カードからの気づき
マルセイユタロットを教えたい人のために
マルセイユタロットは、最近は使う方も増えてきましたが、まだまだ日本ではマイナーと言えます。
以前にも書きましたが、独学するにしても、まず、マルセイユタロット関係の日本語の本があまりありません。
最近、サビアン占星術などで有名な松村潔氏の「タロットの神秘と解釈」や、幽体離脱を研究されている大澤義孝氏の「タロットの謎」というマルセイユタロット関係の本も出版されましたが、どちらも面白い本てはあるものの、オーソドックスにマルセイユタロットを入門から学ぶのには、不向きなところがあるかと思います。つまりは、一定のマルセイユタロットの基本知識があれば、より深く楽しく読める本だということです。(あくまで私の印象ですが)
かといって、ほかのタロットと同じように解釈できる入り口的な本も、それは何もマルセイユタロットでなくてもよいので、やはりマルセイユタロットを独学するには物足りないところがあるでしょう。
ということは、マルセイユタロットを知る人に教えてもらうのが、遠回りなようで、一番早いと考えられます。
しかし、先にも述べたように、タロット界においても、マルセイユタロット自体があまり普及していない現状では、使い手はもとより、教え手も少ないのは当然です。
そして、これはマルセイユタロットに限らずですが、教え手の方は、皆さん、まったく同じことを伝えるのではありません。そこには個人の体験や解釈、いわば教える人の個性が出るわけです。
教える人の中には、知識よりの人もいれば、リーディングや占いの実践に重きを置いている人もいますし、自分の信じている考えや思想を、タロットに置き換えて伝えている人もいるでしょう。(例えば、僧侶がタロットを使って仏教の道を伝える、スピリチュアルなことをタロットを通して教えるなど)
さらには、学ぶ側、教えられる側の人にも個性や好みがありますから、結局、人を介してのタロット学習とは、考えてみれば、極めて偶然(のような必然)が重なっての選択ルートを通って、つながった関係だと言えるのです。
特に、マルセイユタロットはニッチなだけに、そこに至る道は、あみだくじ的に言えば、いくつもの線と橋を通過してつながったものと例えることもできるでしょう。
そういう迷路を通っての出会いも、宝探し的で面白いものですが、逆にもっと広い道のルートがあってもよいかとも思います。
それは、言ってみれば入り口の扉を大きくするか、多数にするかになってきます。
このうち、後者の多数にするというものでは、例えば、私のことで言えば、私一人だけで教えているより、タロットを学びに来てくれる方がさらに発展して、自分でも教られるようになるほうが、より多くの人の目にふれる機会もあるわけです。
そういうことで、私は数年前より、マルセイユタロットを教えられる人の育成も考えるようになりました。
教える人を教えられるほど、自分が優秀だとは全然思いませんが、それでも、現状、少ないマルセイユタロットの教え手を、もっと拡大させる一助にはなれるのではないかと思っているところがあります。一応、私も曲がりなりにも、それなりの年数で、それなりの人を教えてきた自負と経緯がありますし、マルセイユタロットへの思いと情熱には熱いものがあるからです。
教えるということは、実は、意外に難しいものです。スポーツなどでも同様だと思いますが、実践の経験が豊富であったり、優れた結果を残している人であったりしても、教える技術はまた別ものになります。
名選手、必ずしも名コーチ・監督にはならないように、あまりに実践で優秀すぎると、普通の人の気持ちや学びの感性が、本人(名選手)にはわからないことがあります。特にいわゆる天才型の人は、自分が簡単にできてしまうので、なぜ、それができてしまうのかを説明しにくくなるわけです。
タロットはまた、感性や感覚が重視されがちですが、人は思考と感情がセットで納得できた時、本当に腑に落ちたような理解が可能になりますので、感性・感情面だけでは、わかりづらいところもあるのです。
反対に、知識・頭の思考ばかりでは退屈で、うんざりしてきます。いわゆる“お勉強”は誰でも嫌なものですよね。(苦笑) 従って、その両面をバランスよく見て、教える必要があります。
つまり感覚だけ、知識だけ、経験だけで教えても、伝わりにくいところがあるということです。
タロットの中でも、マルセイユタロットは独特の知識と経験を有し(必要とし)ます。それは、先述したように、知識を得ようにも、それが書かれたものが少ないうえに、使い手そのものが少ないので、使い方や教える手法も、あまり世に出ていないことがあるからです。
幸い、私はマルセイユタロットの使い方は当然として、教え方、効果的な学習法なども、基本はもとより、独自なものまで追及してきたところがあります。まだ習っている比較的早い段階から、すでに教えることを意識した学び方をしていたこともあります。
ということで、マルセイユタロットを使い、そしてそれを教えたいという目的や希望のある方は、ぜひ、こちらの門戸を叩いてほしいと思います。
ただ、私がマルセイユタロットを使い、マルセイユタロットを教えてるのも、ここで何度も書いているように、占いがメインではありません。ですから、あくまで占い師になりたい、タロット占い師の師範になりたいという方を指導するものではないのです。
マルセイユタロットに描かれている、内在する神性を開花し、それぞれ自らを高めていくため(究極的には人類の調和的発展)の目的でやっています。もちろん、その目的をもって、「占い」という方法を選択されるのも、人の自由ですが、趣旨(目的)が異なれば、占いの選択はない場合もあります。
私のところでは、教え手の方は、基本、独立を目指すことを想定しています。独立とは、簡単にいえば、自分ひとりでマルセイユタロットを教えていくこと(プロデュース・マネージメント)ができるということで、それはビジネスの形もあれば、ボランティアの形もあり、それはその人の選択によります。
しかし、そのためには、いきなり一人で、すべて一からやるというのは、大変なことです。
前に述べたように、教えること自体の技術・知識もいるからです。最初からそれらの自信があって、ひとりで全部できるという人は、別に入門したり、指導を受けたりする必要はないと思います。
どなたかに学んだり、本を読んだりして、基本を身につけ、リーディングなどで実践し、教える自信と方法があれば、自由に(教えることは)やればいいと私は思います。
ですが、知識と実践の経験はあっても、それを教えていく、伝えていくというのには、モデルや型、指導が必要という人もいらっしゃるわけです。むしろそのほうが普通かと思います。
そういう人のために、私は力になれればと思っているのです。教えることがある程度できるようになるまで(独立の自信がつくまで)、指導していき、あとは個性を活かして、自分なりの方法でマルセイユタロットを伝えていってくれればと思っています。
すでに語ったように、教えることにも個性がありますので、基本は同じでも、自分がマルセイユタロットを通して伝えたい本質と、それを表現する講義の方法に、自分なりの工夫とアレンジ、オリジナリティを出していただければよいかと思います。
実践をバリバリやるより、教えることのほうが向いている人というのがありますし、それ(向き不向き)自体が自分ではわからないところもあります。
最初は教えることなんて全く考えていなかった人でも、やっているうちに、これを人に伝えたい、教えたいという気持ちが出てくる場合があります。
またリーディングを多くしていると、「あなたにこのタロットを教えてもらたい」と、クライアントから言われることもあります。
それは、あなたのリーディングによって、クライアントが感動し、自分もこのタロットを学びたい、使いたいと思ったからであり、それならば、目の前の感動を与えてくれた人に教えてもらいたいと思うのも、人の気持ちの自然の発露だと思います。
そう言われて、クライアントの方に対して、教えるからには、いい加減な教え方はできないと思うこともあるでしょう。
そして、意外にも、簡単なものならば教えられると思っていても、いざ、やろうとすると、自分では無意識にやっていたようなことが、教えるとなると、その意味が理解できてない、説明できないことが頻出してくるようになります。
その時はじめて、教えることの難しさを知るのです。誤解されがちですが、何事も、内容が簡単・平易でも、教えることはそれに準じる(簡単な)わけではないのです。それに、浅い段階で教えると、当然背景も浅いものになるので、せっかくのツールも、その浅いままの状態で終わるのです。
伝える人の奥底に深いもの、広大なものがあれば、たとえ、内容的に浅いものを教えていても、人はその背後の深淵さを感じるものです。「これ(タロット)はただものではない」という雰囲気とでもいいましょうか。
もし完璧なテキストを作成したとしても(それはそれですばらしいですが)、内容もあまり知らない人が、それを借りて棒読みで話す人と、テキストを作った者が、感覚的にも思考的にも深いものを感じさせて話す人のものとでは、伝わる効果もまったく違うものになるのはわかると思います。教えるとはそういうことです。
最後に、マルセイユタロットの「法皇」と「恋人」の並び(数の順になります)で配置してみます。
「法皇」は、見ての通り、教え伝える人です。それが、複数の人と天使(キューピッド)のいる「恋人」のカードに向いているように見えます。
ここに、教え・教えられる状況(設定)の象徴性の深さが示唆されていると考察できます。
簡単に言えば、教え・教えられるのも、人(人間)と神、天使との融合によって行われるのです。そう、天と地の邂逅なのです。
タロットから見る自力と他力
マルセイユタロットでは、すでに結構知られているところではありますが、大アルカナと呼ばれるパートのタロットたちが、数の順に、ある種の成長や拡大を象徴させているという考えがあります。
ただ、これには、様々な見方と解説、秘密があり、それがわからないと、単純に「ふーん、そうなんだ」みたいな感覚だけで終わってしまいます。
まさにタロットがアルカナ(隠されたもの、秘密、神秘などを意味します)と言われるゆえんです。
マルセイユタロットの大アルカナの図は、様様なものが詰まった宝庫といえるもので、これまで私の見た限り、世の中に披露されている教え、教説、概念、思考、パータンなどが、図像としてほぼ網羅されていると見ることができます。
ですから、マルセイユタロットの、特に大アルカナの図像を観察することは、自らに小さなものから大いなるものまで、たくさんの気づきを与えることになるのです。(ただし、一枚一枚について、知っておくべき知識は必要ですし、先述したように、全体図としての見方のコツのようなものを把握しておくことも重要です)
さて、そうした気づきのひとつとして、今日は自力と他力のようなことをお伝えしたいと思います。
さきほどお話したマルセイユタロットの一枚一枚の図像の印象を辿っていきますと、数の少ないもの(カードに付されている数が小さいもの)は、人物が単独で描かれていることが多く、数が増えれば(大きくなれば)、人は小さくなったり、多数の者(人間とは限らない存在)たちが現れたりしています。
このことから、自力の部分と、他力も必要とされる、何かの違いがあるのがわかります。
私たちは、人生で、自力だけで生きていくのは不可能です。そもそも、生まれてからしばらくというか、かなり長い年月、親や養育者がいないと、人として成長どころか、生存することすらできません。
しかし、普通は自立を求められ、または欲し、庇護者から離れて、独力で生きていくようになります。平たく言えば、成人・大人としての独立です。ただ、最近ではニートの人たちも増え、なかなか簡単には独立することができなくなっている状況はあります。(ニート問題については、一般とは見方を変えた私なりの持論がありますので、いつか紹介したいと思います)
それはともかく、常識的には、大人になれば自力で生活していくことになり、それが死ぬまで続くという感じです。
言ってみれば、人は他力で最初は生きていき、やがで自力に切り替え、人生が終わるというプロセスです。
しかし、タロットの図像で見ていくと、なるほど、最初は確かに自力が中心と見えるような、人物がメインとして描かれるカードが並び立ちますが、数が進行していくに連れ、さきほども言ったように、他者存在というものも現れてきて、むしろ、後半は他力中心のようにも見えます。
もし、カードの順序が、人の一生を示すものだとすれば、これは常識的には逆みたいな印象を受けます。
それでも、もっと深く考えていくと、タロットは表面的な生き方、人生だけを象徴しているのではなく、精神や霊的な部分まで表していると見ると、また意味合いは変わってきます。
例えば、私たちは、確かに大人になれば、自活していくのが当たり前で、自力で選択したり、行動したりします。
しかし、人によっては、それが過剰になり、「すべて自分でやらなくてはならない」と、何もかも自力で処理しようとする人がいます。言い方を換えれば、他人に頼らない、任せない人ということです。
これは、成育歴の中で、そうしなければならなかった事情というものが多分に影響していると考えられますが、とにかく、自分が何とかするという態度に固まり、それによって、異常に一人で頑張ったり、仕事を抱え込んでしまったりします。
本当にすべてを一人でできてしまえばいいのですが、実際には、なかなかそうもいかないことは多いです。私たちは(外的な)神ではないからで、自ずと限界があります。
あまりに自分が頑張りすぎるから、逆に、余計に仕事をしなくてはならなくなったり、場合によっては、本来、他人がすべき仕事や(取るべき)責任まで知らず知らず引き受けて、自分どころか、他人にまで無意識的に迷惑をかけている(それに、自分も他人も気づかない)ケースもあります。
大人になり、自立していくということは、何も、全部自力でできることを意味するわけではありせん。
精神的には、むしろ、自分と他人(できることとできないこと)とをうまく切り分け、任せるものは任せ、自分でできないものは他人にやってもらうという、まさに「分別のつく」状態を意味していると言えます。
そして、霊的な面で言いますと、自分という存在は、他人から見えている単一の存在だけではなく、様々な自分がおり、最も高次なものでいえば、それは神性や仏性ともいえる存在が内在していると考えられます。
さきほど、「人は神ではないから自分ですべてはできない」と言いましたが、それは一般的にいう全知全能的な、外にイメージする「神」です。
それとは反対に、私たちには完全性としての神性なる部分を自分や他人の中に見ることができると言っているわけです。
ですから、反転すれば、自分を自分として自覚している肉体的な自我の部分が、「すべてやらねばならない」と思うのではなく、内なる神性の部分が、すべてをプロデュースしてくれるかのような、任せる、委ねる感覚に変わっていくわけです。
すると、霊的な成長というのは、表面的な自力に頼るのではなく、自分の神性を含む、全体的、統合的な、トータルな他者をも含む自力を信頼するという方向性だと気づいてきます。
ということは、普通に思う自力とは、むしろ自分を信頼していない他力に近く、逆に、本当の自力とは、自分も他者も貫いている、全体性の力を確信して出る力であって、一見、他力に近いようで、とても大きな意味での自力だとわかります。
奇しくも、肉体的にも、私たちは年を取りますと衰えてきます。要するに、年々、自分の肉体的、表面的な力や知識だけには頼れなくなってくるというのが自然だということです。
ということは、それ以外の自分の力(精神や霊的なもの、頭の知識だけではなく智慧のようなものがあげられます)や、他者(これは人間とは限りません)の力も使わないと、生きていくのが難しくなるわけです。
だからと言って、悪い意味での依存、収奪をしてよいということではなく(依存は必ずしも悪いとは限りませんが)、先述したように、分別というのも持たないといけません。自分のできることと、できないことを冷静に観察し、分析する力も必要です。
それでも、いまだ大人になっても、表面的な自力で頑張ってしまっている人は、早く、本当の他力を知り、まずは、無理をしている自分を解除し、実際に、任せられるものは任せてみて、捨てられるものは捨てることです。
ここで「捨てる」と書きましたが、それは、変な押しつけの期待や、依存をしないことにも関係します。(よく恋愛や親子関係には現れます)
それは自分を真に信頼することや赦すことにつながります。(一見、他者への信頼に思えますが、結局は自分への信頼と赦しなのです。それがないから、自分ですべてやろうとしてしまうのです)
楽に生きられないことの理由には、ひとつには社会や現状の集合意識的選択のシステムとしての人類全体の問題がありますが(経済問題や、格差社会、組織的人間関係の問題などに関係します)、まずは、自分自身の生き方の問題もあるわけです。(このあたりは、これまでの自戒もありますが・・・(苦笑))
そして、その自分の問題の多くには、抵抗やこだわりがあったり、ここで述べたような、自力での思い込み(自我としての思いの強さ、自分で何とかしなくてはならない、あるいは逆に自分ではどうしようもできない(しかし救いを信用していない自分)という強迫観念)のようなものが影響していたりすることがあります。
そういう人は、自力から、もっと他力へ切り替え、最終的はに真の自力へと発展、目覚めていくことがよいと思われます。
「力」のカードのライオン
マルセイユタロットに、「力」というカードがあります。
ほかのタロット種にもあるカードですが、マルセイユ版の場合、シンプルながらも、女性とライオンの図像がしっかりと描かれている印象があります。
数も、ウェイト版(ライダー版)とは違い、「11」で、そのことにはマルセイユタロットのシステム上、この数と順でなければならない意味があります。
今日は、このカードの図像の最大の特徴とも言える、女性とライオン、中でもライオンについて、心理的、あるいはややサイキック的に見てみたいと思います。(ここで書くのは、講座で説明するもの一部や別の言い方であり、詳細の多くや、本質的な意味は講座で語っています)
ところで、大アルカナの中で、ほかにライオンを明確に描いているのは、「世界」のカードです。
そして、当然ながら、この二匹は関係しています。(マルセイユタロットでは、一枚単体の象徴性と、システム・体系・全体として、図像それぞれが関連し合うように描かれているのが特徴です)
その関係性の詳細は講座に譲るとして、それでも、皆さんも、よくライオンの絵柄に注目してみると、「力」のカードのライオンと、「世界」のカードのライオンとでは、同じライオンでも、微妙に異なって描かれているのがわかると思います。
これは、例えば、「女帝」の鷲と、「皇帝」の鷲にも言え、同じシンボルの「鷲」ではあっても、形態や位置が異なり、共通性と異質性に注目することで、組み合わせとしての意味も出ることがわかるようになっています。
ということは、「力」のライオンには「力」の、「世界」のライオンには「世界」の、それぞれのカードにおける個別の意味と、ライオンそのものとしての共通したシンボル・象徴の意味があるということです。
このふたつのライオンについては、口の開け方に一番の特徴があり、狛犬などと関係していると言えば、すでにわかる人には、その意味がわかるかもしれません。
「力」のほう(ライオン)は、女性によって口を開けられているとも言えますし、自ら開けているとも考えられます。「開ける」ということ、それも「口を開ける」ということは、どんなことなのか、一般的に考えてみてください。
まず、言葉や音を発する時に、口を開けるでしょう。モノを食べたり、飲んだりする時も開けますね。動物だったら、かみつく時も開けるでしょう。ここに、表現する意思、あるいは、生命力を維持するかのようなパワーの摂取ということが想像できます。
さて、力には、そのライオンだけではなく、何といっても、それより上部にいるかのような「女性」の存在が大きく描写されています。この女性は、大人であろうと考えられるライオンより、かなり大きく描かれており、何かしらの力の巨大さ(を持つこと)を示しているようです。
ただ単に体が大きいから、ライオンを扱えているとは考えられず、おそらく、彼女は、ライオンをコントロールできる、文字通り何か未知の「力」やコツを会得している、発していると見て取れます。
そうでないと、ライオンは、あまりに従順というか、彼女に抵抗する様子もなく、猫のようになっていないでしょう。
この女性とライオン、そして女性の扱うエネルギーや力の秘密には重大なものが隠されていると思いますが、ここでは、あえてそれにはふれず、先述したように、心理・メンタル的な観点で見てみます。
すると、ライオンは、何かコントロールされなければならない動物的ともいえる衝動や欲求、女性はのほうは、それを無理矢理押さえつけるのではなく、いなしながら、あやしながら、うまく収めている状態と考えられます。
ライオンと女性は、なるほど、動物と人間ですが、このライオンも自分(人間)の一部だとすると、結局、どちらも別でありながら同じ自分であると見ることがてきます。
ほかのカードでも、似たよう表現で、例えば「愚者」において、犬と旅人の姿で、動物と人間を表しつつ、実は、犬も自分の一部かもしれないと匂わせています。(もちろん、それぞれ別の存在として認識したり、読んだりすることもあります)
私たちの心の中には、荒ぶる魂のようなものがあり、神道の魂的な表現では、荒魂(あらみたま)と呼ばれる部分とも言えます。これに対し、やはり神道では、和魂(にぎみたま)という優しく平和な面があり、これが力の女性の部分に該当するのかもしれません。
マルセイユタロットは自身の神性の回復、発露を教義として持つカードたちですから、神道的な見地からすると、荒魂と和魂としての神性の両面性(統合性)を、「力」のカードからも見て取ることができます。
もう少し次元を下げますと、女性とライオンは、まるで親子(母子)のようにも見えてくるので、ライオンが、暴れ、訴え、言うことをなかなか聞かない子供、女性が、それをあやす母親として見立てることができ、そうなると、インナーチャイルド的な「ライオン」と、現在の大人の自分が「女性」の姿として心理的には考えることも可能です。
自分の中には、癒されない子供のような部分とか、愛されていないと思って、すねていたり、消耗・弱体化していたりする部分があり、それが時にライオンとなって、荒ぶることが出てくるわけです。
それを常識的でわかった風な大人の今の自分が、無理矢理押さえつけようとしたり、無視しようとしたりすると、ますますライオンは巨大になって、手がつけられなくなってきます。
「力」のカードに描かれているライオンは、大人の(たてがみのある)雄ライオンですが、図像の雰囲気では、女性にあやされているような、身を完全に委ねているかのようにも見え、言ってみれば、大人であっても子ライオン的な様子です。
しかし、大人ライオンであるということも絵的には事実ですので、このふたつのことを考慮すると、やはり、自分の子供心を大人のように平等に大切に扱うということが浮かんできます。
実はその子供心は、自分のエネルギーやパワーにもなるもので、いつの間にか、常識や社会によって、大人部分の今の自分こそが、ライオンのように飼いならされていたことに気づくわけです。
「力」のカードでは、女性とライオンは一体化しているようにも見え、まさに自分の分身であることが、示さているかのようです。
荒ぶるライオンは、自分の中の子供のような心とも言え、あれがしたい、これがやりたい、こうなりたいという、純粋な欲求のパワーも言えます。また逆説的には、飼いならされて、本来の夢や希望、エネルギーを支配されてしまった大人の自分を示しています。
いつの間にか、自分に限界をはめ、世間体や常識、経済観念、穏便な人間関係の維持などで、壁(檻)を作り、自らのライオンを閉じ込めていることが、私たちにはあるものです。
何か得体のしれない、自分の内なる欲求やエネルギーがうごめき、これまで順調だった心身や環境に、少しずつ狂いが生じてくることがあります。
これは、力のカードで言えば、ライオンを閉じ込め、その存在を無視し、檻に入れて拘束してきたことに、ほころびが生じてきたのです。しかし、そのほころびは、いわば本当の自分に帰るためのレジタンスであり、破壊からの再生と新たな成長を促すものでもあります。
ライオンを赦し、愛し、受け止め、今の自分と融合した時、それは成されます。
女性は巨大な存在で、ライオンも百獣の王として君臨する偉大な獣です。私たちは、自分を卑下し、何もできない小さな存在だとあきらめてしまったり、他人と比較することで、自分の価値を推し量っていたりすることがあります。
そうではなく、あなたはこのようなライオンをも受け止められる大きな女性(男性でも受容性や慈愛を持つと考えます)であり、内にはさらに、動物の王としての莫大なエネルギーと、実現力(獲物を狩る力)を持っているのです。
内なる荒ぶる魂でさえ、表に出し、ライオンが口を開けているように、(象徴的に)吠える(表現する)のです。吠えることは、感情の表出(と安定)につながることは、「月」の犬たちにも言えることです。
すると、天のライオン(「世界」カードのライオン)が、それに呼応して、さらなるエネルギーの振動と協調を生み出し、これまでとは違う、計り知れないパワーをもって、あなたの望みを実現させようとします。
それは地上的なものでも、天上的なものでも、どちらにも生かせる力となるでしょう。
「力」のカードは、一見単独のように見えますが、「愚者」の犬と同じく、あなたにはライオンがついており、決して一人ではないのです。
ライオンは時に実際のサポートしてくれる人にもなりますし、自分が育てるべき人(それが自分にも返ってきます)であったり、癒してくれる本当の動物であったりすることもあります。
「力」のカードを見ていると、信頼と赦しと言う言葉も浮かんできます。それは表現を変えれば、愛の新たな発見と実践ということでもあるでしょう。
自分の信念(体系)を治癒するもの
今年の夏は異常に暑く、体調を崩す人も多かったのではないでしょうか。
そして、いまだ体調が思わしくない人もいらしゃるかもしれません。
私も昔は暑さには強いほうと思っていたのですが、そこそこの年齢になってきて、普段、あまり体力的なケアをしていないこともあってか、今年の暑さはかなり堪えています。いろいろと体に不調が出て難儀していたところです。
まあ、私の信念体系の中のひとつに、「自分は体が弱い」というものが入っているので、何かとその通りになるわけで(苦笑)、これもいわば、自らのせい、自分が起こしているといえばそうなのかもしれません。
ただ、自分が大変さを経験していることもあり、信念うんぬんはともかく、何か起こっていることで、つらい、苦しいという問題状況にある皆さんの実際の気持ちは、よくわかるものです。
たとえ心のデータがそれを起こしていたとしても、痛さやつらさへのケアも必要になります。
こういった信念体系(平たく言えば思い込み)は、実際に何か「あること」が生じて、その印象が、心のデータに刻み込まれるという仕組みがありますから、まったくの妄想や事実とは異なる想像によって、というものは少ないかと思います。
要するに、その人の思い込みは、それを信じ込むに至る何かの事象があったわけです。
ただ、それが、それ以降の人生にも「事実」として必ず法則のように起きるのかというのは、また別で、最初に起こった時はまさにそうであっても、その後も、すべてはそうなるとは限らないという、打ち消しデータが入らず、消されなかったということですね。
強い信念・思い込みになるためには、繰り返しも重要で、人間、三回、同じようなことが起こると、「これは偶然てはない」と思い、四回目になると、「これはもう間違いない」と確信します。(必然、運命であると思い込む)
私の場合も、実際に一般の人より、自分の体が弱いと思える事柄や事件を積み重ねてきたところがあるから、信念となってしまっているわけです。(笑)
そんな中で、その強化された信念体系を崩していくのは容易なことではありません。
なぜなら、それは、その人自身の個性やアイデンティティにもなっているからです。ある信念を抱くことは、今までの自分の歴史の証明みたいなもので、自我として、「わたし」であることを強く意識させているもののひとつです。
信念を失うことは、自らの歴史を手放すようなもので、つまりは、守ってきた自分を捨てることでもあります。
それが不幸や失敗、生きづらさを現状では引き起こすことが多くなっているのに・・・です。
もういらない信念、バージョンアップや浄化・消去しなければならない潜在的なデータは誰にでもあるものてすが、なかなかこれの処理がうまく行かないのも、まず信念だと気づかせないようにする働きもあるからと考えられます。
こういったデータの気づきや変換、浄化は、心理的な専門家やスピリチュアルな方のサポートでうまくいったり、自分自身がそうした(内的)構造を学んだりすることで、活路が開かれることはよくあります。
やっかいなのは、自分自身のデータ・信念だけに終わらず、それがいわば、人類の集合的な(無)意識の構造ともつながってしまっていて、自分の気づきだけでは処理しきれないことがある場合です。(一度変換・消去したと思っていたのが、再発するようなもの)
まあ、これも先に集合意識のデータがあり、それと似たような環境や事件、問題に遭遇したがゆえに、自分の個人的部分と共鳴して、集合的意識のデータが自身に強く刻み込まれたということも考えられ、後先(原因と結果)が逆だとも見込まれるのですが、どちらにしても、結果(現れている問題状況)としては同じだと思います。
このように根深いものとつながっているものは、通常意識の部分ではどうすることもできない(行動したり、判断したりはできるものの、根本の浄化にふれられない)ことが多く、それは結局、神性的な何か、いわゆるスピリチュアルでいう高次の存在、エネルギーによらねばならないことがあると考えられます。
いや、そもそも通常の意識は、起こっていることを感情的、あるいは思考的にただ味わうか、せめて信念を言葉(つまり人間的思考)としてつきとめるくらいだけで、その根の部分の浄化や消去、変換自体はできないのではないかと思われます。
たとえカウンセラーやセラピストなどの方に手助けしてもらうにしても、最終的に治癒を施すのは、自分自身の神性的な部分、力でないかと想像しています。
これをもし、マルセイユタロットで表現するとすれば、「力」「吊るし」「13」「節制」の数の順に並ぶカードたちになるでしょう。
中でも、「吊るし」の状態が重要で、ある程度の探求(原因追及)のあとには、すべてを内なる神性に任せる、ゆだねることにより、神性的な「力」(フォース)が発動し、自身だけではなく、集合的意識の部分まで介入し、そぎ落とし、浄化し(13)、救済が働く(節制)と見ることができます。
しかし、人は、いきなり、ゆだねる気持ちになりにくいのもありますから(疑いや不安がつきまとうもの)、先述しように、通常意識・表面意識での、無駄とも思える探査とか追及をしていくことで、最後には、ついに、自分をゆだねなければならない心境になることがある気がします。
もちろん、最初から瞑想的な境地になり、すべてを大いなるもの、神性的なものにゆだねられる状態になる人もいるでしょう。
結局、その人に応じた気づきや浄化のプロセスというものが、すでに組み込まれているのかもしれません。
またサポートしてくれる人との出会いも、縁や見えない自分自身の内なる働きがあり、一回ですべてよくなるとか、その人がすべて苦しみを取ってくれるなどというのは「悪魔」的であり、自分の「神の家」(神性)に気づくためには、むしろ、自身の力を(段階的に)目覚めさせるサポートがよく、一回ですべて解決することが必ずしもよいとはいえないと思います。
それはタロットリーディングにも言えることではないかと、私は思っています。
「気づき」について。
気づきというものは面白いものです。
気がつくのですから、今までは気がついていなかったことを示すわけですが、単に忘れていたことに気がつくという場合もあるので、知らなかったことを知るというニュアンスとは違うところもあります。
そして、私たちは、気づきといいいますと、一回で起こるとか、今気がついたことが「気づき」だと思うことか多いですが、「気づき」は必ずしも一度で起こるとか、今の気づきが最初で新しいものというわけではないのです。
実は、今気づいたことに対する、小さな気づきの過程が、何度もすでに起こっていて、そのことを忘れていただけかもしれないのです。
人によっては、その小さな気づきの最中に、あとで(最終的に)気づく大きなものに、まさに「気づいて」しまうこともあるかもしれません。
一回で大きな気づきを得たという(思う)ほうが、劇的で、さも、その「気づき」がすごいものかのように感じられるので、無意識に、自分の気づきを演出している場合もあると考えられます。
その演出が、細かな気づきや、その過程の忘却という形で行われることもあるでしょう。
例えば、人の書いたブログとか、SNSの投稿で、「私は気づきました!」と書いている内容のものをよく見かけますが、その人の過去の投稿などを読んでいますと、すでに、その気づきの状況は起こっていたり、内容は同じなのに、自分は「気づき」として書いていなかったり(まさに「気づいていなかったり)する場合を見かけます。
他人から見れば、それはもう以前にあなたは気づいていたのでは?とか、すでに前に気づいていても、おかしくはなかったのでは?と思うようなことがあるわけです。
つまりは、本人自身の気づきは、本人でしかわからない、本人のタイミングで起こるとも言えます。(そう自分が演出していると言い換えることもできます)
ですから、いいように考えれば、何かのセミナーを受けたり、学びをしたりしても、一緒にやっている人が、「気づいた」とか「変化した」とか言っていても、それはあくまでその人、本人のペースで起こっていることであり、自分自身はまったく気づきがないとか、何も変わらないと思うようなこともあったりしてもよいのです。
それでも、少しずつ、自分の中(自分のペース)では、ある気づきや変容に向かって、準備が進んでいるということも考えられることになります。気づきというものは、マイペースなのだと思うとよいでしょう。
マルセイユタロットでは、自分を「愚者」と見立て、その「愚者」が21枚のほかの大アルカナカードで象徴させられることを旅したり、経験したりするという考え方があります。(これに基づくと、小アルカナは、さらにその旅や経験の細かな方法など示す、という考えにもなります)
この場合、大アルカナの数の順番とは関係なく見ることも可能で、いわば、21枚のカードを縦横無尽に、あるいはランダムに経験していくとも言え、もし、「気づき」をテーマとすると、その「愚者」が飛んだカードの気づきが訪れる、あるいはヒントや過程になると考えることができます。
タロットリーディングで、自分にとって、違う質問でも、同じカードがよく出る場合がありますが、これなどはわかりやすく、そのカードに関する気づきや学びが、今テーマとなっていると考えることができます。
しかし、そういうわかりやすい形だけではなく、いわゆる気づきの方法や表現をカードが象徴させていることもあり、それだと、カードの種類は違うことが出るのが普通です。
言い換えれば、、ある気づきのテーマや目標に対して、カードはそのステップにおける小さな気づきや、気づくための場所や方法、人物などを表すことがあるわけです。
私たちは、スピリチュアル的にいえば、皆、神性を宿す存在です。ということは、気づきというのは、先にも言ったように低次の自分の生活を劇的にするための演出にしか過ぎず、神性的な高次の自分は、当然ながら、すべて知っているわけです。ですから、気づきという概念そのものが起きません。
わかっている、知っているのに気づくというのは、忘れさせられているか、忘れているふりをしているからです。
また、こうとも言えます。
気づきとは、自分の中のモードのチェンジであると。
先述したように、人間の中には、高次で神性的な部分と、普通で、忘却状態にある低次部分とがあると考えられます。
通常は、後者のモードで生きていますが、何かの瞬間に、前者のモードにシフトしたり、そのほうが強く出たりすることがあり、そうすると、「知っていたということを知る(戻る)」という感じになり、それがすなわち、低次モード側からすると、「気づき」として表現されるものになるということです。
気づくと安心したり、穏やかな自分になったり、癒しや治療が発生したりするのも、元の自分といえる高次の自分の状態に一時的に回帰したからともいえます。
心理的には、自分の不足を周囲に投影して補おうとしますので、周りの人間や物事から気づき(不足していた、わかっていなかったと思えること)を示唆されたり、与えられたりすることもあるわけです。
要するに、それは自己の完全性が、分離しているよう感じているだけの話です。(完全性の中には、光も影も含まれます)
となれば、気づきの方向性は内(に向かうこと)でもいいですし、外(を観察したり、もたらされたりすること)でもいいことになります。
「気づき」も「自分で気づかねばならない」とか、「この自分に起こっていることは何? 何を私に知らせようとしているの? そのことに何とか自分で気づかねば・・・」と、あせる人が見受けられます。
これまで書いてきたように、「気づき」は、普通モードの自分では、小さな積み重ねの結果とか、環境や他人が知らせてくれたり、教えてくれたりすることもあるわけです。
今その時に絶対に気づかないといけないというわけでもありませんし、わからないならわからないで、放置していても、自分のタイミングによって、やがて気づくことがあると思います。
ロールプレイングゲームの世界では、ピースがそろってはじめて、本当のイベントが発生する仕組みになっています。
「気づき」にも、そうしたことがあるのかもしれません。ある条件が整って、大きな気づきが訪れることもあります。
それから、タイミングだけではなく、気づきのレベル(深さ)もあります。
気づいたと思っていたことが、あとで、実はまだ浅かった、それはそれでよかったのだけれども、別の意味もあったのだと、新しくさらなる奥底の(あるいは、上の)気づきに至ることがあります。
てすから、注意点としては、浅い気づきを連発している場合もあって、それは、堂々巡りに近い状態のことがあるのです。
言ってみれば、城の外周ロードだけグルグル回り続け、いつも城があることは見えていて、それが気づきだと思っている状態(最初に城が見えた感激、気づきは大きかったかもしれませんが、同じ気づきレベルで足踏みしている状態)に留まっているわけです。
もうそろそろ、入り口を見つけて、城、本丸に突入していくことが求められているのです。
それは、「気づき」という言葉を、免罪符や逃避に使わないことでもあります。そういう人は、おそらく、自分でも、その気づきはもう卒業して、次の段階の気づきに進まねばならないことは自覚しているはずです。
二階に昇る(あるいは地下に降りる)梯子は見えているのに、そこに手や足をかけようとしない状態です。勇気をもって、気づきの梯子を昇降することも大切になります。
あせらず、深刻にもなり過ぎず、しかし、真摯な態度で、気づきを求めていくとよいでしょう。マルセイユタロットは、その力になってくれると思います。