カードからの気づき

「節制」と「星」のエネルギー・動きの違い

マルセイユタロットの「星」のカードと「節制」のカードの特徴としては、描写されている人物が、ふたつの壷を持っていることがあげられます。

タロットの絵柄の中には、このように、象徴的な図形で似ているカード同士があります。

この「星」と「節制」も、壷の意味ではそういうこと(似ている)になります。

しかし、似ている一方で、違っている点もあります。そこが実は象徴性で理解する鍵となります。

よく見ると、「星」のほうの壷からは水がスムースに流れていますが、「節制」のほうでは、壷から出ている水はつながっているようにも見え、流れているというより、行き来している、交流しているような印象があります。

水が何の象徴であるかは、ここでは詳しくふれませんが、一種のエネルギーや労力を示すものと考えてみましょう。

そうすると、この二枚の比較から、「星」的な動きと、「節制」的な動きがあるということになります。

「星」的な動きとは、先述の見た目通り、エネルギーが滞りなく流れている、あるいはエネルギーをうまく流している状態であり、「節制」的な動きは、交流や混交、入れ替えと言えましょう。

エネルギーでも何でも、あるものを流し続けられるというのは、それが入っている壷とか入れ物・容器が、相当巨大でなければなりません。

蛇口から水をたくさん流す(あるいは多数の蛇口から流す)ことを想像しても、貯水タンク、さらには水道管を通って流れて来る前の大元、取水先の水がめ、具体的にはダムとか川とか地下水などが巨大なものである必要があります。

さらには、容器が大きくても、そこにエネルギー(水)が溜まっていないことには、当たり前ですが流すことができません。

一方、節制は、ふたつの壷はありますが、そのふたつの壷をもって、水を交互に入れ替えたり、混ぜ合わせたりしていることから、エネルギー・水自体は、どちらかの壷の容量に収まる範囲であれば済むことになります。

つまり、「星」には大きな資本やエネルギーが前提のうえで、それこそエネルギーや影響を広範囲に流すことができ、「節制」は大きなもの(容器・エネルギー)はいらず、むしろ効率(性)や混交することによる変化(化学反応)が求められるということになります。

この場合、エネルギーをお金とや労力として見れば、具体的に、自分がどのようにエネルギーを扱えばよいのか、「星」と「節制」のタロットの象徴性を通してわかります。

よくスピリチュアル系統の人で、自然や神(大いなるもの)とつながれば、エネルギーはとめどなくあふれてくる(豊かになる)という人がいますが、それは「星」の状態を言っているものとマルセイユタロット的には考えられます。

ですが、つながった気でいても実際につながっていない状態では、すぐにエネルギーは枯渇することになります。

お金でいえば、貯金もない、入金する根拠・予定・流れもない(システムができていない)のに、ただ浪費するだけという状態です。

自然や大いなるものとつながるというのは、ただそういう気分になるだけではダメで、自己の存在に「完全」や「尊さ」を確信している状態になければならず、平易に言えば「大きな愛を持てる状態」、言い換えれば「自己と他者への愛が統合されている状態」だと述べられます。

それには、流すだけではなく、流すための許容量の大きさ(自分自身の器)も必要です。これは受容性(受け入れ)に関係します。

「出せば入る」といろいろなところで語られていますが、それは確かにエネルギーの流れとしてはそうであっても、自分がどこかで流れをブロック(出す方でも入れるほうでも)していれば、流しても入らず、あるいは入っても流れず、パイプが詰まったようなもので、アンバランスな状態か常に苦しい状態となります。

例えば「お金を使えば入る」というのも、受け取る器、受け取ることのできる流れがあるという「入る」側の意識と確信が、今までよりも変化して、これまでブロックされていたものが壊されない(意識と次元の変容・ブレイクスルーがなされない)限り、ただの消費(浪費)に終わる(出すだけ)ということになるのです。

マルセイユタロットでは「星」になる段階の前に、数々のカードたちが控えています。

「節制」も、「星」の前に存在します。

「節制」は、交流、混交、効率を象徴しますが、そこには自分と他者との関係性のバランスが働いています。

お金でいえば、一定の金額で効率よく使える能力であり、収支バランスがきちんと計られる知識と感覚です。

最近はいきなり「星」になろうとする人が多い気がします。できないわけではありませんが、それは危険だったり、無理があったりします。

大きなものが扱えるようになるには、先に小さなもの(範囲)をうまくコントロールできるようになることが、いわば王道であり、安全な道です。

ですから、タロットでいえば、まずは「節制」的なエネルギーの扱いに長けたうえで、「星」に進むほうがスムースに行くということになるのです。


エッジボールに「運命の輪」

五輪の卓球、日本、男女とも大活躍ですね。

卓球では、台の端(エッジ)に当たって、ボールが極端に変化することがあります。(エッジボール)

皆さんも、この度の五輪の試合で何度か目撃したことでしょう。

プレーしている選手、その選手を応援している側にとっては、エッジボールが自分の得点になるかどうかで、いわゆる「運・不運」を思います。

エッジボール自体は、ただ玉が台の端に当たっただけのことです。

そのことをルール上、当たって返すことができなければ、自分の得点にはならず、相手の得点になるという話です。

しかし、ボールが、端・エッジに当たるということのまれさと、当たったボールの予測不可能な動きで、そこに運の介在があるというように感じるわけです。

ただ、このエッジボールの運・不運も、対立的(相対的)な見方をしている場合のみ成立します。

対立的というのは、自分と相手という、何らかのふたつの競争や比較があるということで、自分にとってはの不運は相手にとっての幸運になり、自分にとっての幸運は相手にとっての不運とみなされます。

どちらの選手にも肩入れせず、中立に見ていたり、競技そのものに興味がない状態であれば、エッジボールに不思議さは感じても、そこに運・不運を見ることはないでしょう。

つまり、運・不運(の思考・感情)は、対立的、二元的状態で発生していることが多いということなのです。

もうひとつ言えば、自分を中心とした何かのストーリー・物語があれば、そこに運・不運の見方は出てくると言えます。

もう少し踏み込んだ言い方をすれば、運・不運は、物語の波(起伏)によって作られるということです。

卓球の試合で例えれば、ずっとポイントを取られ続けていた状態で、たまたまエッジボールが当たり、それが少ない得点のひとつだったとなれば、そのエッジボールに、選手自身も、応援しているほとんどの人も、得点したからと言って特別な「幸運事」とは思わないでしょう。(ただのラッキーという意味では見るかもしれませんが)

非常にハラハラドキドキで、シーソーゲームのような展開にある試合、もしくは選手の背景として、ずっと努力してきたのだとか、病気や試練から立ち直ってきたとか、メダルが近いとか、あと一点で勝つとか、そういうような起伏ある「スト-リー・物語」があってこそ、エッジホールによる得点(失点)も、幸運とか不運とかで色づけされていくのです。

これらのことを表しているのは、マルセイユタロットでは、「運命の輪」となります。

この「二匹」の違う動物たちによる回転的な起伏が波になっている状態で、まさに「運」(幸運・不運)と呼ばれるものが生成されているのがわかります。

さきほど、エッジボールの運・不運を感じない人がいる話をしました。

それはどちらにもつかない人であり、試合に興味のない人でした。

この状態や境地を、どちらかに傾いてしまった人が得るには、傾きを是正、あるいは等しく平均化しなくてはならず、それは単純に言えば、まず相手の立場になって見ることと言えます。

さらに、長期的な視点か(時間概念を使って平均化)、俯瞰した視点(空間的統合・価値観の変移による視点)で観察することで、試合の結果・勝ち負けよりも、試合そのものを楽しむような見方になります。

いわばプロセスと結果を同等に見るような方法です。

逆に言うと、どちらかに肩入れしたり、結果にこだわり過ぎる見方をすれば、運・不運というものが色濃く分けられ、それ(その小さき世界観)に支配されてしまう(こだわって抜けきれない、執着する)ことになります。

相手の立場になったり、俯瞰したりするというのは、図形的にはこちらから見るのと同時に、逆方向(相手から見た視線)からも見たり、一段上の統合した地点から見たりすることであり、それは結局、三角形になったり、半円が円になって(あるいは二次元的円が)、さらに回転して球になるようなイメージに近くなります。

「運命の輪」でいうと、スフィンクス(輪の上にいる複合獣)の位置が大事で、こにいると、二匹によって回されている輪の回転が俯瞰でき、さらに、その回転方向は(二匹の動物の回転方向とは)別の可能性があることが意識できます。

だから、「運命の輪」では、輪のスポーク(車輪の中心から出ている棒、輻)が実は非常に重要です。スポークの方向性が球的なものを示唆しているからです。

「運命の輪」は、文字通り、運を意識するカードと言えますが、それ(運)は実は相対的なものから生み出されていることに気づき、低次の運命論・吉凶的視点から私たちを脱出させるための示唆を与えるものなのです。

まあ、しかし、先述したように、ストーリーと起伏によって運・不運は明確さを増しますから、個人の物語(人生)をドラマティックに演出する効果としては、運は意識されてもよいものとなるでしょう。

卓球で言えば、メダルや勝ち負けを意識して、どちらかを応援する見方をすれば、それだけ興奮や感動はでき、エッジボールにも運命の神様が宿っているように見えるということです。

そう、つまりは「運」は現実次元における演出装置なのです。しかも、真には、自分がその演出をしている(「運命の輪」を回している)ところがまた面白いところです。


聖性と俗性 ふたつの「勝利」

リオデジャネイロでのオリンピック、日本(選手)の金メダルも出て盛り上がって来ましたね。

今の近代オリンピックも面白いですが、古代オリンピックも、調べてみますと、なかなか興味深いものがあります。

ポリスと言われるギリシアの小国家が、争いを繰り返していた中で、オリンピックの時だけは停戦していたところや、男性が裸で競技をしていたところなど、その根本には「神」を前提にした神聖なる思いがあったと推測されます。

いわば、人間的なものと神的なもの、言い換えれば、通常の人間ベースの生活と、理想・イデアたる完全な神聖さとの相克と融合が、そこにはあったと想像できます。

日常で悩んだり、いがみ合ったり、欲求のままに行動してしまったりするという、まさに人間くさい部分があるのが私たちではあるものの、神を想定して、その神聖さにふれること、自身の神性なる部分を想起することで、より個人を高め、全体としても崇高な状態へと成長・移行することができると考えられます。

いわば、俗性を聖性によって浄化していくようなことでもあるのです。

古代オリンピックで言えば、ただ勝ちさえすればよいというのではなく、あるルールに基づき、美しく競技し、それでも勝つことが重要だったわけです。

この場合、勝つというのは相手(人間)を打ち負かすのではなく、神と融合する自分になる、神に近づく聖性を獲得するということに意味と価値があったように思います。別の言い方をすれば、自身の人間性部分に対する勝利です。(マルセイユタロットの「戦車」の深いところと通じます)

マルセイユタロットでは、カードの人物が裸で描かれているものがありますが、これも伝統から見れば「神」を象徴しているわけで、そのカードたちが、タロット全体の構成としてどう配置されているのかを見れば、マルセイユタロットが一種の神性への回帰、神性(神聖さでもある)にふれるための図として、意図されているのがわかります。

さて、この、「人の俗性と聖性」は、人の中に二面性があるということでもあり、端的に言えば悪魔性と天使性、神と悪魔、低次と高次なとで言い表されます。

しかし、これを単純によい面と悪い面としてしまうと、幼稚な発想となってしまいます。

人間である限り、肉体を持ち、俗なる生活と欲求を持って生きるのは当たり前です。

もしそれがまったくなかったとすれば、おそらく生きるエネルギーや活力、新しいものを生み出したり、工夫したりする創造性さえ失うことになるでしょう。

俗であるから個人として体験できる感情や境地があり、それはバラエティに富み、非常に面白いもの(体験)と言えます。

しかし、俗や個人の欲求ばかりが重視される世界、もう少しましな言い方をすれば、個人の生活・現実に目を向け続けなければならい状態が続く世界では、次第に私たちはエネルギーを失い、オートマチックな安楽の道か、自己の欲求の満足を求め、ますますエゴを肥大化させるかの道に進むことが多くなります。

さきほど、俗なる欲求の世界は創造性もあると言いましたが、創造性のためには、そもそも創造のもととなるエネルギーを補充しないと発動しません。

そのための神、現実や俗性を超越したものとの接触となります。つまりは聖性との交流です。

日本や世界の祭りも、「祀り」の意味として、そういう面があったと考えられます。祭りによって神と交流し、俗から聖へとエネルギーを変換浄化させ、新たな力を手に入れたのでしょう。

現代は、この俗と聖のサイクルが混濁してしまい、わけがわからない状態となっています。

そのため、生き方についても悩み、俗やエゴの追求、または現実の生活重視というものと、夢や理想、ワクワクみたいなことでの生き方との狭間に立たされ、どう選択すればよいのか混乱する人が多くなっているようです。

言ってしまえば、聖なるものが俗に取り込まれ、あるいは利用され、混同・誤解されているところに問題があるわけです。

聖性は現実の、特に物質的な充実とか、個人のエゴの満足ということとは違います。

俗に傾きすぎた自分を聖性によって回復させていけば、結果というより、過程そのものに幸福感が出てくるでしょう。

つまり、人生において、一連のサイクルのような魂の永続性や、人生の波によって起こる波動力(まるで潮力発電のようなもの)のすごさに気づくことになるのです。

波はあるものの、そこに貫かれている一本の芯のようなものを発見する視点と言ってもよいでしょう。

それは二元、聖と俗の繰り返しの波の間、または超越したところに存在しているのです。

私たちは俗で生きる時、他人への勝利(人より優れていること)を望み、行動しますが、聖性で生きる時は、自身の人間性の超克、神性の勝利(低次と高次の統合)を魂は希求し、美しく生きようとします。

言ってみれば、「勝利」には二種類あるということです。

これはどちらがいいということではないのです。そういう二面で生きるのが私たちです。

ただ、最近は、あまりにも聖を俗に属させているような生き方の人も多く、個人的にそれは美しくないと思えるのです。


「13」の多重性と後の方向

マルセイユタロットには、名前のない「13」という、数だけ持つカードがあります。

このカードは、絵柄の特徴から言って、怖がられたり、ネガティブなイメージ持たれる場合は多いです。

その感覚は間違いではないですし、そもそもカードの第一印象というのも、とても大切なものです。

ですが、人間でもそうですが、最初の印象やイメージだけで判断すると、誤っていることもありますし、つきあえば、ほかの部分もあることを発見できます。

感覚は重要ですが、それだけでは知性に欠けるところもあって、思い込みや洗脳の危険もあります。

「13」の象徴性を詳しく学べば、このカードのポジティブさにも気づけますし、そもそもカードは個別でも全体でも、いいも悪いもないのだということを知ります。

いい・悪い、ポジ・ネガなどを決めているのは、自分自身であり、その自分が属する(肯定している)社会や組織、常識的な価値観といえます。

そのことでは、「13」は、私たちの普段かけている色眼鏡を修正してくれる役割を持つカードと言えるかもしれません。

さて、そんな「13」ですが、大体、このカードの意味合いとして、変化・変容的なものがあり、それは大変さでもありますが、文字通り、大きく変わることが示唆されます。

一方で、絵柄にある「大鎌」から、削ぎ落としてシンプルにしていくというようなことも出てきます。

「鎌は」本来、作物を刈り取って収穫する道具ですから、実りに関係していることもあります。

ほかの部分も含めて、このように象徴的には「13」にもいろいろと意味は出てきます。

今日は、その中でも、一見、普通の解釈のようで、少し異なるものを紹介したいと思います。

さきほど、出ました「大鎌」ですが、収穫道具ということもあるのですが(この象徴性はとても大事です)、ここでは、「削ぎ落とす」刃物的な意味でとらえてみます。

となれば、何かを切っていくようなイメージになるのですが、大鎌の動かし方は、単に直線的に切るのではなく、よく見ると曲がっており、回転させるものであることがわかります。

この回転というのが鍵です。

詳しくは講座で述べることではありますが、簡単に言いますと、行きつ戻りつの運動があるということです。

ただ変化・変容ばかりに目が行くと、前に進むようなイメージが出ますが、戻るということもあるのです。

つまり、前を見るだけではなく、後も見る必要があるのです。

後には何があるのか? おそらくまだ刈り取られていない、残されたものがあるのでしょう。

また「削ぎ落とす」という象徴性から、初心や、物事の本質に立ち返るというようなこともあります。

物事を始めた頃は、ただ楽しさや成長のためにやっていたのに、今はいろいろな条件や事情をあれこれ複雑に考え過ぎて、わけがわからくなっている・・というようことはあると思います。

そうした時に「13」が出れば、「本質に戻ること」」「もともとの最初の気持ちや状態までそぎ落とすこと」が示されていることがあるのです。

言わば、この場合の「13」は、「愚者」に変化しつつ、もう一度「手品師」まで戻ることのような象徴性になっているということです。(しかし、一度通ってきた道ですので、レベルや次元は異なります)

ほかにもう一つ、「13」が反対(後)側を見る時に言えることがあります。

「13」が回転しながら逆方向(後側)に向いた時、鎌は勢いを増して、遠心力で外側に刃を向けるようなことになります。

これは、後にあるもの対し、強い拒否姿勢であったり、防御しようとしたりしている姿勢にも見えます。

ということは、これまでの中で、嫌であったこと、受け入れられないことに対して、断固拒否し、自分を守るということもあるかもしれません。

そこから過去を断ち切るという意味も出てくるでしょう。

そうした上で、さらに回転すれば、後側には未練なく、きちんと前(右側)を向いて先に進めるということになります。それが、その人にとっての変化・変容の重要な過程であると見ることができます。

タロットカードの象徴性は普遍性と個別性を持ちます。

学ぶ時は、カード象徴の普遍性や全体性に注目しますが、リーディングにおいては、人それぞれの個別性・個人の問題・事情にその象徴性を適用していく必要があります。

模範解答のようなものが、厳密にはできないのがタロットリーディングです。

模範解答があるとすれば、大きな象徴性においてですが、それは個人個人のケースでは抽象的過ぎ、個人の相談ではほとんど役に立ちません。

今回取り上げている「13」でも、意味合いは様々に出ますが、それが一人一人の事情によって、どれが当てはまり、どの実際のケースに象徴性が適用されるのかは、まさにケースバイケースなのです。

しかしながら、逆に言えば、タロットの象徴性を大きな意味でも、細かい意味でもとらえておかないと、個別への適用は難しいものとなります。

結局、多角的で多重な視点が、タロットの学びやリーディングにおいては大切と言えます。

その意味で、今回は「13」を例として見たわけです。


4つの性質・ポイントで物事を見る。

マルセイユタロット(ほかの伝統的なものでもそうですが)には、4つの性質をひとつのコンセプトとして扱っています。

言ってしまえばそれは4大元素であり、特に小アルカナの4組として顕著に象徴化されていますが、実は、よく見るとそれだけはないのです。

大アルカナにも、もちろん、その四大元素を元にした動物象徴とかあるわけなのですが、そうしたはっきりと四大シンボルとして描かれているだけでなく、例えば、大アルカナグループを4つの括りで見てみることも可能なのです。

3構造と4構造が基本コンセプトとして存在していると言ったほうがいいでしょうか。

私たちの現実世界、そして私たち自身にも、4つの世界観は流れており、至る所にそれは見受けられます。

例えば、東西南北、春夏秋冬、夏至・冬至と春分・秋分、上下と左右、グラフの第1象限から第4象限、遺伝子のDNA塩基の4つなどなど・・・

それらはやはり、四大元素的に見ることもできますし、そこから離れて見ることも可能ですが、いずれにしても、4つの性質、構造、ポイントがミクロからマクロまで、この世界にはあることがわかります。

そして、マルセイユタロットで描かれていることで言えば、4つのものが統合された時、新しい次元に移行することが語られていますが、四大元素の古代象徴で言えば、それは第5元素(四大の大元)への移行ということもできます。

マルセイユタロットの構造示唆から、おそらく4(3対1)が統合されて5になって、またそれが3対1の4になって、5に統合されるという繰り返しの世界が、同構造的にどの階層にも存在しているのだと推測されます。

さてこれでは、難しいというか、何を言っているのか、わけがわからない(笑)話になりますので、もっと簡単に、この4つの性質を個人の中に見て行くことをしてみましょう。

わかりやすいものということで、季節の春夏秋冬で例えるとよいです。

まず、自分の元々持っている基本気質が、季節でいえば、春なのか、夏なのか、秋なのか、冬なのかをイメージします。

ここでの季節イメージは、一般的に、皆さんが抱くものでいいですよ。

例えば・・・

春は始まりの季節、ワクワク、フワフワする感じでちょっと活動的になる感じ、木々が芽吹き、日本では桜が咲きますね。

夏は暑く燃えていて、エネルギッシュ、真っ盛り、ピークという感じで、バカンスや衝動的な行動もありそうです。

秋は実りの季節、何かを学びたい、結果を出したいという思いもあると同時に、情緒的な気分にもなります。

冬は寒くて冷たいですが、内面には逆に温かさを感じる季節で、待つ感じや、落ち着きなどもイメージされます。

まあそのような感じで、自分を季節で例えれば、基本的にはどれかを想像します。もし難しい場合は、単純に、自分の好きな季節はどれか?でもいいですね。

自分が春だとすると、夏タイプの人、秋タイプの人、冬タイプの人がそろえばバランスが取れますし、普段の交際や交流を見て、春と夏、秋と冬とか、相手とはどういう関係性にあり、自分にとってフォローされるのか、逆にしていく方なのか、というようなことがわかります。

普通はサイクルとして見て、春夏秋冬の順方向で自然になり、逆方向は刺激や変化を与えるものと見るとよく、春と秋、夏と冬は対立しながらも相補う感じで、意外に馬が合うかもしれません。

次に、個々の出来事、事柄にこの4季節を当てはめることもできます。

「今の出来事は、季節でいうと夏なのか、秋なのか?」みたいな感じで、要するに、始まり・ピーク・収穫・準備みたいなサイクルとして見て、今は冬に当たるので、準備期間や待機期間だとしたり、今は春だから物事が始まった時だ、これから夏に向かうのだと見たりして、適切な状況判断をします。

本当はタロットカードを引けば、それがよくわかるのですが、感覚でもとらえることはできるでしょう。

そうすると、あせったり、逆にのんびりし過ぎたりすることが少なくなり、自然の流れのように、調整がうまく行きます。

月のサイクルにおいても、新月満月上弦下弦とあるように、物事の成就・変化はいきなり起こるのではなく、それなりのサイクル、ポイントとして4つがある(サイクル・プロセスとして4つを循環・経過する)のです。

あなたのやっていること、願っていることが、今は4つのうちで、どのポイントと流れ(間の過程)にあるのかを見極めると、タイミング的にもうまく行くでしょう。


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