カードからの気づき
「運命の輪」の回転の示すもの
タロットの「運命の輪」のカード。
絵柄も面白いですが、その名も面白いですよね。
どのカードも深淵な象徴性を含みますが、このカードもしかりで、いろいろな意味が見出されます。
そして、そうした様々な象徴性の意味において、まさにその名のごとく、「運命」に関係するものが、このカードにはあると考えられます。
皆さんも結構、「運命」のお話は好きなのではないでしょうか。(笑)
では、今日は、このカードをもとにしながら、自分の運命を変えていく視点をご紹介しましょう。
ただ、一口に「運命」と言っても、「運」と「命」という言葉に分けられるように、「運」という運ばれるもの、運ぶもの、いわば変えられる部分と、「命」と書くからには命というか、絶対感のあるもの、つまりは変えられない部分とがあると言われています。
ここでは、どちらかと言えば、「運」のほうに焦点を当てていると考えてください。
さて、私たちは「現実」の中に生きています。
しかし、映画「マトリックス」のモーフィアスの言葉ではないですが、「現実とは何か?」と深く考えますと、よくわからないところも出てきます。
ややこしくなるので、今は「現実」の定義の論議はしないことにしますが、とりあえず、“現実”には皆さんが共通に認識している「現実」と、一人一人が思っている「現実」とがあると仮定します。
ここで問題・テーマとなるのは、後者の、一人一人が思っている「現実」です。
これは簡単に言ってしまうと、「自分がそうだと信じている思想・ルールが、外側の現象に投影されているもの」と考えることができます。
もっとシンプルに言い換えれば、「自分が信じている世界がその人の現実」ということです。
ということは、信じているものが変われば、自分の現実は変わると言えます。
そこで、「運命の輪」です。
例えるなら、一人一人の信じている「現実」が、これまた一人一人が回している「運命の輪」です。
この輪の回転は、当然、一人一人違うもの(回転のスピード、輪の大きさ、回るタイミングなど)です。
「出会い」で言えば、この輪(の回転)がシンクロ(一瞬一致)した時に同調して発生すると考えられますが、そのことは今日の話とは別なので、またの機会にお話します。
いわゆる「運がいい」「うまく行っている状態」などと見られる人の「運命の輪」は、「運が悪い」「苦労ばかりだ」という人の「運命の輪」とは異なっているわけです。
さきほどの話で表現すると、信じている世界(その人の作るルール)が違うのです。
最初は共通認識で同じように見えていても(信じていても)、やがて、自分の経験することの解釈によって、自分ルールができて、それを通して見た世界(自分フィルターを通して見た世界)が作られていきます。
輪の回転が変わってくるというか、一定のもので固定されていくと述べてもいいでしょう。
なぜ、個人差でそうなるか(そもそもの経験(運)自体が違うこと、同じ経験をしても解釈やとらえ方が違うこと)は、「命」の問題があって、カルマとも無関係ではないと考えられますが、それは置いておき、ともかく、自分らしい「輪」に固まってきて、結局、自分自身が「運命の輪」を回して、自分の思う世界を創っていくことになるのです。
ところが、輪は、スピード、大きさなど、変えていくこともできるのです。
要するに、自分の信じているルール、世界観を変えれば、輪も変わり、輪の回転によって生み出される、まさに「運」(自分と人・物事との関連性の実際とその解釈)の運ばれ方も変化するわけです。
自分の信じていることを変えるためには、実社会の経験も大切ですが、「考え方・感じ方」なので、結局それをチェンジする思考・感情のバージョンアップ(浄化・変容)ということが重要になってきます。
しかし、なかなか長年の習慣で固定されてしまったものを変えるには、それなりのインパクト、あるいはコツコツとした修正が必要でもあります。
ここまでは、タロットの「運命の輪」のことを知らなくても、スピリチュアルとか精神世界とか、心理関係を学んでいると、聞いたことがあるような話ではないかと思います。
実は、重要なのは、次です。
こうして、自分の信じる世界観・ルールを、言わば破壊して、新しい自分に変化・上昇していくことが、すなちわ、自分の「運命の輪」の回転を変えていくことにもなるわけですが、そうは言っても、どうしても自分の信じる世界で壊せないものが残ってきます。
または、壊してきて(変化させてから)も、あるところでどうしても止まってしまうものと言ってもよいです。
いや、それさえも壊すことができるといえばそうとも言えるのですが、ここで言いたいのは、自分の思いで変えたくないものにポイントがあるということなのです。
あえて言えば、どうしても「こだわりたいもの」とでも表現できましょうか。
これはタロットでいえば、「運命の輪」の「10」という数からひとつまた前に戻って、「9」の「隠者」で探究するものと象徴してもよいかもしれません。
ともかく、壊そうと思っても壊せないもの、回転を変えたと思っても、また戻ってくるもの、自分の中で別の輪として回り続けているもの・・・これらに注目すると、マルセイユタロットの「運命の輪」の描写の不可思議なところ、謎についても、少しわかってきます。
日本語の表現は面白いもので、「現実・げんじつ」は、「幻術・げんじゅつ」と響きが似ています。(笑)
私たちは自らを幻術にかけて、現実を過ごしている存在なのかもしれませんね。
「愚者」と「智者」
タロットカードには「愚者」というカードがあります。
大アルカナと呼ばれる22枚の重要なカードのうちでも、数を持たないカードとして、特別なカードと言えます。
諸説ありますが、トランプとタロットの類似性と同起源説を考慮すれば、タロットの「愚者」はトランプでの「ジョーカー」に該当するものと考えられます。
トランプゲームは、皆さんも経験があると思いますが、ジョーカーの役割を思い出してみてください。
たいてい、ジョーカーは、どのカードにもなれるオールマイティのカードであったり、場を変える(時にはゲームルールさえ無視できる)「切り札」でもあります。
これは、逆に言えば、タロットの「愚者」も同じような性格があると言えるのです。
オールマイティーなのも、「愚者」に数がないからであり、どの数のカードにもなれる、もしくはとじの数のカードにも規定されないということになり、まさに自由性が強調されますし、ある意味、どのカードも内に含むとなれば、「愚者」は最強で、この一枚そのものがタロットだと、たとえられてしまうかもしれません。
実際、タロットリーディングのケースによっては、「愚者」が出れば、不可能も可能にする、ダメだと思っていても驚くような解決策や突破口があると読むことがありますし、その反対に、順調かと思いきや、思わぬアクシデントや混乱に注意と読むこともあるのです。
それほど、「愚者」のエネルギーは強力だと言えます。
ところで、「愚者」は、言ってみれば、「愚か者」「バカ者」、関西弁では「アホなヤツ」となります。(笑)
バカやアホ、愚か者になることは、一般的に嫌われますし、普通はなりたいくないと思われる存在です。
ですが、時々言われるように、「バカになってみろ」とか「アホもたまにはよし」とか、正しく、まじめに生きることがだけがよいこととは限らないという意味で、慣用句的に使われることがあります。
「愚か」という言葉、バカになること、アホになることに強い拒否感、忌避感がある人は、やはり、まじめに一生懸命生きることが正しく、それこそが報われる人生なのだとすり込まれているところがあるかもしれません。
一方で、ことさらバカを強調し、どんな時でも場をわきまえずに、愚か者のパフォーマンスをしてしまう人がいます。
こういう人は、タロットの「愚者」としての強力なパワーを本当に持つのではなく、そのパワーにあこがれて、人とは違ったことをして注目してもらいたい、私は、オレは人とは違う、当たり前の人間ではない、天才であるなどとアピールしたい欲求が隠されていることがあります。
言ってしまえば、強い自己否定、自己卑下、自信のなさと不安にかられているのです。(その裏返しによる強い承認欲求)
ところが、今の時代、ネットなど、簡単に自分から発信や表現ができる道具が備わっていますから、かなりそういったパフォーマンスが人目につき、人々の心に何らかの印象を植え付けやすい様相を呈します。
つまりは、発信している側の当人の本質は「愚者」ではなくても、外向けの「愚者」を演じることが、本当の「愚者」のエネルギーにふれている人(特異な才能を持つすばらしい人がいる、常識を打ち破るすごい人)だと、受け取る側が誤解しているところも多くなっているのです。
それでも、この現象は、必ずしも悪いわけではありません。何事も両面があるものです。
たとえ、偽物の「愚者」であったとしても、そういうパフォーマンスに何か心を打たれたり、影響を受けたりするというのは(注目してしまうのは)、受け取る側に「愚者」を待望している心があるからです。
もっと言えば、自分の中の愚者魂ともいうべき、愚者たるパーソナリティがうずいている(反応している)のです。
そこに気づくことにより(刺激を受けることにより)、潜在的な力の発現があったり、自分の気づいていない能力や勇気、パワーをもらったり、あまりに他人や外のルールに縛られて、自分自身を生きてきていなかった人に自覚を促したりする良さがあります。
タロットの「愚者」(の示すもの)は、原初の創造性のエネルギーとつながっており、決まりきった形、固定して進化が止まり、停滞と淀みの中にある枠・社会・心を破壊して元の原初にかえす役割を持ちます。
本物であれ、偽物であれ、実はその背景に「愚者」というエネルギーが憑依し、あるいは、「愚者」という存在が、外に出ようとふざけて(笑)、演劇を施しているのです。
そのことを知ってか知らずか(たいていは気づいていないのですが)、愚者的魅力に取り憑かれた(「愚者」に操られた)演者は、ますます愚か者ぶりのパフォーマンスで、人から喝采を浴びていくことになります。
それを嫌悪する者、迎合する者、すべては「愚者」のエネルギーに巻き込まれています。
しかし、それもまた楽しいのが「愚者」なのです。
現実的にも、心理的にも、また霊的にも、成長において、「愚者」のエネルギーと接触することは必要です。
同時に、強大な「愚者」のエネルギーに自分を見失わず、制御していく部分も重要になっていきます。
「愚者」は、時に「悪魔」の力とも結びつき、先述した「愚者」に取り憑かれたパフォーマーは、自分が「悪魔」(カリスマ)として錯覚し、エゴの肥大によって自己が破壊されていくと同時に、他人を支配することに魅了されていきます。
だからこそ、マルセイユタロットの「愚者」は、その情熱的な赤い杖とともに、その杖のエネルギーを制御した「隠者」と出会うような視線の方向と順番になっているのです。
「隠者」の智慧は、「愚者」が破壊に走ることを止め、そのエネルギーをコントロールし、自らの運命を変えていく「運命の輪」の段階へと導きます。
「愚か者」と「智者」はまさにセットになっているのです。
それから、「隠者」はまじめ一方でもありません。よく日本の漫画やアニメで、卓越した師匠的な人物がギャグ路線の性格であったり、力の抜けた面白人物であったりするように、「愚か」ということを、本当の意味で「隠者」はよく理解しています。
真理の到達には、常識人の知識、振る舞いでは到達できないことも知っているのです。
それゆえ、私たちは、やはりまずは「愚者」になっていくことが求められます。
しかしそれは、「愚か者」のふりをすることではなく、また人と違ったことをすれば認められるという承認欲求に基づくパフォーマンスでもなく、魂を自由にしていくことを知る「智者」であることなのです。
楽しい、楽な人生の選択で悩む人に
タロットの学びは精神世界やスピリチュアルなことと関連することが多いものです。
そういった世界でよく言われるのは、自己の解放です。
そしてまた、自己の解放と結びつけて主張されるケースで、楽しさや好きなこと、ワクワクするものを選択する人生というテーマがあります。
その趣旨は、結局、楽な人生、楽しい人生(「楽」の字が2回出るように、「楽」が中心観点)が送ることができるかにあるように思います。
ということは、自己の解放は、「楽に生きられるかどうか」「自分が楽しく感じられるかどうか」が論旨にあることになります。
ここで人によっては、反応がふたつに分かれてくるのではないかと思います。
ひとつは、楽な人生というのはどうよ? そりゃ、つらい人生は嫌だけど、ある程度の苦労は必要なんでは?
というものと、もうひとつは、
その通り、苦労する人生なんてわざわざする必要はない、楽しい人生、幸せを感じる人生を過ごしたいというのが一番、またみんなが楽で幸せであってほしい
という感じのものです。
つまりは、「楽」というものに抵抗を感じるか、まったくその通りだと肯定するかです。
前者はいわゆる常識や普通の感覚を持つ人に多く、後者は解放系ともいえる、自身も自由な生き方をし、スピリチュアルや精神世界の先導的・講師的な人物に多いような気がします。
わざと変な見方で言いますと、前者は後者の顧客や信者になることが多く、後者は前者を洗脳することもあります。(笑)
もちろん、よい意味でいうと、前者は後者の囚われを解放し、後者によって、前者はさらに自分の意志と生き方を肯定できる(力・フォースを解放する)ことになります。
後者の人はよいのですが、前者の人はいろいろと「楽」や「自由」について悩んでいることもあるかと思います。
そこで、その悩みに整理をもたらす考え方の幾つかを提示しておきます。
●「苦楽」を「善悪」や倫理観で考えない
苦楽を善悪や倫理の観念と強固に結びつけてしまって、困惑している場合があります。
自らが、楽をすることは悪、楽しいことばかりはありえない、楽をすると必ず罰がある(バチが当たる)、楽して稼ぐことは悪、仕事に楽はない・・・みたいな、世間が作りだした観念・ルール、一種の信仰のようなものに縛られていることがよくあります。その時その時の社会状況や時代の影響も結構あります。
ですから、その考えは本当なのか、例外はないのか、なぜそのようなルールや思いになっているのか、誰にその観念を学び、植え付けられたのか、そういうことを冷静に検証することで、「楽」そのものを中立で考えることができるようになります。
●子どもと大人(未成熟と成熟)というふたつの目で考える
自分が大人なのか、子どもなのか、つまり未熟か成熟か、独立か保護にあるかで、フィールドや分野ごとに分けて考えます。
まだ自分が成熟していない、一人前になっていないという分野では苦労が必要なことがあり、独立している部分、成熟している分野では楽を選択することができる(苦をわざわざ選ぶ必要がない)ということです。
分野は、次元やレベルに置き換えることもでき、自分の成熟した(と考える)範囲やレベルにおいては自由や楽が選べ、さらにそこから成長したり、拡大したりする時には、あえて苦労を選択したり、苦がやってきたりするものだという見方です。
エネルギーや運動性においては、圧縮と解放(によって動き)があるように、プレッシャー・圧力を苦労と例えるのなら、それをかけないと解放や大きなジャンプも導かれないとう自然の摂理からすると、成長のために「圧力」は必然といえます。それを苦として感じるかは、志や目的によっても変わるでしょう。
●「楽」を、本当の意味で自分が楽しいかどうかで見る
楽や楽しさというのを世間や他人の尺度で感じず、あくまで自分の感性でもって見るということです。
他人から見れば、それは楽しそうに見えなくても、自分にとってはそれは楽しい、やりがいがあるというものならば、それは「楽」だと考えます。
これが自分の表面意識では、まだわからないところもあります。
他人はおろか、自分でさえ、「つらい」「苦しい」と思うものであっても、それは自分の奥底の気持ちでは「楽しい」という場合もあるのです。
まあ、楽しさの質や演出が違うみたいなものでしょうか。
同じゲームでも、難しいほうをあえて選択するのが好きで楽しいという、マゾ的でへそ曲がりといえばへそ曲がりなのですが(笑)、そういう選択を魂をしたがっているという見方もできます。
ただ、ずっとそういう(表面的な苦、奥底では楽という)一生ではなく、ある程度の経験が十分にできれば、今度は表も裏も楽をしていく人生という選択に変わることもあるでしょう。
●究極(抽象)次元と個別(具体)次元を分けて考える
多くのスピリチュアリスト、特に先述したような解放系を体現しているような人の物言いは、一元的や究極次元から語っていることがあります。
高い次元、大きな次元からいえばその通りではあっても、私たちは個性を持ち、一人一人違った性格や人生観、生育史を持ちます。
よって全員に共通して通じるところと、一人一人、程度や割合、さらにプロセスとして、異なってくることがあるのも当然です。
要するに、人の言うことは鵜呑みにしたり、全部が正しいと受け入れる必要はないということです。
違和感を持ったり、反感があったりしても、それが個性としての今の自分なのです。
しかし抵抗や反感もよい刺激になるので、そのことをきっかけに、自分が成長したり、もっと解放できたりすることもありますから、悪いわけでもないのです。
自分なりのステップとやり方で、自由や楽を目指せばよいですし、その間に苦や痛さの経験があってもよいと思います。
●やり方や方法よりも、あり方や器を変える
もしくは、イエスかノーかの考えをやめる
楽を選択する人生がいいのか悪いのか、ワクワクしたり自分らしく生きたりすることがよいのか悪いのか、それは正解なのか間違いなのかというように、どちらがいいか・悪いかというイエス・ノー的な二元的考えに囚われると、結局、葛藤と争い・相克の世界に自分を置くことになって、それがそもそも「楽」ではなくなってくるという矛盾、本末転倒な状況を生みます。
また何とか楽をしたい、楽しく生きられるようになりたいと、方法やメソッドばかり探して、自分自身のあり方や自分の器、枠をそのまま放置してしまっていることもあります。
方法自体がよくするのではなく、方法によって自分を縛っているルールや枠、または小さな器を壊したり、大きくしたりすることのほうが大事です。
それは一言でいえば「統合」または「次元上昇」と言えます。
楽しいと思うことを選択するより(楽しいを選択していると人生がうまく行くというより)、苦や楽と今まで思っていたことが、どちらでもなかった、そう判定していたレベルの自分に気づいたということが(人生を楽しいと感じるレベルに自分が上昇する視点を持てば)、結局、「楽」な状態になっていることと同じになるのです。
ただ、「楽しい」「楽」を選択していくことで、自分の考えや枠、タガがはずれ、自然に次元が上昇していることもあります。行動から結果を起こすという方向性です。
それは先述したように、人によって個性があるので、選択も違ってくるでしょう。
ほかにも整理する考え方は色々ありますが、今日はこのあたりにしておきます。
女性・男性、学び方の違い
タロットの大アルカナカードを見ていましても、明らかに女性と男性の性別の違いがわかるカードと、どちらとも取れないカード(あるいは両性具有的カード)というものがあります。
タロット(マルセイユタロット)がわかってくるようになりますと、性差というより両性の象徴する、性質の差(分離)とその統合に重要な鍵があるのではないかと気づいてきます。
ということは、タロットでの絵柄による性別(と、その区別がつかないような)の描き方は、意図的なものがあると考えられます。
中でも、「悪魔」と「世界」のカードは、見た目にも両性具有が見て取れ、性の象徴性の統合について、大きな示唆を与えてくれます。
さて、そうは言っても、現実に戻りますと(現実的に考えますと)、私たちはその感情(内面)は別にしても、外面として性差を持って生まれてきます。
世にあらゆる二元(ふたつのもの)の区別があるように、女性と男性は同じ人間ではありますが、違いも明らかです。
私は男性ですが、タロットを習う生徒さんには男性もいますが、女性がほとんどです。
タロットの講師(先生)も、どちらかと言えば女性が多いようです。
最初の頃は、タロットを教える人が男性であることを不思議がられたこともあります。(笑)
そうして、女性の方が男性にタロットを教わる場合と、女性の方が女性の先生に習うのとでは、おそらく違いがあるのではと想像しています。
つまりは同性間で習うのと、異性間とでは違いがあるのかどうかというテーマです。
これも、女性も男性も同じ「人」であり、「タロット」に興味を持つ者なので、それほど本質的な違いはないと言えばその通りだと思います。
むしろ、性別より、その人の持つ個性とか経歴のほうが「違い」として出ることが多いかもしれません。
ただ、それでも性質として言えるのは、男性は論理的で分析的傾向を持ち、女性は直感・感性的で包括的な傾向を持つと言えるかもしれません。
従って、教え・教えられる時でも、その違いはある程度は出ると考えられます。
同性間では、性質・傾向として当然同じものがありますから、コミュニケーションや学習伝達の度合いについては、スムースなところがあるのではないかと思います。
私も、まれですが、生徒さんが男性ばかりの教室(講義)の時があり、この時はいつもとは異なる質での、伝わり方を実感しました。
おそらく基本は同性同士のほうが、伝わりやすいとは思いますが、逆に化学反応のような、異質なものの刺激による飛躍というものも、同性の場合は少なくなる気がします。
私のタロット講義も、女性の生徒さんに対しての説明は、女性からするとわかりづらいところがあるのではないかと推測しています。
どうしても男性として知識的なもの、論理的なものへ偏るところはあるからです。たとえ感性・感覚的なものであっても、両性の違いはあるでしょう。
これまでの経験と考察により、女性と男性の知性の開き方、受け取り方、活かし方は異なっていると考えています。
なお、ここでいう「知性」とは、暗記したり、覚えたりして増やす知識ではなく、智慧という表現に近いものです。
女性は本質的にすべてを知っており、それが真の知性として自分の中に内在しています。しかし、そのことに気づいてない(忘却状態になっている)人が多いのも特徴です。
女性は知識的な正しさよりも、自らの持つセンサーに合うかどうかが重要になってきます。(そのため、センサーが真の知性とつながっている必要があります)
一方、男性は知性を持ちません。(本当はありますが、女性のような、気づきでの知性発動が少ないのです)
男性は、自分の中に知性を育てる必要があると言ってよいでしょう。そのため、知性のために知識を入れたがるのが男性であり、知識的正しさ・正解を追い求めます。
えらそーに知識をひけらかす(知識にこだわる)者に男性が多いのも、そうしたことが理由のひとつと考えられます。(笑)
ここからタロット学習(タロットに限らずですが)と性差について考えると、それぞれの学び方がわかってきます。
女性は知識を入れることにより、自分の中の知性を思い出す刺激・触媒とします。
本当は学ばなくても女性はすべてを直感的に知っているのですが、知識によって知性を蘇らせるきっかけとします。
言い方を換えれば、逆側に振り子を揺らすことで、元に戻ろうとする力と統合され、結局、自分を含む大きな振幅を思い出すことになります。
反対に男性はひたすら知識を入れ、分析し、比較検討し、普遍化の道を探る必要があります。そののち、知識が爆発し(フルにチャージされ)、感性に目覚め、今までの知識を超えたところ、つまり真の知性に覚醒します。
とはいえ、極端(両端)に女性・男性を置くと(色でいうと白黒)、その間の数だけグラデーションの色がありますから、女性性よりの男性、男性性よりの女性もその分だけ存在します。
ですから、必ずしも、男性だから・・・女性だから・・・と上記であげた学び方になるとは限りません。その間や差もあるのが「人」として個性でもあります。
ということで、男性としての私から学ぶ女性の生徒さんたちは、当初は女性性側からの違和感が出て、感性的に混乱したり、逆に自身の中にある男性性的な知識欲を満たしたりすることもあるかもしれませんが、自身にある女性性と真の知性の発動(復活)、という点では、女性の講師に学ぶのとはまた違った、興味深い道を辿ることになるでしょう。
反対に、女性の講師に学ぶことで、スムースに自身を開花したり、タロットを読むセンスが開かれたりすることもありますから、性別で決められるものでは、やはりないと言えます。
ただ、性別を意識した学び方も知っておくと、下手に苦労したり、困惑したりすることは少なくなるでしょう。
「手品師」「力」「世界」の3視点
マルセイユタロットの大アルカナで「1」をその数に持つカード、具体的には「手品師」「力」「世界」の3つを並べると、面白いことが浮かんできます。
タロットと数の関係は、もちろん無意味にふられているわけではないのですが、タロットはあくまで絵としての象徴性がメインであって、数秘術的なタロットの解釈を中心にしてしまうと、問題や誤解を生じることもあります。
しかし、先述したように数との関係もありますから、数でもって見てみるのも一面ではありです。
「1」の数の意味は、特別に意識したり学んだりしなくても、およそ皆さん、ニュアンスで感じられている通り、始まり、新規、フレッシュというような意味合いが出てきます。同時に、数秘的に、全体や完全性を表したり、私たちの思う「ゼロ」の概念も含まれたりすることもあります。
わかりやすく「始まり」的な意味で見ていくにしても、「手品師」と「力」と「世界」には、それぞれの「始まり」があると考えられます。
それについての詳細は講義でお話してはいますが、簡単に言えば、レベルの違いであり、少なくとも私たちは、マルセイユタロットが示すことからすれば、3つのスタート・始まりの段階を持つということになります。
「1」は完全性を象徴するということも書きました。
よって、始まりと同時に完全・完成でもあると考えられ、すなわち、終わり(完成)においても、3つの段階があることがわかります。
3で象徴されるクォリティ(質・状態)と言えば、創造・維持・破壊という3つの自然・森羅万象の流れがあります。これはインドの神々(ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ)でも象徴されており、占星術その他においても、3つに分けられる性質(状態)があります。
このうち、創造と破壊は表裏一体のものであり、直線で表すと、3つの状態は山型になりますが、創造と破壊を結んでしまえば円形として見ることもできます。
つまりは循環や永遠性の形と言えましょう。そのことは、「手品師」「力」「世界」の中の細かな象徴図形としても描かれていることです。
さて、ほかの面からも、3つ、三枚について見ていきます。
ほかに考えられる3つの局面とは、時間(経過)の状態としても表せます。つまりは、「過去」「現在」「未来」の3つです。
マルセイユタロットの「手品師」「力」「世界」は、同じ「1」という数を持ちますが、厳密には、それぞれ「1」「11」「21」という数になります。(※ウェイト版とは「力」の数が違いますので、注意です)
もし数の順番に従い、成長していくものとしてとらえると、「世界」に進めば進むほど未来に行くことになります。
人生で例えるとすれば、「21」の「世界」がゴール(死・昇天)となり、「11」の力」は中間でピーク(大人・壮年)、「1」「の「手品師」は若年で人生の始まり(誕生)を象徴すると見ることができます。
「力」を中心として現在と見て、過去に「手品師」、未来に「世界」として見てもいいでしょう。
すると、人生を完成・終わりから見る方向と、始まり・誕生から見る方向、そして今・現在をポイント・中心とする観点があるのがわかります。
完成・終わり、つまり「世界」から見る視点では、人生全体を見通す(振り返る)ような視点であり、人生のあり方、生き甲斐、終わってみてから気づくような人生の意味のようなものが浮かんできます。
要するに、あまりその時その時の細かなことは考えず、終わりに際し「よく生きた」と思えた人生ならばOKということになるでしょう。
この視点が問題として現れれば、後悔やあきらめのような境地になり、進取の気勢や、創造性を失うということも考えられます。
逆に、進んでいく若さの「手品師」からの視点では、拡大・成長・発展という観点が中心になり、具体的に目標を立てたり、物質的にも充実させていこうという視点になったりすると思います。
問題として出る場合は、先行きの不安や、人と比べたり、社会(仕事など)での自分の役割・貢献・地位などに悩んだりすることになるかもしれません。いわゆる将来性・成長性の問題というわけです。
一方、現在にフォーカスする「力」の視点では、未来や過去を気にすることなく、まさに「力」を余計なことに注がずにすみ、今に集中させていくことができるでしょう。
とはいえ、問題として見れば、今しか見ないことになり、刹那的な生き方、今さえよければいい、昔のことや先のことなどどうでもいいという自己中心的な生き方にもなりかねません。
しかし今に集中する生き方は、多くの人ができていないもので、何かしら私たちは、悪い意味で、過去に囚われたり、未来に過剰に心配したりして、人生を過ごしていることが多いものです。
結局、今をないがしろに、どんどん今という「時」「瞬間」を空虚なものにしていると言えます。ということは、私たちは今現在にほとんど存在しておらず、過去と未来の多元な時間の中に、自分を分散してしまっている(埋没させている)とも言えましょう。
そのため、「力」のカード象徴が示すように、ライオン(これが何なのかは、皆さんでお考えください)をうまく操れず、四苦八苦している状態になっているのだと言えます。
数のうえでは、力は「1」に「10」が加わっています。
「10」はマルセイユタロットでは「運命の輪」の数であり、すなわち「力」のカードは、「運命」を乗り越えた(コントロールした)始まりの段階なのだという解釈もできます。
それが、過去と未来へ分散した自分への統合でも示されます。ちなみに「運命の輪」にも「3つ」のものの象徴が描かれています。
それでも、分散する視点も悪いわけではありません。
先述したように、これからの成長性・計画性・創造性・夢を持つ始まりの視点の自分と、人は皆同じで、誰もが死を迎えて、築き上げた物質を捨て、関わった人たちとも別れなければならないという終わりの視点の自分があります。
この両方でもって、今・現在その時々において切り替えて思うことで、うまく人生を乗り切っていく(波に乗るように楽しんでいく)ことができるのではないかと思います。
そして、あの世とこの世という二つの世界を想定すれば、この世の終わり(死)はあの世の誕生(始まり)であり、あの世の終わり(死)はこの世の始まり(誕生)となります。
その繰り返しに、私たちは何らかの「力」を内在させつつ、様々な経験をしているのかもしれません。
