カードからの気づき
自分の運命を作っているもの
私は旅が好き・・・というより、旅の計画をするのが好きです。
この性質はもともとあったのですが、中学生の時に、放課後のクラブ活動とは別に、その学校では週に一回、正規の授業時間に教室でクラブ活動するような課程があり、私は「歴史と旅クラブ」というものに入っていました。
このクラブでは、実際に旅をするのは年一回の日帰りなものだけで、通常は教室で時刻表などとにらめっこし、机上の旅計画をするという活動であり、ここから、旅の前に完全な計画をするという私の傾向に、ますます拍手がかかったように思います。
さて、そうした旅の計画ですが、これは必ずしも実行するとは限らず、実際には行かないことも多いです。しかし、行く行かないにかかわらず、かなり詳細に計画を練ることは変わりません。
マルセイユタロットで言えば、「女帝」(創造・計画)の質が強く、「皇帝」(現実・実行)は薄いという感じでしょうか。
まあ、この「女帝」と「皇帝」はセットでペアでもあり、両者そろってこそなので、計画ばかりしていてもダメなのですが。。。
以前はあまりに完璧な計画を作り過ぎようとし、そのため、考えすぎて体調を崩すという、癒しや気晴らしのための旅行なのに、本末転倒になるありさまでした。(苦笑)
さすがに考えをを改めて、今はもっとゆるやかに計画するようにはなりましたが、それでも、普通の人よりかは旅先やルート、宿泊先などについて、詳しく調べるほうだと思います。
そこで、旅館やホテルなど、宿泊先の口コミなどをネットで見ることも多いわけですが、これを見ていると面白いことに気づきます。
まず、やはり、普遍的な評価、言ってみれば平均値の評価は確かにあると思います。
当たり前ですが、多くの人がここはダメだとか、不満が書かれたり、×評価が下されたりしているところは問題があると考えられ、反対に、たくさんの人が高評価を出しているところは、なかなかのところであるということです。
しかし、どこにでも、何にでも例外はあるように、悪い評価が多いのに、まれに高い評価を出している人もいますし、逆に、高評価の口コミが続く中で、最低点をつけて、ひどく不快であったことをまくして立てているものもあります。
前者(平均が悪い中での高評価)の場合は、ひとつの傾向として、宿泊した人がどこに重点を置いていたかで決まってくるようにも思います。
例えば、その人は温泉の質を何より重視していた人ならば、食事はいまいちであっても、お風呂の温泉の質が抜群だったのならば、評価も高くなるでしょう。
いわば、自分がもっとも高い価値を置いているもの、宿泊先でここだけははずせない、大切にしていると考えているものが良ければ、ほかのことは少々のまずさがあってもカバーできるという評価です。
問題は、多くの人が高評価であるのに、特定の人だけ、低評価になってしまう場合です。
これは、宿泊した日とか部屋、その時に受けたサービスに限って、不運のような、普段ありえないようなものが続いたというものが見受けられます。
もうひとつは、口コミなど読んでいると、評価する人(つまり宿泊した人)に問題があるように思えるケースです。
まるでクレーマーのような、普通は気にしないようなことでも、異常に気にしてしまっていて、要求があまりにも高く、そこまで言うことなのか、期待することなのか・・・と考えさせるケースがあることです。
宿泊施設の口コミ評価について書いてきていますが、これは私たちに起こる事柄、ひいては人生のとらえ方にも関係しているように思えましたので、これを例にして書いているわけです。
平均で高い評価を得ているのに、時折、口コミ評価で悪い評価があるのは、今述べたように、たまたまのアクシデントのような、いわば「運・不運」的なもので引き起こされたように思えるものと、当事者(宿泊者)本人たちの思い方や感じ方によって引き起こされているものがあるということです。
同様に、私たちも、自分の人生において、運・不運で考えられるものと、自分自身によって(悪いこととして)引き起こしているものがあるのではないでしょうか。
運・不運については、マルセイユタロットでも「運命の輪」というカードがあるように、運に左右される世界観はあると考えられます。
これはカルマなどとも関係するかもしれませんが、自分がもともと持っている運気と言いますか、流れ・性質のようなものがあり、なおかつ、時空的な影響による運気もあるでしょう。
東洋占的な言い方をすれば、天の運、地の運、人の運が複合しているものです。(これらは同じ構造にあって、それぞれ天・地・人ごとの世界で入れ子構造となり、関係し合うと考えられます)
よって、旅行でも、ほかの人は運がよくても、自分はその時は、運のめぐり合わせで悪いタイミングだったということもあるわけです。
しかしながら、これもやはり「運命の輪」に関係することですが、先述したように、自分自身がそのことを引き寄せてしまっているようなものあるのです。
例えば、いわゆる「ケチがつく」と表現されるように、ひとつ何か悪いこと、腹の立つのようなことがあっただけで、その印象を引きずってしまい、以降も、事あるごとに悪いことはないかと気にしてしまって、普段よりもナーバスになっていると、マイナス点ばかり目につくようになります。
また、あまりに求めるものが高すぎると、自分の理想と現実にはギャップがつきものですから、実際には理想通りではないことは生じます。それが許せないというような狭い許容(量)であると、たちまち、自分の思考・感情はネガティブなものへと変化します。
「許せない」という感情は意外に注視されるもので、起こった出来事そのもの、外の対象について許せないというのもあるのですが、例えば宿泊の問題でしたら、そんな宿泊施設を選んだ自分に対して許せないという感情もあるのです。
結局、自分への怒りみたいなところに行き着きます。こういうタイプの人では、他人だけではなく、自分自身を普段から許していないことがあり、こうすべきという縛りをかけていることが少なからずあります。
また、すべてをある単一価値だけで勘定・計算・判断してしまうと、その価値に問題があった時は、全体がダメと判定されてしまいます。
例えば、パートナー(恋人や伴侶)がいるべきという価値がすべてだと思っていると、それが実現できなかった場合、あるいはそれを失ってしまった時の自分は、許せない人物、失敗者となり、人生全体もよい評価にならないでしょう。
マルセイユタロットとして、「運命の輪」の流れには、「星」のカードが関係しているという見方があります。
「星」には、女神が壺の水を流している様が描かれ、まるで、おおらかな許しをしているような印象です。そうすると、自分の運命の輪の回転も変わるのではないでしょうか。
自分ではどうしようもない運・不運というのはあるかもしれません。しかしながら、自分の認識や見方・捉え方を変化させていくことによって変わる部分の運命もあるのだと、「運命の輪」のカードから教えられます。
かなり部分では、現実的な意味でも、自分自身が自分の運命を作っているところはあるのです。
また、変えられないと思っている天・地・人の複合的、もともと持っている運気のようなものでも、自己の浄化や運気の分析などによって、変えられる部分もあると言われています。
「これは運が悪かった」と割り切っていく態度も時に有効ではありますが、あまりに運が悪いことが続く場合や、晴れの日、ここぞという時なのに不運が起こるような場合は(自分の思いが引き寄せているわけではないのに)、それはカルマ的な要素が反映され、浄化が起こっている可能性があるかもしれません。
外の事件の発生による(運の悪い事件が起こることでの)浄化を待つよりも、先に自分から浄化をしたり、対処したりする方法はあると考えられます。(占いもそうしたものの一つです)
現実的な見方だけをしていると、まさに外で起こる運・不運の現象に踊らされ、一喜一憂するのみです。
ここに、心理的・霊的観点を入れることで、納得できるものがあったり、今後の対処ができたりするのです。
タロットを使うと、そうした別の観点が持てるようになります。
マルセイユタロットの動物形象
マルセイユタロットの大アルカナや小アルカナの宮廷(コート)カードには、動物形象のものが描かれています。
それには、犬や狼に見えるもの、鳥類で鷲や鷹のようなもの(フェニックス含む)、蛇のような長物、ライオン(獅子)、馬的なもの、猿のようなもの、ザリガニ・蟹のようなもの、そして何者ともわからない複合獣のようなものなどがいます。
動物はすぐにそれとわかるものもありますが、よく見ないと(アルカナとして口伝で伝えられているものの説明を受けないと)、なかなか見た目ではわからないものもあります。
※蛇類は特に難しいでしょう。しかし、ある種のルールがわかれば発見することができます。蛇が難しいのは、それだけグノーシスが隠され、暗示されているためだと個人的には思っています。
ほかにも動物・獣ではありませんが、羽のついた天使は、獣とともに描かれていることもあり、特に「世界」のカードでは、いわゆる四聖獣として、四つの生き物の中に天使も出ています。
これらには、それぞれ象徴的な意味がもちろんあります。
タロットリーディングにおいても、それぞれの動物・生き物がどれだけ(重なって)出ているのか、あるいは散らばっているのかなどによって、またその色などによっても読み方は変わってきますし、タロットが示す意味をつかむための根拠にもなります。
動物・生き物象徴の読み方としては、まず読み手(タロットリーダー)やクライアントが、そのカードに描かれている動物形象を見て、素直にどう思ったか、どのように感じたかを取り上げます。
ただ、これはもっとも低次な読み方であり(ながら、時には高次のインスピレーションにもなります)、だいたいはタロットを知らないクライアントの方は、どう感じるかと言われても、正直何も思わないというのが普通かもしれません。
マルセイユタロットの場合、特段、犬などの見慣れた動物も、かわいく描かれていたり、芸術性をもって描写されたりしているわけではないので、動物好きな人でも、特に何も感じないということはあるでしょう。
しかし、次の読み方として、絵そのものよりも、その絵の意味合いにふれていくというものに移行しますと変わってきます。
例えば、犬が好きでペットとして飼っているという人は、犬の絵を見て、自分のペットのことだとか、もし犬と一緒に描かれている人物があれば、それは自分ではないかと感じることができます。
とすれば、わざわざ多くの中からそのカードが出たのは、何かしら自分を象徴しているものと見ること(自分として強調されていると見ること)が可能になります。
そして、次の段階では、再び動物の絵柄に着目することで、その動物が自分におけるペットの意味だけではなく、もしかすると自分の対人関係(例えば人との付き合い方や距離感)を表しているのだと気づくこともあるかもしれません。
「愚者」というカードには犬が描かれていますが、この犬はよく見ると、後(足)の部分は(わざと)省略されたかのようになっていますし、前足が「愚者」の人物にかかっていますが、そのかかり方、あるいは犬の表情などに注目してみると、この犬が見る者の一種の投影装置のようになっていることがわかります。
つまりは、見る人によって、犬のイメージ(様子や感情)が変わってくるのです。
そして、ここからが真髄になってきますが、動物形象のそれぞれを象徴学として学び、知識を得ますと、時代を超えた普遍的な(宇宙的もいえる)象徴性を想起することができ、心理や霊的な背景と相まって、タロットの示唆することの奥深さが見えてきます。
それゆえに、タロットは勉強する必要があるのてす。直感だけで読むものは、タロットリーディングのほんの一部に過ぎません。
さらには、動物形象がほかの動物と関連し、その象徴性の本質が把握できますと、世界中にある動物的な比喩・象徴について理解することもでき、連綿と見えない次元で生き続けているとも言える動物霊(サイキックの世界で言われる、いわゆる低次の憑依的な動物霊とは別です)のようなものが自分に語りかけてくるのがわかります。
私も、マルセイユタロットの獅子について思いを馳せている時、これは龍と同じ象徴性があることを感じました。
また、馬とも関係しますが、聖獣としての一角獣・ユニコーンも獅子とつながっていると思います。(マルセイユタロットにおいて、ユニコーンは非常に重要な意味があります)
獅子は日本の神社で言えば、狛犬として見ることもでき、狛犬のような「あ・うん」の姿は、マルセイユタロットの獅子(ライオン)にも描かれています。
獅子を龍として見ますと、特に「力」のカードの意味は、とても面白くなると思います。
ところで、フランス国立クリュニー中世美術館所蔵の、有名な「貴婦人と一角獣」というタペストリーがあります。(日本で展示されたこともあります)
これは六枚にも及ぶ、かなり大きなタペストリーで、その名の通り、貴婦人と一角獣・ユニコーンが描かれており、ほかにも獅子などの動物も複数登場し、さらに植物も豊富です。
一般的にはそれぞれのタペストリーが、五感ともうひとつの感覚を表していると言われますが、作られた時代や地方、書かれている文言の謎からして、マルセイユタロットと非常に近いものを感じ、本当の意図(象徴)は別にあると個人的には考えています。
このタペストリーでは、獅子と一角獣がむしろ対になって、貴婦人を中心に対立概念、相補、統合すべきもののように見せています。
この関係性が、非常にタロット的でもありますし、先述したように、マルセイユタロット自体に獅子(ライオン)、そして一角獣(ユニコーン)も描かれていることはすでに述べた通りで、それらの動物には、タロットでも必ず女性、もしくは女性的な人物が描かれているのです。
ともあれ、マルセイユタロットにおける動物形象を見ていくのは、とても興味深いことで、伝説や物語にも彩られ、それらの象徴性に感応していく時、聖なる使いとして、私たち(それぞれ個人)を導く存在にもなってきます。
なぜ古代の人が、その動物を神の化身としたり、使いとしたり、眷属のようにとらえていたりしたのかもわかってくるでしょう。
あなたにも、縁のある霊的な動物存在がきっといますし、それは自分の力の源泉でもあるのです。
苦悩する人は幸いである理由
マルセイユタロットは、悟りへの道を示している体系とも言えます。
「悟り」と言えば、何か一般的には、どんなことにも動じない、波風立たずの澄み切った境地のようにイメージされます。
しかし、マルセイユタロットの最終局面、つまりは「悟り」を体現する絵柄ともいわれている「世界」のカードでは、中央の人物はダンスしているかのように見え、周囲は四つの生き物が囲み、ある種、騒々しい(笑)感じさえ受ける、バラエティさに満ちています。
そして、ここに至る経緯を示すとも考えられるほかのカードたちも、すべて同じ絵柄はなく、みんなそれぞれ違っています。
ということは、単純に言えば、すべての違いを味わって受け入れた先に「悟り」が待っているとも想像できます。
であるならば、私たちは幸いだと言えましょう。
なぜなら、おそらくほとんどの人は、そんな澄み切った境地などになることは少なく、いつもなにがしか心を迷わせていたり、考えを巡らせていたりしており、それは、もし一言で例えるのであれば、様々な感情を体験しているという状態であり、言い換えれば、悟りのためのバラエティさを経験し、学んでいる最中だと述べられるからです。
そう、私たち皆、悟りのためのプロセスを歩んでいるのだと言えるのです。
だから、つらいことや悲しいことがあって心を一時的に閉ざすようなことがあったり、もうあんな経験は嫌だからと、自分から距離を置いて、客観的になり過ぎたりするのも、かえって霊的な成長(統合的発展)の遠回りをしていることになるかもしれないということなのです。
自分が壊れてしまわないよう、ある程度の防御、防衛反応は、この世知辛い(苦笑)世の中を生きていくうえでは必要な場合もあるでしょう。
しかし、先述したように、本当の成長や喜びを迎えるためには、感情的な起伏を十分に体験し、味わう必要もあると考えられます。
またそれは自分と他を分けて、自らの感情を切り離すようなことではなく、自他が一体となった没入・共有体験とも言えます。
マルセイユタロットの体系(システム)で言えば、「月」のカードと「恋人」カードで、この感情体験の必要性や仕組みを述べることができます。
このブログでもよく語っているように、現実世界は分離の世界であり、いわば二元原理を色濃く分けて住む世界です。
その二元区分には様々な象徴性で例えられますが、ひとつには、「天上性」と「地上性」という分け方もできます。
平たく言えば精神や心・霊の部分と、肉体や物質の部分の二元と言ってもよいでしょう。
すると、「月」のカードは天上的であり、「恋人」カードは地上的となります。(この分け方にもいろいろあって、とりあえず、ここではそうした区分を使います)
これは、地上の選択における迷いの感情的エネルギーが、天上的な「月」のプールに貯められると表してもよく、また逆に天上的葛藤(二元対立と相補原理の)エネルギーが、地上的選択(「恋人」カード)に反映されると言うこともできます。
違う言い方をすれば、、私たちが実際の生活で何かを選び、迷うような時、言ってみれば人生の局面局面で味わう心の揺れ動きが、一種のエネルギーとなって、私たちを天上なる悟りの世界へ導く原動力になっているのだということです。
そして、天上の魂のようなものが、地上の私たちに、もっと感情を味わうよう、もっと感情的にエネルギーが起伏するよう促しているのです。
「月」の犬は根本的な二元原理の交流による、いわば電気的エネルギーの増幅や推進と関係しています。(簡単に言えばプラスとマイナスによる電気発生)
おっと、つい、かなり奥義的な話をしてしまいました。(笑)
たぶん「令和」の時代になるので、霊的な開示を積極的に行うような流れになってきているせいもあるのでしょう。
ということで、今、悩み苦しみの渦中にある人も、それは天と地の間で、人として、感情体験をし、すべてある世界に回帰するために、まさに(できるだけ)すべてを味わい、経験する過程を実際に(現実というバーチャルな世界で)行っていることなので、大きな視点では幸いなのです。
しかし、苦しいことばかりが感情体験ではありません。喜怒哀楽と言われるように、喜びや楽しさも味わってこそです。
世界のカードに四つの生き物が描写されているのも、この四感情と無関係ではないでしょう。
現実世界は救済措置として、ずっと同じ状態が続くということがない世界です。常に変転し、まさに常ならずです。それは時間や空間というものがあるからです。
ですから、同じ感情が続くということはなく、いつも大なり小なり動いて、喜怒哀楽をその都度体験しますし、気の持ちよう、心の持ちようと言われるように、自分で気分を変えることもできます。
同じ状況が続いていると思う人は、悪いサイクル(堂々巡り)に入っていると言えますので、そこから脱出して違う感情を体験するために、こういう場合は、客観的姿勢、あるいは他人からのアドバイス、介入、手助けが求められます。
どちらにしても、心を閉ざすのではなく、開いて、実際(による感情)を体験することがこの世界では重要なのです。
タロットで言えば、いつも最初の数を持つ「手品師」に戻り、新鮮な気持ちになる状況をもたらせるとよいと言えます。
さらに、一人で経験するばかりではなく、誰かと、仲間と、組織で・・・という具合に、他人と一緒に経験することで、また違った感情を味わうことができます。それは一人の時よりも、深かったり、大きかったりします。
一人過酷な修行に臨む悟りの道もありますが、こうして普通に生きながらいろいろな人と交流し、視点を変えていくことで、それ自体が悟りの道となっていると考えることもできますので、いわば、神(仏)とともにある日常も体験できるわけです。(神や仏が悟りや完成を示す境地であるのなら、その過程にある実際の生活は、神・仏とともにある生活と言えるからです)
こうやって見ると、どの人の人生も、すばらしき道であるのに気づきます。
まさに、苦悩する人は幸いなのです。
師匠と弟子
皆さんは師と呼べる人がいますか?
学びや芸事となると、やはり先生や師匠に指導してもらわないと、なかなか独学では難しいところがあります。タロットも、一種の芸事とも言えますから、独学でもできないことはありませんが、師匠に習ったほうが、習得は早いのではないかと思います。
しかし、どの分野にしろ、まったく新しいことを始める人、創始者的な人物ともなれば、師はおらず、独自で開発した、到達したという方もおられます。
とはいえ、たとえそういう人であっても、生み出すことには、何らかの参考となるもの、最初に例としたものなどはあるはずです。つまりは先人の築いたものを下地に、新しいものが創造されているわけです。
ですから、師というのは、大きな括りで言えば、ひとりの人物とか、実際に指導してもらえる人だけを指すのではなく、自らが参考とした人、モデルになった人、自分の(技術・教えの)型や完成を得るために参照してきた書籍、人の言葉なども、言ってみれば自分の「師」であるわけです。
ところで、人間的な直接のつながりを持つ弟子と師匠の関係において、そこにはお互い人間であるだけに、情というものがはさまれたり、生まれたりします。
指導には情を入れてはいけないという説もありますが、考えてもみてください。
機械的にただ教え、学ぶだけの形式では、味気ないことに気が付くでしょう。そこに感情のやり取りも入るからこそ、教えにも幅や面白さがあ出るのです。
けれども、やはり情が入り過ぎるのもいけません。師匠と弟子、どちらか一方において、情が過剰であることは案外多く、両方入り過ぎる場合もあります。
弟子側が過剰であると、師匠に依存的になり、自分の親との関係を投影してしまうことがよくあります。
反対に、師匠側が入れ込み過ぎると、極端に弟子に干渉することになり、過大な期待や細かすぎる指導をしたり、逆に冷たく突き放して「技を盗め」みたいな態度になったりします。
これは師匠の子どものような対象を投影し、いわば、過干渉の親や、放置する親みたいになってしまうわけです。
そして、弟子・師匠がともに情が入り過ぎると、共依存の関係になりがちです。
ということで、私からお勧めするのは、すでに書きましたように、師匠の概念・範疇をもっと拡大し、一人の師匠とか、人間だけが師匠ということに限定せず、ほかの人や、すでに今は存在しない先人、人が書いた書物などを別の師として、自分の架空設定としておいておくとよいのではないかと思います。
このことは、実際に複数の師匠を持てと言っているのではありません。現実に二人からの指導を受けていますと、それは混乱することが多いので、逆効果のこともあります。
自分の人としての師匠の言葉・方法などを、自分なりに検証し、客観的に見つめるためにも、自分における別の「ご意見番」みたいな存在を作っておくとよいと言っているわけです。それが、お互いに情的なものが過剰にならないたの工夫でもあります。
あと、前にも書いたことがありますが、分野ごとの師匠を持つとよいです。
タロットで言えば、小アルカナ4組の象徴でもある、4つの分野で見ていくのもありです。
今回はあえて省きますが、例えばお金や経済的なことでの師となる人、自分の趣味の分野での師匠など、それぞれ別で持つわけです。
中にはメンター的な人物となりますと、すべての分野(いわば人生)のトータルな師という立場の人もいるかもしれませんが、それはそれで、5番目(4つの分野)の、全体を統括してくれる師匠という人で、なかなかそういう方は見つかりにくいですが、もしいらっしゃれば、とてもためになるでしょう。
この先生と知り合いたいとか、この人のセミナーなどを受けて「自分の師」としたいと思ってる人物がいても、なかなか経済的なことや、時間的なこと、距離的なことなどで、知り合う機会、参加する機会が得られないままという方もいるかもしれません。
そういう場合は、直接関わりがないとしても、その人が発信しているものにふれて、その人自身というより、その人が表現しいるもの、述べていること、その内容自体を心の師とすることで、先述した架空設定の師匠に、自分の中ではなってくれるようになります。
結局、究極的には、他人も自分のようなもので、師も弟子も、立場を超越して、学びたいと思う自分の中に存在していると言えます。
あなたにとっては、実際の師も、心の中の師も、実はあなた自身でもあると言えます。
現実の世界なので、実際の「人間」のほうが、やはり影響力は高いと考えられますが、架空の師であっても、自分に何らかの形で影響を及ぼし、自分にとって学べることができる存在だとも言えます。自分が自分を導き、教えているのです。
ただ、それは漫然としていては、架空の師から学ぶことはできません。
自らが真剣に学ぶ態度と行動を示し、知識と経験を積み重ねていくことで、自らの中の架空の師も成長し、あなたに適切な助言や気づきをインスピレーションのような形を通して与えてくれます。
今や、学びの環境は、かつてないほどに整っていると言えます。直接の人でもよいですし、架空の師の設定でもよいので、学びと成長を志すと、それに呼応した人物が現実にも、心の中にも現れることでしょう。
それは誰かの師という立場の人であっても同じで、自分の弟子ですら、別分野では(同じ分野の何かでも)自分の師となることがあるのです。
そして、あなた自身も何かの師であり、今はそう思えなくても、必ず、そうした瞬間がやってきます。もとはと言えば、神性(完全性)を有する私たちなのですから、弟子・師匠というのも、一種の舞台装置のようなものなのです。
その舞台には、また縁が働いており、あなたの劇場に登場する人物が究極のシナリオによって作られていて、それを楽しむ本質的な自分がいるものと思われます。
その意味でいえば、出会いはすべて師であり、弟子なのだということになるでしょう。
万策は尽きたのか?
「SHIROBAKO」というアニメがあります。
アニメーション制作の現場から見た物語で、とても面白いですし、感動もするので、おススメいたします。
そのアニメ「SHIROBAKO」の登場人物が、アニメ制作の過程で困難に遭い、「もう無理だ、納期までに納められない」と絶望する時に使う有名なセリフとして、「万策尽きたぁ~!」と叫ぶものがあります。
まあ、結局、そうは言いつつも、何とかなってしまうのですが・・・それが物語というところです。ただ、本当にアニメ制作の現場は大変らしく、そのようなことは、事実としてあるんですよね。
ここでアニメ話をしようというのではありません。
この「万策尽きた」が今日のテーマとなるので、引用したまでです。
人間、人生の中で、一度や二度は、ものすごいピンチの状況という時はあるものです。まさに「万策尽きたぁ~!」終わりだぁ」と叫んでしまいたくなるようなことがあります。
まだ叫ぶくらいの元気があるうちは、実はまだ余力が残っていることが結構ありますが、状況・環境も最悪で、自分の生命エネルギー自体もなくなっているような、いわゆる極度のうつ状態にまでなっていますと、叫ぶ元気さえもなく、本当に「死」というものを考えてしまうことがあります。
私自身も恥ずかしながら、うつ病などの時代、その他の時でも、死を思ってしまったことが何度もありました。
しかし、マルセイユタロットを学習し、その象徴性を知るにつれ、どん底、絶望のような時でも、救いがあるのではないかと、少しでも光を思う機会が出るようになってきました。
それは、意外に思われるかもしれませんが、タロットを展開してリーディングするような形ではない、光や救いの希望なのです。
タロットの活用といえば、タロットリーディングのことを想像される方が多いでしょうが、他人に対してはそうと言っても過言ではないところがあるのですが、自分にとっては、タロットを展開してリーディングするというより、タロットそのものの象徴性を思うことで、助かったり、楽になったりすることがある気がします。
それは通常の方式の自己リーディングでは、なかなか客観的にはなりにくいからです。
ところで、マルセイユタロットには、「吊るし」というカードがあります。
ほかのタロット種の解釈では、このカードは、「吊られた男」とか、「吊るされ人」と呼称され、まるで拷問や逆さづりの刑にでもされているかのような、苦しさや犠牲のようなイメージがされています。
しかし、私たちのマルセイユタロット解釈では、この人物は自ら逆さのスタイルを取って、むしろ悠然と楽しんでいると解釈するのが基本です。
いわば、能動的かつ、変則的待ちの状態です。
ただ、マルセイユタロットの「吊るし」においても、やはり、つながれている、困難で苦しい状態と読むこともあります。
「吊るし」の人物の手は後手であり、足も組まれていて、ひもにひっかかってはいますが、縛られていると見る人もいるでしょう。
言ってみれば、手足の自由を奪われ、狭い二本の柱の間に押し込められているようにも見えるのです。
となると、この人物にとっては、「万策尽きた」状態となっていることも考えられます。
確かに、漢字の囚人の囚の字(人が囲われた中にいる、閉じ込められている)に見えなくてもないですよね。
いや、果たしてそうでしょうか? 本当にこの「吊るし」の人物は、出口や解決策が見つからない状態なのでしょうか?
もう一度、よく「吊るし」の図像を見てみますと、彼(男性であるとは限りませんが)の逆さに向いた頭の方向は、木で囲われていません。なるほど、三方は囲われていますが、ひとつ、下の方は開いているのです。
実は、ここにはすごい秘密があり、詳しいことは口伝的な秘密なので明かせませんが、普通に考えても、頭の方向が開いているということは、「考えれば出口はある」という象徴として、見ることも可能でしょう。
しかも、彼は逆さの姿勢なのですから、まるで天地が逆転したかのような見方をしているわけです。この象徴性をよく考えることです。
なぜ、あなたは万策尽きたと思ってしまっているのか、なのです。
そう、「万策尽きた」「もうダメだ」と思っているのは、あなたの中の現実が、です。
見方によって、現実は変わります。本当は、策がないのではなく、策がないように思い込んでいる、思い込まされているだけかもしれないのです。
そうは言っても、現実は自分の現実認識として、とても強固なものになっているので、どうしようもないと思うわけですよね。
ここで、マルセイユタロットの大アルカナ、それぞれのカードが生きてくるのです。
特に、マルセイユタロットでは、数の順に偉大なる智慧が隠されています。
「吊るし」の場合、その数の前後などのほかのカードを見ていくことで、「吊るし」状態の良し悪し、打開策を発見することができます。
特に、次の「13」と「節制」については、その象徴性を学べば、本当に救いになってきます。この二枚のカードの組み合わせが偶然ではなく、意図して配置されているのが、よくわかるのです。
何度、この組み合わせに救われてきたことかと思うほどです。
また、「吊るし」単独だけでも、困難さと同時に、その解決や解除策も示唆しています。
それはほかのカードでも同様で、それぞれのカードは、それぞれのカードによって修正されることもあるのです。言い換えれば、一枚一枚の象徴性において、問題と解決が同時に示さているということなのです。
「吊るし」では、出口の話や姿勢の話をしました。ほかにも、「吊るし」における問題性の解決は、「吊るし」自身に示されています。
よく言われるように、「神は、私たちに越えられない試練は与えない」と言われます。
また、カルマ論などをあえて用いるとすれば、今の苦難は、霊的・魂的には、その解消や浄化の大チャンスともいえるわけです。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もあるように、まだやれることや救いを求められる対象・方法がないか、頑張って探して見ましょう。
もちろん、本当に万策尽きたと思われる状態に陥ることもあるかもしれませんが、自ら死ぬことは最後の「策」ではなく、むしろ、さらなる縛りをかける、自分への長い呪い行為になると考えられるので、よい意味でのあきらめ、自分への完全承認みたいな、一見、放棄のような受容をしてみると、逆転や救いの可能性も出てくるのではないかと思います。
例えば、マルセイユタロットの「力」から「13」の流れには、「吊るし」を真ん中に挟んでという配置になっています。
一度、この三枚を並べてみるとよいです。
「力」は「吊るし」を見ており、さらにその先には、大きな鎌をもった「13」が見えます。「力」と「13」は数が進む方向性を見ています。
二本の木で囲まれている「吊るし」は、もしそれが困難な状況を表しているとすれば、「力」と「13」によって、どうなっていくことが望まれるでしょうか?
私たちの中には、計り知れない神性のエネルギーが流れている(存在する)とされています。この力を信じて、自分を貶めず、神(性)と通じるのなら、すべての問題は解決していくと言われています。
あなたの問題や苦しい状況は、あなた自身の歪みでとらえた現実にあると心理的・霊的には例えられますが、そうであるならば、歪めさせられているあなたの自我を赦し、解放し、新たな世界を創造していけばよいわけです。(それゆえ、「吊るし」と「世界」は共通した絵図であり、テーマがあります)
言うは易し、行うは難しかもしれませんが、マルセイユタロットの自己成長の象徴性を深くインプット、いや、そのプログラムを思い出すことで、それらが自動的に働くようになっているように感じます。
従ってマルセイユタロットの学びは、苦しい時もあるかもしれませんが、歪んた自分というものが少しずつ浄化、解体されていき、本当の意味で楽になっていく方向へ、自らの神性が導ていくのだと思います。
好き嫌いではなく、本当に自分がこれは苦しい、つらいと感じることと、心地よい、少しはましであるという境界線を、落ち着いて見極めていくことです。その線引きがあいまいになっていて、ただしなくてもいい苦労や、本当は楽になっていくはずの方向性を、自らで見えなくしていることがあります。
ほかの世界、次元に移れば、今まで思っていた「万策尽きた」状態ではなくなります。新しい世界では、昔の世界とは見方も考え方も、利用できる資源さえも変わってくるからです。
万策尽きたのなら、その(あなたを形成させている、これまでの認識)世界では限界だという意味でもあります。
ならば、次の変容(13)へ自分を進めさせる必要があるのです。
その勇気は、力とともに、あなたの中にあるはずなのです。