カードからの気づき
現実での移動、ふたつの地点
マルセイユタロットの「節制」のふたつの壺と水にも言えるかもしれませんが、「ふたつの世界」の混交・交流というのが確かにあると感じます。
この「ふたつの世界」というのは、スピリチュアル・心理的には、意識と無意識の世界、見える世界と見えない世界、物理的な(ことが中心の)世界(観)と精神・霊的な(ものが主体となる)世界(観)というのが、このブログを読んでいるような人には想像されると思います。
しかし、現実的な意味での、ここの地点とあそこの地点(こちらとあちら)、A地点とB地点というような言い方も、もちろんできます。
私も含めてですが、この現実的なふたつの世界(地点)についての視点のことが、意外に欠落している(ほとんど意識されない)のに気づきます。
私たちは、日常的に、無意識と言いますか、それほど自覚なく、流れ作業のように、今いる地点と、これから向かう先の地点(移動先)を動き続けています。
毎日の出勤もそうですし、もっとミクロで言えば、家の中とか、職場の中においても、細かく言えばきりがないほど移動しています。
さらにもっとミクロに見ると、腕や指、足も動かしているわけですから、つまりはじっとしていることなどありえないということです。たとえ寝たきりでいようが、肉体の何かがわずかでも動いていることは確かでしょう。
タロットでは、「吊るし」という停止を象徴するカードもありますが、このカードも宙づりの状態にあり、もしかすると、微妙に風にゆらめいて動いているのかもしれません。
そこから考えると、私たちは完全停止ということはありえないのではないかと思います。移動というテーマで言えば、いつも移動していて、同じところ(同じ形)が永続していることはないわけです。
マクロで考えてみても、私たちは地球の上にいるのであり、地球が自転し、太陽の周りを公転しているとなれば、じっとしているように見えても、これまた実は常に移動していることになります。最近、よく言われるように、太陽自体も何かの周囲を回っているともし考えるのなら、地球も(太陽系自体)、前と同じ場所にはいないことになります。
こうして見ると、私たちは、まるでタロットの「愚者」のように動き続ける(移動し続ける)存在であることがわかります。
しかし、そんな動く私たちでも、常識的な感覚で言えば、どこかには必ず(一瞬でも)落ち着いている場所や時間というものがあります。それは移動する前の地点です。
細かく言えば常に動き続けている私たちでも、感覚としては、「ここ」から「あちら」というように方向性があり、移る前には、停止している場所、留まっていると感じるポイントがあるのです。
そこが、「現在」「今」と感じる場所であるのもわかると思います。
ところが、その場所も、実はマクロな意味、あるいはミクロな意味で動いていることがわかりました。すると、私たちの「今」というのは、どこにあるのでしょうか?
結局、文字通り、今いる場所、今自分が止まっていると思える場所こそが今という感覚になりますよね。
スピリチュアルな世界では、時間は「今」しかないとか、今この瞬間が大事だとか、今にすべての創造があるとか言われます。
では移動している時というのはどんな時間・状態なのでしょうか?
場所が動いていますから、「今」とは言えない気がします。
それでも、例えば電車に乗って移動していれば、自分が止まっているように思う場所、つまり電車の中にいる自分の場所が今であり、時間(と場所)は移動しているものの、今・この瞬間は電車の中にあるという不思議なことになります。
もしスピリチュアル的な人が言うように、時間が今しかなく、今にすべてが創造されているのなら、電車の中の例でいうと、電車の移動も、周囲の風景も疑似的なものであり、自分のいる場所の瞬間瞬間こそが実在みたいになってきます。
別の面白い言い方をすれば、電車が移動するごとに、景色がその都度創造されているようなものです。それもあなたの意識が外に向けられた瞬間のみですが。(笑)
よーく考えていくと、本当は移動もないのかもしれません。
電車の例えが出たので、また電車のことで示しますが、乗っている電車と同じ速度の電車が外に平行して走っているのが見えれば、あちらの電車に乗っている人と自分が、まるで動いていない、止まっているように感じますよね。
でも実際は、どちらの電車もかなりのスピードで動いているわけです。
これと少し似たような話で、もしも自分が動いているのではなく、景色のほうが動いているとすればどうでしょうか?
自分自身はただその場で足踏みしているだけで、周囲の景色が映像のように動いていく感じを想像してみてください。
すると、おそらく、ものすごいリアルな景色(映像だけではなく、音とか雰囲気とか、匂いとかもリアルなもの)の場合、自分が本当に移動しているような錯覚を起こすのではないかと思います。
最近のバーチャルリアリティの世界はかなり発達してきていますので、自分はただ装置をつけたり、そういう仕掛けの中にいるだけなのに、世界を旅行したり、とんでもない経験をしていたりするような感覚になります。
話を戻しますが、結局のところ、自分の肉体の場所というより、自分が思う意識のうえでの「ここ」というポイント・地点が重要なのではないかと思います。
今・ここが大事だと言われるのも、意識がここを決めるからで、「ここ」がまさに自分の世界の中心になっており、「ここ」は動いておらず、周囲のほうが創造的に移動している(ように見える)からだと感じます。
唯心論の立場からすれば、心が世界を創っていることにもなり、そこまで言わなくても、自分の今・ここという感覚が周囲に関係すると言えそうで、その意味では、やはり自己が自己たる感覚、土台、確立、確信が重要となり、思いが世界を変えるにも、しっかりとした自分中心感覚が必要であることがわかります。
言い換えれば、逆に、移動する感覚に振り回されないこと、どこにいても「ここ」であり、世界は自分の中にあるという感覚に近いものでもあるでしょう。
例えとしては変ですが、巨大な自分と、小さな自分が常に回転しながら同調しつつ、巨大な自分が小さな人形のような地図上の小さな自分を動かしているような感じです。
ですから、物質と霊というふたつの世界の見方の前に、現実の中にも、ふたつの世界がすでにあり、私たちはその間を行き来しているようで、実はしていなく(笑)、「節制」の壺の水のように、交差している真ん中の地点にリアリティを感じているという話です。
結局、現実のふたつの世界(ふたりの自分とも言えます)も、「霊と物質」のようなふたつのことと同じなのだと思います。
今回の話は、私自身も気づき始めたばかりのことで、まだ完全にうまく説明することはできませんが、本当はシンプルな話で、今いる「あなたのそこ」「私のここ」がすべてを回しているような話なのです。これは「運命の輪」や「世界」のカードとも関係してくるように思います。
皆さんも、時々、立ち止まっている時、動いていない時の自分と、移動している時の自分、目的地に到着した時の自分などに、意識をそれぞれ向けて見てください。
動いているのは物理的には自分ではありますが、本当にそうなのか、移動しているものは肉体と言えるのか、特に移動している時の「今」「ここ」「私自身」はどこにいるのか、考えてみるとよいでしょう。
こうなると、マルセイユタロットで言われる「愚者」と、そのほかの21枚の大アルカナとの関係性も、また、とても興味深いものとなります。
ふたつの悪魔
マルセイユタロットの「悪魔」のカードは、読みにくい(意味が分かりにくい)カードかもしれません。
特に、タロットカードに吉凶判断や、いい・悪いをあてはめて解釈する人には、「悪魔」という名前と、一般的な感覚からして、なかなかフラット(中立)に見たり、ポジティブに読んだりすることはできないでしょう。
これは「名前のない13番」のカードにも言え、こちらのほうは、絵柄の印象がネガティブなものを想起させる感じです。
一方、「悪魔」は、上述の通り、悪魔という一般イメージそのものが、このカードに、いわば、悪いもの、悪意のようなものを見てしまうからネガティブになりやすいと言えます。でも、「悪魔」の絵柄自体は、13よりも強烈ではなく、むしろ愛嬌があるくらいではあります。(笑)
とはいえ、「悪魔」のカードが何を表しているのか、やはり悪魔だけあり、このカードはなかなか一筋縄ではいかないものがあります。
「悪魔」に、ネガティブなイメージが一般的にあるのは当然ですから、無理矢理ポジティブに読もうとせず、そのまま悪い印象を受け入れて見ることで、理解を深めることができることを紹介いたします。
さて、皆さんは悪魔(カードの「悪魔」ではなく、悪魔という言葉)にはどんなイメージがあるでしょうか。
人をそそのかし、悪いことをさせる存在、欲望を焚きつけ、堕落させる存在。犯罪や戦争など、人類のネガティブなものを操作する存在・・・いろいろ一般的にはありますね。
結局、一言でいえば、悪いことと結びつく存在です。
ところで、悪いというのは、逆に、よいこと、正義という概念があってのことです。正義と悪という対比でよくされます。
面白いことに、「7」という霊的成長の段階を示すと言われる数をもとにした場合、マルセイユタロットでは、「正義」が8で、これの7段階あとが15の「悪魔」となっています。ちなみに、「正義」の7段階前は1の「手品師」で、大アルカナの数では、「愚者」を除いて最初の数のカードになります。
タロットカードは、人類全体としての象徴の型を示すと同時に、それゆえ、個人一人ひとりの心理構造のような、見えない世界をも象徴します
そこで、「正義」と「悪」というものを個人の中に見た場合、これは誰しも持っている価値観のようなもの、信念体系になっているものと言えます。
全員、自分の中において、「正しいこと」と、それに対比される「悪いこと」の区別・考えがあるはずです。(これは、逆もそうで、悪いと思うものがあるから、いいもの、正義と思うものもあることになります)
ただし、一人ひとり個人で見た場合、その区別や線引きは、まったく同じ人がいないのも確かでしょう。すなわち、悪魔は(正義も)誰しも同じでないのです。
あなたの心の悪魔と、相手の心の悪魔は別なのです。しかしながら「悪魔」としては共通しています。
一人ひとりの中に住む悪魔、これはあなたが思っている「悪」というものの概念(というより観念や信念に近い)の権化と言えます。
さきほど言ったように、悪は正義と一対のものになりますから、あなたの正しさ、よいと思うものも、あなたの中に同時に住んでいます。ただ、マルセイユタロットの数的な象徴性から言えば、むしろ、悪(悪魔)が正しさを規定していると言ってもよいのかもしれません。
従って、あなたの悪魔が非常に(あなたの考え方や行動を規定するものとして)大事になるのです。
悪魔はあなたの中の正しさの裏返しであり、正しくあろうとするものに対して、反抗やレジタンスを担う存在でもあります。
あなたがあなたの価値観で正しくあろうとすればするほど、または正しいと判断(ジャッジ)すればするほど、反対の振り落とされた悪いもの、「悪」は、あなたの中に潜在的に蓄積されていきます。
本来、あなたの線引き・価値観を取り除けば、判断される物事というものは中立で、よいも悪いもありません。別の人からすれば、そのことは、あなたの反対のことと判断されるかもしれないものです。
ということは、本質的には中立で、どちらでもない(どちらでもある)ものが、白黒のように分けられると、元のひとつに戻ろうとする働きも起こるのではないかと予想されます。
あなたが切り分けた悪と正義も、ひとつのどちらでもないものに結合しようと、いつかは動くのかもしれず、その時、かつてふるい落とされた「悪」側のほうは、その存在を主張するために、何らかの形で現れる(アピールされる)ことになるでしょう。
物語風に言えば、魔王の復活であり、正義に対して、戦いを挑んでくるみたいな話です。
勧善懲悪のストーリーでは、悪(魔王)は正義(の味方)に返り討ちにあい、めでたしめでたしとなるのかもしれませんが、そんな単純な話ではスカッとするだけで、話や人間性に深みがないのは、ご承知の通りです。
むしろ、悪が一時的に正義を支配し、時には今まで正義と思っていたものが悪で、悪にも理由があり、見方によっては正義にもなり得、さらには正義と悪が統合されて、新しい考え・境地・世界に至るというほうが、物語的にも面白いです。
悪魔を中心として見ると、あなたか悪いと思って避けていたもの、見下していたもの、あるいは、本当は魅力を感じたり、そこに大きなエネルギーを見たりしていて、しかし、それに引き込まれるおそれ(強大なので翻弄される危険性があること)によって、あえて拒否していたものが「悪魔」にあるのです。
正しいと今まで信じてきた世界に自分を押し込めてはいたものの、次第に狭い世界に自分がいることに気が付いてきて、悪魔の呼びかけが起こっていることに悩みながらも、殻を破ろうという力が出できます。
だいたいにおいて、自分にとって正しいと言われている世界は、誰かから押し付けられた信念・ルールであることか多く、それは依存や幻想でもあるのです。
「悪魔」自体、依存性や幻想世界への囚われを象徴するカードですが、逆に、私たちが誰かからの「正義」によって、悪魔につながれたことと同じようにされている(している)場合もあるのです。
その意味においては、「悪魔」は解放者となります。
要するに、「悪魔」は、あなたの正しくあろうとするものの破壊者であり、救済者でもあるのです。
そのレジンタンス性は、正しさの世界ではテロリストみたいなものにも見られるかもしれませんが、あなたの信じる狭い正義のために、あなたが窮屈になって、自由と自立心を失っている状態へ、強烈なカウンターとして、悪魔があなたを救いにやってきているのです。
その時は、あなた自身が悪魔になります。
それまでは、あなたの中に、別の悪魔がいるかもしれません。それはある面では、あなたを支配する存在で、もしかするとあなたのあこがれであったり、あなたに強い影響を公私ともに及ぼしている実際の人、あるいは体制とか組織かもしれません。
その「悪魔」は、あなたを保護してくれますが、あなたを利用しているか、あなた自身がその人に支配されたり、依存していたりすることも考えられます。
それでも、居心地はよく、あなたも正しい世界、安心できる世界にいると思っているでしょう。
もし、どこか今の世界に疑いを持ってきたり、今まであこがれていた人、安心だと思っていた状態に対して、何かしら疑念のような変化の心が出て来たりしたのなら、あなたの中にある「悪魔」が存在を主張し始めたのかもしれません。
こうして、ふたつの「悪魔」によって、あたたは成長していくのです。
選び、選ばれる存在 生きる価値
私たちは本来、何者でもないのだと思います。
これは色で言えば、色がない、ある特定の色ではないという意味に近いです。
つまりは、個性がないということです。しかし、それはまったく何もないという「無」の状態ではなく、限定した個ではないという意味で、言い換えれば「すべてある」「すべての個が含まれる」というものです。
要するに、「すべて」だから「ひとつの限定した者」や、何か「特定なものである」と言うことができないのです。それが「何者でもない」という意味です。
しかしながら、現実世界で生きると、個性を誰しもが持つことになります。そもそも肉体としての姿かたちが、もうすでに個性(一人ひとり違うもの)ですから、当然です。
従って、現実世界では、「私は何者なのか?」ということが、まさにこだわりを持って追求され、語られます。それ(個性)こそがひとりの人生と言ってもいいかもしれません。
人と違う人生を生きている、私は私であるという実感を強く持てれば、その人(の人生)は充実するのですが、皮肉なことに、人との違いは競争や比較をもって見られることが多いですから、優劣、持てる・持てない(モノや人気)などの感情を持つことも普通になります。
そして、それにより、自分が他者より劣っていると感じたり、無個性(強い個性をいい意味で自覚できない、持てない)を感じ、自分の人生がつまらないもの、取るに足らないものに思ってしまうきらいもあります。
強い個性のためには、人と違わなければならないわけで、多くの場合は、それはポジティブな賞賛を勝ち取ることで得ようとしますが、中にはネガティブな評価や見方をされることよって、それ(個性)を得ていく人もいます。
後者では、犯罪などの潜在的要因になっていることもあるのではないかと思います。
さらに、日本では、むしろ個性を出すことより、皆と同じでいることが無意識のうちに強要されるような社会でしたので、その矛盾性はねじれとなって、深層心理に根付いているのではないかと思います。精神を病む人が多くなるのも当然かと思います。
それでも、時代が進むにつれ、自分から発信することが容易になってきましたので、個性を出すことが、昔よりかは機会もツールも多くなったと思います。それによって、個性を出したくても出せない人や、個性がないと思っていた人が、今は生き生きとしている場合も増えました。
その反面、個性を認めてくれという承認欲求的なものも過度に膨れあがり、個性の表現と承認の応酬が激しく繰り返されている状況でもあります。
もちろん、そうしたもの(応酬パターン)に入らず、淡々と生きている人もいるでしょう。ただ、個性を出しやすくなった分、そんな中でも自分の個性を表現できない、他者から個として強く意識されないというのは、以前よりも深刻になり、自分の価値を小さく感じている人も、かなり多いのではないかと推測しています。
先ほども述べたように、この現実世界では、いかに自分に個性があり、人と違った「自分(他者と違う自分という存在)らしい人生」が過ごせるかによって、充実度が決まると言ってもよいので、自分の価値(個性としての)がないと思えば思うほど、自分の人生の意味は薄く、生きている実感も弱くなります。
セラピーなどでは、自己の価値を高めること、自尊の大切さが謳われますが、それは確かにそうではあるものの、こういう個性こそが現実みたいな世界のシステムの中では、自己の無価値観、空虚さが出やすくなるのも、致し方ないところがあると思います。
まあ、逆にいえば、だからこそ、自尊ができる、自己の価値を取り戻せるセラピーというものが、普通の人にとっても大事になりますから、生きづらさ、空しさを感じている人は、自分の価値を高めるためのセラピーや心理療法を受けるのはよいことだと思います。
そして、セラピストや人の相談をしている方は、その個人の悩みや問題を解消するだけではなく、実は、そうした人々へ自分自身の存在価値を高める仕事をしているのだと自覚することも重要です。
これは私の考えですが、個人の特定の問題や悩みも、その人の個性を訴えているものであり、言ってみれば、「私はここにいる」「私は生きている」「私は無視される存在ではない」「私はよく生きたい」というものの現れでもあると思っています。ですから、その訴えを解決するのももちろん重要な目的ですが、何よりも話を聞くことが大切なのです。
さて、もうひとつ、こういう現実のシステムの中で、少しは楽になる方法があります。
それはマルセイユタロットでは、「恋人」カードが示すものです。
このカードでは、三人の人物がいて、真ん中の人が、どちらかの女性を選ぼうとしているように見えます。
このことから、「選択」というキーワードも出るのですが、これが私たちの人生を形作っていると言えます。すなわち、私たちは、毎日、一瞬一瞬、あることを選択しながら生きているわけで、特に人間関係の、選び・選ばれで、自分の人生の色合い(彩)が決まるようなものと言ってもよいでしょう。
私たちは、生まれるのも親のもと(親たち自身の選択)からですし、誕生以降、関わる人によって、自分の存在も決められてきます。もちろん、自分の意志はありますが、まったく人に無関心、関わりなく生きられる人は、特に現在では皆無と言っていいでしょう。
そして、これまで述べて来た、個性が人生という(他者評価と自己評価が結びつくシステムの)意味においては、選ばれる・選ばれないとう視点が出てきます。
つまり、選ばれる自分こそが優れている、よいことだと思うようになるわけです。たとえ自分が選ぶのだとしても、相手がそれ(選ばれたこと)を受け入れないと双方向にはなりませんので、結局それは、相手から選ばれるかどうかという意味にもなるわけです。
こうして、自動的に、私たちは、選ばれるという意識を強く持つようになってしまいます。しかし、当然ながら、選ばれることがすべて自分の希望通りには行かないのが現実でもあります。むしろ、自分が選ばれることのほうが少ないと言えます。そのため、自分から選ばれるように、アピールする人もいるわけですが・・・
この仕組みを理解したうえで、「恋人」カードの上部に描かれている天使(キューピッド)を思います。この位置は、三人の人間たちとは違い、俯瞰した視点になります。言ってみれば、選ばれる・選ばれないの次元ではないのです。
この天使的視点を持つと、一番最初に書いた「私たちは何者でもない(裏を返せばすべてである)」という状態を思い起こすことができます。
天使目線になると、選ばれる・選ばれない、選ぶ・選ばないという人間たちの行為が、言い方は軽いものになってしまいますが、一種のゲームのように見えて来るのです。
選ばれることが大事ではなく、関係性そのものが自分の色をつけ、さらには色を変えていることがわかってきます。個性は色付けもされ、脱色もされ、さらに塗り替えもされるのです。
「何者でもない」のは、実はもう「何者でもある」ということと同意義であるのだと気づいてきます。
あとは、この理不尽とも皮肉ともいえる現実システムの中で、いかにゲームを楽しむか、味わうかになります。
否応なく、ゲームの世界に来ているのですから、イベントに参加しているのに、自分は無視を決め込むというようにしていても、もったいないと言いますか、それではますます空しくなるばかりです。
天使の視点を持つということは、傍観者になれと言っているのではないのです。ゲームに放り込まれたら(あるいは進んで参加したのなら)、ゲーム設定の世界を味わうしかない、それ(ゲーム)をしたほうが面白く過ごせるのは必然だということです。
ただし、もうひとつ道があります。ゲームであると知ったのなら、ゲームをするのではなく、ゲームの仕組みを解き明かす、ゲーム世界からの脱出(可能かどうかはわかりません、通常は死をもって一時離脱となりますが)を目指すのも、ひとつの楽しみ方(笑)でしょう。
話を戻しますが、結局、個性というものは、この現実世界においての特徴的システムであり、それは仮のものでもありつつ、人間関係のつけ方によって、結構可変的に組み替えることができるのだと思えば、個性を他者からの評価によってもらうループ地獄に、はまり過ぎることは少なくなるでしょう。
心理学的、あるいは霊的に言えば、セルフアイデンティティ(自意識)は、他者評価がすべてではないということであり、もうひとつ、「別意識」によってもセルフアイデンティティは構築されていることに気づくという点です。
その別意識とは、「恋人」カードでは、天使に描かれている領域であり、他者視点ではない世界、つまり、自分の奥(本当の自己)の世界、霊的な空間といってもいいものです
古代や伝統的な社会では、それは神聖なものや神と呼ばれるものでした。従って、昔の人は、聖域や神聖な場所を、日常と並行して持っていたのです。
こうしたところにつながる機会を持つことで、私たちは他者目線の世界で自分が評価されるオンリーの仕組みから、逃れていたと言えます。いわば、自分で自分を評価する世界観です。(高次の自己が、低次の自我を統合していく瞬間)
すると、生きていることと生かされていることの両方の感覚が出てきます。
また、現実世界においても、選ばれることで誰しもが自分の評価を得ているのなら、あなたが誰かをよい意味で選ぶことで、その人が個性を自覚し、生きる実感を増す(自己価値を増す)ことかてぎます。しかし、現実的・物質的価値に傾きすぎた打算的な選び方では、それは脆いものとなるおそれがあります。
「恋人」カードの天使の矢のように、天使的な、いわば愛の視点で相手を選ぶと、それは強い絆となり、相手にとっても自分にとっても強い個性をもたらすことになるでしょう。
何者でもなかった者が、相手にとってかけがえのない確かな存在、愛する人、愛される人となるのです。色がなかった人に、生き生きとした色がつくようなものです。それはよく例えられるように「バラ色」と言えるかもしれません。
恋をすると世界がカラーになり、生き生きとするのには、そうした理由があるとも考えられます。
他者から求められ、評価される世界の喜びも味わいつつ、それがたとえ少ないものであったとしても、天使目線でいると、人や社会との関係性そのものが自分の個性を作っていると見えてきて、その選択のゲーム性を楽しむことができるでしょう。
生と死の世界の考察 救済システム
マルセイユタロットを見ていると思います。
平板(停止のような)な世界と波(動き)のある世界があるのだと。
これは言わば、死後の世界と生きている世界の関係なのかもしれません。
ただ、おそらく、どちらにあっても、動きのある状態とない状態というのは、それぞれの世界なりにあり、しかしながら全体的に見れば、やはり現実の「ライブの世界」のほうが流動的で変化が多いのは想像できます。(死後の世界があるという前提ではありますが)
聞いた話によりますと、死後の世界は本来穏やかで、あまり変化のない世界と言われていますが、生きていた時代に強く執着したり、死を受け入れられなかったりすれば、ほとんど生きている時と同じような状態の世界に住むとの話があります。
これは自分で(カルマ浄化のために必要な)世界を仮想的に作り出す場合と、現実の世界に彷徨う場合とがあると言います。
言い換えればそれは、本当に行くべきところ(例えると成仏したあとの世界)に行っておらず、何かしら別のところに留まってしまっている状態と考えられます。
この留まりの世界は、先述したように、自分が作り出す仮想的な狭間の世界の場合と、そこにすら行けず(創れず)、現実世界のままに死を自覚できなくて、あるいは自覚していても強い執着があって、いわゆる地縛霊・浮遊霊として留まってしまうのでしょう。
どちらにしても「霊体」として存在し、生身の体はなくなってしまうわけですから、特に物質的実感を得ることが困難になると思われます。ただし、自らが作る仮想空間に留まっている場合は、すべてがバーチャルなので、実感に近い感覚はあるかもしれません。
現実空間にいる霊体が、もし執着望みが物質的な実感を伴なわなければならないものであるのなら、それを味わうことができなくなるので、満たされることはできず、飢餓感ばかりが感じられますから、それは地獄と言っていいのかもしれません。
物質的な感覚だけではなく、感情や気持ち的なことでも、生きている人の世界、つまり現実の人に自分の存在や思いは伝えようがないので(特別な方法はあるのでしょうが)、これも苦しいままになるのではないかと思います。
あえて科学的に考えれば、死後は生きている時の存在状態から変化するのだと想像され、分子・原子とか素粒子レベルで見ていくと、すべてのものは同じながら、振動状態などの違いにより、固体で三次元感覚(表現)中心の現実世界では、霊体のような状態になると、固体と気体の違いのようなもので、まさに表現世界も違って、生きている時の感覚とは異なってくるのは当然だと思えます。
結局、自分の状態を真に認識する、理解することが、成仏の近道なのかもしれません。しかし、現実に生きている時の私たちもそうですが、案外、自分の過ちと言いますか、誤認、思い込みを正したり、解除したりするのは、難しいことです。ましてや、世界・状態が違うとなおさらでしょう。
現実世界では他人が固体として実在する感覚がありますから、他者からの影響、働きかけ、交流で、思い込みを解くことが可能です。
ところが、霊体になってしまうと、他の霊体も存在するでしょうが、より現実世界より精妙になり、自分と異質なものは見えないと言いますか、感じられなくなるのではないかと思います。よって、ひどい場合には、自分ひとりしか霊体として存在していない感覚のようになってしまうかもしれません。
誰かにコンタクトを取ろうとしても、状態の異質性によって気づいてもらえず、また誰かからのコンタクトにも気づくことができないおそれが強いです。これもある意味、地獄でしょう。
それでも、例えば日本では先祖供養などあるように、昔の人は、伝統的に、状態の違う存在たちに対してコンタクトできたり、影響を及ぼせたりする方法を知っていた(知らなくても儀式として伝承させていた)と考えられます。
ほかに、現実世界でも、霊体の世界を認識できる(つなげられる)特殊な能力者もいますので、そうした人の手を借りる場合もあるでしょうし、生身の人間本人が自覚なくても、心霊的に波長が合う人には、霊体側から憑くなどして(そういう人は霊体側からすれば、存在を感じ取れるのだと思います)、コンタクトしようと試みることもあるのかもしれません。
さて、現実世界に留まらざるを得ない霊体とは別に、成仏の前に、自分でこだわりをなくすための仕掛けを作り、そこで自己浄化を果たすこともあるのではないかと書きました。現実と成仏世界との間に、自分のカルマに応じた別種の世界を創造するようなことです。
これは人によって異なりますから、まさに、千差万別、それぞれの世界が生み出されていると言えましょう。
中には、自分の理想や願望を満たすための現実と変わらない世界を創ることもあるでしょうし、自らの苦悩、後悔などがあって、それが浄化されていない場合は、その設定を再現する世界を創造するかもしれません。天国のような世界とも言えますし、反対に地獄のような、その人自身しか経験しない不思議なバーチャル世界と言えます、
それでもこれは疑似(バーチャル)世界なので、自分の目的が達成されて、疑似であることに気づけば、成仏空間へ昇天していくのだと考えられます。ですから、この疑似的な創造空間は、それまでの、一種のモラトリアム空間(世界)と言えます。
このようなものが本当にあるのかどうかはわかりません。本で読んだり、人から話を聞いたりしてイメージしたものです。
また、創作の世界、特にアニメには、このモラトリアムの世界を描ているものが少なくなく(例えば「Angel Beats!」など)、もしかすると、そうした世界の記憶やシステムを、イメージの世界から情報として受け取っているのかもしれず、創作物に接していると、実在性を感じることもあります。
ここで最初の話に戻りますが、固定された状態というのは、このように地獄(人によっては偽物の天国)でもあり、そこに何らかの動き、流動性が生じることで、救済の可能性が出てくるということです。
いわば、違い(同じことが続く中でのイレギュラー)が救いを呼ぶのです。ところが、矛盾するような話ですが、異質(違い)過ぎると、そもそもコンタクトや交流ができず、存在さえ認識することができなくなるのです。
従って、救いのためには、何らかの形で異質なもの同士を同調させる仕組みが必要となります。(マルセイユタロットでは「節制」の象徴性)
言ってみれば、携帯電話を通して別の場所にいる者同士を会話させたり、翻訳機(通訳者)を通じて、違う言語同士を訳したりするみたいな話です。または、見えないものを形にする工夫、例えば絵にしたり、音にしたりするようなこととも言えましょうか。
生の世界と死の世界、生からすると死んだら終わりと思われがちですが、ふたつの世界をシステム的に思えば、両方の世界の必然性も見えてきます。
そのひとつが、今述べた、救済のシステムです。(成長のシステムと言い換えてもいいです)
生の世界、つまり生きている現実の世界は、常に流動する変化の世界で、逆に、死後の世界は、モラトリアムであれ、成仏的な世界であれ、どちらかと言えば、本質的には同じ世界、固定された世界と言えます。
一見、現実世界のほうが残酷に見えますが、もし、死後、ある状態で変化もなく、延々と同じことが繰り返されるのならば、「涼宮ハルヒの憂鬱、エンドレスエイト」の世界ではありませんが(アニメネタばかりで恐縮です・・・)、非常に退屈で、人によっては地獄になります。(繰り返しが平穏であれば、人によっては天国でもあると言えますが、ずっと続くと飽きてしまうでしょう)
その状態に救いをもたらすのは、ライブの世界、変化のある現実です。だからこそ、私たちは輪廻転生するのかもしれません。
逆に、変化や動きが多すぎても疲れてしまいます。ドキドキワクワクは楽しいかもしれませんが、悪く言えば、ハラハラの意味でのドキドキもあり(笑)、現実世界はなかなか気が休まることがありません。この世は生き地獄という人もいるかもしれず、生老病死、苦しみはつきものです。
そこで、死、死後の世界という固定的な世界に移行することで、私たちはひとときの平穏や浄化を経験します。そうして準備ができれば、あるいは退屈すれば(笑)、また現実の生の世界へと旅立つのでしょう。
これは、まるで、タロットで言えば、「愚者」の旅をしているようなものです。
マルセイユタロットでは、「愚者」が私たち自身を象徴し、一枚一枚、カードごとに体験の旅をしているという考え方があります。よく見ると、カードもまさにいろいろ、同じものがなく、これらの象徴を体験することは、変化そのものと言えます。
ただ、そうしたいろいろなカードたちではあっても、ある性質に分類することができます。それが大きくはふたつになります。
すると、ここでも、固定と流動、穏やかさと激しさ、光と影のような、二種の経験があり、旅が円滑に進むよう、活動と休息が交互にやってくるよう、設定されているように見えます。
さきほど、生と死の世界で、救済や成長のシステムが行われていると述べましたが、それをタロットに持ってきますと、タロットの描くところ(「愚者」の旅)は、現実世界だけではなく、死後の世界も象徴しているのだと思うことができます。
生と死というシステムの中では、私たちは両方を実際に体験する必要があるのですが、もっと別の、大きな宇宙的進化の視点で見れば、もしかすると、この生と死も統合されて、また新たな状態の二分による成長や救済のシステムに移行していくのではないかと思います。
カルマ的な表現で言えば、人類全体の旧カルマの浄化を終え、新しいもの(新しい形態の人類、存在)に変化する行先です。
もし進化した宇宙人や天使のようなものがいるとすれば、それは、私たちの今までの生と死の状態を超えた存在になっている者ではないかと想像します。
マルセイユタロットも、生と死の世界を描くだけではなく、それを統合した新しい状態を示唆していると考えらます。生と死を超越すれば、それは永遠の世界(命)で、いわば神でもありますが、その神にもレベルや段階はあるのでしょう。
進化的には、固体(肉体)と霊体というふたつの、かなり異質な状態に分かれる私たちの生と死が、半霊半肉みたいになり、やがて素粒子的な本質、つまり霊に戻る(成長)していくのだと考えられます。
とすると、現実の生の世界にいる中でも、霊的な世界、死後的な世界の状態を感じ始めることが増えていくのではないでしょうか。
変化や流動が過剰になって、疲れている人、止まろうとする人も増えるのかもしれません。マルセイユタロットで言えば「吊るし」であり、そのカードが「13」という死や解体、変容を象徴するカードの前にあるのも意味深です。
ダイナミックに動くだけが成長とは限りません、私たちは、一度立ち止まり、自他ともに救済モードに入る必要もあるのだと、今の時代、感じます。
「吊るし」から見る非日常性
マルセイユタロットに、「吊るし」というカードがあります。
ほかのタロットでは、吊るされ人とか、吊るされた男などと呼ばれているカードです。(大アルカナ12番のカード)
名前の呼び方からわかるように、ほかのタロットでは、このアルカナナンバー12のカードは、「吊るされている」という受動的姿勢、あるいは犠牲的なニュアンスで意味付けされていることが多いです。
しかしマルセイユタロットでは、「吊るし」として、あえてこの姿勢を自らと取っているという能動的なものを見ます。(マルセイユタロットでも、名前を「吊るされ人」として一般的名称で覚えるケースもあります。「吊るし」と呼ぶのは、あくまで私たちの考えです)
と言っても、「吊るし」に描写されている人物自体は動いておらず、足にはひもがあり、手は縛られているのかどうかわかりませんが、後手にあって、自由に出しているわけではありませんから、この姿勢そのものからは能動的なものを感じ取ることは難しいです。
つまりは、自分がやっているにしろ、誰かにやらされているにしろ、この「吊るし」では、何か動かない状態、籠ったような状態、不自由にも見える状態にあるのは確かと言えましょう。
タロットは、私たちの意識や行動の元型を示すという考えがあり、その見地に立てば、こういうカードが存在していることは、私たちの内と外(意識と行動)に、「吊るし」になる状態がある(必要とされる)と見ることができ、それはいかなる時なのかという考察ができます。
「吊るし」の人物の姿勢の大きな特徴は、動かない(停止している)ことと、逆さまであるということです。
逆さまについては逆になることですから、まさに反転したり、これまでとはまるで違った視点を持つことを意味します。
けれども、今日は、動かない、停止のほうをメインに言及します。
私たちが動かない時とはどういう時かと言えば、ひとつには、まさに固まってしまって身動きが取れない状態があります。
これは、外的(環境的・物理的)に八方塞がりのように、なかなか活路が見いだせない時か、精神的(気持ち的)にもどう対処していいかわからない、もしくはショックがあったり、落ち込んだり、鬱になったりして、動けない状態と考えられます。
要するに、大変弱っている、困っている状態です。(苦笑)
ところが、マルセイユタロットの「吊るし」の人物は、余裕とも思える表情をしており、あまり苦しそうではない感じに見えます。
ということは、身動き取れないピンチに陥った時こそ、慌てず騒がず、よい意味での諦観、観察精神のような客観性が求められると言え、動けば動くほど、事態はますます悪くなるという教訓を見ることができます。(「吊るし」カードの構図特徴から言えば、実は、全部塞がれているわけではないので、突破口、打開策は必ずあると主張しているようにも見えます)
あと、動かない時というのは、日常とは異質な状況になっていることも考えられます。
私たちはの日常(意識)では、常に動いているのが普通です。思考も感情も、あれこれと動き、ついでに行動も何かしなければ・・・という意識になっており、無意識であっても、何かどこかしらは動いているものです。
まあ、生命の維持には、心臓も各器官も動いていなければならないわけで、それを言えば、すべてが停止することなど現実ではありえないのですが・・・そこまでの話ではなく、普通の日常の活動、生活においての動きということです。
日常が動きの状態と仮定すれば、逆に非日常は動きのない状態と言うことができます。
タロットでは、この非日常感を重要視します。リーディングの意識の時もそうですし、自己の内部や霊的に成長していく過程においても、日常とは別の世界や感覚が大切になってきます。
吊るしはナンバー12ですが、下一桁として同じ2を持つ大アルカナは、「斎王」(一般的に女教皇と呼ばれるカード)です。
この「斎王」は、現実世界においての巫女的な女性、そうした意識になる状態を示唆します。
タロットではなくても、皆さん、巫女的な女性と普通の日常的・俗世間にいる女性とでは、特に精神世界において(実生活でも)違うことはわかるでしょう。
それはもともとの能力・気質の違いもありますが、巫女になるための状況(儀式)を経験することで、一般的・俗的にあった女性が変容していく場合もあるのです。
言わば、内的に変わるためには外的な環境も重要なことがあるのです。
それが日常とは隔絶された環境であったり、エネルギー・周波数の違う場所であったりするわけで、また、さきほど述べたように日常が動きの世界であるのなら、非日常(内や霊に呼応・感応する世界)は動きのない世界と言えますから、自らを停止させるための状態も(巫女になることや、霊性と接触するための環境のために)あるのです。
よって、「吊るし」は、日常から非日常へ、言い換えれば、現実・通常意識から霊的な意識へと変化させるためのセッティングを行ってると考えることができるのです。
具体的なその方法は、メジャーなところでは、瞑想ということもあるかもしれませんし、もちろんほかの方法もあり得ます。
ただ総じて言えるのは、動かない状態、静かな状態であるということです。「斎王」においても、その絵柄ではヴェールが描かれ、ほかの場所から隔絶された、動きのない、静寂な環境にいることがわかります。
「吊るし」も「斎王」も、現実的(物理的)な意味では自由があまりありません。むしろ不自由な環境と言えます。
実際の僧侶・尼僧、修道士・修道女など、神や仏に仕え、修業的なことをしている人は、あえて不自由な環境で生活し、日常・世間とは隔離された隠遁的な場所で暮らしています。それはやはり、俗世間と自由過ぎる場所では、霊的なものとの接触と、そうした窮地に至ることが難しくなるからだと言えます。
演出でやっているのではなく、伝統的にも、目的達成の効果が、そのほうがあるからされているのだと思います。
私たちは普通、修行僧ではありませんから、そこまでする必要はないですが、それでも、日常の動きある世界にそのままどっぷり浸かり、流される生活をし続けていると、内的にも霊的にも成長が遅れてしまうことがあります。
とは言え、窮屈や不自由にしろというのではありません。
普段の動きのある世界での自分というのは、他人や周囲に気遣い、余分な力もかなり入っていて、身体的にも精神的にもガチガチになっていることが多いのです。
ですから、動きのない世界に入るということは、その逆に、むしろ脱力やリラックスした状態とも言え、日常的な情報を遮断し、外部センサーを動かし過ぎるのを止め、刺激を少なくして、その反応も低減していくことが望まれます。だからこそ、「吊るし」の人物は、手や足が自由に動いていると刺激を受けてしまうので、そうならないように、あのような状態にしているのだとも考えられます。
精進潔斎においても、「籠る」ということがありますが、これも、ひとつには、(外部の俗的な)刺激を遮断するような効果を期待してのものだと言えます
昔から、聖と俗は違う世界としてとらえてられており、その区別がきちんとされていないと、なかなか本当の意味で統合的な境地には進まないのだと思います。現代は、これが混沌としているので、意識的にも聖と俗を区分けする時間と空間を作る必要があるのかもしれません。
なお、「吊るし」と籠りの関係については、こうした聖なる状態を作る意味以外にもいくつかあり、現代的病理や問題現象の観点からすると、いわゆる「引きこもり」についても考察することができます。
それにつきましは、また機会を改めて書ければと思います。
