カードからの気づき
運命が決められているという考え
人間の人生(一生)の仕組みを知ろうと努めていくと、やがて陥ってくるのが虚無感のような、ニヒリストのような、空しさ、投げやりな気持ちかもしれません。
人は物心がついてきますと、自分というものを強く認識するようになります。
幼く、まだ未熟な状態では、せいぜい母親とか父親、兄弟、家族、自分に関わる周囲の人たちとの区別がぼんやりつくくらいだったものが、学校へ行き出し、多くの他人と接する世界に放り込まれると、自我(自分を意識する心)の成長(発達)とともに、その分、他人との違いも意識されるようになります。
すると、「どうも人はまったく同じではない」「不平等な存在(一人一人違うもの)だ」ということが、現実的にわかってきます。
すごく運動神経がいい子もいれば、頭がよくて勉強のできる子がいる、お金持ちの裕福な家庭に育っている子もあれば、とても貧しい家の子もいる・・・すでに学校時代から様々な違い、もっといえば不公平感を味わうわけです。
だからこそ、逆に学校の先生たちの言葉や、理想的な教育論では、「人間誰しも平等」ということを強調します。
そして、さらに成長していくと、学校から社会に出ます。
そこでは、さらに過酷な不平等感を経験しますが、成熟していくことで、平等の意味合いも変わり、権利の平等性と生得的な区別(差異)との理解も増し、きちんと両者を分けて考えることができるようになります。(残念ながら、この区別が、まだついていない大人たちもいますが)
ここまでは、常識的な範囲内での「差異」とか「平等」への意識(への成長)なのですが、もっと人間について見ていこうとすると、目に見えない領域や、魂のことまで考えるようになってきます。
そこで、正しいかどうかは別としても、輪廻転生(それに付随するカルマ)のことや、前世や未来世、つまり一代限りの「自己」を超えたものを意識するようになるケースがあります。
こうして、現実的な意味での人間の一生を、通常の時空感覚(の意味)からだけではなく、超時空的な長期的・全体的視野を入れるようになりますと、果たして、人の平等性や違いというものは、本当はどういう仕組みや規則で決められているのか、わからなくなってきます。
そこで、卑近な例でいえば、人の運命とか生まれ持った気質などを(占い、その他の理論から)学ぼうとする人もいるわけで、そこから見れば、やはり人は生まれながらにして平等ではなく、あらかじめ決められた個性をもって生まれてきており、しかもそれを背負いながら一生を過ごしていくということを知ります。(何度も言いますが、それが正しいかどうかはわかりませんが)
人の生まれながらの性質を知れば(それがわかる技法を身につければ)、最初のうちは興奮し、まるで自分と他人の人生(一生)や、成功(人生における幸せ)のポイントがわかったかのようになって、勝利宣言をするような自信を持つ人も現れます。また、実際に、そういうコツをつかみ、その人の思う、よい人生をつかんでいく人もいるかもしれません。
しかし、さらに学びと実践を繰り返していくと、どうも、理論だけでは済まない(収まらない)事象、さらには運命とかカルマの問題だけでは理解できない部分も出てきます。
あるいは、逆に、人の一生は、最初から決められており、その運命(宿命)からは逃れることはできないと悟ってくることもあります。
ここでいう、「運命から逃れられない」というのは、自由意志と、ある程度の選択範囲を持ちつつも、大きな枠のような流れ(方向性・目的)には逆らえないということを意味しています。もっと別の言い方をすれば、今生で決めた大目的をはずれた選択はできないということです。
マルセイユタロットでこのことを考えた場合、「運命の輪」の輪から逃れられないのが普通であると言ってもよいでしょう。
「運命の輪」は数の上では10であり、この10には数秘的には12に至る前の、現実の構成の完成という象徴性があり、平たく言えば、現実からの支配は10の中にあると表現されるものです。
これをネガティブにとらえれば、結局、人は決められた運命の中でしか過ごすことができない、それがひとりの人間の人生だとなります。
※(ただし、決められた中でなら、選択の自由性・平等性・多様性はあります)
この認識に至ると、一番最初に記したように、空しさも現れてくるわけです。「どうせ、人生は決められているのよね」と。
私もこの罠にはまりました。グノーシスを探求している者にとっても、陥りやすい罠です。
この罠から今もって完全に脱出しているとは言い難いですが、けれども、これは罠でありつつ、実は恩恵でもあるのだと気がついてきました。
マルセイユタロットでは、幸いにして、10「運命の輪」の次にも、まだまだカードが番号的に続きを示しています。大アルカナで言っても、やっと半分なのです。
ということは、先(進化・さらなる認識のレベル)はあると言えます。
つまり、運命の支配を超える道があるわけです。それはまさに完全なる自由への道と言っていいでしょう。
これが一代の人生で達成できるのか難しいかもしれませんが、少なくとも、運命や決められたことだけではない世界があるのは希望でもあります。
しかし厳しい言い方をすれば、そういう世界観は現実離れしているものであり、さきほど述べたように現実を象徴する「10」を超えてしまうと、それは遊離、非現実、形のない精神や霊の世界に入ることとも考えられます。
それは現実的な意味で幸せといえるのか? 目指すべきものなのか?と問われれば、難しいところではあります。妄想と紙一重かもしれないのです。
ともあれ、人にとって(運命が)決められている(決めている)ということならば、その意味ではまさしく人は平等なのです。
しかし、決めたこと、決められている内容が一人一人違うと言えます。平等な中でも差異があり、それが個性となって表れ、さらには、「運命の輪」の中での自由選択と行動によって、(輪の中の)結果も違った人生になるでしょう。
それでも、輪の中を充実させることが、先に進む糧になるのだと考えることも、タロット的に可能なのです。ここでは詳しく言いませんが、私が得たタロットからの知見では、そう説明されるのです。
それを知った時、虚無感は少なくなり、今、この生きている人生が大事であることを、別の意味で悟ってきます。虚無感を受け入れながら、希望を見出す世界へと、さらに探求を進めていると言ったほうがいいでしょうか。
そして空しさは、自分の運命(が決められている)というものに対してではなく、自分一人だけの成功とか現世利益的享受の価値観のほうに対してになり、自身の中で、ある種のシフトが置きます。
なるほど、マルセイユタロットでは14の「節制」に向かうというモデルで、10を超えると示されているというのがよくわかります。
言いたいことは、たとえ運命が決められていても、また一見、それに支配されているようでいても、人は希望を持つことができるし、今の人生を生ききることには重要な意味と価値があるということです。
むしろそうしないと、逆に本当の悪い意味で、運命に支配されるようになってしまうのです。
そして、運命の「枷(かせ)」は、実は、大きな目的を果たすための仕掛けでもあると言えます。その気づきが自らの運命の枷(かせ)を、はずしていくことにもつながってくるでしょう。
承認欲求の扱い
今の時代は、簡単に自分から情報を発信できるようになり、自己アピールや、自分を他人に知ってもらうことも容易になりました。
しかし、その反面、発信したものの反響・反応がどうなるかも気になるようになり、他人から自分が認められているのか、注目されているのかどうかという感情が、多大に刺激される事態にもなって、いわゆる「承認欲求」に悩まされる人も多くなっています。
誰しも、人から認められたいという思いはあるものです。
けれども、それがあまりに過剰になったり、欲求として常に苛まされるようになったりすると問題になります。
では、現代のこの刺激的な環境において、どのように承認欲求をコントロールすればよいのでしょうか?
それについて、二・三、タロット的な示唆も含めて、書いてみたいと思います。
●刺激を遮断する
まず承認欲求において、もっともシンプルで、簡単な解決法・コントロール法は、欲求を刺激させるものから自分を切り離すということです。
SNSなど、登録は存続するにしても、できるだけ見ない、やらない、反応しないことです。
また、荒療治的には、一番自分を刺激していた媒体の登録を削除する(やめる)ことです。別にやめたからと言って、本当に生活に困るわけではないでしょう。
それを続けることで、心が悩まされることと、やめることで一時的な寂しさは味わっても、心が安定することとでは、どちらが差し引きして、よいのかという計算にもなります。案外、なくても(やっていなくても)困らないことに、あとで気がつきます。
コメントやいいね!などもの評価も必要以上にしないと決め、人の感情(人がどう思うのか)よりも、自分の感情(自分がしたい・したくない)を中心に行動します。または、極端な傾き(どちらかに徹底する方法)をあえて入れ、友人誰でも何でも必ず平等に反応するか、反対にまったくしないかという選択もあります。
承認欲求のこと以外でも、SNSなどは、結構、いろいろな偽情報が刺激として入ってきますので、昔のテレビ同様、洗脳道具と化しているところもあり、のめり込むのは危険とも考えられます。
まあ、個人をブロックするよりも、全部をブロックする感じで(笑)、つまりはやめること、見ないことが一番と言えます。
●ただ純粋に好きなことをする
素直に自分が好きだと思えることに、熱中することもよいです。
注意すべきは、その好きなことをやるプロセスと結果において、人との優劣や出来・不出来、モノの多寡、収穫のあるなしにこだわらないことです。
例えばタロットが好きならば、そのままタロットをやる(学ぶ・実践する)ということであり、他人のリーディングと自分とを比べて落ち込んだり、知識のあるなしで優劣の判断をしようとしたりしないことです。
ですから、何事もきっかけが、他人を見返そうとか、人よりも優れた特技・知識を得ようとか、そういう「比較」「突出」「差異」のためにするのではなく、ただ自分が好きだからやる、やるたいからやる、人とは関係ない・・・という状態で取り組めるものがよいことになります。
言い換えれば、純粋に自分の喜び(その喜びは、他人より優れているというものではないもの)のためにできることを行うわけです。
●霊性・スピリチュアリティの成長(発展)観点を持つ
これが今回、一番言いたいことでもあります。
タロット、特にマルセイユタロットの世界では、大アルカナの数の順番(大きくなっていく順番)が、そのまま人間の成長や完成の道筋を示しているという説があり、もはやこれは、タロット界ではよく知られているメジャーな考えになっているかもしれません。
この、タロットに描かれる「人間の成長」は、普通の成功とか、ひとかどの人間になるという意味もありますが、むしろ、もっと大きな概念・世界観から見た成長で、言わば「霊的な成長」を含むものであり、物質を超えた総合的・霊的な完成を目指すことが示されているのではないかと(個人的には)思います。
その証拠に、マルセイユタロットの大アルカナの絵柄を数の順に追って見ていけば、人間よりも、次第に天体や宇宙的なものが現れ、個性よりも没個性的、言い方を換えれば差異のない共通的・宇宙的・元型的人間像へと進化しているように見えるからです。
つまりは統合であり、より高次への思考や感性を持つ存在へと成長しているわけです。
ところで、心理学的にも、欲求を人間の成長とともに、段階的に分けている説があります。すでに古典的なものになっていますが、アブラハム・マズローの欲求段階説というものです。
これには批判も多く、今ではまともに見られていないところもありますが、それでも参考になるところは多いと思います。
私の講座の発展コースでは、この説を一部紹介しており、そこからの資料を引用しますと、
このように(マズローによると)、人間は低次から高次になれば、下の欲求階層から上の欲求階層へと移っていくと謳われています。
つまり、生存的・動物的な低次の欲求が満たされれば、次に他人の愛情や承認を求める欲求が出てきて、最後には、より高次な自己実現的な欲求が出てくるというもので、最終的にはこの段階説にはありませんが、総合的・霊的な完成(への欲求)も出てくると考えられるものです。(この図の、さらに頂点に位置すると考えられるもの)
ここで注目したいのは、承認欲求が上から二段目(あるいは承認欲求の種類によっては、所属や愛情の欲求のこともありますから、さらに一段下)の段にあるということです。
低次(下の階層)の欲求は、上下の階層の欲求と関連があり、その上下の欲求にされされたり、求めたりすることによって、当該階層の欲求から逃れられると想定されるところがあるのです。
承認欲求と愛情の欲求の下の階層は、安全・安心の欲求階層であり、これは言わば、衣食住が最低限保証されているような(食は最下層の生理的欲求とも考えられますが)状態を求めるもので、これが脅かされると、承認欲求どころではないということになります。
ですから、暮らし自体が厳しい環境になれば、承認欲求に悩まされることは少なくなりますが、しかしこれでは、根本的な解決どころか、むしろ低下・後退している状態と言えます。
ですから、上の階層を見ていきます。すると、自己実現の階層ということになります。そして、マズローの図にはありませんが、さらに上には、さきほど述べたような総合的・霊的完成への欲求もあると考えられます。(マズローが言いたかった一番上の欲求は、このようなことではなかったかとも考えられます)
マルセイユタロットで言えば、大アルカナの数の上のほう(前後半で分けると11くらいから21、三段階でわけると14・15くらいから21までの階層)の目標や意図を持つということになります。
霊的な目線(成長)とは何かと問えば、一言では言い表せないものですが、見える世界と見えない世界の統合、「ひとつ」として等しく思考できる、感じられる観点を持つ発展プロセスと言えましょうか。
霊的な成長へと自分をシフトさせていくと、今までとは気になるものがまるで違ってきます。(まったく気にならなくなるわけではありません)
最初は承認欲求を刺激するものに対して、とてもばからしく見えてきますし、一時的には虚無のような状態にもなるかもしれません。
しかし、それも反転して、いろいろなエネルギー、人々の心の状態の渦巻き(ボルテックス)が伝わってきて、ダイナミックな生きる力も感じてきます。と、同時に、私たちをある段階で留めさせようとする方向(安定でもあります)と、進化・発展・破壊しようという方向性との巨大な葛藤も見て取れます。
実は個人的なもの(思考・感情)と思っていたものが、大きなものとつながっていることに次第に気がついてくるでしょう。
つまり、世界は自分であり、また自分は世界でありつつ、やはり自分の世界と他者の世界のふたつは厳然としてあって、これもまた渦巻いているわけです。
霊的な観点では、おそらく、自分の承認欲求は、醜いものでも悪いものでもないのです。ただ、欲求に気づくことに重要性があります。
あなたが認められたい・求められたいのは、本当は他人からではないのです。
ともかく、あなたが霊的な成長の観点に戻る時、これまでの現実的・物質的欲求から変化することになるでしょう。
出会いの偶然性と必然性
人と待ち合わせしようと思いますと、今はとても便利になりました。
メールがありますし、携帯やスマホで自分や相手の場所もリアルタイムで連絡しあうこともできます。
場所が初めてのところでも、地図ソフトや案内ソフトがあれば、簡単に手元で調べることもできます。
待ち合わせだけに限らずとも、人やモノとの出会いも、相手や先方さえ同意していれば、望むものを意図的に結びつけることがたやすくなった時代といえます。
マルセイユタロットでいうと、「恋人」カードの絵図における、三人の人物たちの間が、より近づき、コンタクトの確実性を増したと表現できるかもしれません。
言わば、(出会いや結びつきの)必然(性)が増えたという感じです。
とすると、逆に、まったくの偶然の出会いは少なくなったと考えることもできます。
従って、偶然のような出会いがあるとすれば、それは昔よりかなり貴重であり、もしかすると、特別な意味が強くなっているのかもしれません。
先ほどの「恋人」カードで例えると、絵図の上方、天使のようなキューピッドの放つ矢が、下の人間から見たら偶然に見えるので、その矢が今の時代は、かなり強力なものになっている可能性もあるということです。
上述したように、現代は機器の発達により、自らが(機器を利用して)そのキューピッドを演じているともいえ、自分がまるで天使(神)になったかのように、何でも機会を作る上げることができると驕ったり、あるいは、偶然の機会は本当に偶然でしかなく、意味のないものであると思ってしまったりする傾向もあるのではないかと危惧します。
偶然の結びつき(しかし霊的・天上的には必然であるもの)を起こす役割は、「恋人」カードによれば、キューピッド(神や天使)の次元なのだということです。
自分が何でも結びつきを起こせると過信してしまうことは、反対に、自分に必要な情報や人物しか結ばせない、交流しないという態度にもなりがちです。
この、“自分に必要な”という部分が重要です。
自分に必要と言っても、たいていの場合、今の自分にとってとか、物質的・常識的価値観で見た必要性であり、結局、損得とか利己に資するとか、感情の好き嫌いでのモノサシによる「必要性」となります。
つまりは、まだ未知なるところや潜在的に可能性としてあるもの、物質を超える領域や意味においての必要性などは考慮されないわけです。
「必要だったら、自分から求め動くし、ちゃんと地に入れることもできる」と思いつつ、逆に、「嫌なものは避ける」「ブロックする」「無視する」「(利己的な)自分と関係ないものはどうでもいい」という態度との両方が極端になるおそれがあるのです。
マルセイユタロットの「恋人」カードからすると、人間が行う選択と結びつきの領分と、神や天使の持つ天上的選択と結びつきの領分とを、きっちり分けている(分けられている)ように見えます。
本当の選択・結びつきはその両方が交差するところにあるわけですが、人間にはわからない部分があり、そう状態が現実世界であって、人間の持つ責任と領域なのでしょう。
もちろん、マルセイユタロットで示されるように、天上領域をも認識していく発展性(つまり常識的・通常的人間を超える道)は示唆されていますが、うかつに領分を超えて、あるいは浅はかに想像して、天上領域を侵したり、軽視したりするようなことがあれば、本来結ばれるものは結ばれず、または、離れられるところも離れられず、苦しみが長く続くことになるのではないかと予想されます。
今まで述べてきたように、「恋人」カードの絵柄でいう三人の人間たちの(活動)部分は、今や、機器の発達により、天上の天使部分まで侵入してきたところがあります。
それでも、人間では偶然だと思えるような出会い(人だけではなくモノなど全般を含みます)は、むしろ、この時代だからこそ特別なものなのです。縁の連続でつながったり、ふいに偶然出会ったりした機会の重要さ、大切さは増しているのです。
そして、最初から限定したり、今の自分の視点だけで判断せず、いろいろなものに挑戦したり、畑違い、分野違いと思う人とも交流したり、ちょっと変わったこともやってみたりして、毛嫌いせず、間口を広げてみるのが、実は天上領域を広げることにつながるのだと考えられます。
しかし反対に、天上領域を過度に意識し過ぎるのも問題かと思います。いわば、狭義のスピリチュアルを信奉するような態度です。
何でもつながりや縁、出会いを(心霊的ともいえる目線で)特別視して、偶然性をすべて必然で見てしまうような感性です。
過去世からのつながりとか、ソウルメイトだとか、宇宙の星からの転生だとか、神様が用意してくれた出会いであるとか、そんな表現にかぶれてしまうようなことですね。
深いレベルでは、確かにすべて必然と言えそうですが、人間の浅知恵レベル、スピリチュアルかぶれや過度のロマンシズム、熱狂が生み出す妄想的な必然と思う出会い感覚は、理性を失い、アンバランスで危険であるとも言えます。言い方を換えれば、これも天上領域(領分)への間違った侵入になります。
天上領域の出会いは時系列を超えていますので、人間領域だと、あとでその意味がわかることもありますし、最初から直観のようなもので訪れることもあります。
とにかく、私たちは人間として、必要以上に自分を卑下せず(無力な存在とは思わず)、また奢り高ぶらず、人としての応分の努力と、天上からの働きかけの両方を得て、「出会い」を楽しんでいきたいと想うものです。
生と死の一体性 「13」
今日は13日ということで(笑)、マルセイユタロットの中でも、カードに名前のない特殊なカード「13(番)」に関することを書きたいと思います。
このカードは初見だと、かなり怖いイメージを皆さんが持つことでしょう。
その「怖さ」は実は重要なものなのです。
ただ、ほかのカードでは、この数を持つ大アルカナに「死神」という名前を当てられたため(日本語訳で特に)、絵柄のイメージだけではなく、名前からも、より恐怖を感じてしまうことがあります。
その「死神」からのイメージの怖さは、むしろ、マルセイユタロットの「13」の場合は、払拭したほうがよいものです。
それは「死」への怖さを増幅させるからです。
誰でも、死は怖いものです。しかし、現代人の多くは、生と死を物理的な現象としてとらえ、まったくそれを切り離して考えているところに問題があり、さらに言えば、そこから「死」への恐怖を感じているのです。
私たちは、人間はただ何かわからないけれども、生命と体という複雑な身体機能をもって生きているという感じで、死んだらどうなるのかわからないものの、少なくとも、体(身体)の機能は停止し、ただの肉片となって朽ちていくもの、処理されないと腐っていくものと考えています。
極端な場合、「死後について」わからないことをいいことに、死んだら終わりと決めつけている人もいます。
このように近世以降に、物理的な思考が強固になることで、私たちは生命と体がマシンのように感じて、生命が燃焼するエンジン、もしくはその燃焼を起こす燃料、そして身体が燃焼して動く機械のように見てしまうことになりました。
すなわち、生きていることと死んでいることの物理的なふたつの見方が強くなり、結局、実感できる「生きていること」の間だけフォーカスし、「死」は、まさしく崩壊してしまう終局点として置かれることになったのです。
そうすると、死(後)も含めたトータルで大きな流れとして俯瞰する力が失われ、生きている間だけの喜びや快楽に執着するようになり、生きている(間の)人生が、人から見て充実したほうが勝ち、という感覚に囚われるようになるわけです。
そのため、つまるところ、この人生で何も残せない自分、(人から)評価されない自分、不幸と思える人生で終わる自分・・・いろいろな「生きている頃の自分だけ」を評価する視点になり、終局的である「死」が近づくこと、死を迎えてしまうことに恐怖を感じるのです。
実際に、皆さんも、病気や鬱的なメンタルなどによって、「自分が死ぬかもしれない」という恐怖を味わったことがある人もいるかもしれません。
それほど、生きていることの実績だけに執着してしまうと、「死」というものが怖くなってしまうのです。
しかし、以前は、死と生は一体のもので、今のように分離感や別物感はありませんでした。
シンプルに言えば、「死」は一種の変容点なのです。逆に「生」(誕生)も同じ変容点と言えます。
二元(ふたつの概念)で切り離ししまうのではなく、円環として生と死を変容点と見る時、輪廻とはまた違った生と死の一体感を感じることができます。
「13」のタロットの図像では、確かに骸骨のような人物が鎌を持ち、削ぎ落としや死のような印象も強いです。
しかし、終わり・死を迎えても、それが変容の時であり、いわば、生の形を変えた生き方になることを示唆しているのです。
このことは、「13」を中心にして、タロットの数の論理である「7」や「10」によって、ほかのカードとともに見ていくと、よりわかってくるものです。
例えば、「7」の論理性でいうと、「13」には「6」の「恋人」カード、「20」の「審判」のカードと関連します。
ここでは詳しくは言えませんが、「恋人」も「審判」も死と再生のシンボルが刻印されています。
例えば「恋人」カードにおいては、エロスとタナトスとして表現され、両者が一体の状態である(と直観した)時、時空を超越した瞬間が垣間見える(体験する)ことが、図像によって示唆されています。(このあたりは、2016年に話題となったアニメ映画「君の名は。」の「結び」とも関係してきますね)
つまり、両極の、死をもってはじめて生の意味がわかり、その逆もまた真なりで、私たちは死がなくてはならないものであり、しかも死と生が一体化したところに、崇高な高次を実感することができると、マルセイユタロットの示唆から確信できるのです。
それは、生きている「生」の現実世界でも、生々しいもの、すばらしいもの、躍動しているものの反対側として、空虚なもの、汚いもの、一般に望まないもの、衰えていくものなどと対比され、言ってしまえば、別離・分離(感)として、「生」の中で「死」を感じるものでもあります。
結局、統合的な観点を持たない限り、一方の「死」や「終わり」で象徴される「生(生きている時)」の恐怖はなくならないものですし、人生において重要で衝撃的な別離、不幸とも思える試練を昇華することが難しくなります。
「13」は単に削ぎ落としたり、切り放ったりするものではなく、解体し、変容していくものなのです。
それは、経験したこと、体験したこと、味わったことすべてが、養分として受け入れられ、変容するための下地となることなのです。
「13」に名前がないのは、いろいろな理由が考えられますが、今日述べてきたことから、本当は「死」というものがないからこそ、「死」という“名前を付していない”のだと考えられます。実は形を変えた「生」あるのみなのかもしれません。
実際に起こることを、そのままの意味でとらえていては、なかなかこうした変容・昇華には結びつきません。
それには、物事を象徴的にとらえ、これまての思考と感情を統合し、今までの見方を超えていくことが求められます。
マルセイユタロットには、そうした象徴としての変容力があるのです。
「愚者」の犬から
来年は戌年ですね。
というわけではありませんが、ふと、このところ「犬」の象徴に出会うことがよくありましたので、マルセイユタロットの図像にも関係する「犬」について、書いてみたくなりました。
と言っても、ここでは講座で述べるものとは少し違う内容で紹介したいと思います。
マルセイユタロット(大アルカナ)で犬の絵が現れているカードは数枚あります。
具体的には、「愚者」、「月」というのが、誰が見てもわかるものですが、「運命の輪」の中の動物にも犬がいるとされています。
また「月」の動物は「犬」のようにも見えますが、「狼」とも考えられます。月と狼(男)伝説は有名ですよね。
それとは別にしても、特にヨーロッパの北方では、「狼」は神の使いであったり、神聖な力を持つ動物とされていたところもありました。(日本でも、狼が「大神」という響きを当てられていたこともあります)
と考えますと、純粋に「犬」と言えるのは、もしかすると、「愚者」に描かれている絵の犬だけかもしれません。
最初にふれたように、ここではタロット講義において語っている「犬」の詳しい古代からの象徴性について話しません。もし書くとしても、とても一回だけでは語り尽くせるものではないでしょう。
ですから、今回は、いかにも「犬」の図像である「愚者」の犬から、今回のブログ用に出てきたことだけを記します。
「愚者」のカードを改めて見ますと、愚者と犬は連れ添って描かれていることがわかります。
この犬がどのように見えるのかによって、あなたと「犬」に象徴される人(事柄)との関係性がわかることもあります。
押しているように見えるのか、引き留めようとしているのか、じゃれているように見えるのか・・・人によって様々でしょう。そして、この犬は、そのように投影できるよう(見る者によって姿、表情が変わるよう)にわざと描かれているわけです。
実際に犬を飼っていらっしゃる方は、まさにその犬である場合もあります。(時には亡くなった犬の象徴としても、出てくることがあります)
犬は吠えるものでもありますが、愛玩されたり、人間に役立つ(助ける)生き物として存在してきました。
「愚者」が私たち一人一人であるならば、寄り添うに描かれているところからも、この犬は何らかのパートナーであることは間違いありません。
詳しくは言えませんが、マルセイユタロットの「愚者」の犬は、動物の形をしながらも、象徴的には高次のレベル(存在)を暗示させる図柄になっています。
つまり、ここには、動物(犬)と人(愚者)という、一見、人とそれに従う関係を見せながらも、実は人が何かに従ってる(追い立てられている)という関係性も隠されています。
これはよいことにも置き換えられますし、悪いことのパターンにも考えられます。
私たちは自分が従えていると思っているものに従えされられていることもあれば、無意識のうちに、ある方向に進むように促されていることもあるわけです。
犬に吠えられて逃げなければならない区域もありますし、怖い犬を克服し、手なずけ、その境界を越える(超える)力を獲得しなければならないこともありえます。
「愚者」はその名の通り、愚か者のところもありますが、我々が愚か者(智慧が隠された状態、無明)である時、犬は警告を発し、私たちを追い払ったり、守ったりするのです。
人は積極的になること、進むこと、チャレンジすることをよしと見る向きがある中で、反面、無謀な蛮勇、エゴと誘惑による衝動的行動との区別がつかず、何でも直感的にやりたいことを選択すればOKという風潮に自分を見失うことがあります。
まだ準備や資格がない状態にあれば、警告に従い、避けること、動かない(選択しない)こと、今までを継続維持し、しっかり準備することも大切です。だからこそ、タロットカードは「愚者」のほかに21枚もカードがあるのです。
犬は忠実な番犬である時と、野良犬のようになって、それこそ一匹狼となることもあります。
「愚者」は自由をもっとも象徴させるカードでありながら、そこに犬が連れ立っていることは、(犬の本当の飼い主)智者の存在、智慧ある選択と行動も示唆されます。
あなたは何に忠実であろうとし、何から自由になろうとしているのか、犬に吠えられて、あるいは、犬に寄り添われて、あなたは気づくことがあるでしょう。
面白いことに、ドッグ、英語のDOGは、逆から読めば「GOD」になります。まあ、言葉の起源的には何の関係もないという話のようですが、タロット的に見ると、かなり面白い偶然です。
なぜ面白いのかは、ほかのカードとの関連を語らないと、その面白さが伝わらないのですが、それはまた講義でお話するとして、もし愚者と犬が合体したとすればどうなるのか?という、わけわからない(笑)ヒントをここでは書いておくに留めます。
ちなみに、「愚者」のカードを今私が見ますと、犬から追い立てられているように見えます。あ、そう言えば妻は戌年でした。(苦笑)
戌年の来年、皆様がいい意味で「愚者」となり、自らの自由を求めて、新たな旅路に進まれることを期待します。
ボン・ヴォヤージュ!(bon voyage!)