カードからの気づき

教え。最初の人と、それを受け継ぐ人

何かの技術や知識を身につけるのには、先生や師と呼ばれる人に教わるか、独学で学ぶかということになります。

しかし、最初は独学でやっていても、本格的に習得したいとなれば、普通は、やはり教室や学校などに通うか、伝手を頼って、その専門家など、教えられる人を紹介してもらうかでしょう。

ただ最近では、オンラインでの学びも多くあり、将来的には、AIとか、人ではないものが教師になることもありそうです。

そうした人間ではないものの先生は別として、ある技術を教える人(先生・教師・師と言われる人)は、まじめといいますか、その技術に熱心に打ち込んできた人や、努力型みたいな人のイメージがあります。

反対に、その技術で現役の人や、スーパーな実践力を持つ人は、先生というより、天才型の偉人みたいな感じで、日常の生活、行動ぶりも、時に奇行的なエピソードなどがありそうです。それでも、そういう人は、その分野で特段の優れた技術を持ちますので、周囲の人が放っておかず、乞われて教えることもします。

まあ、言ってみれば、教える人にも、努力型や秀才型みたいな人と、まさに天才型、才能型の人がいるというわけです。

またその教え方も、きっちり系統立てて、あるいは論理立てて、基礎からじっくり積みあげさせていくタイプと、行き当たりばったり、自分の感性や直感に任せて教えていくタイプの人がいます。

もちろん、両方を兼ね備えた人もいるでしょうが、結構、どの分野にしろ、タイプ的にはどちらかに分けられる気がします。

そして、ここが不思議と言えば不思議で(よく考えると当然のことですが)、意外に実態なのが、最初の開祖の人、その技術を世に知らしめた人、それを創作した人は、概して天才型であるということです。(ただし、その技術を高めるためにはすごい努力をするので、努力型のところもありますが)

創作(創造)するということは、アイデアの力、想像力と創造力が必要であり、それは、従来の決まりきったパターンや思考・習慣・規則の中にいては、思いつかない類のものです。

言ってみれば、既成概念を打ち破る、革命的・破壊的なものを持っていないと、新しいものは生まれにくいわけです。何かの創造者(発明者)に、奇人変人が多いのもこうした理由からだと思います。

従って、初代・宗家・世にそれを生み出した人は、天才的で破天荒なイメージの人が多いのだと推測されます。

しかし、その思いついた技術や知識がいくらすごいものであっても、それを受け継ぐ人がいないと、一般には広がりません。そして、それが人々を救ったり、豊かにしてくれたりするものであれば、なおさら、多くの人に理解と習得ができなくてはなりません。

ほかの人にもわかりやすくするため、シンプルさも求めれるかもしれませんし、テキストやテンプレート・型のような、普遍的に伝えられるもの(手段)が必要な場合もあるでしょう。

そこで、二代目とか、継承する弟子筋の人などが、改善し、そうした普遍化を図っていくことになるわけです。

しかし、ここで初代の創造者のものとは、必ず違う置き換えや変換が起こってきます。

それは、専門的で直感的とも言えた初代のもの(産物)に対して、今度は、多くの人に習得してもらうためには、一般的で論理的になる(言語化される)必要があるのと、学んだ側の人にとっては、師その人とは個人としての人間が違いますから、それぞれ別の世界観によって受け継がれるからです。

また、教えるために組織化されていくと、様々な維持のための現実的なしがらみやルール、お金のこともからんでくるようになります。

さらには多くの人が集まると、人間の感情的な部分も出てきますし、何より、それぞれの正義(どれが正しい、どれが正当なものなのか)というような争いも現れてくるようになります。

こうして、教えられる内容は、その意思や形も変えながら、様々な流派も生み出し、時に争い、時に協力しあいながら、次代に伝わっていきます。(消滅していくものもあります)

すると、本当のところは、どの先生に教えてもらったところで、真には伝わらないものであり、結局、初代・オリジナルから、人を介した分だけ、変わってきているところがあるわけで、最初の創造者がこの世にはいなくなっていると、もうどうしようもないということになります。ましてや、文書や言葉だけで伝えられているものには、かなり、最初のものからかけ離れているところも、特に精神的にはありそうです。

それでも、「魂を伝える」「その心は伝える」みたいな言い方が、特に日本ではされるように、形がたとえ変わってはいても、目に見えないデータ・教え・エッセンスというものが、受け継がれていく何かがあるのかもしれません。

これは民俗学でも「ムラの精神」などと言われ、時代が変わっても、その地域に連綿として受け継がれている何か、ムラ(村)全体の意思のようなものかあると考えられていました。

技術継承においても、霊統とか、縁による出会いとか言わるように、形だけではない、目に見えない重要な働きがあると言えそうです。

話を戻しますが、初代(創造者)からそれを受け継ぐ側の者に回る人は、それはそれで役割があり、社会に伝わりやすいように調整したり、パターン化したり、テキストを作成したりしていくわけで、そうした人は、むしろ天才型よりも、努力型とか秀才型の人のほうが向いているでしょう。

そして、受け継がれていく中でも、中だるみや、あまりにパターン化してしまって、その最初の精神性・創造性ともいうべき力が衰えた時中興の祖のような、これまた天才型の人物が現れ、初代を彷彿させるかのように、それまでのものを使いながらも、斬新な改変・創造も行われ、まるで新しい技術が生まれたかのように、フレッシュさを伴って出てくることがあります。これも、そうした人でないと、再興できないという、役割的なものだと見ることができます。

ですから、私たちも、誰かに何かを教わったとしても、もともとの性格とか気質と、その時々の役割などが相まって、それをぶち壊すかのように、オリジナル風にしてしまう人もいれば、その技術をきちんとまじめに、次の世代や多くの人に伝えていくという役割で、コツコツ取り組む人もいると考えれば、自分のタイプに応じて、今度、自らが先生や師となる時に、立ち位置や取るべき方法などが、客観的にわかります。

スポーツの分野では顕著ですが、現役時代の天才プレーヤーが、必ずしも名コーチ・名指導者にはならず、逆に普通の選手とか、特に現役の時に有名だったり、世界で活躍したりする人でないほうが、教えるのがうまいこともあります。

それは天才や直感型の人は、自分がなぜそれができてしまうのか、どういう具合でそれをやっているのか、人に説明できないからです。説明できなければ、教わるほうも難しいのは当然です。

ということで、天才型の人は、ちょっとだけ教えてもらったとしても、先生を言うことを聞かなかったり、あっという間に師を超えたりして、独自の道を歩むことがあるわけです。むしろ、最初から独学で、誰にも教わらないほうがうまく行く場合もあるかもしれません。

さて今回は、教え・教わることをテーマに、創造者タイプと、それを継承していくタイプとの違いや役割を見たわけですが、今度は、先生や師をもったほうがいいのか、あるいはたくさんの先生を同時にもったほうがいいのか、または独学でもよいのかなど、特にタロットを学ぶことを中心に見ていきたいと思います

続きは次の記事で。


全体と個性 自分のバランス性

マルセイユタロットにも「太陽」と「月」というカードがあるように、人や物事には二面性があると考えられます。

天体の太陽も月も、一日の昼も夜も、なくては困るように、それは、どちらも必要なのもので、また、本当はどちらかで決まるものではなく、ひとつのものがふたつの表現を取ったものに過ぎないと、最近では多くの人に理解され始めています。

この考えでいくと、太陽も月も同じものということになります。面白いことに、太陽のほうがはるかに巨大なのに、地球から見た場合、太陽と月は同じ大きさに見えるようになっています。これがただの偶然なのか、神のデザインなのか、とにかく興味深いところです。

余談ですが、皆さんは常識的な科学知識・天文学にふれているので、太陽と月の大きさの違いがわかっているため、たとえ同じ大きさに見えたとしても、それは遠近感によるものだということがわかっています。

しかしながら、果たして本当にそうなのでしょうか?という問いかけも、あるにはあるのです。

私たちが普通に三次元感覚で見ていると、宇宙の天体に限らず、地上の建物や景色についても遠いものは小さく、近いものは大きく見えています。

それでも、純粋に目の前に見えている景色自体の存在を認めると、別の言い方をすれば、キャンバスに絵が描かれているようかのように見ると、立体的ではなく、平面的に景色があると感じ、距離によって物体の見え方(大きさ)が変わるのではなく、私たちが物体の大きさを変えているという反転した見方もできます。

まあ、それは錯覚で、バカげた話だと笑っていただいてもいいのですが、ここで言いたいのは、私たちの通常的・常識的な観点は正しいのか? 見え方というのはひとつしかないのか?ということを問題提起しているわけです。

占星術の真の見方も、今、表立って伝えられているものとは逆の観点になるのだと私は思っていますが、それを説明しても、物質的・三次元感覚にとらわれている間は、なかなかわからないと思います。

話を元に戻します。いずれにしても、二面のものであっても、さらには多数のひとつひとつが違うものであっても、それらは究極的にはひとつからの別の表現であれば、全体としてはバランスが取れていると言えます。言い換えれば、それぞれが役割や機能をもっていることになります。

まさに、全体でオーガナイズされながら、一人ひとり、ひとつひとつ、役割や表現、個性をもって流動していくという世界観が見えてきます。

ここで、問題なのは、「全体」と「個別」の齟齬といいますか、アンバランス性が生じる場合です。

「全体」は、すべてを統括し、いわばひとつの存在みたいなもの、神のようなものと言えますから、それ自体がアンバランスになることはありえないと考えられます。

ですから、問題となるのは、個別側のアンバランス性です。

天体でいえば、例えば月がその役割を忘れ、太陽になったり、ほかの惑星になったりしてはまずいわけです。同じように、私たち一人ひとりも、何らかの役割・機能があり、そこから大きくはずれた状態になってくると、その存在性が危ぶまれることもあるかもしれません。

しかし、ここにも全体のオーガナイズが働き、あるもの、ある人がアンバランスになっても、スライドするかのように、ほかのものや人が調整すれば、全体とししてのバランスは保たれます。

人間個人の肉体や精神にも、このことが言えるかと思います。

どこか不都合や不具合が起こっても、しばらくは、ほかの部分でカバーさせ、何とか調整を図り、やがて機能が戻れば、もとのバランスに回復するという仕組みです。

ケガをしたり、病気になったりしても、健康を取り戻せることができるのも、このようなバランス調整・回復機能があるからと言えるでしょう。逆を言えば、それは「全体」としての何か、私たちを統括する何か(脳なのか魂なのか、それはわかりません)があるということです。

ところが、元に戻せないほどの衝撃、不均衡、問題が起これば、悪くすれば、生物の場合、死んでしまいます。その個別の存在表現のバランスが崩れ、もはやその状態では保てなくなって、別の形態、すなわち死ということで、全体とのバランスを取るのだと考えられます。

ですから、極端にポジティブ、必要以上にネガティブみたいな、無理やりな転換、行為というのは、時には自分の中で不均衡を生じさせ、その回復に大きな反動が来たり、ひどい時には、精神か肉体の病気になったりすることもあるわけです。

自分にとってのバランス、役割というものが個々にあるので、それからあまりにかけ離れたことを行うと、バランスが壊れ、その修正に時間がかかったり、大変な状況になったりするわけです。

ただし、これは自分を変えてはいけないということではありません。

自分を変える場合、今のバランス性というものがあるのですから、そのバランス性を保つと当時に、次のレベルへと上昇、拡大していく必要があるのです。

それは、今のバランス性を無自覚から自覚的なものへと変えていくことなのです。これはマルセイユタロットでは、「運命の輪」で象徴される、ひとつの術のようなものになりますが、要するに、自分における二面性の潜在的なものを、表面化して目に見えるようなものにする、自覚できるようにするということです。自分のおける、プラス・マイナス、いい・悪い、表と裏、ポジとネガを認識して統合(裏の発見と受容)するみたいなことです。

シンプルに言いますと、自分における次元上昇を目指すということなのですが、それは力ずくで進む(上がる)ものではなく、きとちんとした内的・外的プロセスを辿って行われるものです。

自分に変化がない、自分に変容が起こらないと言っている人は、劇的な変化が短期間で起こるのだと勘違いしていたり(実はすでに少しずつ変容プロセスは進行しています)、本当の意味で、自分の別の(隠れていた)部分を見ようとしなかったり、避けていたりしているおそれがあります。そこに非常に強い、自分の今の自覚意識ではわかりづらい、不安と恐れが隠れていることがあります。根強い信念とか、過去のトラウマなども考えられます。

また、どこかあきらめとか、自己卑下、自分に自信が持てない、生きる価値がないと思っているところもあるかもしれません。結局のところ、物語(作り物)でもいいので、全体に対する自分の役割、使命感、つまりは個性(自分としての)的な生きる意味を見出す(ストーリーとして創造する)ことです。

こう書いていて、ふと思い出しましたが、私の好きなアニメ作品である「化物語」(ばけものがたり)シリーズでは、バランスを崩した存在(この場合は怪異・妖怪のようなものの存在なのですが)は、「暗闇」というものに飲み込まれ、存在が消されるという設定になっており、暗闇から逃れるためには、この世に存在する意義、意味、整合性があればよいということになっていました。この原作者の西尾維新さんには、いつも驚かされるのですが、まさにそのようなことなのです

つまり、自分に生きる意味を創造することで、暗闇(「全体」ともいえますし、自分の破滅願望とも言えます)によって排除されることを防ぐことになるのです。

自分の生きる意味は、他人が創造・付与することができません。自分で見つける(創る)ものです。しかし、他人がいるからこそ、人とは違うと思う自我もあるわけで、自分の個性、役割も他人がいてこそ決められるのです。だから、自分の内にすべてがあるとか思わないで、答えやストーリーの材料は、実は外側にあると考えるのもよいのです。

それは人から自分らしさを言われることでもよいですし、助言を受けることでヒントが出るかもしれませんし、引きこもらず、少しずつでも、これまでとは違った経験や、人と交流していく中で、自分の個性、役割が際立ってくるかもしれないのです。

また、誰か愛しい人のために生きるというストーリーも、自分の生きる意味を見つける最初のきっかけとしてはありなところもあります。

ともあれ、あなた自身が、全体からその状態(つまり生きているあなた自身の状態)でのバランス性が保てないと認識されないように、生きる意味、価値を見出す、作り出すことです。

そして、もっとレベルの違う、表現の違うバランス性が出せないかと、自分を今より上昇、拡大させていくのも面白いでしょう、それがすなわち、成長と言えるのです。


救済のエネルギー

昨日、大阪で大きな地震がありました。

私も関西在住ですので、揺れはなかなかのものでしたが、阪神大震災を経験しているので、どこか冷静に揺れを感じている部分もありました。とはいえ、同時にかつてを思い出すこともあり、それなりに恐怖でした。幸い、当方の周辺は大丈夫でしたが、高槻を中心に、北摂、大阪北部地方は被害も大きく、被災された方々、お亡くなりになった方々にはお見舞いとお悔やみを申し上げます。

それにしても、今回の地震でも、出勤時間帯であったにも関わらず、混乱はありましたが、人々の落ち着いた対応や助け合い精神なども見られ、昨今、日本や日本人の衰退ぶりが強調されることも少なくありませんでしたが、このような危機的状況になると、どこかでスイッチが入るのか、まだまだ捨てたものではないという、日本人、いや人としての強い魂のようなものを感じさせます。

また併せて、「思い」と「救い」は何らかの形でリンクしており、思い方次第で、救いの状況も変化するのではないかと、タロットの「節制」や「13」のカードを見ながら考えます。

以前にも書いておりますが、私はうつ病と不安神経症で、かなり苦しい時期がありました。あまりのつらさ、苦しさに、何度も死ぬことを考えましたが、自殺してもその苦しみから逃れられるどころか、ずっと固定されてしまうのではないかという、妙な精神世界系の知識も入っていたため、この苦しみが永遠につづくことこそ真の恐怖であると思い、死ぬことさえもできず、まさに、生きるも地獄、死ぬも地獄の状態にいました。

どうしようもない状況の中で、それでも救いを求めて、さまよっていました。この時は、まだタロットは知らなかったのですが、絶望でありながらも、救いもどこかにあるのでは・・・という、不思議な思いがわずかながらもあったのを覚えています。

マルセイユタロットを学んだあとに、大アルカナの象徴を見てみますと、「13」というカードの次に14の「節制」(救済の天使の象徴)が来ており、苦しい状況でも救いがあること、「地獄に仏」がある(いる)こと、もがき苦しんでも、あきらめずに、いつかは何らかの救いがあることを知りました。

ただ、その救いは、必ずしも、(苦しみ、困っている)当人の欲するタイミングや方法で現れるとは限らないのかもしれません。

それは、マルセイユタロットでは、14の「節制」から、さらなる数の積み重ねで登場する、「悪魔」「神の家」「星」の流れで象徴されているようにも思います。

特に「神の家」ではそれが顕著で、突発的に起こる出来事であるそれは、なるほど、衝撃的であるだけに、当人の思うジャストタイミングではなかったり、望んだ形ではなかったりするとしても、文字通り「神」目線においては、やはり、ベストなものであり、天からの救いが入ったのだとみることもできます。

人間レベル、常識や通常レベルでは、なかなか自分に起きていること、自分が経験していることの真の意味はわかりづらいものではあります。しかし、どんなものにも意味があり、苦しさの中にあっても、救いはセットになっているのだと思うと、少しは生きるのが楽になったり、違った視点で人生をとらえなおすことができたりするのかもしれません。

言ってみれば、地上観点と天上観点の接点を見つけることであり、その統合によって、私たちは生きていると実感もできますし、生かされていると客観・達観もできるのだと思います。

地上でできることと、天上から差配する(される)ことは、違いが大きいとは思いますが、私たちは天上人(神や天使)ではないので、地上でできることを努力し、自我の欲望ばかりに動かされず、自分を救うと同時に、他者も救えるのなら救うという思いで、行動していくと、天上の差配も変わってくるのではないかと想像します。

それは、私たちは天上の人では確かにないですが、一方て、天上的な性質もどこか内に有していると考えられるからです。象徴的に言うならば、私たちは悪魔でありつつも、天使でも神でもあるのです。

同じ性質は共鳴し合いますから、私たちが、より天上的性質を復活させ、自らを貢献させようと地上(地上人)で表現していく時、それは天にも影響を及ぼし、逆に天から地への働きかけも大きくなってくるのではないかと思います。

それでも、最初は悪魔的・エゴ的な自分(だけ)が助かりたい、幸せになりたいという思いがあってもいいかと思います。というより、そういう性質が人の中には埋め込まれており、どうしてもその影響から、エゴ的になってしまうのは仕方ない面があるものと考えられるわけです。

この思い(自分だけ助かりたい、幸せになりたいというような思い)は、とても身勝手なものと誰しも思うでしょうが、見方を変えてみると、そもそも助かりたい、救われたいという思いが、自分だけでも、まずはないと、何も始まらないわけです。

物事はすべて対であり、セットです。救いがあるのは、救われたい、救われる対象があって初めて成立することです。

ですから、まずは救われたいという思いが、たとえ自分だけの範囲でも起こることで、救済のエネルギーが生じるわけで、エゴの思いも、最終的には高次につながっているものと考えられるのです。

しかし、やがで自分だけが救われても、結局は意味がないことに気がつきます。

究極的な意味では、自分が救われることはもっとも重要(世界は自己が創造しているという立場では)であるという説もあるでしょうが、他人がいてこそ、世界は(あなたという個性が他者の存在によって認識される)世界として存在しますから、他者への救済も自己の救済とセットになってくるのです。

ともかく、あきらめたり、自暴自棄になったりせず、悪魔もいれは天使もいる世界(それは悪魔そのもの、天使そのものではなく、実際の地上人、地上の現象として、その性格でもって顕現することを指します)なのですから、救いを純粋に求めていくことが、救済を顕現させる大事なひとつの要素となるのです。

先述したように、その救いのタイミングや方法は、あなたの望んだ形ではないかもしれませんが、天の目線からは確かに救済なのです。

もうダメだ、終わりだと思えばそれまでですし、人は悩み、苦しい状態の時は、なかなか別の観点を持ったり、自ら救えるとは思えたりしないものです。

それでも、救済を思い、希望を持って生きていくことで、救いの縁が少しずつ働き、つながり、天を動かし、意外な形とタイミングで、救われることがあります。その時、あなたは、すでに、過去の救いを求めたあの時から、救われていた、救済が始まっていたことに気がつくでしょう。

すると、天(あるいは自身の神性、天使性)に感謝の気持ちも起きてきますし、自分だけではなく、他者にも救いの手があること、救いの手を差し伸べたい気持ちも現れてきます。

ただ、いつまでも多くの人が、悪魔性や身勝手なエゴにとらわれる情勢が続く時、その影響や転換のための災厄も逆に言うとあるかもしれません。自分だけが救われたいという思いは、裏を返せば、ほかの人はどうなってもいいという思いになってきますので、結局、一人一人、それぞれ自分以外が滅ぶ災厄を望むようなイメージでもって固まってくるのて、全体としての大きな災厄となって現れる危険性があるわけです。

それでも、大きな危機が訪れ、絶望的な気持ちにはなっても、反転すると、それは巨大で高度な救済措置が現れる可能性でもあります。それはタナトスからエロース、死から生への逆転でもあり、私たちがさらに成長し、よりよい社会にしていくための試練だとも言えるのです。


「法皇」と「隠者」 先生と師匠

マルセイユタロットで、「法皇」と「隠者」は、教える者、伝達・伝授する者として共通しているところがあります。

二枚は当たり前ですが、その象徴性に違いがあり、まったく同じ「教える者」というわけではありません。その違いはいろいろと考えられますが、やはり、その教えるレベルと内容、伝達の方法が異なるということが、絵柄から明確です。

マルセイユタロットの教義では、大アルカナの数の順が成長や発展度合いを示すというのがありますが、そこからすると、「法皇」よりも「隠者」が(レベルにおいて)となります。

また、「法皇」の絵柄には、「法皇」の下に何人かの弟子や聴衆とも思える人がいますが、「隠者」にはほかに誰もおらず、孤独に彼一人だけです。すると、「法皇」には話を聴きに来ている人が多くいるのに対し、「隠者」のほうは、むしろ誰か(教えを受ける者を)待っているここに来た人だけに伝えるという状況なのかもしれないと想像できます。

もし日本語の適当な言葉をこの二人に当てるとすれば、「法皇」は“先生”であり、「隠者」は“師匠”でしょうか。

ところで、タロットを学ぶ際、皆さんは、誰かに教えてもらうか、独力で学ぶか、どちらを選択するでしょうか?

一般的には、やはり学校であれ、個人であれ、誰か先生や教える機関から学ぶということがやりやすいと思います。そして、入り口としては先述した「法皇」的な、いわゆる“先生”に学び、やがて“師匠”的な人物に、さらなる深淵なものを伝授してもらうという道筋が考えられます。

それならば、最初から師匠的な人物を探して学ぶほうがいいという人もいるかしもれませんが、「隠者」で例えられる師匠的な人物は、なかなか見つけるのも難しく、自分自身がその師匠に会えるレベルや条件に達していないと、近くにいても気づかず、また、たとえ探し当てたとしても教えてくれないということもあります。まさに名前の通り、隠れたる者なのです。

ということは、「隠者」は、象徴的に、実は普通の人間でない可能性もあるのです。これは修行や探求を極めて人間レベルを超越している人という意味もあれば、肉体を持った人ではなく、精霊や天使的なエネルギー、あるいは、内的な高次の存在(ハイヤーセルフ)という意味もあるのです。

そういった証拠は、「隠者」の絵柄自体や、22枚が配置されるマルセイユタロットの秘伝的な並びからも示されるのですが、いずれにしろ、そうすると、「隠者」から教えられるのは、単なる知識や技術ではないことがわかります。

言ってしまえば、「隠者」が教え伝えようとするのは、霊的なことであり、表面的・物理的・現実的なこととは異なると考えられます。しかしながら、数的には先に「法皇」が登場するように、まずは普通の知識も身につけなければならないのです。(「法皇」にしても、本当はただの知識レベルではないのですが)

すると、こうも考えられます。「法皇」の魂・霊として背後に「隠者」がいるのだと。

「法皇」に学ぶ生徒は、まだ「隠者」としての魂の実感は得られないものの、その背景として、「隠者」の影響も受けながら「法皇」の講義を聴き、学んでいるわけです。言い換えれば、「隠者」の影を「法皇」に見ながら話を受けているということであり、「法皇」の話をただそののまま字面通り、言葉通り受け取るのではなく、彼の話す内容に霊性を見出す必要があるとも言えるのです。

私たちは、何かを身につけたい、知りたいと学習を志し、学校や個人の先生、先達たちから授業・講義を受けます。

それを行う(求める)理由は、だいたいは現実的なことから発しています。たとえ精神的な(安らぎや癒し的な)ことであっても、現実世界で生きる自分を楽にしたい、活き活きさせたい、生きやすくしたいということが多くの部分ではあります。

つまりは(じつ・み・みのり)や実際的な効果を求めて学ぶわけですし、自分の求めたい実を、すでに体現している人や手にしてきた人を先生として教えてもらうことになります。そして、全部とは言わず、ある程度の知識・技術を得て、学びは終わります。

これは「法皇」の伝達が終わったことを意味しますが、それは学びの一時的、実際的な側面であり、先述した「法皇」の背後の「隠者」の魂を感じ取れたかどうかとはまた別です。また、自分の学習目的によっては、「隠者」を「法皇」の段階で感じ取る必要もありません。

しかし、不思議なもので、自分が実際的・現実的に学ぼうとしていた理由(実)とは異なって、学習している間に、「法皇」の背後の「隠者」から自分が、違う性質のものを受け取っている場合があります。それは実(見えるもの、形あるもの、現実で活かせたり効果があったりするもの)と比べ、「虚」とも言える、目に見えない不確かで抽象的なものですが、自身の霊性に響く何かなのです。

例えば、投資セミナーで学び、お金を増やすのが目的で、その知識はついたけれども、同時にお金についてフォーカスしたことで、お金を基準とした世界観に疑念や考察が及び、自身の本質的な生き方について深く考えるようになった・・・みたいな現象です。

マルセイユタロットの学習で言えば、最初は趣味でタロット占いができればなあと思って学び始めたたけれども、タロットの象徴性を知るにつれ、自分の中の多数の人格、低次と高次、表と裏・影、物質と精神、霊・魂と日常など、これまでの見方とは異なるものが現れ、意識の変革・統合に思いが行くようになったという感じになるでしょうか。

自身で選択・行動し、何かの学びの道に入り、先生や学校に最初は導かれつつも、やがて「隠者」に出会うための準備をしていくようになります。それは、ずっとべったり先生に指導を受けることではなく、自分自身でも学び、思考し、感じ、実践し、フィードバックをし、気づきや向上を重ねていくことであり、その暁に、登場してくるのが「隠者」なのです。

またマルセイユタロットを見る限り、「法皇」としての先生も、生徒が実際的に求める以上のものを思いながら教えていくという姿勢が望まれます。(数の順で並べると、「法皇」の視線は次の6の「恋人」の天使に行くようになります)

このように、学びのうえでは、タロットの順序的には、先生を持つほうがベターですが、自分自身がオリジナルとなる人、最初の技術を開発、発明したような人は、それを伝達したい場合、いきなり自分が先生の立場とならざるを得ませんから、誰かに最初学ぶという過程がなくなることがあります。

ですから、師をもたない師がいてもよいわけで、そういう人は、「隠者」が当初から自分の内に現れている、自分自身が最初から「隠者」であると言ってもよいでしょう。(もし過去生データや特別な才能があれば、そういうことになるのも考えられます)

ですが、実力もないのに、最初から「法皇」を超えて「隠者」だと思い込んでいる人もおり、さらには、そもそも先生としてもどうかと思う人もいます。

それから勘違いする人もいますが、「教える」ということ自体も、ひとつの技術です。

自分がその分野で長くやってきたとか、経験があるから、よく知っているから・・・だけではうまく教えることはできません。タロットでいうと、タロット占いができるから、タロットリーダーとしては経験があるからと言って、必ずしも、うまく教えられるとは限らないのです。

そういう意味では、天才タイプ(オリジナルができたり、独学で何でもできたりするタイプ)ではないと自認されている人は、やはり、当初は先生・学校の下で学ぶほうが、型も学びやすくあり、自身が教える立場に回ることになっても、先生・師をモデルとすることもできますし、たとえ師が悪くても、まさに反面教師(笑)とすることができるので、先生や師を持たなかった人の教えは、型破りではあっても、学びにくいことはあるかもれません。

そして、先生から学べなくなった、先生がいなくなったとしても、あなたには(内なる)「隠者」がいますから、「隠者」に教えを乞い、自身を高めていくとよいでしょう。マルセイユタロットでは、タロットとつのつながりを深く持ってくると、「隠者」が立ち現れるような仕組みになっています。

最初の段階で、先生を選ぶ際も、「隠者」を背後に感じる人を選べば、あなたの目的以上のことが開かれる可能性もあります。

いずれにしても、教え・教えられる関係も、縁によるところも大きいので、自分に、ある先生が紹介される流れも、似た者同士の縁によることが多く、結局、類は友を呼ぶ世界でもあるのです。


小アルカナ 人の4つの道

一般的に、タロットは78枚の構成でもって、大アルカナと小アルカナと呼ばれるパートにわかれています。

もっとも、最近では、たくさんの創作系タロットがあふれており、タロットいう概念・定義が、ほとんど「絵のついたカード群」みたいになってきているので、そのような枚数と構成でさえ、あやふやになっているのが実状です。

よって、そもそもカード構成・内容に、ほとんど違いがないものが多くなっているわけです。ところが、マルセイユタロットは、明らかに大と小の違いがあり、特に数カードとほかのカードパートとでは、絵柄がまったく異なると言ってもよいくらいです。

古いタロットでも、今もよく使われているウェィト版では、確かに大と小の絵柄に違いはあるのですが、どちらかと言うと、デザイン・絵柄の感覚は同じだと判断してもよい印象になっています。

成立した年代でいえば、マルセイユタロットのほうが古いので、やはり当初タロットは、大アルカナと小アルカナとでは、何らかの形で別々にあり、特に数カードは、あとで追加されたか、たとえ同じ時代にあったとしても、違う意図で使われていたのではないかと推測できます。

ただ、現存する最古のタロットと言われる15世紀のヴィスコンティ・スフォルツァ版タロットの時代においても、すでに小アルカナは大アルカナとセットになっており、その大アルカナよりも、むしろ小アルカナのほうがマルセイユ版に近い印象があります。

タロットの歴史は不明なところが多く、大アルカナと小アルカナが最初からセットであったのか、あとで一緒にされたのか、難しいところですが、タロットに意味があるならば、絵柄の違いにも何か意図があったのではないかと想像はできます。

ただし、あくまでタロットがカードゲームの道具だとすれば、ゲームのための工夫(得点力やゲームにおけるカード特性の違いを出すため)で、絵柄・デザインを違えたのだと考えることもできるので、タロットに何か特別な意味が込められていたと思うのは、実は近代以降になってたからの話なのではないかという説もあります。

前置きが長くなりましたが、何が言いたいのかといえば、マルセイユタロットの構成と絵柄のデザインから見て、大と小のアルカナの違いによって、それぞれ別の世界を象徴していると思うのは自然(あくまでマルセイユタロットを対象とした場合)だということです。

さて、その大と小ですが、今日は小の世界に少しふれながら、人の生きる道の型について考えたいと思います。

小アルカナは、私の考えでは、私たちが生きる実際の世界現実生活を象徴するものと思っています。簡単に言えばリアル・物質(精神も含むものの、それは人間の実際感覚に基づく精神)の世界です。

ここは分離・個性の世界であり、人間としてもまさに人の数だけ個性があり、モノの多様性はとても数え切れないほどです。ただ、こうした数多の状態をまとめて象徴するには、何か共通の型をもって整理する必要があります。

それが小アルカナで採用されてるいる4組の概念です。もとは、西洋の古代思想、四大元素(風・水・火・地)から来ているものです。

つまり、私たちの現実世界は、人も含め、無数に分離した(個に分かれた)モノの世界ですが、その無数の分離をタロット的に4つ型で示したということです。これは、逆に言えば、私たちの現実世界は、4つに分けて考えることができることにもなるのです。

私たちは生まれてくると、この現実世界の住人となります。赤ん坊のまま放置されると死んでしまいますが、普通は親や養育者が育ててくれて、その人なりの人生を歩んでいくことになります。言わば、一人一人、固有の人生があり、その人の人生の道(生き方)があるのです。

さきほど、小アルカナは現実生活を示し、4つの型に分けることができると言いました。ですから、それを適用すると、私たちは一人一人違う人生ではあるものの、あえて大きく分けるとすると、生きる上で4つの型、4つの道を持つことになります。

4つとは、タロットの小アルカナ的には「剣」「杯」「杖」「玉」で表されますが、その本質は先述したように、「風」「水」「火」「地(土)」という元素・エレメントにあります。

言って見れば、風の道、水の道、火の道、地の道があるわけです。それでは、その4つの道を例えてみます。(なぜそのような道の意味になるのかは、ここでは説明を省きます)

以下の4つの道は、言い換えれば、自分の一生における社会や世界への主要な貢献の方法(示し方)であり、自己の充実を感じる道・表現と言えます

●風の道  探求、研究、思索の道

●水の道  融和、援助、平和の道

●火の道  達成、使命、冒険の道

●地の道  安定、経済、利便の道

風の道は、現実(今自分の生きている時代や感覚)を超えたものに進みたい、探求したいという性質を持ち、その方法として知的探求や学問、個人的にこだわりを持った追求へと働きます。チームとしても動きますが、孤独もいとわず作業します。また普遍的なルールや法則を発見したいという気持ちも持っています。職業としては学者、研究家、専門家、教師、作家、宗教家のような傾向になるでしょう。

水の道は、人々の心の交流と世界の平和を望み、助け合い、人との結びつき、協同作業、サポート、救済という表現を取り、人の役に立ちたい、人助けしたいという道に向かいます。職業・活動としても、医者、看護師、介護士、セラピスト、福祉、通訳等コミュニケーター、ボランティア・慈善事業的、海外的なことに関わる傾向があります。

火の道は、この世界で何かを成し遂げたい、使命感をもって活動したい、自分の好きなこと、情熱のままに生きたいという性質があります。そして活動として、会社を興して大きくしたり、未踏の地や誰もやっていないようなことを目指して冒険したり、自由な生活を試したり、常識外を楽しんだりしますが、自分なりの使命感があることが重要です。職業としては起業家、スポーツ選手、芸術家、創作家、冒険家、通常の仕事でもひとつところに収まらず転職したり、企画的なことを望んだりする傾向があるでしょう。

地の道は、今自分が生きている時代を、より安心して楽しく暮らせるようにしたいという性質があり、いわば実生活の安定や利便性に向かって活動します。職業としても、経済や商売活動にダイレクトに携わる傾向があり、その時代におけるもっとも安心・安全な環境・方策(例えばお金と時間を持つこと)に注力していきます。娯楽・飲食・癒し・服飾などのサービス業ほか、人間生活に直接ふれたり、関係したりする仕事に就きやすいですし、人によっては大きく成功し、社会に還元し、人々に生きる喜びの可能性を見せる者になります。

上記は、かなり大きな枠組・次元で見たものですが、庶民的レベル(笑)まで落として考えると、風の道は学んでいることに自分の充実を覚え、水の道は仲間と一緒にいる(する)ことで自分を充実させ、火の道は、より自由(自分らしく)に活動している時に充実を感じ、地の道はお金やモノを持つこと、生活の安心によって充実を得るみたいなことと言えます。

すでに気がついた人もいるかもしれませんが、4つの道の充実は、どれかひとつに決まるものではなく、人の中に4つの可能性や循環があり、例えば、さきほどの例でも、同じ人の内にも、学んでいる時が楽しいと思う時もあれば、別の時間では仲間とワイワイ過ごしているのは楽しいと思う時があります。それでも、自分の傾向というものが4つの型の中で、強弱、得意不得意、好き嫌い、みたいなものがあるわけです。それが個性でもあります。

ということは、私たちは、この現実の世に生まれた時点で、4つの世界の魂をもった(分けられた)ことになり、それぞれの役割・個性があるので、単純な平等論(すべて同じという見方)で見るより、適材適所、楽しみ方や苦しみ方(笑)の特質がそれぞれにあると理解したほうが、調和しやすいことになります。

すると、何よりもまずは、自分の傾向・特質を知ることも大事だとなるのです。

あと、今日は書きませんが、この4つを統合していくこと(またはひとつを突き詰めて超越していくこと)で、大アルカナの世界に入ることになって、自分の運命も変わってきます。それは、自分の今の運命は、この4つが同じレベルでループしていることを意味するからです。このことについては、また機会があればお話したいと思います。


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