めていくということが、いかにも正しい道、清いやり方のように思われる節があります。

しかし、マルセイユタロットで描かれる成長や完成の過程においても、またそれぞれの単独の絵柄においても、そのほとんどは、何かと何かの融合であったり、多彩で多様な要素が見られたりします。

ということは、まさに“純粋な”意味で「純粋なカード」はないことになります。

ここから見ても、私たちはむしろ、純粋ではないほうがよいとさえ言えます。

単純に考えても、私たちが生まれて成長し、死んでいく過程(すなわち人生ですが)において、ただひとつだけとか、単一の要素(ひとつの経験・知識・蓄積)だけで生きられるわけではなく、いろいろなことを体験し、学び、混在して「一人の人間」が存在していきます。

免疫の面でも、多少の雑菌にふれているほうが体は強くなりますし、精神においても様々なシーンを体験していたほうが、折れにくくなる傾向があります。

純粋さは美しいものではありますが、現実の世界では、すでに述べたように、反対に交じりものであるほうが強くたくましく生きられるわけです。

つまりは、純粋さは、古代ギリシアの哲学者プラトンの言葉を借りれば、「イデア」であると言え、現実や実際とは異なる世界にあると見たほうがよいのです。

恋愛で考えましょう。

恋愛の純粋は、いわゆる純愛という言葉で表現できますが、純愛を維持することは実際にはなかなか困難であることは、皆さん承知していると思います。

もちろん、純愛を貫き通す人たちもいますが、どちらかと言えば、映画や小説、物語・創作の世界においてがほとんどでしょう。

結局、純愛は、現実よりもイデアの世界に型があるのです。マルセイユタロットで言えば、「女帝」と「恋人」カードがつながっているようなものがイデア的純愛と言えましょうか。

では、純粋さは必要ないのかと言えばそうではありません。

さきほど、純粋はイデアと述べたように、イメージや想像の世界で純粋さを思えるがために、現実での汚れや、同じ世界・発想で停滞してしまうことを回避できる構造ができるのです。

イデアは、真なるもの、善なるもの、美なるものという定義もあり、いわば、完全で美しい世界なのです。それは、まさしく純粋な神の世界と言えるでしょう。

私たちは、なるほど確かに肉体を持って三次元感覚の現実世界にいます。そこでは純粋さはかえって害(弱体や逃避の要因)となることもあるわけです。

しかしながら、精神と物質を統合し、自分をもっと広い世界に飛翔(霊的に成長することや覚醒することに近いです)するためには、現実意識ばかりにとらわれていては、それこそ籠の中の鳥のままです。

イデアを見る(想起する)ことで、私たちは現実を超えた世界があることを思い出し、そのあこがれに魂を燃焼させていくようになります。鳥は籠の中から外に飛び立てるのです。

言い方を換えれば、今(現実)を超えた理想を見ることで、実は自分の現実を変えることができる(ということな)のです。

恋愛の話でまた例えましょう。

純愛は現実では確かに維持することは難しいかもしれませんが、純愛という理想的な概念(イデア)があるがために、私たちは恋愛を冷めたつまらないものにせずに済みますし、恋愛の相手を尊重し(相手に自分の理想を見ようとする)、より恋の炎を燃やすことができるのです。

これが最初から現実的なことばかりを考えて恋愛に臨んでいたら、恋愛モードにおける異次元感覚(一種の変性意識状態)を経験することができず、恋愛による自己の変容が起きにくなってしまいます。

恋愛における変容とは、一言でいえば、それまでの自分(の世界)を大きく変える、一種の強制的破壊であり、かつ、創造です。

恋愛に限らず、イデアを見ないもの、純粋さをバカにするものは(現実や実際の成果ばかりを重視する姿勢)、実際での一時的・物質的幸せはあるかもしれませんが、心の幸せが少なかったり、何より、常識や今の現実を超えた成長や発展が阻害されたりするおそれがあります。

最初のほうにも述べたように(マルセイユタロットが示唆するように)、混ぜ合わすことで私たちは強くなります。(「節制」の天使の表現)

ただ、それは一時的な作業、プロセスとしてのものであり、本当は純粋さに回帰すると言いますか、真に純粋なものを抽出する、いわば錬金術的作業をしているのです。

ここで言う「金」とは金属・ゴールドとしての金のことではなく、究極の状態の象徴や比喩です。

混ざり合うことで、純粋さはひと時消えてしまうのですが、同時に多要素によってもっと磨かれ、あらゆるものが統合され、光の原理と同じく、白(色のない状態)で例えられる純粋なものに回帰します。

これは「」の概念とも言え、すべてないようですべてある、すべてあるようですべてないという究極状態でもあります。マルセイユタロットでは「世界」と「愚者」が合一した状態として表現されます。

何が言いたいのかと言えば、私たちは現実を生きる中で、まずはこの現実をたくましく泳ぎ、楽しんでいくためには、様々なものを取り入れ、純粋さよりも混交させていくことのほうが求められつつも、イデア(理想)としての純粋さも常に失わず、強さとともに現実を超えたものをやがて志し、本当(一般に言われる純粋さとは別)の意味で、純粋さに辿りつきましょう、ということです。

簡単にいえば、現実的には「何でもあり」でありつつ、精神・霊的には、より純粋でいようとする態度です。

矛盾した言い方になりますが、純粋でいるためには、不純を行使する決意がいるのです。

間違いやすいのは、どちらも純粋であろうとか、どちらも現実的であろうというものです。(責任も取らない子ども的であろうとする態度か、自分を殺して生きようとしたり、人の夢を批判したりして、下手に大人になろうという態度とかです)

目的と手段と言ってもよいですが、純粋な目的のために、手段は濁ったり、混ざったりしてもありなのだという姿勢ていくとよいということですね。

最後に、純粋というものは、本当は決して弱いものではなく、自由になることとイコールであり、だからこそ束縛から離れた強いものであるこも付け加えておきます。


先ごろ、パリのノートルダム大聖堂(寺院)で火災があり、尖塔や屋根の部分が焼け落ちました。

フランスの方々、関係者の方々にはお見舞いを申し上げたいと存じます。

この寺院には、私も以前カモワン版マルセイユタロットのフランス講座の際に訪れたことがあります。

フランス・パリでは有名な建物で、一大観光地でもありますが、いわばフランス国民の精神的なシンボルでもあり、キリスト教の人にとってはフランスの聖地でもあるでしょう。

それが象徴的な形で崩れた(火災による)のですから、フランスの方々、クリスチャンの皆さまには、相当ショックなことだったかと思います。

実は、マルセイユタロットと、ノートルダム寺院やこういった大聖堂(特にゴシック建築様式のもの)とは深く関係していることもあり、先述したように、タロット講義における旅においても訪問するほどの場所ですので、私たち、フランスのタロットを扱っている者にも、衝撃的なことでした。

ヨーロッパ(あるいは南米など)のカテドラルと呼ばれる聖堂に入ると、クリスチャンではない日本人であっても、荘厳な雰囲気を感じ取るができると思います。

私もフランスだけではなくスペインなどでも、カテドラルでは同じような特別な感覚になったのを覚えています。

これには、もちろん、宗教的施設であるので、毎日祈りが捧げられていますし、それが何百年と積み重ねられているわけですから、場としての人々の思念の蓄積に相当なものがありますので、当然雰囲気も敬虔で重厚なものになっているという理由があるでしょう。

ただ、ヨーロッパの大聖堂は、石造りを基本としつつ(これがまたある種の重力・重みを出しています)、上から見ると、形はキリスト教のシンボル・十字架になっており、建てる方向性・方角も決められていて、何よりも、特にゴシック建築においては、その設計・建物様式に緻密で特別な計算と、天上世界(神)を意識させる非常に高い天井と塔の構造になっているのが特徴で、いわば、天と地のコントラストが私たちの通常意識を、天上なる神の意思へと浮上させるような装置になっています。

日本の神社とはまた違った構造で(しかし実は奥底には同じものもあると考えられます)、神(天)を意識させるようになっています。

また、一般にはあまり知られていないかもしれませんが、たいてい宗教的な施設がある場所は、もともと特別なポイントであることが多く、ある宗教の前に信仰されていた土着の宗教や、征服される前の民族の神が祀られていた場所であることが普通です。

ですから、ノートルダム寺院の建物の下には、別の宗教の神が眠っている可能性も高いわけです。

さて、今回のノートルダムの火災について、タロットを展開してみたのですが、これもまたさすがに驚くような内容てした。

すでに、私の学習グループでは、その展開を見てもらって、皆さんに感想を述べていただきましたが、おおむね、皆さん、似たような意見でした。

全展開を披露することはあえてしませんが、基本のスリーカードだけ記すと、向かって左から17の「星」、真ん中に16の「神の家」、右に15の「悪魔」で、すべて逆位置でした。※なお、今回は正逆を取る技法を採択しており、逆位置は問題状態として現れます。

これを見れば、事の深刻さ・重大さと、タロットそのもののすごさを実感できると思います。

当たり前ですが、展開において何も私は操作していません。「ノートルダム寺院の火災について意味するところ」というテーマで、ただタロットをシャッフルし、展開しただけです。

ブログをご覧の皆さんは、カードを見てどう思われるでしょうか。

ノートルダム大聖堂は、ヨーロッパで、いや今の世界の標準ともいえるキリスト教(特にカトリック)世界観の宗教施設です。

そのシンボルであるラテン十字のクロスする部分、つまりは尖塔のところが焼け落ちました。

キリスト教を批判するものではありませんが、世界のあり方として、キリスト教をバックにした国々、勢力がやってきことの功罪はどちらも大きなものがあります。

ノートルダムとはフランス語で、「われらが貴婦人」という意味であり、狭義的には聖母マリア様を意味すると言われます。

しかしながら、聖母信仰のその源には、女神、大地、女性性の癒し、包み込み、和する、崇高で偉大なエネルギーの象徴性が存在します。

すでに述べたように、ノートルダムの地下には、(組織的・支配的には男性的な)キリスト教の下で眠らされた何か大きな女性性的なエネルギーがあるのかもしれません。

奇しくも、日本では「令和」という音的には霊和ともとらえられる時代が始まります。

ノートルダム寺院の火災はすべてが焼失したわけではありません。重要な遺産や、中の十字架、バラ窓などは幸いにして残りました。

見ようによっては、屋根という覆いがはがれ、中身そのものがむき出しになったと言えます。(そして残ったものも逆に明確になっています)

それは象徴的にはどう言えると、皆さんは思うでしょうか?

普通に物理的に見れば、ノートルダム大聖堂の火災も、何らかの事故による火災です。そこに象徴的なほかの意味を見るのは各人の自由であっても、そういう理由(想像する象徴的な意味合い)で火災が起こったわけではないと考えるのが科学的な態度でしょう。

しかし、フランスの人にとっては、単なる家や施設が焼けたというものではないのは明白です。世界的に見ても大きな事件です。

やはり、人は物理的な見方だけではない精神的・霊的な意味を、起こったことに対して見ようとするものです。

何かが失われるということは、人や生物だけではなく、モノや施設においても、私たち人間は思いを感じます。(ましてや、親しい人、身近な人を失った場合、どれほどのショックがあるのか想像に難くないでしょう。それが突然であればなおさらなのです)

一方で、すべてのものは生々流転、創造されたものはやがて破壊、死滅へと移行していきます。それが世の理です。

形や現実にあるもの、存在している状態を強く願ったり、また逆に、存在していることが当たり前で、ほとんど意識することがなかったりした時、それを失った場合には、とても強烈なショック、悔恨が来ます。

それでも、形や実際ではなく、精神や魂、エネルギーとして見れば、それは永遠であり、分離や消滅もしておらず、自分と結合・統合していることにも気づきます。

失うことは、矛盾のような話ですが、逆に失っていないことを私たちに意識させるのです。

それが、マルセイユタロットでいえば深い意味で、「審判」のカードの示唆するところともいえるでしょう。

“ノートルダム”の再生、復活を期待いたします。


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