カードからの気づき

天国はここにある

履修者用メルマガでは、皆さんにお知らせし、生徒さんの間ではご存じだった人も多いと思いますが、ここしばらくというか、この一年、体調不良や、精神的な葛藤が続き、なかなか大変な時を過ごしておりました。

そんな中でも、できる範囲でタロットの講義やタロットリーディングを続ける中で、仕事の立場としましては、もちろん、こちらがサポートしたり、知識や技術を与えていったりする側ですが、むしろ、逆にクライアントや生徒さんから、大きな力を得ていたところもありました。助けられていたと言ってもよいです。

こういうことを経験していくと、現実世界での役割とか、立場とかはあっても、本当に人は真の意味で平等なのだと思うことがあります。言ってみれば、みな、アクター(演者)であり、観客と言っていいのかもしれません。

それでも、たとえ、この世界が映画のような舞台だとしても、楽しい、苦しいという実感があります。(それも幻想かもしれませんが、味わうことは確かです)

楽しいことはよいのですが、人生には苦しみ、悲しみ、つらいこともあります。むしろ、多いと言ってもいいほどです。

そうやって実際に生きづらさを感じたり、何か自分を生きていないと思ったり、生活(生きること)自体が苦しいと感じていたりする人も少なくありません。そういうい人は、私もそうでしたが、この世は地獄ほどではないにしても、修羅的な生きにくい世界だと思っていることでしょう。

心の持ちようや、経済的な補助、あるいは成功を収めたりして、それを減らすことは可能かもしれませんが、完全に滅するというのは難しいと思います。

現実に、やはりこの世には、理不尽なところがあると思わざるを得ないところが、どうしても私の中にもあり、しかもマルセイユタロットが示すと言われるグノーシス的な思想によって、この(現実の)世界が、偽物の神によって創造されたという説話(神話)を聞くに及び、ますます地上(現実)と天上(理想・イデア)との調和について、混迷が深まってくるのでした。

このため、私は何度か、精神的・霊的ともいえる危機や迷いの道に入り、おそらく今年もそうした中の大きな段階にいたと考えられます。

ところが、昨日、ふと、抜けた感じというか、新たな気づきが生まれました。

私の場合は、思考をつきつめ、さらに感情を味わい、葛藤を続けていくことで、ついにある瞬間、さらにその上を行く直観をもたらせることで、真の気づき(と思えるもの)が出ます。(人によって、また自分の特性によって、(深い)気づきの方法は人それぞれになります)

それで得たものは、「天国はここにある」という言葉でした。

これは、別に新しい考えでも、驚くような発見でもないのですが、結局のところ、自分の内に天国はある、あるいは天国を作ることが先決という確信に近いものが出たわけです。

マルセイユタロットでいえば、まさに「吊るし」と「世界」との関係です。

よくスピリチュアルな世界では、内なるものの投影として外なる現実や環境となっていると言われますが、これは心理的な意味だけではなく、霊的な事実というか、観点として、正しいのではないかというのが、思考よりも、直観として感じられるものになってきました。

変な話にはなりますが、感覚的には、グルリと内と外を、まるでリバーシブルするかのように感じられるわけです。

そうなりますと、いかに自分が大切か、自分の幸せ(これには段階や種類があることも重要です)や、天国を自分にもたらすことが、結局世界としての救いになるのだという意味に気が付いてくるわけです。

ただ、これは現実への妥協とか、迎合とかという意味でもないですし、精神や感情的な話の段階でもないのです。(無関係ではありませんが)

気づきは散歩中に訪れたのですが、家に戻ってから、、改めてマルセイユタロットを見直してみました。

すると、なんということでしょうか、タロットにはすでにそのことは描かれていたというか、私の理解がまだまだ浅かったことに気がづき、タロットの見え方自体も変わっていたのでした。(こういうことは、マルセイユタロットをやってまいすと、大なり小あり、あります)

当たり前ですが、マルセイユタロットも形や構造は、いつも同じ(絵に変化はないこと)なのですが、ステージ、段階、レヴェル、次元によっては、見え方や、理解が異なってくるのです。それは、この世の仕組みと同様と言えます。

天国の話に戻りますと、いつでもどこでも、そこ(自分に)天国はあるのですが、その天国のレヴェルや段階(のイメージ・理解・認識)が低いほど、幻想として、地上的なものとして天国が見えてきます。言い方を変えれば、外側の環境にある比較される対象として、天国が感じられるということです。

それは地上と天国が文字通り、地と天の別の場所にあると分離して見てしまうか、地上に、それこそ天上を無視した地上だけの意味の天国を見出そうとしたり、作ろうとしたりすることにもなります。

しかし、自分の内なる気づきや段階が進むと、天国の見え方の構造も変わり、次第に現実とは別の意味で、リアルに自分の中に天国が存在してくるようになると考えられます。

天国というのは、いわゆる幸せ感覚に近く、まつたく違う部分もあるのですが、似たところもあるのです。

厳しい世の中に自分を同調させ、自分が感じた悲惨でつらい世の中として、同様に自分を痛め、悲しめ、苦しませるのは、自らで地獄を作っているのと同じです。

残念ながら、世界には、そうしたネガティブで自らを苦しめる思想・観念・エネルギーが残存し、それを私たち善良なるものが受けてしまうシステムが働いています。また、実際に、いまだ厳しいところが多いのも、現実的には事実です。

自分の中に天国があること、天国に近づけることを、少しずつでも感じていき、内と外の反転の実体を叡智として学び、あるいは感覚的なものとして実感していった時、まず自分の(外の)世界は大きく変わるでしょう。

この天国(カードとしては「世界」)に近づく段階こそが、マルセイユタロットの絵の象徴でもあるのです。

さきほど、述べたように、宇宙は根本構造として同じではあるのですが、次元やレヴェル別に変えていかないと、同じ階層同士では通じ合っても、階層が違うと、そもそも理解が難しくなり、それどころか、反発したり、誤解してしまったりすることがあります。

高邁な理想も、現実の場面では何の解決にもならないということはよくあることです。「えらそーなことを言う前に金くれ」とか、「こっちは生活がかかっているんだ!」「背に腹は代えられん」・・・みたいな話になるわけです。

そういう意味では、とにかく、自分の小さな天国、あるいは、幸せや満足だと思える状態を実現していくこと、その実現を阻む障害や考え方、縛りをはずしていくこと、浄化していくことが大切となります。

そうしていくうちに、自分の思っていた最初の天国(満足・幸せ)がちょっと違っていたこと、次に想像した天国もまたレヴェルが違っていたことなどに、気づいていくことになるでしょう。

その繰り返しで、本当の天国が、やがて現れてくるのだと思います。それこそが言い換えれば、グノーシス(自身の神への認識)に至ること(過程でもあること)だと、理解してきました。

まずは、自分の状態、レヴェルにおいて、幸せになること、自分を痛めつけないこと、卑下しないこと、自分をもっとねぎらい、いたわり、大事にし、尊重することが、天国への入り口となるでしょう。

私自身も、そして皆さんへも、天国に至る道を、マルセイユタロットを使いながら、その人自身の段階でサポートしていければと思います。


自然の摂理での変化を受け入れる

マルセイユタロットには、いろいろな象徴や示唆が描写されています。

そこには、宇宙や自然の摂理、流れのようなものも描かれています。

だから素直にタロットを見ておけばよいのですが、人間は欲求が強かったり、わがままであったりする時があります。

まあ、頭でわかっていても、感情やプライドなどで動いてしまう(あるいは固まってしまう)ことはあるものです。

さて、ずっと書いてきていることですが、この世や宇宙の原理のようなものとして、創造、維持、破壊、再生の流れがあります。

また、大きくエネルギーを分けると、陰陽や能動・受動、安定(固定)と流動みたいな相反的な性質もあります。

同じことは続かず、また変化や破壊がいつもいつも起こっているわけでもありません。

ただ厳密に細かく見れば、すべては動いている(創造と破壊が繰り返されている)というか、流れているのでしょうが、安定に見える一瞬もあると言えますし、別の言い方をすれば、すべてが含まれる空間のようなもの、そこにあらゆるものが置かれている倉庫のようなものもあると考えられます。(それさえも動ているかもですが)

言い方を変えれば、創造破壊も見せかけの変化で、本質は何も変わっていないのかもしれないということです。ですが、人間の世界で見れば、やはり変化は常にあるものになります。

ちょっと難しくなってきましたので、簡単に言いますと、ずっとひとつのことを蓄積していったり、極めて行ったりする流れと同時に、ほかのものと組み合わせたり、変化させて行ったりする、ふたつの流れがあり、それは現実的にもバランスよく見ていく必要があるのではないかということです。

平たく言えば、専門性と柔軟性みたいなことです。

最近は、スピリチュアルや精神的なことでのサポートをする個人起業家も増えてきました。

皆さん、かなりの勉強もされていますし、それぞれの得意な技術も学ばれており、好きなことで成功しようと意欲と行動にあふれている人もいらっしゃいます。

ただ、闇雲に自己アピール(ビジネス宣伝としての)ばかりしても、その人の積み重ねてきたことが何なのか、本質的にはどんな人なのか、どんな実績や能力があるのか、わからなければ、得体のしれない人と思われたり、関心を寄せてくれなかったり、時にはうざがられたりします。

まあ、でも世の中、面白いもので、たとえ自分に深さや蓄積はなくても、要領や巧みな宣伝力によって、売り出しに成功している人も少なくありません。

まじめに勉強してきた人の中には、そういう人を妬む方もいるかもしれませんが、それはその人の、またある意味、才能と個性なのです。

逆に、ひとつのことにやたらとこだわり、確かに専門的知識や経験は深いのかもしれませんが、それを役立てる方法をうまく伝えられず(伝える工夫をせず)、行動もせず、ただじっと、カードでいうと「隠者」のように待っていては、それこそ、文字通り「隠れた者」になって、人は見つけてくれませんし、見つけても、何を伝え、何をしてくれる人なのかよくわからず、「なんか言っていることはすごそうですが、私には無理そうで・・・じゃ、研究、頑張ってくださいね!」みたいに言って、去っていく人も出るでしょう。

結局、まずは、自分はどんな人で、なぜその仕事をするのか、したいのか、そういう自分のオリジナルな世界観、ストーリーというものが他人にわからないと、その人は多くの中の一人に過ぎず、ほかの人が感動したり、共感したりする要素が見えてきません。つまり、お客様の心が動かないということです。

次に、自分の人となりはアピールしたり、蓄積したりはしたものの、もしサービスとして売りものを出すのであれば、それを買っていただけるアピールと工夫も必要となります。

当たり前ですが、商品の使い方も効果の説明もなく、ただ屋台の上に並べていても、よほどの変人以外、誰も購入してはくれないでしょう。まあ、見た目にすごいものがあれば別ですが。

最初にも述べたように、自然は変化し、宇宙は動いて行くところもありますので、例えば、時代も、人のニーズも、アピールする技術も、情報伝達方法も変わっていきます。

その度にいちいち合わせる必要はないにしても、極端に言えば、ある人が、「私は昔から電話営業が得意だったので、これからずっと電話営業で顧客を獲得してみせる!」と粋がり、ごわってみたところで、もはや固定電話を持っている家庭や個人も少ない状態なのですから、無駄な努力をすることになります。これが、流れを無視した固定みたいなものです。

仕事やビジネスだけでなくても、自分の状態が思わしくない時は、自分の内と外の乖離が大きくなっていること、もっといえば、自分の成長を抑制して、守勢に回り過ぎていること、固定観念にとらわれ過ぎていることに要因の場合があります。

ここで注意がいるのは、このパターンの場合は、自分が、維持から破壊、再生創造への流れに乗っていないことにあり、逆の場合の内と外の乖離もあるのだということです。

それは、自然の摂理で見るのではなく、自分が外の世界に合わせようとし過ぎていないかを振り返る方向です。

なるほど、自然や宇宙という大きなサイクルは回転し、変化し続けていますが、ここでいう「外のもの」とは、それ(宇宙サイクル)とは関係のない、外の人の観念や想念、思い込み、常識や世間体という価値のないルールのことです。実はこれも勝手に回っているのです。

その輪に自分の回転を同調させてしまうと、人の言いなりになったり、人の顔色をうかがって生活するような人間になってしまいます。つまり自我が乗っ取られているような状態です。

本当は、大きな摂理(変化)の回転力も、あなたの内なるものにも働いており、自分が苦しい、うまく行かないということは、偽物の他人の回転に自分を合わせているためで、結局、自然と同じように、あなたも変わるためには、逆に、このパータンでは、自我を強くする、自己を守るという固定・維持エネルギーを強化する必要があるわけです。

それができてないので、自然の摂理に反して、問題が起きるのです。

ともあれ、変化を受け入れるべき時、変化させない意味の変化が必要な時(自分を守り、強めるということ)は、自分でもおのずとわかる状況がやってきます。

私自身のことで言えば、もう前から生徒さんやほかの人からも言われていますが(苦笑)、今のブログの内容が難しく、専門的になり過ぎているところがあります。それは自覚していたところでもあるのですが、さすがに、もう行き過ぎの限界にも来ているかなと感じています。

一方で、あえて それでも、今までに続けてきているのも、マルセイユタロットを中心とした、私自身の世界観を知ってもらうためでもあったのです。自身の専門性の蓄積というところですね。

すでに記事数もかなり多くなっていて、もはや書庫みたいになっています。(笑)

ですから、これからも、このブログは、過去記事も含め、皆さんの書庫、本棚、データベースのひとつして活用いただければと思うのです。

タロット学習してきた人も、違った視点を持ってみたい、マルセイユタロットの入り口、独学で学習した人のちょっとした参考、心理的な問題や、生きづらさの問題で悩んでいる人の何か楽になる手がかりとして、そういう感じで、ここを読んでいただければよいのではないかと思います。

ということで、これからもこのブログは続けて行きますが、もう少しわかりやすく、ライトな形でのタロットブログも新たに書いていこうかと考えています。まあ、私のことですから、普通の人から比べれば、それでもまだヘビーかもですが。(苦笑) ヘビーでも蛇としての智慧(の象徴)が伝わればよいのですが。ダジャレですみません。(^^;)

私は書くことと話すことは、あまり苦ではない質なので、別ブログもありかなと思い立ちました。

もしコメントでも、こんなこと別ブログで書いてくださいとか、こんな感じがいいかなというのがあれば、是非お寄せください。

新しいブログの立ち上げは、いつ頃になるかはわかりませんが、私も隠者的な自分から、もうちょっと変わっていく時期にきたのかなと思った次第です。

新しいことを少しずつ初めて行きますので、その時はよろしくお願いいたします。


自尊と他尊のバランス

他者を尊重することと、自分を尊重することは、とても大事なバランス(ポイント)だと感じます。

よく人の役に立ちたいと思う人、そしてそれを仕事にしたいという人で、他者への尊重は大きいのに、逆に自分を卑下してしまっている人を見かけます。つまりは自尊の問題です。

私もどちらかといえば、後者の部類(自尊のバランスが悪い、低いほう)なので、その状況や気持ちはよくわかります。

ただ、これもそのタイプの人には耳の痛い話ですが、他者を尊重しているようで、実は、自我が強く、その欲求を抑えていたり、逆に自分を卑下することで、自分自身の真の力の発揮や、責任から逃げているところもあるのです。

マルセイユタロットでいうと、きちんと「正義」の判断が下された場合、自分のほうに天秤が傾くような感じで、結局のところ、自分かわいさ、プライドを守りたい、依存心、みたいなところが奥底にはあると考えられます。

と言っても、ここでまた自分を責めても仕方ありません。その責めること自体、意外かもしれませんが、自分を守っていることと同じな場合があるのです。

例えば、自分が悪いと思うことで、「どうせ自分は・・・」みたいに思い、できないことの理由を、対外的に作りあげてしまうわけで、結果的には逃避や、問題を放置したりすることと同意になります。

これは「運命の輪」と「正義」が(悪い意味で)合体したかのような、仮の責任所在を自分に帰すことで、堂々巡りを起こしてしまい(潜在的に起こしてしまい)、その回転の中で、自分が逃避し続けるという、実は高等テクニックです。(笑)

ここで必要なのは(象徴的なカードは)、「力「と「悪魔」です。「節制」としての交換バランスも必要かもしれません。

※マルセイユタロットは単体の象徴性もすばらしいのですが、このように、カードを組み合わせることで、問題の解決やヒントを生み出すことに大きな視点と効果があるのです。

もともと、自尊が低い人は自我が弱いようで、実は強いと、さきほど言いました。自我(エゴ)が強いというのは、「悪魔」のカードと関係します。

ただ、こういう人は善人であることが多く、またそれだけにナーバスで、人の目を気にしたり、人の気持ちに敏感だったりします。

従って、強い自我が、自分のほうにベクトルが向かってしまい、ますます強固な殻に入って意固地になることもあります。カードで言えば、「吊るし」(の問題)状態です。

ここで、もともと「悪魔」との結びつきが強い「自我」そのものを、「悪魔」(の認識)によって解放させ外に向けて、自我を出すということで、バランスが回復してきます。

それには、「力」のカードに象徴されるように、自分で制限していたフォース(力)を少しずつ、自分のものとして取り戻すことです。

もう少し具体的に言えば、自分がよくないと思っていること、悪いと判断しているもの、毛嫌いしたり、それはちょっと無理と思っていたりするものに、あえて少しずつやってみる(その前には、本当に悪いものなのかどうか疑ってみる)ということがあげられます。

いわば、自分の影やダークとしての自我の部分をちょっとでもいいので、表現してみる、認めることから始めるわけです。

ほかには、自分をいつも以上に、ことあるごとに褒めたり、自分がやっているサービスにお金などの価値でもっと受け取ったり、自分が少しでも得意なもの(それは善悪とか、社会的価値での良し悪し、役に立つ立たないの基準で見ずに)を伸ばしてみたり、没頭したりするということでも、力(フォース)と自我を外に解放していくことができます。

またタロットを学習して、タロットリーダーになり、思い切って料金をいただいて、人にサービスをし、相手に喜んでもらって、自分の価値をお金と言葉で受け取るというのも、自尊バランスを回復させる手立てのひとつとなります。

人にあなたのエネルギーを無償的に与え続けて、(その)人から評価されることを望んでいては、いつかあなたのエネルギー枯渇します。

枯渇すると、当然疲弊し、ヘロヘロになってきますので、体力や経済的な問題、運気の問題にも影響してきます。

人はそんなあなたを見て(感じて)、魅力的には映らず、関心を失ったり、去ってしまったりする場合もあるでしょう。

それを引き留めようと、またエネルギーを出し続けようとするので、かえって、自他ともにダメな方向に進んでしまいます。これは恋愛などで、尽くしすぎる人などに多い現象ですし、セラピストで起業された人などにも、少なくないことです。

エネルギーも、宇宙的なものとつながる境地まで達していると(マルセイユタロットでは「星」や「世界」で象徴)、それは枯渇することがないので、むしろ、多くの人が癒され、エネルギーを受け取り、好循環で、出した人にも戻ってきます。

ここまで来ると、物質的なものと精神的なもののエネルギーの枠がはずれていますので、それぞれの交換(変換)も可能となり、物質的豊かさとしても享受することが可能になるでしょう。

ただ、自尊と他尊のバランスが未熟であり、特に自尊が低い状態でいますと、逆に自我が自分の内側の方向性で強まって、固い殻に入ったかのようになって、エネルギー循環から隔絶された世界になってしまいます。

むしろ、波動レベルを下げて解放的にし、大衆的エネルギーによって、殻を破ってもらうことも考えないといけません。

それは、つまり、自我・エゴとしての自分が、よい意味で外向きに強まることであり、「悪魔」の力(対人的魅力)が出て、自然に皆さんが注目することになり、殻から出てきてほしいとせっついて(笑)来るようになるからです。

そうして、殻は破られます。

他者のことを尊重できるなら、同じ性質は、神性として、あなたの中にもあります。誰より、他者を認める力があるのなら、あなた自身の力を認められない(発見できない)わけがありません。

そして、自分を認めると同時に、今まで本当に自分は他者を見ていたのだろうか、他者を尊重していたのだろうかと、もう一度振り返ってみる必要があります。

もしかすると、あなたの他者への尊重は、純粋なものではなかったかもしれませんし、別の部分を見ようとしていた可能性もあります。

それはやはり、自分の尊重が本当の意味ではまだまだてあったこともあるでしょう。

ひとつの気づきがあったとしても、その後も、そのバランスは拡大と成長をもって、さらに大きなものとなっていくはずです。

ゆえに、これで完璧という段階はなく、いつも内には完全性を持ちつつも、新たな気づき(覚醒)をもって(それは問題という形で事前に起こる)、人間として成長し続けるものだと思います。

その重要な要素に、自尊と他尊のバランス・統合があるのだと考えられるわけです。


私たちの中にある「女帝」と「皇帝」

マルセイユタロットには、ペアや組み合わせとなるカードによって、ひとつの意味や概念を想起させるものがあります。

つきつめれば、この世界の一元と二元の原理とも関係します。

そうしたペアとなるカードの中で、今日は、「女帝」と「皇帝」をとりあげたいと思います。

「女帝」と「皇帝」は、実はその数(3と4)にも象徴性が隠されていますが、それは省略し、「女帝」と「皇帝」で表される意味でのペア性について今回は特に注目します。

そもそも、この二枚は、名前自体が、女帝と皇帝なので、いわば王宮のカップル、夫婦として考えることができます。タロットには、宮廷(コート)カードというグループがありますが、そこに出てくる女王と王に当たると言ってもいいでしょう。

ですから、ペアであることは非常に明白なわけで、お互いに助け合い、共同で物事に当たることで、完成するようになっているわけです。

一般的に女性と男性では、気質も肉体も表現も正反対であるように、「女帝」と「皇帝」では、共同で何かを成し遂げるにしても、それぞれの役割や性質が異なると言えましょう。

おおざっぱな枠組(意味合い)で言うと、「女帝」が創造・企画をし、「皇帝」がその「女帝」のプランを実行に移したり、現実化したりする組み合わせになります。

性別では、それぞれ前者が「女帝」としての女性、後者が男性としての「皇帝」でありますが、あくまで性質と象徴の話であり、実際の性別でそう決まっているというわけではなく、女性でも皇帝的な人、男性でも女帝的な人はいますし、二人が同じ性であっても、その性質が女帝的・皇帝的と分かれて演じられる(役割をする)場合も普通にあります。

ただ、どちらも同じタイプだった場合、企画やアイデアはたくさん出ても、なかなか腰を動かさないペアになったり、逆に、動くことはできるけれどもノープランだったり、ガチガチの現実的でマンネリの行動ばかり・・・というペアになることがあります。

そう、カップルと言っても、何も恋愛や夫婦間のことだけではなく、一般の人間関係や仕事上の関係性での性質の違い、得意分野として見ることもできるのです。

大切なのは、自分の得意なタイプ・気質を知っておくことであり、何かを行う時、自分とは違う性質の相手を選ぶと、うまく行く(目的が達成される)ことが多いわけです。

と言っても、実は、人には得意な傾向はあるものの、それ以外の性質がまったくないというわけではありません。

マルセイユタロットで言えば、すべてのカードの性質は、私たち一人ひとりの中に存在すると考えており、ただ、何らかの条件で自分の強く出る性質とか、得意な傾向の気質があるということなのです。

例えば、こういうことが考えられます。

育ってきた家庭(家族)環境で、父母はいても、兄弟姉妹間とかで、いつも皇帝的役割を担ってきたとか、女帝的にならざるを得なかったとか、学校や社会においてのチーム・グループで、誰も皇帝的役割をしたがらなかったので、それを自分がやっていく中で、そういう性質が癖になったとか、得意になったというパターンがあります。

そうすると、本当は違う役割のほうが本来の自分らしいということもあり得ます。それに後年気づいて、驚き、生き生きとする場合もあります。

ということは、思い込みもいけないわけで、自分は企画なんて無理と思っていても、やってみれば案外、面白いプランを思いつくことができる可能性があり、逆に、自分はマネージメントしたり、企画を現実化するために、いろいろと動いたり交渉したりするのは苦手と思っていても、それは単に経験不足というだけのことかもしれないのです。

では、今度は、「女帝」・「皇帝」について、また違った視点で見てみます。

「女帝」は創造すること、生み出すことに喜びを感じ、「皇帝」は、それを現実に形にしたり、結果を出すことに達成感を得ます。

言い換えると、「女帝」がイメージや想像の世界と関係し(生み出すには、アイデアが必要なため)、「皇帝」はまさに現実と深く結びついていることになります。

ということは、今、現実がつまらない、苦しい、味気ないという人は、何かを生み出していないと考えることも可能です。

つまり、自分が現実世界に対して、何も役に立ってない、空虚な存在のようになっているのです。

これには、自分の創造性が抑圧されている環境にいたり、本当にやりたいことがやれていなかったり、ただ毎日同じことの繰り返しで、まるで機械のように無機質になっていたりする状態が考えられるでしょう。

まさに自分が押し殺されたかのようになっているわけです。

しかし、いきなり自分が役立っていると感じることを発見するのは、毎日の生活の中で難しいかもしれません。それができれば苦労はないからです。

ここは逆転の発想ではないですが、役立つ自分という思いを一時的に切り離し、とにかく、創造すること、生み出すことだけにフォーカスします。

それが役に立つかどうかは考えないということです。

「女帝」と「皇帝」でいえば、この二枚はペアではあるものの、癒着的に見ず、「女帝」のほうだけに自分を置き換えてみるというのに近いでしょう。(「皇帝」と関係させると、実際に役立っているかどうかという視点での検証が入るため)

生み出すことも難しく考える必要はありません。

簡単なモノや料理を作ったり、絵を描いたり、旅行のプランニング(実際に行かなくてもよい)をしたり、ショートな曲や物語を作ってみたり、お金を増やすことをしたり、動物や植物を育ててみたりする(最初の状態より育っていくことが創造とつながる)ことでいいのです。

また自分の持っている情報を人に教えたり、書いたりして知らせるのもいいでしょう。(それが伝わって、ある人に役立つかもしれないからです)

そうして創造の力を少しずつ呼び起こし、次第に、本当に大きな創造、創作へと結びつき、生き生きとした魂の回復がなされ、実際に社会や人に役立つことができるようになるかもしれません。

「女帝」として、自分を生きていることを実感することで、「皇帝」という現実をよりよく生きることができるのです。

注意すべきは、創造性の意欲がまったく起こらない時、それは体力と精神を消耗しているおそれがあり、タロットでいえば、「吊るし」のように、何もしない休養期間を設ける必要があります。(ちなみに、「吊るし」の数は12ですが、ばらして足すと3になり、「女帝」の数にもなります)

逆を言えば、私たちの創造力を奪うには、奴隷のように働かせたり、変えることのできないシステムのように思わせたりして、とにかく精神や体力を失わせることです。余計なことに、力を消耗させていくことも同じです。

さてさて、この今の世の中、私たちの創造性を高める社会になっているのか、逆に失わせるものになっているのか、皆さん自身、考えてみてください。


「戦車」に見る成功の考察

「成功」という言葉で、マルセイユタロットから連想されるカードには、「戦車」があります。

タロットは重層的、あるいは言語的使い方ができますので、例えば、成功ということを「戦車」が意味するとすれば、ほかのカードは、その成功に向けた補助や方法を伝えてくれると読むことが可能です。

つまりは(技術的には)、「戦車」とその他のカードの組み合わせ(コンビネーション)によるタロットの読み方ということになります。

一方で、成功と一口に言っても、いろいろな形(状態)があり、必ずしも、「戦車」だけで象徴できるものではありません。ほかのカードによって表現される成功というものもあるはずです。

このように考えていくと、成功の概念そのもの、また、同じ「成功」という概念を示していても、それに至る方法なども、様々であることがわかります。

さて、成功という言葉が出たので、これについて、ちょっと考えてみたいと思います。

さきほど、成功にはタロットで考えると、いろいろな形があることがわかりましたが、それでも、いわゆる今の私たちが思う、一般的に共通する成功イメージというものがあります。

それは、ほぼ経済的に成功していることが主題となっているものです。

経済的な成功以外では、名誉的なもの、有名になったというものとか、夢がかなった状態とか、よきパートナーや家族に恵まれたなどあるかもしれませんが、やはり、経済的な豊かさ、大きさを獲得していないと、成功とはなかなか言い難いのが、普通でしょう。

しかしながら、この経済的成功は、資本主義社会で成立するもので、全員が経済的に大きぼ意味で成功する(端的に言えばお金持ちになる)ということはありえず、いわゆる、勝ち組と負け組いうことで、まるでイス取りゲームのように、成功するものと成功しないもの、一部とそれを支える多くの者たちという図式(構造)になっています。

言ってみれば、経済的な成功者という存在は、ほんの一部しかいない(多者になりえない)というわけで、ポジションが限られているのです。言い方は変ですが、マイノリティです。(笑)

まあ、負け組の、まさに負け惜しみと言ってしまえばそれまでですが(苦笑)、普通は、負け組になる場合が多くなる(負け組がマジョリティである)のが、今の経済システムの構造上、仕方ないところもあるわけです。

それでも、頑張って成功者を目指すのもよいでしょうが、多くの人は、その限られたイス取りゲームの競争から脱落し(意図的に脱落する場合が多い)、違う質の成功を追い求めるようになります。

成功する者、成功したい者からすれば、「なぜ努力しないんだ」とか、「やり方(情報)を知ってきちんと行動すれば成功できる」と思う人がいるでしょうが、世に成功パターンや法則はあまた教えられている(紹介されている)のに、いまだたくさんの人が成功者になっていないのは、さきほど述べたように、もともと構造上の問題として、成功者のポジションが限られているというのがあるのと、努力や成功法則だけでは成功できない部分がある(つまり誰でも等しく、画一的方法で成功できる保証的な方法がない)からでしょう。

例えば、生まれた境遇とか個人の資質、またと呼ばれる要素も大きいのではないでしょうか。

よって、一般的に言われる経済的成功を目指すには、なかなか難しいところがあるのが当然と言えます。

ということで、先述したような、成功は成功でも、違う質の成功を考えるようになるわけです。

要するに、成功したいと思えば、ひとつは、普通の経済的成功を目指すか、成功という概念を自分の中で変えて、その成功を目指すかということになるでしょう。

後者は成功という質、意味を変えるということに近いですし、たくさんの人にとって、こちら側を目指すほうが構造的には楽だということです。

なぜなら、その質の違う成功のポジションは、一般的意味合いの経済的成功とは違い、ひとつか少数と限らているわけではなく、いわば、人の数だけ、成功という思いの数だけ存在するからです。

タロットや、スピリチュアル的な統合観点で見れば、人には、三つの魂があると言われます。(詳細になれば7つや21とも言われます)

それは肉体の魂、精神の魂、スピリットの(霊的な)魂です。

魂というより、レベルや次元という表現のほうか適当かもしれません。このうち、特にスピリットの魂に目覚めよというのが、マルセイユタロットの教義のひとつになっているのですが(それはほかの魂を捨てるということではありません)、とにかく、違う質の魂をひとりの人間のうちに持っているという考えがあるのです。(キリスト教の三位一体教義とも関係します)

そして、成功や幸福というものに対しても、それぞれの魂レベルでのものがあり、いわゆる、普通の成功とか幸福概念で語られるのは、肉体レベルのものがほとんどと言えるでしょう。

スピリチュアルに傾き過ぎると、これを軽視しがちですが、私たちは現実の世界で肉体をもって、形ある世界で生きていますから、この「肉体魂」ともいえるものの幸福を追求しないと、健康を害して、簡単に死んでしまったり、生活そのものができなくなったりします。

しかし、これにとらわれすぎると、ほかのふたつの魂の幸福はないがしろにされることもあります。

一般的な成功ではなく、質を変えた、一人ひとりの個人が思う成功を考えた場合、これは精神や心の魂の幸福を求めていくことに同意義となるでしょう。

そして、さらにはスピリット次元までの成功を目指すと、人生の質そのもの、生き方そのものまでかなり変わってくるかもしれません。なぜなら、それぞれで重きを置く価値基準が異なってくるからで、つまりは、世界の見方も変化するからです。

それでも、さきほども指摘したように、肉体レベルの成功・幸福をまったく無視するわけにはいきません。三つの魂の調和とバランスということが大切となってきます。

人によって、その配分やバランスは違うとはいえ、それをうまくコントロールして生きていくのが、現実の人生といえます。(実際を生きる私たちの課題であり、試練であり、楽しみでもある)

さてもう一度、タロットの「戦車」に戻りますと、(マルセイユタロット」)の「戦車」の図柄は、一人の御者が、二頭の馬を操って(手綱はありませんが)いる図柄です。合計三つの生き物がいます。

ということは、さきほど述べた三つの魂と関連づけることもできるでしょう。

この「戦車」は、冒頭で、成功がもっともイメージされる(そういう意味を持つ)カードだと書きましたが、それには、一般的イメージの成功ということもあったのですが、こうして絵柄から見ていくと、実は、もっと深い意味の成功が隠されている、ほかのレベルの成功も意味しているのでないかと推測されます。

たったひとつ、あるいは、いくつかの極めて少数のイスを奪い合うような経済的成功を目指すのも、スリルと冒険、そして達成感があって、またよいものでしょう。

一方で、限られたイス取りゲームに参加するのではなく、別のフィールドでは、人それぞれが、自分のイスに座って会話や食事を楽しんだり、イスを交換したりして、循環していくようなゲームの世界を選んでもよいのかもしれません。

成功というものを量や大きさではなく、から見ていくと、一般的にいう(経済的)成功というのも、あくまで、たくさんある成功の状態のひとつです。この世界の今システムでは、それがもっとも価値あるものとされていますが、そう信じ込まされているかもしれないのです。

もっともよいものと示されたものに向かう、目指すのは自然なことのようにも思えますが、そもそも提示されものが本当にもっともよいものなのかどうかは、実はわからないものです。

最初から示されたものに到達するという方向性ではなく、それぞれが新たに創造したり、発見したりしたものが結果的に目指していた成功だったと見ていく、逆の方向もあっていいでしょう。

そういう意味では、「戦車」のカードには、御者の肩に、ふたつの顔が描かれているのも面白く、成功の見方の方向性に、複数あることがわかります。


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