カードからの気づき
人生に何か目的や目標があったほうがいいのか、あるいはないほうがいいのか、これは議論の分かれるところだと思います。
さらに目的というより、もっと大きな使命のようなものについても、あるべきか否かという観点が出てきます。
結局、人それぞれ、その人がどちらがいいと思うかで決まると言えるものですが、改めて、その違いを見てみるのも面白いかもしれません。
まず人生に目的あるなし、どちらがいいかという点ですが、これには時間と効率をポイントとして見ると、判断がつくこともあります。
それは短期的には、目標があったほうが有意義に過ごしやすいというか、効率的になると言えます。
3ヶ月後にはこうなっていたいとか、この一年ではこれを成し遂げるとか、そういったものがあると、焦点も絞りやすくなり、その達成のために情報も行動も集中しやすくなります。
その結果、目標の実現いかんにかかわらず、その期間は、とにかくも濃密な状態で過ごすことができます。そのため、生きている実感も伴いやすいでしょう。
しかし、何十年ものスパンともなってきますと、そこにたとえ目標や目的を立てたとしても、それが達成できるかどうかはかなり先の話となり、そのためのスモールステップや段階を刻んでいくにしても、中だるみや、目標到達度合いの進展の遅さなど感じてしまうと、目標を持つ効果が、人生によい影響を与えるとは言い難くなりそうです。
見方を変えれば、その目標に縛られた人生ということにもなりかねず、長い間、その目標のために生きてきたのに、それが達成できなかったとすれば、その落胆も、それだけ長大な時間をかけてきた重さによって半端ないものとなり、せっかくの人生を無駄にしたという思いになるおそれもあります。
ということで、時間的には、短期の場面において、目標設定した人生のほうが良さそうに思います。
さて、今度は使命のようなものについてですが、使命感があるのとないのとでは、生き方が大きく変わるのは間違いないでしょう。
それがいい(人生な)のか悪い(人生な)のかは、結局は、最初にも述べた通り、その人がどう感じる(最後に思った)かによると思います。
ただ、使命を持つということは、強い意志や、折れない心などイメージされ、はたまた見た目の結果とか、数値などで計れるようなこととは違い、心の中の情熱、さらには形にとれわれない純粋なものを感じさせます。
それは感情に依拠するとはいえ、好き嫌いという感情的ものを超えた、何か心の奥底から燃え上がる魂的な欲求に従うという印象でもあります。
タロットで表現される四大元素でいえば、感情の「水」というより情熱の「火」に当たるでしょう。
また「目標」には、その達成のために合理的で効率的なものを求めることがあるのに対し、「使命」の場合は、そういうこともあるとはいえ、必ずしも「論理」や「効率」性を求めず、客観性より、あくまで主観である自分の納得感によるものがあると考えられます。
ということは、先の時間的な観点で言えば、長期的な時間において、使命(感)を持つことは向いていると言えます。
しかしながら、目標や使命においても、それに囚われ過ぎると、ほかの人生の可能性を失ったり、狭めたりして、束縛のひもになることも、覚えておいたほうがよいでしょう。
ひもは、ポジティブに見れば、自分(の力や表現)を、ある方向に強めさせるもの(引っ張ったり、導いたりするもの)でもありますが、その逆に、文字通り、ひもとして拘束具となるわけですから。(マルセイユタロットの「悪魔」に、顕著に図示されています)
あと、目標や使命においても、具体的であるか、抽象的であるかという見方があります。
具体的な目標となれば、時間的には、やはり短期的な目標という感じがしますし、長期的になると、抽象的なものでもOKとなってくるでしょう。
つまり、人生全体では、抽象的な、例えば「楽しく生きる」ことが目標という感じでもありですが、その時々、ある部分を切り取ったところでは、「仕事において、なるべく好きなことに携わること」「好きな人と結婚すること」「アメリカへ留学すること(自分が楽しいと思う国で過ごすこと)」・・・など、具体的なものが、「楽しい人生」という目標に叶っていると見て、細かい目標になってくるというわけです。
マルセイユタロットで言えば、「愚者」というカードが、「世界」のカードという大目標や抽象的とも言える生き方の理想的なイメージを持ちながら、ほかの大アルカナと小アルカナのカードたちによって、実際の人生の場面において、細かな目標を設定し、具体的・現実的に過ごしていくという感じです。
ということは、(細かな)目標など、いつ持っても構わないわけで、しかもその都度、臨機応変に変わっていくのも当然と言えます。
しかしながら、大きな意味での使命とか、自分の人生の大目標、または最終的に亡くなる前に、「どう自分は生きた存在として終わるのか」という観点で見た時のイメージは、人生を過ごしながらの過程の最中で浮上してくるものであり、時代や年代、その時の情報に振り回されない、コアで核のようなものになると想像されます。
それらは持っていいとか、持たないほうがいいとかというレベルで判断できるものではなく、実は、生きていれば自然に魂の奥底から湧き起こってくるもの、そう直観してくるものと言えましょう。
ただ、何もそうしたことを考えずに生きていた場合、おそらく、自分が亡くなる直前に、いわゆる「走馬燈のように駆けめぐる」と表現される、自身の人生の総合データ観照作用によって気がつくことになると思いますが、それでは遅い(悔恨などのカルマを強く印象づけるおそれ)こともあります。
ですから、目標ではありませんが、自分の生きる意味・テーマのようなもの、現実に成し遂げる物質的・形としての成果ではなく、精神的・霊的に自分はどう生きるのか、何を求め生きるのかというものは、持っていた(気づくようにした)ほうがいいかと思われます。
ただひとつ、おかしなことを言うように思うかもしれませんが、これはよく言われるような、現実的に悔いなく生きるとか、充実した人生を過ごすという意味とか目標とは少し違います。(それはそれですばらしいことで、一般的には、それで十分なこともあるのですが)
どういうことなのかは、皆さん自身で考えてみてください。
マルセイユタロットに「星」というカードがあります。
このカードももちろん、そのほかのカードと同様に、様々な象徴性を持ちます。
ただ、その中でも大きくわけて、星そのものに関係する部分と、人物として描かれている女性、その持ち物に関する象徴性があると言えます。
全般的にマルセイユタロットは、その図柄と構造に最大のヒントがあり、これをつぶさに観察することで、深い示唆を得ることができるようになっています。
そして、それは意外に、まずは単純な絵の構図の違いなどから始まるものなのです。
さて、その「星」のカードですが、当然、星ということなので、われわれの見ている天体・星々が象徴されているのではないかと推し量ることができます。
ただ、タロットにおける象徴性というものは、物質的な観点というより(それも必要なことがありますが)、精神的・霊的なシンボルとして見るほうが本質的です。
つまり、星をただ物質的天体(何かの物質の塊の回転のようなイメージ)としてではなく、全体性の象徴として見ていくというものであり、この星は見たままの天体のことを言っているのではないということです。
特に地動説で、太陽の周りを二次元的な円のイメージで公転している太陽系の惑星というようなものは、マルセイユタロットなどが示す象徴性においては、まるで反転した、本質的にまったく違うものと言っていい代物になります。
これは科学的な視点で見るという次元とは異なるので、迷信を信じるとか、古い劣る見方に戻しましょうと言っているのではないことを理解するのが大事です。
いわば深い精神性や霊的な世界の本質表現のひとつ(高次を人間にわかるやすい次元に下降させたもの)と考えればいいでしょう。
星をそうした意味で見るということでは、やはり「占星術」をあげないわけにはいかないでしょう。
ということで、この「星」のカードが占星術と関係していることも考えられます。
一方、「星」に描かれている裸の女性は女神ともいえ、手に持つふたつの壷からは、何らかの水のようなものが蕩々と流れているように見えます。また彼女の周囲には、川や泉とも表現できるものがあります。
このことから、何かの源泉つながっていること、その源泉からあふれ出すものを、さらに流していることが想像できます。
そして、繰り返しますが、彼女の上には星が輝き、その星もまた何らかの象徴性を持つという図式になっているわけです。
泉に星は映っていませんが、天と地のような関係で、泉(川)と星が呼応(共鳴・影響)していることは推測できます。
ところで、最近は占星術に関心のある方も増え、占星術を学んだり、占星術師(占星術をされる人)の指針で、日々の生活行動の参考にしている人も多くなりました。
それ自体は、精神や霊性の成長、解放性において、最初のステップとなると考えられますので、悪いものではないと考えられますが、一方でこれに囚われすぎ、星というものを逆に道具や物理的なものに再変換して、結局のところ、普通の人のお陰信仰に近い、極めて物質的感性に拘束される危険性があるので、注意も必要なところです。
「星」のカードから、星のエネルギーについて、現代占星術的なことを抜きにして述べたいことは、星を象徴化することによって、イメージの源泉にふれることができる、またはイメージの力や豊かさを増進させることがてきるという点です。
占星術を学ぶにおいても、星を扱って(星の動きを見て)実生活の現世利益的なものに利用するという観点ではなく、星の特質・象徴性(特に太陽系の惑星)を精神的に(心のイメージとして)把握し、自身の内側のイメージを広げることに役立てるとよいと思います。
いえ、目的は人によって自由に選択できますから、別に星の動きとエネルギーを利用して、生活をよくしたいという人は、それもその人の個性です。(ちょっとだけ言っておけば、ここで注意したいのは、「星と調和する」という考えには、言葉自体はとてもよいことですが、いろいろな側面があるということです)
星によって、自分のイメージの力を増していくということは、当初は混沌とした中に放り込まれるような感覚もありますが、次第に、自分の心の中を象徴的に整理したり、理解できたりする方法のひとつとして活用できるようになるでしょう。
またイメージはアイデアを生み出しますから、行き詰まった状況にある時、あるアイデアもひらめきやすくなります。
それから、「星」の女神の壷の水が示すように、それは流すことにもつながります。
「流す」ことは与えるだけではなく、自身や人を浄化することに関係し、つまり、豊富なイメージの中でも、自分を苦しめる幻想のようなものは、流してしまうことも示唆されるわけです。
精神の囚われはイメージと想像力に起因しているものが多く、矛盾のように聞こえるかもですが、だからこそ、イメージの理解によってイメージによる束縛を打破することが可能になるのです。
そのためには、貧弱で現実に支配されたイメージから、もっと自由で豊かなイメージ(が持てる力)を取り戻す必要があるのです。
心の整理と先に述べたのも、こういうところと関連します。
そして星自体は、よくも悪くもなく、その象徴性・エネルギーの扱いをどうするかによって、水の流れる意味、その方向性や目的も変わってくるというわけなのです。
マルセイユタロットは、様々な分野の成長段階を絵図で象徴させているものと言えます。
ただこれは、様々なものを表せる「元型」のようなものが描かれているからそう見える、と言い換えることができます。
ですから、様々な分野と言っても、それぞれ(の分野)に具体的とはいえないもので、すべてを包括した、ある種のパターンといったものが示されている、いわば抽象的なものなのです。
おかしな話になりますが、具体的であればあるほど、実は本質のようなものからはずれて行き、嘘が多くなってきます。
嘘というより、それぞれ固有の世界観に支配されると言ったほうがいいでしょうか。
色で言えば、もともと白かったものに、段々色がついてきて、しかも具体的になればなるほど、その色ももっと濃くなって、明らかに「ほかの色」として見えてくる状態と言えましょう。
さてこの話と実は深いところでつながることを今から書くわけですが、そのつながりが見えない人は別にそれで構いません。ここから別記事だと思えばよいです。
マルセイユタロットのあるカードたちの関係性を見ていくうちに、私たちは、自由を得る過程で、段階ごと、あるいは分野ごとに、あるルールに縛られる(自らを束縛する)ことがわかります。
わかりやすいのは、いわゆるその時代や社会の常識、文字通りの明文化された(形ある)法律やルールなどです。また自分のより上(親・先生・先輩・上司等)だと思う力(関係)の者の言葉も入ってくるかもしれません。
これらは現実や、目に見に見える範囲のルールによる支配と言い換えてもよいでしょう。
次に、自分の心が決めているものたちによる支配があります。
この支配は、先述した現実のルールに基づきながらも、自分の(心が感じた)歴史・経験を中心に組み上げられてきた、いわば明文化されていない(目に見えない)規則・ルールと言えます。
同じ条件で、ある事柄が自分の身に起こったとしても、Aさんにはそれが心に強く印象づけるものと感じる場合もあれば、Bさんでは何でもなかったこととして流している場合もあり、つまりは人によって、心に受ける度合いは様々です。
しかもそれが、心の深い部分(無意識層)まで刻まれていく時と、心の奧までは影響はなかったということもあります。
要するに、無意識の中に自分の決まり事や強烈な印象として刻印されてしまったものが、心の内のルールによる支配になると言えます。
そのほかにもまだまだありますが、そのうち、やっかいなのは、「自由」という名の下の支配(縛り)です。
これは一見、心の支配を脱しているように見えて、その実、何か(見えるものもあれば見えないものもあります)に頼りつつ、一時的な自由になったような錯覚を起こしている「幻想」による支配と言えます。
この支配の恐ろしいところは、自分では束縛の自覚がないばかりか、今度は、自分が人を縛る側に回っていくことにあります。
自由や解放を目指していく中で、一足飛びにそれを過剰に求めたり、ひとつの強い縛りが解けたあとの、急激な解放感に酔ったりして、実はひとつずつきちんと登っていた梯子からはずれた状態になっているものと例えられるでしょうか。
自由や解放、または分離から統合のあこがれが強すぎて、逃れたいと思う心が「逃れた状態」「逃れた人たち」という幻想空間(現実の中の特別ルールで見る世界観)を創造し、それに遊んでしまうものとも言えます。
そしてその創造された空間(フィールド・世界観)に仲間をおびき寄せ、象徴的に言えば、支配・束縛状態にある「偽のエデンの園」を体感させます。
ここでは知恵の実は失われ(隠されている、見えなくさせられている)、いつまでも、本当の意味では失楽園でありつつ、自分たちの意識では楽園であるところに居続けることになるです。
何が言いたいかといえば、安全に解放を進めていくのには、順を追ったひとつずつの段階があるということです。
ただ、今まで述べてきた各支配・束縛のシステムは多重構造でもあり、レベル(次元)を変えて見ていれば、各々の支配からの解放を、同時進行していくことも可能になります。
実は学びを志向する多くの人は、それを自動的にやっていて、例えば、常識的なルールに疑いを持つと、自分の心の縛りの解放へと向かうことも自然にあり、その逆に、心のルールへの気づきが、現実的なルールと自己との調整にうまく働くという感じです。
ですが、「自由」「解放」そのもの、つまりそういった言葉や概念から来る縛り(自分や他人が生み出す解放幻想)にも注意しましょうということなのです。
自助・共助(互助)・公助という言葉があります。
自分が困っている時や悩んでいる状態の時などは、この3つの観点(救い方・救われ方)を考えるのは、意外に重要です。
また、どれかひとつだけと思ったり、何かに過剰に助け・援助を集中させてしまったりするというのも、バランスにおいて問題となることもあります。
例えば自分だけで何とかしようとしたり、他人からは、「自己責任」の一点ばりで言われたりするようなこと、反対にべったり誰かに依存したり、行政や他人ばかりをあてにしていたり・・・というケースなどです。
マルセイユタロットにおいては、「救い」「救済」をもっとも象徴するのは、天使が描かれているカードで、「節制」と言えましょう。
しかし、「天使」の象徴自体、救いのエネルギーとしてとらえると、大きな意味では「審判」もそうでしょうし、「世界」とか「恋人」でさえも、天使が描かれているものとして見ると、救いのカードと言えるかもしれないのです。
ただ、その救い方、救済として現れる質・次元・表現が異なるのです。
また、「節制」を基準にして考えると、「戦車」「節制」「世界」は「7」という聖なる数をもとにして並べる(7の倍数として整列する)ことができます。
「戦車」が自分で馬を操り、動かしているところから、「自助」的な救い
「節制」がふたつの壷の水を交流させているところから、「共助」的な救い
そして「世界」は、4つの生き物に囲まれた中心に人物がいる様子からして、「公助」的なと救いがイメージされます。
私たちの世界は、こうした3つの救い方・救われ方をもって、皆が生きていると言えます。
特に、この現実世界は個人個人の違いをもって全体が存在する世界です。
言ってみれば、人としては皆同じでも、一人一人は個性があるわけです。違って当たり前の世界です。
ということは、これは病気への抵抗や免疫にも言えることだと思うのですが、まったく同じ性質や状態の者だけの集合体では、ひとたび未知なる問題・危機・病気が発生すると、全滅の恐れがあります。
ところが、一人一人違うものを持っている集まりでは、何人かはやられる傾向を持つかもしれませんが、対抗できる素質をもった人もいる可能性が、皆同じ性質の時よりも高まります。
その性質を今度はシェアすることができれば、ほかの皆も助かる可能性があるわけです。いわば、誰かの抵抗や免疫で生まれたワクチンが、皆にも使えるようになったという感じです。
このように考えると、まさにこの現実世界は、「助け合い」のためにあると言ってもよいかもしれません。
一方で、それぞれが違うために比較したり、主義主張、権力・支配の争奪で争ったりということが起きやすいのも確かでしょうが、同時に、違いがあるからこそ、他人を助けることもできるのです。
よく、「答えは自分の中にある」と言いますが、それはたとえそうであったとしても、困った時、悩んだ時というのは、普段以上に混乱しているわけですから、心の整理など冷静につくはずがなく、だからこそ、自分の中の答えを発見したり、それに至りまでのサポートを受けたりすることでの、他人の目・力が必要となるのです。
他人に相談する意味のひとつは、そこにあると言えます。
つまり、自力だけでの助けでは、救われることが難しいのがこの世界では当たり前なのです。だから、他人や組織、集団、公的な援助も含めて、自らの救いを考える(求める)とよいのです。
特にカードで「節制」が出る時は、自らが独善的になって、自分自身でやれる・救えると思ったり、他人や自分を愛なく支配しようとしたり(簡単に言えばお節介)する場合のことがあります。
こんな時には素直に自らのハートを開き、人に救いを求めたり、自分のできる範囲で、自分の手を人に差し伸べたりするとよいです。
この世界は他人であっても天使となりうること、また人に対して自分が天使となりえることが、「節制」のカードから示唆されているのです。
それから「助け」や「救い」というのは、何も経済的なことや愛情をかけるというようなことだけとは限りません。
形や行動ではないものもあり、つまりは精神やイメージにおける抽象的なものであったり、知識や哲学的な啓示であったりする場合もあるのです。まさにエネルギーそのものとして感じる人もあるでしょう。
その目に見えない範囲においても、自助・共助・公助という観点があり、自分自身でわかる気づき、パートナーや特定の人など、誰かに諭され導かれる気づき、集団や大きな範疇、高次からもたらされる気づきなどがあると言えます。
前回は、マルセイユタロットの「吊るし」のカードから、選択における「停止」「何もしない」ことを中心に解説しました。
今回は予告していましたように、同じ「吊るし」からでも、我慢や忍耐について考察してみたいと思います。
「吊るし」のカードで、何らかのネガティブなイメージを持たせる時、そのひとつとして、我慢すること、耐えている状況というものが浮かんでくるかもしれません。
昨今、心理系を中心に、我慢することは問題である。良くないことである。という主張が多くなってきました。
我慢というのも、状況的には自分自身がつらいことになっているわけですが、結局のところ、それは本当の自分というものから目をそらし、他人や外の環境に自己の基準・評価を委ねてしまっていると言えます。
「自分さえ我慢していれば周囲もうまく行く」「自分の我慢によって、いつかは自分が評価される、報われる」「我慢しなければ誰からも認められない」「我慢することが美徳である」「我慢や辛抱した結果、よいことが訪れる」・・・このような思い込み、さらには自己の評価や自身の存在価値を、我慢することによって獲得しようとする姿勢でもあります。
それではいつまで経っても、本来の自己に戻れず、真の自立から遠ざかることになります。
それに、他人や周囲の期待(それは他人から見た自分の理想の姿)に応える自分では、まさにほかの誰でもない、自分自身がしたいこと、自分の望みを押し殺す(抑圧させる)ことになりますから、言わばそうした「二人の自分」との悩みで葛藤し、その影響が、心身の不調、言いようのない生きづらさを体感させることにもなります。
そもそも葛藤というものは、葛藤しつつも無理矢理安定させていくふりを続けなくてはなりませんから、相当エネルギーを消耗するものです。(マルセイユタロットの「月」と「力」の関係にもあります)
ということで、表の自分と裏の自分とを争わない形にするためには、我慢をなるべくしないほうがよいという理屈にもなってくるわけです。
しかし、このことによって、「我慢することは悪いこと」だと決めつけている段階の人もいますが、もう少し考えを深めていくと、ことはそう単純なものではなくなってきます。
まず、我慢や耐えることそのものは悪くも良くもなく、ただそういう状態があると見ます。
ところで、人間や物事の状態には、圧力をかけていたほうがよい場合があります。
バネにしても、縮むからこそ伸びることができるのであり、何もかも伸びきった環境では、成長が見込めないのも事実です。
つまり、ある程度の圧力(プレッシャー)・負荷というものはバランスの意味でも、成長の意味でも必要なものだと考えられます。
この観点に立つと、我慢そのものは、自分に負荷をかけていることになり、ある種の(自己を鍛え、可能性を飛躍させる)試練にもなっているわけです。
何もかも自分の思い通り、欲求のままに表現したり、通ったりすると、それは小さな子どもがダダをこね、それが叶って何でも与えられるようなものと言えます。
だからと言って、必要以上に圧力や負荷をかけると、負荷によって壊れてしまう場合があります。ここが難しいところです。
どの程度の我慢が自分の成長にとってよいものになるのか、あるい自分を壊す害となるのか、これはなかなかわかりづらいからです。
ただ、一概に「我慢すること」「耐えること」すべてが、自分にとって悪いものではないのは、ある意味、当たり前でもありますが、言えることです。
この点は、今述べたように、当たり前ではあるのですが、スピリチュアル・心理系の人の中には、過剰に我慢を嫌い、我慢することが悪いことだと、逃避や自分が努力しないことへの免罪符のように使う危険性から逃れる意味でも、意外に重要なことだと思います。
さらに、もう一段深く見ていきます。
これは我慢することが、実は他人も含めての自分の救済、さらには宇宙的浄化(調和)にもなるという見方です。
我慢や辛抱が、自分を殺すという主張は多いですが、まったく反対の自分の救済になるというものです。
これは霊的な観点まで進まないと見えてこないものと言えますが、簡単に言えば、魂が我慢(する状況)を望んでいることもある(かもしれない)という考えです。
ただし、カルマ論になってしまうと危険なので(今生は我慢しなければならない運命とか、カルマ浄化のための必然性とかで見てしまうもの)、それとは区別します。
さきほど見ました、心理次元の「我慢」では、「自分が心ではしたいと思っていること」と、「他人や周囲から期待されている(と思う)心」との葛藤を調整するために、結局、自分が本当に心からしたいと思っいることに気づく」重要性へと導かれることになり、我慢することの問題点も指摘できました。
しかし、ここでの「我慢」とは、心理次元のさらに奧には、「魂」次元の思いがあると想定するものになります。
自分の我慢は、心理次元(心の状態)として見れば、自分を押し殺している(自分の気持ちを抑圧している)ことかもしれませんが、一方で他人や外からの期待に応えようとする心も確かにあり、それはふたつ心(自分中心・自分の欲求・願望と他人の欲求と願望、自分の理想と他人の理想、自分・内側の精神と他人・外側の物質や現実)の統合を、魂は志しているからであると見ることもでき、難しい状況を自分にあえて課していると考えられる(場合もある)のです。
それに注意しなければならないのは、自分の心の声、自分が本当にしたいことと言っても、いくつもある自分の中の人格のひとつに過ぎず、単なる欲望やエゴ的な心から出ている場合もあります。
我慢して他人の期待に応えたり、結果を出したりすることが無意識のうちにパターンとなっていて、そういうパターンでしか自分を認められない、行動できないとなっている場合は問題ですが、ほかのパターンで自分を認めたり、幸せになったりする方法は、もちろんたくさんあるわけです。
いわば、それは、自分の視点を左右に振ってみた時、初めて今までのパターンに気づいて、他のよい方法もあることがわかったという状態です。
魂次元での我慢への気づきというのは、左右ではなく、上下垂直に見ることであり、自分の縛っていたパターンそのものが、実は大きな恩恵で、崇高な統合と大きな成長、言い換えれば次元自体を超える装置(仕掛け)にもなっていたことに気づく方向性です。
宇宙的に言えば、地球という星を選択した意味、グノーシス的には、肉体を持ってこの世に誕生し、生活していく意味の本質とも関連してくると言えます。
そうすると、我慢しがちな人というのは、自分を殺している人、自分で自分を生きづらくしてしまっている人と心理次元では見られますが、魂次元では、自他の統合と調和のため、大きな作業として、そういう環境や設定をしているチャレンジャーとして見えてきます。
ただし、魂次元の前には、心理次元の気づきも大切ですから、やはり自分が肉体的・精神的に壊れてしまう我慢・辛抱・圧力・負荷というのは、問題と言えます。
プレッシャーとは逆の、弛緩・解放も当然必要なものですから、我慢し過ぎないこと、楽を選ぶこともよい選択となりえます。
楽に向かうのは効率の良さにもつながりますから、意外なことに思うかもしれませんが、無駄を省く意味では、一見、無駄と思えるようなくだらないこと、楽しいことを考えるのもよいのです。(マルセイユタロットでは、「悪魔」と「13」にも関係します。)