カードからの気づき
あなたは旅をしているか?
今日は旅をテーマにしたいと思います。
旅と言えば、マルセイユタロットでは、やはり「愚者」のカードが思い浮かびます。
マルセイユタロットの「愚者」は、誰が見ても、どこかに向かって歩いているように見える図柄です。
袋のついた棒を背負い、杖をついて右方向に歩いています。ちょっとした散歩やお出かけのように見えなくもないですが、そのスタイルからすると、これは「旅をしている」ように感じてきますし、もしかすると、長いこと、旅を続けているのかもしれません。
気分転換や癒し、レジャー的な旅行については好きな人が多いと思いますし、趣味にしている人も結構いらっしゃるでしょう。
しかし、旅というものは、いろいろな目的・種類がありますよね。
ビジネスや仕事が目的の旅、すなわち出張も旅と言えますし、精神的・宗教的な目的で、修行の旅もあります。お遍路とか巡礼も、そのうちの一種でしょう。
そして、何より、私たち自身の人生も旅と言えるのかもしれません。
旅は日常や固定性、既知性、普遍性とは逆の非日常を味わい、知らないことを見聞したり経験したりし、旅をしている間は特別な時間・空間になります。
移動するのが旅でもありますので、定住するもの、同じことの繰り返しのようなルーチン的な生活とは真逆の体験となります。
ただ、旅が仕事・日常になっている人がいれば、むしろ、普通の人の生活状態が非日常へと逆転するのかもしれませんね。
それでも、旅というものは、このように、いつもとは違う感覚を味わうものになりますので、そこに大きな刺激や成長のチャンスがあるわけです。
実際的に、旅に出るということは、滞って退屈な日常からの変化になりますし、旅先での経験が自分を拡大させてくれることもあります。
けれども、いつもとは異なるわけですから、危険やネガティブなことも起きます。その対応次第では、拡大どころか縮小してしまうこともあり得ます。
とは言え、旅の特徴としては非日常で、限定的なものである(仕事で旅をしている人、移動が生活のスタイルの人以外は、旅は永続的ではない)ことがあげられます。
ということは、旅はいつか終わるのです。人生がもし旅であるのなら、ある種の特殊な限定的時空体験かもしれず、それならば、死を迎えれば、人生の旅は終わることになります。
そう考えると、日常(生きている時間)こそが実は旅であり、私たちは、本当は非日常にいる(旅であるから)のかもしれないのです。
では、人生が旅であるのとは反対の、旅ではない日常とは何なのか?ですが、それが死後ということになるのでしょう。旅が移動するもの、変化していくものという特徴があるのなら、死後の世界は移動しない、変化しないという次元であることが考えられます。
マルセイユタロットには、「愚者」が他の大アルカナをたどって、「世界」のカードまで行き着くという思想があります。
例えば、ある流派では、このうち「戦車」までが私たちの現実世界であるという解釈がなされますが、これを21枚全部が実は現実世界のことだったという見方もできるのではないかと思います。
「愚者」が移動して、最終的に「世界」のカードでゴールするのなら、「世界」のカードは死後の世界の入り口と見ることができるからです。
そう思って「世界」のカードを改めて観察すると、真ん中の人物は移動しているわけではなく、そこで踊っているか、止まっているかのように見えます。周囲の動物とか天使、雰囲気も含めると、まるで天国のような印象もあります。
「ご冥福」と言う言葉があるように、本来、死後の世界がよきものであるようにも思えてきます。(死後が生前の行為によって裁かれるという思想ならば、死後が悪い世界ということもあるでしょうが)
ただ、あまり変化なく、動きもないとすれば、やはり退屈な世界なのかもしれません。
それに引き換え、絶えず変化のある現実世界と人生は、まさに旅であり、タロットカードでは、21ものシーンのバラエティある世界観で示されているようでもあります。
厳密に絵柄を見れば、20の「審判」で、何やら棺桶のようなところから起き上がっている人が見えますので、この時点で、すでに死後(の入り口)なのかもしれませんが。
となると、これまた面白いことではありますが、旅をしている人生(生きている現実の生活)というのは、棺桶で眠っている夢ということも考えられます。
まるで中国の「胡蝶の夢」(現実が夢なのか、夢が現実なのかという荘子の説話)のような話です。
いずれにしても、人生は旅なのだという観点は、時に人を楽にする可能性があると思えます。旅自体、そういう性格のもの(非日常を体験するもの、エンジョイするもの)だからです。
実際の人生で、たいていの人は、普通の旅行も何度もするでしょうが、それは言わば、旅(人生の旅)の中で旅(現実の旅行)をしているという、入れ子構造的な仕組みにもなっているのに気がつきます。
それは、一日と一年が同じような構造になっている(本質的に)のに似ています。人生という旅の中でも、本当に移動したり、変化したりする時期もあれば、まさに日常的な普通で穏やかな時もあるでしょう。
普通の旅は、自らで行くことが可能です。であれば、人生での旅(変化・変容)も、必要な時に起こすことができると思うことです。
環境や流れ的なもので変化はやってきますが、それとは別に、退屈な時、リフレッシュしたい時、あるいは逆に癒しや休養を必要とする時も、人は普通の旅に出るように、長い人生の旅という時間の中でも、自らの意思で、同様のことができるのです。
旅の中の旅は、チャンス(あるいは回復・治療)を自らの力で起こすという意味でもあります。
ただただ流され、日常の民としてあきらめ・惰性の人生の旅を続けるのではなく、旅は自分で行くもの、計画するものと考えれば、自分にいい意味で、変化もたらせることは可能でしょう。
マルセイユタロットの「愚者」は数を持ちません。これは、ほかの数にもなれる(ほかのカードに移動して、そのカードに象徴されることを経験できる)ことを暗示しているからです。
「愚者」の旅は、21枚という、それぞれの世界の経験となり切りと言えましょう。それが私たちのいる現実世界であり、人生であり、旅なのです。
あなたに足りていない(まだ経験していない)カード(シーン)は、果たしてどれでしょうか?
自分を癒すには他者が必要な世界
私たちが現実の世界と認識しているこの世の中では、個人個人、違うパーソナリティを持っています。
平たく言えば、誰一人まったく同じ人物はいないということです。ですが、人間としては皆同じです。
マルセイユタロットをやっていて気付いたことでもありますが、ここ(個としては別でありつつ、全体として共通)が考察のうえでも、実践(実際・行動)においても重要なことだと思います。
人として共通、同じではあるが、皆それぞれで違うということ、このことは、言い換えれば、たくさんの層やレベルがあり、究極的には、一人一人の世界と、ひとつの同じ世界が同居していると表現できます。
ケーキで例えれば、ミルフィーユとしての層がありつつ、全体してミルフィーユというケーキになっているというものです。(笑)
何を大切にするかの価値観は個人で異なるわけで、それがために、何が成功で幸せなのか、よい状態なのか、反対に、何が失敗、不幸、悪なのかという個人の観念も人により様々です。
しかし、最初にも述べたように、人としては同じであるので、何か全員の共通の価値(基準)というのもあるのでしょう。
それはシンプルなようでいて、高いレベルにあるため、考えようとすると複雑なものになると感じます。
宗教的に言えば「神の教え」「神の裁き」「神が定めたこと」となるわけでしょうが、やっかいなのは、それを人間レベルに落として、遵守しなければバチが当たるとか、よからぬ結果になるとか、もっとひどいのは、人ではなくなる(だから殺してもよい)という、次元の低い、支配・牢獄ルールのようなものに使われてしまうことでしょう。
万人に共通のルールというのは、通常でははかり知ることが難しいレベルの宇宙法則のようなもので、たとえあったとしても、なかなか言葉とか人間レベルの善悪では語れないもののはずです。
逆に言いますと、個人レベルになればなるほど語りやすく、具体的なルールになってきて、はっきりとした線引きが現れ、個人としては厳格なものになっていると言えます。
ところが、意外に、個人ルールは本人自身がわかっていないことがあり、逆に他人だとよく見えることがあります。
それは、一人一人価値観が異なるからで、自分と違う価値観や考えをもっている人は、それだけ目立つ(わかる)わけで、だからこそ、ある意味、他人のほうが自分(の価値観・特徴)を知っていると言えるのです。
これを適用していくと、よく自分と向き合うとか、自分を知りましょうとか言われますが、案外、自分で自分を知ることは難しいはずで、自分を知るには他人の助けがあったほうがわかりやすいことになります。
これと同様、自分を癒したり、治したりしていくことにおいても、自分だけではどうしようもない(他人の力を借りる)ことがあります。
いや、スピリチュアル的には、おそらく自分がすべてを起こし、修復・回復させることをしているはずなのですが、それは魂とか高次(全体につながる)部分のことで、個別世界の次元(つまり通常世界・現実)になると、やはり自分と他者(他者は一人だけではなく、たくさん、many)という関係性の世界で、問題発生も解決も行われるという実状があると考えられます。
タロットリーディングにおいても、個人の技量はもとより、個人のレベル、特徴がそれぞれあって、いわば一人一人違います。それはたとえ同じタロットとか技法を使っていても、です。
しかも、クライアントに対して、アプローチする層とか部分が、一人一人、タロットリーダーによって異なるということもわかってきました。(それはタロット種とかタロット技術の違いにも言えます)
例えば、同じ悩みや問題をリーディングしたとしても、Aさんの読み方とBさんの読み方では違う部分があり、問題への光の当て方も、角度とか深さとか、タロットリーダーそれぞれで特徴があるわけです。
結果的に同じ部分が指摘できたとしても、そのプロセスとかアプローチは異なることが多いように思います。
ただ、同じタロットで、同じ技術を使っている場合は、ある種の共通ルールがあるので、似たような経緯をたどることが多いです。それでも個人個人の違いはあります。
ところで世の中にヒーラーの方も、たくさんいらっしゃいますが、そうしたヒーラーさんも、ヒーリング技術の違いは当然として、やはり個性としての光の当て方と言いますか、中心に治療していく層の違いがあるように思います。
受けるほうも個性がありますからも、それが双方相まって、いわゆる相性としての効力の違いが発揮されることもあるでしょう。
あるヒーラーさんの中心となるヒーリングの層が、その時の当人(クライアント)にとってはあまり重要ではない、あるいはピントがずれているなどのことがあれば、効果はあまりなかったとなるかしもれませんし、その逆に、ヒーラーさんの得意な中心層が、クライアントにとってはどんぴしゃりであったならば、極めて高い効果を実感することになるでしょう。
だからと言って、相性が大切というわけでもないのです。
たとえ層がずれていたとしても、どこかに効果があるわけで、例えばクライアントの問題のコアの部分があったとして、そこに光が直接当てられなかったとしても、コアに何らかの形で影響し、コア周囲を揺るがしたことにはなっているでしょう。
そうして、当たりが何人かなかったとしても、次第にコアは崩れやすくなっていき、または、コアへの通り道ができやすくなって、そのうちコアに到達する時がやってくる(それは、自分だけの力で可能になることもあるかもしれません)と想像します。
つまり、このような仕組みが、個性(個人個人違いの)ある世界のものなのです。
ですが、たぶん全員に共通している高度なルールというのは、最終的には「自力である」ということでしょう。
他者依存ばかりでは、何事も本当の意味では解決(成長)しないということです。また、同時に、すべて自己責任、自己のみでの解決も、この現実世界では、すでに説明したように、個性がある世界のため、難しいわけです。
結局、全体性への理解には、個の理解が基礎であり、それは自分だけではなく他者理解(つまりは相互理解)も含まれる構造になっているようてす。
相互理解のためには、自分と他者を見ている、高次のもうひとつの視点、第三の視点が重要です。これが誰しも備わっているから、私たちは、自分と他者を区別することも可能だと言えます。
ということは、私たちは、現実の世界(自他の違いの世界)にいるようで、実はいないのです。もうひとつの上の次元の、おそらく他者と自分が統合されているような次元に、主体(と客体)があるのでしょう。
例えばそれは、マルセイユタロットで言えば「月」や「太陽」を見ていると感じます。
思えば、マルセイユタロットも、そのような意識の浮上のために、意図されて描かれているのかもしれません。
「戦車」「力」協力と自立
マルセイユタロットの大アルカナで、動物と人間が一緒に描かれているカードが何枚かあります。
中には人はいなく、動物だけというカードもありますが。
こうした動物とセットで描かれているカードには、当然ながら、人と動物とのなにがしかの関係が象徴されており、協力、あるいは対立するような関係性も示唆している可能性があります。
また動物のように見えていても、本当は獣的な動物ではなく、むしろ人間以上の存在か、実は描かれている人間の(中の)別の形(存在・エネルギー)を表していると考えられるケースもあります。
さて、動物と人が一緒に描かれているカードの中で、今日は「力」と「戦車」を取り上げたいと思います。
この二枚のカードは、人が動物をうまく扱っている様が見られます。「力」はライオンを、「戦車」は馬を、です。
「力」の場合、人(マルセイユタロットの口伝では、この人物は人間ではないと言われていますが)は女性で、「戦車」は男性です。
このことから、この二枚は意図的に、人が動物を操る者同士の関係で、女性(性)と男性(性)のペアになっていること、さらに、動物においても、ライオンという肉食獣と、馬という草食動物という組み合わせ・対比になっていることがわかります。
動物もライオン一匹と、馬二匹の違いがありますが、そういう1対2の関係性(むしろ2から1への統合的関係性というべきでしょうか)も意図的なところが感じられます。
もっと言いますと、ライオンは、もしかすると、二匹に分かれる部分があるものとも推測されます。
結局、「力」と「戦車」は対(ペア)になるカードだということです。
そのペア性にもいろいろな意味が隠されているわけですが、ともかく、両者の共通点は、人が動物を扱い、支配やコントロールしている状態だということです。
どちらの動物も、無理に抵抗することなく、自然体です。ただ、馬は飼いならすと従順になるのはわかりますが、ライオンはなかなかそうは行きません。
ということは、「力」の女性は一種の猛獣使いのような能力があり、「戦車」が男性(的)であるので、余計にこの「力」の女性の文字通り“力”のすごさがわかります。
フランス語で(日本語読みすると)「フォルス」とされている「力」は、いわゆるパワーではないことも示されています。この力(フォルス)が何なのかは、今回はテーマではありません。
今日言いたいのは、自力と他力、協力とその使い分けということです。
「戦車」は馬がいないと走れませんが、「力」の女性は走るわけではないので、一人でもいいはずです。
しかし、ライオンを自分の力とすることで、おそらく自分以上の力を発揮しているのでしょう。もしくは、ライオンを駆使することで、「戦車」の馬のように、何かを行うことが容易になっているのかもしれません。
「戦車」は純粋に、馬の力をそのまま活かしていると言え、言わば、馬に乗ることで「走る」という人間単独の力を増強しています。
一方、「力」の女性は、ライオンによって具体的に何かが補完されているようには見えません。ライオンを自らの支配に置くことで、自分の力を誇示しているようにも見えます。
「戦車」は一見、その御者である人物は自立しているかのようですが、馬の力がないと行けるところが限られ、運べるものも運べないかもしれません。
ということは、「戦車」では自分の力の弱さ、足りないところを、馬、すなわち象徴的には他者に補ってもらってはじめて目標が達成されるわけです。
言い換えれば、他者によって自立できる状態です。
しかし、「力」の場合、女性一人でも自立できているように見え、さらにライオンを取り込むことで、何か、常識を超えた力を発動しようとしているように見えます。
つまり、自立したうえに、さらに他者との協力関係によって、(これまでを超えた)巨大な何かを行うことができるという印象です。
ライオンは肉食獣なので、本来、人間とは相いれず、場合によっては、人が食われてしまうおそれもあります。立場が入れ替わり、ライオンが人を支配することもあり得るわけです。
一方、馬の場合は草食獣なので、馬が人間を食べるようなことはなく、馬が人を支配することができません。
こうして考えますと、「力」の女性とライオンの関係は、極めて危ない対立関係でもあり、それでも、「力」の女性は、ライオンをまるで子猫のように扱い、ライオンも女性に体を預けているようなところが見えます。
私たちが真に自立に向けて、自らを完成させていく時、一見、対立関係にある相手とも、最終的に協力し合うことで、信じられない事業とか、目的が遂行可能になる場合があります。
それは対立したり、ライバルとなったりする相手というのは、それほど力があるからで、うまく和合すると、自分の力が倍増どころか、特殊な力が生み出される、フュージョンのようなものなのかもしれません。
「戦車」の段階では、まだ自分自身の力の自覚が足りず、それでも何とか、他人の力を借りて物事を進めることができることは知っており、協力関係の始まり、ノーマルな協調関係と言えましょう。
「戦車」でも、もし御者、つまり自分が、一人で何でもできる、あるいは、一人ですべてやらねばらないと思い込んでいては、遠くに行くことも、多くの荷物を運ぶこともできなくなります。それだけ自分に負担がかかり、悪くするとつぶれてしまいます。
また、他者との力関係がわからず、無理をさせると(必要以上に相手に背負わせる)、馬のほうがつぶれて、進めなくなります。
このように、「戦車」では、自分の力と相手の力との関係、できるできないの能力(知識や技術も含む)の内容をよく知り、相手と自分が無理なく、ともにうまくいくよう調節していくことが課題として見えてきます。
これも、真の自立のために、独りよがりにならず、他者との協力関係を学ぶということのひとつでしょう。
そして、「力」の段階では、スムースに協力できる他者とは限らず、場合によっては、対立関係にある者、協力が難しい者たちとの間でも、一緒にやっていくシーンがあり、それには相当な工夫と能力が求められるわけです。
それは力づくではない、その逆のとも言える柔軟な姿勢であり、誇りと自信とともに、和やかで大きな受容力も必要だと、「力」からはうかがえます。
「戦車」の前の数の「恋人」カードでは、人間たちは迷っているかのような描写もあり、それには依存や支配の間で揺れ動く様も感じさせます。
これが次の「戦車」になれば、うまく馬を乗りこなし、自信をもって選択し、進んでいるように見えます。
これは、自分が主人公であることの自覚ができており、他者との協力を採り入れつつ、自分の人生は自分がコントロールして生きようと決意した状態と言えます。
それが、「力」まで来るどうでしょうか。
「戦車」までのことはわかったうえで、周囲、あるいは自分自身との新たな関係性を持ち、これまでにない力を発揮し、新規のステージへと統合、飛翔しようという構えのようです。
かなり異物感のあるライオンと女性との、ほぼ一体化で、特別な自分へと生まれ変わると考えられます。自立を超えた自立とでも言えましょうか。
ライオン頭の神と言えば、エジプトのセクメト神が思い浮かびますが、この神が女神であることからも、おそらく、「力」のカードとは無縁ではないでしょう。(動物頭とか動物胴体のキメラ人間は、異物との融合が特殊な能力を生み出すことや、人間を超えた超常性(ある意味神性)をイメージさせます)
セクメト神は破壊と恐怖の神と同時に、病気を癒し、回復させる神でもあります。異なる二面性が強調されていますが、その二面も、結局は本質的には同じものであり、強力なものが破壊にも癒しにもなるということでしょう。
「力」のライオンの象徴は、対立する他者とか、相容れない者たちというだけでなく、自らにある強力に抵抗する力、動物的・原初的エネルギーとも言えます。
これと自らが融合し、ライオンに類するものをコントロールすることで、強大な新たな自分になると想像されます。ゆるぎない自分の確立と言ってもよいでしょう。
その前には、私たちは、「戦車」になる必要があり、他者依存でもなく、支配的・独善的でもない、自らを主人公とした、他者と自分とのバランスよい協力関係を自然と行えるようにしていきたいものです。
「悪魔」と支配
タロットの「悪魔」のカードは、どうしても名前からネガティブな印象を受けてしまいます。
しかし、マルセイユタロットの「悪魔」は、その絵柄を見ても、意外に怖がられず、楽しい雰囲気に見えて来る人もいます。怪しげではあっても、私たちを楽しませてくれるエンターテイメントな要素を持っているのかもしれません。
楽しませるという意味では、「手品師」(手品をする大道芸人であるので)とも関係するところがあり、やはり「見せる」「魅せる」という共通点が見い出せます。
ただ、「手品師」にはそのタネが、ほかの一般人にも見破られる可能性があるのに対し、おそらく「悪魔」の手品は、もはや手品と呼ぶレベルにはなく、魔術的とも言える高度なものと考えられます。
それゆえ、「悪魔」には、つながれている人が描写されてはいても、そのつながれた人は恍惚とした表情を浮かべ、自分が悪魔の罠にかかっていることに気づいていない風に見えます。
マルセイユタロットの「悪魔」にはいろいろな意味や象徴性があり、従って、リーディングにおいても、難しいところがあります。
また、タロットを、ある種の(心理的・あるいは霊的な)自己統合、自己洞察に使う場合でも、「悪魔」は複雑なカードと言えそうです。
それは、自己の統合のためにタロットを使用するなら、カードたちは皆、自分自身だと認めなくてはならないからです。
どのカードにも、光と影、ポジティブとネガティブのような、二面性の意味が含まれますが、特に「悪魔」ともなりますと、二面性だけでは収まらないところもあるでしょうし、そもそもネガティブのほうが一般的には優勢に見えるので、「悪魔」から光とか良さを見るのは難しい作業と言えます。
また、自分の中にある悪魔性を発見し、受け入れるということは、表面的には自己否定のように感じられますし、自分の弱さとか悪さを認めるようで、苦痛かもしれません。
そういうこともあり、「悪魔」は、リーディングであれ、自分のために使うものであれ、少々難解で厄介なところのあるカードなのです。
しかし、だからこそ、「悪魔」と向き合う時、大きな成長のきっかけになったり、意外なヒントも出てきたりするのです。
今回、「悪魔」の様々な意味において、ひとつ取り上げたいのが、「支配」という課題・テーマです。
「悪魔」は支配と関係し、それはもちろん他人への支配ということが第一義的にはありますが、意外にも、自分自身への支配ということもあるのです。
後者の自分自身への支配はわかりづらいです。それでも、まずわかりやすいものとしては、自我が肥大し、そのために本来的な自己が支配されてしまっているという関係があげられます。
実は本来的な自己のほうが強いので、本当は支配されるということはないのですが、肉体的・地上的世界(つまり現実世界)では、その次元の欲求が強力に働いて、本来的な自己が眠り(保護のため)についてしまっているような状態があります。
要は見せかけの自分、エゴが巨大(強力)化し、その自分で押し通そうとする有様です。
これが自分だけではなく、他人にも向いてしまい、自分の欲求や欲望を満たす(満たしてくれる)人を無理矢理つなげようとします。
依存の関係にもこれはあり、自分が支配される側になることで、楽な立場を選択し、一時的な安住を得ようとします。
しかしそれはまた、自分自身への別の形での支配で、本当の自由からは離れてしまいます。
今は自分から発信できるネットワークや機器のおかげで、自己表現の場を得て、活き活きとしている人もいる反面、自分に向けての評価や関心を過剰に得たく、承認欲求が膨らんでしまう人も多いです。
承認欲求も、支配欲と結びついているところがあり、他人の支配はもとより、つまるところ、自分自身への幻想的な支配エネルギーに囚われているのです。
言わば、自分を認めろと周囲に訴える悪魔の支配に罹っており、その悪魔は自分の中で生み出されています。
本来的な自己、あるいは本当の意味で自分を認め、様々な自分を統合し、成長していく方向性があるのに対し、それに反旗を翻し、抵抗して、いつまでも自立できない不自由(見せかけで一時的・幻想的)な自由の場に留め置かせるために、悪魔としての自我・エゴが、ほかの自分・自己を支配しようとするわけです。
自分に向けるのも、人に向けるのも同じで、結局、「支配」という課題によって、他者への直接的支配、他者への依存、あるいは他者に認められようとする支配欲求の別の形(間接的支配)として、症状が出ます。
他者に向けられない場合は、自己嫌悪、自己破壊(自傷や自己の蔑みなど)、逃避という形を取りながら、自我によって自分を支配しようという試みがなされます。
こういうと、清く正しく美しくあれ、わがままはいけないみたいな誤解を生むかもしれませんが、悪魔の支配が課題とするものは、そう単純な、正義と悪の戦いみたいな話ではありません。
むしろ、その混交と言ってもよい、二面性の統合にあるのです。
ですから、わがままになる必要の人もいますし、逆に、わがままを抑制、コントロールしなくてはならない人もいます。
ただ、いずれにしても、何を、誰を支配しようとしているのか、その支配欲は、本質的には恐れとか不安とか、欠落とか、失うものの恐怖とか、満たせない、認められない怒りとか、そういった何かから生じていると分析してみるとよいでしょう。
意外と思われるかもしれませんが、「吊るし」のカードがその手助けになるかもしれません。「吊るし」も「悪魔」も、ひもで結ばれているという共通点があり、それがヒントでもあります。
タロットに描かれる「祈り」
マルセイユタロットに20「審判」というカードがあります。
(マルセイユタロットは、版ごとに微妙な違いあっても、絵のコンセプトはほぼ同じです)
このカードは、学習初級者の方には、意外に意味をつかむことが難しいと訴えられるカードです。
まあ、一般的に、復活とか再生、コミュニケーション、情報、家族…のような意味が出ます。それはもちろん、絵柄から出てきているわけです。
絵の特徴を見れば、上空に巨大な天使、下には裸姿の三人の人々という構図で、これは、実はマルセイユタロットの場合、6の「恋人」と同じ構図となっています。ただし、その天使と人の割合、様子・服装などは違います。(その違いが重要ですが)
ということで、「審判」と「恋人」カードとの関連が明らかにあるのがわかりますが、今回はそのことにはふれません。
本日は、絵柄からの印象で、忘れがちな部分、特に三人の人物の様子から出る「祈り」の姿勢について考えたいと思います。
さらに、タロットに描かれる「祈り」から、「祈り」とは何かについても少し考えてみようという感じです。
「審判」の三人は、手を合わせて、祈っているように見えます。視線は上空であり、そこには先述したように天使がいます。
ということは、三人は天使に(向かって)祈っていることになります。
いや、でも、真ん中の人物はどうでしょうか? この人はそもそも祈っているのでしょうか? パッと見にはわからないですが、どうやら腕を曲げていますので、やはり他の二人同様、祈っているのだと取ってもよいでしょう。
さきほど、上空を見ているとは言いましたが、詳しく観察すると、向かって左側の女性らしき人物は、横に視線を向けていますから、もしかすると、水色の人物か、向かって右側の男性的な人物に対して祈りを行っているのかもしれません。
ちなみに水色の人物は、口伝では上を向いていることがわかっており、都合、真ん中の人物と向かって右側の人物は、天使を見ていると考えられます。ですが、女性的な人物は上(の天使)ではない(見ていない)わけです。
「祈り」というものは、普通は神仏や天使、霊などに捧げるものですが、人に向けて祈りを行う場合もあります。
この「審判」の三人の祈りを見ていると、超越的な神とか天使とか、何か通常を超えるもの(それは宇宙とか大自然と言ってもよい存在)と、逆に、人そのものとか、日常的なものなどでも、その対象に祈りを行う(捧げる)ことがあるとわかります。
「審判」は、大アルカナナンバーでは「20」という、最後の「21」の「世界」の手前に位置するカードであり、考え方によっては高次段階の(象徴を示唆する)カードとも言えます。
そういうカードの図像が、祈りのポーズをさせているということは、祈りの力に、私たちが考えている以上のものがあることが語られているのかもしれません。
人数的にも、一人より二人、二人より三人ということで、数の力が合わさる効果も予想できますし、天使という高次の象徴的な対象をイメージすることによって、そのエネルギーのようなものが降りて来る、あるいは、つながる道ができて、なにがしかの力が発動されることも想像できます。
それが、上空(の天使)を見ている人と、その人自体を見て祈っている女性的な人物との関係に見えてきます。
また、男性的な祈りと、女性的な祈りには違いがあり、男性は上下直線的な筋道立った祈り(儀式とか精神的・霊的論理性)が必要なこと、女性は自身からパワーが捧げられ、フィールドを覆うようなことで、祈りの広がりと局所的パワーがあることが見て取れます。
また中央の水色の人から、中性的な祈り、上述の女性性と男性性的な祈りを受けて、自分自身の存在が立脚し、祈りを超えて、祈りの対象自体になる(祈り・祈られが同一化する)ことがわかります。
そして、さらには、祈りを実行化(効果を増幅・発揮)するために、天使からのラッパが鳴らされており、つまりは、ある音とか音階、周波数的なものの影響を感じさせます。これは、呪文の詠唱みたいなことかもしれません。
様々の要素の調和・合体とか言いますが、祈りというのも、ただ漠然と祈るということではダメで、その効果を発揮させるためには、何らかの条件を合致させて祈ることが必要であると、カードからは想定できます。
その他、「星」のカードにも、祈りそのものではないにしても、女性が頭を垂れて、半ば祈りのような姿勢で壺の水を流しているのがうかがえます。
この「星の」カードには、天・地・人の調和が表現されており、諸条件の合致とか、自然や何か超越的なものとの一体化が、祈りの過程や目的で重要ではないかと想像することができます。
「審判」では特に、祈り・祈られの相互作用が、その前の数のカード「太陽」とともに強調されていることが、個人的には感じます。
祈りはある意味、一方的ではあるのですが、対象を置くこと、その対象と自分が対(つい)で一体化すること、また、誰かに祈ってもらうだけではなく、自分自身も祈りを捧げること、それは、高次(神など)への祈りということだけではなく、祈ってくれている人間に対する感謝の祈りという、異なる意味での相互的な祈りも含みます。
(願いを)叶えるための祈りと、叶えてくれる有難さへの祈り、こうした「祈り」そのものに、何重もの祈りの質が折り重なり、結局は、自身にある力を引き出すということに祈りが捧げられるわけです。
奇跡を願うという一方的な祈りではなく、自分の完全性に対する信頼や回復というのが、祈りを行う目的のひとつなのかもしれません。