カードからの気づき

時の「円」観点。(夏至通過から)

一年の周期でも、大きな節目、ポイントである夏至の日を過ぎました。

皆さんの中では、もしかすると、個人的にこの日を境に、何か大きな変化があるのではないかと期待と不安を抱いていた人もいらっしゃるかもしれません。

昨今は、いろいろな方が、スピリチュアル的に、ある年や日の時間的ポイントを、全員に共通する変容点として強調される人が増えたせいで、一種の思い込みのように、自分もそういう「時」のポイントが来たら変化するはず、いや、「変化しなければならない」と信じ込んでいる方も見受けられます。

これは見方を変えれば、ある意味、洗脳(意図的ではなくても)でもありますから、人からただ言われたからとか、人が言っているからというのではなく、自分自身の感覚、または知性的判断というのも、バランスの意味で、取り入れることをおすすめします。

仮に何らかの「変化」があると言っても、それは人によって程度もありますし、受け取り方、対応の仕方によっては、マイナスの変化もプラスの変化もあるわけです。

そして、この点も大切なことですが、ポイントはあくまでポイント、サインであって、その一点からすべてが一瞬にして変わるわけではないということです。

つまり、皆さんの中には、直線的に時のポイントを見ている人が多いのではないかと考えるわけです。

たとえば一年という「時」であっても、それを円(円環)でイメージして見るのと、1月から12月を、直線でただ進んでいくと見るのとでは、かなりポイントの性質と見方も異なってきます。

直線的に見る場合、あるポイントというのは、まず「通過点」として表れ、さらに直角とか、角度をもって上か下かに直線的に曲がることを(方向性の変化として)想定すると、そのポイントから急激に変化する「点」だと感じられます。

しかし円で見た場合、円周上のあるポイントは、円としてつながっている中のひとつの点であり、同時に、仮に円にその点から円の中に伸びる直線を引くと、ほかの円周上の点に行き当たり、その点との関係性も生じます。

そこから考えても、直線で時を見るというのは、ただの通過点としてポイントを見るか、急激な変化点というデジタル的、白か黒かのようなもので見るかということになり、一方、円で時をとらえれば、つながりの中の点、関係性の点、あるいは、特にポイント(点)が際立つというより、円全体として見えてくるということにもなります。(むしろ大事なのは円そのものと、その円の中心点であるということ)

円的な見方で、たとえば夏至をポイントとして見ると、夏至は対極に位置する冬至とのセットであるということ、また角度によっては春分・秋分との関係も深いこと、もっといえば、それぞれの角度によって、あるポイント(点、すなわち時)とのつながりを持つ点であるということになります。

 

この角度こそ、ある観点、関係性を象徴します。(占星術的にはホロスコープのアスペクトに相当)

太陽の巡りとしては確かにそのポイントは重要な点でもありますが、また別の観点からいえば、円の中のひとつのポイントに過ぎません。

しかしひとつに過ぎなくても、やはり全体としての円のうちのひとつであり、一点でも欠ければ、円として成立しなくなります。(不完全になる)

この夏至点を含む円は、一年という「円」ではありますが、円は全体、あるいは個人としてのトータルなものの象徴として見ることも可能で、言ってみれば「円」という形そのもので、時の巡り(つまり天体の回転)も示せば、個人の人生や人間としての完成も象徴させることができるわけです。

このように、次元(世界)や場所は違っても、円というイデア・象徴としては同じであり、図形で見れば、すべてはつながり、考察することができ、あらゆるものは円の運動、円周と中の関係による事象(表現)として見ることができます。

円を作り上げているのは円の中心(点)です。(コンパスで円を描くことを想像してみてください) 

しかし同時に、円周があるからこそ、円の中心が見えてくるものでもあります。

円の中心とは何か? これは他ならぬ、外の世界を見ている私たち(あなた)自身の本質とも言えましょう。

そして円周から中心点が推し量ることができるように、あなた(コト)の本質も、観察している事象側から見えてくるものでもあるのです。

一年をサイクル、円としてとらえ、夏至をそのポイントとて見る時、夏至はあなた(中心)にとっての何になるでしょうか?

もちろん、夏至だけではなく、ほかの時のポイントが毎日、毎時間、それこそ細かくすればするぼと、無数にあるのです。ところが、太陽サイクルの象徴性においては、夏至はやはり特別なポイントとして色づけされます。

と言っても、あなたの円は、太陽サイクルそのものではないのです。円・サイクルを共通させた「象徴」としての円のひとつです。

ですから、円の象徴性として、太陽サイクルは、なるほど、人の全体として共有する部分はあるにせよ、個別性の円としては(一人一人の人生、個人の時の円として)、まさに人によって、その表れ方も違ってくるのです。

さらに言えば、あくまで夏至といえども円周上のひとつのポイントであることで、円全体として見れば、円周上での移行の過程ということになります。ただ直線の通過点と違うのは、それが円としての全体や、他のポイントとの関連性を持つということです。

ですから、簡単に言えば、夏至を境に急激に変化するというのではなく、ここをあくまでサイン・ポイントとしながらも、グラデーションのように変化している最中であるという認識のほうが、円的な見方となります。

だから、そこをピーク、重要なポイントとしながらも、「次第に」とか、「少しずつ」変わっていくというような言葉のほうが適当と言えます。

夏至(その他の時のポイント)を境に変わった人がいてもいいし、変わらない人がいてもいい、それでもサイクル・円としては何らかの変化が、円という「循環性」の中で生じているということなのです。

また、この円は古代の象徴性でも、マルセイユタロットの中でも表されている「脱皮するもの」でもあり、循環と言っても、まったく同じ内容で戻ってくるのではなく、成長や、時には下降(堕落)を伴いながら、別の円に移行(円抜け、縄抜け)します。

これを立体的に見ると、螺旋状の動きとしてとらえることができます。

上昇しての新たな円のサイクルに入るか、下降して、もっと囚われの円に入るか、それはあなた次第でしょう。

時のポイントは確かにありますが、それにとらわれない観点、自分の中心点をしっかり見据えておくことも、また大事なことなのです。


「神の家」の自然的・強制的選択

マルセイユタロットの「神の家」のカード。

このカードは、他のタロットでは、一般的に「塔」と呼ばれ、中にはその塔自体崩れ去ろうとしている絵柄になっているものもあり、そのために、あまりよいイメージのカードとは言い難くなっています。

しかし、マルセイユタロットの「神の家」は、確かに「塔」は描かれているものの、その様は堅固であり、稲妻のような光を受けてはいても、どこも崩れていないという絵柄になっています。

従って、「塔」と呼ばれるカードのイメージや意味とは異なってくるようになるのは、むしろ当然と言えます。

その秘密は、「神の家」という名前自体にもありますが、ここではこのカードの解説というより、人生における「選択」ということをテーマに、「神の家」の象徴性を紹介したいと思います。

ところで、「神の家」は、16という数を持ちますが、一桁の数としては同じ「」を持つ大アルカナと言えば、「恋人」カードになります。

マルセイユタロットには、ある種の数のつながりもあり、そういう面で言えば、「神の家」と「恋人」は、「6」の数つながりでもあります。

その他にも、注意深く観察すると、この二枚には意図的なリンクが貼られているのが、マルセイユタロットにおいてはわかります。

それはさておき、この「6」のつながりというと、数秘的には調和や融合的な意味もある数ですが、そのためには、自身においては重大な選択の局面を迎えるというテーマにもなってきます。

融合のためには対立も経験することもありますし、いわば、異種のエネルギーの交流、介入、統合などのプロセスが、「6」という象徴においてなされるのだと解釈できます。

「恋人」カードのそれ(対立からの融合)が、人間的な選択が中心となり(しかし上空から天使の影響もあります)、「神の家」のそれは、その名の通り、神の意志による選択というイメージで見るとよいでしょう。

人間、天使、神というのはもちろん「象徴」です。

この3つの象徴性を読み解くことが、二枚においての「選択」の意味、ひいては「神の家」に現れる強烈な選択とは何なのかを理解することにつながります。

少しだけ言えば、「神の家」は先述したように、「神の意志による選択」であるので、人間(特にエゴの部分)レベルで考えていてはわからないものであるということです。

これは、例えば人生で言えば、非常に衝撃的な、突然ともいえるインパクトをもって現れる事件、事柄、経験かもしれず、それは確かに人としての自分には大変でおおごとではあるものの、神目線、高次や全体性から見ると必然であり、むしろ祝福すべき魂の選択、方向性とも言え、やはり人生の一大転機となるもの、ある段階での悟りや大きな気づき、受け入れとなって現れるもの(そのように思えるもの)と考えられます。

ここには、「恋人」カードのような、自分で選ぶ意志やスペースというものがほとんどなく、むしろ強制的、突発的、人間の心情やエゴ的なことからすると、理不尽で抵抗したくなるものかもしれません。

しかしながら、それは自分で築きけ上げてきた(神性的な)何かの延長でもあるのです。

すでに現実・常識レベルでの価値判断を超えて、自らの魂、霊的な成長を促すと決意した者にとっては、この「神の家」の事件、選択は、かえって望むところであり、予想できる(わかっていたこと、受け入れができる)ことでもありましょう。

その準備のためには、もうひとつの強烈なカードとも言える「13」の象徴性や選択が先に訪れる、あるいは決意させられることもあるかもしれません。

「神の家」を、たとえ占い的に使用する(読む)としても、おそらく「神の家」が特別な位置に登場する時、それは人生の大きな岐路やポイントであることを示し、今までの常識的自分、他人や外向きに取り繕っていた自分、欲望的なエゴの自分に支配されていた自分から変わっていく時だと見ることができます。(タロットは複数の層にまだかる「象徴」ですから、必ずしもそうであるとは限りませんが)

それを受け入れるかどうかも、あなたにとってはなかなかに試練でしょう。

実際、私自身のことをふりかえってみても、タロットを学習していた当時のリーディングで、公務員を辞めるかどうか、今後の生き方をどうすればよいかのテーマをもって展開した時、この「神の家」が登場したことを印象的に覚えています。(記録としても残っています)

人間目線で見れば、「神の家」はほかのカードの「塔」のように、よくない意味や事件として感じるかもしれませんが、「神の家」というそのものの視点に立てば、まさに本当の意味で自立していく選択をする(経済的な自立とか、現実世界での大人になるとか、一人前になるという意味・ニュアンスとは異なります)、祝福や栄光のカードととらえることが可能なのです。


他者のいる世界で。

マルセイユタロットの大アルカナを眺めていると、ふたつのもの、ふたつの生物(人間・動物)を扱っていたり、描かれていたりするのに気づきます。

これは、究極的なことを言えば、二元から一元に統合する過程や、その反対に、分離していく様を表していると考えられますが、現実的な意味で見ても、私たちの世界はふたつで表現できるところにある、存在しているとタロットは語っているように思えます。

ふたつの世界とは、こちらの世界とあちらの世界、自分の世界と他人の世界、その他、もろもろで表される「世界観(感覚)」です。

人間関係に置き換えてみると、人は人(他人、自分以外の者)によって傷つけられ、苦しめられることになりますが、同時に、人は人によって、助けられ(救われ)、成長することもできます。

自分の知らないことを人から教わることができますし、逆に、自分の知っていることを人に教えることもできます。

要するに、自分だけではいいにしろ、悪いにしろ、自分では経験ができない世界の部分(一面、別面、側面)については、他人が請け負ってくれるという仕組みです。

これが私たちの住む世界であり、「現実」と認識している世界でもあります。

マルセイユタロットによれば、人はもともと完全性をもった存在(ひとつなるもの)です。

従って、誰しもが、一人で完全なる者ではあるのですが、現実の世界においては、男女や個性で分かれ(分離)し、個別の世界観を、一種の共有データによって同居させている状態になっていると考えられます。

そのため、大事なのは、最終的には一元に還る(完全性)というものであっても、普通の現実世界においては、分離した個人、自身の不完全性も認識しておくとよいのです。

もっと別の言い方をすれば、人は一人では生きておらず、人に影響されて生きる存在であり、人によって苦しいのも当たり前ですが、逆に世界は、ちゃんと救いも人によってもたらされるようにできているということです。

自分は弱い、一人では何もできないと認めてしまうと楽になれ、他人の助けを借りることができ、他人から素直に学べて、自身の完全性を補い、成長させることができます。

本当は「完全性を補う」のではなく、思い出すと言ったほうがいいのかもしれません。

たとえ閉じこもっていても、あなたが生きるために口にするモノは、誰が作り、誰が運んできたのか、あなたが住んでいるところ、水道、ガス、電気などのエネルギー・ライフライン、さわっているモノ、見ている作品・・・これらはすべて自分ではない他人が用意してくれたものなのです。

どこに逃げても、現実世界においては人の影響は避けられません。

時に人に傷つけられたり、ひどいことをされたりすることもあるでしょう。

だからと言って、黙ってそれを受け続ける必要はなく、あなたにはあなたを認め、救い、癒す、他人もいるのです。

ですから、あまりに自分にとってひどい環境であるならば、逃げるもありです。

他人の世界も、また「ふたつの世界」があり、あなたにとって厳しい他人の世界と、あなたにとって優しい他人の世界とのふたつがあるのです。

あなたにとって、その他人が厳しい世界であるならば、ほかのところには、あなたに優しい他人の世界があります。

そしてまた、厳しい世界と優しい世界も、これまたふたつの表現であり、ひとつに戻すと、愛のふたつの示し方ということが言えるかもしれません。

このふたつの世界(感覚)は、魂の一種のゲームだとも言え、完全性を味わうために特殊設定された世界が、まさに私たちの現実フィールドとも考えられます。

ゲームなのですから、解決の道はどこかに隠されています。

面白いことに、他人の影響する(この現実)世界も、自分の中にある「ふたつの世界」(よい・悪いと思う反応の世界)によって見え方が異なるようにもできており、結局、様々に「ふたつの世界」に見えるゲームの解読の鍵は、ふたつの間の中立性や統合的な観点にあるのではないかと想像されます。

ともかくも、苦しい時は、一人だけの世界に逃げがちですが、そういう時こそ、他者との交流があなたを救うことになります。

ただし、自分が依存になっていた(依存していた)関係の他者、今までの状態でつきあっていた、自分が苦しくなる他者は、優しいように見えて、あなたには厳しい他人であったと考え、その人とのこれまでの関係性から脱却し、ほかの他者との関係を築いたり、(救いを)求めたりしたほうがよいでしょう。

問題の起因となった他者を変えようとしても、かえってあなたには厳しくなるばかりなのです。


「恋人と「審判」、恋の変容に見るもの。

マルセイユタロットの「恋人」カードと「審判」のカードは、特にその絵柄の構図からも、とても似通っており、一見して、両者が何らかの強い関連性、対称性のようなものを持つことがわかります。

しかし、同じカードではないのですから、似ているようで違っている部分が当然あり、それが意味として、重要なところがあります。

その詳しくは書けませんが、見た目のところから判断して、同じ構造としては、天使と三人の人物という点で共通しています。

そして、そのうえで違いはと言えば、天使の大きさ、人物の服と裸、視線などで、さらに「審判」には棺のような四角いものも登場しています。

「恋人」のほうの人物たちは、どうやら上空の天使(キューピッド)には気づいていないようですが、「審判」のほうでは、巨大な天使の存在を、少なくとも恋人カードの人たちよりも察しているか、やはり気づいているのではと思える描写になっています。

「天使」が文字通り、「天の使い」であるのなら、私たち地上の人間、「地」の者に対して、天からのメッセージ、働きかけを仲介している存在・状態として見ることができます。

すると、「恋人」カードの状態では、その天の作用やメッセージがまだ十分ではなく、人間の常識的・日常的感覚、判断が主になっているものと考えられます。

一方で、「審判」になると、直接、天のメッセージ、働きかけを受け取ることができている(常識を超える感覚・情報を持つ)ものだと想像できます。

これをもう少し表現を変えてみれば、天上(神性・霊的)意識への目覚めと気づき、そのレベルを象徴していると言えましょう。

「恋人」カードが、恋愛模様を描いているようにも見えるのも、偶然ではないばずです。

人は恋をした時、理想と現実、希望や願いと、それが叶ったり叶わなかったりする状態を経験します。

それは、「恋」というのが、必ず、相手・対象を必要としており、自分だけの思いや行動では決まらないものであるからです。

両思いで天国のような気持ちを味わう時もあれば、片思いや報われない恋をして、地獄のように苦しむこともあります。

相思相愛のよい恋愛状態であっても、気持ちが冷め、あるいは、たとえお互いに熱いものがあったとしても、諸々の事情などで、別れたり、失恋したりすることもあります。

ただそれは、確かにひとつの愛(愛情表現・恋としての)の形ではあっても、まだ天から見た認識レベルにおいては、やはり地上的(物質・束縛的)で、その恋において、天使からの本当に告げられるメッセージは、地上性とは別のところにあるというのが、「審判」との違いと言ってもよいでしょう。

ギリシア哲学風に言えば、天上の女神(ウラニア)と、地上の女神(パンデモス)との恋の違いのようなものです。

「恋人」のキューピッド(現実で出会う縁・恋愛での関係)が、「審判」の天使(天の真のメッセージ、その関係性の本質の認識)に変容した時、本当に高次の愛を知ることになります。

同時に、自分も、失った恋の痛手から、大きな全体の愛に包まれる(包まれていた)喜びを知ることになり、次元の上昇が導かれます。いわば、天使の本当の働きを知るのです。

従って、「審判」にある棺は、今まで覚醒していなかった自分の部分であり、しかし、それは自らの高次で純粋なものを浮上させるための、現実の体験フィールドでもあるのです。

そこから目覚めた者が、初めて大天使としてのラッパ、天使の情報を聴くことができます。(真の意味、答え合わせができる)

天使でいえば、「節制」というカードも天使の絵柄です。

体験によって、あるいは気づきによって、目覚めたあなたは、今度は「節制」となって、今苦しんでいる人、変容中の人を、現実において(心)の「天使」として、手助けすることになります。

だからこそ、「節制」の数の前に、「1」のカードがあり、7を基準にした関連性では、「恋人」(6)と「審判」(20)の間には、「13」が入ることにもなるのです。

「恋人」レベルの状態で、この人だけ、この人こそ真のパートナーと思っている時であっても、それがかなわない場合(別れたり、受け入れてもらえなかったりする時)は、実はその関係性と、そこまで思い悩むこと自体が、あなたのレベルを変容させようとしていることに気づくとよいでしょう。

有り体に言えば、ほかの人との深いつながりの可能性もあるかもしれず、その人が運命の人とは限らない(もちろん運命の人の場合もあるのですが、その人が絶対だったり、すべてであったりするのではない)ということなのです。

そういう思いになれることが、「審判」への変化でもあります。

(一人の)人への強い愛は、そのエネルギーを拡散すれば、たくさの人の愛のエネルギーにも匹敵します。

あなたがそこまで深く思えるのは、深い愛のエネルギーを有しているからでもあります。

しかし、それを(一人に)集中させてしまうことは、地上性での人としての性(さが)でもあって悪いことではありませんが、一方で、地上性・現実性に囚われからの解放を天使が働きかけてもいるのです。

失ったように見えても、何も失っていないどころか、まだほかの可能性(相手や表現)もあり、さらには次元の違う大いなる可能性と喜びも確かに存在していることが、「審判」には記されています。


人間の調整力と、合わせる生き方

人間には、すばらしい調整力があります。

このあたりは、マルセイユタロットでいうと、「節制」のカードがよく表しているように思います。

「節制」のカードを見ますと、ふたつの壷を持った天使的な人物が、壷からの水を混ぜ合わせている様が描かれており、そのことで端的に調整力・適合力を示してると言えましょう。

ところで、最近は、自分主義と言いますか、自分の好きなことをする、自分らしくありたい、自分らしく生きたいということを求めたり、そうすることを後押ししたりする人が増えてきました。

確かに、自分を押し殺し、したいことも言いたいことも抑えて、我慢したまま生きつづけるのは、誰のための人生か、と言いたくもなります。

たとえ人のために生きるのであっても、それが嫌々や道徳的な押しつけではなく、本当に自分の喜びであることが大事ではないかと思います。

そう思えることのひとつには、単純に、「人のために何かをすることが好き」という性格や傾向から出ているものがあるでしょう。

そして、もうひとつには、人の喜びが自分の喜びと感じられる考え方(意識)の拡大・変容によって、得られることがあります。

前者はもともと持っている人の性格みたいなものですから、置いておくとして、後者は、学びや気づき、経験の蓄積など、自身の向上によって獲得することができます。

つまるところ、それは自分中心の見方からの転換、あるいは多方面・多角的観点から、人と環境を思いやれるかどうかにかかっていると言えましょう。

自分らしく生きたい、自分の好きなことをして生きていきたいと言っても、私たちは一人で生きているわけではありません。

そこにはたくさんの別の個性を持った人々がおり、その人たちと時には対立したり、合意したりして生活しています。

従って、当たり前ですが、ただ自分そのもの(いわゆる「わがまま」)を強く押し出しても、うまく行かないことが結構あるわけです。

ただ、だからと言って、穏便に済まそうとしたり、自分だけ我慢すれば周囲は円く収まるのだと自分を押さえつけたりしても、「この人は何も言わないから了解している、(何でも)OKだと誤解されて、ますます、立場が悪くなったり、無理難題を押しつけられたりしてしまいます。

主張すべきところは主張し、自分がやりたいことは表現するようにしたほうがよく、そのうえで、他者や周囲の環境との調整がなされて初めて、調和がもたらされると言えます。

好きな仕事をしたいというのもいいのですが、皆が皆、それぞれのしたい仕事をそのまま通していたら、世の中は社会機能的に成り立たなくなるおそれがあります。

だから、自分のほうが、今の仕事や職場、あるいはすでに成り立っているもの、現実的に就きやすい仕事・やり方に対して、調整して合わせていくということもありうるわけです。

ただそれは、向こう側からの欲求や押しつけを鵜呑みにしたり、そのまま何でも言いなりに受け入れたりするというものではなく、自分のしたいこと、自分らしさというものも自覚したうえで、相手(すでにあるもの)と調整し合い、両者が混ざり合ったとところで、納得して生きるというようなことを言っています。

場合によっては、そこでの調整不可ということもあり得ますので、その時は、辞める、逃げる、新しいところにチャレンジするという選択も、別の意味での「調整」になります。

最初にも述べたように、人にはなかなかの調整力・適合力が備わっているので、自分が思っているより、自分のほうが相手に合わせることができ、その合わせた自分を改めて見直す(合わせられている自分を評価をする)ことで、新たな喜びを感じていくことも可能になるわけなのです。

いわゆる「食わず嫌い」という言葉もあるように、現時点で自分が思っている好きなこと、自分らしさ、苦手なものというのは、あくまで途上の段階のものだと考えることもできます。

本当に好きな仕事とか、自分らしい生き方なんていうものは、今のあなたの考えだったり、誰かの言葉や情報で、そう思い込まされたりしているだけで、未来には変化していることもあるかもしれないのです。

自分を内的に知ることも大事ですが、何かを体験し、経験することで、自身の中にあった可能性が発現し、それが好きなものになる、生き甲斐となるという、行動・体験によって(外側から)自分を確認するというパターンもあるわけです。

「節制」には助けるという意味だけではなく、助け合うというものも見出せ、それは他者がいるからこそ(自分以外のもの、既知と未知の交流で)、自分が存在する、自分がよくわかるという意味でもあるのです。


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