カードからの気づき

「力」のカードがあなたを変える。

今日、浮かんだ来たマルセイユタロットのカードは、「」でした。

女性がライオンをうまく扱い、従えているように見えるカードです。

タロットは象徴なので、色々な意味がカードの絵柄から出てきますが、今回、この「力」のカードを通して伝えたいのは、皆さんの中に眠る可能性や、まさしく“力”のことです。

この「力」の女性は、実は普通の人間ではないとも考えられるのですが、一方、すべてのカードは、私たち自身を象徴していますので、やはり、皆さんの「人間」としての「ある側面」を表していると言えます。

いや、むしろ、これはマルセイユタロットの秘儀的なことになりますが、私たちが、カードに象徴されている「ある事柄」に気づくと、完全性に至るという意味でもあり、それは通常では気づいていないだけで、それがわかれば、今の自身を超越したものになるという教えが隠されています。

ということは、私にもあなたにも、「力」で象徴される「何か」があるのです。

「力」のカードの名前はフランス語ではフォルスであり、英語ではフォースとなります。「パワー」ではないことに留意する必要があります。

近年、新シリーズが公開され、最近また話題になっている「スターウォーズ」というSF映画においても、「フォース」という言葉が出てきます。

スターウォーズでは、魔法のような力を持つ闇側の勢力(有名なキャラクターではダースベーダーがいます)と、光側の騎士団勢力(ジェダイの騎士)の対立と抗争が物語の核を占めています。

そのふたつの勢力が使う魔法的な力が、「フォース」と呼ばれているものです。

映画では、ジェダイの騎士たちは、「May the Force be with you」(フォースとともにあらんことを)という祝辞・祝言のような言葉で戦場に送り出していました。

ちなみに英語の慣用句では、このフォースの部分は「(GOD)」であり、つまりは、「神とともにあらんことを」というものから来ていると聞いたことがあります。

そうすると、このフォースが神性由来の神的な力であるとも解釈できます。(マルセイユタロットでは「神の家」との関係で見ることができます、

もっとも使い方次第では「悪魔」のカードにもなるかもしれません)

スターウォーズでの「フォース」は、ライトセーバー(光剣)さえ操ることができ、相手に物理的な支配力として作用させることもできます。ジェダイの総長であった「ヨーダ」は、かつての主人公ルークが乗ってきた戦闘機さえ、フォースと想念を使えば、沼から浮上させることができたほどです。

ちなみに、このスターウォーズは、象徴的には、かなり(西洋)魔法や密儀・秘儀的な力の話、あるいは宇宙的争いの元型を、スペースオペラのような映画として表現したものであると感じます。

さて、そのフォースが、私たちの内にあることを、「力」のカードは告げているのです。

フォースが何であるのか、ここでは詳しく推測したり、仮説をあげたりしませんが、とにかく、私たちの中に普段は眠っている、ある種の目に見えない力だと思えばよいでしょう。

よく言われるように、私たちは、ほんの一部しか人間としての能力を使っておらず、その潜在能力は、おそるべきものがあると考えられています。

通常、訓練や修行などして、限界を突破すると、そうした超人的な能力が出るとされています。

おそらく、これは、私たちが、その眠っている能力さえ自由に使ってしまうと、その力は実は生命維持のオートマチックな機能としての部分とも関係していて、下手に使うと、命や存在自体の危機にもなるおそれがあり、通常はアクセスできない(使えない)ようになっているのでしょう。

修行のうちに鍛えられ、少々のことでは大丈夫となっていくことで、少しずつ、眠れる力の覚醒と、使える量、そこにアクセスする権限が、表面意識(自我の意識)に移譲されていくものと考えられます。

ただフォースは、スターウォーズでも表現されていたように、かなり想念に影響されると見てよく、意識の力とでも言うべきところがあります。

すごく低いレベル(の例え)にはなりますが、結局、それはシンプルに言えば、自分自身をどう思うかによって変わる力と述べてもよいかもしれません。

私たちは、普段からいろいろな制限を受けたり、教育されたり、時にはお叱りも受けたりして、自分を小さく見がちです。

さらには、個人として、表現される能力、外見、得た物理的結果などで、常に比較される対象でもあり、何かと人と比べさせられ(そう自分が意識せざるをえない環境)、自己卑下に陥ったり、自分の価値を自ら貶めたり、あるいは外から貶められたりしています。

従って、よほど自由な人か、馬鹿者か、わがままで尊大な人かでない限り、普通は、皆、何かしら自分を小さく見ているところがあるものです。

それが謙虚さというのではなく、本当に、人間としての力と可能性を閉じこめてしまっているのだとしたら、もっと自分を開き、自分の価値を正当に評価することで、眠れるフォースの一部でも、解放させることができるのではと、「力」を見て思うわけです。

一言でいえば、「あなたはもっと大きく、価値ある存在」だということです。

現実的には、できない、無理だと思うことは少なくありません。

それでも、最初からそう思うのではなく、本来何事もできる可能性を持っているけれども、たまたま思いや条件に制限をつけているため、不可能だと信じさせられている(思い込んでいる)と、心で思い直してもよいのではないでしょうか。

もともと、「自分はできる存在だ」「私にはその力がある」と思って取り組むのと、「自分は何もできない」「自分には力がない」と思ってやるのとでは、きっと、最初から達成力に違いが出てくるものだと想像できます。

※親から、「あなたはやればできる子」とよく言われていた人は、逆にこの言葉が、実際場面で何かできなかった時に、ブロックとして発動する場合があるので、注意が必要です。誰かの言葉ではなく、自分自身で自らの眠れる力を確信していくことが大事です。

あなたの自我意識が認識できていない、もっとすごい力、内なる可能性が、あなたにはあるのです。

それはあなたが自分にはない、できない、ダメだとしている(そう信じ、決めている)から見えない(発現しない)だけで、そこ(自分)にあるのです。

「力」のカードのように、見えないエネルギーをライオンとして実体化、視覚化することで、その力も実感し、それをコントロールすることにもつながります。

自分の力、フォースを信じた時、それは現れるのです。

面白いことに、マルセイユタロットでは、「」は「11」の数を持ち、その前の「10」のカードは、「運命の輪」です。

つまり、運命を超えるのが、「力」のカードというわけです。

人は運命さえ超えられる力があるのだと信じてみましょう。きっとあなたの人生は変わってきます。


人は性悪か、性善か。

天使(神)と悪魔とか、天国と地獄とか、ポジティブ・ネガティブとか、人の心には二面性(多面性)があると言われます。

どんな聖人であれ、またどんな悪人であれ、迷う心もあれば、利己的な思いにかられたこともあると想像されます。

ましてや一般人ともなれば、エゴと良心、利他と利己でグルグル巡るのは、むしろ当たり前の状況だと言えましょう。

と、普通に考えれば、人というのは、よい心(良心)もあれば悪くもなる(悪意もある)のが日常、普通のことだと、冷静に見ることもできるのですが、これまた人の性(さが)と言いましょうか、たいてい人は自分中心に物事を見てしまいますので、自分にとっていいことが続けば、世の中はいい人ばかりの良心で満たされた世界だと思ってしまい、また不幸の連続だと感じている人は、世の中、いい人などいない、みんな自分のことばかり、ひどいやつらであふれかえってやがる・・・なんて思ってしまうことでしょう。

一般論としても、人は性善説か、性悪説なのかで議論が交わされてきた歴史がありますし、そういうことは、たくさんの物語のテーマにもなっています。

気弱な優しい人とか、ナーバスな人、スピリチュアルや精神世界を志向する人の多くは、どちらかと言いますと、世の中の善を見ようとする傾向があり、人は信頼と愛で結ばれるはずと思い込んでいる節もあるのですが、逆に、人々の悪しき心や利己的な行動が目について、嫌悪感を必要以上に覚える人もいます。

だからと言うのではありませんが、私は、むしろ、「人の性悪説」を採用したほうが、生きやすくなる人が多くなるのではないかと思うところがあるのです。

それは、深くはグノーシス的な思想と結びつき、その思想を受け継いでいると考えられる(あくまでひとつの説ですが)マルセイユタロットにて探求をしている者には、自然に起こってくる考え方でもあります。

ただし、ここで言う「性悪説」は、「そももそ人は悪人である」とか、「善をもって生まれてきていない」とかの意味ではありません。

むしろ善を持って生まれてきている可能性も高いのですが(性善説に近い)、残念ながら、現実次元(普通の生活レベル)においては、ほとんどの人は、本当の意味で人のことを労ったり、気遣ったりすることはないという意味なのです。

もちろん、優しくしてくれる人、自分のことを大切にしてくれる人も、実際の関係性の中ではあるでしょう。

しかし、「黙っていても、いつか自分のことはわかってくれる」とか、「本当の気持ちは伝わっているはず」「きっと私のことは察してくれる」だとか、淡い期待とでも言いますか、相手に対して、相手が変わること、わかってくれることを期待しても無駄であることが多いと理解したほうが、楽な面もあると言うわけです。

言ってみれば、普通、人は自分のことしか考えておらず、利他のようで利己が基本として見るほうが楽になるということです。(一見、利他のように見えても、その人が利他行動をすることで、自分が満足しているのなら、利己だと言うこともできます)

この利己に傾く基本構造を「性悪」気質と見れば、人の性悪説になるわけです。

利己と言えば、聞こえは悪いかもしれませんが、しかし、これは、考えてみれば、実は当たり前で、利己というのを「利個」、あるいは「個人・自分・個性を中心とする思考、感情、志向」と見れば、この意味もわかると思います。

私たちは一人一人、違った世界観・個性で生きていますから、真の意味で同じ次元(同じレベルとオーダーで統一された世界観)においての、相互理解はないのです。

たとえ同意した、共感したと言っても、それは、あくまで個人個人の中での思い込みによる同意であり、幻想とでもいうべきもので、双方では、実は厳密には違った理解・同意をしているはずです。

ですから、結局は自分がどう思うか、感じるか、の世界に生きているわけですから、自分次第ということが、ほとんどのパートを占めるのです。

ということは、(同じ次元においては)、他人は自分のことを真に理解することはないと考えたほうが合理的になります。

あえて言えば、自分の一面(その人に見せる一面、相手が見る一部の自分)を同意させる、承認してもらうみたいなことになるでしょうか。

従って、相手にわかってもらうおうという努力をし過ぎると、自分が消耗し、時間とエネルギーもかなり浪費することになってしまいます。

それよりも、「ああ、これはいくら言ってもダメだな」と割り切って、自分のしたいことや、実現したいことに集中し、方向転換したほうが有意義な場合もあるわけです。

もっと簡単に言うと、「人がわかりあえない部分があることを、自分は認める」ということになります。

人に理解してほしい、愛をもって共感、共通理解に至るはず、というのも、自分の思い込みや幻想ということがあるのです。

さらには、それも自分の欲求であり、実は傲慢なところから出ていることもあります。(他人に承認してもらえないと自己の存在が確立できない、安心できないというものだったり、自分は他人より優れていなければならないというプログラム・データのようなものだったりする)

そして、ここも重要なところですが、人は認めてもらうこと、理解してもらったと感じること、共感や同意してもらうことなどに、快感を得るわけです。

まあ、愛されたり、賞賛されたり、承認されたりしたら、人は気持ちいいとなる(感じる)のですね。

「気持ちいい」「心地よい」と感じることは、脳内ホルモンなど、快楽物質も流れていて、少なくとも、気持ちよいという経験を実感してしまいますので、それを繰り返そうとする、また味わいたいと思うのも、人の性といえば性です。

これがルーピングしてしまうと、中毒化症状も考えられます。

ところが、現実次元においては、人は自分(個別)のことが中心という利己の基本構造にありますから、なかなか承認してもらえたり、同意してもらえたりすることも少ないわけです。

ただ形式だけなら、それも少なくはないのですが、たとえ共感してもらえたり、認められたりしても、一時的であり、また、どこかで空虚なものを感じてしまうこともあるのです。

それは、本質的には、同じ次元で理解しあえないということに、実は気づいているからです。(表面的な、利己同士の契約同意のようなものに過ぎないことを知っている)

そう、言ってしまえば、自分の本質、根源においては、人は普通の生活レベルにおいて、ほとんどが利己であることを認識していて、それは利己を「悪」的にとらえれば、言い換えると、「性悪次元に生きていることを知っている」ということになります。

この意味において、私たちは普通に、みんな性悪気質で生きている、性悪説だと取ることができます。(笑)

しかし、さきほど述べたように、「本質」の次元では、すべて知っているので、真の意味では、やはり「善」でもあると言え、人は高次において性善(説)であると、表現してもいいのではないかと思います。

スピリチュアリストは、この高次的・本質的次元で人を語りますので、愛や平等、自由、性善説的な視点となるのです。

ただ、現実次元においては、そうもいかないのがほとんどの人間なので、利己的な世界観で生きることに、スピリチュアル的な思い持つ人、優しく・ナーバスな人は苦しむのです。

天国はこの世にある(深い統合的認識や感性、高次の精神・霊的構造を体感する、その一瞬の状態にある)のかもしれませんが、通常は利己と分離、競争の修羅的・悪魔的・地獄的世界にいるのが普通だと思うと、そりゃ、苦しいのは当たり前であり、流行した言葉で述べると、他人のことを忖度(笑)し過ぎるのはまずく、それは、ますます自分をつらくさせ、苦しめることになるのです。

これは、愛や統合の世界がないと言っているのではありませんし、人がまったくの性悪のままだと言うわけでもありません。人の本質は愛であり、その可能性はすばらしいものだと考えています。

この、人の性悪的な認識・理解からが、実は性善に戻るスタートになるのです。


問題を捨てる、問題探しをやめる。

タロットなどをやっていますと、どうしても人の心とその問題というものを考察するようになります。

ネットで自己発信することが簡単にできるようになったことで、その恩恵も多大なものがありますが、反面、マイナス面もそれと同等に発生しているように感じます。

それの大きな問題点としては、ひとつには承認欲求の肥大、そしてもうひとつには心理的な問題の創造(ねつ造)と囚われがあると見ています。

前者はSNSの活用の発達とともによく問題提起されていることなので、今回は省きます。

問題は後者です。

前にも書いたことがありますが、精神や心理関係のビジネス普及も相まって、それほど気にしなくてもよい自分の心理、感情、トラウマぽく見えているものなどに対して、無理矢理掘り起こされ、それを癒す必要があると、一斉に皆が求める風潮に置かれていることです。

ただそれは、よい言い方をすれば、むしろ今までがおかしくて、自分の精神・心理状態への配慮・ケアーがあまりなされていなかった時代があり、ようやく、そういう部分の治療・調整まで、一般の人が理解を示すようになったとも言えます。

すべて気のせいとか、根性なしだからとか、努力が足りないとか、世間がそういうことで片付けていた時代から、変わってきたのだと。

これもカウンセラー、医師、精神的ケア・セラピーをされる人、心理・精神・スピリチュアルなものへ関心を寄せ、啓蒙を続けてきた方々などの努力があってのものだと思います。

そして、経済原理の中で、ケアーや治療、癒しという目的よりも、ビジネス(お金儲け)としての性格でも扱われるようになました。

それで、勢い、対象となる心理的・精神的・(霊的)問題を抱えたクラインアントを生み出す必要性に駆られ、無駄にクライアントがねつ造され自分の心の問題にひどくフォーカスされる(宣伝・告知される)事態にもなってきました。

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そういうビジネス目線のものであっても、その技術・ケアー・考え方などで救われる人がいるのも事実ですが、必要以上に自分にトラウマがあると思わされ、また自己の成長・発展のためには、自分の中に眠っている問題を、次々と掘り起こしていかねば、自身の安寧、幸せは訪れないと思い込まされ、いわば、問題という鉱脈・宝をずっと探し続ける炭坑夫(婦)のような状態に置かれている人がいます。

スピリチュアル・霊性からいえば、究極的には個人の問題はないと言えます。

問題というのは、あくまで演出であり、ストーリーであり、幻想でもあります。ただ、その幻想は、普通の現実(と認識していること)でもあるのが厄介なのです。

私たちには感情があるので、確かに、生まれてからの人生において経験した出来事によって、何らかの感情的データは記憶としてあると考えられます。

ところが、霊的真実においては、本質的には何も起きていないので、その感情データはいわば、自らで生み出したデータの一種に過ぎません。

例えば、映画でドキドキワクワクしたり、恐怖したりしたことは、自分の味わう感情としては事実ですが、起こっているそのものは映画の世界の出来事で、現実とは別です。

本質は映画ではなく、映画を上映している大本にありますから、それに気がつけば、映画での感情に囚われることはおかしなことになります。

しかし、確かに味わってしまった感情があるので、感情だけに注目すれば、それが悪いものになっていたとすれば、クリアーにしたり、浄化する必要は出ます。

たとえ映画でも、ものすごく怖いものを見たと思い、日常生活に影響が出るほどになれば問題だからです。

そこで、この「映画」が私たちの「現実」だとしても、現実の中(つまり自分の人生)で植え付けられた感情データのリセット・修正は必要なわけです。

その意味では、確かに心理的・感情的な、特に自分もよくわかっていない潜在的問題は掘り起こすことはいるのかもしれません。

ですが、映画は忘れていたのに、無理に思い出さされ、あるいは、映画を観ても、その時は感情的に強くデータ化されていたわけではないのに、誰かから「実はあの映画は、君にはひどい意味になるんだ」とか、「こういう隠されたシーンがあったの知っている?」など言われて、それからというもの、映画が気になってしょうがないということになれば、ネガティブ感情データ(問題意識)が、ねつ造されたと言ってもいいわけです。

とにかく、ありもしない問題(の意識)を、炭坑夫として、内面・潜在意識まで降りていって、石炭ならぬ、自分の人生を悪くしている原因だという「それ(問題・感情的データ)」を掘り起こしている人がいるわけです。

石炭はエネルギーに変わりますから、要するに、問題を掘り起こすことで、ビジネスを仕掛ける側はお金というものにエネルギーを変換させますし、クラインアントは、自分自身の免罪符、自分が自分でないことの弁解のエネルギー、さらにいえば、生きるためのエネルギー・糧にしているのです。

なぜ生きるためのエネルギーになるのか?

それは、「問題」という、自分にとっての「」を探さないと、本当の自分を生きていないという恐怖や誤解と向き合うことになり、そうすると、生きていることに疑問を持ったり、後退を余儀なくされたり、自分自身の価値をなくしてしまったりするからです。

平たくいえば、何か問題に向き合っている私かっこいい、素敵、成長しているという思いになるからです。

話を映画のたとえに戻しますと、実は映画で得られた感情というのも、つまるところ幻想に行き着きます。

いや、たとえその映画から受けた感情があっても、映画を観ている自分という設定そのものがわかれば、感情は自動的に癒される・調整されると言ってもよいでしょう。

「なぁんだ、あれは嘘だったのか」という思いによる安堵みたいなものです。

もっといえば、映画を観て感情を覚えたということも、ひとつのストーリーとして見ることができるのです。

感情データは確かに、映画だという気づきを得るまでは、調整される必要はあるかもしれません。言い換えれば、あくまで常識という現実の中で生きて、一般的価値観の幸せ・平穏を求めるのであれば、ということです。

いわば、心と現実の調整を図る生き方です。

しかし、一方で、あまりに心に原因を求めすぎると、自己の心のさらに奧にある集合的意識の次元まで入り込み(その次元からすくい上げ)、終わりのない膨大な(人類の)データからの感情を拾いあげていくことになります。

それは自分で自分の心理的・感情的問題を生み出し、それを現実の事柄(実際に起こる問題)として認識するシステムの、堂々巡りを意味します。いわば、自らで自分を縛っているのです。

同じような問題を繰り返し見つめ続けている人は、それは自分の問題とリンクはしていても、すでに、他人の問題として取り入れてしまっているか、自分が問題を創らないと(自分が問題を常に意識していないと)、自分の価値がない、言い換えれば自分としてのエゴ・個性が見い出せない(自分が自分であるための要素として問題を生み出す)という負の連鎖に陥っているおそれがあるのです。

問題探し、問題創造の達人(それがひとつのことでも、それにこだわれば悪い意味の達人レベルになります)も、ある意味、個性だからです。

そして、一方では、お金儲け的なビジネスのいいカモになってしまっていることも考えられます。

とはいえ、問題を創り上げてしまったり、堂々巡りで囚われしまったりしても、その体験(構造)は反転すると、大きな創造エネルギー、飛翔の元となり、真の解放の燃料として重要になる場合があるのです。


限定の時間と永遠性

私たちが「現実」と思う重要な要素に、「時間」というものがあります。

時間という認識があるからこそ、過去・現在・未来という一方向の流れに「生」が積み重なり、時間の経緯とともに生きている(また死ぬ)ことを感じています。

ということは、ある「時間」という区切りや単位というものが、私たちの生活を彩り、その状態を決めていると述べることもできます。

つまり、もっとシンプルに言いますと、時間こそが現実意識(認識)の要であり、時間が私たちに生活感覚を与えていると言えます。

これは、言い方を換えれば、時間枠があるから、私たちは喜怒哀楽のような感情も体験しやすくなっている仕組みだと考えられます。

要するに、制限ある「時(とき)」という思い(込み)が、私たちに限定した意識を生み出させて、その限定された生活・人生というひとかたまり(時間が区切られたひとかたまりの時空)を、濃密に味わうことができているということなのです。

「マルセイユタロット」で時間・刻(とき)を象徴するカードといえば、「運命の輪」がイメージされますが、その輪の中こそが、ひとかたまりの私たちの時間認識と制限時空間だと言えます。

「運命の輪」は、見ようによっては、その輪の中に囚われている動物と感じられ、この動物が私たち自身の何かの象徴性であるならば、私たちは輪の中、すなわち、今回のテーマでは、時間というものに囚われていると読むことができます。

その一方で、「運命の輪」の中には、輪に囚われていない動物も描かれています。この動物が何なのかは、ここでは話しませんが、今回の記事のことでは、明らかに時間から逃れている存在というように見えます。

ところで、「時間」という漢字も面白いです。「」の(と)「」という漢字が組み合わさっています。そう、「間(ま・あいだ)」というのがあるわけです。

時の狭間、間とは何か? それを考えると、時間というもの、時間への囚われというものも見えてくるかもしれません。

さて、今回は言いたいことは、そうした時間と現実の仕組みを理解しつつ、時間を意識する生き方としない生き方のふたつを、まさに時に応じて(笑)、うまく取り入れながら、生きていくとよいというものです。

時間はつまるところ、限定させるもの、始まりと終わり(創造と破壊・消滅)という、「動き」「変転」を実感させるものといえます。(だから「運命の輪」の輪が回っているのです)

反対に、時間がない、時間から逃れるとなれば、一言でいえば、「静止(に思える状態)」「永遠(性)」を意識することになります。

意識するというより、永遠・無・限定のない無限といったものに合一するような、自分が自分てないような状態になることだと、たとえられます。

しかし、現実という時空で生きている私たちからすれば、そのような意識になる「とき」はあるのか?といえば、面白い言い方になりますが、「とき」という意識を強く持つ限り、そうはならないと言えましょう。

ということは、「その時」とか、「時間」というのを忘れるようなことになればいいわけで、言ってみれば没頭とか熱中とか集中、瞑想など、自分という存在さえ忘れるくらいの何かに投げ出す、作業するみたいなことになるでしょう。

こういう状態になるのは、遊び・仕事・人間関係でも、まずはものすごく楽しい状態か、子どもように無心でやれるものか、たとえ傍目からは厳しいもののように見えても、強い使命感や無私的な行為であれば、成されることがあるわけです。

あと自分をなくせばいいわけですから、大自然とか、自分がいなくなるくらいの広大な空間、海、空、暗闇、巨大なものに投影するというものでもできます。

一方、時間というものを強く意識すること(状態)は、決して悪いことではありません。

時間という区切りがあるため、目的・目標を達成しやすくなりますし、このつらい状況があと半年で終わるとか、時間が経過するという意識によって物事が変わり、つらく苦しい状況にあるある人にとっては、同じ状況は続かないという思いになって、大変な救いになります。

いずれにしても、有限の時間内で色濃く生きよう、活動しよう、結果を残そうという意識が働いて、まさに人生密度が濃くなるわけです。それは、「自分(自身)」を生きている実感とも言えましょう。

しかし、限定された時間は、容赦なく次の時間に流れていくものでもあり、永遠性はありません。

ですから、ずっと一緒にいたいとか、同じ状況が続いて欲しいとか、若いままでいたいとか、経済的な安定が保証されたいとか、ずっと固定されることを望むと、それは囚われとなり、流れていく「とき」の変転事実に、あせりと喪失感が大きくなります。

つかんだものを離したくないと抵抗すればするほど、その人にとって、「とき」は残酷なものになります。

こういう人は、永遠性まで意識できずとも、とても長期的な、肉体次元より魂次元のようなものまで思いを馳せていくと、自分のこだわっていた「とき・時間」は実は一瞬のものであり、たとえば別れた人でも、魂のレベルでは、また輪廻転生を繰り返したり、別次元のエネルギーだったりして、その人の魂を受け継いだものとして、再会することも可能だと想像できるのです。

すると非永遠性で限定性の時空から、広大で永遠である「ひとつ」に自分を帰す感覚となり、逆に、この限られた時間という区切りの中で、

自然な流れのままに、自分らしく生きようと思ってくるのです。

不思議に思うかもしれませんが、一瞬と永遠はまったく違うようでいて、同じと言えます。

区切られ、限定された時間という間に一瞬一瞬があり、永遠はいつもそこにあるのです。

そのことは、分離された意識、私とあなた、上と下、光と闇、現在を中心にした過去と未来という時間軸・・・それらが強く意識されているので見えないだけなのです。

ですから、日常や現実の中で永遠性を感じるには、二元・分離したものなかに統合を見る行為・思考・感覚となってくるのです。別の表現では、「愛」の創造、認識と言ってもよいでしょう。

また私があなたの中にいて、あなたが私の中にいるという気づきの象徴性で語ることができます。これはマルセイユタロットでは、「太陽」の叡智として表現されます。

それは濃密な(生活・人生の)感覚から希薄なもの(しかし真理的には濃密なもの)へと変わるものなのですが、囚われからの解放という観点では、霊化の過程と言っていいものなのかもしれません。


人間関係、その浄化としての意味。

これはマルセイユタロットでは、「恋人」、「運命の輪」、さらには「13」などにも象徴されることだと考えられますが、私たちの、人との出会いというものは、ひとつには浄化としての側面もあると想像できます。

地球上に多くの人がいる限り、自分と誰か、誰かと誰かが出会うのは必然です。

そこに何の意味があるのかと問うた人は、一瞬の思いも入れると、もしかすると、全員かもしれません。

ただ、人との出会い、関係性は、通りすがり的な、ほとんど意識されない、自分にとって影響のないものもあれば、深く印象を残す、特別な関係となるものがあります。

それは案外と、一緒にいる時間(の長さ)だけとはいえないものです。ほんの少しであっても、強烈なインパクトをもった関係性もあれば、長くいても、空気のように何も感じない人もいるでしょう。

しかしいずれにしても、悪い印象の人であれ、よい印象の人であれ、なにかしら、自分が強く思いをもった人というのは、少なくとも感情的には意味がある人ということになります。

そして、そうした中には、感情が動かされるからこそ、感情に関係する部分と、感情に関係しない部分との相克や葛藤、エネルギーの象徴的言い回しとしては、「燃焼」、さらには「冷却」があるのではないかと考えられるのです。

そして、その作用こそが、いわば、「浄化」というものに関わっているのではなかいと思うわけです。

これは人間関係の中でも、濃密なものである「恋愛」には顕著なことなのですが、恋愛だけとは限りません。

感情で動かされる部分には、それに癒着したものとして、「欲望」もあります。

相手を支配したい、気に入られたい、一体になりたいという思いもあれば、反対に拒否したい、蔑みたい、ひどい時には滅ぼしたい、殺したいというのもあるかもしれません。

さらに奥底には、セクシャルな欲望や、自己存在のアピール(承認欲求)、反対に自己卑下や罪悪感、劣等感、逃避感、依存というのもあるかもしれません。

ともかく、人間の出会いと関係において、特に心を動かされるものは、自分の感情や欲望が渦巻き、それに振り回されることも多いわけです。

こうした葛藤、あるいは喜び(関係が望み通りになると、悦楽になります)が湧き起こる中で、私たちは、環境的・物質的ともいえる現実的な事柄と、それらを超越した精神や、さらに崇高な何か(霊的な部分)の両方を意識することになります。

例えば、恋愛においても、ただ愛し合ったり、相手を意識するだけだったりするものではなく、どうやって相手と現実の時間と空間で過ごし楽しもうかとか、デートプランを考えたり(考えてもらったり)、プレゼントを贈り合ったり、結婚のことまで意識するようになると、結婚生活における諸々の現実生活のことを思ったりするわけです。

そもそもお金というものも、おつきあいで無視できるものでもありませんし、たとえ意識しなくても、必ず二人の時間と場所においてお金は使っているものでしょう。

またお互いの姿や身体も意識するというか、それがあるから、個体同士として意識しあうこと、ほかの誰かではなく、その人との関係ということが際立つわけです。

一方で、そうした現実的・物質的なものだけではない、いわゆる「恋心」とか「愛」「友情」とか、純粋でピュア、かつモノや形として現せられない何かが、関係性においてあります。

目を閉じても感じ合う何か、遠くにいて会っていなくても想い合える何かというような感じでしょうか。

こうして、物質的なことと非物質的なこととの狭間で、特に感情的に動く人との関係は、揺れ動いたり、刺激し合ったりして、燃焼します。

そして、それがやがて穏やかで安定的な関係になろうと、また別れてしまうようなことになろうとも、冷却されて、別の状態へと移行します。

あれほど、心が動いた関係も、今は昔のことのようになり、波が静まり、思い出すと少し波立つことはあっても、確実に以前とは違う状態にはなっていることに気づきます。

そして、さに深く自分を観察していくと、燃焼した心、感情のあとの冷却によって、何か新たな光っている存在に気がつきます。

それは「想い出」のようなものと言ってもよいのですが、単なる想い出ではなく、光のかけらのような、実はもとからあっても気がつかなかった何かなのです。

以前の状態で、現実的なものとの狭間で、純粋なものとして感じていたものが、その現実性との葛藤(対立と融合)によって、新たなものへと変容したものなのです。

いや、先述したように、元からあったものが、自分に意識でも見つけられるようになったと言い換えてもよいでしょうか。

それは大いなる気づきのひとつです。そして、自身の浄化の過程でもあったのです。

この観点から、私たちが、個人的に強い印象を残すような関係とその人は、自分自身の魂の浄化に関わる役割があるものと考えられます。

また特定の人を強く意識してしまうのは(関わり合いたい、関わり合いたくないと思う、双方)、(個の)魂が浄化の機会を求めて、全体の魂の中のひとつと共鳴し、感じ合っていると言ってもいいかもしれません。

大事なのは、必ずしも、それが現実的にはよい関係ではないということです。

自分の表面的、現実的意識のもとでは、むしろ望み通りに行かないこともあり、しかし魂の演出から見ると、浄化過程として適切(になる可能性)であると言えます。

つまり、見た目や、普通の感情と意識の上では、ほとんどは本質的には誤解のままに出会ったり、関係したりしているということです。

だからと言って、人との関係から逃げたり、引き籠もったりしてしまうのは、浄化の機会を少なくしてしまうことにもなります。

無理してする必要はありませんが、人との関係において、自分の中にある神性や叡智、あるいは真の平穏を回復していくためには、浄化の一環として必要なこともあるわけです。

そして滑稽なことに、それら、人との関係は表面的には誤解のもとに成立しており、従って、無理解、葛藤、食い違い、片思い、熱狂、陶酔などのことも、普通に両者の間で起こることになるのです。

それも決して無駄なことではなく、冷却後の自らの気づきによって、大きな恩恵を得ることになります。


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