カードからの気づき

タロットにおける4組とその表現

マルセイユタロットのように古典的なタロットは、78枚をひと組みにして、大アルカナと小アルカナと呼ばれるパートに分かれています。

このうち、小アルカナは、さらに4つの組に区分けすることができ、それはいゆゆる「四大元素」という、西洋の重要な古代象徴システムに基づいています。

タロットを知らない皆さんでも、トランプカードを扱ったことはあると思います。このトランプにも、4組はあります。

聞くと「ああ」と皆さん思い出しますが、スペード・ハート・クラブ・ダイヤが一般的な、あれが4組です。

ですから、私はタロット講義の時に言っていますが、タロットの小アルカナがわかると、トランプ占いもできるようになります。

以前は、タロット講義に参加された皆さんに、最初にいきなり「トランプ占い」をして、パフォーマンスしていた時もありました。(笑)

この小アルカナの要になっている4組は、実は非常に洗練された象徴システムの一環であり、この世界がフラクタルな(一部と全体が同じ)構造になっているのを考察するうえでも、重要なシンボル性を持ちます。

タロットの4組は、剣(ソード)・杯(カップ)・杖(ワンド)・玉(コイン)というもので構成されますが、フラクタル構造的に見れば、すべてが入れ子構造、4つの要素ひとつひとつにも、さらに4つのものが内包されていると見ることができます。

例えば「杯(カップ)」の象徴性において、「」を見たとします。(なぜそうなるのか、あるいはそれが当てはまるのかのことは、ここでは書きません)

これが先述の入れ子構造的な4組の考え方になると、愛の中にも4つの形・表現があるということになります。

象徴的に書けば、剣(ソード)的な愛、杯(カップ)的な愛、杖(ワンド)的な愛、玉(コイン)的な愛です。

これ(のうちどれか)が自分の愛し方、愛の表現のパターンであったり、好きな愛され方であったりという分類も可能です。

4組は四大元素(風・水・火・地)の象徴ですから、つまりは、風のような愛し方、水のような愛し方、火のような愛し方、地(土)のような愛し方(それぞれ受容的に「愛され方」としてもよい)とも言えます。

もっと現実的でわかりやすい言い方をすれば、理性・普遍的・友情的な愛、感情・情緒・満たされるものとしての愛、燃え上がり、恋として熱中する愛、肉体・お金・安定・心地よさを中心とする愛などになってきます。

4組には優劣はありませんが、能動と受容、霊・精神と地上・物質というような、大まかなふたつの質に分類することはでき、そのため、どらち(能動と受容、天上と地上)に重きを置くかによっては、その人なりの優劣、価値観による差異は出ます。

愛においても、天上的な愛でひたすら理想を目指すのか、地上的な愛での現実と肉体の充足を図るのかによって、生き方そのものも変わります。

ただ面白いのは、天上の愛を目指す人には、とても濃い地上の愛の出来事が待っており、逆に地上の愛の表現においては、背景に天上の愛の存在に気づく出来事が待っていることが多いものです。

これも4組的には循環であり、つまりは、「」と「」の間に「」が介在し、私たち自身が「人間」として、天と地の両方に足をかけて回っている存在といえます。

最終的にはこの4つを統合することが霊的には重要になります。

そういう意味では、一通り、4つの性質をラウンドすることが必要なのかもしれません。

そして4つの性質を実感として味わいやすのは、ほかならぬこの地上・現実生活なのです。

私たちが「人」として生きている理由、または人になっている理由のひとつは、ここにありそうです。


「運命の輪」に見る時間感覚

マルセイユタロットを見ていますと、たわしたちの現実感覚、現実次元を認識させるための大きな装置のひとつが、「時間」であると感じられます。

マルセイユタロットにおいては、特に大アルカナのカードで、すべての事象を説明することができるのですが、やはり、大アルカナにおいても、ある特定の事象とのつながりが深いカードというものも出てきます。

「時間」をテーマにすれば、最も「時間」に象徴的なのは「運命の輪」だと考えられますが、同時に、すべてのカードが「時間」というものの一側面を表していると見ることが可能です。(こういう見方が、マルセイユタロット的な特徴でもあります)

「運命の輪」で見た場合、このカードはその名の通り、大きな回転する輪と、その輪に付随するような形で、二匹と一匹の奇妙な動物たちが描かれています。

この動物の配置と形態には重大な秘密が隠されていますが、ここでは、時間を主題にしたある見方を提示しておきます。

この三匹は、時間的に見ると、「過去」「現在」「未来」という括り(概念とでもいうべきもの)を象徴していると考えることができます。

私たちが「時間」を「時間」として実感するには、時の差、時が動いている、進んでいるという感覚が必要です。

現在の今この瞬間を中心にして、過ぎ去ったものが「過去」、これから訪れるものが「未来」とし、そうすることで、時計(計測)的な“差”を実感することで、時間が流れている、経過していると思うわけです。

逆に言えば、この3つの括りがないと、私たちは時間の進みを感じ取ることができないとも言えます。

通常、私たちはこのように時間が進む感覚をもって生活していますが、時折、時間がなくなるような感覚、あるいは時計の進みが一定ではないような感じを受けることがあります。

それは、何かに熱中している(もしくは囚われている)時で、また、とても嬉しいことや非常にショックなことが起こった時など、通常の意識状態にはない時に起こりがちです。

いわゆる変性意識といってもいい状態で、時間が停止したり、変化したりする感覚を味わうのです。

まさに、意識と心の状態が、時間の感覚を変化させると言えますし、反対に、意識と心の状態が時間を司っているとも考えることができます。

時間は、個人の精神で流れる時間と、万人に共通な、天体の回転を基準にした時計的・計測的時間があると言われています。いわゆるカイロス・クロノス時間と呼ばれる違いです。(ほかにも種類があるのですが、ここではふれません)

私たちが過去・現在・未来と、一定の時間の流れで進んでいると感じている空間が現実で日常ですが、その時系列がバラバラになったり、時間の進みが時計的な進みとはまるで違ったような感覚を得たり、時が止まったかのような感じを受けたりしている間は、現実を超えたところ(特別な意識による別の空間)に移行していると考えることができます。

そして、その別の空間にこそ、現実を超えるヒントがあると想像できるのです。むしろ、そうした空間から私たちは現実へ降りてきているとも言えますし、意識が空間を作り出している(意識状態によって空間認識が変わる)と想定することもできます。

現在を中立として見た時、過去と未来は二元に分かれた分離意識とも言えます。

マルセイユタロットに描かれていることですが、私たちが総合的に進化し、成長するためには、個人としても分離した二元的性質を統合していくプロセスが求められます。

時間の統合(通常時間感覚からの脱出)というテーマでは、過去と未来を現在に集約させ、統合していく作業とも言えます。

それは精神においては、基本的に物理的時間を超えて、過去や未来に意識を(イメージとして)飛ばすことが自由にできますので、統合するチャンスがあると言えます。

しかし、過去に心残りのような未消化でネガティブなデータがあったり、未来に大きな不安を抱えていたりすれば、意識・心は分裂し、統合が困難になり、より時間を意識した世界に閉じこめられると同時に、自分が強く意識する過去か未来に囚われてしまい、今この時に全力で生きられないエネルギー状態(今が空虚な状態)となるおそれがあります。

そういう意味でも、過去や未来へ傾き過ぎた思いを中立に、今に戻していくことが重要です。

過去ワークや未来への思いの手放しなどが有効なのも、こうしたことが考えられるからです。

それは結局、囚われからの解放になり、今をもっと自由に生きることにつながるのです。


モノと心の成長性と魂の成長性

マルセイユタロットには、前からここでもずっとふれてきているように、霊的な成長の絵図として語られるところがあります。

霊的という言葉が難しい場合、魂的と言ってもいいかもしれません。

ただ、ここでの魂というのは、いわゆる「心」ではなく、もっと深く、高次の部分・状態を指しています。

振動や波動でいうと、高いバイブレーションを持つのが魂で、心はそれより劣ると言いますか、変化の波が激しいものだと考えられます。

スピリチュアルなことに関心を持つと、最初は物質的・地上的とも言われる面への一辺倒な見方から、見えない部分への視点へと移行していきますが、この段階では、「心」の面に注目していることが多いものです。

「自分らしく」とか、「ありのままの自分」とか、そういった言葉で表現される方向性へとシフトしつつも、その「自分らしい自分」というのが、たいていは、心・感情のレベルで語られることがあるわけです。

この感情レベルというのが厄介で、知性においても高い低いのレベルがあるように、感情にも崇高な愛の部分から、低次の好き嫌いレベルまで様々に存在します。

ここが、さきほど言ったように、「心には波がある(すなわち一定ではない)」というところにつながります。

「本当の自分」と思っていたものが、実は単に好き嫌いで見た自分の「好き」を選択した自分、嫌いなものから逃れた自分というものになっている場合があるのです。まあ、平たく言えば、わがままで見るエゴです。

大切なのは、心の面でも、統合的視点、好きも嫌いも見分けて、両面を受け入れ、本当に自分の部分として消化(昇華と書いてもよいです)することにあります。

つまりは単純に好きを選ぶというのではなく、嫌いなことや嫌なこと、避けているところ、見たくない部分など、影にも着目し、その存在をつきとめる(認知する)ことなのです。

感情レベルであっても、素直に好きを選べないのはなぜなのか、もう必要のない、自分を縛っている心のルールはないのか・・・こうしたものを見つめることで、影との統合も図られてきます。

言ってみれば、光も影も仲良くつきあう心に調整するというのに近いでしょうか。

結果的に、より純粋な心の選択ができやすくなり、それは葛藤が少ないものであるがために、生きやすくもなる(たとえ選択した結果が良くなくても、納得できるものである)というわけです。

こうした統合・調整をしないまま、好きなこと、楽なことばかりで動いていると、一時的には好きなことの選択だけで良くなったように見えても、影の部分は常にあるわけですから、事ある毎に、影から存在のアピールをされ、それによって、まさにいろいろな「影響」を受けるのです。

現象・心情としては、「満足したようでどこか満たされない」「順調だと思っていたことが急に悪くなる」「これでいいのかという疑問が、いつもつきまとう」「あと一歩踏み出せない」「何事も中途半端で終わる」「モヤモヤ感がある」「人の言葉や記事にすぐ影響されてしまう」「成功者、カリスマ、順調に行っている人をモデルとしつつも、そうなりれきれない悩みが出る」「うまく行っている他人と自分を比べてしまう」「スピリチュアルな願望達成法に執心(頼って)してしまう」「堂々巡り・ループのような状態に陥る」「好きなことが好きでなくなったり、好きなことが次第にわからくなってきたりする」・・・などのような形で現れます。

心の統合・調整プロセスにおいても、上記のようなことは同じように起きるのですが、違いは、ある段階で抜けたような感覚が伴い、それまで悩んでいたり、疑問に思っていたりしたことが気にならなくなる(あるいは、回答を得たような気持ちになる)ということです。

これは統合による次元上昇でもあります。

タロット講座でも述べていることですが、同じレベルでの好き嫌い・価値観による線引きを続けていても、真の成長は停滞するばかりです。

見た目はうまく行っているように思えても、同じ範囲のところの片面を必死で選択しようと、そこに留まっているだけで、必然、もう一面は切り捨てられています。

ところが、その切り捨てられたほうに、成長の飛躍の元があるのです。

植物でも動物でも、まったくの無機質、光(太陽光・天気)だけでは育たず、そこに有機物、影(雨、夜など)が必要です。

その成長とは、心・感情というより、魂的なものに近いので、成長や飛躍の基準としては、抽象的で見えにくいものでもあります。

よいものだと思っている片面の選択を頑張ってやり続け、その片面だけに留まる状態を長く保つことは、見た目の成長としてすばらしく映りますし、それは現実的・経済的な成功、心の豊かさのように思えるものです。

しかし本当の魂的な意味での成長観点からは、停滞として見えてきます。

一代限り(永遠性の魂を設定しない場合の)、人生の現実的・表面的充実としては、その選択もよいとは思います。

ただ、マルセイユタロットを深くやっていくと、そのレベルとしての人生を扱わなくなり、魂の成長を志向するようになってくるのです。


災害とお祭りに思う。

今の時期、京都では祇園祭がありますね。

だいたい夏の時期のお祭りは、火除けや疫病除けなどの祈願に関わっているものが多く、ムラでは稲を中心とした作物への、順調な生育への願い(虫除け的なものなど)が込められていたようです。

ところで、このところ、日本では災害があまりにも多くなっています。

これは日本だけとは限らず、おそらく地球規模の変動に関係しているものと思います。これが単なる自然だけの原因ではなく、間違いなく人間の要因もからんでのものでしょう。

というより、人間も地球や自然の一部であると考えれば、災害や天変地異も、当然、人に関係しているものと考えられます。

災害で被害を受けたり、脅威にさらされたりするというような、「被害側」「受容側」だけの意識ではなく、私たちも気象の変化、災害を起こしている側に関係しているのだという加害的・能動的認識も、今必要だと思います。

そこで祇園祭の話に戻ってきます。

祇園祭は、貞観(およそ860-70年)年間に起源を持つと考えられ、最近では、東北大震災の影響で、貞観時代との関連が取りざたされ、災害から見た祇園祭の意味が見直され始めています。

貞観年間は、恐ろしく災害の多かった時代で、東北大震災・津波、阿蘇山・富士山などの噴火、播磨や京都での地震など、まさに日本列島全体が鳴動していた時代と言えます。

そして、現代もおそらく、この時代と同様の、列島の活動期、あるいは災害多発時期に入ったとものと推定されます。

祇園祭も、姫路の広峰神社から牛頭天王という神格を勧請し、疫病・災厄から京都を静めようと祭が始まったとされています。

この牛頭天王が何者であるかを考察するのも興味深いのですが(マルセイユタロット的にもある法則に基づくカードたちで象徴されると考えられます)、それは今回は置いておきまして、ここでのポイントは、災厄を静めるために、その当時、すでに地震のあった播磨地方(今の地名では姫路を中心とする地域)から、強力な神を招き入れ、京都(当時の意識での全国の中心)を安定させようとしたということです。

そしてそれが、「祭」という行為でもあったことです。

災害や天変地異が起こると人は祈りますが、前もって無事や災難に遭わないようにと祈ることもします。

科学的に、祈りは、大地や気象などの自然に何も効果も及ぼさないと、今は考えられているでしょう。

しかし、当時はお祭り(祀り)によって、それを行おうとしていたわけです。

「昔の人は無知だから仕方ないよなあ」「今はただの観光的お祭りでしか意味ないよ」と人は思うかもしれません。

私も下手なスピリチュアルな感じで、祈れば大地が静まるということを単純に述べたいわけではありません。

私は大学時代、「環境民俗学」なるものを提案されていた教授のゼミに在籍していましたので、民俗学的観点で見た環境保護のシステムを知っています。

これとは厳密には異なるのですが、民俗的行事や信仰、行為が、実は意外な働きをしているということがあり、それで考えると、祇園祭も含めて、災厄除けのお祭りとその祈りには、私たち自らの心を安定させる効果によって、環境そのものにも影響及ぼすシステム(メカニズム)が働いているのではと思うことがあります。

私たちが祭り・祀りというハレ的な行事・行為を行うことによって、もちろん、信仰的なものによる、神のエネルギーの発露やその享受という意識も芽生えるのですが、同時に、皆でひとつの大きな行事を行うことで、意志の統一が図られ、厄除けであれば、「厄」すなわち、今の時代でいうならば「災害」に目(意識)を向けることになり、神に祈ること、神に静めてもらうこと、守ってもらうことという「ストーリー」によって、祈る人間自らの心の安定をもたらせていたと考えられます。

これが、多くの人がリアリティを持つ、強い「神」であればあるほど、効果も高くなります。

しかも行事・儀式を行うことで、それが現実に見える形での像として記憶され、その体感により、より「静めの儀式を行った」という安心感(実感)につながります。(敬虔な祈りの部分と、楽しく、あるいは激しく行う祭り行事との融合で、ネガティブな気持ちが解消、浄化、発散される効果もあり)

心の乱れが自然や環境の乱れにもつながると見ると、私たちが危機感を持ちつつも、安心安寧に意識が変化して行けば、自然もまさに「自然に」治まっていくことも予想されます。(周波数との関係も想定できます)

安心することと油断することとは違い、祭りを行うことで、過去の災害の記憶も伝承され、忘れ行く意識を喚起させることに奏功し、防災意識も働いていた(それが静めにも影響していた)のだと推測されます。

ただ祈れば何とかなるという神頼み的なものではなく、自身の内に神性があること、そして、ネットワーク的に、多くの人が意識することでその部分が覚醒連繋し、静めの効果につながっていくと思えるものです。それは受動的なようでいて、能動的なものです。

むしろ静めるというのは結果であり、そのプロセスのほうが重要かもしれません。

現実的に環境整備や物理的なことの防災を進めていくことも重要ですが、一方で、人々の意識・心が、やたらと騒動するような今の時代にあるからこそ、意識を静めていく(調整していく)行為としての神聖儀式、祈り、お祭り(お祀り)というものを見直し、観光や経済、娯楽の側面だけではないことも思い直すとよいのではと考えます。

人は助け合い、共同的に生きているものであり、自分だけがわがままで生きればよいというのでは調和と言えず、全国的災害規模となる今となっては、全体での意識と働きかけが重要になってくると思います。

従って、今のような災害も、むしろ統合のための災厄としてとらえていくと、起こっている(神仏的には怒っている)理由も、霊的には想像できるものです。

そして貞観時代の再現のように今があるのならば、時代は大きなサイクルで動いていることも考えられます。(マルセイユタロットでは、「運命の輪」「力」に関係します)

しかし、たとえ同じサイクル・回転があったとしても、まったく同じことを経験するわけではなく、もっとひどいことにもなれば、もっと軽くなることもあるわけで、それは回転を螺旋の動きとして見れば、堕落と向上の両方の分かれ道があることが見えてきます。

願わくは、堕落や同じルートのループにはならないよう、脱出、次元を上昇する意識と行動にしたいものです。


正しさの判断がわからなくなっている人に。

マルセイユタロットの全体としての見方では、上昇や下降しての、いわゆる「レベル」や「次元」の上下という成長(調整)方向と、それとは異なる、すべてをひとつと見ることを前提としながら、逆にバラバラに分析していくような方向性(分離と統合)とがあります。

実はその両方を同時に見ていくことが鍵でもあるのですが、こうした物事の把握の仕方をしていくと、矛盾しているようなことも、案外と自分の中では整理したり、理解したりすることが可能になることがあります。

例えば、物事には順序・段階があり、何事も簡単にできるものではなく、ひとひとつの積み重ね、様々な経験を通して成長していくものだという考えがあります。

これがさらに強調されると、成功や目標、幸せも、簡単には手に入らない、それ相応の努力と、確かな経験を積まないと達成(完成)しないのだという、実は皆さんが好む、サクセスストーリーの裏話(実は影ではものすごい努力をしていた・・・みたいな話)のようなことになります。

ところが、現実には、努力をしなくてもうまく行っている人もありますし、目標に向けて、それなりの作業や行動はあったとしても、それが「努力」や「つらいこと」「苦行」「成長のためのたくさんの経験」のようなものとして、必ずしもいるわけではないこともあります。

また、最近では、心理系・スピリチュアル系ではよく見られる主張ですが、努力とか、頑張ることはしなくてもよい、自分がしたいこと・したくないことをはっきりさせていくことで自分らしさが出せて、周りの人も「自分(周囲から見れば「あなた」)」のこともよくわかってもらえて、のびのびと生きやすくなるという人もいます。

そうかと思えば、人としての成長は、たゆまぬ努力、他人や周囲との軋轢や気遣いなども経験して、大人になるものだという人もいます。いわば圧力や試練が人を成長させるという話です。

まあ、今は後者は時代遅れの話として、嫌われているところがありますが、それも結構誤解されていると思うのは、試練に耐えて成長した暁には、逆に自分らしさを、適切に、しかも自由に出せる胆力とか気風とか、判断力がついているという前提があります。

刀を鍛えて完成すれば、すばらしいものになり、何でも切れるし、防御もできる無敵の刀が誕生するというイメージです。ですが、鍛え方を間違うと、途中で折れてしまったり、曲がったりしてしまうので、鍛えるにしても、その加減が大切ではありますね。

それはともかく、話を戻しますと、これだけ今の時代、いろいろな方が、様々な話をすることで(情報がスコールのように降り注ぐ時代で)、「自分はいったいどうしたらいいのだろう・・・」「誰の言っていることが正しいのだろう・・・」と悩んでしまう人もいると思います。

問題のひとつは、「正しいものがひとつしかない」と考えることにあります。

たとえ真理がひとつであったとしても、この現実次元は、一人一人個性をもって生きている世界です。

従って、すべてはオーダーメイド、処方箋(自分に正しく作用するもの)は一人一人違うのです。現実においても、医者が処方する薬自体は同じでも、その種類の組合せ、容量・用法は一人一人違うことが多いものです。

身体は当然のこと、ましてや思想や精神まで考慮すると、一人一人違っているのは当たり前ですから、正しいものも、人の数だけある世界と考えるのが妥当です。

というのが、上下方向に、成長・下降を考える観点です。レベルの違い、次元の違いで見る方向性ですね。

究極は人は皆同じ、「宇宙」そのものであったとしても、現実次元では個別であること、そうした表現になっており、逆に言えば、「正しさ」というものが、どのレベル(範疇)で述べられているのかによって見ていくと、「正しさ」に関する悩みも少なくなるでしょう。(ただし、同じレベルの中では正しい・正しくないがある世界ですから、そこでの悩みはあります)

しかしながら、上下方向(で見ること)の欠点は、どうしても高い・低いの優劣みたいな段階を投影してしまいがちなので、その階段を登るために、努力しなければ成長できないという発想に囚われることにあります。

そのため、上下ではなく、左右や全体を円のようにしてみる見方も取り入れるとよいです。

上下では、自分が下にいて(あるいは上にいて)、登る(上る)か降りる(下る)かの視点になりますが、円的な観点では、自分を中心に置き、あらゆる要素が周囲に散らばっていると見るか、円そのものが自分であり、その円の中にすべてのものが入っていると見るわけです。

そうすると、自分自身は本来、円として完全、あるいは中心点として、どこに行くこともないし、周り(か、円の内側)のどことも関係しているという図形的特質からの感覚が出てきます。

そこから、「自分はもともと完全だから、欠けていると思っていところや、黒く塗りつぶされている部分を回復させればいいのだ」という発想になってきます。

こうなると、上下方向に階段状に成長していく、試練によって鍛えられていくというのではなく、今、気づきさえすればいいい自分の中心を取り戻せばいいということになってくるのです。

これは、努力したり、試練を受けたりして頑張って成長するというよりも、自分(らしさ)、自分軸・自分としての中心点を回復させることのほうが重要という見方になってきます。

だから、この観点では、人は一瞬でかなり変われることもあり得ますし、段階を踏まずとも、急に成長したかのようになることもあるわけです。

ただし、これもどちら(上下垂直的観点と、左右円的観点)が正しいかと言っているのではなく、観点をいろいろと持っていれば、「様々な人の言っていることを矛盾に感じたり、迷ったりする自分の心」を整理したり、納得させたりすることができるのだと述べているわけです。

もちろん、人ですから、誰でも好き嫌いのような感情はあります。

「この人は嫌いだから、この人の言うことは間違っている」と感じたり、「あの人の言っている内容は自分も好きで納得できるから、たぶんあの人はいい人だ」みたいになったりすることがあるわけです。

ただ、これも「感情」というものを中心にした見方です。これに対して、よく言われるように、反対概念として「思考」があります。

言わば、心が感じるか、頭で考えるかみたいなことです。

そしてたいていまた、スピリチュアル系統になりますと、心・ハートで感じたほうの選択がよしみたいなことで言われるのですが、ここで、心も頭も、あくまで人に備わったひとつの見方・観点としても見るのも面白いです。

マルセイユタロット的には四大元素と第5元素の思想が伝わっていますので、それを援用すると、私たちは心や頭(で感じたり、考えたりすること)それ自体が本分ではないということであり、結局、感情も思考も材料みたいなもので、それらを判断し、統合する「本質の自分」というものがいるわけです。

てすから、その視点からすれば、心で感じたことが正しいとか、頭で判断したほうが正しいとかの、まさに「正しさ」での発想・悩みとは異なってくることになります。

まあ、人によっては得意とするタイプがありますから、心がセンサーとして感度が高い人もいれば、思考のほうがそうであるという人もいます。性別的な違いも考えられます。

ですが、それは、自分の本質そのものではなく、自分の一部であるということです。(ただし一部ではあっても、違うレベルにおいての全部にもなっているというところが密儀的にはあります)

いつも全体を俯瞰している「魂の部分」と言いますか、もう一人の自分、本質の自分ともいえる者がおり、それらは心や頭で判断する(判断したと思っている)自分とは別です。

その本質に気づいていくことが、おそらく霊的な観点や成長につながるのではないかと、マルセイユタロット的には考察できるのです。


Top