カードからの気づき
「手品師」「力」「世界」の3視点
マルセイユタロットの大アルカナで「1」をその数に持つカード、具体的には「手品師」「力」「世界」の3つを並べると、面白いことが浮かんできます。
タロットと数の関係は、もちろん無意味にふられているわけではないのですが、タロットはあくまで絵としての象徴性がメインであって、数秘術的なタロットの解釈を中心にしてしまうと、問題や誤解を生じることもあります。
しかし、先述したように数との関係もありますから、数でもって見てみるのも一面ではありです。
「1」の数の意味は、特別に意識したり学んだりしなくても、およそ皆さん、ニュアンスで感じられている通り、始まり、新規、フレッシュというような意味合いが出てきます。同時に、数秘的に、全体や完全性を表したり、私たちの思う「ゼロ」の概念も含まれたりすることもあります。
わかりやすく「始まり」的な意味で見ていくにしても、「手品師」と「力」と「世界」には、それぞれの「始まり」があると考えられます。
それについての詳細は講義でお話してはいますが、簡単に言えば、レベルの違いであり、少なくとも私たちは、マルセイユタロットが示すことからすれば、3つのスタート・始まりの段階を持つということになります。
「1」は完全性を象徴するということも書きました。
よって、始まりと同時に完全・完成でもあると考えられ、すなわち、終わり(完成)においても、3つの段階があることがわかります。
3で象徴されるクォリティ(質・状態)と言えば、創造・維持・破壊という3つの自然・森羅万象の流れがあります。これはインドの神々(ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ)でも象徴されており、占星術その他においても、3つに分けられる性質(状態)があります。
このうち、創造と破壊は表裏一体のものであり、直線で表すと、3つの状態は山型になりますが、創造と破壊を結んでしまえば円形として見ることもできます。
つまりは循環や永遠性の形と言えましょう。そのことは、「手品師」「力」「世界」の中の細かな象徴図形としても描かれていることです。
さて、ほかの面からも、3つ、三枚について見ていきます。
ほかに考えられる3つの局面とは、時間(経過)の状態としても表せます。つまりは、「過去」「現在」「未来」の3つです。
マルセイユタロットの「手品師」「力」「世界」は、同じ「1」という数を持ちますが、厳密には、それぞれ「1」「11」「21」という数になります。(※ウェイト版とは「力」の数が違いますので、注意です)
もし数の順番に従い、成長していくものとしてとらえると、「世界」に進めば進むほど未来に行くことになります。
人生で例えるとすれば、「21」の「世界」がゴール(死・昇天)となり、「11」の力」は中間でピーク(大人・壮年)、「1」「の「手品師」は若年で人生の始まり(誕生)を象徴すると見ることができます。
「力」を中心として現在と見て、過去に「手品師」、未来に「世界」として見てもいいでしょう。
すると、人生を完成・終わりから見る方向と、始まり・誕生から見る方向、そして今・現在をポイント・中心とする観点があるのがわかります。
完成・終わり、つまり「世界」から見る視点では、人生全体を見通す(振り返る)ような視点であり、人生のあり方、生き甲斐、終わってみてから気づくような人生の意味のようなものが浮かんできます。
要するに、あまりその時その時の細かなことは考えず、終わりに際し「よく生きた」と思えた人生ならばOKということになるでしょう。
この視点が問題として現れれば、後悔やあきらめのような境地になり、進取の気勢や、創造性を失うということも考えられます。
逆に、進んでいく若さの「手品師」からの視点では、拡大・成長・発展という観点が中心になり、具体的に目標を立てたり、物質的にも充実させていこうという視点になったりすると思います。
問題として出る場合は、先行きの不安や、人と比べたり、社会(仕事など)での自分の役割・貢献・地位などに悩んだりすることになるかもしれません。いわゆる将来性・成長性の問題というわけです。
一方、現在にフォーカスする「力」の視点では、未来や過去を気にすることなく、まさに「力」を余計なことに注がずにすみ、今に集中させていくことができるでしょう。
とはいえ、問題として見れば、今しか見ないことになり、刹那的な生き方、今さえよければいい、昔のことや先のことなどどうでもいいという自己中心的な生き方にもなりかねません。
しかし今に集中する生き方は、多くの人ができていないもので、何かしら私たちは、悪い意味で、過去に囚われたり、未来に過剰に心配したりして、人生を過ごしていることが多いものです。
結局、今をないがしろに、どんどん今という「時」「瞬間」を空虚なものにしていると言えます。ということは、私たちは今現在にほとんど存在しておらず、過去と未来の多元な時間の中に、自分を分散してしまっている(埋没させている)とも言えましょう。
そのため、「力」のカード象徴が示すように、ライオン(これが何なのかは、皆さんでお考えください)をうまく操れず、四苦八苦している状態になっているのだと言えます。
数のうえでは、力は「1」に「10」が加わっています。
「10」はマルセイユタロットでは「運命の輪」の数であり、すなわち「力」のカードは、「運命」を乗り越えた(コントロールした)始まりの段階なのだという解釈もできます。
それが、過去と未来へ分散した自分への統合でも示されます。ちなみに「運命の輪」にも「3つ」のものの象徴が描かれています。
それでも、分散する視点も悪いわけではありません。
先述したように、これからの成長性・計画性・創造性・夢を持つ始まりの視点の自分と、人は皆同じで、誰もが死を迎えて、築き上げた物質を捨て、関わった人たちとも別れなければならないという終わりの視点の自分があります。
この両方でもって、今・現在その時々において切り替えて思うことで、うまく人生を乗り切っていく(波に乗るように楽しんでいく)ことができるのではないかと思います。
そして、あの世とこの世という二つの世界を想定すれば、この世の終わり(死)はあの世の誕生(始まり)であり、あの世の終わり(死)はこの世の始まり(誕生)となります。
その繰り返しに、私たちは何らかの「力」を内在させつつ、様々な経験をしているのかもしれません。
マルセイユタロット グノーシスの道
10月になりましたので、最初に今後のお知らせなど少しいたします。
まず、秋に毎年やっておりますマルセイユタロット講座(基礎ハイクラスコース)は、少し遅めのスタートで、今年は11月からを予定しています。全6回のコースで、来年にまたがることになりそうです。
今なら講座受講を検討されている方のスケジュール相談に応じられますので、お問い合せいただければと思います。
それから、今年後半は、講座修了者のアフターフォローにも力を入れており、すでに修了者用メルマガではお知らせしましたが、修了者への個人面談(相談)など、希望していただければ実施いたします。だいぶん前に受講された方でもOKですから、一度ご連絡ください。スカイプでの面談も可です。
さて私自身、マルセイユタロットを通して皆さんと一緒に考え、開発していきたい思っているのが、グノーシスです。
グノーシスとは何か?については、ここで語るとなれば大変ですので、今はいたしませんが、簡単に言えば自身の内にある神性の認識・覚醒ということになります。別の表現でいえば、私たち自身を閉じこめているものからの自己の真の解放です。
ただ、単なる昔の思想を追うとか、スピリチュアル的な抽象性の逃避に終わらないよう、現代性・現実性・具体性を考慮して、グノーシスを目指したいと思っています。
そのため、タロット修了者の間で、グノーシス(勉強)会を開催し(希望者のみ)、マルセイユタロットの象徴と教義にふれ、学んでいる方と一緒に、私たちの実生活の中で、いかに自分を目覚めさせ、解放し、また現実との折り合いをつけていくかを検討したいと考えています。
この世の中はすばらしいものでもありますが、生きている中で矛盾や生きづらさ、理不尽さを感じる人も少なくありません。
私自身、幼い頃から、生きること、生について疑問に思うことがありました。生を否定するのではなく、それどころか、それは先述したように、すばらしいもの、ワンダフルなものであるのも確かです。
しかし、多くの人が真に幸せとは言えない状況であるのも否定できず、お釈迦様が指摘したように、生・老・病・死の苦悩を中心に、私たちは悩み苦しむことも多く、そもそも今の世の中のシステム自体にも万人に幸せとなるようにはできていない部分があるのではないかと感じられます。(それが意図的かどうかは別としても)
今、個人の生き方が問われ、自分らしくあること、個として個性的に生きることがよく言われます。
またスピリチュアル的には、自分が世界を創造しているものなので、自分の世界に(つまり自分自身が)平安と幸せを実現させないと、いくら外側の世界に働きかけても意味はないと言われます。
このことから、まずは自分が大切、自分自身が「個」として幸せであり、充実することで、周囲も自然に調和、平安へど向かうと考える人も少なくありません。むしろ、ブログとかSNSなどで取り上げられる今のトレンドと言ってもいいくらいです。
それは一理あると私も考えますが、一方でどこか作為的で独善的な匂いもしますし、現実に、私たちは外の世界を無視することができないばかりか、内と外(自分と他人)の世界を実感し、影響しあって生きています。
もしすべてが自分だけの世界だとしても、それを認識する力と方法が必要です。
マルセイユタロットを見ていて思うのは、この内と外の問題も含めて、結局、認識の力が問題になっている(認識の未熟、偏り、不足状態になっている)のではないかと想像しています。
本当の意味での知性(いわゆる記憶力とか、学力とか、一般に言われる頭の良さとかは異なります)の力といいますか、それが不十分なのが私たちの今の状態ではないかと思うのです。
内と外、自分と他人に実感性があるのも、実は認識の問題であり、本当は統合できる観点があり、それに至れば、スピリチュアルの方のいう、世界は自分が創っているというのと、現実感覚の自分と他人がいるという感覚との隔たりがなくなっていく(本質的に同じものであり、見方の違いのようなものとしてわかってくる)のだと考えられます。言ってみれば、自分と人が真に共有できるわけです。
例えば、「愛」という概念がありますが、情緒・感情的な愛と、客観性を伴う、数学的ともいえる愛の質は、同じ部分もありますが、やはり次元が異なるものと思えます。
タロットの4組でいえば、風・水・火・地の愛の概念があり、水的な愛と風的な愛では違うのです。
どれが正しいとか間違いとかではなく、そのどれもが愛なのですが、ひとつの水とか火とかにこだわっていれば、そこはひとつだけの世界で狭く、最終的には4つを統合した観点で見ないと、本当の愛(高次の愛)はわからないと言えます。
私たちは恋愛で燃えている時、相手とひとつになりたい、ずっとこの愛は続くもの、続いてほしいと願いますが、一方で、肉体は衰え、経済や現実生活という側面で、時に愛の炎も揺らぐことがあります。
別れてしまうことは悲しいことではあっても、愛が消えたわけではなく、形を変えて愛は存在し、また情愛的には冷たいように思えること(選択)も、大変高いレベルでの愛から見れば、自他ともに愛に満ちた行為(選択)かもしれないのです。
いわば、神目線と人間のエゴ的な感情レベルとでは、本質(作られる素材)は同じものであっても、次元は大きく異なって、その選択に自ずと違いが生じるのです。
話を戻しますが、結局、グノーシスに目覚めれば(進めば)、人はよいもの、正しいもの、理想への認識も変わって、選択と行動も違ってくるようになり、それは今までの常識レベル、社会とも異なってくるわけです。
ひいては、それが世界全体への変容にもつながっていくと考えられるのです。
マルセイユタロットはそのことを思い出し、私たちに神性なる選択と次元のエネルギーを降ろしていく象徴ツールなのだということです。
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そして、つまるところ、グノーシスは自己と世界の救済論になるのです。
マルセイユタロットでは、戦車、節制、世界の三枚がつながるような印象になります。
「月」とセンス(感覚)
マルセイユタロット、大アルカナの中でも解釈が難しいとされるカードに「月」があります。
リーディングにおいても、学んでいる皆さんに、読むのが難しいカードとよく指摘されるカードです。
「月」のカードの画像を見てもらってもわかるように、単に天体としての月だけではなく(月にも顔が画かれています)、二匹の犬の存在、その向こうにあるふたつの塔と土地、さらには大きな水たまりと、そこに浮かび上がるザリガニ・・・と、たくさんの要素が、しかもはっきりというより、おぼろげながらの雰囲気で描かれている感じで、余計わかりづらくなっています。
つかみどころや、中心(メインとなるはっきりとしたもの)がないという印象でしょう。
実は、そのわかりづらさこそが、私から見れば興味深いところで、「月」を読むコツのひとつと言いますか、「月」が表す象徴性の重要さだと考えています。
それはともかく、今日は「月」のカードにまつわる、ある示唆を書いてみます。テーマとしては、「センス」(感覚)になります。
「月」が表すことのひとつに、「センス」(感覚、感じ方とその受容)があると考えられます。
ところで人間のセンス・感覚器官としては、五感があります。
当然、この「月」のカードも、人間に関係して見た場合、人間の五感も象徴していると想定できます。(カード全体と、ある部分に明確にその示唆があります)
しかし、人間には俗に第六感と表現される、五感を超えたセンスがあるとも言われています。
おそらく、「月」にもそのことは、象徴されていると見ていいでしょう。
通常の人間のセンスは五感なので、ほとんどの人は五感を頼りに物事や他人のことを受け取っている(判断している)と言えます。
また五感でも、人によってその感じ方や程度(鋭さ・鈍さ・得意部分など)の差があり、これは人のタイプや相性にも関係していると考えられます。
五感のうち、自分のセンスがもっとも敏感で響くものが他人と合えば、その人と仲良くなったり、近づきたいと思ったりしますし、その反対に、自分とは違う得意センスを持っている人に惹かれることもあるでしょう。
センスによる響き合い・共鳴と言ってもいいでしょうし、補い合い(相補・互助)ということも言えそうです。
そして、五感以外のセンス・感覚でもそれはあると考えられます。
まずは通常の五感を超えた関係・響き合いというものがあり、そして次には、五感を超えるものの共鳴で、その(お互いの)世界は、まさにセンス・オブ・ワンダーとなるイメージです。(言ってみれば、五感の心地よさや満足感を超える世界)
このように、センス(感覚)をテーマにすると、「月」のカードの読み方に、五感やそれを超越したセンス同士の響き合いを考慮したものが浮上してきます。
面白いことに、「月」のカードは数では「18」ですが、マルセイユタロットでは、バランスの天秤を持つカードに「8」の「正義」があり、このことから「月」にも、言わば、“センスのバランス”が働いているのではと考察することができます。
占い的に言えば、「月」のカードが現れる時、相手との感覚・センスの相性、バランスを見よという感じになるでしょうか。
また占い技法で、「月」のカードが、よいことを示す位置に出た場合はセンスの共有性・同質性・相補性が考えられ、悪いことを示す位置に出た場合は、センスの相性悪し、アンバランスと解釈できます。
これは思考や理屈ではなく、センス・感覚なので、例えば触覚だったら、触ってみないことにわかりませんし、味覚だったら、味わってみないとわからないことになります。
ただ、第六感的なものは、直感として、すでにビビッとくるものがあり、もし「神の家」とセットで出るとなると、かなりの電流を感じる間柄となるかもしれません。(今回ははわざと、カードを占い的に読む方法を書いています)
カードは象徴ですから、その示唆することが注意や警告として見る場合もあります。
もし、「月」をセンス・感覚を中心にして読むとなれば、逆に、センスに頼ること、あやふやな感覚で判断することを警告していると解釈することもあります。(カードの出方や展開によりますが)
また、今のセンス・感覚での受容と判断を超えたものを要求されている場合もあります。
相性が悪くても、相手との刺激、言わば化学反応のような形で、自分のセンスが磨かれることもあるのです。このあたりは「月」の二匹の犬の象徴とも関係してくるでしょう。
「月」は試練的な意味を、特に感情や心の面において持つことがありますが、センスや感覚の錬磨、向上、変容によって、自分を変えること、変わること(または相手のと関係を変えること)を示唆しているケースもあるでしょう。
単に五感だけでも、見る・聞く・味わう・嗅ぐ・触るのどれかにヒントがあるとも言えます。
シンプルに、「感じる」「感じろ」と「月」が訴えていると読むことも、意外に重要なメッセージのことがあります。
そもそもタロットは、センスとしては視覚が中心にはなりますが、その他の感覚と、それを超えたものを思い出す、復活させるためのツールであると言えます。
しかし、「月」の象徴は、このセンス・感覚で得られた(そのデータで脳が創り上げた)自分の思う世界・現実はどうなのか?という疑問を呈しているとも言え、そうして考えていくと、やはりこの「月」カードの深さに気づいていくことになるのです。
あなたの感覚はいつも正しいものなのか、また感覚は常にまともに働き、敏感で公平と言えるのか、誰かや何かに影響されたり、変わったりすることはないのか、もし感覚が変われば、今までのあなたの感じていた世界はどうなるのかなど、一度考えてみると面白いでしょう。
恋人カードに見る選択の示唆性
選ぶという行為は、悩み・迷いとセットになっているようなものです。
逆に言えば、迷いというものは、ほぼ「選ぶ」シーンに生じると言えます。
迷い、選ぶ、ということでは、マルセイユタロットでは、「恋人」カードが象徴的かつ、示唆的です。
以前にも書いたと思いますが、この恋人カードをモチーフとして、選択の種類について言及したことがあります。
その時は、このカードに描かれている三人の人間の象徴性について注目してのものでした。
その時の解釈と少し違うかもしれませんが、もう一度、この三人をヒントにした選択方法を簡単にあげておくと、
1.二者択一 (どちらかを選ぶ方法)
2.両者選択 (どちらも選ぶ方法)
3.無選択、様子見、第三の選択 (今は何も選ばない方法、もしくは第三の新たな選択肢を創造して選ぶ方法)
以上が考えられるわけです。
迷いが深くなっている場合は、2や3という方法が案外思いつかなくなっていて、1のように、絶対どちらかを選ぶしかないと、頭が固くなっていることが多いものです。
どちらも選んでしまうことに罪悪感を持ってしまったり、今は待つ、あえて選ばないということができない人もいるわけで、それは自分の傾向やブロックを見るのにも役立ちます。
さて、今回はさらに、三人の上空に描かれているキューピッド、あるいは天使とも言える存在と選択(の象徴性)についても加味してみたいと思います。
三人は見ての通り、ただの「人間」ですので、その迷いや選択もやはり「人間レベル」であると考えられます。
視点や情報も、あくまで人間の範囲でしかないということです。
しかし人間とは言っても、他人においては自分の知らない情報や知識を持っている人もいるでしょうし、複数の人と話し合う(協議・会議する)ことで、新しい着想があったり、よい案や選択もできたりするものです。
また、間(あいだ)をとった妥協案や、平均化したような選択肢も出てくるかもしれません。
いずれにしても、一人だけでは膠着状態だったことも、ほかの人と話し合うことで打開策も出るわけで、人間レベルでも、まさに“三人寄れば文殊の知恵”と言われるように、「文殊」を「菩薩」だとすれば、西洋的には天使レベルとも言え、三人の人間と天使との画像のリンク性も興味深いものとなります。
三人だけに着目すれば、人間としての選択の話となるのですが、ここに天使が描写されていることで、私たちの(行う)選択に、人間を超えたレベルのものが存在していることが示唆されるわけです。
さきほどは、三人の集まりが天使的な知恵(智慧)を呼ぶと書きましたが、見方を変えれば、一人の人間にも三人の人格があるととらえることもでき、しかも、さらにそれらを超越した人格(人格というより、ある「性質」と言ったほうがよいかもしれません)も存在するということです。
つまり、恋人カードに描かれている人間と天使は、全員、一人の中にある人格であり、性質であり、存在であるということです。
都合、それは4人となります。(天使は三人を集合・統合するレベルにあると言い換えることもでき、上空の高みから見下ろす視野の広さがあります)
ここにはマルセイユタロットの秘伝のひとつである「3対1」の構造(それが何であるのかは、ここでは説明しません)が見て取れます。
選択において、人間のようでいて人間ではない、言ってみれば「天使」の選択が、私たちに働きかけられているとも図像から想像されます。
人間レベルの選択では、どうしても自分の欲望や願望を満足させたい自己中心的な選択(たとえ自己犠牲的なものでも、自分中心なものは自己満足に近くなります)が多くなります。
それは「人」としての宿命のようなところもあります。
しかし、人は動物的・人間的部分だけではなく、天使的・神性的部分もあると言われています。
簡単に言えば、低次と高次の存在性です。
あなたが何かに迷う時、それは人間レベルの欲望・願望での迷いがほとんどの部分を占めているでしょうが、 その中には低次と高次との葛藤による迷いもあると考えられます。
それにふれた時、自分の中の天使(性)にも気づきます。
外的なものとして天使を信じる人には、まさに天使があなたに働きかけているように感じるかもしれません。
簡単に選択ができるようなものは、迷いも当然生じず、そのような上下(低次と高次)階層への認識(次元上昇へのきっかけ)も起きにくくなります。
悩み、迷うからこそ、従来の選択では気づけなかった意識が芽生える(回復する)のです。
人間レベルでは合理的・経済的・正しい選択のように見えて、それは天使レベルではまったく違うこともありえます。
かと言って、天使レベルの選択が、現実的・人間的世界ではよい選択とは言えないこともあるわけです。
レベル的には高い選択ではあっても、人間的には合わなかったり、無理難題のように感じたり、人によっては人間レベルを十分に満足することの必要性もあったりするからです。
ですから、恋人カードは、必ず天使レベルの選択をしましょうというものではなく、人間レベルの選択に、天使性のインスピーション・息吹を感じたり、一部使ったりするという程度の示唆になると推測されます。
言わば、天使(性)も入れた、四人での会議・合議という印象です。(しかし、天使は直接会議には参加しませんが)
恋人カードの示唆は、個人・エゴ・人間的感覚にどっぷりつかっているところからの解放を、少しずつ進めるための段階と言えそうです。
選択の意味において、これ(恋人カード)と対の関係にあるのが、「審判」であり、また「神の家」にもなってきます。
このふたつのカードの図像・象徴性を見ますと、明らかにレベルや次元が変わっていることに気づくでしょう。
リーディングにおいても、これらのカードたちの出方や位置によって、どのような選択がふさわしく、また選択で悩むそのこと自体に意味があるということもわかってくるのです。
答えはあなた(自分)が知っている(のか?)
タロットリーディングや、その他、心理的・精神的・スピリチュアル的な相談の世界でも、よく言われているものに、「答えは自分が知っている」というものがあります。
相談を受ける側・アドバイスする側から言えば、「答えはあなたが知っているのですよ」という言い方になります。
では仮に、答えを自分(クライアント・相談する側)が知っているのなら、なぜ悩んだり、相談しに来たりしているのか?という素朴な疑問と言いますか、矛盾に行き当たります。(苦笑)
まあ、これに対しても、よくある回答(まるでQ&Aみたいですが・・・)で言うのなら、「答えは知っていても、それに気づくことができていない」ので、アドバイスする側は、その「答えに気づいてもらう導きをする」ということになります。
では今度は、なぜ、答えは知っていても、気づくことができていないのか?、そしてまた、相談を受ける側・アドバイスする側は、それに気づかせることができるのか?という質問も出てきます。
それには、主に、ふたつのことが考えられます。
そのひとつは、答えというものが、必ずしも、顕在意識、つまり自分が明らかに認識している(自覚し、わかっている)意識のところにあるとは限らないということ、
そして、もうひとつは、答えが複数(の可能性が)あることです。
前者は説明するまでもなく、真の答えの存在場所が、自分の表面や、今自覚している意識のところにはないので、いくら自分が探しても見つからないことになります。
ところが、そこにアプローチできる手法を持って他人が臨めば、一緒にそのありかまで探求することができ、その(答え)の発見が可能となるわけです。
この時、相談を受ける側は、いわば密林や洞窟にある宝の場所までガイドする役になりますが、ガイド自身が宝そのものを知っているわけではなく、今までのパターンなり、知識なり、技法なりで、宝のありかを探索したり、予測したりする技術に長けているということなのです。
そしてこの密林や洞窟、そこに埋もれている宝、つまり真の答えは、まさにクライアントの中にあるのですが、自分の中にあっても探索・発見する方法がわからないので困っているわけですね。
胃の中に何か詰まっているのは感じるけれども、医者に胃カメラなどで診てもらわないと確認できないみたいなものです。(笑)
従って、誤解なきようにしたいのは、ガイド側が答えそのものを知っているわけではなく、それはあくまで推測や予想の範囲のものであり、ガイドさんが素敵なアドベンチャーのサポートはしてくれても、宝物自体まで用意してくれるわけではないということなのです。
仮に宝物が用意されていても、それはあくまでガイドが用意した仮のもので、あなた自身は、本当の意味では納得できないものです。
ここに依存の問題を指摘することができます。
次に、答えがあっても自分ではわからない理由のふたつ目、答えが複数あるということについてです。
人はすっきりしたいがために、数学的回答のように、ひとつの絶対的な答えがあると信じ、それを求めます。
どちらが正しいかとか、どれが正解かみたいな思い方で、それは現れます。
しかし、一人の人間にも、実は複数の人格(性格・パーソナリティ)があり、さらには低次・高次のような、人間的部分と霊的部分、天使性と悪魔性、動物的(エゴ的)部分と友愛・共助的部分など、様々な多層構造があると言えます。
そして、それぞれに答え、回答を用意しているのです。
マルセイユタロット的には、一人の人間の中に、22人の主要人格がいると例えることができ、さらにそれが4つの性質をメインにして、56という現実フィールドに分離されていきます。
こうした複数のあなた(クライアント)が、それぞれ自分の答えが正しいと争い、葛藤しているわけです。
言っておきますが、これはどれも正解なのです。(少なくとも間違いではない)
しかし、一応、多くの人格の代表格である日常のあなたは、ひとつの回答ですっきりし、「正しい」と思える答えにしたいのです。
実は、自分の中で、複数の人格と話し合い、協議していくことで折り合いをつけること(回答を選択すること)ができるのですが、重大な選択と思えば思うほど、そして経験則や従来の知識では対応できない混乱した事態が起きれば起きるほど、人格の分離が激しくなり、何人もの強い主張者が自分の中で言い争うことになります。
この状態では、普段の自分では、収拾をつけることが難しくなります。
よって、他人の力を借りることになるのです。
他人といえど、同じ人間、人類としての共通の人格や思考・感情パターンを持っているので(ユング的には「元型」となります)、一緒に対応していくことができるのです。そして他人だからこそ、文字通り、客観的になることができます。
結局のところ、他人目線を通じて、自分の中の複数の答えを整理し、今回、納得できる選択を、自分ができるようにするわけです。
すでに自分の中で話し合いをして、薄々出しかけていた(選択しかけていた)ことを、他人によっても確認し、後押しを得るという意味もあります。
ここまで書くと、タロットがなぜ心の整理に役立てることができるのか、そして他人リーディングで人をサポートできるのかが、わかると思います。
今までの説明では、つまるところ、答えはやはり自分(クライアント)が知っているということになります。
不思議な言い方をすれば、知っているけれど知らない、知らないけれど知っているということですね。(笑)
実は、これとは別に、他人が本当に答えを知っているということもあり得ます。
まず、当たり前ですが、他人のほうが実際に見聞したり、経験していたり、知識的・数学的答えを知っていたりしたら、自分ではなく、他人が答えを知っていることになります。
バカらしいほど当たり前ですが、こんなことすら、下手にスピリチュアルに傾倒してしまうと、わからなくなってしまうこともあるので注意です。単純に自分が知らないことはあり、それは知っている人に聞けば早いということです。(笑)
なるほど、自分の神性はすべてを知っているかもしれませんが、現実の人間のあなたは、知らないことが実際のフィールドではあるのです。
だからこそ、人は教え教えられ、助け合って生きています。
そしてまた、他人があなたの鏡になっていたり、反転した自分存在として、別の答えが用意されているということもあります。
この場合、言ってみれば、自分に答えはあるようでなく、むしろ、他人を介することで本当の答えが「創造される」という形になります。
そのようなことから見れば、自分が答えを知っているとは、完全には言い切れないものなのです。