カードからの気づき
タロットと時系列。過去・現在・未来
タロットリーディングにおきましても、時系列で読むことは普通にあります。
そもそも、たいていのタロットスプレッド(展開法、並べ方)でも、過去・現在・未来を象徴する場所、位置というのはあるものです。
今回は、タロットリーディングにおいての時系列をテーマにしながら、過去・現在・未来というものについて、取り上げたいと思います。
さて、面白いことに、マルセイユタロットで時間をもっとも象徴するカードに「運命の輪」があるのですが、このカードの絵柄(図像)自体に、三匹の動物が描かれ、まるで時系列としての過去・現在・未来を表しているようにも見えます。
実際、これらの動物をそのように解釈する考え方もあります。
これは、あくまで寓意的な表現ですが、もし、この「運命の輪」の輪の部分をアナログ時計ように見立てると、これに乗っかっている三匹の動物は時計の針みたいになり、どんどん時間が進みつつも、その実、変わらない(動く針と動かない針)時間、時というものがあるようにも感じさせます。
それはさておき、私たちが「時間」を、まさに流れているもの、動いているものと感覚するためには、過去・現在・未来という三つのパートを設定しておかないといけません。
そういう括りがあるからこそ、昨日・今日・明日のように、時間が流れているように見ることができるのです。
ということは、この三つは、現実という時空を意識させるための仕組みであることがわかります。(ただし、もっと言うと、それら動く時間を見ている「もうひとりの自分の視点」があるため、全部で四つの観点が必要です)
つまり、逆から言いますと、時間観念的には、過去・現在・未来を強く意識すればするほど、現実という時空への存在(感)も強まると言えます。
この点は、リーディングの時系列においても非常に重要なことです。
なぜならば、タロットリーディングでは、現実意識を超える次元やフィールドを扱うこともあるからです。
ですから、時間的な、過去→現在→未来の流れ(現実意識)とは異なる方向性、超越した状態というものも、タロットリーディングでは出てくることになります。
それは端的に言えば、現実時間を超える認識と空間(別の次元場のようなもの)であり、具体的に言えば、通常意識時間での過去や未来に該当すると同時に、「現在」にすべて集約されたある一点とも言えます。
タロット占いでは、時系列的には現在と未来、中でも未来がどうなるのかに関心と比重が高くなっています。もし過去を読むことがあっても、それは過去を示すタロットが当たっているかどうかにあり、当たっていれば、占い師が示す未来のことも信用できるという手はずになるわけです。
しかし、占いとは異なるタロットリーディングというものでは、むしろ過去が重視されることがありますし、それは当たっている・いないの観点では見ることに、あまり意味を見出しません。
心理的に言えば、タロットが表す過去のパートは、心の中にある記憶やデータのようなものであり、当たりはずれで言えば、本人の意識次第では、全部当たっていますし、また全部はずれとも言えます。
それは客観的というより主観の世界であるので、事実というより、本人(クライアント)の思いのほうが大事なのです。
従って過去に何があったのかということよりも、過去のどんな思いを蓄積しているか、どのようにその時(今においても)感じ、それについて当人はどんな認識(評価)をしていた(している)のかということが重要となります。(たたじ客観性がいらないわけではなく、客観性によって過去の思いの修正も可能です)
時間観念的には、過去の起こったことそのものは変えられなくても、思いは変えることができますので、イメージや思いの世界(この場合は過去)では、時間の流れは通常とは異なるものになります。
過去であっても、リーディングしているのは「今」「現在」ですから、過去の思い・見方が変われば、現在に影響するのはわかると思います。ということは、過去は現在でもあるのです。
このことは、未来においても同様です。
未来は、通常の時系列の流れではまだ来ていませんから、まさに「未だ来ていない」未来です。
しかし、やはりこれもイメージや思いの世界では、すでに来ているのです。あなたがイメージできる、思えるということは、イメージの世界においては実現しているわけなのてすから、今想像している未来があれば、それは「現在」なのです。
そうなると、過去も未来も同じで、記憶やイメージの中にあり、それらは今現在に思い出したり、想像したりできるので、今にすべてがあると言っていいのかもしれません。
しかし、未来が思い通りにならないのは、物理的干渉と言いますか、次元の場の違いがあるからです。
ただ、先述したように、通常の現実感覚としての時系列が、過去→現在→未来という流れで固定したものでしたから、これが、はずれていれば(方向性が異なっていれば)、ある意味、現実の時間を少しは超越することになると思えます。
言い換えれば、過去・現在・未来の時間枠から出ることで、逆に、過去・現在・未来のある枠の世界に影響を及ぼすことができる可能性があるということです。
これも「運命の輪」で説明するとわかるのですが、今のあなたは、ある種(ひとつ)の「運命の輪」にいます。
これが今あなたが思っている過去・現在・未来であり、あなたの「現実」です。
しかし、別の「運命の輪」に移行すると、あなたの「運命の輪」も別の種類のものに変わり、そこでは、今までの過去・現在・未来とは異なる認識のあなたの世界があります。(と言っても、通常の物理・肉体次元にいる限り、時間には縛られますが)
過去と未来は、現在に集約されると言う話もしました。
従って、あなたの「運命の輪」の乗り換えが行われれば、あなたの今の現実、あえて占い的な言い方をすると「運命」が変わるのです。
乗り換えには、「運命の輪」の、どの動物視点が重要なのか、たぶん皆さんにもわかると思います。
そして、「運命の輪」に生き物はいますが、同時に、輪そのものがマシーンであり、システマチックに動いていることも意味が深いです。
霊的な観点で言いますと、私たちは物質・肉体次元での感覚に囚われ過ぎていて、ここからの解放や脱却を目指す必要があると言われます。(ただし、物質次元を強化する全体的な流れもあったので、悪いことではありませんでしたが)
ここでも書いたように、過去・現在・未来という三つの見方とその直線的な流れに自分が無意識的になっていればいるほど、現実感覚も強くなりますから、霊的な覚醒には、そうした時間観念から離れるタイミング・機会を持つことがよいと考えられるわけです。
タロットリーディングの本質も、個人の問題・課題を癒し、見方を変化・成長させていくことにありますが、結局、時間観念的には、現実意識の時間に揺らぎを起こさせるというものでもあるのです。
それがイメージや想像、内的な世界との接触にもつながり、さらには霊的な世界(神性へ)の喚起にもなります。
とはいえ、現実時間感覚が希薄な世界に突入すると、文字通り、現実逃避にもなりますから、注意が必要です。よい現実逃避を目指すべきで、それは現実をきちんと認識したうえで(生活・通常を安定させたうえで)、別の世界や見方を経験していくことでもあるのです。
従って、現実超越の過程では、必ず現実(肉体や経済、物質的、時間制限的なもの)と向き合うことが起こるものと予想されるのです。
スピリチュアルを志向する人において、問題が意外に現実次元で起きるのには、こうした意味がひとつにはあると考えられます。
だからと言って、あなたのスピリチュアルな目覚めの方向性は、止めてしまうのも問題なのです。
このあたりも、「運命の輪」の中の二匹の動物で示されることでもあります。
結局、「運命の輪」の話のようになりましたが(笑)、何かの参考になれば幸いです。
コメントリーディングの結果から。
先日、イベント企画で、コメントによるリーディングを実施しました。(アメブロのブログのほうです)
16名という比較的たくさんの人数の枠をご用意しましたが、予想以上にすぐ埋まってしまいました。
今回、この企画を行った意図は、もちろんたくさんの人にリーディングをサービスしようという思いもあったのですが、質問はそれぞれ別であっても、出るカードや内容に、何か共通したことが出るのではないかと考えたからです。
そして、その共通するものこそが、今の全体の課題として浮かびあがり、何らかの示唆になるかもしれないと思ったことによります。
さて、展開は一枚引きではありませんので、共通するカードという観点からは、なかなか難しいところがあったのですが、それでも、全体としては、「戦車」のカードが多かった気がします。また「太陽」もよく出たように記憶しています。
さらに言えば、両極端ではあるのですが、剣を持つカードと壺を持つカードも、目立ったように思います。
まず、「戦車」と「太陽」から見ますと、皆さん、実はかなり潜在的な能力があるのに、自信が持てていない気がしました。
「戦車」には、二頭の馬がおり、それをうまく御することで、成功に導かれるという意味にもなるカードです。この二匹の馬には、いろいろな解釈ができるのですが、今回の場合は、自分に眠る(二種の)力というようにとらえられました。
また、車のアクセルとブレーキで例えられるように、その力を暴走させているか、抑圧しているかの違いはあっても、自分の力に気づかず、そのまま出るに任せて放置していたり、わかっていても自信がなくて押さえつけていたりしているかのような感じを抱きました。
一方、「太陽」もふたりの人物がいます。
ここで「戦車」とつなげると、自分の力をコントロールし、うまく出すには、相手から認められるような体験、受容性が必要なのかと想像します。承認欲求的ではあるのですが、それよりも、自分を受け止めてもらえる誰か別の人を欲しているという印象です。
これ(「太陽」の人物)は前の記事にも書いたように、別のもう一人の自分と取ってもいいわけですが、現実の中の個性を持つ一人の人間として見ると、やはり、他者との関係で、認めあえる二人、仲間、パートナーという感覚があります。
その人は、現存しなくても、魂のような関係でもありなのかもしれません。そして、相手から認められるのには、自分も相手を認めていくことが必要です。ただし、支配を受けたり、共依存関係のようなものだったりするのではなく、互いに自立した関係なので、自身の自立、独立、個性の確立が求められます。
つまりは、自分が自分であることの意義を自分で認めるということであり、以前の流行りの言葉で言うのなら、「ありのままの自分」「他者に依拠することのない自分」という存在です。
こうすると、「戦車」の御者として自立し、馬をうまく操縦できるようになり、前進性(成功性や確信性)が高まるでしょう。
シンプルに言えば、自分(我)であることを許可する、赦すということにもなります。
それから剣のカードと壺のカードについてです。
剣は「正義」とか「13」(こらちは鎌で剣とは厳密には違いますが、刃物的なものとして共通します)などにあり、壺は、「節制」とか「星」などのカードに見られます。なお、壺は端的には杯(カップ)、水を象徴するものでもあります。
タロットの小アルカナの特質である「4組」では、剣・杯・杖・玉というものがありますが、これは大アルカナの中にも入っています。
中でも、剣と杯は、正反対の性質ともいえ、剣が男性的なもの、合理・論理・決断的なものを示すのに対し、杯は女性的なもの、感情・赦し・受容的なものを示します。
このバランスが崩れていたり、重視するほうが反対になっていたりするケースが目立ったようにも思います。
おそらく女性の質問者が多かったので、当然、杯的な水の要素が性質としては強いのですが、そのために、場合によっては、剣的なものを恐れていたり、それをふるう(決断する)ことに躊躇していたりするようなところもうかがえました。
また逆に、いつも剣を自分か他人かにふるい、自分(あるいは他者)の杯の容器を壊してしまって、水が溜められなくなっている人もいます。
壊れた容器にいくら愛情や癒しという水を注いでも流れる(漏れる)一方なのです。その流れた水の行方が他人を潤すことになっている場合もあります。(自己犠牲による一時的な満足感)
誰かが何とかしてくれるのではなく、自分が何とかするのであり、何とかできるのです。
しかし、この世知辛く、複雑な世の中、人に頼りたい気持ち、自信のない状態もわかります。
ここで言っていることは、自分ひとりで何でもしてしまいなさいと述べているのではないのです。
人間は弱い存在でもあります。ですから、人の援助や助けを受けてもよいですし、人は一人だけで生きていけるものではありません。
しかし、あなたは本当はもっと力があり、強く大きな存在でもあるのです。自分しか自分を助けることができませんし、また助けることのできる力や智慧があるのです。
弱さを認め、それでいて、自分を大切にし、自分が何とかするという意志を持つことです。助力を得ないといけないものは得て、また、自分ができることで、他人に手を貸せる(与えられる)ものは貸して(与えて)みましょう。(自分なり範囲のことでいいのです)
前世や多次元という概念がたとえあったとしても、この次元でのあなたという個性の瞬間は、今のあなたでしかないのです。自分自身を生きようとすることで、きっと自信や希望も出てくるでしょう。
もうひとつ、よく出ていたカードを思い出しました。それは「愚者」です。
自由をもっとも象徴するカードと言え、まさに人生を旅するカードとも言えます。
皆様にエールを送りたいと思います。
「太陽」のカードに思う二人
マルセイユタロットの「太陽」のカードを見ていて思うことがあります。
私たちは誰に会いに、この世に来ているのか、ということです。
「太陽」のカードには、二人、手を取り合うかのような人物たちが描かれています。
心理的な意味や、スピリチュアル的な意味で見ると、これはもう一人の自分との融合・統合を果たしていると見ることができます。
この「もう一人の自分」というのには、いろいろな考え方があるでしょうが、ともかく、もう一人の統合すべき自分がいるわけですから、それはすなわち、私たちという人間には、見失っているもう一人の自分、あるいは、分裂(分離)した別の自分がいることになります。
詳しくは言いませんが、大アルカナの数の増加ごとに、ある種の成長や完成の段階を示していると取るマルセイユタロットの考え方を入れるとすれば(「太陽」の数19は、21の「世界」のカードという最後のほうに近い)、私たちの多く(完成していない多くの人間たち)は、本当の自分でははなく、片割れ、半分の自分で生きていることになります。
ですから、マルセイユタロット的に言えば、最初の問いに答えるとすれば、それは「もう一人の自分に会いに来た、探しに来た」と言ってもいいのかもしれません。
または、もともと分離していない状態であるものの、この現実の世界で生まれると同時に、意識・認識において割かれた(分かれた)ようになっていると言うこともできます。
ですから、実は、もう一人の自分を探しにこの世に来ているのではなく、あえてもう一人を置いて来て(あの世に置いて来ているのか、この世のどこかに隠されているのかわかりませんが)、「半自分」のままの経験をするのが目的という可能性もあります。
いや、これ(体験すること)を目的とするのか、忘却させられている仕組みに囚われている(体験ではなく堕落であり、真の気づきに回復していくことが目的)と見るのかで、また世界観も変わるでしょう。
実はグノーシス(自身の中に神性や完全性の認識していく)思想は、後者の考え方に立っています。ただ、グノーシスを深く見ていくと、前者・後者どちらでもあるということも感じてきますが。
さて、ここで、観点を変えまして、「太陽」の二人を片方を、もう一人の自分ではなく、すごく親しい人(親しくなる人)、自分にとって特別な出会いと関係の人と見てみるとどうでしょうか。
そうしますと、具体的には、家族やパートナーということもあるかもしれませんし、人生で一番印象の残る特別感のある恋人、あるいは、まさに親友と呼べる人ということもあるでしょう。
ロマンチックに言えば、ソウルメイトとか魂の伴侶、ツインソウルの一人という人もいるかもしれません。
いずれにしても、それはこの世界では、たとえ自分の分身のように感じてはいても、自分とは別の人間、「他人」として現れる人です。だから、その人なりの個性を持ち、自分とまったく同じというわけではありません。性別が違ったり、年齢が違ったり、性格や好み、そして当然ながら両親や育ってきた環境も違うはずです。
それでも、自分の人生において特別な人だと感じ、唯一(ではないかもしれませんが、それくらいの感覚)の人と思える、何か引きつけ合うもの、関係性を持っています。
それを一言で「縁」と言ってしまえばそれまででしょうが、そこにはほかの人とは違う、何かスペシャリティーがあるわけです。
ということは、出会いの縁はまったくの偶然ではなく、この世で、その人に会うために来ているということも考えられなくはないです。
※逆(相手も自分に会うために来たということ)もまたしかりのようですが、そうとも言い切れません。相手側がどう思うのかは、また別の話でもあるからです。まあしかし、たいていの場合は、相手側もそう感じることでしょう。
だからと言って、全員がそういう相手に出会う(出会える)ということではないようにも思います。もし、輪廻転生説を取り入れるとするならば、今生では、そういう選択のない人生なのかもしれないからです。
そして、そのような特別な相手と出会う人生というのは、それ相応の意味があると見て、相手や関係性からの学びが必ずあるのだと考えることができます。
それは甘美な思いだけではないでしょう。あまりにも特別であるだけに、もしかすると、別れたり、誤解があったり、争いがもし二人の間に生じたりすれば、それだけショックも大きいことになります。
つまり、分離と統合の感覚が、このような特別な関係においては、強烈な体験となって現れるということです。
それに耐えられるかどうかも試されるでしょうし、俯瞰してこうした関係性からの学びを見ると、結局、「太陽」のカードのテーマに見える「統合」を、自分自身に深く認識させるためのものである気がします。
この統合というのは、相手との統合だけを意味するのではなく、全体との統合、つまりは宇宙への回帰、一体感のようなものも示します。
愛しい人、特別に親しい人との共有体験は至福でしょうが、逆に分離、別れ、喪失はものすごい苦しみでもあります。だからこそ、最終的には、その愛しい人(のみ)を超えて、人類全体の統合へと、自己の(統合的)境地は行き着いていくのではないかと思います。
もちろん、それには並大抵のことでは難しいかもしれませんが。
一方で、幸いにして、愛しい人と別れずに済む人は、個性の違う二人が共有し合う愛の響きを、ほかの人に与えていく、シェアしていく役割があるのかもしれません。
人は死ぬと魂になり、亡くなってしまった人や別れた人でも、魂レベルで再会することができるという説があります。ただ、その時に現世での個性を持ったままかどうかはわかりません。
ところで、アニメーションで「伝説巨神イデオン」という、それこそ伝説級の(笑)アニメがあります。あのガンダムの富野氏の手によるものです。
このアニメでは、もともと同種であった人間が、異星人同士になって争い、また同じ星同士の人間でもいがみ合い、憎悪と争いを起こしてしまうという悲惨な話なのですが、最終的には巨大なある力で何もかも滅ぼされ、皆、魂だけの存在になった時、本当に分かり合えるという(救い、救済の)描写があります。
私は、このようなことが「死」とともにあるのではないかと感じます。
ましてや、生前、交流し、愛し合った者同士(それは恋人だけの話ではなく家族や友人の愛など、様々なものを指します)ならば、もっと確実ではないでしょうか。(死後分かり合える、出会える)
ですから、特別に親しい(愛しい)関係になる人と出会えることを、この世での喜びとして深く味わい、またたとえ何かのことで別離してしてしまうようなことがあっても、きっと別の世(死後の世界や、別の次元の世界)で、もっとわかりあえる形で再会できるかもしれませんので、そちらの喜びも待っていると思うと、「太陽」のカードに感謝や、二重の歓喜のような、不思議な感じを覚えるのではないかと思います。
そして、その特別な人は、やはりあなたを救いに来ているわけで、最終的には、もう一人の自分の別の姿だったと気づくのかもしれません。
出会いは嬉しく、別れはつらいものですが、この世とあの世、この次元の世界と別の次元の世界を想定すると、こちらの世界では分離していることが普通で、両方の世界でもって初めて、統合・完全になるのがわかり、この世での親しい人との関係を通して、現実感覚や肉体次元を超える時、もうひとつの世界に架け橋する可能性を見ることができるのだと思います。
そのことが霊性回復にもつながり、月並みな言葉ですが、愛は世界(自分)を救うという意味合いになってくるものと考えられます。
純粋に自分の中にいる、もう一人の自分を探す旅をしてもよいですし、自分とは違う人であっても、「太陽」のような感覚を持てる人を見つけ、親しく関係していくことで、スピリチュアルな意味で自己を回復することができるかもしれませんので、その時その時、それぞれの人生において、自分に合った道を選択するとよいのではないかと思います。
タロットカードのペア性を見る
私は、経歴や自己紹介のところても書いていますように、もともとフィリップ・カモワン氏の教えていた、いわゆるカモワン流のマルセイユタロットから入った口です。過程としては、当時のタロット大学(現イシス学院)で学んでいます。
ですから、カモワン流の考え方は、私のタロット考察の視点には入り混んでいると言ってもよいです。
カモワン流の特徴のひとつには、カード、特に大アルカナをペアやカップル性で見るというものがありました。むしろ、それこそがカモワン流の、特にリーディングの本質と言ってもよいものだと私自身は考えています。(逆に言うと、カード単体で見るようなものは少ない)
以後、独立してからも、私はカードのペア性を、自分なりにもっと考察していくようにしました。カードをペアで見るというのは、タロットの自己活用や、タロットの象徴性でもって真理を探究していくという意味で、非常によい視点かと思います。
カードのペアは、単純に言えば、二枚組の単位でカードを扱う(見る)ということになりますが、その二枚組のコンセプト、組み合わせの基本・考え方のバリエーションによって、まさにいろいろな見方が存在し、言ってみれば、それが宇宙のルール、構造への気づきと理解になってくるのです。
ペアは、低い次元で言えば、男女の恋愛関係に置き換えることもできますし、次元を上げれは、その関係性が森羅万象の陰陽原理にまで引き上げることができます。
もちろん、陰陽原理だけではなく、あらゆる二元性の見方が、カードの二枚組、ペア性によって象徴され、その組み合わせは有限ではあるものの、非常に多くのものがあります。(もちろんタロットの数、大アルカナに限って言えば22枚ですから、ペアになる数は数学的に出せますが)
二枚のペア、組み合わせを、例えば大アルカナで言いますと、カモワン流なら視線が向き合うものをペアと見ることがありますし(例として「女帝」と「皇帝」など)、カモワン氏、ホドロフスキー氏両氏では、並べ方の上下は違うものの(これには理由がありますが)、10の数(セット)を基本に、1(「手品師」)と11(「力」)、2(「斎王」)と12(「吊るし」)のようにそれぞれをペアと見るものがあります。
また、ホドロフスキー氏は、足して21の合計になる数のペアカードも挙げていますし、ある説では、足して22になる組み合わせのカードで見ることもあります。(その他、数をもとにペアで見る組み合わせはいろいろあります)
それらのペアのコンセプト(組み合わている理由)として、何を意味する(している)のか、そのことを考察するだけで、かなり深いところに気づくことができるでしょう。
大アルカナは、そもそも22枚でできていますし、小アルカナも4組を基本とし、宮廷カード16枚、数カード40枚の構成なので、数の上てもペアとなることが可能で、それぞれパートごとに、偶数として二枚で割り切ることができます。
ということはタロットの構成自体、ペア概念をもとにしていると見ることができます。
大アルカナで見れば、構造上、「愚者」と他の21枚のカードと分けることができるのですが、21枚だと奇数ですから、二枚ペアにはなり得ません。
しかし、それぞれ数の順ごとにペアを形成していくと考えれば、ペアは可能になります。
これは「愚者」と「手品師」、「手品師」と「斎王」、「斎王」と「女帝」・・・というように見るような方法です。
この見方は、私たちに、ペアそれぞれにある固有の特質とともに、全体として循環しながら成長する宇宙の原理・運動のようなものを見て取ることができます。最後の「世界」も、「愚者」とペアになれば、最初に戻って、また新たな循環が始まるからです。
カードのペアは、占い的に見ることてもできますし、エネルギーや動きとして、もう片方を要求したり、必要としたりしているもの、欠けているものとしてタロットを出して考察することも可能です。
例えば、一枚、大アルカナからカードを引き、そのペアとなるものということで、残りのカードからまた一枚引いてみます。
最初の一枚は自分の今の状態や特質、持っているもの、わかっているものを示すとし、あとで引いた一枚は、それを補うもの、足りていなかった部分を満たすもの、補い合う人物(他人の場合もあれば、自分の中の違う自分と取ることもできます)やエネルギーとして見ます。
もう少し複雑になれば、最初のカードと次のカードの二枚セットで調和や完全性を示すものと見て、どちらか、あるいは両方において過剰になったり、不足していたり、不調和を来すもの、アンバランスになっている状態の要因としてみて、二枚のエネルギー、表現を正常にすることで、問題を解消していく見方ができるようになります。
私たちの現実意識は、スピリチュアルではよく言われるように、分離した感覚を持ち、それにより、個別性や独立性を味わえることになるのですが、一方で対比することで現れる欠乏感、不安感、問題感も出てきます。
要するに、ペア性の分離感みたいなものです。ふたつのものが反発し、対立し、争うことで、問題や居心地の悪さ、苦しさがあると見ることができます。
それらか調和し、相補し、統合が取れた見方になれば、分離感の苦痛から、満たされた幸せ感に変わるとも言えましょう。
もとは分離していないものではありますが、そういう(分離)感覚に現実世界ではなるのが普通ですから、私たちは、常に相方、もうひとりの自分、もうひとつのエネルギー、表現を求め続けるようになります。いわば、自分の分身であり、「恋人」である存在を探しているのです。(マルセイユタロットの「恋人」カードにも関係します)
そのカードでの表れが、二枚のペア性のカードとなります。
先述したように、二枚の組み合わせは数多くありますが、その時その時に出るカードのペアでもって、いつもは分離している見方(意識)を、二枚同時にセットでとらえることによって、統合した感覚(意識)に引き上げます。
こうして、少しずつ、自分の中に分離した、もうひとつの自分・恋人と出会うことをやっていくわけです。
つまりは、いつも本当は存在している片割れを、タロットによって見出すというか認識するようなことでもあります。
ですから、タロットは、単体で見るよりも、少なくとも二枚で見たほうが、よいこともあるのです。
ただし、二枚を同時に見る、ペア性を意識するということは、単体自体をよく知っていないと始まらないこともあります、よってカード単体の理解はとても大切なのです。
人生で例えれば、独身である自分をよく知ることで、つきあい、結婚する相手と出会え、そして結婚したあとも、お互いの未知であったことを深く知ることになり、さらに子供ができたり、年を取って行ったりして、不調和もあれば(離婚される人もいるでしょう)、問題を乗り越えて、もっと融合した境地へと進んでいくこともあるという感じです。
今、あなたを表し、そしてあなたを補助していくもうひとつのカードは何か、カードの束から引いてみると面白いでしょう。
ひもつきのカード
マルセイユタロットの大アルカナで、ロープやひもが描かれているカードがあります。
どれが、ひも・ロープなのかは、様々な見方はあると思いますが、一応、目立って明らかにひも・ロープ(の描写があるもの)だと考えられるのが、次の三枚ではないでしょうか。
●「正義」
●「吊るし」(一般には吊るされ人などと呼称されるカード)
●「悪魔」
これらのひもには、それぞれ固有の意味があるものと推測されますが、この三枚のひも・ロープ(以降、「ひも」と書きます)を「ひも類」とひとまとめにしつつ、同時に、各々の「ひも」の違いを見ると、面白い考察ができます。
そのひとつとして、「ひも」を「私たちを縛るもの」の例えとして見て、そのテーマで書いてみます。ただし、全部、意味とか象徴性を詳しくはあえて書きません。読んでいる皆さま自身にも、考えてもらいたいためです。
では、三枚のひもについて、その観点で見て行きましょう。
まず「正義」です。「正義」のカードでは裁判官のような者が、首に「ひも」をかけています。
次に、「吊るし」
このカードでは、「ひも」は吊り下がった逆さまの人の足にくくりつけられている感じです。
そして、「悪魔」のカードでは、悪魔(厳密には悪魔が載っている台のようなもの)に人間とおぼしき者が、「ひも」によってつなげられています。
どの「ひも」も、そんなキツそうではないので、「縛る」というテーマで考えることは適当ではないのかもしれません。しかし、キツさ・緩さに関係なく、「ひも」である以上、縛っていることも確かです。
このうち、縛っている(縛られている)ことを自覚しているものと、そうではないものに分けてみると、「正義」と「吊るし」は自覚があり、「悪魔」カードの悪魔自身は自覚しているものの、つながれている二人の人物は自覚していないと想像されます。
いや、もしかして、「悪魔」のカードにいる人物たちも、つながれているのは自覚しているのかもしれません。
普通、ひもで縛られるというのは苦痛であったり、自由を奪われたりして、よいものとは思えない状態です。
それでも、たまに縛られることがうれしい、心地よいという人もいます。いわゆるマゾ的な人ではありますが、もっと広い意味でとらえていくと、つながれていることに安心感を得ている人や状態とも言えます。
縛られることがよい、そんなことってあり得るのかと思うかもですが、例えば、会社につながれることで、給料が安定するのなら、そのほうがよいという人もいますし、自分が尊敬したり、すごいと思っていたりる人、その仲間やグループの集団につなげられているのは、安心だと思う人もいるでしょう。
一方、「正義」のひもはこれは「悪魔」とは逆で、もしかすると見た感じ、無自覚である可能性もあります。
裁判官として考えるのなら、裁判官としての一種の資格や立場を表す「ひも」なのかもしれませんが、裁判のルールを作ったり、そもそも裁判というその形式、行為自体を統括し、演出するもの(行わさせているもの)が、裁判官の自覚・無自覚に関わらず、ひもを結わえている(縛っているもの)とすると、この裁判官とひもが、それ(裁判すること自体)を示す様式や制服の一部になっているのではと推察されます。
言ってみれば、「ひも」そのものが権威や力を象徴し、自他ともに縛るものとして、まさに象徴としての見た目の効果もあるということです。
さて、「吊るし」ではどうでしょうか。
「吊るし」のひもは、一見、とてもキツいように見えます。逆さまの人を縛っているのですから、それは強烈なものではないかと想像してしまいますが、「吊るし」の人物をよく観察すると、苦しそうなどころか、笑みを浮かべているようにも見えます。
ということは、案外、この「ひも」は緩いのかもしれません。でも、足をひっかけているだけのようにも「吊るし」の図像からは見えますので、「ひも」が緩いとすると、物理的な力で「ひも」と人物がつながれているわけではないということがわかります。
いずれにしても、「吊るし」の人物は、「ひも」によって縛られていることは嫌ではなさそうで、少なくとも早く解放されたい、逃れたいと思ってはいないように感じます。
ということは、あえてこのひもでつながれる状態を望んているのか、何か意図があって、この状態にしていることが予想されます。
つながれていることが苦痛ではないということでは、三つのカードともに共通していますが、特に、「悪魔」と「吊るし」は、縛られている当人は楽しそうにさえ見えます。
「吊るし」が「悪魔」の「ひも」と違うのは、つなげている(縛っている)ことを見ているほかの存在(「悪魔」のカードでは、まさしく悪魔)がいないことと(つまり「ひも」と、それにつながっている者という関係だけが強調されている)、当の人物が逆さまであるということです。
また、「吊るし」は絵柄全体からも、何か囲まれている感が強いです。すると、「ひも」と合わさって、牢獄や、何か、逆さ吊りの刑を受けているようにも見えて、「ひも」が拷問用具にもなってきますが、先述したように、当人は気楽な感じさえします。
ここから考えると、やはり、「吊るし」の人物自身が望む意図的な縛り、あるいは、見た目とはまったく違う、「ひも」の機能や状態があると見て取れます。このような変わったことをする理由があるわけです。
「吊るし」と「悪魔」のひもでつながれた人物の共通点として、後手にしているというのがあります。
ここにもし、手を縛っている別のものがあるとすれば、隠された「ひも」があることもイメージできます。それは手錠のようなもので、拘束具となっている可能性はありますが、「吊るし」のカードでは特に、イリュージョン的ショーみたいに、縄抜けをして楽しませている(楽しんでいる)かもしれません。(笑)
「ひも」は、自分で縛ることもできますし、他者から縛られることもあります。「悪魔」の項目で述べたように、縛られることがよい場合もあると同時に、やはりそれは人を拘束し、自由を奪い、苦痛や制限を与えるものにもなります。
さらに、「ひも」がないと、例えば、高所の作業などては危険でもありますし、モノを運ぶ時にも縛らないと中身が出てしまうおそれがあります。ということでは、「ひも」によって便利になったり、安全になったり、団結・関係性を強めたりすることもあるわけです。
人は基本、縛られることを嫌いますが、場合によっては、縛られる期間・状態を必要とする時があります。
それから、「ひも」を別の意味にすると、自分で稼がない男性のたとえでよく言われるように、いわゆる「誰かのヒモとして暮らしている」みたいに、ぶら下がるもの、依存するもの、すがるもの、余分なものの象徴の場合もあります。
こうして、「ひも」を見ていくと、それぞれ三枚のカードのひもの意味、そこからくみ取れる私たちの自由や縛りとの関係性が見えてきます。
すると、この三枚のうちのどれか、あるいは、二枚の組み合わせなどによって、どういう状態の「ひも」が必要なのか、望ましいのか、リーディングとして活かすこともできます。
ひもつき(笑)のカードは、自分自身を見つめる意味でも、とても興味深いと思います。
