カードからの気づき
マルセイユタロット 数カードの一考察
タロットの構成にある、大アルカナと小アルカナ。
私はマルセイユタロットをしておりますが、すでに何度も書いてきているように、最初はカモワン・ホドロフスキー版のマルセイユタロットから入り、いわば、通称カモワンタロットと日本で呼ばれるタロットでの学習でした。
それが結構長く続いたので、かなり「カモワン流」という方法がしみついておりました。
今のカモワンスクールにおいてはわかりませんが、昔のカモワン流では、小アルカナをあまり使わないこともあり、小アルカナの実際の活用や、その研究に対しては、どうしても後回しとならざるを得ない状況がありました。
ただ、カモワンタロットが、ホドロフスキー氏によっても作られていることは当然知っていましたので、ホドロフスキー流のタロットの使い方はどうなのかということも気になっておりました。
そこでフランス語で出ていた本を見たり(フランス語はできませんので、読むというより見るです(笑))、氏のタロッリーディング動画や映画の解説で時折出てくるタロット観などにふれたりして(カモワンタロットの講習時に、フランスでも直接ホドロフスキー氏のセミナーを見たことがあります)、氏がカモワン氏と違い、小アルカナも重視しているところは感じておりました。(ただ、一般的に今見られる動画では、ホドロフスキー氏も、実践において、大アルカナが中心のようにも思います)
とにかく、マルセイユタロットに関しては、日本での文献は極めて少なく、ましてや、さらに小アルカナパートとなると、その解説はあるにはありますが、実質的には、今もって皆無に近い状況と言えます。
ところで、日本では、タロットと言えば、通称ライダー版と呼ばれる、ウェイト氏の作成したウェイト版が有名で、メジャーに使われています。
このウェイト版のタロットは、枚数、構成としてはマルセイユタロットと同じですが、小アルカナ(の中の数カード)に関しては絵がついていて、4組ごとのシリーズ・物語のようになっています。
従って、絵による物語があるために、大アルカナのように読みやすく、イメージもしやすいという利点があります。
一方、マルセイユタロットの小アルカナ(の中の数カード)は、一見すると記号のような模様の図柄がついているだけで、絵というにはほど遠い図像になっています。見ようによっては、タイルとかモザイク模様に近いです。
幸い、マルセイユタロットの数少ない解説本の中で、数年前出版された、ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」という本がありますから(実は私がフランスで購入していた本の日本語版です)、それには結構詳しく、小アルカナの意味や解説も掲載されていますし、この本をもとに、松村潔氏が、独自の解釈を含めて、大アルカナとともに、小アルカナについても詳細に書かれている「タロットの神秘と解釈」という書籍もあり、今はそれらを読めば、大きな参考にはなるとは思います。
私自身も、独自でマルセイユタロットの小アルカナについて、成り立ちとか歴史とかよりも、特に読み方や活用を研究してきたところがあります。
それは、小アルカナの活用分野として、大アルカナ以上に、私たちの現実と呼ばれるフィールドにおいて使うものだからと認識しているからです。
小アルカナもタロットなので、確かに象徴なのですが、霊的(スピリチュアル的)・心理的レヴェルや、漠然したものを見るというより、具体性や選択性を示していくものと考えたほうがよく、そうだとすると、ただ考察や思考をするだけではなく、読み(タロットリーディング)をして、実践活用していくことが求められるというわけです。
しかも、その読みは、占いに近いもののほうが、小アルカナに関しては、シンクロすると言いますか、なじむと思います。
ただ、マルセイユタロットの場合、先述したように、小アルカナの数カードが記号的な図像なので、具体的な事柄をそこから想像して読むというのは、かえって難しい傾向があります。
ここが、あまりマルセイユタロットの小アルカナが実際に使われない理由のひとつにもなっているのだと感じます。
ということは、マルセイユタロットの小アルカナ、特に数カードについて、ふたつの見方ができます。
ひとつは、まさに模様を眺めるためにあること。
何のために眺めるのかといえば、イスラム教を考えればわかりますが、神というものを具体化・偶像(絵や銅像など)化しないためです。正しくは、神を具体化・形には「できない」のです。
マルセイユタロットには、自らの内に神性が宿るということを教義として持っています。
それは例えば、イエス様のように、具体的な神様像ではなく、内なる魂や霊の次元における(それを通して知るともいえる)神なのです。神というより、宇宙や完全性、大いなる何か、根源といった、スピリチュアル的な言い方のほうが的を射ているかもしれません。
ゆえに、この内なる神は抽象的で、具体的にはとらえがたいものなのです。
だからこそ、小アルカナでは、その内なる神・神性を、ある宇宙的なデザイン・模様として描いているわけです。いわば、神のオーダー・秩序が示されているのです。それが私たちの(現実)世界にも及んでいることを知るために、小アルカナは存在します。
この見方がひとつです。
もうひとつは、大アルカナや、皆さんが思う、リーディングや占いとしてのタロットとは別の使い方があるために、このような絵柄になっているという見方です。
ズバリ言ってしまえば、カードゲームのためのセットだということです。
ただし、この場合は、通常、大アルカナも含んでの、タロットのデッキ一組がカードゲームのセットになっています。ですから、小アルカナだけがゲームのためのカードというわけではないのです。
けれども、明らかに、大アルカナ、そしてコートカード、または宮廷カードは、同じような具体的な絵になっており、数カードの図柄とは異なっています。
皆さんがトランプゲームをした時に覚えがあるように、絵札というものはゲームにおいて強い力・得点力を持ちます。
それに比べて、小アルカナの数カードは、ゲームにおいては弱いと言いますか、得点が低く設定されているものがほとんどです。ただし、エース(それぞれの組の1)は、マルセイユタロットにおいても絵札となっており、トランプのエースと同様、結構強い設定です。
要するに、絵札と数札の違いがあるということです。それはゲームにおいての得点や、力の区分けにもなっているのです。
ということは、もしゲームのためにタロットができたと見れば、ゲームを面白くするため、あるいは得点の計算をわかりやすくするため、小アルカナの、特に数カードは作られ、そう(ゲームの切り札てはなく、使いやすい駒として)使うことにあると考えられるのです。
あと、お金か何か換金のための記録道具みたいな意味もあったのかもしれません。麻雀の点棒みたいなものです。いずれにしても、ゲーム関連での扱いだったと推測されます。
このように考えますと、マルセイユタロットの小アルカナ、特に数カードに関しては、大アルカナの秘儀をシステムとして基盤模様(マトリックス)で示し、宇宙を考察する装置のセットであると見るか、あるいは、割り切って、ゲームのための道具だと見てしまうかにあります。
そして、そのまま、もしこれをリーディングや占いという方法のフィールドにあてはめていくと、小アルカナを使わないか(ただし大アルカナの補助としては使える)、使う場合でも、ゲーム的に(ライトにとか、現実を楽しむためにとかで)活用していくかというやり方が想像されます。
これはあくまで、私の説・考えなので、ほかにもいろいろと考察もできるでしょうし、まだまだ謎の多いマルセイユタロットの小アルカナと言えます。
なお、リーディングに、小アルカナをどのように使うかは、基礎講座から、段階的にお伝えしています。
関心の方向性と、そのバランス
マルセイユタロット、中でも、私が特に使用しているのは、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットです。
このタロットは、その名前の通り、アレハンドロ・ホドロフスキー氏と、フィリップ・カモワン氏の共同作業による、いわば、リニューアルされたマルセイユタロットです。
従って、現代の技術も使われていますので、カードは、より詳細で、鮮明な画像になっています。
その鮮明さの中のひとつに、カードの人物の視線の明確さ(の復活)があげられます。つまりは、人物がどの方向を見ているのかが、はっきりわかるのと、鋭くなっているということです。
この視線にも、大別すると、三つの方向性があります。それぞれにもちろんが意味がありますし、解釈次第では、多様な見方ができます。
そこで、少し前に起こった事件とともに、この視線方向の三つをヒントに、ある考えが浮かびましたので、書いてみたいと思います。
さて、兵庫県明石市という市があります。対岸に淡路島を望む海辺の町で、神戸市と隣接しながらも、風光明媚なところもある海岸線を主体とした細長い市です。実は私の住んでいる市でもあります。(笑)
余談ですが、東経135度の通る場所として日本標準時の町であり、「ガイアの法則」という本では、地球の経度位置による衰退と発展が周期的に繰り返されると示され、東経135度が将来(未来)的に重要な意味を持つことで、スピリチュアルに関心のある人にも、興味をもって見られているところです。
その明石市の市長の、部下に対する問題発言と、それに関係しての市長の辞任の話題がありました。
最初は、ただ(前)市長の暴言のみがクローズアップされていたこともあり、市長は批判されていたのですが、後日、全文と言いますか、その時のトータルな発言も出ることで、一転して、市長を擁護する人も増えました。いずれにしても、発言があまりにも強烈で、問題性があったので、ご本人から辞任されたという終幕を迎えました。
この前明石市長は、割と市民の間、特に若いご夫婦や小さいお子さんのいる家庭では評判がよいところもあると聞きます。
それは、そういう方々への施策を次々と実行されていたからです。また、駅周辺の再開発や、図書館の駅前への移転など、市民にも便宜を図ることをされていたので、一般市民的にも評価される向きもありました。
ただ、明るみに出た部下への暴言、パワハラ的な態度は、やはり問題があると見られているところもあり、その責任を取って辞任されたわけです。
この(前)市長の場合、どの方向に主に関心が向いていたのかといえば、一般市民の暮らしや生活、利便性などであり、言ってみれば市民に対しての方向性が中心だったわけです。
それは市長という立場では当然のことではあるものの、問題となった部下への扱いから考えますと、職員への関心と気遣いは、あまりなかったか、あっても、ちょっと方向性や熱意の示し方として違っていたものがあったのかもしれないと推察されます。
企業にあっても、社長やトップの立場にある人が、どの方向に関心や注意を払っているかによって、企業の性格はもとより、その発展や存続にまで影響するのではないかと考えられます。(これも当然と言えば当然ですが)
それで三つの方向性です。
企業を例に取ると、ひとつはお客様や消費者中心の視線、もうひとつは、その企業で働く従業員・社員への視線、さらに三つ目は、自分、あるいは私的物と見てしまうような場合の企業(会社)への視線です。※ここで言っている「視線」は、関心ととらえてもよいです。
これは個人の場合でも言えます。
すなわち、自分と関わる他人への視線(公的視線)、家族や近しい人に向けての視線、自分自身に対する視線の三つです。
これらがバランスよく、あるいは順序を間違えない視線と関心があればよいと思いますが、得てして、どれかひとつに偏る傾向があります。
企業の場合、トップが、あまりにお客様志向、お客様のためと思い過ぎて、何もかも犠牲にし、滅私奉公のような状態で、社員にも奉仕を要求し、しかもサラリーに努力や結果が反映されないとなると、これは辞めていく社員も多くなるのでないかと思いますし、辞めなくても社員は疲弊し、モチベーションや、やりがいもなくなっていくでしょう。
しかし、反対に社員ばかりに気遣い、お客様の声を無視していては、会社の売り上げは上がらず、結果的に社員への給料も払えず・・・となるおそれがあり、本末転倒です。
また、自分だけしか目が行っていなく、悪く言えば、自分が大事、自分がかわいい、自分さえよければよいというような態度では、そもそもトップが務まるとも思いませんし、私利私欲で会社を動かしていることになってきます。
個人のケースでは、究極的には、全員、自分のために視線や関心をもってやっていると言えますが、それでも、他者を意識し過ぎるか、自分と他者をバランスよく見たり、冷静に区分けして見ていたりするかによっては、変わってくるところもあると思います。
やたら人のために自己犠牲し過ぎるのも問題ですし、人の気持ちもまったく考慮せず、自我を押し通すことも、周囲とトラブルが起こりやすくなります。また家庭・家族、身内などを顧みずというのも、また問題となることが多いでしょう。
やはり、個人の場合、自分を大切にすることは第一かもしれませんが、先述したように、利己主義、わがままになるのとはまた別で、他人や他者との調整、気遣いもある程度は必要とされます。
三方よしではありませんが、関心の方向性として、自分、他人、関係者のそれぞれがうまく調和するようなものがベストなのかもしれません。
現在、何やらうまく行っていないと思う人(組織)は、自分(中心や方針を決める立場の人)の視線、関心がどこに行き過ぎて、どこに足りなさ過ぎているかを見直して、バランスを図ると、改善されたり、持ち直したりする可能性があると言えます。
これは、本当にケースバイケース、個人や組織で(理想の)バランスも違ってくると考えられますから、一律(パーセンテージや純粋な割合)で言えるものではありません。
ただ、問題というものが発生していたり、自覚できていたりするのなら、こうした関心の方向性のバランスがおかしいのではないかと疑ってみるのは、解決のヒントのひとつになるかもしれないのです。
「神の家」の自信
私たちは普段何も思わない人でも、不安な状況にさらされたり、決断がなかないできない状態や、何をしていいかわからなくなったりすると、迷い・混乱に陥り、自分への自信を失うことが多くなります。
自分ではわからない、自分では決断を下せないのですから、判断のもとたる自分自身に、しゃれではないですが、自信が持てなくなるわけです。
まさに、自身の揺らぎ=自信の喪失とでも言えましょうか。
マルセイユタロットでは、揺らぎのない自分と、自信を獲得した状態は、「神の家」で表されるものと考えられます。
一方、数のうえで、その「神の家」の前のカードに当たる「悪魔」は、悪魔による自信と、ひとつには解釈できます。
「悪魔による自信」とは、カリスマ的な人や、自分が信仰に近い形で敬愛・崇拝している人に寄りそうことで、自分の自信に換えているというもので、よくあるパターンです。
悪い言い方をすれば、“虎の威を借る狐”みたいなところもありますが、よい言い方をすれば、その人をモデルにしながら、自分の中にある自信の部分を見出そう、創り出そうとしている状態とも言えます。
しかし、その悪魔から承認してもらうこと(ほめられたり、評価されたりすること)でしか、自分の価値や自信が持てない状態が続くと、それは依存ということになります。(中には、悪魔側が依存している、つまりは共依存関係もありえます)
自分が悪魔である(この場合の悪魔は、一般に言われる悪の道に誘惑したり、非道を行う悪魔的存在という意味ではなく、マルセイユタロットカードに象徴されるカリスマや影響力のある魅力的な人物の象徴と取ってください)ことを自覚している人(演出している人も含む)の中には、本当に、悪い意味での悪魔になってしまっている人と、共に成長を図ろうとしているよい悪魔がいます。
言い換えれば、わざとか、無意識のうちに依存させて、自分についてくる人のエネルギー(目に見えないものだけではなく、お金、時間、熱意、その他もろもろの形の場合もあります)を奪い、自分をさらに肥大させようとするのが悪い悪魔で、人からエネルギーはもらうものの、それ以上に自分もよい意味で拡大し、力をつけ、それらを人に還元していくタイプがよい悪魔と言えましょう。
この区別には、やはり、「愛」というものがひとつの基準になると思います。
悪魔中心(悪魔自身に向けられているだけの、自己愛中心)なのか、双方向(自分だけではなく、他者愛)にもなっているかどうかという点が重要ではないかと思います。
ただ、どちらにしても、この「愛」も、情とからむことが多く、従って、「愛情」「情愛」と書くと、よい悪魔との関係も、理性が働かない感情的なつながりが中心(タロット的にいえば、杯であり、剣の力が薄い)状態になっているとも考えられます。ゆえに、その関係性は断ち切りにくいわけです。
そこで、「神の家」です。
「神の家」と書くと、神様が住まう神殿とか神社を想像するかもしれませんが、マルセイユタロットの「神の家」は、神殿というより、文字通り、神の家(フランス語で、カードの名前がそう書かれています)なのです。
これでは、まだわかりづらいですよね。
もうちょっと補足説明すると、「神の家」を、例えば、「田中さんの家」というふうに、「神」の部分を固有名詞にして比較すれば、言っていることが、わかってくると思います。
上述の、「田中さんの家」と書けば、それは田中さんの住んでいる家、もしくは田中さんの所有する家と思うのが普通です。しかし、これを「田中さんが家」だとすると、まったく変わってくると思います。
そう、「神の家」も「神が家」と言い換えた、いわば反転した言い方をすれば、「家が神」ということになります。
この(神の)家も建物(メゾン・マンション)みたいなイメージが、マルセイユタロットにはありますから、神の家が建ったというような感じであり、しかも、「神が家」という言い方をすれば、まさに、家=神、建物=神の状態なわけですから、神が来た、神になる、に近いのです。
そして、この神とは誰か?です。
もう皆さん、おわかりかと思いますが、この神とは「自分」です。もともと自分の内にあった神性が、長い間の気づきや修行を経て覚醒し、自分が神であることを認識する強烈な変化が起きたのです。
ここで、やっと、最初の話に戻ります。
こうなると、自分が神(これは、おごった言い方ではなく、完全性の悟りや宇宙、大いなるものと一体化することとイメージすればよいでしょう)になることに覚醒したわけですから、その自信は、もはや人間レベルの比ではないことがわかります。
本当の意味での自信、誇りに目覚めたのです。
「悪魔」では、誰かを悪魔(仮託する存在)にして、自信(自身)を承認してもらう必要がありました。あるいは、自分が悪魔となって、つき従う人のエネルギー、状態を感じて(自分に流入させて)、悪魔としての自信を得ていたとも言えます。
それが、「神の家」になると、完全に自立し、もう、悪魔は必要なくなり、自分の神性そのものによって支えることができるようになっています。描かれているような、揺るぎない強固な建物の自信です。(ちなみに破壊されているように見える上部の王冠も、一説では、天からの戴冠と言われます)
そして、悪魔と情で結びついていたとしても、その悪魔からの自立、解放、脱却ができるのです。
日本語は面白いもので、自信、自身、自神と同じ発音をします。ちなみに地震もそうですね。(笑) これらは、深くわかってきますと、すべて「神の家」のカードに、まるで偶然のように、凝縮されているようにも読み取れます。
ところで、「神の家」と数のうえで関連性のあるカードと言えば、「恋人」カードがあげられます。この二枚は、ローマ数字の「6」で共有していることを示しています。
恋人カードでは、人間が相談していたり、迷っていたりするようにも見えますし、上空には異次元的存在ともいえる「天使」「キューピッド(クピド)」がいます。
一方、「神の家」にも、ひっくりかえった人間のような二人がいて、さらに強烈な光が建物に降下していて、これも異次元的な影響が上には感じられます。
どちらにしても、二枚における(普通の)人間と思える人たちは、揺るぎない状態とは、とても思えませんし、自信という観点からしても、それが強くあるようには見えません。
このことから、私たちの通常状態、普通の人である時は、迷うのが当然ともいえ、時に自信も失いますが、別の見方をすれば、自信を持つということは、段階やレベルに応じたものが存在していると考えられることです。
最初から、揺るぎない自信(=自身)を得られるわけではないのです。
しかし、内奥には、神性なる自分、神である宇宙的な自信が存在し、言い換えれば、宇宙そのものである自分がいるため、自信がないとかあるとかの問題ではなく、すべてはありのままで安心立命の境地そのものだとも言えるわけです。
そのことを思い出す旅をしているのが、人生なのかもしれません。
どんな人にも悩みや迷いはあり、その度(旅)に、自信を失うことはあるでしょう。
また、悪魔の登場によって、つながれたり、承認されたりする形ではありますが、他人からの影響と学習で、自信をつけていくこともあるでしょう。
様々な状況の中で、私たちは、本当の自信(自身)を構築していくのです。それが「神の家」を目指す作業とも言えます。
頼り・頼られしながらもありだと思います。人は一人では生きて行けません。
あなたが、誰かの自信を回復させたり、得たりするためのサポートやきっかけとなるかもしれませんし、反対に、自分の自信喪失を、誰かに取り戻してもらったり、与えてもらったりすることもあります。
人を助けるのもいいですが、ますば自分を助けて、自らが自信を持つことが、ほかの人の自信を取り戻させる流れとなるでしょう。
そのように、マルセイユタロットは全体像から語っています。
問題の認識、その発信と解決
人にとって、何も問題のない状態というのは、なかなかないのではないかと思います。
結局、問題というのは、本人が問題であると感じたり、思ったりしない限りは問題ではないのですから、結局のところは、感情や気持ち、あるいは思考や判断が、問題を決定している、生み出していると言ってよいかもしれません。
ということは、いかに問題と感じないか、思わないでいられるかということが、楽に生きるコツとなると考えられます。
ここで注意したいのは、起こっている自体そのものは、ただそういう事実というだけであり、それがいいことか悪いことか、はたまた問題であるか否かとは別である、ということです。
例えば、何か病気になった、仕事をなくした、恋人にふられたなどということは、いかにも問題と思えますが、それは先述したように、そういう事象が起こっただけで、問題であるかは、あくまで本人がそう思っているかどうかによります。
さらにいえば、起こっていることで、痛い、苦しいということを感じていても、だからといって、それが問題や悩みと本人が思っているかは別で、たいていは痛みや苦しみがあれば、「問題である」と思う人がほとんであっても、そうではないと(思う)人もいるということです。
思いや判断が問題を決めている(問題として確定させている)とは、そういうことです。
だから、自らの感情や思考のパターンを知ったり、学びをして、変えていったりすることは大切になるのです。
しかしながら、よほどの悟った人くらいでなければ、実際、心や体の痛み、苦しみ、不快さ、現実で起こる不幸のような事態は、普通は問題・悩みとなってしまうのが、これまた人間であるところの特徴とも言えましょう。
その問題や悩みを解決していくこと、軽減していくことを求めるのも、人として当たり前の気持ち、行為と言えます。時には依存になってしまったり、弱気になったりすることも、その本人の苦しみの次第では、仕方ない面もあります。
ここで、全体と個(個人・個性)という、マルセイユタロットでもお馴染みの観点で見れば、ひとりひとりの問題は、困っていることとして感じる「問題」としては同じであっても、内容や程度などはまったく異なるものと言えます。
タロットでの相談においても、大まかに分けると、実は小アルカナに関係する4つの組の問題、さらに言えば、ふたつの問題で大分類できるのですが、こういう共通した「全体的」特質とともに、やはり個人別としての問題の個性も出てきます。
ですから、これは非常に重要なことだと私は思っていますが、問題や悩みに対する、ある種の共通パータンの対応・解決策があると同時に、それが全員にそのままきれいに当てはまるわけではなく、ひとりひとり、個別での対応・治療・解決の状況も存在するということです。
誰かがあれでよくなった、解決したといっても、その方法や内容、日数などは、人によって違うわけですし、自分には効果がないこともありえます。
従って、まさに自分の問題は自分なりのペースや、解決のやり方があり、いわば、問題にも個性があれば、解決にも、個人的(個別)処方箋があるのだと考えれば、何かひとつを信奉しすぎたり、誰かの洗脳にあったりすることは少なくなるのではないかと思います。
また自分に合わないものがあるのも当然で、それで自分がおかしいと思うのではなく、ただ単に、人はこの世界では個性的存在であることが証明されているだけのことです。
かといって、自己流がすべてよいとうわけではなく、人としての共通点があることも先述した通りです。
言い方を換えれば、誰かの問題・悩みは、確かにその人の個別的なものですが、それは私たち全員にとって無関係ではなく、何らかの必要性があって発生しているとも言えるのです。
よって、私はこうも思うのです。
今の情報化社会、いろいろな人が自分で世界に向けて発信てきるようになりました。その情報はまさに千差万別、いいも悪いも、本当も嘘も、まさに玉石混交、様々に存在していることでしょう。
その中で、自己の問題や悩みと、その解決・軽減に取り組んだ過程、結果を(本当のこととして)披露している情報があれば、きっと、誰か、問題を抱えている人に役立つことになるのではないかということです。
さきほど、問題は個別なものであり、解決もその人のオリジナル性があると言ったことと、矛盾しているように感じるかもしれません。
しかし、「問題」は、人として共通の部分もあり、発信した人と見た人の状態が、まったく同じではないのは当然ながらも、そこにやはり軽減・解決・気づきとしての何がしかのヒントも共通としてあると思われるのです。
どんな人でも、人や薬、技術からの援助があったとしても、問題を解決する(あるいは問題認識を消失させる)のは、自分自身の思いや力です。
悩み、苦しんでいる人が、その解決を求め、ネットでの関連する情報を探して、たまたま行き着いたものが、誰かの発信した自分の問題とその対応の話で、それによって、(見ている、読んでいる側の)自分自身の何かの気づきや解決のきっかけ、安寧を得るヒントになることも、今の時代、十分に考えられます。
実のところ、問題は、その人自身のみで抱え込むことによって、大きな困難性として認識され(悪い意味での問題の成長)、余計、石のように固まってしまうおそれもあると考えています。
問題を誰かに話し、シェアし、皆でなくしていくような共通な思いというか、つながりができれば、かなりの問題は早く解決し、個性的な対応策が多く登場したり、問題そのものが社会から消失していったりすることも加速するのではないかと想像しています。
ということで、少なくとも、自分の以前の問題が解決したとか、軽くなったとして、問題を過去的なものとして扱える人は、自らその経験を発信していただければよいのではないかと思います。
役に立たないようでいて、きっと誰か、いや、大げさに言えば、人類全体とつながって、見えない形でも役に立つのではないかと思えるからです。
あなたの問題は、あなた個人としては確かに大変だと思いますが、皆の役にも立っているのです。もちろん、あなた個人としての問題がなくなり、楽になることが先決ですが。
「皆で楽にしあう」というイメージが、見えないネットワークを稼働させ、個が全体の力になっていくシステムも、実はあるのではないかと思えるわけです。
ということは、逆に、ネガティブなものも、多くの人が思えば、個が全体として増幅されたものなりますので、なるべくなら、そうした思いは出さないほうがよいことになります。
でも、発生する感情そのものはコントロールできませんので(そのあとのコントロールは可能としても)、ネガティブに思うなというのも無理なことです。
ですから、意識的に祈りとか感謝とか赦しとか、そういう感情を、皆のつながりとして思うということをし、個別でもやっていくとよいのではないかと思います。
個でありながら、全体を意識すること(よい意味で)、は、今の時代、特に必要なことではないかと考えています。
小アルカナの剣(マルセイユタロット)
タロットの小アルカナというパートは、4つの組に分かれています。
タロットの種類によって、4組の絵柄は異なっている場合もありますが、だいたいは、英語でいうと、ソード・カップ・ワンド・コイン、私たちは日本語で、剣・杯・杖・玉と呼称するもので成り立っています。
これは、いわゆるトランプの4組と同じで、トランプの一般的な組(スート)の表現として、それぞれスペード、ハート、クラブ、ダイヤとなっているわけです。
ちなみにトランプにおける絵札も、タロットでいえば、宮廷カード(コートカート)と大アルカナの「愚者」と関係し、組の数の1(エース)も絵札なので、ゲームとしては得点力が高く、重要なカードであることがわかります。
ということで、タロットを知れば、枚数の違いがあるとはいえ、構造的にはトランプと同じなので、トランプ占い、トランプリーディングも可能になります。(時々、私も講義の余興としてやることもあります(笑))
と言いつつ、今日の話題はトランプではなく、小アルカナ、中でも、剣の組のことです。
さきほど、タロットの種類によって、4組の絵柄が違うこともあると述べたように、同じ剣(ソード)の組であっても、その剣の絵がカードの種類によって異なるがために、絵柄の印象による読み方の違いも当然出てきます。(これは大アルカナも、小アルカナの剣以外の組もそうですが)
私はマルセイユタロットを使いますので、マルセイユタロットの剣の絵柄で、この組を解釈します。
ただ、日本で、メジャーに使われているタロットといえば、ウェイト版(ライダー版)になりますので、多くのタロットリーダーや占い師たちが、その絵から意味を見出すことになっているのも当然となっています。
ウェイト版の剣の組を見ますと、武器のソードとしての色合いが濃く、中には凶器に見える表現もあります。
私自身はウェイト版の絵柄がとても苦手なので、実はさわることもできないくらいなのですが(^^;)、それほど、マルセイユ版とは違うところがあります。
というより、マルセイユ版の小アルカナ、数の組のカードは、絵というより記号的なものになっており、とてもシンプルです。
ここから絵柄としての意味を読み取ろうとすることはむしろ困難で、従って数の象徴的な意味を理解しないと、なかなかマルセイユ版の数カードは読みにくいことになります。(数だけではない読み方も、当然あります、数も重要ですが、四大元素の象徴を理解することも鍵です)
そして、マルセイユ版の剣の組に着目しますと、なるほど、最初の「1」のカードや、奇数の数のカードには、まっすぐなソード状の、いかにも「剣」というものが上に向けて伸びていますが、偶数のカードは、湾曲した半円模様の剣とも何ともつかぬ模様になっており、現代人の私たちが見たら、配線コードのように見えるかもしれません。
なぜ剣が湾曲したものになっているのかについては、諸説ありますが、ここでは、そういった曲がった剣を使う文化と関係していると言っておきましょう。(ほかの理由も考えられます)
ウェイト版は、小アルカナに絵をつけ、組ごとに、ひとつのスートリーが流れており、10で完成するようものとして構成されているようですが、マルセイユタロットも絵こそありませんが、実は1から10でもって、完結するということは同じだと考えられます。(マルセイユタロットのほうが時代が古いので、ウェイト版がモデルとした可能性もあります)
マルセイユ版の剣の組を数の通りにきれいに横に並べてみると、驚くべき模様というか、全体の絵柄が浮かび上がってきます。
それは半円系の剣を描ているからこそ、半円がふたつ合わさってできる「円」模様であり、さらに円と円とが重なってできる、通称ヴェスカ・パイシズ(ピスカ・ピッシーズ)と言われる魚の浮袋の形も見えてくるのです。
これは秘儀的に非常に重要な幾何学模様であり、剣の組には、この知性を磨くことが伝えられていると考えられます。一言でいえば、それは宇宙の智慧であり、グノーシスをタロットに見ているものは、それでもあると言えます。
マルセイユタロットの剣の組を見ていると、私たちの知性獲得の過程と言いますか、向上の順序が描かれているようにも感じます。
最初は、私たちは無知の状態であり、しかし、ひとつの偉大な神の剣、つまり神的知性は、内奥にはある状態で生まれますが、次第に人間としての生きる知恵、いわゆる普通の知識のほうを自分の中にたくさん入れていきます。(逆に神的知性は隠れてしまう)
現実を生きるうえでは、それは当然の成り行きで、自分を守るため、あるいは現実社会を渡っていくためには、仕方のないことでもあります。
最初「1」のカードに王冠とともに、偉大に華々しくあった大きな神性なる剣も、偶数カード(10は除いて)においては、直線的な剣そのものがなくなっており、奇数カードにあっても細くなり、次第に、湾曲した剣の数は増え、錯綜したものになってきます。
それに伴い、周囲の植物のようなものも、次第にシンプルになり、半ばくらいから色や方向性も含めて、違った雰囲気に変化します。
ここから、私たちは、途中までは、人との交流による知識の受け渡し、学び、実践を経験しつつも、やがては、本当の知性に目覚めることを目指すのだとわかります。
そのためには、「剣」の象徴として、無駄な知識はそぎ落とし、収れんし、本当の知性のための栄養としてささげなくてならないことが示されています。
これは、人間(生活)としての一般のこと、社会のこと、また身に着け、学習した様々な知識が無駄であると言っているのではありません。それが、神性的な知性、智慧を開くための肥しや重要な経験になるのだと言っているわけです。
最初から感性のみを重視する人もいますが、それはそれで個性としてはありだと言っても、マルセイユタロットの剣の組を見ていると、通常の思考や知識においても、やがてそれらがそぎ落とされ、凝縮され、高い波動に至る変容によって、高次の知性にたどりつく可能性も示唆していると言えましょう。
一度隠れた神性なる「1」の剣が、再び磨かれて現れる(10から別のステージの1に進化する)という印象です。
その前の、自分が取り組んでいたステージの完結を意味する10のカードでは、偶数でありながら直線的な剣が描写されており、しかも剣がふたつに分かれて交差している様で表されています。
いわば、現実を超えるための、自分の分身が生み出された瞬間かもしれません。
こういう剣の組の流れから、私たちは、迷いなからも、ひとつのシンプルな答えにだとりつこうとしているのがわかります。
これまで学んできた知識も成熟してくると、切り落とされ、収れんし、シンプルな直観になり、感覚的判断と似たようなものになっていく(しかし通常の感覚的なものとは次元の違うもの)ように予想されます。
しかし一方で、最終的にはひとつというより、もうひとつ(もう一人、もうひとつの世界)に気づくことが、知性の、ある種の到達点であることが剣の組から示されています。
剣の組は、まさに私たちが知性を鍛錬していく様を描写しつつも、孤独や孤高に達するようなイメージではなく、極めてシンプルな法則・リズムに基づきつつ、むしろ、この世界や宇宙が多様で豊か、かつ多次元で、あらゆるものが存在し、共存・関係・影響し合っていることを知るに至るのを語っているように思います。
こうして見ていくと、マルセイユタロットの剣の意味やイメージが、決して武器や凶器のようなものではないことがわかるでしょう。
