カードからの気づき
愚かであることを知る「愚者」
タロットでは、「愚者」というカードがあります。
タロットカードの中でも、特殊中の特殊なカードであり、タロットと関連を持つトランプカードにおいてもジョーカーとして残っています。逆に言えば、ジョーカー的特別性を持つのが、タロットの「愚者」とも言えます。
マルセイユタロットでも、当然、この「愚者」のカードが存在しますが、このカードは数を持たず、そのため、何(の数)にも規定されない自由さを持つと言われています。
「愚者」(に描かれている人物)は、その名の通り、愚か者と見られるわけですが、マルセイユタロットの「愚者」は、本当に愚かという感じには見えません。
それどころか、むしろ知性的で明確な意志を持っているかのようにも見えます。そのため、この「愚者」から、いろいろな解釈が成り立ってきます。
その中には、「愚かさ」についての種類があるということが出てきます。
ひとつは、無知に基づく、本当の「愚かさ」で、そしてもうひとつは、一度、知を獲得しながらも、あえてそれを捨てるような「愚かさ」です。
前者は自分を愚か者ではなく、むしろ自分は賢いとか、普通の人だと思っていることが多いですが、後者は、自分が愚かであることを知っており、むしろ積極的に愚かであろうとしているとさえ言えます。
このふたつの愚かさの間には、愚かさを軽蔑し(嫌い)、そこから逃れたいと思う段階(知を求める段階)と、反対に、愚かさにあこがれ、愚か者になろうとする段階(常識に反抗する段階)とが混合(混在)します。
「愚かさ」「愚か者」というのを、変わり者、アウトサイダー、世間の常識に従わない者とすると、またこの混在段階もわかりやすくなります。
一般人から見れば、自分たちのルール・常識から、はずれる者は「愚か者」と見られることがあります。
一方で、非常識になることで、注目を浴び、自分の価値を上げようとする者もいます。(結局、自尊心の低さや不足を思う感情から来ており、常識はずれを志向しながら、他人の評価を気にするタイプです)
ルールや規則を破ったり、ちょっと人と違ったことをやったりして非常識になること、変わり者を演ずることは、むしろ簡単なことです。悪(ワル)を演じるとか、非行にちょっと走って粋がってみるなどの感じがこれに近いです。
難しいのは、ある常識の範囲内で、外側や見た目は調和させながら、自らのうちに非常識を受け入れるということです。
もちろん、見た目も内側も変わり者という変革者、アウトサイダーはいてもよく、また、いついかなる時代や状態でも、常識的範囲を超えた人というのは生まれるものです。こうした人は、いい意味で破壊者となって、社会や固まった常識、枠を変えていきます。
ただ、人からよく見られたい、一目置かれたいという承認欲求から来ている、仮の愚か者、愚者は、人から見れば痛々しいところ(もっと言うと哀しいところ)があり、自分の「愚かさ」を知ったほうがよいでしょう。これは「星」の女神に癒されなければならないかもしれません。
一方、一度ある常識に収まりつつも(ある段階の知性を獲得した後)、そこからさらなる成長や飛躍のために、これまでの常識や知識、信仰を捨て、自分が生まれ変わる(変身する)ために、あえて愚者になる道があります。
哲学者のソクラテスが述べた「無知の知」を想起させるような態度です。
マルセイユタロットでは、真理の道を志す時、自らが「愚者」(のカード)となるのだという示唆があります。
改めて、自分が自覚する「愚者」となる時、自身の変容作業が始まるのです。
それゆえ、マルセイユタロットの「愚者」と「13」は、絵柄的にも関連するように描かれています。
さらに、「愚者」が賢者と出会う(自分の愚かさを知って真理の道に進むと、自らが智者的な「隠者」となることが暗示されている)必然性を示すように、「愚者」と「隠者」にも、関係性をマルセイユタロットは象徴させています。
自らが愚かであることを思えば、人生、気にすることも少なくなり、まだまだ成長できること、隠された真実を知る喜びも生じてきます。
「愚かであることを知る愚かさ」は、他人と自分の、様々な部分を受け入れることのできる輝きと言えましょう。
願望実現の次元と世界
マルセイユタロットの「運命の輪」と次の数を持つ「力」のカードを見るにつけ、いわゆる引き寄せや、各種(占い・スピリチュアル・心理系等)の願望達成法には、限界や矛盾があることを感じます。
願望達成(法)への現時点での私の見解はこうです。
「願ったこと、希望したものはすべて叶いますが、次元別・世界別のブロックや限界があります」
そう、実は願いは何らかの形で、すべて叶える(すべて叶う)ことができます。
ただ、それが私たちが意識する現実の世界、リアリティをもって過ごしている次元においては、様々なブロック・障害、逆にいえば危険や混乱のために守護やストップがかかる状態があるということです。
例えば、心の内では、自分が願えば何にでも、どんな状態にでもなることは可能です。簡単に言えば、イメージの世界での実現です。
イメージの世界は現実(次元)からすればないと言えますが、実際には形はなくても、イメージはされているのですから、別の様式で確かに存在していると述べることもできます。
しかし、現実次元では、「あの人が憎たらしいから、今すぐ死んでほしい」と願ったところで、いきなりその人が死んでしまうわけではありません。
これと同じように、ポジティブな願いであれ、ネガティブなものであれ、現実ではそうそう易々とすべてが思い通りに叶うわけではないのは、皆さん、当たり前に実感していることでしょう。
それはなぜなのかを考えますと、要するに、そういう仕組みになっていると答えるしかありません。
全員の望みがそのまま叶ってしまえば、ルールも秩序もあったものではなく、ただ混乱を来すだけです。
どの世界や次元にもそれなりのルールや法則があり、それがあるからこそ、次元・世界として特色を持つ、分けることができるのだと考えられます。
イメージの世界・次元では、夢想であっても叶いますが、現実次元においては、時間や距離、物理的障害、自分と他人の違いなど、その他もろもろの障壁・ガードがあり、簡単には願いは叶いません。
しかし、そうした障壁やルールを守ったうえでならば叶うこともあるわけです。
残念ながら、この現実次元においての障壁やルールは、見た目でわかるものだけではない(他人の心の部分や自分が見えてない他人の行動のこともあれば、カルマなどの影響もあるかもしれません)ので、それでおまじないとか、スピリチュアル的な願望実現などに望みを託す人も出るわけです。
もっと科学の進歩したり、人々の意識(認識)が向上したりして、この現実世界の読解が進めば、いわゆる波動などとスピリチュアル界の人がいう概念も、論理的に解き明かしていくことができ、思いや願いの実現が、どこまでが可能で、どこまでが不可能なのかということがわかってくるでしょう。
その中で、自助努力の部分と、他の要素による影響とブロックの部分も明確になり、無駄なところや怪しいところは少なくなってくるのではないかと想像しています。
一方で、現実的な今の対策として、願望実現のシステム(の障壁・ブロック等)が完全にわからなくても、ある方法で対応していくことが可能です。
ひとつは、とにかくシステム(メカニズム)や論理を考えずに、意志と情熱で願望実現を目指して、いろいろと実行していくやり方、もうひとつは、自分の願望を整理し、そぎ落として、現実次元で無理のない、それでいて本当に望むものにフォーカスしていくやり方です。
前者は、自分の願望に忠実に、目的(願望の実現)こそがすべてであり、極端なことを言えば、過程はどうでもよいのだという姿勢です。
目的達成こそが目標なのですから、その叶え方自体はどれでもよく、要するに叶えることができるものに出会うことが重要となります。その意味では、がむしゃらに願望実現法を試してみるのもよいでしょう。
現実次元の願望達成における障壁システムなど、結局、解き明かすことは難しいわけですから、つべこべ言わず、自分の望みに向かって、今、現実にあるあらゆる資源・ネタを使って叶えさせればいいのだとするのも、自分の人生はこの一代限りだと見た場合、ポジティブでよい姿勢と言えるかもしれません。
もうひとつは、(願望実現の)メカニズムにも配慮しつつ、結局、現実次元では叶えられない欲求・願望はあるものと冷静に見つつ、そもそも自己の願望は、全部叶えたいものなのかどうか、今一度整理して、真に叶えたいものを優先的に選択していくやり方です。
願望を整理する中で、これだけば譲れないとか、これは現実的に、運や狭義のスピリチュアル的な願望達成法だけに頼らず、自分のアプローチと努力で可能だろうと考えられるものに、意識と行動を集中させるというやり方になります。
あと、これとは少し似ていて、ちょっと違うスタイルのものとしては、自分の願望自体をどんどんそぎ落としていき、いわゆるエゴからの欲求を中和・消失させ、自分の願いは、本当に自分にとって(この現実次元において)必要なものだけ叶うと見ていく態度もあります。
これは少し宗教的・仏教的態度に近いかもしれません。良きにつけ。悪しきにつけ、自分に必要なものだけ起きているのであり、願望実現も、そういったルールで実現するものと実現しないものがあると見る考えです。
ただ、自分の中で、自覚していない自らが作ったブロック・障壁・ルール(幼少期から形成されたものなど)というものもあり、これは普遍的な意味での現実次元の障壁・ルールとは別(個別的なブロック)でもあるので、これ自体を自覚・浄化することで、自分の中のブロック(制限)は消え、今まで叶わなかった願望が叶うというケースはあります。
その場合でも、普遍的な現実次元での制限・ルールを超えることはまずできません(できるのは、マルセイユタロットでいう、「運命の輪」を超えて、「力」の状態になった時だと言えます)ので、その線引きは理解したほうがいいでしょう。
そうでないと、自分の潜在的なブロックさえはずせば、何でも叶うという傲慢な態度になったり(これはエゴの肥大を呼びます)、ブロックを消したのに、思うようにならないと余計混乱したりすることになります。
自分の中にある「太陽」と「二人」
ほかのタロットでもそうですが、マルセイユタロットでも、「太陽」から「審判」「世界」という一種の流れのようにも見えるこの三枚のカードは、比較的よいカードとみなされています。
実際に、カードの絵柄を見ても、明るい感じが三枚とも伝ってくる気がします。
マルセイユタロットの秘伝では、この三枚の段階になりますと、霊的な完成ともいえる状況になっていますので、見た目以上に高次のエネルギー状態と言えるかもしれません。
そして、この三枚の中でも、最初にあたる「太陽」のカードについて、今日は注目してみたいと思います。
マルセイユタロットにおける「太陽」は、その絵柄からしても、とてもエネルギーを感じるカードです。私自身、うつ病からの回復時には、「太陽」のカードを見ることで、パワーをもらえた実感もありました。(状況によっては強すぎることもあるので、回復時のほうがいいかと思います)
この「太陽」のカードに描かれている、まさに太陽自体が、実は象徴であり、私たちの見ている実際の太陽とは異なることは、カードの解説をされなくても、たいていの人は感じるのではないかと思います。
普段絵画をよく見ている人は、太陽を描いた絵の中に、このマルセイユタロットのような光芒の形とよく似たものを記憶している人もいらっしゃるかもしれません。また太陽に顔があることも重要です。
占星術でもそうですが、タロットにおいても、天体を、今の私たち現代人が思うような、ただの物質的観点から見ると、本質がわからなくなります。
「太陽」カードの太陽も、太陽であって太陽ではなく、古代の人が象徴的に観じた、太陽の奧にある根源、神性(の太陽的表現)を見ていたのです。いわば、太陽を通して現れる神(全体・完全性)の霊魂のようなものです。
これが象徴的に見るということのひとつの特徴であり、タロットをやっている人でも、また占星術をやっている人でも、いまだ象徴の意味を理解せず、物資的・機能的な見方(モノとして見ている、見た目を中心の判断にしている、何か特別なことを与えたり、支配したりできるものとして見ていること)に偏っている人がいます。
もっと象徴的に見る必要があります。
こうした「太陽」の魂、霊が、私たちの中にも宿っています。
しかし、通常の生活の中で、それを見失っている状態なのです。
いわば、いつも昼間に現実の太陽を見ていながら、自分の中にある太陽を認識できず、暗闇の中で過ごしているようなものです。
太陽は月と星とも当然関連しますが、暗闇にあっては、現実的に私たちは月や星がよく見え、明るい昼間にあっては、太陽がよく見えます。
けれども、内的には暗闇の中では「太陽」はよく光り、明るさの中では「月」や「星」を意識することがあるのです。
これも象徴的な例えであり、わかりやすく言えば、暗闇は苦悩や試練とも言え、そうした状況にあった時こそ、自分の中の内的な「太陽」が輝き出すわけです。
それから、「太陽」のカードの絵柄のもうひとつの特徴としては、二人の人物が手を取り合っていることです。
これも象徴的に考えると、いろいろな読み方(すなわち、次元別の読み方)がありますが、私が今回、特に強調したいのは、この二人は結局自分であるということであり、自分自身を受け入れること、自分自身と仲良くなるということが示唆されていると見ます。
そして、自分を自分の中でさらけ出す覚悟も必要です。
と言っても、他人に自分をさらけ出しましょうと言っているのではありません。
そうできれば楽かもしれませんが、なかなか普通は難しいものです。
ここで発想の転換を図り、あくまで自分の中の世界で、自分に嘘をついたり、自分を隠したりしないように持っていきましょうと述べているのです。
スピリチュアルな話でいうと、おそらく、私たちは、死ぬと肉体という鎧や覆いがなくなりますので、隠し事が、現実次元で生きていた時よりも、できなくなるはずです。
心が素になると言いますか、嘘や隠し事が効かない次元に移ると推測されます。(これは「正義」のカードとも関係します)
となりますと、もちろん他人との関係についても考えることができますが、その前に自分自身との関係で見ますと、自分に嘘をついてきたこと、自分を騙してきたことについては、死ぬと露わになるわけです。
言い換えれば、真実の自分(本当の気持ちの自分)と、偽りの自分(肉体・現実次元で体裁をつくってきた自分)が対決すると言えます。
これは相当大変なことになると想像できます。自分がふたつに分かれて争うような感じでしょう。
まあ、それでも、真実の自分はまさに「真実」を知っていますので、どうして偽りの自分にならざるをえなかったのかも理解していることだとは思います。ただ、それを受け入れ、整理・融合していく時間は、偽りの人生が多ければ多いほど、しばらくかかるかもしれません。
ですから、前もって、今生きている現実の次元において、あらかじめ、二人の自分の融和を図っておくとよいわけです。
少なくとも、本当の気持ちの自分と、まやかしをしなくてはならなかった自分との対話を、自己の中で試みておくことだと思います。
そうする中で、「仕方なかったんだ」ということもあるかもれませんし、やはり、「嘘をついていたこと・隠していたことは悪かった」となるかもしれませんし、それは対話次第です。
タロットリーディングにおいても、「太陽」のカードが出る時、他人とのコミュニケーションや繋がりが意識されることもありますが、もうひとつ、自分の中の二人との対話・融和がテーマとして起こっていると読む場合があります。
誤解なきように言っておきますが、何も真実の自分を必ず表現しなくてはならないということではありません。
この現実次元では、様々なしがらみ、状況が予想され、ありのまま・素のままで押し通せるほど、純粋無垢なものではないからです。
だからこそ、偽りとも言える自分が生み出されます。
ただそれでも、真の自分と偽り・仮の自分とが、まったく対話することなく、偽りの自分が真の自分を無視仕切っている状態になっていれば、その人は「太陽」を隠すことになり、葛藤が深くなります。
従って、自分の中の「太陽」を隠している状態の人には、それを意識させられるように事件・試練が起こるのです。
あなたの中の「太陽」は、いつも輝き、燃えており、あなたにパワーを送り続けています。その「太陽」にいつか気づくことがあることを祈っています。
「縁」の良し悪し、扱いとレベル。
マルセイユタロットの「恋人」カードと「運命の輪」のカードを並べると、ほとんど人間の運というのは、実は縁(えん・えにし)でできていると感じます。
この縁というのは、もちろん人間同士がつながる縁とも言えますが、人間以外の存在やモノとのつながりも意味しています。
このふたつのカードでも、人間以外の存在が描写されていますし、そのことが、縁の運びや繋ぎ、さらには断ち切りについても、関係していると考えることができます。
しかし、私たちは「縁」について、何かしら、現実(見えるもの)を超えた働きがあるだろうことは想像していても、実際には、自分が働きかけたり、人から働きかけられたりして、つながるものと認識します。
つまりは、現実的に普通の「人間」が動いて縁が生じるということです。
このことは「恋人」カードでも象徴されており、絵柄の下の三人は、人間同士の実際の働きかけ、行動を示していると考えられます。
そのため、昨今の効率主義やデータ主義、成功や勝利を目指す傾向の人たちにおいて、縁結び、いわば人間関係においては、自分のためにならない人とは交流しないという態度の人もいるようです。
確かに、ある目的をテーマとした場合、その達成のためには、効率のよいつきあいや交流というのもあるでしょう。会って話していても、何の得にもならない、時間の無駄だという状態(関係)を避けるという選択です。
人生は平均80年だとしても、時間・寿命は限りあるものですから、一刻も無駄にはできないというのもわかります。
一方で、ダメとわかっていてもズルズルつきあってしまう関係、一般的によいとは思えない人との縁、切ろうとしてもなかなか切れない縁など、言ってみれば悪縁・腐れ縁みたいな選択を続けてしまう人もいます。
後者(悪い縁をつないだり、続けたりする人)のほうはダメ人間で、前者のほうは、無駄を省いたつきあい方と縁を結んでいくので、成功する可能性も高く、一般的に見て望ましい態度と言えるかもしれません。
しかし、目的のために効率よく縁を結んでいく人は、それは結局、自分の得になる人間関係か損する人間関係かで、縁を推し量っているところがあるのではないでしょうか。
この損か得かという観点は、自分にとっての「ある価値観」を基準にした二元判断であり、必ずしも、その価値観が絶対的に続くとは限らず、成功か失敗か、いいか悪いかのふたつの相克観点からなかなか逃れることができません。(気が休まらない)
自分の望む縁が結べたり、いい関係ができたりすればよいのですが、そうならなかった時の焦燥感や挫折感も大きなものになるおそれもあります。
片方を求めれば、もう片方が捨てられことになるのは明白であり、その捨てられたほうの世界に、実はもっと違った意味での良さや成功も隠されている可能性もあるのです。
自分が無駄と思っていた人との縁やつきあいの中に、自分を飛躍的に成長させるものがないとは限らないのです。
けれども、だからと言って、悪縁や腐れ縁を続けてよいということでもありません。
こういった悪い縁というものには、よく霊的なことや過去生データのようなものを心配する人がいますが、ほとんどは自分の心理的な要因が影響していることが多いものです。
※自分の思ういい縁に対しても、変にスピリチュアル過ぎる見方をする人も注意です。
たとえ霊的なものの影響があったとしても、やはり心理的・肉体的なコンディションと環境に、まずは注意を払ったほうがいい場合があります。
縁(の影響)でひとつ大切なのは、ほとんどは、自力(と他人のサポート)で何とかできるということです。
悪縁は自分で断ち切ったり、そういう縁を呼び込む心理的・肉体的パターンを、セラピストなどから気づかせてもらったりすることができるのです。
反対に、ある目的のためによいと思われる縁を結んでいくことも、自分の行動として、現実的に何かできるはずです。
タロットなどする人は、やたらと超越的な他力(スピリチュアルな何かのようなもの、超越存在など)を頼りたがる方がいますが、こと、マルセイユタロットにおいての示唆は、まずは自力と現実の周囲からということが求められているのです。
その上で、次の段階も示されています。
効率のよいつきあいや縁だけを大事にするという態度と、誰でもダラダラとつきあいをしてみたり、腐れ縁・悪縁を続けてしまったりする態度とは、真逆の関係にありますが、どちらも実は、人間だけを見ている縁と言えます。
人間だけ、目に見える範囲だけというのが普通の人の縁に対する見方と行動になるのですが、縁というのは、もっと奥深く、時間と狭い現実的な世界観を超越したものでもあります。
悪縁にひかれる傾向、つかまってしまう傾向の中に、大きく自分を霊的に成長させる何かがあります。
それは一般的価値観や、普通の占いでの運の良し悪しさえ超える、魂の求め(因縁と浄化にも関連)に関係します。
そして目的達成の効率を求める縁の過程では、計算通りには行かないことが時には起き、自らを混乱に貶めます。その後、自分を縛っていた、自分の作った幻想ともいえる「運命の輪」に気づいていくのです。
「縁は異なもの味なもの」と言われますが、まさに生きていてわかるものと死んでからわかるもの、さらに、この輪廻の果てを超えて見えてくる縁というのもあるのだと思います。
いわば「縁」とは自分のレベルいかんよって、縁のレベル(ネットワークレベルのもようなもの)の見え方、繋がり方も変わるわけです。
ちょうど、言葉だけでつながっているコミュニケーションと、インターネットや電波を通して、見えないものでもつながっているコミュニケーションとの違いのようなもので、どちらも同時に存在していますが、そのネットワークレベルにつながっていないと、あるいは使えないと、存在しないに等しいものなのです。
どの縁も、ある世界(レベル)においてはいい縁と悪い縁に分かれますし、それを意識した生き方もありでしょうが、またそれらを超えたところでは、いいも悪いもなく、もっと言えば、すべての縁は愛(神であり自分)だということもできるでしょう。
自分を中心として設定し直す。
今日、タロットを見ていますと「皇帝」や「力」のカード強く出てきました。
そして、それらから、「自らが主人公になる」ことのメッセージを受けました。
当たり前の話ですが、人は誰でも、自らの人生においては自分が主人公です。
しかし、意外にも、そのことは当たり前すぎて、かえって意識することがありません。
それどころか、いつの間にか、他人が主人公のように思ってしまう人生を歩んでいる場合もあるものです。
「いやいや、普段意識はしていなくても、自分が中心だという思いはありますよ」
ということを言う人もいらっしゃるでしょう。
けれども、どうでしょうか。
私たちは、多くの場合、他人と比較し、自分の劣っているところを気にしたり、人を羨んだりしています。
そうでなくても(人と比較する意識が強くなくても)、このあまりに複雑で巨大と思える社会と仕組みの中で、自分の役割や使命、貢献感といったものはゼロに等しい、まったく埋もれてしまっている存在(存在感のなさ)だと感じている人もいらっしゃるのではないでしょうか。
つまりは、自分が主人公ではなく、他人か、主人公そのものが不在という状態に感じているわけです。
たまに自分に中心が戻ってくることはあって、忙しく多様な社会にあっては、またすぐに自分を見失い、というか、消えてしまい、空虚な物語を演じるか、他人が主人公のストーリーに身を投じる(意識の中心が外に向かう)ことになります。
ですが、もう一度、当たり前のことを思い出し、自分の人生は自分が主役で、自分が中心としてすえられているのだと自覚することです。
自分がいなければ世の中は何も始まらないし、終わりもないし、そもそも発生すらしないのだというくらいの意識です。
なぜ、今の人たちがこのような、自分を主人公として実感しづらくなっているのかは、いろいろな理由はあると思いますが、タロット的(古代象徴的)に見れば、歪な客観性の世界観が普通となってしまったからだと言えます。
これは、占星術・天文学的に言えば、天動説から地動説に置き換わったというようなものです。
物理的に(ただ見えるものだけの観点で)観察する思考をもってすれば、確かに地球ほか、各太陽系の惑星が太陽を中心にして回っているように見えますが、象徴的・精神的な世界観では、かつては地球、つまり自分自身を中心として星や宇宙が回転していたのです。
それは昔は科学が劣っていて、肉眼で観察する範囲でしかならず、ほとんど迷信の世界に陥っていたからだと一般の方は考えるでしょうが、次元を異にした見方では、自らを中心とした天動説的な宇宙観のほうがしっくりくることもあるのです。
どちらが霊的に見た場合に正しいかというような視点とも言えるでしょう。
いずれにしても、私たちは、おそらくどこか(の時代)で自分の立ち位置と他人の立ち位置が逆転して、他人視点でしか自分というものを実感できない客観世界を確立してしまったのが、逆に自立性や自身の存在感の確かさというものを希薄にさせたのだと感じられます。
自分は確かに宇宙の中心であり、また一部でもあり、だからこそ、全体からも欠けることのできない存在自身であるという実感が、ひしひしと昔の人はあったのではないかと推測できます。
今は、単なる機会のパーツのような感覚になってしまい、もしそのパーツが壊れても、ほかから補うことができると見られ、自分などいなくてもいいとさえ考えてしまう思考様態になるのも、無理もないと言えます。
しょせん、自分など、何の特技もなく、役にも立っておらず、一部の才能のある人、成功者が目立つだけで、自分はその人たちを輝かせるコマや飾り、材料のようなもので、空しいものだという感覚です。
しかし、自分中心の世界観を回復してくると、どんな役回りにあっても、ストーリーの中心は自分にありますので、ほかは逆に自分を盛り立てる要素という感じになりす。
ここで変な客観性(つまり他人目線・常識目線)を入れてしまうと、目立つ人が主人公になり、自分の役は端役であったり、目立つ人のための補助的な役だったり、時には消滅した存在とさえなったりします。
こう考えればよいです。
映画でもドラマで、サイドストーリーとか、スピンオフ作品とかがありますよね。
それは最初の主人公とは違った人に光が当てられ、別の人が主人公になったり、たとえ同じ物語でも別の視点で描かれたりします。
そうすると、今までかっこよくて、すごいと思っていた主人公が、実は敵役にもなったり、あまり目立たないことにもなったりするのです。
そう、結局は、実はどにもない、自分が勝手に想像して創り上げた他人目線や社会的評価みたいなものを取り入れて、幻想の客観性とも言えるもの(それは時にリアリティを持つこともありますが)で自分を見ているため、自分は主人公にならず、なってもたまにであり、ほとんど脇役のままになるのです。
というより、この場合、主人公は、その「怪しい客観性自体が人格をもったような存在」だと言えます。それは物語への観客的視点ではあって、演じている役者自身の視点ではないのです。
あなたの人生劇場の主役はあなた自身であり、演じているあなた(役者自身)なのです。
そちら側(役者)の視点を中心としてもってくることで、存在の評価を自分のほうに取り戻すことができます。
どんな立場や役でも、自分が主人公なのですから、たとえ他人のほうが客観的視点ではすごく見えたとしても、それはあくまであなた自身のストーリーを盛り上げるための脇役でしかありません。
こういう視点に立てば、目の前の今のことに集中しやすくもなるでしょう。
つまらない仕事や役をやらせているのではなく、それ(自分と、自分がやっていることそのもの)がドラマのメインであり、主役だと思えば、誰でもドラマチックなものになるのです。
つまるところ、自分を中心として、誰もが何もかもが、あなたの舞台を輝かせるための装置・設定として演出されており、どれひとつ欠けても、そのシーンは出来上がらないことを思えば、「すばらしきかな我が人生」という思いに、少しはなってくるでしょう。
自分を中心にした感覚を取り戻すには、流される環境(多忙でオートマチックに動く環境)や騒々しいところでは難しく、静かなところで、周りには何もないようなところが望ましいです。
そういう意味では、瞑想やリトリートなども効果があるでしょう。
現代は電気で星が見えにくくなっているのも、自分の中心軸感覚を失う要因のひとつなので、星がきれいにたくさん見える場所で、宇宙と自分を想像し、自らが中心だと意識してみるのもよいでしょう。