カードからの気づき

ネガティブな方向、悪い状況の選択の中で。

一年の周期で言いますと、夏至から流れが変わったということができます。

全体と個別ではまた異なってくるところもある反面、人の個人的意識も全体の流れと無縁とは言えないと考えられますので、6月末頃から少しずつ、変化の出ている人も多いのではないかと感じます。

それで、タロットで見てみますと、こういう人がいらっしゃるのでは推察されます。

それは、自分が良くないと思っている習慣とか、惰性的なものとか、あるいは、かつては修正したと思っていたものが、またぞろ顔を出してきた・・・というような人です。

もっといえば、堕落・怠惰傾向にあるとか、一番ひどいものでは、自滅・破壊願望のようなものも生じている人さえいるかもしれません。

それは我慢しようとしたり、 コントロールしようとしたりしても、なかなかうまく行かず、つい、その気分に流されてしまうというところもあるでしょう。

結局、それらはあなたの中にある不純物のようなもので、純粋性やホジティブ性、生きる力・活力とは逆方向の反転したエネルギー・性質です。

ですが、それはひとつの見方では、悪いもの・ネガティブなものと思えるかもしれませんが、あなた自身の拡大や発展には、全体的・統合的観点から言えば、むしろあなたに寄与しているものだと言えます。

いろいろな考え方がありますが、ここでネガティブと思えることが再び出てきていることの理由と対策を述べてみましょう。

●自分自身のリニューアル(再生)の前の葛藤、禊ぎ現象

新しい自分に変わる前には、古い自分のエネルギー・性質をそぎ落とさなければなりません。

これはマルセイユタロットで言えば「13」に相当することです。心理状態・内部状況としては、「」で示されることもあるでしょう。

その古い性質の象徴として、もっともあなたが囚われていること、悪習慣、思考癖のように潜在しているものが、実際に現れやすくなります。不安や恐れとして抱いていることも、現実の表現・状況として出てくることもあるでしょう。

このような時は、古い性質・エネルギーから逃げていてはかえって奥底にそれが隠れ、ますます見つけにくくなって、変わる機会も遅くなります。

従って、あえて積極的に古いものに飛び込み、それによる不安や恐れ、いやな気分、ダメになっている自分を味わうとよいです。注意点は、感情的に飲まれず、どこかに客観性を失わないように実験的視点を持って臨むことです。

いわば洞穴(古いエネルギーの充満している場所)には、命綱は外に結びつけておいてから入るというような姿勢です。これをしないと、古いものに取り込まれる危険性があります。

恋愛を新しくしたい場合も、古いものに見切りをつける何らかの儀式・心理的終結行為が求められることもあります。

激情と欲に飲まれると、復活愛・復縁の名を借りたドロドロの恋愛劇に翻弄されることになります。(復縁が再生となる望ましいケースもありますので、そのケースとは別です)

●エネルギーの下降と上昇の転換点(回転と波)

これは「運命の輪」で表現されますが、人にはそれぞれの回転や波のようなエネルギー周期があります。運気の好不調やバイオリズムとして出ることもあれば、経済の巡り、感情の上下(ハイ・落ち込み)としても出てくる場合もあります。

山あれば谷ありで、ひとつの円運動や波の周期として見れば、それはひとつのものの二元の現れに過ぎず、周期ペース・スパンの違いはあれど、必ず逆方向の流れに転じます。

悪いと思う状況が、かなりひどいものだと、逆転のサイクルに入る直前(マイナスのピークに来たの)だということもできます。

ただし、回転の輪や波(の周期)が、低い位置のままだと、そこから上昇や上のピークに至ったとしても、輪や波のレベル自体は低いものですので、それほど運勢や状況が好転したと考えられない人もいます。(いつまで経っても不幸だと思う状況にいる)

ですから、波や回転に任せてグルグルしているよりも、もう一段上の回転リングや波動に移ることが必要で、それが意外にも上下ピークを経験している時にチャンスが訪れるのです。

上のピークはわかるけれども、下のピーク時がなぜチャンスなのか?と思う人もいるでしょう。

ピークというのは、輪や波の究極地点ですから、そこに別の輪や波の移行点とかぶっている場合があるのです。

下のピークが来ても、そのまま従来と同じ輪や波に入ってしまえば、また同じ状態が続きますが、ピークの瞬間に、少しずれること(揺らぎを起こすこと)で、別の輪や波に移る可能性があるのです。

いわば背後に巨大な輪の回転や波動が隠されている感じで、それが移行の鍵を握っている潜在的な歯車(歯車を動かしている歯車のようなもの)で、それに乗るには、ピークのところがチャンスなのです。

上のピークは歓喜状態なので熱狂や陶酔にあり、逆に冷静には気づきが起きにくいかもしれませんが、下のピークは迷いのピーク、ネガティブの行き着くところみたいなものなので、変容する気づきがかえって起こりやすいわけです。

その時、覚醒すれば、背後の歯車に乗ることができます。

要するに、新しいレベルに目覚めるため、新しい上の(大きな)回転や波に移行するために起こっている現象なのですから、一段上の気づきが必要なのです。

一段上の気づきとは、「こんなことしている場合じゃない」とか「同じことを繰り返している」などの言葉で表されますし、結局は見方・考え方の違い、新しい自身の世界観の獲得と言っていいでしょう。

さて、いずれにしても、試練の期間であり、それは結構つらい時かもしれません。

自分のダメなところが一気に噴出したり、ほかの人や環境がうらやましく思ったりすることもあるでしょう。

しかしマイナスと思えることが、プラスの反転エネルギーの充填にもなっており、マルセイユタロットでいえば「」のカードの象徴して、創造的方向に変換できるものです。

絶望のために絶望するのではなく、希望のために絶望することで、あなたの中にあるフォース(力)は目覚めるのです。

最悪なことにも最良の幸いの種が眠っていることを意識すれば、蘇ることは可能です。

あなたの人生には、どんな時も、まだまだ希望が残されているのです。


幸せはどこにあるのか?

「幸せ」というものの定義は簡単なようで難しいものです。

「幸せ」と一口に言っても、考え方により、いろいろな分け方ができるからです。

その中で、「一般的な幸せ」と、「個人的な、それぞれの幸せ」という分け方、違いがあります。

これは、特にタロットリーダーなど、人の相談をする者にとっては、押さえておきたいポイントです。

個人的な相談をする場合、相手は「個人」を相手にするわけですから、一般論とか多数の幸せというものが基準にはなりません。

その相手・クライアントの望む幸せというのが主題になってくるのです。

ところが、ここが難しいところなのですが、クライアントも、そして相談を受ける者も、どちらもやはり一般的な意味での幸せを無視することができません。それに影響されていると言ってもいいでしょう。

だから、自分個人の思う幸せと、一般多数の幸せ観がごっちゃになって、わからくなっていることもあるのです。

幸せ感と幸せ観の「感」と「観」、「個人」と「多数」の違い、誤解と理解の問題です。

それは誰しも、人としては共通の部分があるからです。

皆、感情を持ち、快や不快、苦痛を避けて快適を望むという反応は、人類という種として同じところがあるわけです。

ただし、その反応の違いにおいて、まさに個性がある(人それぞれである)のです。

ある人はこのレベルで満足や幸せを感じるのに対し、ほかの人では、もっと量や程度が大きくなっていないと幸せとは感じないということが起きます。

また実は一般的な幸せというものでも、地域や時代によって異なってくることがあります。

要するに価値観の相違であり、それが多くの人の概念と、個人の概念の違いということもあれば、時代によっても国によっても違ってくることがあるというややこしさです。

そのため、「幸せ」というものの定義はあいまいで、いつも変化するものだと考えることができます。

もっと言えば、はっきりとした幸せ(といえる定義)などないと極論できますし、また逆説的になりますが、幸せはいつでもそこにあり、思い方次第でたちまち現れてくる(感じられてくる)ものである、とも言えるのです。

ここで、もう少し踏み込んで考えてみましょう。

「幸せ」の実体と言いますか、定義はあやふやで、固定したものがないとわかってきました。

そしてそれはまた、一人一人の感じ方・思い方、言わば、心の中にあると言ってもいいものでした。

ここまでは、よく言われていることですし、すぐわかると思います。結局、大事なのは、まず幸せの感受性(幸せを感じる心の度合い)というのが見えてきます。

しかし幸せと感じるためには、幸せと思える価値の創出が必要です。単なる喜怒哀楽的感情の、喜と楽で幸せだと感じるのは、動物的・反応的・受動的なものです。

これでは快楽や喜びとなる感情状態を、待っていなくてはなりません。

もっと能動的に幸せを感じるためには、どうすればよいのでしょうか?

それがさきほど言った、幸せの価値観の(多数)創出ということになります。つまり、簡単に言えば、先に感情よりも思考で幸せを見てみるということです。

「こういうことは幸せと見ることができないだろうか」「このような幸せ観(感につながる)もあるのだと知る」などのことになるでしょう。

それは新しい体験からもたらされることもあれば、イメージや知的思考の中でも起こると考えられます。

幸せは感情的なものだから、知識と思考では無理だと思う人もいるかもしれませんが、最終的には感情であっても、その感情を動かしたり、満足させたりするのには、知識や思考によって新しい価値観を創ることができれば、その新しい価値観によって、満足と思える感情を生み出すことが可能になるのです。

例えば、ただ見た目で気持ちいい、悪いだけで判断していた美術品において、その見方の知識が増えれば、希少な絵の展覧が近くの美術館であるのを鑑賞することができれば、今まで以上の喜びを得られることでしょう。

また、もし骨董価値とか、金銭的価値の知識を知ると、それを手にしたときの喜びも得られます。

ただいずれにしても、何かの刺激によってとか、不足からの充足での幸せ感情というものは、一時的なもので、それはもともとあいまいだった幸せというものを、もっとうつろいやすいもの(どこまで行っても得ることの出来ない幸せというもの)にしてしまうおそれがあります。

となれば、最初に戻りますが、結局、幸せはいつもここにありながら、その定義は決められない、自分で生み出していない、幸せを感じる能力に至っていないということを思い出すことが重要になります。

はっきり言いまして、幸せは、「探す」という意味では実はどこにもないのです。あったと思っても、それは見せかけのもの、仮のもの、他人の(考えた、創った)幸せです。

本当の幸せは「自分が創るもの」「自分で生み出すもの」と言えましょう。

マルセイユタロットでいえば、「運命の輪」が、結構これらの示唆になります。

「幸せはどこかにあるもの」「幸せは手に入れるもの」と強く考えていては、「運命の輪」の中でグルグル回っている動物たちとなります。

大切なのは、この輪から逃れて、上にいる動物(スフィンクスの位置)になることなのです。

この動物(スフィンクス)は、「幸せはない」と知っています。

おかしな言い方になりますが、幸せは探せば探すほど、見つからないのです。それは先述したように、探すものではないからです。

幸せは自分の中に種(たね)として存在し、それを開花させる、生み出すことで見出されます。

自分の中にあるのに、グルグルとほかを探し歩いても、ただ疲れるだけか、幻想の幸せを追い求め続けることになります。

まさに「幸せの青い鳥」のたとえのようです。

奇しくも、マルセイユタロットの「運命の輪」のスフィンクスは、青い空色で表現されています。

幸せと感じられない、ひとつの原因は、あなたが同じ輪の中で探し歩いているからなのです。

この輪から脱却し、次元を変え、幸せが自分から「考え」として生み出され、そしてその「考え」を受けた感情として、幸せを味わことができます。

あなた自身が変身し、気づくことが、幸せの近道なのです。


思考の飛翔に遊びが必要なわけ。

前回と似たような似てないような話となります。

私は、スピリチュアルな世界でよくいわれるような、考えるのではなく感じることが重要と言われるのには、反対のことを言いたい立場ですが、しかし、「考えるな感じろ」も正解のこともあると思っています。

感じることもいいですし、考えることも重要、つまりどちらも正解なのです。

しかし、階層やレベルの違いは、思考にもおいても感情においてもあると考えています。

ですから、たとえば、何かの選択や決定において、好き嫌いレベルでばっと決めたほうが、あれこれ条件を分析して決めこともよりスピーディーで、結果的に正解だったということがあるわけです。

ところが、だったら、この好き嫌いレベルでの決め方が何でも有効かと言えば、もちろんそうではないのは誰にでもわかりますよね。

一人の好き嫌いで、国や会社の行く末を単純に決められたら、とんでもないことになります。まあでも、今の日本ではそれのほう実はましかも?ですが。(笑)

それはさておき、思考にはジャンプ現象というものがあります。

あることを突き詰めて考え続けると、突然新しいアイデアが湧いたり、堂々巡りしていた思考のループから脱出できる考えが思いついたりします。

これは意識的にも次元ジャンプ、スピリチュアルな言葉が好きな人には、ミニアセンションと言ってもいい状態です。

こういうようなことは、おそらく、大なり小なり、誰しも経験していることではないでしょうか。

だからわかる人も多いと思うのですが、このように思考ジャンプが起きる時というのは、実は思考がゆるんだ状態と言ってもよいものです。

つまり、ずっと考え続けた圧力が、ある瞬間に解放されることで、別の領域にジャンプしたような状態になっているのです。

ちょうど、身体的に言えば、体を沈み込ませて、その勢い(反動と力)で大きくジャンプするみたいな感じです。

ギリギリの緊張と、突然の弛緩による、その落差のエネルギーが、ある領域に移行させるのだと考えるとよいでしょう。

ということは、リラックス(弛緩)ばかりしているのがいいわけではないのです。

緊張や集中と、タイミングのよい弛緩・解放があってこそ、飛躍的な成長が見込めるわけです。

好き嫌い感情や、単純な直感ばかりで生きていては、アセンションができないことにもなります。

思考していくことで、確かに迷いやよけいなことを考えてしまうおそれはありますが、その集中過程が圧縮したエネルギーを持つのです。

しかし考え続けるだけでは集中しすぎの疲労で限界が来ます。成長する前に壊れてしまっては元も子もありません。

そのため、逆方向の弛緩が必要です。

要するに、昔から言われているように、よく学び、よく遊べということなのです。(笑)

高い思考をもたらせるためには、自分が解放されたり、バカになったり、超感動したりできる大いなる遊びがセットとして必要です。

真面目すぎる人、思考が好きな人は、反対にもっとアホになって遊びましょう。

この場合、重要なことは、自己基準で考える(見る)ということです。

人から見たアホの状態ではなく、自分が思うレベルのアホでいいということです。

あくまで自己基準・自己尺度ですから、ほかの人が見たら普通じゃないかと見えるようなことでも、本人がバカやっている、アホなことしているよと思う状態ならOKなのです。

これはとても大切なことです。

社会基準とか一般的価値観・ルールというのは確かにあります。

でも、人には個性があり、社会生活のためには共通ルールは必要ですが、個人の人生においては、個人基準でいい場合があります。

下手に社会基準に合わせようとかるから、無理があったり、つらくなったりするのです。

自分は自分、人は人、というのが当たり前だと思いましょう。

だから、バカやアホの基準も、まじめさの基準も、相対的なものではなく、自分だけの絶対値として見ればよく、そうしたほうが楽になります。

さて、考えを突き詰めながら、バカになって遊んでいる時、言い換えれば、思考は神(二元統合)になります。

そして、アイデア(idea)とつながり、自身の飛翔が行われます。マルセイユタロットはこの飛翔の象徴が、「」として表されています。

難しいことを考えていて、「あー、もーわからん!」となった時は、まったく別の遊びに興じることが、逆にヒントを得たり、進歩があったりするものです。


「隠者」の光

以前、自分のブログ記事で何がよく読まれているのか、調べてみたことがあります。

すると、「隠者の危機」というものがよく読まれていることがわかりました。

おそらく、「隠者」というカードの不思議な響き、謎が隠されている雰囲気、それにさらに「危機」という不穏な言葉が並んでいることで、読みたいと思わせたのかもしれません。

またタロットの「隠者」というカードは、わかるようで、実はわかりにくいカードでもあるからでしょう。

ということで、今回は「隠者」のカードついて、それも危機ではなく、「光」に焦点を当てて書いてみます。

「隠者」(マルセイユタロット)で、「光」と言いますと、隠者の持つランタン・ランプが浮かびます。

もともと「隠れる者」と書く「隠者」なので、その名の通り、世間から隔絶された場所で、一人孤独に隠れて修行しているような人ですから、光や明るさというものとは無縁に感じます。

ところが、だからこそ、「隠者」の持つランプの「光」が強調されるのです。

タロットは多重構造の象徴性を持ちます。

これは言ってみれば、入れ子構造・フラクタルな構造であるということで、一枚のカードにもほかのカードの象徴が、次元や分野を変えて入り込んでいると考えます。

こうした入れ子構造の仕組みがわからないと、タロットの本質(タロットが根源的に象徴していること)には近づけません。

ということは、「隠者」にも、例えばほかの大アルカナのカードが含まれていることになります。

そうした考えをもとにした場合、隠者のランプの光は、つまりはほかのカードの象徴性に当てられた光でもあると見ることきができます。

これは、リーディングにおいて、「隠者」のランプの先に置かれる(引かれる)カードで読むこともできます。

マルセイユタロットの大アルカナには、読み方や考え方の流派にもよりますが、私は大きく分けて三階層の次元があると見ています。

これを適用していくと、「隠者」の光にも三階層の当て方があることになり、さらに先ほど述べた他のカードたちも入れますと、少なくともかなりの数の光がある(光の見方・当て方がある)ということになります。

さて、それらをもう少しシンプルにして言い換えてみましょう。

要するに、隠者の持つ光は、その人の隠れた才能であったり、希望であったり、霊性や神性であったりするということです。

グノーシス的には「神性」「真の叡智」、スピリチュアル的には「(高次の)愛」と呼んでもいいものです。

ただ、この「光」のレベルをどこに置くか(「光」を何とするか)によって、当て方も見え方も変わってくるのです。

いずれにしても、重要なのは、あるレベルや段階に達しないと見えない光にもなっているということです。

逆に言えば、段階別に見える光が違うことにもなります。

「隠者」は、本来的には俗世間での多くの経験は終え、霊的な修行に入っている人と考えられますが、これ(このカードの象徴性)を現実的・精神的なレベルに置き換えますと(次元を下降させますと)、物質的なことや目に見える環境要素以外のことで、変化を生じさせている人の段階と言えましょう。

もっと簡単に言えば、精神世界や象徴的なものに感応し、これまでの物質中心的観点に疑問や違和感を伴ってきた状態と言えます。

こうした場合、ほとんとの人はこれまでの価値観に変化が見えてきますので、葛藤や悩み、生き方への不安・模索といったことが続いてきます。

いわば、肉体次元だけではない、精神や魂の次元での追求(満足)が始まるということです。

ただ、それは一面では不安定な状態とも言えます。これが「隠者の危機」として現れることがあるのです。

特に「月」や「恋人」カード、極めつきは「13」とセットになって出てくるようだと顕著になるでしょう。

そして、これまでとは違ったレベルの「光」を見ようとするようになります。

明らかに、今まで見ていなかった「光」の兆しが、いろいろなところで、あるいは意外なところに存在していることに気がつくようになります。

「光」には違いや段階があると言ったように、まずは通常レベルにおいての見えなかった部分に焦点が行きます。

これは例えば、ほかに好きなものがあったとか、こういう才能や特技があったとか、こんな趣味があったのかとか、こんな仕事に向いていたのかというような、現実的レベルでの隠れていたものに当てられる(気づく)「光」です。

しかし、やがて心に抑圧されていたものとか、ずっと気が付いていなかったパターンとか、思い込みとか、心理・精神レベルの気づきの光として作用していきます。

さらに、「隠者の危機」が登場していくるようになると、魂の求めに応じて、理屈や心とも違う、自分の中の尊い部分に光が当てられてくるように感じてきます。

それぞれのレベルで、それぞれの光が、自分自身(の中)と、この世界に散りばめられていることを発見します。

そう、つまりはこの「光」は、その時の自分のあり方や方向性を示す灯台であり、暁光であり、目標ともなってくるのです。

光の当てられる層の違いによって、目指すものは違ってきます。今までの光が消えて、新しい光が登場することもあります。どれであっても成長の段階を進んでいるといえましょう。

その説明を現実的レベル(言語や文章レベル)でしているのが、「法皇」でもあります。

ちなみに、「法皇」と「隠者」は絵柄的にも関連するカードであり、「法皇」を超えたところに「隠者」が存在します。

苦しい時、試練の時、うまく行かない時には、落ち込んだり、絶望したり、何も救いがない、八方塞がりのように感じられたりするかもしれません。

しかし「隠者」のカードは、そのような時にも光があること、光が当てられることを示します。
(語呂合わせみたいですが、隠者は「9」の数を持ち、八方にひとつ加わった方向性を見ることができます。つまり脱出や覚醒の道です)

ネガティブな中にもポジティブが見え、また反対に、いいことづくめのように見えて、マイナスや闇もこの光によってわかることがあります。そういうことでは、やはり隠者の持つランプの光は「智慧の光」なのです。

一度自分の中にこの「光」が灯ると、もう消えることはありません。

やがて光が大きくなり、自己にある不純なものを燃やす働きを開始します。それは時に苦しいこともありますが、純粋で統合なる道へと進み、迷いは少なくなってきます。

ところでマルセイユタロットには「卵」の象徴も多いのですが、その「卵」にこの「光」を当てることで、孵化させることもできるのです。

あなたに「隠者」の「光」が届くことを願います。


タロットから、「見る」ことを考える。

これは学習した内容や流派にもよりますが、マルセイユタロットのリーディングでは、カードに描かれている人物の視線を重視します。

ほかのタロット種でもできないことはないでしょうが、マルセイユ版における人物の視線は、なかなかに鋭く、どこを向いているのか、一目瞭然のところがあります。

人が誰かや何かに関心のある時、そちらの方向に向くのは自然なことです。カードの人物を人間のように見れば、自分や人の考えている内容・興味ごとが、カードで象徴されるという見方になってきます。

ここで改めて、見ること、視点というものについて考えてみたいと思います。

私たちは、全部を見ている、全部を見ることができるように思っていても、実はほんの一部、ひとつの方向性しか見ていないのがわかります。

当たり前ですが、人の目はふたつあり、しかしカメレオンのように、別々に動かして見ることはできません。ふたつでひとつであり、結局のところ、視点の定点はひとつと言えます。

しかも、前方向か、頭(首)を動かした方向にしか見ることができず、後方、その他視野外の部分は、いつも見逃していることになります。

単純に言って、後側は鏡や機械でもない限り、自力では見えないのです。

もちろん他の人が見ていてくれれば、見えないところもわかります。

しかし、自分一人だけの場合、果たして、後側など見えないところは、本当に自分が想像しているような世界(あると思っている世界)であるのか、証明することは難しいものです。

もしかすると、前方の、見ている世界しか存在していないかもしれず、後はイメージの世界として、別世界(あなたの想像の世界)の可能性もあるのです。それどころか、何もない、まだ現実として固まっていない状態かもしれません。(笑)

こう考えると、私たちは視線を向けた瞬間に、あるいは見たその瞬間(そのわずかの直前)に、一人一人世界を創造しているとも言え、今自分の見ている側が現実(になった世界)で、見ることのできない側がイメージや空想、まだ未顕現の裏の世界かもしれません。

しかし、どちら(現実かイメージか)にしても、創造されていることには変わりありません。

つまり、見ることは創造につながるということです。逆にい言えば、見ないと創造されません。

これはマルセイユタロット的には、「女帝」と「世界」の関連の考察とあいまって、私たちの認識というシステムにおいて、極めて重要な示唆を与えるものだと思います。

ここでは、「見る」というものが、実際に目で見ることだけではなく、心の目のようなもので見る(観る)ということまで考慮すると、創造の源泉が、プラトンの言うイデアというものに近いことがわかってきます。

この話はちょっとややこしいので、このあたりでやめまますが、言いたいことは、見る・観るという意識が創造性において大切だということです。

さて、「視点」で言えば、いわば自分視点と他人視点という二つにわけることができます。

自分視点は、先述したように限界があり、自分では見ることのできない方向を見ようとすれば、他人の視点か機械を利用しないとなりません。

しかし、他人とて人間ですから、これも限界があります。そう、一人一人では常に視点や視野に限界があるのです。見えないところ、わからないところがあるということです。

しかし、ほかの人と協力すれば、全方位を見ることもできます。皆で鏡役になるということですね。

これがマルセイユタロットでいえば、「節制」(の目)とも関係して来ます。「節制」には互助的な救済の意味があり、協力的な多数の視点のことも考えられるからです。

私たちの視線は、一人一人では限界があり、見方も偏りがちですが、他者と協力しあえば、多くのことを見ることができ、知ることもできます。

カメラとモニターを使えば、確かに一人でも様々な方向を見ることはできますが、一人ですべてをチェックするのは大変なことです。

一人でできないこと、難しいこと、わからないことは協力する、助けてもらう、教え合う、そういうことが視点の問題から見ても、まさに「見えて」くるのです。

ただし、マルセイユタロット(カモワン版)の「悪魔」にも、たくさんの目がついているように、人の視線は気に過ぎると自分を縛ることになり、また監視社会のように、あまりに見られすぎるのも、牢獄のような状態となって息苦しいことになります。

ところで他者の視点を取り入れるだけではなく、自分単独でも、視点を変えることの重要性は、マルセイユタロットの「吊るし」の逆さま姿勢に描写されているところです。

いつもの決まった席や立ち位置を、何気なく変えてみる(見る)だけで、あなたの世界は、意外にも大きく変わるものです。


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