カードからの気づき
タロットと三角構造、そして現実。
今日もタロットのカードの中の構造の話になります。
私が中心に使っているマルセイユタロットは、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットです。
このタロットの特徴は、極めて精巧に作られているその図像にあります。一見しただけではわからないのですが、その精密さを知ると、大きな驚きと敬意が起きます。
言いたいことは、単にタロットの印象からだけのものではない、絵の(緻密な)構図や像の秘密があるということです。だからこそ、タロットを見る側の観察眼が向上すればするほど、このタロットはさらに奥深い意味を供給してくれることになるのです。
そういうものの中に、三角構造というものがあります。
これは、カードによっては、三角の位置関係を強調しているものがあるということです。
実は、マルセイユタロットの精密なタイプのものは、幾何学的構図をもとに、精巧な計算によって製作されているため、円や正方形、三角形(その組合せによって生じる図形)など、古代象徴のうえで基本となる重要な図形は、タロットに取り入れられているものです。
ですから、三角形も、マルセイユタロットのどのカードにも見られる図形ではあります。それでも、特に構図的な強調されているカードがあるわけです。
三角形には上向きと下向きがあり(厳密に言えば、それだけではありませんが)、形で書けば▲と▼です。
上向きのもの▲は、いわゆるピラミッド型で、上に行けば行くほど、範囲が狭くなり、最終的には一点に集約されます。逆に下向き▼は、上側が広く、下側に向かうほど一点に集中していくものになっています。
▲、こちらのほうは、おそらく人類の歴史の中での基本構造ではないかと考えられます。
宗教的にはカースト制度のようなものもイメージされますが、要するに、より少ない上部者と、その他大勢の層の者たちという構造で、上に行くほど数が少なく、しかし権力は上がるというものです。つまりはヒエラルキーの世界です。
端的に言えば、経済原理の社会構造と言ってもいいかもしれません。また、経済だけに限らず、どの分野にしろ、この上向き▲構造が支配原理として息づいていると考えられます。
逆に言えば、この構造が意識される時、もっと言うと働いている時、支配(点から面へ、つまり一部と多数の支配構造)は確立されるということです。
学校のクラスでも、会社の組織でも、スポーツの団体でも、学びのシステムでも、宗教の組織においても・・・とにかくこの▲が見られるわけです。
では、反対の下向きの▼はどうでしょうか。上に行けば行くほどたくさんになり、広くなるシステムです。多くの人が少ないものをコントロールするみたいな感じですが、多数決などはこの原理にあるのかもしれません。
しかし、▼によるシステムと言いますか、支配構造はなかなか思い浮かべるのは困難ではないかと思います。
企業システムのあり方として、逆ピラミッド型構造の▼は、上司や上部的な人が、多くの社員や部下が顧客のために応えやすい環境、体制を整えるような組織として現場の意志決定権も移譲し、トップタウン的な命令型から、少ない層が多くの者を下から支えるようなサポート型に回るような意味で言われることもあります。
それでも、やはり組織そのものとしては、ピラミッド型・ヒエラルキーのある型が普通でしょう。
結局、私たちは現実の生活において、このように様々なところでヒエラルキー・ピラミッド型の▲構造に、実際、支配されているところがあるわけです。しかも無意識にもそうされているところがあります。
無意識というのが重要で、最初は形(組織)として▲構造の中にいるだけだったのが、いつのまにか、心の中にも▲構造が築かれてしまい、無意識のうちに、▲の中に自分を収めないと安心できない心理構造にさせられているところがあるのではないかという危惧です。
もし、自分が▲の下のほう、被支配者的な立場というものを強く意識した経験があるのなら、心の中にもそれが刻印され、自分は▲の下の者でしかないのだという洗脳状態にもなって、どの分野の組織に所属しても、自分は下の者だ→下でいいんだ→下でいるしかない→(自分が上にいるための)もっと下の者はいないのか下の者を作る・・・という悪循環的な罠にはまってしまうことにもなりかねません。
また、たとえ「下の者トラウマ」がなかったとしても、▲構造の意識や現実組織がたくさんある限り、上やトップを目指すという意識が芽生えるのは仕方のないところです。そして、上に行くほど支配ができる、楽になる、自分の思い通りになる、多くの資源(人間も含む)を利用できるという心理にもなってくるでしょう。
ここで、鍵となってくるのは、▲構造意識の変換です。それは逆向きの▼にポイントがあると言ってもよいのではないでしょうか。
さきほど、▼の組織は想像しづらい上に、現実的にも存在しにくい話をしましたが、形のうえで▲であっても、意識のうえでは▼を作ることで、新しい意識と組織が創造できる可能性があると考えられます。
それは、結局、ミクロとマクロの関係(の見方の統合)に帰する気がします。モノの見方の転換と言ってもよいでしょう。
シンプルに言ってしまえば、▲と▼の構造が同じであるような意識の形成です。
上に行けば行くほど、少数となるのが▲ですが、これは上の一点に集約されて行きますからミクロ的方向でもあります。しかし、上に行けば行くほど拡大されるというものを考えると、マクロ的にもなります。
ここで気化という現象を考えましょう。
気化は言わば空気化するようなもので、例えば水が気化するとすれば、水蒸気になって空気中に含まれて見えなくなります。水が細かい(小さい)粒になっているわけですね。しかしミクロな粒子として水は存在してはいても、拡大したかのように空気となっているので、空気の一部として見ればとても大きさ存在(マクロ的存在)になっています。
内的な表現で言えば、階層が上がる度に、意識が拡大されていくというものでもあります。
それは全体に飲まれるのではなく、一人一人独立した意識を持ちながら、全体として連繋し、集合的なネットワークを形成しているシステムと言えましょうか。ああ、こういえば、PCとネットシステムに近いかもしれません。
また、ちょっと違うのですが、アニメの「攻殻機動隊」という作品では、スタンドアローンコンプレックスという、孤立しつつも複合体になっている意識というものが描かれていました。これはコピーによる支配も生み出す危険性もあるのですが、従来のピラミッド型・ヒエラルキー型組織に一石を投じるもののような気もします。
▲と▼を合わせると六芒星になるのがわかります。その六芒星の周囲に線を引くと六角形になり、円に近い図形になります。
六芒星の象徴的特質として、結合や統合、連繋という意味が見いだせます。タロットの図像にも、▲と▼の両方が描写され、その結合が示唆されているものも見えます。
目的や課題が六芒星の中心にあり、それに向かって、情報を共有しながら、周囲が知恵を出し合い、適切な働きかけ・行動を、各々と組織全体が行うというシステムというのが見えてきます。
こうしてみると、私たち自身を苦しめているのは、まさにほかならぬ私たち自身にあるのだと気がついてきます。正確に言えば、私たちの(個人と集合の)認識力の問題と言えるでしょう。
構造(形・現実そのもの)が悪いのではなく、私たちが今の現実を事実的な現実として認識させている、私たちの中のモノの見方(認識力・思考と感性の集合力)に問題があります。
いわゆる「悪魔」は内にあり、その投影されたパワーが外在のものとして(実際的に)現れていると表現できるかもしれません。
少なくとも、▲構造の支配原理に気がついていくこと、▲の中に▼を見出すこと(その逆もまた真なり)が、従来の認識のままでいることからの脱却につながるヒントになるものと、マルセイユタロットからもうかがえるのです。
タロットの中の人物構造
マルセイユタロットの大アルカナのカードには、いろいろな分類の方法と言いますか、視点の違いによる区分けが可能なところがあります。
その中のひとつとして、絵柄に出ている人たちの人数によって分けるやり方があります。
単純に図像の人物が一人か、複数かということなのですが、よく見ると、複数の人物(動物)が出る場合、たいてい、2対1、あるは3対1の構造になっていることに気がつきます。
これにはタロットが示す深い意味と意図が隠されていると考えられるのですが、それはひとまず置いておき、別の観点からこのことについて見てみます。
2対1や3対1(時には4対1)という構造は、つまるところ、複数と一人、グループと別の一人(ひとつ)という形式になっているわけです。
そして、それはまた、グループになるものが、ある共通のことで結ばれている関係を意味し、それに対しての、ほかの「ひとつ」は、グループとは異なる本質があることになります。
さらによく図像を観察すると、共通のグループのものの位置と、別のひとつのものの位置も異なっていることがわかります。
位置を「あるレベル・次元」と想定すると、グループの次元と、別のひとつのものの次元は、違っている層にあると言えます。
まさに同次元と別次元の違いなのです。
さて、複数の人間が集まると、そこにはコミュニケーションや選択の問題が出ます。
人の集まりあるところ、まず間違いなく、人間同士の会話やコミュニケーション、意思疎通、情報交換が行われています。しかも、その集まりに同じような目的があったり、考え方などが同じ人間達であったりすることも多いわけです。趣味や関心が共通している人たちと言ってもよいでしょう。
その人たちが、仮に、何かの目的のために情報交換をしに集まっているとすれば、そもそも情報が必要だとして来ているので、目的や問題を解決する手段に至っていないと考えられ(至っていたとしても、常識的なものに留まっている)、言わば、皆、レベル的には似たり寄ったりのところがあると見えます。
しかし、ここで、高みからその集団を観察している者がいるとします。
その人物は集団の中に入ろうともしない様子から、集団に流れている情報には興味がない、もしくは、その程度のものは入手しているか、役に立たないと思っていると想像できます。
要するに、レベルや次元の違う人物なわけです。
この人物から見れば、下で右往左往し、必死で情報を得ようとしてる者たちは、好意的に言えば微笑ましくもあり、また悪く言えば、愚鈍にさえ見えることもあるかもしれません。
おそらく、集団の人たちの間で流れている時間・空間と、この高みの人物に流れているそれとは、質やスピードも違うものと推測されます。静寂さ(聖)と猥雑さ(俗)も異なっていることでしょう。
そうは言っても、この高みの人物(たち)のレベルにおいての情報交換もあるわけで、その時は、彼も下の集団の人たちと同じような状況にはなると思いますが、1階のホールでのものと、彼のいる2階のホールとでは、先述したように時空レベルが異なっていますから、扱われる情報とその伝わり方も違ってくると考えられます。
話を元に戻しますと、タロットの図像に描かれている複数人物(動物)のものには、こうしたレベルや次元の違いによる、コミュニケーション・情報交換(情報処理)の質の変化が示唆されているものと思えます。
マルセイユタロットには、細かく言えば3つの階層(それが都合4にもなり、部分的には8つ)が、一枚のカードの構図のもとに意味と配置が設定されています。簡単に言えば、カードのこの位置にあるものは、こういう意味合いを持つということです。
人物たちがどこに配置されているのかを分析することで、象徴の意味がもっと深くわかるようになっています。
そして、今回のテーマでいえば、複数人物のグループの位置と、もうの一人(ひとつ)の別の人物(あるいは動物やモノ)の位置関係は、そのレベルと意味が自ずと異なるように描写されているということです。
これが何を意味するかと言えば、まず否定的(ネガティブ)に言えば、私たちは同じレベルでつるみ、情報を集め、コミュニケーションしていても、堂々巡りのループを繰り返しているだけで、根本的な解決にはならないということ、肯定的に言えば、何度も(表現は違えど)同じ楽しみがやってきて、いくらでも(輪廻を設定すれば)遊ぶことができるということです。
そして、さきほどの例えで言えば、1階のホールでたくさんの人と会話している時、ふと視線を上に向けてみると、2階からこちらを静かに見ている人物と、そうした上の階があること自体に気づくことがあるわけです。(人間、「ふと・・・」になる時とは、一体どういう時かを想像すれば、面白いでしょう)
または、時々、2階以上の人物が戯れに1階に紛れ込んでおり(笑)、その本質が違うことはわかる人にだけわかるのですが、その人物とコミュニケーションが取れた時、上層階の存在に気がつく、あるいは招待されるみたいなこともあると考えられます。
それが、さきほどのロットの図像での「複数対1」の関係において、「1」なるものの視点と存在へのコンタクト、上昇と言えます。
1階の中で必死に、あるいはここが天国・自分のフィールドだと信じこんで遊び、いろいろな人やモノから情報を得ようとしたり、交流しようとしたりしても、そして、一応の目的は果たせたように見えても、しょせんは井の中の蛙ということもあるのです。
上層階への視点へは、タロット自体を詳細に観察し、その象徴性を活かすことで、自らの気づきによって道が開けますが、通常(の生活)においては、平常の中の異質性の発見や、常識・多数がよいと言っている考え方に疑いを向けるような視点、さらには外側のものではなく、自らの内側(これまでの例えでいえば、1階のホールでの目の前の人物や景色に囚われる並行視点ではなく、周囲を垂直的に観察する冷静な視点)に目を向けることで、少しずつ現れてきます。
言葉でいえば、霊性の発露、霊性復活の兆しを見ると言ってもよいでしょう。
もはや、一代限りの利己的な幸福追求をしている時代ではないと言えます。各人の霊性の回復をもっと追求し、個人から全体へと浄化と変容を果たしていくことが必要で、そうしないと、おそらく数千年も続く同じパターン・ループからは逃れることが難しくなります。
そのことが、複数対1の関係性において、タロットの一枚の中にも託されているように思います
マルセイユタロットでは、自身の霊性の回復について、タロットリーディングで展開されたカードの方向性を見ていくことで、それがわかるようにもなっています。
ただそれは、いわゆる占いでの読みではないので、使う(読む)目的により、タロットの示唆も質も変わるということです。
この(霊性回復の)ような方向性(目的)よりも、自分の中の心理的データのクリアリングやシフト、もしくは現実的・物質的変化の手段を期待する情報入手の目的では、タロットに現れている図像の解釈も異なってくるのは当然です。
その時は、複数対1の人物の読みも、むしろ同質レベルのコミュニケーションの問題としてとらえたほうがわかりやすいことになります。
小アルカナ、4の世界の分類と学び。
タロットの小アルカナの原理として貫かれている法則に、4つの質によってシステム化されているところがあります。
いわゆる四大元素であり、スート(組)としての4組のことです。
タロットは伝統的な構成であるものは、78枚のもとに、大アルカナ22枚と小アルカナ56枚で構成されています。4で割り切れるのは、小アルカナの世界ということになります。
4という数は、いろいろな考えはありますが、ある根拠に基づけば、精神や霊的な世界より、現実(形のある世界)を示すものになります。(特に3と対比されます)
小アルカナの宮廷カード(コートカード)16枚と、数カード(スート・数札)40枚もともに、4を基本数として構成されていますので、それぞれも、そして合わせた56枚も、4で割り切れることになります。
さきほど、4は現実を示す数であると言いましたが、そうすると、小アルカナは現実で割り切れる世界、言い換えれば現実に適応する世界だと述べることができます。
逆に22枚の大アルカナは、4では割り切れないので、文字通り、現実では割り切れない世界(現実的な観点ではとらえきれない世界)だと言えるわけです。(仮に数を持たない「愚者」をあえて除いたとしても、21枚であるので、やはり4では割り切れません)
このことからも、適応範囲や次元が、大と小では違うことがわかります。マルセイユタロットの場合、それを明確にするために、特に数カードは大アルカナの絵図のデザインとは大きく異なったものにされています。
さて、4で割り切る世界の小アルカナは、それが現実の世界(を象徴するもの)であるならば、私たちの通常の認識では、物事と人間は4つの世界・性質で分類されることになります。
スピリチュアルな世界では、統合や融合が要請されることが多いですが、現実問題、私たちは分離した世界の中で生きているわけです。
分離は、相争えば競争や差別、戦いということになりますが、適材適所という言葉もあるように、お互いの性質の違いを認め合えれば、それはまた個性の活かし合い、助け合いとして、有意義なものともなります。
分析や分類は時に大切なもので、いきなりで強引な統合化・一体化というものは、混濁や混乱を呼ぶことがあります。
例えば、私たち日本人にはあまり問題に上がりませんが、ヨーロッパなど海外では、(現在の)国というより、地域・民族に自分のアイデンティティが強固であり、「ああいうやつらと一緒にされてたまるか!」と分離・独立の運動が激しいところがあります。
もちろん歴史的な経緯とか、宗教性とか、ずっと争ってきた領地・戦争等のことでの先祖からの因縁もあって、感情的にも簡単には融合することが難しいこともあるでしょう。ともかく、統合することが「和」として正しいのだという正義は、場合によっては横暴にもなるわけです。
それでも、いつか統合を果たしていくことを目指すには、逆に、それぞれの独立性、個性を互いに認める必要があるでしょう。そのうえで、融和していく過程を迎えるのです。
これは、一人の人間の中にも言えることで、私たちは先に述べた4つの性質で分けられるとともに、さらに、一人一人にも4つの性質が内包されているのです。
四大、つまり風・水・火・地の性質全部が、自分にもあの人にもあるのです。
有名な分類(あてはめ)の仕方では、風が知性・思考、水が感情・愛情、火が情熱(直感・創造性)、地が肉体(感覚・物質)というものがあります。これらは誰にでもあるセンサーであり、欲求・欲望の源泉のもとでもあります。
例えば、恋愛にしても、それが肉体的なものが中心なのか、情的なものなのか、計算によるものなのか、運命的なものとして、情熱にかられているものなのか・・・など恋の形、傾向があります。またそれらは、刻々と中心の位置が変化していきます。
恋においても、4のポイントによって動かされていることがわかってくると、恋を通した自己の体験を、本当の成長(変容)へと変えていくことができます。つまりはそれが統合(死と再生でもある)なのです。
4つの視点で、この現実の世界とそこに住まう人間たちを観察・洞察することは、4つの分離眼を持つに等しいことです。
先述したように、小アルカナの世界は現実を表すのには適している構成となっています。むしろ、4を中心とした観察で、分離した世界を把握することが、小アルカナの課題やテーマと言ってもよいでしょう。
この4つの性質を徹底的に把握し、分類し、その個性を理解することができた時(言い換えれば、4つを葛藤させるのではなく、有機的に関連した全体の中の個性だと認められた時)、真の統合に向かって飛躍していきます。その(向かう)世界は、錬金術的には第5元素の世界と言われるものです。
つまり、統合のための前段階、分離による整理が、小アルカナを使う世界観・段階だと表現できます。
これを、私たちは通常の生活、人の現実における一生の様々な出来事として経験し、学びます。すなわち、4大に分かれた性質世界の現実体験です。
おそらく亡くなってから、第5元素の世界に少しふれることができるシステムになっており、そこで、自分の生きていた現実世界の四大の仕組みを本当に知るのです。
しかしタロットは、生きながらにして、生前にもっとその世界を知っておこうというものであり、大アルカナの割り切れない世界観に参入し、魂の解放を目指そうというものでもあるのです。
普通に生きるているだけでも、多くの四大の学びを体験をしていくわけですが、その上部概念の第5元素の世界観にふれない限り、なかなか四大分離の世界のループから逃れることも難しいわけです。
確かに、人生の中で、悟りのような境地を抱くことが、誰しも一瞬とは言え、あると思います。
困難な仕事を成し遂げた時、恋人と心から愛し合った時、家族と幸せな時間を過ごした時、大自然や偉大な建築物などを見て感動した時・・・それは本当に色々で、人それぞれですが、人生を真剣に、あるいは楽しく、またはとても頑張って生きている時に訪れるものです。
それでも、第5元素的な学びも並行していると、また今生は違った意識になることができるかもしれません。そういうもの(人)のために、マルセイユタロットは存在しているとも言えるのです。
タロットの「∞」と別時間
まず、お知らせです。
近いうちに、4月からのマルセイユタロット基礎講座の募集開始の告知をいたします。これは春と秋に行っている定期的なもので、今回春期は大阪で行います。関東圏では、東京で6月から始める予定で準備しております。本格的にマルセイユタロットを学びたい方は、どうぞ、この機会にご検討ください。
さて、このところ、ずいぶん前にタロットを教えていた生徒さんから連絡をいただくことが続いています。また、プライベートでも、本当に久しぶりの友人と再会したり、メール等でコンタクトがあったりするなどのことがありました。言わば、何かが蘇ったり、期間をおいて繰り返したりしてきていることの証です。
こういう時は、大きく変わる前触れのことがあります。そういえば、インフルエンザに今年罹患しましたが、3年前にも罹っており、その時も個人的には変動の時期で、こういうことがリンク・シンクロしていることを実感します。
そして、そのようなことを思っていますと、前にも書いたことがありますが、時間の進み方は直線(だけ)ではないこと、さらには、時間経緯に起こる事件(人生の出来事)も、単純に上重ねや直線的に増加していくようなものではないということが洞察されます。
それは、同じことの繰り返しだったり、大きなもの(スパン)と小さなものの反映だったり、二元的なものの対称性だったりするものです。
要するに、時間(それに付随する経験・記憶)は、過去・現在・未来にまっすぐ進んでいくと思っている以外の、別の「形」の時間があるということです。
その別の形とは、「円」と言ってもよいでしょう。
つまり、私たちには、時間や記憶を直接的に感じる自分と、円的に感じる自分とがいて、それがせめぎ合ったり、時々顔を覗かせたりして(特に「円」的なもののほうが)いるものと考えられます。
円的に時間を見た場合、繰り返し、対称性、繋がりという性質が見て取れます。
円のどこのポイント(点)を取っても、それと反対側の点の場所があり、それは自動的に対称性を持ちます。同時に、補完でもあります。
また、円周は点の集まりであり、中心点からコンパスで円を描くように、中心からの距離が等しい点が集合して線となりますが、ということは、それら(円周上の点)は、すべて中心点から見れば等しい関係(平等な関係)を持ちます。もし中心が自分の本質で、円周がその時々の出来事だとすれば、どれも自分にとっては等しいもの(意味)になります。
それから、円は始まりと終わりが、どこの(円周上の)点をとっても始まりであり、終わりであると言えるので、どこでも繰り返しが起きていると見ることも可能です。
私たちが、どこかで、このような円的な形として、時間と経験(記憶)を持っている(認識している)とすれば、それは直線的に見た場合の、過去・現在・未来とか、増える・減るという量的なものの概念が通じなく性質(世界)を持っていることがわかります。
マルセイユタロットでは、大アルカナの、ある何枚かのカードに「∞」の象徴図、レムニスケー(ト)と呼ばれるものが描写されています。この象徴を持つカードたちは、重要な起点と終点的な意味を持ち、タロットの数の順番に従って配置しても、それがわかります。
ただ、同時に、数の順番は、「1,2,3,4,5・・・」という直線的なことを想像させるので、そのまま見れば、過去・現在・未来→と、まっすぐ進んでいく通常意識での成長、モノの増減というように映ります。
とろこが、先述した「∞」の象徴図を持つカードを、数の順番で置いた場合でも、特別な位置を占めるような並べ方ができるのです。
これはつまり、「∞」の象徴図を持つカードが、特別な位置になるような配置自体が、通常意識から離れ、円環的な時間や意識を表出するための図案になっているということなのです。
ですから、ただ単純に大アルカナを1番から21番まで直線的に並べたところで、直線的・常識的なものが表現されるだけで、タロットを現実的な観点で見てしまうことにもなるのです。
逆に言うと、私たちがなかなか普段は気づかない意識層や時間の流れ(別の時間感覚)は、タロットの秘伝を受け継いだり、特殊な配置をしたり、象徴の極意に気づいたりすることなどによって、自分の前に現れることにもなります。
それ(現れるもの)は言ってしまえば、霊的な階層であり、肉体感覚と現実時空に縛られた状態では見えてこない、感じられないものなのでしょう。(しかし縛られることは、地上で人間として生きる上で大切でもあります)
普通の時間の世界では、時間経過とともに衰えや変化があります。ひとつひとつのものが変化している、動いているように見えていると言ってもいいでしょう。言わばアニメーションの世界です。
一方特殊な時間の世界は、アニメーションで言えば、ひとつひとつの絵(セル)が並行的に置かれている状態とでも言いましょうか。
その状態は、換言すれば、「永遠」「不変」に近いものです。
その不変的なものに変化を起こすには、アニメーションで言えば、意図(ストーリー)をもとに、ひとつひとつの絵を撮影し、連続して見た時です。つまり、過去・現在・未来のような設定(意図)をして、つなげた時に、ひとつの物語のようになるわけです。
現実時間の設定がストーリーや面白さを生むのは、こうした理由から当然だと思いますが、それらに囚われすぎると、真の永遠なるもの、高次の世界、イデアを把握することは難しくなるのかもしれません。
別時間を感覚(認識)化する方法は、別の自分や別の素材(状態)の世界を認識することと同意の部分もあり、おそらく古代の密儀修行体系では必須だったと感じます。
オーラやエーテル体の実感から始まる修行も、そういったところと関係しているでしょう。タロットにも、そうしたもののツールという側面があるものと考えられるのです。
すべては真実、すべては嘘と見ると・・・
マルセイユタロットの図像を見ていると、これまで蓄積したり、信頼してきたものをバッサリ切り落としたり、疑ったりするような内容と思えるカードがあります。
図像を並べていくと、それが一連のストーリー、流れの中でのポイントとなっていることがわかります。
このことは、現実的な意味においても、なかなか重要な示唆があるのではないかと思います、
私たちは信じているものがあるからこそ、前向きに、ポジティブに、あるいは信念を持って生きていけると言えます。
しかし、その信じていたもの(者ということもあります)が嘘であるとわかったり、それほど全面的に信用できるものではないとわかったり、今までの経験がまるで役に立たない事態に遭遇したりすると、かなりのショックを受けます。
中には人生が終わったかのような、何もかも信じられない気持ち、すべて投げやりになってしまう人もあるかもしれません。
しかし、考え方によっては、このことも興味深いことになるのです。
ここでもし、すべては嘘であるか、すべては真実であるか、または、すべては虚偽と真実が織り混ざったものか、そのうちのどれかが世界であると見ていくと、意外に納得できるものになってきます。
このうち、ちょっとした悟り感と言いますか、一見わかった風なものですと、一番最後の、いろいろなものが混ざったのがこの世界であるという認識が出るのかもしれません。
実は、「間(あいだ)を取る」とか、「中間で落としどころにしておく」というのは、何でも無難に説明できたり、時には逃げの理屈にも使えたりするものでもあります。(笑)
だいたいにおいて、「極端」というのは間違っていたり、バランスを欠いたりしたものとして非難されがちです。
それでも、ここでは、あえて「極端説」を採ってみましょう。
すなわち、すべては嘘の世界と見るか、すべては真実の世界と見るか、です。
この両方は、まったくお互いに逆説となりますが、実は、反転して同じものと考えることも可能です。
それは、「すべてが嘘という意味での真実の世界」「すべてが真実であるというように見せかけている嘘の世界」という言い方をすれば、少しわかってくるのではないでしょうか。
すべてが真実だとすれば、一人一人、そしてあなた自身が思ったり、考えたりしたことはすべて事実であり、真実だとなります。しかし、真実ではあるのですが、その考えたこと・思ったことに疑いを持つこともまた真実になります。
要するに、あなたの思い(思うという行為)が真実であり、思った内容自体は飾り・演出・題材でしかないという考えです。となると、演出の元そのものが本当の真実であり、私たちの経験している世界自体は嘘も真実もないということになります。
ただし、私たちの(見たり、経験したりしている)世界が演出上のものだとすると、演出された中の世界では真実とか嘘はあってもおかしくはないです。
わかりやすく言えば、映画やドラマのストーリーの中では、嘘もあれば真実もあるということです。
よく探偵ものとかでは、最初は嘘の証言とか誤解の目撃談とかがあって、探偵が調査と思考を巡らせて、真実や真犯人がわかるというようなストーリーになっていますが、この探偵ものの世界(ストーリー)の中では、確かに真実と嘘が明確に存在しています。
しかし、その物語を見てる私たちのほうでは、物語の中の真実や嘘が何であろうが、関係はありませんし、嘘も真実もないと言えます。
そして、ここからがまた面白いのですが、そうは言っても、物語の中で嘘と真実が分かれていないと、見ている側は面白くありませんし、物語を楽しむ(ドキドキする)意味では、物語の中の嘘も真実も、見ている者に影響は与えています。
まあ、嘘なのか真実なのかわからないストーリーというのも、それはそれで面白いのですが、どちらにしても、嘘であれ真(まこと)であれ、「これはいったいどういうことだろう?」とか「これは嘘だったのか!」とか、「うわ、真実はこれか!」みたいな心の動き・反応があるのは、見ている側にあるのは確かです。
つまりは物語の真実・嘘などを確かめるより、見ている側のほうに感情の動き、思考を巡らす動き、それらが起こることが重要なのではないかという洞察です。
大元の真実はもともとありつつも、それそのものの(大元の)世界にいることは、すでにすべで真実の世界なので疑いようもなく、ただ純粋にひとつのものだけになると考えられます。
しかし、大元から演出された物語の世界では、一人一人においても、また信じること(内容)も、考えること・感じることの違いによって、虚実が次々と変転していきます。
言わば、本当の真理と物語上の真実(嘘も含む)は別物だということです。
ここに、私たちが現実世界で生きる意味、私たちがこの(現実の)世界に浸かる(経験する、楽しむ、喜怒哀楽を味わうことの)意味があるのだと考えられますし、同時に、この世界を対象として真理を見ようとしても、物語や個人的な真理にたどり着くだけであって、それは大元の真理ではないということになります。
ということは、いくら探究を自分の(この世界の対象とするだけの)経験からしていこうとしても、グルグルと演出の中で回り続けることになります。(マルセイユタロットの「運命の輪」が象徴的です)
だから、この世界を対象としない、さらに現実を超えた思考、感覚が真理の探究では求められます。しかし、それは、そういうことを望む人に言えることであり、普通は、この演出の世界を楽しむことのほうが重要になってくるのかもしれません。
それで、最初に戻りますが、私たちが信用していたもの、信じて疑わなかったもの、または逆に、とても疑わしいと思っていたもの、嘘だと信じていたものから反転(逆転)するような認識に至ることがあった場合、それは二元の統合のチャンス、もしくは演出された世界のルールに、ほころびや穴を発見することにつながるかと想像されます。
つまりは、大ショックな価値転換があることは、真理到達の意味では大きな恩恵になるのではないかということです。
マルセイユタロットでも、大きな変革を示唆するカードたちは、そのようなポイント(の位置)に登場します。
そして、私たちは、大元の真理と、演出された世界の真理(ルール)とを見分ける能力、それぞれを感じとる力があるものと推測されます。
別の言い方をすれば、認識レベルの違いによる複数の自分がいるということです。
従って、どのレベルに主にフォーカス・同調しているかによって、真理や正しさの意味は異なってくることになるでしょう。
通常はなかなかのその違いを自覚することも困難かと思いますが、混同・混沌から、まずは分離を始め、やがて再統合をしていくことが道筋となります。まさに、錬金術で言われるところの、「解体して統合せよ」なのです。