カードからの気づき
その学びは、実際に効果があるのか?
タロットもそうですが、世の中には、いろいろな講座・セミナーがあり、知識や技術を学ぶことが、その気にさえなれば、容易にできる時代となっています。
昔は、師匠・先生・学校を探すのも大変で、書籍類にしても、図書館に行ったり、本屋を尋ね歩いたり、とにかく学ぶ前段階の、自力での探索努力が必要でした。
学ぶのも簡単になれば、教える人が出るのも簡単で、ますます学びの門戸は楽で多く開かれているようになったと言えます。
その分、いわゆるライトな学びも増えてはきましたが、基本、底上げというか、学びのしやすい環境は、全体の向上にもつながるよいところはあると思います。
しかしながら、深い学びになると、やはり、いくら縁あって、よい師や学校に恵まれたとしても、結局のところ、自分次第と言え、最初は指導を受けながらでも、最終的には自分のものにするためには、どの分野においても、まさに自分の哲学のようなものを構築し、完成していかなければならないと思います。
そして、それは唯一無二のものとなり、あなたの個性に応じた、ひとつの(学びの)完成の形となるのです。
ところで、学びにおいて、よく言われるのは、それが使えるのか(実際に効果があるのか)どうかという点です。
あるセミナーに出ていたところ、その講師の方は、「いくらここでわかった気になっても(“気づいた”と言っても)、実際に学んだことが活かされ、自分や生活が変わらなければ、それは学んだ(真に理解した)ことにはならない」とおっしゃっていました。
確かに、多くの人は、学びが単に知的好奇心を満足するためだけに終わり、最初はワクワクして学んでいても、講座とか学びの期間が終れば元に戻り、何事もなかったかのように、これまで同様の平常運転の自分と生活になってしまうことは結構あると思います。
セッションや相談においても、その時はとてもよかった、癒された、感動したとなっても、しばらく経つと、セッション時の感動はどこかに消え、これもまた特に変化のない日々に戻ることがあります。
では、何かが変わらなくては、本当に、その学びは効果がないと言えるのか? 受けた価値はないものなのか?と言えば、必ずしもそうではないと考えます。
自分の生活が、いい意味で激変するかのような教え(学び)はなかなかないのが普通ですし、たとえ、そういうものに出会えたとしても、自分(受ける側)にとっての相性というものもあります。
講師の伝える内容や方法ではなく、それを自分がどう受け取り、実践するのかのほうが、最終的には、自分の現実に効果を及ぼすかどうかが決定されると言えましょう。(講師からの強烈な洗脳などの場合は別ですが)
ただ、学びが現実に活かせない問題としては、与える側と受け取る側の双方にあると言えます。
まず、与える側の問題として、それが、文字通り、現実的な内容ではないということがあります。もっと言えば、具体策がないことであり、話は面白く、わかるにしても、どうすればよいのか?という具体案が抽象的であるわけです。
しかし、受け取る側としても、そもそも学ぶ内容が、あり方的や方向性を示すもので、具体的方法を講義するものではないと理解していれば(そのように教える側も伝えているのなら)、問題は起きないわけで、この場合は、受け取る側の想定違いということが考えられます。
これと同様に、あくまで知識を入れるためとして、現実や自分を今すぐ変えるための方法を仕入れに来たわけではないと思っていれば(つまり知的好奇心を満たすのが目的と割り切っていれば)、どの講座・セミナーにおいても、受ける側には有意義な時間となります。(とはいえ、知的好奇心を満たさないレベルの内容だと、そうではなくなりますが)
それから、教える側、与える側は、本気で変わってもらいたいと思って、いろいろと具体策まで講じているのに、受け取る側、学が側が本気ではなく、依存的な態度で、「変えてもらう」「学べば自動的に変わる」みたいな(受動的な)思いと態度でいれば、やはり効果が現実には起こりにくいのは必然と言えます。
自分と向き合おうとせず、知識ばかりを入れようとして、結局、その場しのぎで終わる人もあり、それはセミナーをたくさん受けたり、同じ技術の次のステップの講座を受けたりしても、堂々巡りを繰り返しているだけになります。
さらに、目的と学ぶ内容が、そもそもずれている人もいます。
集客したいのに、人を癒す技術を学んでばかりいても、非効率といえますし、健康になりたいのに、お金の知識とか投資のことを学んでいても、それは目的が違うことになります。(健康になるには、お金で健康を買う必要があると考えている人は、それでよいのですが)
また、私自身が思うのは、物質的観点から離れた、学びの効果も考えるとよいということです。
なんだかんだ言っても、学びの実際的効果といえば、現実や自分が変わることではありますが、その変わる内容が、結局、物質的観点によるモノや人の多寡(多いか少ないか)によること、あるいは精神的なことでも、結局、一般常識的な幸せ価値観による幸福感に満たされることなので、それもモノのあるなしに左右されていることが結構あるわけです。
平たく言えば、お金持ちになるとか、余裕のある生活ができるとか、コツコツ働かなくて済むとか、好きなことをして暮らせるとか、まあ、そんな手合いの内容です。
それは現実的に皆が望むのは、人として当然なところがありますし、何も悪くはないと思いますが、一方では、人はモノだけではなく、心や精神、霊性・スピリチュアリティの部分を持つ存在です。
現実的には、生活は何も変わっていないように見えても、学びによって、目に見えない領域には何かが蓄えられたり、今まで開いていなかった扉が開き始めたり、どうしてもとこだわっていたものがなくなってきたりと、内的な変化が起こっていることがあります。
もしかすると、その変化の詳細は、自分が亡くなってからでないと真にはわからないのかもしれませんが、それでも、ひとつひとつ、確実に、見えないところで変化が起こっていると考えられます。
それ(見えない領域での変化や成長)に気づいていくこと自体が本当の目的として、色々な現実における学習・学びをしているのかもしれないのです。(もちろん、実際での目的のために学んでいるのですが、その裏にある魂の目的のようなものもあるということです)
そして、ひとつ(の学び)が終わったからと言って、現実が急に変わるという見方をするのではなく、少しずつ蓄積されたものが、いつか花開くという観点になれば、どの学びも過程になり、やがてそれがリミットに達した時、満杯になった時にあふれ出して、本当の(実際の)効果として現れることもあるはずです。
自我意識としては、地上(現実)の幸福を求めて各種の学びを自己の意思、自分の選択で行っていると思っていますが、もう一方では、天・高次・神性・魂的な意味での幸福を求めて、その観点によっての(学びの)選択が、天上的示唆によって行われている(つまりは天の配剤のようなもの)とも考えられます。
天上的選択による学びでは、地上の幸福を表させないこともありえると思います。
このことは、マルセイユタロットでは、「恋人」と「神の家」で示されることでもあります。
ということで、言いたいこのひとつは、地上目線だけで、「実際に効果のない学びをしても仕方ない」「学んでも、現実が変わらなければ意味がない」と断じても、それは、あくまで地上的見方に過ぎず、違う(天の)観点では、大きな変化になっていることもあるのだという話です。
ただ、現実・地上目線では、確かに、効果のあるなし、効率・非効率はありますので、私たちが人間であるならば、その点も無視できないのは確かです。
失敗と成功
さて、今日の記事タイトルは、「失敗と成功」です。
ところで、皆さんは、成功したことがありますか? そして、失敗したことはありますか?
おそらく、多くの人は、失敗したことはたくさんあるけど、成功したことは・・・はて?どれだったかな?・・・
みたいな感じになるのではないでしょうか。国民性の違いはわかりませんが、成功したことを人にいいふらすのは、はしたないと思う、日本人の謙虚な姿勢も、もしかすると、そのように思ってしまう要因かもしれません。
ともあれ、失敗はよく覚えていたり、失敗したことは多々あったと思ったりするのに、成功という言葉に対しては、否定感が出たり、空白のようになってしまったりするのは、(あなたの中の)成功と失敗というものが、イコールの関係(質)ではないことを示しています。
平たく言えば、成功のほうがとても大きくイメージされているのです。もっと言うと、成功のほうが重たい、重要、難しいという思い(込み)です。
同時に、失敗というものは、小さく思われているというより、避けるべきもの、してはいけないものという禁止的なイメージになっており、従って、逆説的ですが、失敗という言葉のほうが、日常的に自分の意識に上ってくる(いつも意識してしまっている)のです。
つまり、「成功」は一握りの、まさに成功者が成し遂げたことという感じなのに対し、「失敗」は、こんな普通の私でも日常的にしてしまうもの、というイメージになっているのです。
これでは、失敗のほうが先に来てしまうか、失敗といつも友達で、失敗することが前提みたいになってしまいます。(本当は避けたいと思っているのに、失敗の意識がいつもつきまとっているので、失敗を選んでしまうようなもの)
極端なことを言えば、成功は難しい、成功してはいけないんだ、みたいな刷り込みになるわけです。
ところで、「成功」ということを象徴するタロットカードはたくさんありますが、一般的に見て、「戦車」があげられるかもしれません。マルセイユタロットにおいても同様です。
マルセイユタロット、あるいはほかのカードでも、「戦車」は「7」の数を持っています。7といえば、あらゆる面で調和や、ひとまとまりのセットとなる数でもあります。
タロットと数を象徴とする時、数は単なる番号ではなく、その数固有の性質を持つと同時に、タロットの数と順序にも関係してきます。
当然ですが、7の数に至るまでには、6の数・段階があるということで、タロットでは、それぞれの段階の象徴性を、絵で示しているわけです。
ここで言いたいのは、成功にも、大きな成功もあれば、小さな成功もあり、大きな成功の前には小さな成功の積み重ねと段階を経てきているということです。
言われれば当たり前のことであって、目新しい話でもないのですが、先ほどの「失敗」の話と比べると、意外に盲点になるところなのです。
失敗は、日常的に思うので、小さな失敗も大きな失敗も、記憶に残りやすいですし、そもそも失敗というものを、その細かな失敗も含めて、拾い上げやすいわけです。
しかし、成功は「大きいもの」「成し遂げるもの」という、巨大イメージなので、日常的に発見したり、それが成功だと意識することができにくいのです。
また人の成功は認識しやすくても、自分の成功はわかりにくいということもあります。(反対に、失敗は、自分のも他人のもわかりやすく、指摘しやすいのです)
これでは、成功がかわいそうです。(笑) もっと失敗並に、成功も拾い上げてみませんか?
ほんの小さなことも「成功」という名前を与えてあげるのです。また、できないこと(失敗)を拾い上げるのではなく、できたことを「成功」として、意識化することです。
「できた」というより、「なになにすることに成功した」と言い換えることもいいかもしれません。
あの人に仕事でメールできた(当たり前だけど、それも成功)、今日、スーパーで、安売りしていたものをゲットできた(小市民的だけど、それも成功)という具合です。(笑)
せめて、失敗の認識と同じくらい、成功も認識してあげると、成功は喜び、あなたを本当の、もっと大きな成功に導いてくれるでしょう。
サクセスの語源ともいえる、次へ導いていく、受け継いでいく(ちょうど、道が伸びてつくられていくかのように、できた道の向こうにまた続けて道ができることで、到達していくという印象)のと同じで、ひとつひとつの小さな成功(感)が、大きな成功へと続いていくのです。
タロットの「戦車」も、その自信は、1の「手品師」から6の「恋人」を通って、小さな成功(勝利)を受け継いできたから出ているのです。
もちろん、成功には失敗はつきものです。失敗を避けようとしたり、ネガティブに思い過ぎたりしないようするのも大事で、よく言われるように、失敗は成功のもとです。
そして、失敗も成功も、ただの言葉であることを意識すると、それはあなたが決めること、決めていることでもあるのです。
成功の多い人生にするか、失敗だと思う人生にするかは、あなた次第であり、見方の違い、言葉のあてはめ方の違いでもあるのです。
究極的には、失敗も成功もありません。人がどう思おうと、あなたが成功だと認定すれば、それは成功となりうるのです。
成功ともっと仲良くなってみましょう。
時には愚者になってみる
マルセイユタロットでも、ほかのタロットでも、「愚者」というカードがあります。
このカードは、基本、数をもっていませんので、ある意味、すべてのカードの代表と考えることができ、また、どのカードにも変化(へんげ)できる特殊なカードとも言えます。
通常、ほかの大アルカナカードで数を示す部分は、「愚者」では空白であり、擬人的にたとえれば、「愚者」自らによって数を書き込んだり、書き換えたりすることができるかもしれないわけです。(笑)
トランプにも、ジョーカーという存在(カード)がいて、ゲーム上、たいてい、オールマイティーな力が付与されています。諸説ありますが、トランプのジョーカーとタロットの「愚者」は同じものと見ることができます。
ここで、私たちの人生も、自分(今の自覚意識を持っている自分)という人間で、ある人生ゲームを行っていると考えてみましょう。
そうすると、タロット的、あるいはトランプ的には、自分に今回(の人生で)配られた持ち札が自分の個性とか能力とかになり、それは(ゲーム)シーンによっては、長所にもなりますし、欠点にもなります。
カードゲームでは、いわゆる「切り札」と呼ばれる、とっておきのカード、つまりは得点力や効果の高いカードがあります。
トランプもタロットも「絵札」が強く、そしてジョーカー、「愚者」も切り札になり得ます。(そもそも「トランプ」という名前自体が「切り札」を指し、日本ではプレイングカードが、トランプという言葉になってしまった経緯があります)
自分にはトランプ(切り札)が配られていないと思う人がいるかもしれませんが、タロット的に考えるならば、枚数の確率的に見て、配られていると見るほうがいいでしょう。
と言うのは、タロットの絵札は、全78枚のうち、42枚(数札エースも入れると)もあるからです。これを半分くらいの確率しかないととらえるか、半分以上もあると見るかですが・・・ただ、私が思うに、人生においての切り札として、全員に「愚者」は配られているのではないかということです。(もしかすると、一定の絵札は、種類は違っても、全員配られるというルールのゲームかもしれません)
ですから、「愚者」としての切り札は必ず、誰でも持っていると見るのが妥当に思います。
先述したよにうに、トランプではジョーカーに当たる「愚者」なのですから、「愚者」はオールマイティーな力を持ちます。
ただ、実際に、人生においての「愚者」(の力)とは何か? です。
これに気づくと、「愚者」を、本当に人生の切り札にすることができるのではないかと思います。
ここで私が回答を述べたとしても、あくまで私のひとつの意見・考え方に過ぎませんから、それはあまり意味をなしません。「愚者」はオールマイティーであるだけに、一人ひとりにとってもオールマイティーであり、つまりは、その人自身の力の現れがあるのです。
しかし、タロット、特にマルセイユタロットにふれた(学んだ)人は、「愚者」の力について、思いを馳せるとよいでしょう。
対比的に言いますと、あること(わからないこと)を浮かび上がせるには、逆のものや違うもの、知っているものを思い浮かべるとよいです。マルセイユタロットを学んでいるのなら、それができるはずだからです。
「愚者」とは別の大アルカナ(や絵札など切り札と呼ばれるカード)を想像することで、「愚者」の力が何なのか、見えてくるということです。
ところで、話が変わるようで、実はつながっているのですが、タロットリーディングにおいて、この前の記事ではありませんが、先生についてタロットを習っている人には、その先生から教えられる方法・考え方で、読もう(リーディングしよう)とすると思います。
それは人に習っているからこその当然の行為で、初期のうち、特に基礎を固めていく時には、王道ともいえる方法であり、技術向上の道としてはよいかと思います。
しかし、ある程度自分でできるようになってきた時、また、プロとして不特定多数の人に実践していく時、それら(先生から伝えられるセオリーのようなもの)を守り続けていると、かえってうまくできなくなってくることがあります。
守破離という言葉もあるように、何事も、自分のものにしていくには、過程としても最後にしても、いつか型を破り、それまでのものから離れることが求められます。
その時、必要なのが、「愚者」の力です。いや、実は初期の段階からでも、常に「愚者」は寄り添っており、いつでも自由と解放の旅に出られるように準備をしています。
いろいろと小難しいことや理屈を考えていても、始まらない時があります。また、読めないことを理屈づけ(理由づけ)する(つまるところ、それは弁解)という奇妙なことも起きます。
たまには、パターンやセオリー、先生の言われることなどふっとばして(笑)、自由な読み、自分の直感からわき起こる読みをしてみるのもよいです。これは反骨とか、抵抗でするのではなく、我(自我)も外(他人)も忘れるかのように、何も気にせず、その場を楽しんだり、ダンスしたりするかのような気持ちです。一言で言いますと、“守らない読み方”です。
私も、最近、このような「愚者」が舞い降りてきたことがありました。
それは、ふと、自分以外のタロット講師とか、マルセイユタロット以外の講義とか、どんなものだろうかと思い、動画で上がっているものをいろいろと視聴してみたのです。
すると、自分、あるいはマルセイユタロットとのあまりの違いに驚愕したのでした。ああ、世間ではこんな風にタロットを扱い、教えているんだと・・・ただ、同じ系統のマルセイユタロット講師は、似たようなところはありましたが。
最初は自分の中で批評したり、この教え方はどうなんだ?みたいに思ったりしたのですが、段々そうしている自分自身がばからしくなってきて、逆にタロットの世界の面白さに笑えてくるようになりました。
タロットには、まさにいろいろな世界、ゲームがあるということで、そこに「愚者」の存在が感じられました。
「どうだ? お前のやっているタロットとは違う世界だろ?、これもタロットなんだぜ?これも楽しいもんだぜ」みたいな感じです。(笑)
これは、人生のどのシーンでも実は言えることです。
難しく考えすぎたり、理屈が通っていないと動けないと思ったり、正しいものが見つからないと信用できないと考えたりしていると、「人生」というゲームを楽しめず、切り札も温存したまま、ゲームが終わってしまうことがあります。
もちろん、「正義」や「斎王」、「隠者」や「皇帝」などのカード(手札)もありますので、正しさを見極めたり、勉強したり、現実や常識を重んじたりすることも人生には必要です。
しかし、それらを超えるオールマイティーなカードとして、「愚者」があることを忘れないようにしていると、(人生)ゲームにおいて一発逆転もあり得ます。
そして、もしかすると、私たち一人ひとりの人生も、「愚者」の見ている夢なのかもしれません。まあ、それはそれで、面白いところもあり、そう考える場合は、マルセイユタロットに流れる根幹的な思想にふれてくることになるでしょう。
先生・師を持つか、持たないか。
前回の続きの記事ですが、厳密には同じテーマではありません。
前回は、いわゆる創始者とか発明者の立場・タイプと、それを受け継ぎ、一般に広める立場の人たちとの間では、発想も行動もタイプも違ってくるので、教え・教えられる関係性においても、そのことが考慮されるという話でした。
今日は、学び・教えの中で、先生や師のような人を持ったほうがいいのか、あるいは独学で学んで行ったり、技術を身につけて行ったりするのがいいのかということを、特にタロットの学習においてということで、取り上げたいと思います。
まず、ここにも、前回のテーマで語ったタイプ的な違い、立場的な違いによって言えることがあります。
従来のタロットや、すでに一般に売られていたり、流布したりしているタロットではなく、自分で創作するタロットを使って活動したいという人は、当たり前ですが、自分がオリジナルになるので、そもそも誰も学ぶ人がいません。いきなり自分が創始者・創造者になるわけで、つまりは最初から生徒ではなく、先生になる運命です。(笑)
ですが、こういう人でも、タロットのタの字も知らない段階では、創作しようにも、タロットカードというシステム(タロットカードという概念そのもの)の発想が知識としてもありませんので、タロットに接する機会は必要てす。言ってみれば、タロットは何か、どんなものかを知る機会です。
それが、ある先生から(知る)という場合もあれば、書籍やネットから知るということもあるでしょう。しかし、このようなタイプの人は、一時的に先生はいても、あくまで自分の発想のための刺激やきっかけに過ぎず、師という感じは持ちにくいでしょう。
従って、創造者タイプの人には先生や師は必要ないと言っても過言ではないですし、下手に自分の主義主張を押し付ける先生に当たれば、むしろ自分の良さを打ち消される弊害さえあるかもしれず、基本、独学の立場でよいのではないかと考えられます。
一方、これは言うまでもないことでしょうが、最初からきちんと順を踏んで教わりたい、その道(すでにあるタロット)の専門家に詳しく教えてもらいたいという人は、やはり、先生・師を持ったほうが学びやすいでしょう。
また、独学でやってきたものの、壁に当たってなかなか越えられなかったり、やればやるほど混沌としてきたりした人も、初心に戻り、基礎から専門の人に学び直すのも手です。
結局、自分だけではわからないところがあるから、壁にもなっているわけで、質問・疑問に答えてもらい、客観的目線で指導してもらえる人が必要となってきます。
次に、タロットの使う目的による観点です。
タロットを趣味や手軽な遊び的目的で使うだけなら、別に先生もいらないでしょう。カルチャーセンター程度の先生から学んでもいいですが、特に師事するとか、本格的に先生ついて教わっていくというのも、目的が異なりますから、先生を持つのはお金と時間の無駄になることもあります。
逆に、タロットを象徴ツールとして、深く学んでいきたい、自分や他者にタロットリーディングなどを行い、問題解決や人生のサポートをしたいという目的の場合は、やはり先生・師を持って学んだほうがいいかと思います。
また、タロットを通じて霊的成長を求める人、西洋魔法的な道に入る人は、最初は人間の師匠を持って、次には自分の高次の(人の次元とは異なる)師匠が現れると言います。
ただ、場合によっては、占い師で実践活動・営業活動したいという人は、必ずしも、タロットの先生を持つことがいいとは限りません。それは当てる才能や直感性が、教えられる類のものではないからです。(トレーニング方法はありますが)
これはカードとともに、自分の直感性・才能を磨いたほうがよく、それは人から教えられるより、自分のやり方のほうが合っていることもあるのです。
そして何よりも、基本がわかれば、実践をどんどんしていく中で、占い師としての蓄積と成果を上げて行くことで、自分の独自性・ウリが確立されるようになります。
先生の二番煎じとか、マネでは、その世界では売れないわけで、つまりは、強烈な個性、オリジナリティが求められ、それは前の記事のテーマでいう、「創始者・創造者」タイプに近くなってくるのです。
だから、先生に学んだとしても、こういう場での活躍を期待する人は、早く先生から離れたほうがいいこともあるのです。
しかしながら、カウンセリング的な方法で、特に心理分野にフォーカスしてタロットを使って相談する場合は、占い世界とはまた別になってきますので、こちらはカウンセラーへのスーパーバイザーが必要なように、先生から指導してもらえる環境があったほうが、自分を中立に見たり、また相談者として成長していくことの指針を与えてもらったりできます。
それから、将来的にタロットを教えたいという目的を持つ場合、これもいろいろと意見はあるとは思いますが、個人的には、先生・師がいたほうがいいと思っています。
その最大の理由は、先生としてのモデルがあるからということです。最悪、自分の学んだ先生に問題があったとしても、反面教師という言葉があるように、自分が教える立場になった時には、それを改善してよくすることもできます。
教えること、伝えることというのは、前にも書いたことがありますが、マルセイユタロットで言えば、「法皇」にあたるもので、タロットを読むのが「斎王」だとすれば、それぞれのカードが違うように、そのふたつには技術的にも精神的にも違いがあるのです。
いくら自分がタロットリーダーとしてよく読めるとか、実践経験を踏んできたと言っても、教える側、伝える側に回った時は、また別種のものが必要なことを痛感します。
そういう時、先生から教わってきたことを思い出し、先生はあのように教えていた、あのように指導していたと、モデリングすることによって、自分の教える道・方法を自ら作っていけるようになります。また先生によっては、教えることを教えてもらえる場合もあります。
アニメや実写化もされた競技かるたの漫画のシーンで、師匠のいない天才的な競技者を見て、ある先生が「師を持たない者は、誰の師にもなれない」とつぶやくものがあったのですが、先生・師のいない人、モデルのない人とは、まさにこれだと言えましょう。
天才型の人は、前の記事でも述べたように、独自のものを創設する力に満ちていますが、反面、それを伝えていくというのは苦手なところもありますし、破滅型として、無茶や特殊なことをやって終わってしまうこともあります。
しかし、こういう人においても、師があれば(いれば)、それなりにモデルや伝え方の方法がわかり、何とか、次代の人に継続して行ってもらえる可能性や、すばらしい弟子たちを作り上げる期待もでき、さらには、師から戒めとか愛を送られて、破滅から救われることもあるでしょう。
それから、先生が複数いるのがいいのか、一人の人のほうがいいのかですが、これもどちらがいいかは、一概には言えないと思います。
タロットにおいて考えると、知識(技術の知識も含む)を入れることをメインにすると、複数の先生でもいいと言いますか、そうなることが多いかと思います。
例えば、マルセイユタロットを知識的に探究したい、あらゆることを知りたいとなれば、Aさんというマルセイユタロットの講師から学び、Bというマルセイユタロットを教えている学校の先生から学び・・・ということも考えられます。
一人の先生だけではどうしても視野やパターンが同じになりますし、先生それぞれが独自の研究もされていて、発見や解釈もまた異なるものがあり、生徒としての立場からすれば、いろいろな方から学ぶことがで、知識として、より広くしていくことができます。
けれども、逆に言えば、統一的、段階的に学ぶことができず、バラバラな感じで散漫な状態にもなる危険性があり、知識はついたものの、実際には使えないとか、本質的には何もわかっていない状態となることもあります。
また先生によっては、他所で学ぶことを嫌がる人もいます。(それは感情的・ビジネス的なことで言っている人もいますが、論理的に統一性が取れないとを危惧している場合もあるでしょう)
その道の専門家で、しっかりとした先生であれば、その人のもとだけで学んでいても、十分なものは得られると思います。むしろ、混乱せずに済んで、ぶれなく学べ、よいこともあります。
ただ、あまりに先生・師を尊重し過ぎて、もはや崇拝の状態、心酔しきってしまうようでは、「悪魔」のカードでたとえられるような、依存や囚われの身と言えますから、それは危険でもあります。
「先生のおっしゃることはすべて正しい」「先生の言うことは絶対服従」「先生の指示・命令は必ず聞かなくてはならない」・・・みたいな状態です。
「そんなことには私はならない」と思っていても、意外に気が付かないまま、尊敬が崇拝になっていることがあるので、時に冷静に自分を振り返ってみることです。
先生から嫌われたくない(普通の感情以上に思う場合)、先生のグループから排除されるのは怖い・・・という感情が出てきている時は、すでに崇拝や依存の世界に入っていると見てください。(これは心理的には、先生を親やパートナーとして扱っている構造が隠されていることがあります、しかし段階的には、必ずしもそれも悪いわけではありません)
反対に、先生側がやたらと、これをしろ、あれをしろとか命令・強制してきたり、特に金銭的なものやセクシャル的なものを要求してくるような場合は、注意する必要があり、離れたほうがよいでしょう。
一言でいえば、先生・師に愛があるか、であり、支配や強制ではなく、成長や自由のためを思って生徒さんに接しているかになります。しかし、盲目の愛や、甘い言葉、慰め、耳によい言葉(だけ)ではなく、愛にも表裏の表現方法があり、自分にとって時には痛いことや、厳しさで表されることもあるのです。
そこに愛があるかは、受ける側の神性・魂なら判断できることで、間違いやすいのは、感情・心で判断し、結局、心地よいか悪いかで愛を見てしまうことに曲解のおそれがあります。
まあ、先生も人間ですので、感情もあれば、論理もあり、いい面・悪い面は必ずあるものです。そいうバランス性を大切にして、見ておくことでしょう。
それはともかく、普通はやはり、先生や師がいたほうがよく、反対に、早くから独立心があり、オリジナリティが問われる競争フィールドで活躍したいという人は、独学もよい場合があるということです。
マルセイユタロットの絵柄と象徴性で見ても、人の成長のルートとして、「法皇」や「隠者」が待ち構えていますので、先生・師を持つことの意味は、大きなものがあると考えられるのです。
教え。最初の人と、それを受け継ぐ人
何かの技術や知識を身につけるのには、先生や師と呼ばれる人に教わるか、独学で学ぶかということになります。
しかし、最初は独学でやっていても、本格的に習得したいとなれば、普通は、やはり教室や学校などに通うか、伝手を頼って、その専門家など、教えられる人を紹介してもらうかでしょう。
ただ最近では、オンラインでの学びも多くあり、将来的には、AIとか、人ではないものが教師になることもありそうです。
そうした人間ではないものの先生は別として、ある技術を教える人(先生・教師・師と言われる人)は、まじめといいますか、その技術に熱心に打ち込んできた人や、努力型みたいな人のイメージがあります。
反対に、その技術で現役の人や、スーパーな実践力を持つ人は、先生というより、天才型の偉人みたいな感じで、日常の生活、行動ぶりも、時に奇行的なエピソードなどがありそうです。それでも、そういう人は、その分野で特段の優れた技術を持ちますので、周囲の人が放っておかず、乞われて教えることもします。
まあ、言ってみれば、教える人にも、努力型や秀才型みたいな人と、まさに天才型、才能型の人がいるというわけです。
またその教え方も、きっちり系統立てて、あるいは論理立てて、基礎からじっくり積みあげさせていくタイプと、行き当たりばったり、自分の感性や直感に任せて教えていくタイプの人がいます。
もちろん、両方を兼ね備えた人もいるでしょうが、結構、どの分野にしろ、タイプ的にはどちらかに分けられる気がします。
そして、ここが不思議と言えば不思議で(よく考えると当然のことですが)、意外に実態なのが、最初の開祖の人、その技術を世に知らしめた人、それを創作した人は、概して天才型であるということです。(ただし、その技術を高めるためにはすごい努力をするので、努力型のところもありますが)
創作(創造)するということは、アイデアの力、想像力と創造力が必要であり、それは、従来の決まりきったパターンや思考・習慣・規則の中にいては、思いつかない類のものです。
言ってみれば、既成概念を打ち破る、革命的・破壊的なものを持っていないと、新しいものは生まれにくいわけです。何かの創造者(発明者)に、奇人変人が多いのもこうした理由からだと思います。
従って、初代・宗家・世にそれを生み出した人は、天才的で破天荒なイメージの人が多いのだと推測されます。
しかし、その思いついた技術や知識がいくらすごいものであっても、それを受け継ぐ人がいないと、一般には広がりません。そして、それが人々を救ったり、豊かにしてくれたりするものであれば、なおさら、多くの人に理解と習得ができなくてはなりません。
ほかの人にもわかりやすくするため、シンプルさも求めれるかもしれませんし、テキストやテンプレート・型のような、普遍的に伝えられるもの(手段)が必要な場合もあるでしょう。
そこで、二代目とか、継承する弟子筋の人などが、改善し、そうした普遍化を図っていくことになるわけです。
しかし、ここで初代の創造者のものとは、必ず違う置き換えや変換が起こってきます。
それは、専門的で直感的とも言えた初代のもの(産物)に対して、今度は、多くの人に習得してもらうためには、一般的で論理的になる(言語化される)必要があるのと、学んだ側の人にとっては、師その人とは個人としての人間が違いますから、それぞれ別の世界観によって受け継がれるからです。
また、教えるために組織化されていくと、様々な維持のための現実的なしがらみやルール、お金のこともからんでくるようになります。
さらには多くの人が集まると、人間の感情的な部分も出てきますし、何より、それぞれの正義(どれが正しい、どれが正当なものなのか)というような争いも現れてくるようになります。
こうして、教えられる内容は、その意思や形も変えながら、様々な流派も生み出し、時に争い、時に協力しあいながら、次代に伝わっていきます。(消滅していくものもあります)
すると、本当のところは、どの先生に教えてもらったところで、真には伝わらないものであり、結局、初代・オリジナルから、人を介した分だけ、変わってきているところがあるわけで、最初の創造者がこの世にはいなくなっていると、もうどうしようもないということになります。ましてや、文書や言葉だけで伝えられているものには、かなり、最初のものからかけ離れているところも、特に精神的にはありそうです。
それでも、「魂を伝える」「その心は伝える」みたいな言い方が、特に日本ではされるように、形がたとえ変わってはいても、目に見えないデータ・教え・エッセンスというものが、受け継がれていく何かがあるのかもしれません。
これは民俗学でも「ムラの精神」などと言われ、時代が変わっても、その地域に連綿として受け継がれている何か、ムラ(村)全体の意思のようなものかあると考えられていました。
技術継承においても、霊統とか、縁による出会いとか言わるように、形だけではない、目に見えない重要な働きがあると言えそうです。
話を戻しますが、初代(創造者)からそれを受け継ぐ側の者に回る人は、それはそれで役割があり、社会に伝わりやすいように調整したり、パターン化したり、テキストを作成したりしていくわけで、そうした人は、むしろ天才型よりも、努力型とか秀才型の人のほうが向いているでしょう。
そして、受け継がれていく中でも、中だるみや、あまりにパターン化してしまって、その最初の精神性・創造性ともいうべき力が衰えた時、中興の祖のような、これまた天才型の人物が現れ、初代を彷彿させるかのように、それまでのものを使いながらも、斬新な改変・創造も行われ、まるで新しい技術が生まれたかのように、フレッシュさを伴って出てくることがあります。これも、そうした人でないと、再興できないという、役割的なものだと見ることができます。
ですから、私たちも、誰かに何かを教わったとしても、もともとの性格とか気質と、その時々の役割などが相まって、それをぶち壊すかのように、オリジナル風にしてしまう人もいれば、その技術をきちんとまじめに、次の世代や多くの人に伝えていくという役割で、コツコツ取り組む人もいると考えれば、自分のタイプに応じて、今度、自らが先生や師となる時に、立ち位置や取るべき方法などが、客観的にわかります。
スポーツの分野では顕著ですが、現役時代の天才プレーヤーが、必ずしも名コーチ・名指導者にはならず、逆に普通の選手とか、特に現役の時に有名だったり、世界で活躍したりする人でないほうが、教えるのがうまいこともあります。
それは天才や直感型の人は、自分がなぜそれができてしまうのか、どういう具合でそれをやっているのか、人に説明できないからです。説明できなければ、教わるほうも難しいのは当然です。
ということで、天才型の人は、ちょっとだけ教えてもらったとしても、先生を言うことを聞かなかったり、あっという間に師を超えたりして、独自の道を歩むことがあるわけです。むしろ、最初から独学で、誰にも教わらないほうがうまく行く場合もあるかもしれません。
さて今回は、教え・教わることをテーマに、創造者タイプと、それを継承していくタイプとの違いや役割を見たわけですが、今度は、先生や師をもったほうがいいのか、あるいはたくさんの先生を同時にもったほうがいいのか、または独学でもよいのかなど、特にタロットを学ぶことを中心に見ていきたいと思います
続きは次の記事で。
