カードからの気づき

「手品師」からの視点と「世界」からの視点

これは以前にも書いたことがありますが、マルセイユタロット的に見れば、人生は数の上では「1」の「手品師」から見る方向と、逆の「21」の「世界」から見る方向とがあります。(あるいは、見方によっては、数のない「愚者」を「手品師」の代わりとして見る向きもあります)

 
実はこの両方向は、人生というより、根源的な深い、ふたつの方向性を示すのですが、それは講座で説明していますので、今回は省きます。
 
いずれにしても、タロットのアルカナ(口伝・秘密)を知れば、この二枚が絵柄の象徴として繋がり、関連していることは明白です。
 
しかし、ここではそうしたアルカナや暗号を除き、誰でもわかるもので、表現します。
 
さきほど、「手品師」からと「世界」からのふたつの人生の方向(見方)があると言いました。
 
これは簡単にいえば、「始まりから見るか」「終わりから見るか」の違いです。
 
まだ未完成、終わっていない、成長途上、過程やプロセスにあるという先行きを見る方向性と、反対に、もう終わった、完成した、結果が出たという、結末から見た方向性と言えます。
 
私たちは、このどちらかの視点で人生を見ることが多いわけです。
 
何かの夢や目標を持って進んでいる時は、当然「手品師」からの方向性になります。
 
この状態では、まだ自分の思う目標や目的が達成されていませんから、「まだまだだ」という思い、ネガティブに言えば、「あせり」のようなものも見える状態です。
 
他人や一般的価値観・常識と、自分の状態とを比べてしまいがちになるのも、この方向性にある時です。
 
それはまだ(目標・思い描くことが)達成されていないことで、自身の未熟性、欠如を思い、それがうまく行っている(達成されていると思う)人に目を向けさせ、比較してしまうことで、不足する自分との違いがさらに際立ってしまい、いらだちやあせりを生むという構造です。
 
しかし反面、まだ未到達なのですから、可能性の途上にあると言え、当初の目標を超えて完成したり、成長したりすることもあるわけで、言わば、夢のある(夢を見てもいい)状態でもあります。
 
実際の年齢層では、少年少女、青年時代、いわゆる若い世代の時と言えます。ただ、象徴的・精神的になりますと、年齢には関係なくなります。
 
一方、逆の「世界」側から見る方向とは、もう達成された地点から、これまでの過程を振り返る視点になりますので、すべてのことは結果のために起こった必然と見ることが可能になります。
 
まさに、「終わり良ければすべて良し」ではありませんが、結果オーライとして、幸せと安心感に包まれることもできます。
 
けれども、終わってしまったことなので、その終わったこと自体を変えることはできません。変えることができるのは、終わったことへの見方、考え方、とらえ方となります。
 
ここが「世界」からの視点では難しいところで、なかなかこれまでの過程の解釈を変えることができない場合は、後悔となって、「あの時の選択は間違っていた・・・」「あの時、ああすれば良かった・・・」「なぜ私はあれをしなかったのだろう・・・」という堂々巡りの思いに囚われてしまうのです。
 
また、終わったこと、結果、過程のうえで行き着いた今の状態に満足できていない人は、人生そのもの(今までの取り組み、すべて)が失敗だったと極端に思ってしまうこともあります。
 
こちら側から見る視点は、実際の年齢層としては、年老いた時、中高年、人生の終盤を迎えた方ということになりますが、これも象徴としては、年齢は無関係となります。
 
このように、どちらにしても、良いところと悪いところがあります。
 
結局のところ、その使い分けで自分を納得させるというのが、一番よいのかもしれません。
 
もちろん、年齢によるものの影響はあるでしょう。
 
年を取れば現実の人生時間も少ないのは確かですし、どうしても結果的方向から見がちで、反対に若い人は、まだまだ人生の時間があると思って、これからの過程、可能性を見ていくことが多くなるでしょう。
 
とはいえ、あくまで自分の状況を中心として考えると、年齢を超えた、ふたつの見方の方向性の取捨選択が可能です。
 
だいたいにおいて、先行きが不安とか、考えすぎの傾向にある時は、結果から見る「世界」の視点をもったほうがよく、反対に今それなりに満足感があったり、安定していたり、目標が達成していたりする人は、「手品師」からの、もっと成長していく方向性と過程を見るのがよいです。
 
これが心理的に見て、どうしても逆になってしまうことが多いのです。
 
不安だからこそ、先を見ようとしすぎたり、安定しているから、今の結果から振り返って、成功法則・理論(その人にとってはそうであっても、万人に共通とは限らない、たまたま結果オーライだった可能性もある)のように、自分をえらく見せたり、自分の考えを固めてしまったりすることがあるわけです。
 
現状が不安な人は予想や予測を必要以上にせず(いわば取り越し苦労をせず)、結果そのもの、起きたことそれ自体を中心にして、結果の中に自分がいることを思うと楽になります。(何かをしなければ・・・というあせりが少なくなり、自然に身を任せる気持ちとなる)
 
さらには今は悪くても、最終的な結果さえ良ければ、今のことはよい結果のための試練、チャンスだととらえることができるわけです。極端にいえは、人生が終わる瞬間、死ぬ直前で「良かった」と思える人生であれば、まだまだ今の悪いと思う状況でも逆転は可能だということです。
 
逆に、現状が満足、うまく行っていると思っている人でも、まだまだ成長過程にあること、新たな目標や夢をもって進めることを思い、謙虚さと未熟性(つまりは成長の可能性)を感じるとよいでしょう。それにより、執着や囚われの罠にはまることが少なくなります。
 
ほか(「手品師」と「世界」以外)にも、このふたつの方向性と見方を示唆するカードたちがあり、タロットで展開してみることで、今はどちらの視点がいいのかということを、タロットから出してもらうこともできます。

天使

今日はたぶん一番短いタイトルです。(笑) なぜか一言、「天使」というのがびったりだと思ったからです。

 
ということで、テーマは「天使」です。
 
天使が好きなスピリチュアル系の人は多いですよね。一般の人でも、天使の存在を信じている人はいると思います。
 
今回は、その天使の実在性を問うものではありません。マルセイユタロットのブログですので、マルセイユタロットにおいての天使を見たいと思います。
 
ずばり、マルセイユタロットに「天使」はいるのかと言えば、これはいると答えるしかありません。
 
正しくは、カードに「描かれている」ということです。大アルカナで見た場合、具体的に天使だと明らかに見える絵柄が描写されているのは、「恋人」「節制」「審判」「世界」の4枚です。
 
それぞれ天使とは言っても、大きさや色、雰囲気など、カードによって「天使」は異なって描かれています。これはマルセイユタロットでは当然の描き方で、天使に限らず、まったく同じ形式で描かれた象徴は、ひとつとしてありません。
 
また、「天使」に限定すれば、天使の中にも種類(違い)があるということですし、逆に「天使」に見えるということでは、4枚はすべて共通しているわけです。(「天使」の存在性を主張している)
 
では、マルセイユタロットでの「天使」とは何の象徴でしょうか? 細かく言えばいくらでも考えることはできるのですが、まずは四大元素で言えば、「」の象徴性があてはめられます。
 
ただ、もっと広い意味も含めると、私個人的には、サポートや救済(助け)、援助、結びという言葉が浮かび、一言で言えば、「(大きな)愛の中の(様々な)愛」「愛を表現するもの」を象徴していると感じられます。
 
愛をテーマにすると、いわば神(全)=愛ということも考えられますから、何も天使がすべての愛を象徴するとは言えないのですが、それでも、愛を色濃く感じさせる存在が天使だと見ることができます。
 
一般的に思う「天使」は、普通の人間には見えず、別世界・別次元の存在として私たちを見守っているというイメージが出ます。
 
確かに、マルセイユタロットにおいても、物質・通常(常識・現実)次元に出てくる「天使」は、「恋人」のキューピッド(クピドー)のみで、しかも厳密には、「恋人」のキューピッドは、天使の種類には入らない可能性もあります。
 
従って、やはり、「天使」とは、通常の意識ではとらえがたい何者か(またはエネルギー的な何か)である、ということは、マルセイユタロットからもうかがえるわけです。
 
しかしながら、ここでは詳しく言いませんが、大アルカナ全体の見方は多数ありますので、それらのひとつから見ると、実は現実世界での普通の人間でも「天使」となりうることがあると言えるのです。
 
どういうことかと言いますと、結局、「天使」が、先述したように、愛を表現するエネルギーや形のようなものであるならば、愛をもって仕事をしたり、人々と関わったりしている方は、「天使」だと想定できるわけです。
 
もう少し詳しく言うと、人の中にある「天使性(愛)」を表現している人ということになります。
 
人間は、悪魔性や、肉体的・感情的欲求に突き動かされる、まさに泥臭い人間性(動物性にも近い)も持っています。そして対極に、神性や天使性もあるのです。
 
それが対立する様は、「恋人」カードなどでも顕著に描かれています。ただ、単純な善悪で考えない方がいいです。「悪魔」にも良さがあります。数の順番では、「節制」の天使の次に「悪魔」がいるくらいですから。
 
それはともかく、私たちはいわば、愛を忘れない限り、「天使」であるとも言えます。
 
ただ、意識的に天使業をしている人、または結果的(無意識)に天使業になっている人、さらには、回り回って、言ってみれば天使の連繋によって、誰かを救済することになっていたり、誰かに愛が贈られたり(贈られたり)していることが、現実世界ではあるということです。
 
例えば、医師とか看護師とか、消防士とか警察官とか、まさに直接人を助けたり、守ったりしている人がいるわけですが、それは職業でもあり、人を助ける意識は当たり前で、無意識に近いものでしょう。
 
一方で、自分はヒーラーになるとか、カウンセラーになるとか、上記の職業(医師など)に就いている人でも、人を助けたいという志をもってそれになった人は、意識的な救済者・愛の実践者、天使だといえるかもしれません。
 
また、自分の行った何気ない行動とか、別に意識して言ったわけではない言葉、特段意図をもって書いたわけでもない文章が、実は間接的に誰かの為になっていた、誰かの励みや救いになっていたということは、この世の中結構あるものです。(反対に、意図をもって、人を助けたいと思って述べた言葉、文章などもありますし、それが意図とは別の意味に受け取られることもあるわけですが)
 
これは本とか絵画とか創作物とか、商品とか、普通の仕事とかでも、あらゆる人の活動において言えることです。
 
こういった現実の生きている人間だけではなく、亡くなった両親や祖父母、伴侶、友人、知人、昔の偉人、戦争などで誰かや国のために命を捧げた方々、犠牲になった方々も含め、すでにこの世にいない人間からでも、私たちは示唆を受けたり、愛を感じたりすることがあります。
 
それらの人もまた、「天使」だと言えるかもしれません。
 
こう考えると、マルセイユタロット的には、「天使」とは、目に見える見えないに関係なく、愛を感じさせる人や物事すべてであると言え、それを反転すれば、すなわち、愛を実感できる自分自身(の内なる天使性)だと言うことができるでしょう。
 
冬の寒さに人や物事の温かさをかえって感じることがあるように、試練や厳しい状態にいる時、世の中には悪魔や獣しかいないのではないかと感じる状態の時こそ、実はそばに天使や神がいることを認識するチャンスでもあるのです。
 
その天使は、いわゆる絵に描いたような天使とは限らず、その意志を受けた(当人たちは無自覚でも)普通の人たちであったり、エネルギーとして、別の表現(モノや事件)であったりすることも考慮に入れると、確実に天使の実在を思うことができるでしょう。

あやふやで不透明なカードたち。

マルセイユタロットの大アルカナ22枚は、あらゆるもののモデルや元型として見ることが可能です。(小アルカナと呼ばれるパートも、それはそれで重要な象徴です)

これらの22枚のカードは、いろいろなコンセプトで分類していくことができますが、その分類法、それそのものがまた、この世界や宇宙、エネルギー(質的なもの)を観察する要素となります。

さて、私たち人間は、一般的に、物事や心の状態を「はっきり」させたほうが「すっきり」する傾向を持ちます。(しゃれでありませんが・・・笑)

逆に言えば、中途半端な状態、物事が白黒はっきりしていない時は、モヤモヤしたり、不安になったり、心配になったり、イライラしたりするわけです。

そのことをふまえ、改めて、最初に述べた「大アルカナ22枚」を見ていくと、カードには、「はっきり・すっきりの」状態を示す(そのような雰囲気の絵柄の)カードと、反対に何とも言えない、不透明、どちらとも取れるような状態のカードがあります。

代表的なものでは、前者が「正義」とか「13」とか「戦車」とか「皇帝」のようなカードであり、後者は「恋人」「運命の輪」「月」などで示されるでしょう。

まあ、これにも個人差がありますので、自分にとっては、はっきりしていると感じていても、人にとっては不鮮明であったり、あやふやだと感じるカードもあります。そしてまた、その個人差というものが、自身のカードへの投影として、自らを知る鍵ともなります。

ただ、個人的なもの(感じ方の差)はあっても、やはり普遍的とも言える、ほぼ誰が見ても同じように感じる絵柄の象徴性があるわけで、それによる区分けであると、この場合は考えていただいたほうがよいです。

それで、はっきり・すっきりと感じるカードたちは、まあ「はっきり」ですからよいとしまして、逆のはっきりしないほうのカードたちについて注目します。

全体22枚のうちで、そのカードたちが数の位置(順)としても、どこに置かれるようになるかを見ることで、大きな気づきや重大な事柄が見えてくるでしょう。そのことは、詳しくは講座で説明しています。

ここで言いたいのは、はっきりしないカードたちが、大アルカナの絵柄として存在していることは、一種の型・モデルとして考察すると、このはっきりしない状態も私たちの生活や成長の中で必ず起こってくること(言わば必然性の状態)だと推測できます。

 

当たり前と言えば当たり前なのですが、私たちはいつもいつも透明性・明白性をもって生きている(過ごしている)わけではありません。

当然、知的(知識的)にわからない・知らないこともありますし、感情的にモヤモヤしたり、葛藤したりすることもあれば、何かわからない衝動や、どうしてもそこに向かいたくなる情熱・パッションに身を任せてしまったりすることもあります。

そしてだいたいは、損得や好き嫌いだけでは決められないこと、さらにはこれまで身につけてきた知識・常識・経験で推し量れない(選択できない、迷う)ことが、ある段階では、誰しもに起こって来ます

いわば、目に見えない、はっきりとしない状態や状況に翻弄されたり、常識とは異なる、直感のようなものが動かされたりする(動かす必要のある)感覚を得ることがあるわけです。

それは自分にとっては危機とも言えますし、変容(言い方を換えれば新しい自分に生まれ変わること)に向かっているとも言えます。

自分にとっての古い殻を脱ぎ捨てようとした時、今までの古い殻は、ちょうどなじんた古着・衣服のように心地よくもあり、またなかなか脱げず、まとわりつくような気持ち悪さも醸します。

夜明け前が一番暗いといわれるように、先行きがわからず不透明な時は、まさに手探りで、闇を彷徨う苦しさ・息苦しさ・閉塞感があります。

しかし、大アルカナ全体の構成から見れば、それは成長や拡大、自他の救済の道の過程(プロセス)であり、必然をもって生じてくるものなのです。

あやふやではっきりしないカードたちには、必ず、次の段階や、新しいもの、異質な存在や別次元の働きかけが絵柄としても示唆されています。

カードの象徴で、そのことを知識的にも感情的にも把握することができ、それがために、はっきりしない状態への恩恵と啓示を受け取ることができます。

逆に言えば、はっきりしたものへの厳しさ・畏れも見ることができるのです。

また、それらのカードと、ほかのカードたちを比較検討することによって、不透明な時期の苦しみからの脱出、救済の示唆・順序・道筋を象徴的に得ることも可能です。

あなたにとって、混迷や不透明な時期は、自らに眠る可能性と新しい自分(実はすでにもともと存在していた部分でもあります)の開花の準備として現れており、苦しみは確かにあれど、次には、そこで練られた純粋なもの、高度なものが収穫として、あなた自身にもたらされてくるのです。


「皇帝」と「13」の関係性

マルセイユタロットの「皇帝」と「13」のカードには。深い繋がりがあると考えられます。

アルカナ・口伝があるために、ここでは詳しくは明かせませんが、絵柄のうえでもその秘密の一端をうかがい知ることができます。

「13(番)」のカードは、一般的に見て、とても恐れられているカードであり、何よりも、西洋での「死神」をイメージするような大鎌と骸骨の絵柄自体に、「死」や抑圧的な恐怖を感じさせます。

しかし、マルセイユ版のそれには名前がありません。ただローマ数字で「13」と数が書いてあるだけです。

このカードがいったい、いかにも王様然として、豊かさとも取れる安定感を醸す「皇帝」と、どう関係しているのか疑問に思うところもあるでしょう。

まず単純なことですが、「皇帝」は「」という数を持ち、「13」は単数(数字根)化すると、1+3=4となり、「4」という数が共通して見えてきます。

それが何を意味するのかはあえて言いませんし、タロットではあくまで絵柄がメインであり、数の象徴性とは異なる可能性もあり、むしろ無理矢理なこじつけかもしれません。

それよりも明確に、先述したように、絵柄の象徴性から共通する部分は出てきます。意味合い的にいえば、収穫や刈り取りといったことに関連します。

おそらく、「13」のモチーフのひとつには、サトルヌゥス(サートゥルヌス)という神があるとイメージされます。このサトルヌゥスは、種まきや収穫(刈り取り)を象徴する農耕神であり、ただ収穫するだけでなく、解放も意味していると考えられていました。

時期的には冬至と関係し、つまりは農耕をモチーフとした(農耕は暦が重要であり、太陽の運行と関係してきます)「死と再生」のシンボルであったと思われます。

一方「皇帝」は、いわば、現実・実際の王様(人間の王)であり、国を治め、(支配する)民と国の繁栄を築こうとする人物です。そこには精神的な理想も重要ではありますが、実質的なもの、国や民を滅ぼさない現実性・安定性が重要となります。

人間個人レベルで言えば、夢や理想だけではない、経済的なこと、現実的なこと、目に見える成果・結果、常識に従う正しさ、大人としてのふるまいのようなものが求められると言えます。

また、自分自身を支配する強い自立性・コントロール・自制心・決断力というものも、付け加えることができるでしょぅ。

しかし逆に言えば、「皇帝」の支配が強まれば強まるほど、国は安定はするものの、中には窮屈に思い、その支配の影響から逃れたいと願う者も出てきます。

国のルールに従わない者は、国外追放か、投獄される場合もありますし、奴隷としてその国で働かされている人がいるとすれば、支配が続く限り、自由は得られないことになります。

個人レベルでいえば、一応の安定は見たものの、さらなる発展や、時流への対応など、自身の変化・成長のためには、一度安定したものを壊さないといけなくなる時がやってきます。いつまでも同じことに執着したり、過去の栄光にすがっていては、ますます取り残されるばかりです。

ところで農耕は、ひとつのサイクルになっています。季節の春夏秋冬に応じるように、種を蒔き、目が出て、生長するまで面倒を見、やがて最盛期を迎え、実がなり、それを収穫し、実から取り出した種を納めて、また種まきの準備に向かいます。

形として見ても、ひとつとして同じ時・状態はありません。植物・作物は日々生長し、人手を加えていくにしても、土を耕したり、雑草を刈り取ったり、水を与えたり、作業もまったく同じというわけではないでしょう。

もし、「同じ」と言えるものがあるとするのなら、生育と収穫のサイクル自体と、大地をもとに植物が生育していくという点です。しかし、その大地さえ、詳細に見ると微生物の働き、天候による変化(乾きや湿り)など、様々です。

このことを考えると、「13」の黒い土や、刈り取る「鎌」、「骨」のようになっている体などからも、一連の変化に対応しようとしていること、新たな変容のための準備をしていること、実際に何かを刈り取っていることなどが見えてきます。

また「種」の中に、その後、開花して実がなるすべての要素が入っているとすると、「13」は究極まで削ぎ落とそうとしている「種子化」だと言えます。

そして、その「13」と「皇帝」とを比べると、両者の力が、まさに対比となっていることに気がつきます。「皇帝」は人であり、安定や生育(保護)、実際、成熟化を象徴し、「13」は神(精霊・聖霊)であり、変化や刈り取り、解放、種子化を象徴していることがわかるのです。

私たちが実際に成長するためには、「皇帝」の力と、「13」の力、両方が必要です。

それは現実の成果と、精神・霊的な成果(収穫)のふたつを、ともに意識して取り組む必要があることを、ふたつのカードが物語っているからです。

また、常に自分が現実(物質的観点で見た場合)の王(支配できたと思う「皇帝」の心)となっていても、裏では「13」の闇の王が君臨しており、それが鎌をもたげて、現実の王(皇帝)を刈り取ろうと狙っています。

この闇の王は、実は「悪魔」ともつながっているのですが、一方では神性でもあり、つまりは私たちの中に眠る、常識や現実を超えた強い影響力と言えます。

「皇帝」となる過程と意味は、成熟した大人への進展、現実・良識・常識になじむという点で、非常に大事なものですが、一方で、さらなる飛躍と霊的な成長のためには、「13」の力も必要とされます。

象徴的な言い方では、「皇帝」となった自分を殺す「13」の力という表現になります。

自分の中にある「13」を認め、受容して行かないと、言いようのない不安につきまとわれ、何をしても満足することができなくなってきます。その中には「死」というテーマもあるのです。

しかし、「13」は大きな解放の力でもあり、常識的な枠を壊して、自らを異次元の領域にまで進ませます。

とは言え、最初から「13」ばかりを目指していては何も生えず、消耗してしまうばかりです。そこには「皇帝」の力もいるのです。

自分の中の「皇帝」と「13」をバランスさせ(4+4はマルセイユタロットの「正義」の数「8」)、調和させると、真の豊穣の女神(4+13=17 「星」の女神)の恩恵を受けることになるのです。


愚かであることを知る「愚者」

タロットでは、「愚者」というカードがあります。

タロットカードの中でも、特殊中の特殊なカードであり、タロットと関連を持つトランプカードにおいてもジョーカーとして残っています。逆に言えば、ジョーカー的特別性を持つのが、タロットの「愚者」とも言えます。

マルセイユタロットでも、当然、この「愚者」のカードが存在しますが、このカードは数を持たず、そのため、何(の数)にも規定されない自由さを持つと言われています。

「愚者」(に描かれている人物)は、その名の通り、愚か者と見られるわけですが、マルセイユタロットの「愚者」は、本当に愚かという感じには見えません。

それどころか、むしろ知性的で明確な意志を持っているかのようにも見えます。そのため、この「愚者」から、いろいろな解釈が成り立ってきます。

その中には、「愚かさ」についての種類があるということが出てきます。

ひとつは、無知に基づく、本当の「愚かさ」で、そしてもうひとつは、一度、知を獲得しながらも、あえてそれを捨てるような「愚かさ」です。

前者は自分を愚か者ではなく、むしろ自分は賢いとか、普通の人だと思っていることが多いですが、後者は、自分が愚かであることを知っており、むしろ積極的に愚かであろうとしているとさえ言えます。

このふたつの愚かさの間には、愚かさを軽蔑し(嫌い)、そこから逃れたいと思う段階(知を求める段階)と、反対に、愚かさにあこがれ、愚か者になろうとする段階(常識に反抗する段階)とが混合(混在)します。

「愚かさ」「愚か者」というのを、変わり者、アウトサイダー、世間の常識に従わない者とすると、またこの混在段階もわかりやすくなります。

一般人から見れば、自分たちのルール・常識から、はずれる者は「愚か者」と見られることがあります。

一方で、非常識になることで、注目を浴び、自分の価値を上げようとする者もいます。(結局、自尊心の低さや不足を思う感情から来ており、常識はずれを志向しながら、他人の評価を気にするタイプです)

ルールや規則を破ったり、ちょっと人と違ったことをやったりして非常識になること、変わり者を演ずることは、むしろ簡単なことです。悪(ワル)を演じるとか、非行にちょっと走って粋がってみるなどの感じがこれに近いです。

難しいのは、ある常識の範囲内で、外側や見た目は調和させながら、自らのうちに非常識を受け入れるということです。

もちろん、見た目も内側も変わり者という変革者、アウトサイダーはいてもよく、また、いついかなる時代や状態でも、常識的範囲を超えた人というのは生まれるものです。こうした人は、いい意味で破壊者となって、社会や固まった常識、枠を変えていきます。

ただ、人からよく見られたい、一目置かれたいという承認欲求から来ている、仮の愚か者、愚者は、人から見れば痛々しいところ(もっと言うと哀しいところ)があり、自分の「愚かさ」を知ったほうがよいでしょう。これは「星」の女神に癒されなければならないかもしれません。

一方、一度ある常識に収まりつつも(ある段階の知性を獲得した後)、そこからさらなる成長や飛躍のために、これまでの常識や知識、信仰を捨て、自分が生まれ変わる(変身する)ために、あえて愚者になる道があります。

哲学者のソクラテスが述べた「無知の知」を想起させるような態度です。

マルセイユタロットでは、真理の道を志す時、自らが「愚者」(のカード)となるのだという示唆があります。

改めて、自分が自覚する「愚者」となる時、自身の変容作業が始まるのです。

それゆえ、マルセイユタロットの「愚者」と「13」は、絵柄的にも関連するように描かれています。

さらに、「愚者」が賢者と出会う(自分の愚かさを知って真理の道に進むと、自らが智者的な「隠者」となることが暗示されている)必然性を示すように、「愚者」と「隠者」にも、関係性をマルセイユタロットは象徴させています。

自らが愚かであることを思えば、人生、気にすることも少なくなり、まだまだ成長できること、隠された真実を知る喜びも生じてきます。

愚かであることを知る愚かさ」は、他人と自分の、様々な部分を受け入れることのできる輝きと言えましょう。


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