カードからの気づき

あなたと相手は合っている。

マルセイユタロットには、ペアやカップルの概念で組み合わせられるカード(同士)があります。

講座においても、まずはその基本形からお伝えしていますが、これは知識や認識が深まれば、自ずと多くのペアを生じさせることができるようになります。

言わば、小アルカナも含めて、すべてのカードはペアを形成すると述べてもいいかもしれません。

ただ、ペアは確かに多く組み合わせることができるのですが、それをグルーピングしたり、大別・抽象化していくと、結局、大本はひとつの組合せとなることがわかります。

と言っても、ある特定のカード同士が大本というわけでありません。それはあくまで「象徴」においてとらえられる、カード全体を貫く二元のテーマ(一元を意識するための)、二種のエネルギー・状態というニュアンスになるでしょう。

その、原理と言ってもよいものに到達するため、わざわざカップル・ペアとしての組合せ学ぶと言い換えてもよいです。

ところで、現実的な意味で、カップル・ペアといえば、ますば夫婦とか恋人同士という組合せを想像します。

さらには、二人の組合せということまで広げると、人間関係における二人(の関係性・役割)となります。

例えば、マルセイユタロットでは、「女帝」と「皇帝」という組合せ、「斎王」と「法皇」という組合せが、割とわかりやすいペアとして表されています。

それらの意味(カップルの意味)は講座などで詳しくお伝えするとしても、ここでは、とにかくも、二人の組合せ、人間関係において注目すると、面白いことがわかると指摘しておきます。

カップル・ペアは大きな概念まで拡大すれば、男女だけではなく、同性・友人同士でも成り立ちますし、年齢差はあっても、親子的、上下的組合せの意味ではペアと言えます。

私たち一人一人は独立しているように見えて、その実、すべては関係性によって、自分・他人というものが決められていきます。(自分という認識は、相手との関係性による)

そして、関係性であるならば、人の関係性においての最小単位は、二人組となりますから、ペアやカップルでの関係性が、自分(や他人)を規定することにもなります。

そして、二人において、とぢらかが能動的であれば、どちらかは受動的になり、どちらかが攻撃的・指導的であれば、どちらかが受容的・保護的となってきます。

たとえ同じような性格、似たもの同士の結束や組合せではあっても、それでいて、細かく見れば、相反するものを持ち合わせ、二人の世界と関係性においては、別々の表現をその時々でするのです。

ある組合せにおいては、一方がプランを提示し、もう一方が行動に移すということが多いにしても、状況によっては入れ替わることもあるわけです。

男女ペアであっても、男性が必ずしも、社会でいうところの男らしい人物ではなく、また女性も女性らしいふるまいをすることは少ないかもしれません。しかし、この二人(の世界)においてはバランスが取られており、心地よく感じたり、物事がスムースに進んだりするでしょう。

魂的な見地に立てば、ソウルグループのような大きな目的を共有したり、霊的・精神的に近しいものを持つ間柄で引き合ったりすることは、ままあることですが、そのグループの間においても、関係性、特に二人ともなってきますと、具体的な表現が違ってくるようにもなります。

つまり、大きな目的の成就のためには、役割分担することにもなるということです。(抽象的には同じで、具体的には違う)

例えば、精神的なものを求めるグループや関係にあっても、その中で自分は物質や現実を重んじたり、仲立ちをしたりする立場になることもあるのです。

ネガティブな意味で関係性を見ると、暴力をふるう側とふるわれる側、支配する側とされる側のような関係性があります。

しかし、これも「関係性」という、そぎ落とした括り・枠組で見ますと、両方の役割があってこその組合せ(状態)です。

従って、される側に甘んじていれば、いつまで経ってもそれは変わらない(バランス・安定性の意味で)ことになります。

変化を起こすには、されるという精神、受動、被る、被害、与えられるという意識ではなく、能動、する、行う、与えるという自立した意識を構築することが求められます。

「ドラえもん」で言えば、のび太くんはジャイアンとの関係性において、する側・される側になっていますが、ここにドラえもんの道具や示唆によって、自立性を(ドラえもんという反則技のような(笑)、与えられた仮の自立性ですが)持てば、ジャイアンとの関係性を変えることが、可能になります。

当時者同士の関係性ではしばらく固定していても、自分がほかの部分で能動的になれば、トレーニングの末、能動性・自立性を思い出し、する・されるという関係性のループから脱出する(関係性の変化として)きっかけを得ることもできます。

まあ、ドラえもんの場合は、渋々道具を出しつつも、本当はそんなものがなくても自立できるのび太くんまで、トレーニングしたいという思いがありそうですね。(機械なので、そういうプログラミングがあるのかもしれません。それをしたのはセワシくんかもしれませんが・・・(笑))

自分と相手がどのような力学と関係性で安定(この「安定」は、いい意味と悪い意味、両方含みます)を図っているのか、また固定を保持しようとしているのかを見れば、おのおのの役割を冷静に見ることができ、相手の特性・自分の特性を活かして、よいペア・カップル性を築くこともできれば、反対に、悪い関係性においては、逃れたり、変えたりすることもできるのです。

よくよく見れば、例えば恋人同士・夫婦同士の仲がよくても悪くても、自分にふさわしいペアとして、自分の表現が相手にも叶っているように(相反しつつもはまっているように)、相手を選んでいることがわかります。


目標や使命を、持つ・持たない人生

人生に何か目的や目標があったほうがいいのか、あるいはないほうがいいのか、これは議論の分かれるところだと思います。

さらに目的というより、もっと大きな使命のようなものについても、あるべきか否かという観点が出てきます。

結局、人それぞれ、その人がどちらがいいと思うかで決まると言えるものですが、改めて、その違いを見てみるのも面白いかもしれません。

まず人生に目的あるなし、どちらがいいかという点ですが、これには時間と効率をポイントとして見ると、判断がつくこともあります。

それは短期的には、目標があったほうが有意義に過ごしやすいというか、効率的になると言えます。

3ヶ月後にはこうなっていたいとか、この一年ではこれを成し遂げるとか、そういったものがあると、焦点も絞りやすくなり、その達成のために情報も行動も集中しやすくなります。

その結果、目標の実現いかんにかかわらず、その期間は、とにかくも濃密な状態で過ごすことができます。そのため、生きている実感も伴いやすいでしょう。

しかし、何十年ものスパンともなってきますと、そこにたとえ目標や目的を立てたとしても、それが達成できるかどうかはかなり先の話となり、そのためのスモールステップや段階を刻んでいくにしても、中だるみや、目標到達度合いの進展の遅さなど感じてしまうと、目標を持つ効果が、人生によい影響を与えるとは言い難くなりそうです。

見方を変えれば、その目標に縛られた人生ということにもなりかねず、長い間、その目標のために生きてきたのに、それが達成できなかったとすれば、その落胆も、それだけ長大な時間をかけてきた重さによって半端ないものとなり、せっかくの人生を無駄にしたという思いになるおそれもあります。

ということで、時間的には、短期の場面において、目標設定した人生のほうが良さそうに思います。

さて、今度は使命のようなものについてですが、使命感があるのとないのとでは、生き方が大きく変わるのは間違いないでしょう。

それがいい(人生な)のか悪い(人生な)のかは、結局は、最初にも述べた通り、その人がどう感じる(最後に思った)かによると思います。

ただ、使命を持つということは、強い意志や、折れない心などイメージされ、はたまた見た目の結果とか、数値などで計れるようなこととは違い、心の中の情熱、さらには形にとれわれない純粋なものを感じさせます。

それは感情に依拠するとはいえ、好き嫌いという感情的ものを超えた、何か心の奥底から燃え上がる魂的な欲求に従うという印象でもあります。

タロットで表現される四大元素でいえば、感情の「水」というより情熱の「火」に当たるでしょう。

また「目標」には、その達成のために合理的で効率的なものを求めることがあるのに対し、「使命」の場合は、そういうこともあるとはいえ、必ずしも「論理」や「効率」性を求めず、客観性より、あくまで主観である自分の納得感によるものがあると考えられます。

ということは、先の時間的な観点で言えば、長期的な時間において、使命(感)を持つことは向いていると言えます。

しかしながら、目標や使命においても、それに囚われ過ぎると、ほかの人生の可能性を失ったり、狭めたりして、束縛のひもになることも、覚えておいたほうがよいでしょう。

ひもは、ポジティブに見れば、自分(の力や表現)を、ある方向に強めさせるもの(引っ張ったり、導いたりするもの)でもありますが、その逆に、文字通り、ひもとして拘束具となるわけですから。(マルセイユタロットの「悪魔」に、顕著に図示されています)

あと、目標や使命においても、具体的であるか、抽象的であるかという見方があります。

具体的な目標となれば、時間的には、やはり短期的な目標という感じがしますし、長期的になると、抽象的なものでもOKとなってくるでしょう。

つまり、人生全体では、抽象的な、例えば「楽しく生きる」ことが目標という感じでもありですが、その時々、ある部分を切り取ったところでは、「仕事において、なるべく好きなことに携わること」「好きな人と結婚すること」「アメリカへ留学すること(自分が楽しいと思う国で過ごすこと)」・・・など、具体的なものが、「楽しい人生」という目標に叶っていると見て、細かい目標になってくるというわけです。

マルセイユタロットで言えば、「愚者」というカードが、「世界」のカードという大目標や抽象的とも言える生き方の理想的なイメージを持ちながら、ほかの大アルカナと小アルカナのカードたちによって、実際の人生の場面において、細かな目標を設定し、具体的・現実的に過ごしていくという感じです。

ということは、(細かな)目標など、いつ持っても構わないわけで、しかもその都度、臨機応変に変わっていくのも当然と言えます。

しかしながら、大きな意味での使命とか、自分の人生の大目標、または最終的に亡くなる前に、「どう自分は生きた存在として終わるのか」という観点で見た時のイメージは、人生を過ごしながらの過程の最中で浮上してくるものであり、時代や年代、その時の情報に振り回されない、コアで核のようなものになると想像されます。

それらは持っていいとか、持たないほうがいいとかというレベルで判断できるものではなく、実は、生きていれば自然に魂の奥底から湧き起こってくるものそう直観してくるものと言えましょう。

ただ、何もそうしたことを考えずに生きていた場合、おそらく、自分が亡くなる直前に、いわゆる「走馬燈のように駆けめぐる」と表現される、自身の人生の総合データ観照作用によって気がつくことになると思いますが、それでは遅い(悔恨などのカルマを強く印象づけるおそれ)こともあります。

ですから、目標ではありませんが、自分の生きる意味・テーマのようなもの、現実に成し遂げる物質的・形としての成果ではなく、精神的・霊的に自分はどう生きるのか何を求め生きるのかというものは、持っていた(気づくようにした)ほうがいいかと思われます。

ただひとつ、おかしなことを言うように思うかもしれませんが、これはよく言われるような、現実的に悔いなく生きるとか、充実した人生を過ごすという意味とか目標とは少し違います。(それはそれですばらしいことで、一般的には、それで十分なこともあるのですが)

どういうことなのかは、皆さん自身で考えてみてください。


「星」の示す源泉とその扱い

マルセイユタロットに「」というカードがあります。

このカードももちろん、そのほかのカードと同様に、様々な象徴性を持ちます。

ただ、その中でも大きくわけて、星そのものに関係する部分と、人物として描かれている女性、その持ち物に関する象徴性があると言えます。

全般的にマルセイユタロットは、その図柄と構造に最大のヒントがあり、これをつぶさに観察することで、深い示唆を得ることができるようになっています。

そして、それは意外に、まずは単純な絵の構図の違いなどから始まるものなのです。

さて、その「星」のカードですが、当然、星ということなので、われわれの見ている天体・星々が象徴されているのではないかと推し量ることができます。

ただ、タロットにおける象徴性というものは、物質的な観点というより(それも必要なことがありますが)、精神的・霊的なシンボルとして見るほうが本質的です。

つまり、星をただ物質的天体(何かの物質の塊の回転のようなイメージ)としてではなく、全体性の象徴として見ていくというものであり、この星は見たままの天体のことを言っているのではないということです。

特に地動説で、太陽の周りを二次元的な円のイメージで公転している太陽系の惑星というようなものは、マルセイユタロットなどが示す象徴性においては、まるで反転した、本質的にまったく違うものと言っていい代物になります。

これは科学的な視点で見るという次元とは異なるので、迷信を信じるとか、古い劣る見方に戻しましょうと言っているのではないことを理解するのが大事です。

いわば深い精神性や霊的な世界の本質表現のひとつ(高次を人間にわかるやすい次元に下降させたもの)と考えればいいでしょう。

星をそうした意味で見るということでは、やはり「占星術」をあげないわけにはいかないでしょう。

ということで、この「星」のカードが占星術と関係していることも考えられます。

一方、「星」に描かれている裸の女性は女神ともいえ、手に持つふたつの壷からは、何らかの水のようなものが蕩々と流れているように見えます。また彼女の周囲には、川や泉とも表現できるものがあります。

このことから、何かの源泉つながっていること、その源泉からあふれ出すものを、さらに流していることが想像できます。

そして、繰り返しますが、彼女の上には星が輝き、その星もまた何らかの象徴性を持つという図式になっているわけです。

泉に星は映っていませんが、天と地のような関係で、(川)と星が呼応(共鳴・影響)していることは推測できます。

ところで、最近は占星術に関心のある方も増え、占星術を学んだり、占星術師(占星術をされる人)の指針で、日々の生活行動の参考にしている人も多くなりました。

それ自体は、精神や霊性の成長、解放性において、最初のステップとなると考えられますので、悪いものではないと考えられますが、一方でこれに囚われすぎ、星というものを逆に道具や物理的なものに再変換して、結局のところ、普通の人のお陰信仰に近い、極めて物質的感性に拘束される危険性があるので、注意も必要なところです。

「星」のカードから、星のエネルギーについて、現代占星術的なことを抜きにして述べたいことは、星を象徴化することによって、イメージの源泉にふれることができる、またはイメージの力や豊かさを増進させることがてきるという点です。

占星術を学ぶにおいても、星を扱って(星の動きを見て)実生活の現世利益的なものに利用するという観点ではなく、星の特質・象徴性(特に太陽系の惑星)を精神的に(心のイメージとして)把握し、自身の内側のイメージを広げることに役立てるとよいと思います。

いえ、目的は人によって自由に選択できますから、別に星の動きとエネルギーを利用して、生活をよくしたいという人は、それもその人の個性です。(ちょっとだけ言っておけば、ここで注意したいのは、「星と調和する」という考えには、言葉自体はとてもよいことですが、いろいろな側面があるということです)

星によって、自分のイメージの力を増していくということは、当初は混沌とした中に放り込まれるような感覚もありますが、次第に、自分の心の中を象徴的に整理したり、理解できたりする方法のひとつとして活用できるようになるでしょう。

またイメージはアイデアを生み出しますから、行き詰まった状況にある時、あるアイデアもひらめきやすくなります。

それから、「星」の女神の壷の水が示すように、それは流すことにもつながります。

「流す」ことは与えるだけではなく、自身や人を浄化することに関係し、つまり、豊富なイメージの中でも、自分を苦しめる幻想のようなものは、流してしまうことも示唆されるわけです。

精神の囚われはイメージと想像力に起因しているものが多く、矛盾のように聞こえるかもですが、だからこそ、イメージの理解によってイメージによる束縛を打破することが可能になるのです。

そのためには、貧弱で現実に支配されたイメージから、もっと自由で豊かなイメージ(が持てる力)を取り戻す必要があるのです。

心の整理と先に述べたのも、こういうところと関連します。

そして星自体は、よくも悪くもなく、その象徴性・エネルギーの扱いをどうするかによって、水の流れる意味、その方向性や目的も変わってくるというわけなのです。


「自由」という名の縛り

マルセイユタロットは、様々な分野の成長段階を絵図で象徴させているものと言えます。
 
ただこれは、様々なものを表せる「元型」のようなものが描かれているからそう見える、と言い換えることができます。
 
ですから、様々な分野と言っても、それぞれ(の分野)に具体的とはいえないもので、すべてを包括した、ある種のパターンといったものが示されている、いわば抽象的なものなのです。
 
おかしな話になりますが、具体的であればあるほど、実は本質のようなものからはずれて行き、嘘が多くなってきます。
 
嘘というより、それぞれ固有の世界観に支配されると言ったほうがいいでしょうか。
 
色で言えば、もともと白かったものに、段々色がついてきて、しかも具体的になればなるほど、その色ももっと濃くなって、明らかに「ほかの色」として見えてくる状態と言えましょう。
 
さてこの話と実は深いところでつながることを今から書くわけですが、そのつながりが見えない人は別にそれで構いません。ここから別記事だと思えばよいです。
 
マルセイユタロットのあるカードたちの関係性を見ていくうちに、私たちは、自由を得る過程で、段階ごと、あるいは分野ごとに、あるルールに縛られる(自らを束縛する)ことがわかります。
 
わかりやすいのは、いわゆるその時代や社会の常識、文字通りの明文化された(形ある)法律やルールなどです。また自分のより上(親・先生・先輩・上司等)だと思う力(関係)の者の言葉も入ってくるかもしれません。
 
これらは現実や、目に見に見える範囲のルールによる支配と言い換えてもよいでしょう。
 
次に、自分の心が決めているものたちによる支配があります。
 
この支配は、先述した現実のルールに基づきながらも、自分の(心が感じた)歴史・経験を中心に組み上げられてきた、いわば明文化されていない(目に見えない)規則・ルールと言えます。
 
同じ条件で、ある事柄が自分の身に起こったとしても、Aさんにはそれが心に強く印象づけるものと感じる場合もあれば、Bさんでは何でもなかったこととして流している場合もあり、つまりは人によって、心に受ける度合いは様々です。
 
しかもそれが、心の深い部分(無意識層)まで刻まれていく時と、心の奧までは影響はなかったということもあります。
 
要するに、無意識の中に自分の決まり事や強烈な印象として刻印されてしまったものが、心の内のルールによる支配になると言えます。
 
そのほかにもまだまだありますが、そのうち、やっかいなのは、「自由」という名の下の支配(縛り)です。
 
これは一見、心の支配を脱しているように見えて、その実、何か(見えるものもあれば見えないものもあります)に頼りつつ、一時的な自由になったような錯覚を起こしている「幻想」による支配と言えます。
 
この支配の恐ろしいところは、自分では束縛の自覚がないばかりか、今度は、自分が人を縛る側に回っていくことにあります。
 
自由や解放を目指していく中で、一足飛びにそれを過剰に求めたり、ひとつの強い縛りが解けたあとの、急激な解放感に酔ったりして、実はひとつずつきちんと登っていた梯子からはずれた状態になっているものと例えられるでしょうか。
 
自由や解放、または分離から統合のあこがれが強すぎて、逃れたいと思う心が「逃れた状態」「逃れた人たち」という幻想空間(現実の中の特別ルールで見る世界観)を創造し、それに遊んでしまうものとも言えます。
 
そしてその創造された空間(フィールド・世界観)に仲間をおびき寄せ、象徴的に言えば、支配・束縛状態にある「偽のエデンの園」を体感させます。
 
ここでは知恵の実は失われ(隠されている、見えなくさせられている)、いつまでも、本当の意味では失楽園でありつつ、自分たちの意識では楽園であるところに居続けることになるです。
 
何が言いたいかといえば、安全に解放を進めていくのには、順を追ったひとつずつの段階があるということです。
 
ただ、今まで述べてきた各支配・束縛のシステムは多重構造でもあり、レベル(次元)を変えて見ていれば、各々の支配からの解放を、同時進行していくことも可能になります。
 
実は学びを志向する多くの人は、それを自動的にやっていて、例えば、常識的なルールに疑いを持つと、自分の心の縛りの解放へと向かうことも自然にあり、その逆に、心のルールへの気づきが、現実的なルールと自己との調整にうまく働くという感じです。
 
ですが、「自由」「解放」そのもの、つまりそういった言葉や概念から来る縛り(自分や他人が生み出す解放幻想)にも注意しましょうということなのです。

「節制」から「救い」の種類を考える。

自助・共助(互助)・公助という言葉があります。
 
自分が困っている時や悩んでいる状態の時などは、この3つの観点(救い方・救われ方)を考えるのは、意外に重要です。
 
また、どれかひとつだけと思ったり、何かに過剰に助け・援助を集中させてしまったりするというのも、バランスにおいて問題となることもあります。
 
例えば自分だけで何とかしようとしたり、他人からは、「自己責任」の一点ばりで言われたりするようなこと、反対にべったり誰かに依存したり、行政や他人ばかりをあてにしていたり・・・というケースなどです。
 
マルセイユタロットにおいては、「救い」「救済」をもっとも象徴するのは、天使が描かれているカードで、「節制」と言えましょう。
 
しかし、「天使」の象徴自体、救いのエネルギーとしてとらえると、大きな意味では「審判」もそうでしょうし、「世界」とか「恋人」でさえも、天使が描かれているものとして見ると、救いのカードと言えるかもしれないのです。
 
ただ、その救い方、救済として現れる質・次元・表現が異なるのです。
 
また、「節制」を基準にして考えると、「戦車」「節制」「世界」は「」という聖なる数をもとにして並べる(7の倍数として整列する)ことができます。
 
「戦車」が自分で馬を操り、動かしているところから、「自助」的な救い
 
「節制」がふたつの壷の水を交流させているところから、「共助」的な救い
 
そして「世界」は、4つの生き物に囲まれた中心に人物がいる様子からして、「公助」的なと救いがイメージされます。
 
私たちの世界は、こうした3つの救い方・救われ方をもって、皆が生きていると言えます。
 
特に、この現実世界は個人個人の違いをもって全体が存在する世界です。
 
言ってみれば、人としては皆同じでも、一人一人は個性があるわけです。違って当たり前の世界です。
 
ということは、これは病気への抵抗や免疫にも言えることだと思うのですが、まったく同じ性質や状態の者だけの集合体では、ひとたび未知なる問題・危機・病気が発生すると、全滅の恐れがあります。
 
ところが、一人一人違うものを持っている集まりでは、何人かはやられる傾向を持つかもしれませんが、対抗できる素質をもった人もいる可能性が、皆同じ性質の時よりも高まります。
 
その性質を今度はシェアすることができれば、ほかの皆も助かる可能性があるわけです。いわば、誰かの抵抗や免疫で生まれたワクチンが、皆にも使えるようになったという感じです。
 
このように考えると、まさにこの現実世界は、「助け合い」のためにあると言ってもよいかもしれません。
 
一方で、それぞれが違うために比較したり、主義主張、権力・支配の争奪で争ったりということが起きやすいのも確かでしょうが、同時に、違いがあるからこそ、他人を助けることもできるのです。
 
よく、「答えは自分の中にある」と言いますが、それはたとえそうであったとしても、困った時、悩んだ時というのは、普段以上に混乱しているわけですから、心の整理など冷静につくはずがなく、だからこそ、自分の中の答えを発見したり、それに至りまでのサポートを受けたりすることでの、他人の目・力が必要となるのです。
 
他人に相談する意味のひとつは、そこにあると言えます。
 
つまり、自力だけでの助けでは、救われることが難しいのがこの世界では当たり前なのです。だから、他人や組織、集団、公的な援助も含めて、自らの救いを考える(求める)とよいのです。
 
特にカードで「節制」が出る時は、自らが独善的になって、自分自身でやれる・救えると思ったり、他人や自分を愛なく支配しようとしたり(簡単に言えばお節介)する場合のことがあります。
 
こんな時には素直に自らのハートを開き、人に救いを求めたり、自分のできる範囲で、自分の手を人に差し伸べたりするとよいです。
 
この世界は他人であっても天使となりうること、また人に対して自分が天使となりえることが、「節制」のカードから示唆されているのです。
 
それから「助け」や「救い」というのは、何も経済的なことや愛情をかけるというようなことだけとは限りません。
 
形や行動ではないものもあり、つまりは精神やイメージにおける抽象的なものであったり、知識や哲学的な啓示であったりする場合もあるのです。まさにエネルギーそのものとして感じる人もあるでしょう。
 
その目に見えない範囲においても、自助・共助・公助という観点があり、自分自身でわかる気づき、パートナーや特定の人など、誰かに諭され導かれる気づき、集団や大きな範疇、高次からもたらされる気づきなどがあると言えます。

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