カードからの気づき

小アルカナの剣(マルセイユタロット)

タロットの小アルカナというパートは、4つの組に分かれています。

タロットの種類によって、4組の絵柄は異なっている場合もありますが、だいたいは、英語でいうと、ソード・カップ・ワンド・コイン、私たちは日本語で、剣・杯・杖・玉と呼称するもので成り立っています。

これは、いわゆるトランプの4組と同じで、トランプの一般的な組(スート)の表現として、それぞれスペード、ハート、クラブ、ダイヤとなっているわけです。

ちなみにトランプにおける絵札も、タロットでいえば、宮廷カード(コートカート)と大アルカナの「愚者」と関係し、組の数の1(エース)も絵札なので、ゲームとしては得点力が高く、重要なカードであることがわかります。

ということで、タロットを知れば、枚数の違いがあるとはいえ、構造的にはトランプと同じなので、トランプ占い、トランプリーディングも可能になります。(時々、私も講義の余興としてやることもあります(笑))

と言いつつ、今日の話題はトランプではなく、小アルカナ、中でも、剣の組のことです。

さきほど、タロットの種類によって、4組の絵柄が違うこともあると述べたように、同じ剣(ソード)の組であっても、その剣の絵がカードの種類によって異なるがために、絵柄の印象による読み方の違いも当然出てきます。(これは大アルカナも、小アルカナの剣以外の組もそうですが)

私はマルセイユタロットを使いますので、マルセイユタロットの剣の絵柄で、この組を解釈します。

ただ、日本で、メジャーに使われているタロットといえば、ウェイト版(ライダー版)になりますので、多くのタロットリーダーや占い師たちが、その絵から意味を見出すことになっているのも当然となっています。

ウェイト版の剣の組を見ますと、武器のソードとしての色合いが濃く、中には凶器に見える表現もあります。

私自身はウェイト版の絵柄がとても苦手なので、実はさわることもできないくらいなのですが(^^;)、それほど、マルセイユ版とは違うところがあります。

というより、マルセイユ版の小アルカナ、数の組のカードは、絵というより記号的なものになっており、とてもシンプルです。

ここから絵柄としての意味を読み取ろうとすることはむしろ困難で、従って数の象徴的な意味を理解しないと、なかなかマルセイユ版の数カードは読みにくいことになります。(数だけではない読み方も、当然あります、数も重要ですが、四大元素の象徴を理解することも鍵です)

そして、マルセイユ版の剣の組に着目しますと、なるほど、最初の「1」のカードや、奇数の数のカードには、まっすぐなソード状の、いかにも「剣」というものが上に向けて伸びていますが、偶数のカード、湾曲した半円模様の剣とも何ともつかぬ模様になっており、現代人の私たちが見たら、配線コードのように見えるかもしれません。

なぜ剣が湾曲したものになっているのかについては、諸説ありますが、ここでは、そういった曲がった剣を使う文化と関係していると言っておきましょう。(ほかの理由も考えられます)

ウェイト版は、小アルカナに絵をつけ、組ごとに、ひとつのスートリーが流れており、10で完成するようものとして構成されているようですが、マルセイユタロットも絵こそありませんが、実は1から10でもって、完結するということは同じだと考えられます。(マルセイユタロットのほうが時代が古いので、ウェイト版がモデルとした可能性もあります)

マルセイユ版の剣の組を数の通りにきれいに横に並べてみると、驚くべき模様というか、全体の絵柄が浮かび上がってきます。

それは半円系の剣を描ているからこそ、半円がふたつ合わさってできる「円」模様であり、さらに円と円とが重なってできる、通称ヴェスカ・パイシズ(ピスカ・ピッシーズ)と言われる魚の浮袋の形も見えてくるのです。

これは秘儀的に非常に重要な幾何学模様であり、剣の組には、この知性を磨くことが伝えられていると考えられます。一言でいえば、それは宇宙の智慧であり、グノーシスをタロットに見ているものは、それでもあると言えます。

マルセイユタロットの剣の組を見ていると、私たちの知性獲得の過程と言いますか、向上の順序が描かれているようにも感じます。

最初は、私たちは無知の状態であり、しかし、ひとつの偉大な神の剣、つまり神的知性は、内奥にはある状態で生まれますが、次第に人間としての生きる知恵、いわゆる普通の知識のほうを自分の中にたくさん入れていきます。(逆に神的知性は隠れてしまう)

現実を生きるうえでは、それは当然の成り行きで、自分を守るため、あるいは現実社会を渡っていくためには、仕方のないことでもあります。

最初「1」のカードに王冠とともに、偉大に華々しくあった大きな神性なる剣も、偶数カード(10は除いて)においては、直線的な剣そのものがなくなっており、奇数カードにあっても細くなり、次第に、湾曲した剣の数は増え、錯綜したものになってきます。

それに伴い、周囲の植物のようなものも、次第にシンプルになり、半ばくらいから色や方向性も含めて、違った雰囲気に変化します。

ここから、私たちは、途中までは、人との交流による知識の受け渡し、学び、実践を経験しつつも、やがては、本当の知性に目覚めることを目指すのだとわかります。

そのためには、「剣」の象徴として、無駄な知識はそぎ落とし、収れんし、本当の知性のための栄養としてささげなくてならないことが示されています。

これは、人間(生活)としての一般のこと、社会のこと、また身に着け、学習した様々な知識が無駄であると言っているのではありません。それが、神性的な知性、智慧を開くための肥しや重要な経験になるのだと言っているわけです。

最初から感性のみを重視する人もいますが、それはそれで個性としてはありだと言っても、マルセイユタロットの剣の組を見ていると、通常の思考や知識においても、やがてそれらがそぎ落とされ、凝縮され、高い波動に至る変容によって、高次の知性にたどりつく可能性も示唆していると言えましょう。

一度隠れた神性なる「1」の剣が、再び磨かれて現れる(10から別のステージの1に進化する)という印象です。

その前の、自分が取り組んでいたステージの完結を意味する10のカードでは、偶数でありながら直線的な剣が描写されており、しかも剣がふたつに分かれて交差している様で表されています。

いわば、現実を超えるための、自分の分身が生み出された瞬間かもしれません。

こういう剣の組の流れから、私たちは、迷いなからも、ひとつのシンプルな答えにだとりつこうとしているのがわかります。

これまで学んできた知識も成熟してくると、切り落とされ、収れんし、シンプルな直観になり、感覚的判断と似たようなものになっていく(しかし通常の感覚的なものとは次元の違うもの)ように予想されます。

しかし一方で、最終的にはひとつというより、もうひとつ(もう一人、もうひとつの世界)に気づくことが、知性の、ある種の到達点であることが剣の組から示されています。

剣の組は、まさに私たちが知性を鍛錬していく様を描写しつつも、孤独や孤高に達するようなイメージではなく、極めてシンプルな法則・リズムに基づきつつ、むしろ、この世界や宇宙が多様で豊か、かつ多次元で、あらゆるものが存在し、共存・関係・影響し合っていることを知るに至るのを語っているように思います。

こうして見ていくと、マルセイユタロットの剣の意味やイメージが、決して武器や凶器のようなものではないことがわかるでしょう。


学びの種類や性質について。

例えば、タロットを活用する前には、ほとんどの人は、タロットを“学び”ます。

勉強せず、いきなりリーディングや占いを自分の直感を頼りに始める方もいらっしゃいますが、それは少数派でしょう。

今日の本筋とは違う話で余談ですが、タロットをほとんど勉強せずとも、すぐに読める人、結構活用できる人もいます。

その場合は、もともとその人の直感性が鋭敏であったり、いわゆる皆さんがおっしゃるような霊感が働いていて、本人はカードがなくても、もともとわかる情報があり、それをカードに重ねて(直感をカードの表現に置き換えるようなツールとして)使っているというケースがあります。

霊感というのは、サイキックな力ともいえますし、サイキック次元に存在する情報、またはある種の存在からの情報を得る力ともいえます。誰にでも少しはあるとはいえ、やはりその能力が高い人間は特別にいらっしゃいます。

タロットを本格的に学習する人であっても、そういう力を持つ人は、タロットの読み方も独特なものになることが多いようです。

では本題に戻ります。

実は今日のテーマは「学び」ということです。

タロットを学ぶという例ですと、その「学び」はどういったものになるでしょうか?

意味がわからないかもしれませんが、要するに、何を学ぶことになるのかという、学びの目的と性質、あるいは種類のことです。

最初は当然、タロットを理解したい、タロットリーディングなどができるようになって、タロットを活用したいという意味での「学び」が目的としてあるでしょう。

ところが、まさにタロットをそのような目的で学んでいく過程において、ほかの学びの性質も現れてきます。(人にもよりますが)

それは、人生そのものの学びであったり、人の心理や意識の学びであったり、自分自身の成長や、いろいろものの統合的視点の学びであったりするようなことです。

これはタロットを例にしていますが、私たちは、何かを学ぼうと目的をもって取り組む時、その過程と結果においては、違った学びを同時に得ることがあるということです。

結果は、当初の目的通りの学びの成果であっても、その途中や過程では、別のことを学んでいることが多々あるわけです。

よく昔の漫画や映画などに、何かの修行の免許皆伝では巻物が授けられることになっていて、そこに秘伝や奥義が隠されていると言われ、頑張って修行を完遂し、巻物を得たものの、いざ巻物を開けてみると、それは白紙であり、老師から、「そなたの今までの修行の過程で得たものすべてこそが、奥義である」みたいなパターンがあります。

現実的ともいえる結果は、もちろん大事ですが、何かを学んでいくというのは、ただ目指した状態に達成することや、現実的・実際的な効果を得ること、身につけることだけが「学び」ではないと言えます。

ですから、極端なことを言えば、当初の目的から挫折したり、うまく結果を残せなかったりしたとしても、やってきたことを振り返れば、学んだことは別にたくさんあり、それだけでも成長の糧ともいえ、あなた自身が得ること、学ぶことは、他人より秀でたり、目的を達成することそのものだったりではなく、ただその経験においての別の何かだったかもしれないのです。

こういうパターンは意外と多く、ただ本人が気づいていないだけだと思います。

そうなると、言ってしまえば、人生すべて学びと考えることも可能というわけです。

ただ、すべてが学びというのも、堅苦しい話や態度になってしまいますから、また観点を変えて、学びについて考えたいと思います。

学びといえば、よいことであり、知らなかったことを知るとか、新しい技術を身につけるとか、今より精神的にも物質的にも豊かになるような、ポジティブなイメージがあります。

しかし、学びそれ自体は確かによいことではあるものの、学びの種類、性質から見ていくと、必ずしも、学びの方法としては、すべてポジティブ、よいものとは限りません。

むしろ、学びは苦しいことや、大変なこと、時間がかかることなど、ネガティブな部分もあります。

タロットで見ますと、学びの種類にもたくさんあることがわかります。

マルセイユタロットの絵柄を知っている人は、大アルカナ22枚を見ていただければ、実は学びの種類も、その全部のカードごとにあるというのがわかります。

それでも、パッと見て、何か学びや学習をイメージするようなカードといえば、2の「斎王」とか、5の「法皇」、9の「隠者」などがあげられるかもしれません。

このように読むと決まっているわけではありませんが、例えば、「斎王」は本などを読んでの独学や自習、「法皇」は講義・セミナー・講演などを聞いて、人から教えてもらう学び、「隠者」は、秘伝や口伝、隠れた特別な知識や技術を極める学び(人からもあれば、自分自身でのものもあり、さらには人を超えた存在からの伝授とも言えます)と表現することができます。

また面白いものとしては、15「悪魔」があります。「悪魔」も、学びにおいて色々な読み方・見方はあるでしょうが、例えば反面教師とか、悪いことにはまったり、騙されたりして、学ぶということも考えられます。

それから1「手品師」、4「皇帝」、時には7「戦車」のように、実際や現場、行動して学ぶというパターンも考えられますし、13では、かなり厳しい試練による学び(自分が練磨され、大きく変わるような学び)もイメージされます。

このように、カードの表現による学び方、学習方法も見ることができるのです。

ちなみに小アルカナも、学びの性質や種類として振り分けることができ、小アルカナは4組にわかれているので、その四つの性質さえわかっていれば、数や人物の特徴と併せて考察すれば、かなり具体的なものまで、学びの中身を絞ることができます。

ここで言いたいのは、学びをテーマにしたカードの使い方、読み方ということもあるのですが、もうひとつ、人生において、学びの種類や性質、方法は本当に様々であり、しかも個人によって学び方も異なるということです。

間違いや失敗、痛い目をして学ぶということもあれば、そういう痛い目をしないために学ぶ(ことにより、気づきや成長、予防に役立てる)という方法もあるわけです。

誰か先生について学んでいたとしても、その先生も完璧な人ではないはずですから、その人から学ぶことの内容や種類もすべてよいものとは限らず、何か悪いものもあるかもしれません。しかし、悪いものも学びとして活かすことはできます。

ただ、それは学びの種類や方法・性質の違いであって、その人自身(人格など)の問題性を追求することとは、話はまた別です。先述したように、結局、学び方はいろいろあって、すべては「学び」になっている(「学び」と考える)のなら、それは「学び」なのです。

会社などでの社会でも同じことで、学びと思えば、すべては学びとなりますが、仮にその会社や、そこにいる上司・同僚、組織が腐敗していたり、いわゆるブラックな非道さ、残酷さがあるのなら、それは自分を鍛えてくれている(環境)だという「学び」として思うこともできる人もいれば、こんなところで働くことのまずさを学ばせてもらっていると取る「学び」もあるわけです。

世の中には耐える学びもありますが、逃げて学ぶ(カードでは「愚者」のようなもの)方法もあります。

あなたは、今やっている、あるいは自分が考えている学び(の方法や意味)を誤解していないか、改めて自分に問うてみてください。

もしかすると、別のことを知らせたり、教えてくれたりする学びなのかもしれないと、タロットの「吊るし」のように、逆の発想も思ってみることです。

あなたが「神の家」の試練だと思っているものが、「悪魔」による搾取や、自由を奪う誘惑と縛りによる拘束かもしれないのです。その逆もあるかもしれません。(愛による厳しさみたいなもの)

しかし、自分ではわからないことも結構あります。

そういう時のために、客観的視点で、苦しい時や学びの効果に疑問を持つ場合は、誰かに相談するのがよいかと思います。

なお、相談する時は、同じグループの学習や組織のメンバーではないほうが、より客観性が出るでしょう。


願望達成についてと今後の展望

明けましておめでとうございます。

本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

さて、いよいよ新しい年、2019年が始まりました。

新年に期するところがあって、目標や決意を立てる人も多いでしょう。

タロットをされる(持っている)方は、新年にあたってタロットを引いてみるのもよいでしょう。

とはいえ、人間怠惰なところや、日常やルーチンに流されていく部分もあります。

「一年の計は元旦にあり」などと言われますが、年初に立てた誓いや目標も、案外と忘れ去られてしまうことが少なくないのではないでしょうか。

従って、ただ思うだけでは、目標がかなったり、結果が出たりする効果は少ないと言えます。なぜなら、人の想念(思考)はそれこそ、あっという間に、その都度変わっているからです。

だから、よく言われるように、目標を常に思い出したり、意識の奥に植え付けたりするために、見えるようにする、書くようにするなどと言われるわけです。

またいくら目標を大書して壁に掲げたとしても、その目標が、自分の中で本当は到底叶わないもの、不可能なものと考えていては、自分が無理だと言っているようなものなので、叶うことは難しいでしょう。

あと、心理的には、願望や目標が叶ってほしくないという場合もあります。

これは、叶うと今まで何らかの形で得ていたメリット(たとえネガティブなものでも、自分にとってはメリットがあったもの)がなくなってしまうことが起きたり、叶ってしまった時の状況を思うと、本当は怖い、対応ができないという想像・不安があったりして、達成を(自らが)阻むのです。

今年こそはパートナーや恋人がほしい、もっと稼ぎたい、豊かになりたいと願っていても、心のどこかでは、独身でい.ること、パートナーがいないことのメリットを享受し、安心していたりすることがあったり、豊かでないことで、本人が言い訳にできることがあったりするのです。

要するに、真に自分(の思っていること)を信頼(許可)しているか叶うことがリアリティあるものとして感じられるかによるところが大きいのです。

ということは、目標や願望達成においては、思い(思考)として忘れないようにする処置、あるいは効果的に意識に刻み込む儀式や装置のような仕掛けがあるとよいこと、もうひとつは、目標達成にリアリティを持つ(許可と確信を持つ)工夫をすることになるでしょう。

目標や願望の達成にリアリティを持つというのは、例えば、自分の目標がものすごく先にあったり、遠いものであったりするという感覚ではなく、身近で実現可能だと、実際的に思ってくるような状態になることを言います。

あなたの周囲(友人や知人、家族など)が、自分の目標や夢に否定的な人ばかりだと、当然、リアリティは否定のほうに傾くようになりますので、いわば、叶う方向のリアリティはどんどん薄くなり、非現実的なものとなって、文字通り、夢は現実に非(あら)ずという事態になってしまいがちです。

逆に言えば、肯定的な環境であれば、実現のリアリティが増すことになります。

ただし、肯定的とは言っても、ただ「やればできる」とか「大丈夫、きっと実現するよ」という言葉だけを聞いていても、それはそれで少しはましかもしれませんが、自分自身がリアリティを持てなければ、まさにそれは口先だけの話、絵に描いた餅のようになり、非現実のリアリティ方向に行ってしまいます。

ここに、どのような行動や方法を取ればよいのかということとか、本当に実現してきた人の(精神論ではなく具体論としての)話など聞いておくと、よい(実現のリアリティが増す)わけです。

ほかに、自分の願望に許可ができない場合は、心理的な面で自分を見つめ直す必要があり、そのデータに、なぜしがみついているのか、過去に遡って調べてみる場合もあります。

理由(ひとつだけではないケースもありますので)は難しいこともありますが、そういう思い込み・データに気づくだけでも、ずいぶん軽くなって、前向きになれるのではないかと思います。

さて、タロットを引く場合、タロットはなので、絵のほうが言葉より意識に入りやすく(人による場合もありますが)、それゆえ、願望を達成したい時にも、ひとつのシンボルとして活用することができます。

同時に、シンボル化しようとしても、心に抵抗のようなものも感じることができるので、タロットによって、未処理な心のデータのようなものも見つめることができます。

ところで、すでに、私のほうは、自分はもとより、いろいろな質問やテーマで、新年最初にあたり、タロット(マルセイユタロット)を引いているのですが、意外に大アルカナで言えば、「斎王」とか「月」が出ているのが目立ちます。

ともかく、こうしたことから、好むと好まないにかかわらず、自分の中に蓄積されたものの整理や浄化ということが、各人の間で進んでいく機会やシーンが、今年からは、さらに現れてくるのではないかと思います。

それは、いわば個人的なことながらも、人類全体につながるもので、要は、人類全体の浄化が促されようとしているということです。

好きなことをしようとか、自分らしくあれというようなこともいいのですが、もっと深い部分での働きが始まり、人によっては自分の方向性に混乱を来したり、よくわからなくなったりするという人も出てくるかもしれません。(それは悪いことではありません)

前に進もうとしても、何かひっかかりが出たり、葛藤が出たりするような感じでもあり、今までこれだと思っていたこと、これが自分であり、やるべきこととして目標にしていたことにも変化が生じる可能性もあります。

カードで例えていうのなら「戦車」です。「戦車」は二頭の馬を(ひもはついていないのですが)うまく御者が操縦しています。どちらかの馬だけ走らせようとしても進まないですし、たとえ両方走っても、足並みがそろわないと、進まないどころか、転倒してしまうことにもなりかねません。

急いだり、積極性を出したりするよりも(人によっては、そういうほうがいい人もいますが)、まさに制御やコントロールに重点を置くほうが、この場合は重要であると言えます。

その馬を二頭とも走らせるように、自分が御者として世話をし、チェックしながら、うまく手綱をコントロールしていく必要があります。

それには、自分も馬(馬は自分の中のある部分の象徴)も受け入れ、ブレーキをかけていたり、異常に回転を無理して上げていたりしていたところがないかも見て、そんな自分を受容・点検しておくことが求められます。

すでにそういう作業が昨年までに終わっている人は、「戦車」として、スムースに目標に向かって走っていくことができるでしょう。

昨今は、特にスピリチュアルも、現実の面でも、時代や宇宙は大きく変化している(変化する時)と言われて、それを自分にも課そうとして、無理に同調しようとしてあせっている人もいるように思います。

飛躍しなければならない、上昇しなければならない、変わらなければならない、時代に乗らなければならない、宇宙に沿ったり、かなっていたりしなければならない・・・などなど、「ねばならない」としている部分がないか、冷静に観察するとよいでしょう。

たとえ、大きなものが動いていても、自分・個としての流れや動きは、人それぞれです。ある人はうまく行っても(方法があっても)、自分には早すぎたり、遅すぎたり、合わなかったりすることもあるのです。

一直線にぶれずに進む人もいれば、ジグザグに進む人、後ろ向きにバックしなから進む人もいるかもしれないのです。自分の進み方は、人と同じでなくてもよいはずです。

よく宇宙はらせんの動きと言われますが、らせんは、見ようによっては行きつ戻りつのような形でもあります。

右へ行き左に行きながら、統合を進め、今いる位置から上昇していきます。それには右と左、その位置での双方の両極や相反する要素を経験することも時には必要です。これが迷いや悩みにもつながっています。

もしあなたが、何か悩みや迷いについて、よい気づきを得たり、ふっきれ、すっきりしたという場合は、それを直接でなくてもいいので、誰かに伝えましょう。心の中で、「私は気づいたよ、だからあなたも私の気づきをプレゼントします」と、心で念じてみるのもよいでしょう。

すると、以前書いた見えないネットワークを介して、ほかの人にも気づきが訪れたり、悩みが楽になったりするきっかけが与えられるかもしれないのです。

そういうものが伝わりやすい時代に入ってきたとも言えるからです。もはや、これからは、一人だけの問題ではないことが、次第に多くの人の間で共感されてくるでしょう。


全体と関係するオリジナル化

今日はクリスマスイブですね。

クリスマスが、もはや世界的行事になっているので、キリスト教徒とは関係なく、感謝と幸せに意識を向ける人も多く、またそうありたいと祈りたい気分になりますし、そのような波動が世界中から伝わってくる時かもしれません。

さて、個人的には、冬至が明けて、暦とは別に改まった感じが強くなりました。カードを引いて、儀式的に切り替えたというのもありますが。

ちなみに私が引いた一枚引きバージョンのものは、「恋人」カードでした。占いなどですと、恋愛に関係するカードみたいに思うかもしれませんが、マルセイユタロットのこのカードはほかの象徴性も考えられ、なかなかに深淵なるものがあります。

このカードは人間が三人いて、まるで相談や選択をしているかのような図があり、同時に上空にはクピド(キューピッド)、あるいは天使ととってもよい、現実を超えた(天上的)存在も描かれています。

このことから、おのずと、地上と天上との関係が示唆されるのですが、人間三人とクピドの位置・面積などにも秘密があり、私がこれからどの位置(スタイル)でいなければならないかがよくわかるものでした。

このようなことは、タロット全体(少なくとも大アルカナ全体)を知っていないと、実は解釈は難しいのですが、逆に言えば、全体を知れば、一枚単体の単純な意味のレベルを超え、タロットが示すあなたにとってふさわしい奥深い意味が出てくるのです。

全体と単体と言えば、、私たち個人と人類全体とか、宇宙と私とか、神と人間の関係とかというような対比を想像させますし、物事は、個人単体で存在したり、理解できたりするものてはなく、全体の有機的ともいえるつながりをもって、はしめてより深く理解が可能になるのだと、タロットを見ていても思い知らされます。

さて、暦的には新年はまだですが、太陽と地球の関係では、すでに年が明けたとも言えます。

そこで、ふとタロット(マルセイユタロットの大アルカナ全体図)を見ていて思ったのが、やはり、先ほどの全体と個人の関係です。

この現実の世界、地上世界は、いわば個性の世界と言えます。誰一人、まったく同じ人間はおらず、みな必ず、どこかは違っています。

そのため、人と比べての優劣が、あらゆる局面で起こりやすく、能力(身体・知能)、経済、名誉、肩書、家柄、会社、組織、国、地域、家族、友人、持っているものなど・・・本当に何でも比べられてしまう(比べてしまう)ことが起きます。

それで優劣を見てしまうと、どちらにしても、自分にとって、つらい世の中になります。

人より優秀だと思っている部分があれば、それを維持することに労力がいりますし、もっと上の人が出れば、たちまち敗北感や劣等感に苛まされることなります。そして、最初から劣っていると認めてしまうと、自己を尊重するどころか、存在価値を認めることさえ難しくなり、とても苦しいことになってしまいます。

やはり、相対値で見る世界ではなく、自分自身の絶対値で見ていくような方向性が必要かと思います。

このことと最終的には関係してくるのですが、これまでは、いわゆる生きる上での正解とか、成功法則とか、ひとつの完成されたような技術などのようなものが多く出た(ある個人が提供した)時代でした。この中には、連綿と伝統的に伝えられてきたものもあるかもしれません。

そうしたものは今後も続いていくとは思いますが、同時に、教科書的なものや、普遍的な法則、技術というものは、個人によって、どんどん変えられていくものになるのではないかと想像しています。

つまり、あるひとつの基本のような型はあっても、一人ひとりの個性に応じて、その人個人にふさわしいものに、今よりももっと容易に変えられていくということです。

例えば、何か教えるビジネスがあったとしても、ただ先生や師匠のことを忠実に守ってやっていくというスタイルより、最初は確かに基本は学ぶにしても、早い段階から自分流に合ったものに変えていく、柔軟な流れになることが多くなる気がします。

いわゆる「守・破・離」と呼ばれる段階がありますが、そのスピードや形式の崩し方が早くなり、個人的に変容(トランスフォーム)していくのが当たり前になるというわけです。

そしてひとつのことにこだわるよりも、多くの融合や統合が起こり、学びや成長というものが、全員が右へならえというようなハンコで押したようなスタイルにならず、個人そのものの価値・ものさしで計るようになり、自分流の進み方の把握がより早まるのではないかと予想しています。

言ってみれば、オリジナル化が普通になるということです。

しかし、ここが重要なのですが、オリジナル化は進みながらも、ほかの分野とか技術、教えともつながりやすくなり、全体としては、目指す方向性が一致してくる(一人ひとりの価値観とか個性は当然違ったままで、多様性は持ちますが)ということです

自分には自分のやり方、方法、成長の段階があることを早期に自覚し、無理せず、しかし、自分を貶めることもせず、全体の中で、自らの個性の活かし方を、他人(それも複数)から学んだり、関わったりすることによって開花させ、オリジナルな自分なりの生き方、社会貢献、サポート、充実、幸せ感を得ていくことになるのではと思います。

それには、今までように、個人がとんがって、カリスマ化したり、セルフブランディングみたいな特別なウリを築いたりする必要もなく(それは別にあってもよいですが)、全体のネットワークでつながり、個人は中継点や変電所みたいな感じでありながら、個として独立しているイメージとなります。

いわば、個人でいながらも、シェアやネットワーク的な組織もありの業態と言えましょうか。

これは、一見、メッセージ的には「あなたらしく」ということではあるのですが、ただ、ひとつの個性や顔をあなたと思うのではなく、複合的ともいえる、色々な顔と仕事、趣味、傾向を持つことを自分に認めるということに近いです。

本質的には、先日のブログに書いたような、見える現実のネットワークと、見えない霊的ともいえるネットワークを意識した生き方、働き方へのシフトと言い換えてもよいでしょう。

今日述べていることは、マルセイユタロット的には、「世界」と「手品師」との関連になります。

「世界」が全体やネットワークを示し、「手品師」が個性、個人を表します。この二枚は、タロットの4組、すなわち、四大元素としてもつながっているのです。

ところで、地球の歳差運動をもとに、占星術的には、サイン(星座)をひとつの時代ととらえる考え方があります。今はみずがめ座の時代で、すでにその状況は始まっていると言われます。これが大きく意識にも上ってくるような、そういう予兆を、来年から(いや、すでに今から)感じるものです。

資格ビジネス的なもの、ある証書をいただければOKというような時代では、すでにありませんが、自分を幸せにするために、ただ画一的なものを求めるのではなく、自分流にアレンジ、自分本来に合わせていく意識は、ますます重要になってくると思えます。(それでも、最初は自分が魅かれるもの、興味あるもの、基本的のものなどは、学んだり、ふれたりしていくことは必要でしょう)

ですから、他人や環境のせいにしていても始まらず、自分がどうしたいのか、自分はどうするのか、自分としてはこうしたいということを、素直に出していくことが大切になってくると思います。


見えないネットワークシステム

タロットリーディングでも思うのですが、例えば一対一の相談をしていても、そこには、ほかの存在や、何か別のデータバンクのようなものがあるのではないかと感じる時があります。

つまり、(カードとしての絵の)タロットや人間のみで問題について検討したり、解決しようとしたりしているのではないということです。(ほかの情報や支援も受けているということ)

タロットの場合は、例えば、タロットの精霊というものの助けがあると言われます。このタロットの精霊については、様々な意見や考え方があるので、ここでは何者であるかは言いません。

ただ、私はそれが存在していると感じますし、そこからのコンタクトによって、得られる情報はあると思っています。

しかしながら、これも次元の違うひとつの情報とか、エネルギー場と見れば、「精霊」というのも、あくまでそういったところの象徴や通路(アクセスポイント)と考えることもできます。こちらの考えのほうが、受け入れやすい人もいるかもしれませんね。

さて、もうひとつ、「存在」という意味では、「ネットワーク」ということもあるのではないかと思っています。

逆に表現すれば、ネットワーク全体がある種のひとつの情報存在になっているような、そんなイメージです。

私たちの世界には、現実のネットワークとして、生身の人間同士のつながりや、今はインターネットなど、実際にはそのシステムは見えないにしても、巨大な通信網でのつながりがあります。

今、こうして、このブログを読まれている人は、別々の場所の人たちですが、インターネットあればこそでブログの場所につながり、書き手と、その内容を読む人として、ネットでの関係・つながりができています。

今やインターネットを介せば、かなりの人とつながれますし、自分が知らなかった情報を知ることもでき、反対に、自分から発信することもできます。

そうしたネットワークシステムですが、私たちの世界には、インターネットのようなものだけではなく、現実を超えた、見えない世界でのつながり、ネットワークがあるのではないかと想像します。

例えば、集合意識というのもそうかもしれません。

おそらく、人間同士、いや、地球や生命全体とつながる、何かのシステムとネットワークは存在しているのだと考えられます。

それは、レヴェル別と言いますか、次元別にも存在し、そこにつながるかどうかについても、いくつかの条件や作用が働いているのではないかと考えられるところがあります。もしかすると、アクセス権の許可が必要なものもあるのかもしれません。

反対に、自分の意志とは無関係に、勝手に、あるいは強制的につながれてしまうものもあるかもしれず、そういうものは危険なにおいがあります

相談のことで戻りますと、人は悩みや迷い、問題を抱えますと、まず自分から、あるネットワークについて、まるでインターネットを検索するかのように探索し、解決を図ろうとする(ネットワークにつながろうとする)機能があるのではないかと予想しています。

実は、インターネットでさえも、その影響は受けている可能性もあるかもしれないと見ています。

そうすると、自分の問題や悩みを解消してくれたり、軽減してくれたりする人や情報に行き着くように、自らが導いているような働きがあると言えます。

同時に、実際にタロットリーディングなど、相談の場面でも、あるネットワークにつながり、その情報網からの何らかのデータが直感のような形でダウンロードされ、解決策などが見つかることがあると思わされることが、度々あります。

秘教や古代の叡智では、すでにそのようなことが知られていた可能性があります。

マルセイユタロットには、そういった、私たちにはまだ通常知られていない、目に見えないネットワークとつながる、アクセスツールと機能を持っていると思っています。(それには図像としての秘密があるからです)

ただ、さきぼとも書いたように、ツールを使えば誰でも自由にアクセスできるとは限らず、やはりそれなりの条件やレヴェルがあるのではないかと思われます。

要するに、道具を使いこなすには、使う側の成長や技量向上、ネットワークへの鋭敏な感性のようなものが要求されるのではないかということです。

それから、もうひとつ、ネットワークには様々なものがある(からみあっている場合もあり)と考えられ、それがさらに、あるポイントや分岐点、中継点で、電気信号が切り替わるかのように、別のネットワーク系へとつながってしまう(変化してしまう)こともあると仮定します。それはまるで、体や悩の神経ネットワークみたいなものです。

ここでもし、ポジティブであったり、問題や悩みを解決したり、支援したりして、人類の成長・発展を促そうすることが目的中心のネットワークがあると想定します。そして、このネットワークを仮にAとします。

反対に、人類をあるレヴェルに滞留させておいたり、ネガティブな思いが集合したデータ網・データバンク(メモリーレコード)のようなところに行きやすくしたりするものがあるとします。これをBとします。

もしAからBへと、何かの拍子でつながってしまうと、問題がさらに深刻化したり、今まではさほどでもなかったのに、急にネガティブで重い感情や気持ちになってしまったりすることもあるのではないかと思います。

この逆もしかりで、急に明るくなり、問題も解決していくことが回線の変化であるかもしれません。

いわば、一種の電気信号のようなもので、悩内、または別の肉体以外の体の何かに引き寄せ合うものがあれば、その方向に流れて行きやすいことになるともイメージされます。

そうすると、興味深いことに、私たちは自分の意志で、選択や決定、あるいは自己の状態をコントロールできるわけではなく、ネットワーク、すなち、人類やほかの何か全体とつながった情報体ともいえるところからの影響を受け、個性でさえ、個性と言えるものではないのかもしれないと思われるところです。

自己は自分の悩や体が規定しているのではなく、自らの思考、感情等でさえも、全部自分が決めていると言えず、何かのネットワークとつながっていて、影響を及ぼしあっていることは十分に考えられます。

これは自分は他人でもあり、他人は自分でもある可能性でもあり、やはり人類全体としてネットワークを形成し、ひとつの生命、思考・感情体というメインコンピュータ(存在)みたいになっていることが、SF的ですが、想像してしまいます。

そして、そのネットワークに、害ある(コンピュータ)ウィルスのようなものが注入されればどうなるのか?という思いも出てきて、実際にはすでに行われているのではないかという危惧もあります。

ウィルスではなくても、さきほど述べたような集合意識で蓄積されたネガティブなデータが混入されてくることもあるかもしれません。

また、自分が自分だけで決められないのであれば、自分の問題や状況も、自分だけのせい(自己責任)とは言い難く、それこそ人のせい(ネットワークからの影響)ということもあるかもしれないのです。(自分の問題は自分によって引き起こされているのではない可能性と、その解消もまた自分の意志と力だけで何でもできるわけではないという示唆となります)

逆を考えれば、自分の状況や問題も、よきネットワークにつながって、情報が変われば、改善されていくことも期待でき、それも自分だけの力で、必死に努力したり、計画・行動したりするよりも、早いこともあるわけです。

※(見える)現実のネットワークでも、つながりによって、助け合うこと、知恵を出し合うことができ、一人では解決できなかったことが解決できることがあるのと同じです。

見えないネットワークが何であるのかは、まだわからないところも多いかと思いますが、それを意識していくことで、問題への解決の新たな方法や、遺伝や環境だけで規定される自分だけではないことも、わかってくるのではないかと想像しています。

タロットをされる方は、意識を高い点に持っていき、よきネットワークとつながるようにしていると、そういう場へアクセスしやすくなって、リーダーもクライアントにも好影響があるのではないかと思います。(周波数域の違いと言ってもいいかもしれません)

メルヘン的に言えば、悪魔よりも天使のネットワークになつがることを意識しましょうとなります。

特にタロットリーダーは、自分で何とかタロットを読んでしまおう、クライアントにアドバイスを出そうとして、「一人の殻」に閉じこもってしまう場合もあり、それはかえってよい結果が得られなくなります。

だから、多くの支援網(ネットワークからの情報)によって、読まされている、縁を与えられている(ネットワークとつながっている)という気持ちを意識し、そうすると、わかりづらい展開についても、新しい発想や直観が得られやすくなるのではないかと思います。


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