カードからの気づき
正義と悪魔 罪悪感
マルセイユタロットの「正義」のカードと「悪魔」のカードでは、まったくの正反対の意味のように思いますが、この両者は、ある心理的な観点からすると、関連性を持って見ることができます。
それは罪悪感にまつわることです。
罪悪感がない人、持ったことのない人は、中にはいるかもしれませんが、普通は、皆さん、何らかのことで抱いたことはあると思います。
それはまさに文字通り、「悪いこと、罪だと感じる感覚」ですので、悪を断じたり、悪いと思うことを自分で認めたり(反省したり)することにもつながりますから、決してダメなことではないでしょう。むしろ人間の成長のためには、よいことなのかもしれません。
しかし何事もバランスであり、歪(ひずみ)をもった罪悪感、本当は持たなくてもよい過剰なる罪悪感であるのなら、それはやはり問題となります。
そもそも「悪」や「悪いこと」と思うには、その反対の正しいこと、正義という基準・価値観がないと生まれません。
ということは、自分にとっての悪は、自分にとっての正義の反対であり、その逆(自分にとっての正義の反対が自分の思う悪)もまた真なりです。
やっかいなことに、個人の場合は、そのふたつの線引き、価値基準が人によって違うことです。
国家的・社会的なものは、一応、明文化された法律・規則というものがありますから、それに反することはたいてい悪(というよりルール違反ですが)になり、順守しているほうは正しいとなります。それが個人的感情として納得するかどうかは別としても、あくまで公式ルールなので、従うしかないわけです。
ここ(はっきりとした客観的規則があるもの)はタロット風に言うのなら、4組(四大元素)の剣(風)の世界であり、杯(水)、つまり感情によってゆらめいても、線引きは可能だということになります。
しかしながら、個人の場合は自分の中に法律があるようなもので、しかもそれは明文化されていませんし、主観ですから、ずっと同じ基準で固定されるわけでもなくも流動的です。つまりは、正義も悪も人によって異なり、あやふやで、感情や気分によっても左右されます。
とはいえ今の自分、個人として、なにがしかの善悪、正義と悪の基準を持っているのは確かです。そして、その内なる自分の法律に従い、自らを、あるいは他人や物事を裁こうとします。いわば、誰もが内なる法律の裁判官なのです。
そこで罪悪感です。
罪悪感は、このように、自分の内的な価値基準、内なる法律のようなもので、自分では正しくないと思った(裁いた)こと(悪、悪いと思ったこと)に、刑罰を与えようとします。それが、自分にとっての心理的なバランス調整なのです。(「正義」のカードに、剣と天秤があるのも、極めて象徴的です)
これが自分に向かう場合は、自己を罰することになりますから、いわば大きな意味での自傷行為、自罰行為を成すことがあります。
これは自分に対する罰を自分が行っている(執行している)ようなものです。
例えば、恋愛や人間関係でわざと気まずくしたり、よい関係を壊そうとしたり、仕事では大事なところで失敗したり、無理な案件や内容を自分に課そうとしたり、残業など肉体を酷使したりします。
かなりのパターンであるのは、神経か肉体を痛めさせるというもの(罰)です。つまりは何らかの病にかかる、あるいは病気のような状態を呈するのです。
問題は、この罪悪感から来る自罰行為を、自分の表面的な意識は自分がやっているとまったく思っていないことがあるのです。
人生のシーンで、何かうまく行かない、目標や望みが達成できない、心や体が何か調子悪いというようなことに、こうした罪悪感が関係し、自罰行為のシステムが潜在的に働いている場合があり、それが自分ではわからないというケースが結構あります。
これは、カウンセリング、心理的なことを含む相談やセッション、リーディング、セラピーの過程で判明することがあるので、何となく心当たりがある人は人に見てもらうのもよいでしょう。
一方、これが自分ではなく、他人に向かう場合があります。自分の罪悪感を外に押し付けることで自分の責任逃れや、罪悪感から解放されたいという行為です。
この場合は、他人への嫌悪感(結局、投影に近いことですが)とか、攻撃、批判という形になります。
これとは少し異質なのですが、タロットの「悪魔」と「正義」の並びで浮かんでくることは、罪悪感とは逆の、自分の正しさを保証(意味的には保障にもなります)してくれる人を求めて、悪魔のような強い人、カリスマ的な人の下につながれに行く、つまりは依存するというパターンもあります。
場合によっては罪悪感の裏返しの正義(悪いこととは思っていても、自分は悪くないと思いたいがために、開き直るがごとく、他人を利用して自分が正義であることを守るもの)のために、悪魔的な、一般に影響力の強い人とつながろうとすることもあります。
さらいえば、「悪魔」の下に入った人たちは、傷をなめ合うかのように、自分(たち)は悪くない、正しいんだと思い込んで集団で安心するケースもあります。
ただ、言っておくと、誰しも大なり小なり、この「正義」と「悪魔」との、罪悪感と正しさ(自分は悪くないこと)の調整はやっています。小さいことなら、それこそ無数にあるのではないでしょうか。
そうして、私たちは心のバランスを図っているとも言えます。
しかしながら、自分の内的な法律があまりにも厳しくて、自分を縛り過ぎ、いつも自罰行為をしたり、他人へ批判的になったりしていては、自分で牢獄の中に入っているようなものてす。いわば、自分の法律によって世界をとても小さく、窮屈なものにしてしまっているのです。
しかも、自罰、自傷をしていると、自分にとってよいわけがありませんし、実害が自分だけではなく、他人にもかかってくることがあります。
先にも述べたように、公のもの、社会的に明文化されたルール、法律は変えることは難しく(変えることはできますが)、公共の利益・福祉、皆の生活のためには、従うのは当然のことです。それだけにはっきりしていて、誰にとっても明確で悩むことは少ないでしょう。
けれども、個人の内的なものは、不安定でもあり、その正義と悪、善悪の線引きも可変的です。そのため、悩みや葛藤も発生します。
それでも、一生従わなくてはならないことはなく、自らがどうとでもすることができるのです。法律を作るのはあなた自身であり、裁くのもあなたなのですから。
罪悪感で自分を縛る人は、タロットでいえば、もっと「悪魔」と仲良くなること(エゴ、自分が自分であることを受容すること)であり、その反対の、あまりに緩すぎる人は、「正義」を思う必要があります。
罪悪感は、宗教的なこと、育った家庭教育の中から生まれていることもあります。一度、本当にそれは自分にとって悪いことなのかどうか、冷静に、いろいろな経験と知識を得た今の自分から検証してみる必要はあります。
同時に、この自分の思う正義、正しいことというのは、どのレベルで言っているのか、ということも考えるとよいでしょう。
よく勘違いされますが、正義や悪は本来ない(人が決めている)のだから、何をやってもいいのだ、自由だという人がいますが、レベルや次元、階層別に、きちんとルールは存在します。
確かに次元が上がれば、その下の善悪、正義と悪はどちらでもないような観点になるでしょうが、上の次元においても、下とは違うものであっても、それなりに善悪はあるはずです。ここは難しいところで、下と上の階層では、二元的なものがまったく逆に入れ替わるようなこともあるのです。
ですから。あるレベルからすると、それは悪いものだよと言われても、また別のレベルでは、必要な良いもの、正義という場合もあるわけですから、一概には決められないと言えます。
言い換えれば、レベルの高い人が言うことは、あなたにとって(あなたの今感じている次元やレベルにおいて)必ずしも、正しいとは限らないということです。
タロットの「正義「と「悪魔」、正反対のようですが、なかなか両者をともに考察していくと、面白いことが見えてくるものです。
波に乗る 乗らない
量子力学的な引用で、この世界(素粒子レベル)は波動と粒子の両方の性質を持つと言われます。
とぢらでもあって、どちらでもないわけで、それは少し古い言い方にはなりますが、「観測者(の存在)によって変わる」という、一見不確かなようにも見える世界でもあるということです。
ともあれ、粒子とともに、波動、波としての状態もあるということはわかります。
ということは、私たち自身が波であるのか、はたまた粒子であるのかによっても、見え方、感じ方といいいますか、世界そのものの在り様も変わるのではないでしょうか。
私たちはよく波に乗るという言い方をします。
これは調子がいい時や、何か幸運をつかむような時の表現でも言われます。
反対に、調子が悪いと、波に乗れないとか、波からずれている、はずれている、落ちている、合っていないというような言い方もします。
波に乗る、乗らない(乗れない)という表現で、イメージされてくるマルセイユタロット(大アルカナ)と言えば、やはり「運命の輪」でしょうか。
「運命の輪」には、その名の通り、運命を象徴するような輪があり、それに「乗る」ような形で、三匹の動物が描かれています。
そして下には大海のようなものがあり、この輪のマシーン的なもの自体が海に浮かび、波に揺られている状態で、つまりは、波(乗り)との関係性が二重で示されていることになります。
この「波乗り」の二重性は、なかなか興味深いところです。
まず、輪のほうの「乗り」で見ますと、やはり、三匹の動物たちの乗り方が特徴的です。向かって左側の動物は輪からずれたり、降りようとしていたりするようにも見え、方や、向かって右際の動物は、必死で振り落とされまいとしがみついているようにも見えます。
さらに、一番上の動物は、悠然と構えていて、輪の「乗り」を楽しんでいるか、まったく回転を意に介さないかのような印象です。
もし輪がそのまま文字通り、運命を示すのであれば、私たちはこれらの動物のように、ある時は運命の流れから落とされるかのように感じたり、またある時は、必死で運をつかもうと作為したりするかのように見えます。
そういう中で、真ん中の動物だけは、運命を知っているのか、そういうものを意識し過ぎないのか、輪自体には確かに乗っていますが、回転の影響は受けていないので、ある意味、「乗っていない(動いていない)」とも言えます。
ただ、この真ん中の動物としても、下の大海の上下のような波の運動は感じているかもしれず、その影響はあるようには思います。
それでも、まるで海を進む船が、この船は大丈夫だと確信しているかのように、大海の波乗りと、輪の波乗りのふたつを同時に楽しんでいるかのようです。
一方、輪の中の左右二匹の動物たちは、おそらく大海の波の動きには関心がなく、それを感じてはいても、輪の回転、輪の動きだと誤解したり、混同したりして、波乗りについては、輪のほうに意識が偏っていると推測されます。
私はあえて、大海が何であるかとか、輪が何であるかということを答えのように、ここでは示しません。さきほど、「輪は運命だとしたら・・・」と表現こそしましたが、それはそうかもしれませんし、そうでないのかもしれないのです。
ここは皆さん自身で、自分なりの回答とか、象徴しているものの意味をつかんでほしいと思います。
もう一度、大切なことなので、「運命の輪」から見えてくる構造を、「波乗り」を、描かれている動物を比喩にして書きます。
●回転する輪に翻弄され、それに乗ろう(落ちまい)とする動物と、輪からはずれたり、落ちようとする(落ちてもいいかのような)動物
●輪の回転に影響されないが、輪には乗っている動物
●大海の波を知りつつも、動揺しない動物(輪の上の真ん中の動物)
●大海の波の運動を、輪の左右二匹の動物は知らないか、感じ取りにくい(輪の波乗り、波降りに集中している)
ここで、最初の話に戻ります。
すでに古典的なものではありますが、量子力学では、波動と粒子の二重性が言われていて、もし私たちに波動か、粒子かの選択があるとすれば、波動状態そのものであれば、実は波を実感することはできず、粒子であれば、つまり物質的な形のようなものであれば、逆に波は感じられるのかもしれません。
しかし、波の運動によっては、私たちは、自分が小舟のように右往左往してしまうかもしれず、何とか、うまく波乗りしようと頑張って、上手に乗りこなしていると見える時と、まったく波と合わずに、サーフボードから落下してしまったり、船が沈没してしまったりするかのようなこともあるでしょう。
「運命の輪」の真ん中の動物は、なぜ回転の輪の波乗りを平然とこなすことができるのか、そして、大海の波に翻弄されることがないのか、このことは、「運命の輪」のカードそのものからの重要な示唆であると考えられます。
輪の二匹の動物は、絵としての二次元表現でも、動いているように見えます。
それは輪(の絵)とともにあるからとも言えます。ちなみに、輪をよく見ると、マルセイユタロットでは、「運命の輪」が立体的、三次元にも見えるのですが、その三次元感覚でさえ超えるような、不思議な描かれ方もしています。(例えば、輪の中の向こうの景色、背景が見えないなど)
さて、こうして見ていくと、「波に乗る、乗らない」という表現と態度は、もしかすると、逆に私たちを波から遠ざけているのかもしれないのです。
しかし、また反対に、その表現があるからこそ、実体として見えない運命のような波、何かの流れ、波動のようなものを感じ、外に表現することができるとも言えます。
ここに、物質性と精神性、または霊性とのつながりが見え隠れするのです。
ちなみに、「運命の輪」は、詳細は言いませんが、時間とも関係するカードです。
流れる時間と空間の感覚こそが三次元を生み出しているとも言え、波乗り、波降りに振り回される二匹の動物がごとく、私たちは、時間と空間の中で、もがいているようにも見えます。
ところで、大アルカナは22枚ありますが、ある分け方をしますと、10枚×2の分類で、残り二枚が「愚者」と「世界」になるというものがあります。つまりは、「10」という数と括りが、セットやサイクルを象徴することになります。
その数を持つ「運命の輪」が、重要な位置(終わりと始まり、プロセスの重要な転換点)にあるのは想像できます。
運に対しての私たちの考え方も、言葉で言えば、運に乗る、運をつかむ、運から見放される、運に振り回される、運がない、運がよい・悪いという、運をあたかも客観的に自分とは別に存在するかのような表現をよくします。
これがもし主観的なものだったら、どう表すでしょうか。
こうしたことも、波とそれに乗る者、扱う者との関係性で、「運命の輪」をもとにして考察できると思います。
縁と行動とタイミング
今日のタイトル(縁、行動、タイミング)は、マルセイユタロットで言えば、「恋人」、「皇帝」、「運命の輪」という感じです。
ただ、レベルが変われば、例えば、縁は「審判」とも言えますし、「運命の輪」でも表せるほか、別の見方では、もっとほかのカードでも象徴となります。
もちろん、行動、タイミングも同じようなことが言えます。(タイミングだけは、かなり「運命の輪」に絞られてきますが・・・)
また、実は「恋人」カード一枚に、この縁、行動、タイミングのすべてが入っているとも言えるのです。どれがどれなのかは、図柄の詳しい説明をしないといけないので、ここでは省きますが、少しだけ述べれば、恋人の三人の人物が行動、上空のキューピッドが縁、タイミンクは秘密としておきます。(笑)
同じようなことでは、「運命の輪」でも、縁、行動、タイミングを一枚で表せます。
ところで、この「縁」「行動」「タイミング」についてです。
人生をそれなりに生きてきますと、これらが重要な要素を占めているのが、おそらく皆さんにもわかってきているのではないでしょうか?
いわゆる経済的な成功についてもそうですし、健康問題、人間関係など、およそ、生きていくうえで人が関心を持ったり、問題となったりすることのほとんどが、実は、これらの三つに左右されるのではないかと想像できます。
簡単にひとつひとつ見て行きましょう。
まず「縁」です。
縁、特に人の縁がつながって、人が紹介されたり、出会ったりすることで、その人の人生は大きく変わります。あの人との出会いがなければ今の私はなかったとか、あのこと(縁)があったので、このような仕事に就いているとか、パートナーや家族になったとか、あるわけです。
時には病で、ある縁がつながって、名医や適切な治療ができる病院を知って、命が救われたという場合もあるでしょう。
それだけ縁は大事だということです。まあ、カルマ的な話を持ち込めば、縁も自分でつけることのできる縁以外に、見えない力やデータが働いて、つけられる縁もあるということで、まさに良縁は自分のよい思考や行いに由来するとも言え、逆に悪縁もしかりで、自業自得なところもあるのかもしれませんね。
ということは、良縁を望むということは、現実での普段の考え方、行為とともに、天・宇宙・先祖など、見えないものに対する感謝のような気持ちも大きな要因となりそうです。
さて、縁の中で「行為」という言葉が出たように、次は、「行動」についてです。
いくらよい縁がつながったとしても、自分がその人に会うとか、そこに行くなど、何か行動しないと、何も始まらないわけです。
これは腰の重い人や考えすぎ傾向の人には結構あることで、せっかくよい縁が来ているのに、疑ったり、面倒になったりして、行動を起こさず、みすみすチャンスを逃してしまうことがあります。
それに、たとえ悪縁であっても、行動次第では悪縁を断ち切り、よいものに替えていくことも可能です。
私たちは想念だけの世界に生きているわけではなく、現実の形ある世界にいるのですから、そこに実際に働きかけること、行動を起こすことをしないと、形としての結果は変わらないことが多いわけです。
そして、最後は「タイミング」です。
これはいわば、縁と行動の両方に関わる(ついて回る)ことと言ってもよいでしょう。
よい縁があり、そしてそれに向けて行動したとしても、タイミングが悪いと、出会えなかったり、効果か薄かったりすることもあります。
また、言い方を換えれば、よい縁とはよいタイミングであるとも考えられ、さらに行動が重なると、グッドなことが起こると想定できます。
ということは、逆に言えば、自分の成すタイミングがよくなればなるほど、良縁に恵まれ、行動と結果もスムースになり、望んだもの(人生)になっていくと言えます。
自分の「タイミングがよい」ということはどういうことでしょうか?
ひとつには、自然や宇宙の流れと一致している(大きなズレがない)ということがあるかもしれません。それならば、自然・宇宙の流れとは何なのかということを知る必要があります。
もうひとつは、現実次元において、スピード(間)が適切であるということでしょう。俗に「間が悪い」とか「間に合う」という言い方をするように、間・間隔、時間の刻み方、速さが、物事のタイミングと合っているわけです。
人の場合だと、その人の望むタイミングでこちらも連絡したり、会ったりできるという感じで、要するに、シンクロ率の高さ、上昇とも言えます。
間(ま)、タイミングは、万人に共通な時計時間の世界において、それぞれの内的な時間が関係していると考えられ、それはカイロス時間、精神時間とも表現することもできます。
タロットで言えば、大きな時計時間(クロノス時間)の回転の中で回っている、別のそれぞれの内的な時間(カイロス時間)という感じです。
その内的時間同士が合いやすいというか、合わせやすい人は、タイミングがよく合う人、よいタイミングで動く人と言えます。
現実世界は、分離世界といえ、タロットで言うと小アルカナの四大元素、4組の世界です。
4組は、風・水・火・地のエレメント(元素)を象徴する剣・杯・杖・玉(ソード・カップ・ワンド・コイン)で示されています。これらがバラバラで分かれているように思える世界が現実世界で、人で言えば、全員個性があって同じ人がいないという感覚のものです。
ですから、土台、現実世界では分離、バラバラなものなので、「合う」ということが難しいのです。
そういう中で、たとえ偶然でも「合う」というのは、一種の奇跡が働いているようなもので(神の力で起こっていると見れば、「奇蹟」になります)、すごいことなのです。
古代ギリシアでは、四大元素の集合離散について、愛・憎によって起きていると考える人がいました。(エンペドクレス)
最初は?と思うでしょうが、四大元素や宇宙の仕組みを知ってくると、なかなかに興味深い説だと思います。
この説からすれば、四大が分離した世界、つまりは私たちの認識する現実世界において、愛があれば、響き合い、統合していくものと考えることができます。
つまり、タイミングについても、シンクロしたり、合ったりするには、愛が重要な鍵となるのです。
タイミングが合うことを望むのなら、合わせたい人や物事を愛し、時間や縁、運といえるものからも愛されなければならないのです。
ちょっと古いですが・・・サンシャイン池崎氏のギャグ(笑)ではありませんが、人に愛され、縁に愛され、時間に愛されて、ジャスティスならぬ、ジャストタイミングが来るのです。
孤立を深め、エゴの塊になればなるほど、誰からも何からも愛されなくなり、もちろん自分が愛することもできず、四大は分離していきます。
すると、シンクロも起きず(起きていても気づかず)、良縁は来ず、行動はしても一人よがりになって非効率的になり、タイミングはますます、ずれていきます。
ちなみに、「運命の輪」の輪の上にいる動物(スフィンクス)は、統合のシンボルでもあり、輪の中にいる犬と猿とでは次元が異なること示しています。
犬と猿のような状態で、必死にタイミングを合わそうとしたり(犬)、逆に無為無策と言いますか、棚ぼたに期待するような姿勢で幸運を待ち望んでいたりしても(猿)、本当のジャストタイミングになるのは難しく、反対に、二匹のレベルから脱しているスフィンクス状態になれば、自然にタイミングは合うのです。
縁、行動、タイミング、これらがスムースに運ばれ、よくなっていくためには、自他の愛が必要であること、逆に見れば、愛の振り分けが縁となり、行動となり、タイミングを決めていくとも言え、縁だけ、行動だけ、タイミングだけをエゴ的に固執していても、総合的には良く働かないことを、タロット的に述べてみました。
シンクロニシティのちょっと変わった考察
シンクロニシティ、つまり必然性があるかのような意味ある偶然、あるいは偶然の中の意味の取れる必然性というような現象で、スピリチュアルに関心のある人は、シンクロと略しつつ、よくそのことを述べられます。
タロットリーディングにおいても、シャッフルなどして、どのカードかわからない状態のものから引き出したカードが、自分の問題や知りたいことを示していると見るのも、シンクロニシティを前提にしないと成り立たないものです。
ただ、人間は関心を抱いたものを情報として集め、さらに言えば、関心のないもの、今特に(生存において)必要性のないものは逆に遮断する傾向もあるため、言ってみれば、偶然のように起こった意味ある事も、自分があることに関心をずっと持っているため、何を見ても(何が起こっても)自身が関連づけをしてしまっているとも考えられ、極端に言えば、関心事関係しか目に入らない状態、もしくは関連せさてしまう精神状態にあるからと、シンクロ現象を分析できるかもしれません。
となると、シンクロニシティは偶然の必然と言うより、すべて自分が意図的に起こしている必然の可能性もあります。
ところで、シンクロニシティ(以下、シンクロとも表現します)が特にテーマとなってくるもののひとつに、シンクロニシティによる答えや進むべき方向性がわかるかどうかというものがあります。
自分が何かの問題状況にあったり、進路・選択に迷いがあったりする時、およそ関連性のないもの同士の出来事なのに、自分の問題に関して回答を得られたような必然的な意味・関係性を見出せる場合があります。
時計やレシート、車のナンバーなどの数字、看板の文字、カフェやレストランでの知らない人の会話の内容、雲の形、虹の現れ、日が急にさしてくる、風が吹くなどの自然現象等が、自分の問いに対して、なぜか答えや道が示されたかのようなシンクロ性を感じることがあるわけです。
これは、何がシンクロしていると感じるかと言えば、結局、タイミングです。
関係ないことでも、タイミングが自分にとって絶妙だった、タイミング的に偶然とは思えないから意味あるものと感じます。
逆に言えば、タイミングがバラバラで、間が悪い時に起こったことは、シンクロとは感じないことが多いと言うことでもあります。
タイミングと言えば、文字通り、時間に関することになりますが、この時間というものがちょっと曲者です。
時間には種類があると言われます。一般的によく取り上げられるのは、皆に等しく流れる時計的・機械的な時間と、一人ひとり個人の心に流れる精神的な時間です。
シンクロだと感じる場合、この時計時間の中に、精神時間が入り込んで、現象を意味あるもののように結び付けているとも考えられます。
別の言い方をすれば、精神時間に私たちが移行している時、シンクロを感じやすいということです。
マルセイユタロットからも言えるのですが、私たちは時計時間で生きる自分と、自分の中の時計、いわば精神の時間で生きる自分との二人がいて、それが時にはせめぎ合ったり、邂逅(クロス・融合)したりしているように思います。
メルヘン的な言い方をあえてするとすれば、精神時間を駆けている自分が、普通の時間で生きているもう一人の自分に会いに来るわけです。(笑) その瞬間、偶然でバラバラであると見られていた物事・現象が、意味あるものとして結びつきます。
精神時間の自分は、時計(通常)時間で生きているあなたの問い(の答え)を検索している存在でもあります。
精神時間は過去→現在→未来という流れとは限らず、その逆であったり、時間がそれぞれ並行したり、時計時間的には伸び縮みしているかのような感じにもなります。いわば、一定の時間の流れや方向性ではないのです。
ゆえに、例えば、未来や過去の出来事にも問いに対して検索がかけられ、それに見合うものを引き寄せてくるような感じになります。
普通の時計時間的な世界では、過去・現在・未来の流れを中心とした論理性、つまりは因果関係が目に見えて明確な形でないと、それぞれの関連性、結びつきが理解できない、あるいは必然性があるとは考えられないものです。
しかし、精神の時間では、その縛りから解放され、別の論理性や理由をもって、物事に関連性がもたらされます。
言ってみれば、睡眠中に見る、一見混沌とした「夢」に、何らかの意味を見たり、関連を通したりすることができるというようなことに似ています。
シンクロによる問いの回答が正しいのか、そうでないのかは、はっきりとは言えません。
なぜなら、その正しい・間違いの判断の基準が、どのレベル(法則)のものなのかがはっきりしていないからです。
一般的に言われる正誤の判断は、現実の人の多くの一般的価値観の判断によるものと考えられますが、それは個人として見た場合、絶対基準とは言えません。
あの人にとってよいことも、自分にとっては悪いこと、またその逆もあるのです。つまりは、一般的にはそれは正解と考えられていても、個人で見た場合、正解とは言えず、自分なりの正解は別ということも個人レベルでは普通にあるわけです。
シンクロを見て、回答や進むべき道を知るということでも、それはどちらかと言うと、ニュアンス的には個人的レベルなものです。
そうであるならば、シンクロで感じられる答えというのは、個人の中にあるもので、自分がもともと持っている回答とか進みたい方向性と言えます。
ひねくれた言い方をすれば、本当にしたいこと、やりたいこと、あるいはその逆に辞めたいこと、したくないことなどの本音の世界(気持ち)を、シンクロという現象を理由にして(創り出して)、自ら後押しや理由をつけたがっているとも言えます。
ただ、シンクロで知る答えは、本音とは限らないこともあります。
先述したように、シンクロ現象は、精神時間で生きるもう一人の自分による検索や、別の観点による意味付け(別次元の論理)とも考えられますから、抑圧したり、心の奥にしまっておいたりしている潜在的な気持ち、さらには忘れてしまってはいるものの、実は結構重大な情報ということもあり得ます。
要するに、シンクロからの情報による答えが正しいか正しくないかで見るよりも、シンクロとして感じたことは、普段や常識で思考したり、感じたりしている自分とは別の情報ソースの扱いだったり、いつもとは違う答えの導き方として起こっていたりする出来事として見ればよいのではないかということです。
端的に言えば、精神時間の自分からの現実(時計)時間の自分へのアドバイスみたいなものです。ですから、時計時間で生きているこちらの自分との協議であってもいいのです。
ただ、向こう側の自分は、時空を超えた情報世界にいますし、自分の内側をよく知る存在です(実はややこしいですが、自分の真の外側を知る者とも言えます)。
ですから、シンクロと思える情報や感じは、結構深いところを突いていたり、的を射ていたりする場合が多いのです。スピリチュアルな合理性を持つと言ってもよいでしょうか。
ただ、自分の通常意識が関心を持っているから、そのように見えてきたという、単なる意識の特定事項のフォーカスによって、あたかもシンクロのように見えるものとの違いはあると思います。
やはり、その最大の違いは、シンクロの訪れるタイミングであり、ずっと注目していたからやはり現れたというより、むしろ関心事から意識をずらしたり、当の出来事から離れたりしている時に、突如飛び込んでくるものや、あとあとで、意識の上に、まるで一本の線が次々と結ばれていくかのように、バラバラで別々のこと同士がすべて関連づけられて、「ある種の型」とか「象徴的なメッセージ」が形成されてくるのは、シンクロ現象だと言えます。
とにかくも、絶妙なタイミングで起こるものに、これまで述べてきた自分の中の二人の出会いがあると言えます。
マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の回転で象徴され、ふたつの別の「運命の輪」がまさにシンクロ・同調して一致した時、あなたに偶然のような、意味のある必然性が起こるのです。
シンクロで回答を得ることを求めたり(シンクロしたことが正解と思ったり)、必要以上に特別な意味を持たせたりするのではなく、意識上の違いをよく認識し、むしろバランス修正や、統合の視点で見ていくと、シンクロに振り回されることも少なくなるでしょう。
一般の人は、もっとシンクロに意味を見たほうが、特に情緒的世界が広がりますし、逆に、スピリチュアルに傾倒し過ぎている人は、自分の意識が起こしていること(同じように意味付けしやすい心のパターンにはまっていたり、洗脳されたりしている恐れもあります)だというように、冷静に見ることも必要かもしれません。
吉野の蔵王権現とタロット
マルセイユタロットにはいろいろな使い方があります。
そのひとつに、たとえ信仰や宗教は違っても、マルセイユタロットの描かれている図像が、共通的に、ある種の神仏のエネルギー(本質と表現)とリンクし、カード自体をミニ像と見立てることができることです。
ところで、先日のGW中、最後の日でしたが、奈良の吉野に行ってきました。
吉野と言えば、桜が有名であり、吉野を訪れる観光客のほとんどが、桜の時期に占められるというほどです。
まあ、そんなわけで、桜のシーズンは吉野は激混みするわけですが、それでも上千本、奥千本と上に行けば行くほど、人も少なくなってきますので、場所を選べば、観桜期でも落ち着いて見られるところもあるかと思います。
と言っても、やはり桜目的でなければ、桜のシーズンは、はずしたほうがゆったり観光できます。今回の私の目的は、観桜期の四月とGWに特別に開帳される秘仏・金峰山寺の金剛蔵王権現拝観です。
当初は、ほかの神社・仏閣に参る予定でしたが、いろいろとあって、あるいは呼ばれたのか、ここになりました。五年前にも、観桜目的ではありましたが、吉野に来ていて、その時初めて拝観させてもらっていました。ただ、今回はこちらの参拝が主ということが違います。
というのも、この秘仏(写真撮影が禁止されていますので、HPをご覧ください)、巨大なうえに三体あり、しかも最大の特徴と言ってよいのが、ほぼ全身が「青色」に塗られているのです。その迫力は、実際に拝観すればわかりますが、すごいものがあります。
私が特に興味持ったのは、三体であることと、やはり青い色であるということでした。
青い色の神となれば、インドのヒンドゥー系の神によく見られ、シヴァ神や、クリシュナなどが有名かもしれません。
これらのヒンドゥー系の青い神は、実は本来は黒い色をしていると言われ、つまりは死(をつかさどるもの)の象徴と考えられます。
また「3」ですが、インドで、神による3区分となると、そのシヴァ神を含んでのブラフマー、ヴィシュヌの創造・維持・破壊三神が浮かびます。このうち、シヴァ神は破壊(と再生)を担当すると言われます。
つまり、インドのヒンドゥー系を中心にして、青い神とは、宇宙の死と再生のシンボルでもあるわけです。
そして、マルセイユタロットにもこのような空色に近いブルーが使われており、私たちの間では、これが霊性を示す色だと伝えられています。
特に、大アルカナの中で、その空色(水色ぽいブルー)を見ていけば、私たちが、いかに霊性を取り戻していくかの過程がわかると言われます。
さきほど、インドの青い神は死と再生の神だと述べましたが、タロットがヨーロッパだけではなく、地中海湾岸、北アフリカ、中東、中央アジア、果ては中国などの思想や表現も入っていると考えると(その証拠はあります)、インドとの関連も十分に考えられます。
すると、私たちが霊性を獲得したり、その状態に回帰したりすることは、死が必要であることがわかります。ただ、その死は肉体の死の意味というより、象徴的な死、自我の死と言ってもいいかもしれません。
そして、死だけではなく、再生という意味も併せてあるように、私たちは不死鳥のように死んでも蘇る必要があるのです。
おそらく、黒は完全なる死を象徴するでしょうが、空色的なブルーで表現されるということは、そこに光や白が入っているから、その色になるのであり、それは象徴的にはあ叡智や再生の光ということになるでしょう。
空色(青い色)の仏像は、私たちの中にある死や恐怖、ネガティブなもの、自我の深い欲求なども表すと同時に、そこに取り込まれず、むしろ逆に力と変え、美なるもの、真なるもの、智慧なるものとして輝き、再生(本当の霊的な自分に生まれ変わること、悟れること)の可能性が自らに眠っていることを告げていると考えられます。
マルセイユタロットでは、「審判」に描かれている真ん中の人物、天使からラッパを鳴らされて目覚めたとも、覚醒したことで天使が祝福のファンファーレを鳴らしたとも取れるその人物が「空色」なのです。これぞ、本当の意味で蘇ったことを表し、仏教的には仏になった姿と言えるかもしれません。
ちなみに三つというのは、時間とも関係し、過去・現在・未来を意味します。
私たの世界は、時空認識をもとに、現実を主体としたところにいます。言い換えれば時間がある、時間が進んでいるという意識の世界です。
時間を認識するためには、今述べた三つ捉え方(過去・現在・未来)がないとできません。しかし本質的には時間はないと言われており、時空認識が超越したところに神や仏の世界があります。
ということは、三体の仏像は、現世とあの世(此岸と彼岸)、現実の苦しみや楽しみが時間によって生み出される世界(つまり現実)と、そこから超越している永遠の世界を、暗に示しているとも言えます。
こうした見方で、改めて吉野の秘仏を拝観しますと、両端の仏像が真ん中に統合されるようにも見えますし、左右の性質を分離させることで、身近に私たちの権現としての仏・神を感じることができるような仕組みになっているのに気づきます。
つまりは、私たちは実はひとつで、自分の中にある神や仏を、目の前の三つの仏像に分離されたものとして見ることで、現実の自分(自我)としての親和性が生み出され、三つのうちのどれかに親しみや会話をしたくなる傾向が出るのです。
それは時間として、過去の自分、今の自分、未来の自分とも言えます。あるいは両端のふたつとしては、女性性・男性性とか、能動・受容、ペルソナと本質などの二元性の自分も見ることがあるでしょう。
そして最終的には、どれか(特に真ん中)の存在によって、一度、象徴的な死を与えられ、最終的には三つが統合されて、(内なる)仏や神と邂逅することになるのです。
それは「宇宙」と言ってよく、だからこそ、東大寺の大仏(廬舎那仏)のように巨大でもあると言えるのです。
こうした仕組みは、光がろうそくのみで照らされる夜間拝観の時のほうが、よく感じられるかもしれません。
あと、個人的に思うのは、この吉野の蔵王権現、死と再生の色であることから、真剣に参ると、カルマの浮上と浄化、まさに自分の中での何かの破壊と再生が起きる気がします。くすぶっていたものがついに開かれ、強引にでも浄化や再生の道に進まざるを得なくなる感じと言えましょうか。そういう意味では不動明王的でもあります。
マルセイユタロットを通した、神仏像の考察の記事でした。
