カードからの気づき

学びやすい時代だからこそ、気をつけること。

何かを学びたいという時、独学と、他人や学校から学ぶ場合とがあります。

昔は、独学するにも本や資料を求めて図書館とか書店に行くしかなく、そのありかを探すことすら難しいところがありました。

それが隠秘学的なものや、マイナーなものだったりすればなおさらです。

たとえ、独学ではなく、通学したり、講座を受けたりして他人から学ぶ場合でも、その知識・専門性のある人と場所の情報収集と、実際にそこに行く(会う)労苦、また学びの種類にもよりますが、金銭的・経済的なものも大変なものがありました。

ということは、かなり運と縁、そして実際に行動する(足を運ぶ、動く、物理的に移動する)という要素、そして学びにお金をかけられるかどうかという点が大きかったと言えます。

しかし最近はインターネットの発達により、特に独学する環境がずいぶんと整い、学ぶことがとても容易になってきました。わざわざ学校や人に学ぶ必要もないくらいです。

お金の面でも、まず通学したり、高い文献など買ったりせずによくなってきましたから、かなり安く(場合よっては無料)上がるようになっています。

ということで現在は、おそらく人類史上、かつてないほどの知識・情報を得やすい時代、つまりは学びやすい時代になっており、全体レベルで、相当知識の拡大と蓄積が大きなものになっていると言えます。

例えれば、個人レベルでも、昔は人生をかけて修行したり、方々をさすらったりして得た知識・情報が、現代人は数時間、いや数十分で手に入っていることになります。

いわば時間と場所が、学びにもおいても短縮されてきたわけです。時間に限れば、昔の一日に要する時間が、今は10分くらいかもしれないのです。

従って、昔の先生レベルの人が、今の人たちでは普通にたくさんいるということであり、今の時代の先生は、昔のマスタークラスの人かもしれないのです。

ただし、残念ながら、まだ実体験のレベルでは、そう考えるののには疑問があります。

いくらネット社会が発達したとはいえ、まだ文章と平面的動画の二次元が主体です。

3Dとか出てきてはいますが、リアルなライブ体験をネットで味わえるかというと、それはまだまだでしょう。

つまりは、視覚と音声情報から得たものが中心で、感情と体感覚をセットで味わうことは難しく、しかも文字や動画(文章や口頭での説明)で、デジタルのはっきりしたものが多いですから、視覚以外から得られる微妙な情報、感性を得ることも困難です。

言わばそれは、見たまま、説明されたまま、書かれたままの情報それそのものを機械的に入れることになって、象徴的な理解の種類とはかけ離れていくことになります。

例えば「26人」という文字が書かれていたとすれば、人が26人(いる、いた)のだと理解するのがそのままのことで、象徴的理解というのは、実はこの26人には「26人が存在する」という意味ではなく、「26」と「人」という象徴で、ほかの意味(象徴する意味、象意)を示していると見ることが可能になるものです。

もちろん、文字で「○○はこの象徴で、ほかの意味がありますよ」と書かれていれば、象徴の学びにもなりますが、それはそれでどこまで行っても、「この意味は実はこれで、そしてその意味はまたこの意味も含まれて・・・」と、やはりデジタル式に細かく分かれていくだけになります。

言い換えると、ひとつの言葉をただ別の言葉で説明しているだけの、辞書的・機械的なものだということです。

それでは、文章でいうところの行間の雰囲気、味わい、ニュアンスがくみ取れず、「象徴の次元」で述べると、細かく分かれて具体的次元に下降するだけで、反対方向の、抽象的に上昇していくイメージができにくくなっているわけです。

つまり、物事のつながりを象徴的に心で把握すること(全体的・有機的関連で把握すること)ができず、ひたすらぶつ切りしたひとつの正答、回答を求める思考に陥っていくということです。

もっとわかりやすく、見える世界と見えない世界、すでに知っている世界と知らない世界とのつながりが見つけにくくなると言ってもいいでしょう。

また視覚・文字情報だけの蓄積だと、ライブ(生)の体験、情緒的・感情的体験とが知識と結びつくことも困難になりますから(ライブ体験の蓄積がない)、やはりここでも肉体と精神など、人間にある各要素が分離しがちになります。

マルセイユタロットに流れる古代の思想体系、四大元素で言いますと、人間の成長と完成には「風・水・火・地」すべての要素がバランスよく統合されていく必要があります。

今のネット中心の学びでは、「風」の要素が極端に強調されてしまい、ほかの要素が少なくアンバランスです。これはまさに頭でっかちの状態と表現されます。

また情報が簡単に大量に手に入るということは、選択肢が異常に多く目の前に呈示されているような環境であり、情報があるのに、逆に選ぶことが難しくなってもいます。

そうすると、人は面倒になり、思考停止か、単純に好き嫌いレベルで選ぶ傾向も出てくるのです。

すると、さきほどの四大元素でいえば、「風」(これは知性的分野を示します)のものを、「水」(これは感情的分野を示します)に変えてしまう人もいるのです。

言い換えれば、好き嫌いの感情レベルで文字や動画のネット情報も選んで、学んだ気になってしまうということです。

これは、四大元素でいえば、自分の主たる個性的な特質(風・水・火・地のどれかのタイプ)によって、変換のされ方も変わってきます。

いずれにしても、今の時代は、ものすごく学びやすい環境にあるとはいえ、それだけ危険もあり、アンバランスな学びになりやすくもあるということなのです。

先述したように、量的な学びにおいて、現代は昔より時間が短縮されていますので、バイアスのかかった学び・情報が、気がつかず、大量に蓄積してしまって、修正が難しくなるという事態もありえるわけです。

ネットの文章を読むのもいいのですが、実際にライブで人の話を聞くこと、リアル世界での体験と検証も忘れないこと、さらにはネット以外でも隠れた情報や専門性をもった人もいることなど、心に留めておくとよいでしょう。

そして学びには、象徴的・抽象的世界、イデアやイメージの世界からのものもあるのです。

それは本当に、神や天使、悪魔とか精霊とか、昔の人がイメージした存在との学び合いみたいな感覚と言えます。

タロットでは、「法皇」(5の数を持つ現実的・先生的なカード)ではなく、「隠者」(9の数を持つ神話的的・ハイアーセルフ的カード)と見てもよいでしょう。


「吊るし」の反転性が重要

マルセイユタロットの「吊るし」は、特殊なカードと言えます。

ほかのタロット種でも、このカードに該当するものはありますが、「吊るされた男」とか、「吊るし人」という名前が普通で、マルセイユタロットの「吊るし」とは解釈が異なっているように思います。

どうしても、一般的な名称では、吊るされていること、吊るしているという見方が主になり、「吊り」状態が受動的になっている印象です。

ともあれ、吊されているにしろ、自分から吊しているにしろ、私は、「逆さになっている」ことの姿勢が重要だと感じています。

「逆さになって見る」というのは、言わば、物事をすべて反転させてしまうようなものであり、それがポイントだと考えられるのです。

「逆もまた真なり」という言葉があるように、まったく正反対ということは、対立する別の概念や意味とは限りません。

逆さに見た時は、確かに見え方はまったく変わりますが、実はそれこそが真実の見え方だったり、隠されていたものだったりするわけです。

逆転する、反転するということは、今までの認識が180度変わるわけですから、混乱するのが当たり前です。

逆から見た世界も、また真実なのだと告げられた場合、それまで自分が見ていたものは何だったのか・・ということになります。

今までの正立状態というのは、「完全」というものを片側・反面からしか見ていなかったのであり、逆さになることで初めて全体を見たことになるわけです。

私たちは正面を向いていますが、その反対の後ろ側は常に見えておらず、残念ながら、人間の視点は360度、全方位を一度に見るようにはできていないのです。

従って、正立(逆さまになっていない通常状態)の時でさえ、半分しか見ていないことになります。

これに加えて、逆さまの位置というものを入れますと、正立と反転(逆さ)での半分ずつ、都合、正立の前方と後方、正逆のそれぞれの前方・後方と合わせると、これだけでも4つの視点を持たないと、なかなか完全・全体というものは見えてこないことがわかります。

また、「逆に考える」ということは、さまざまな示唆を与えます。

言葉の順序・位置を入れ替えただけで、意味やニュアンスが変わってしまうこともあります。

例えば、「好きな仕事をすれば、幸せになれる」というのが、「幸せになるには、好きな仕事をするしかない」という風に、反対に言葉を入れ替えて書くと、何か前者の文章と後者のそれとでは異なることがわかるでしょうし、自分の思い込みとか価値観というのも明確になる場合があります。

それから自分が正しいと思っていること、信じていることが、まったく逆、つまり間違いや不確かで信じられないものと仮定するとどうなるのか?と考察してみるのも面白いです。

さらには、つらいことや悲しいことがあれば、その経験の中で、反対のいいこと、楽しいことはないかと逆転させて考えてみると、心が楽になれる場合があります。

ネガポジ反転といわれるように、物事のよしあしは、まるで正反対のもの同時に含みます。

好調の時には、すでに不調の兆しが始まっており、不調の時は好調の種が蒔かれています。

人生には、これまでの自分の価値観を全く反転させるようなことが、いつか起こります。それは内的なこと、外的なこと両方の意味において存在します。(発生する可能性がある)

そうした時、私たちはこれまでの自分を象徴的には一度死なせて、再び、全く新しい状態で再生させなければなりません。

霊的な意味合い、覚醒の意味では、私たちのほとんどが、まだ「逆さ」にもなっていないと言えるでしょう。

自分が「吊るされる存在」ではなく、自ら「吊るす(逆さになる、反転する)」ことのできる者であり、また(何者かに)吊るされていることにも気づく必要があります。

「吊るし」を体験すると、自分の見ていた「世界」は反転し、常識が非常識、非常識は常識へと変わるでしょう。注意深く見れば、マルセイユタロットの「世界」のカードと、「吊るし」の関連性も見えてきます。


横と縦とバランス、完全性の多様

熊本ほか九州で起こった(起こっている)地震の被害に遭われた方のお見舞と、お亡くなりになられた方のご冥福をお祈り申しあげます。一日も早い復旧が行われますよう、願っております。

東北大震災から5年、私も経験した阪神大震災からもかなり年数が経ちましたが、改めて日本で暮らすことの意味、今後の備えや社会・暮らしの改革が求められるのではないかという思いを強くしました。

何かの行動を起こすことができない人でも、少なくとも心や魂の声に耳を傾け、全体のレベル(次元)を上げるために、個々の内側で、切り替えと変革の意識をもつ(自己の本質思い出す)ことは重要かと感じています。

マルセイユタロットを見ていると、いろいろなことが整理されてくるのですが、そのひとつにバランスと次元というものがあります。

おそらく、この世界は、局所(ミクロ)的にも壮大なマクロ的にも、どの部分においても、あるバランスが働いて、それなりに均衡している状態だと考えられます。

ただ人間の思考は、偏りや錯覚が可能になる「創造性」を持つとも言えます。これもよいと言えばよい特徴ですし、悪いとはいえば悪い能力です。

それでも、たとえ一人一人の思考が生み出す(とらえる)世界においての錯覚(アンバランス)があっても、個を超える全体性と客観性(神とか宇宙とかの目線と言ってもいいでしょう)から見れば、やはりバランスは取れていると思えます。

荒っぽく言ってしまえば、一人一人違っていても、平均すると、バランス化されているというようなものです。(これは厳密にはまったく違う例えなのですが・・・一応、わかりやすくするための例えです)

しかしながら、これはまだ、ある一面だけ、横軸だけの視点に過ぎません。

一面・横軸というのは、そうですね、階層をもった建物・マンションみたいに想像するとわかりやすいです。

そうした建物で言えば、1階だけ、2階だけといった横視線の方向で見ているのが、「横軸」のバランス視点となります。

2階の201号室の住民と、207号室の住民はまったく違う人ですが、2階の部屋全体で総合すると、バランスが取られていて、平均化されているように見えるという感じです。

ところが、建物全体では、縦軸・縦階層もあります。1階と3階そのものの違いというやつです。

しかし、階層の違いはあっても、縦・横全体において見るとバランスが取れていると考えるのが、全体視点のバランスです。

そして、この階層の違い、縦軸が次元を象徴し、言わば、1階と2階では、次元(レベル)が異なる生活があると考えます。

高い階に上がるほど、まさに高いレベルの意識とそれに応じた生活があり、同じ階層では皆同レベルではあるものの、一人一人(部屋単位の住民)には個性や差異があります。

5階の人は1階の人よりレベルが上ですが、同じ5階の502号室と509号室の人は違う人が住んでおり、1階の人とは視点と視野が異なった景色を見ている(思考が異なる)ということです。

これは「類は友を呼ぶ法則」に近いものと言えます。

それで1階の人は、そこから見えるものを、「これが普通の景色だ、生活だ」と思っていますが、5階の人にはそれとは違う景色が見えています。

この形式の見え方が、考え方の違いを象徴しているようなものです。

長々と例えてきましたが、要するにこういうことです。

私たちの今の社会・生活レベルは、それはそれでバランスが全体として取れており、その意識レベルにおいては、これがノーマル・普通、このままでよい、あるいは、これで仕方ない、変えられない、変えなくてもいいと思う人が多くなります。

ところが、別次元(レベル)に意識がシフトしますと、ほかのあり方や方法で、社会のシステム・暮らしが成り立つことに気がつきます。

それがまた、そのレベルにおいてバランスが取れているのです。下の次元の人には思いもよらない社会(言ってみれば常識はずれ)なのですが、その次元に至れば、「普通・ノーマル」なことなのです。

どの所でもバランスが取れている、均衡化されているということは、言い方を換えれば、どのレベル・次元においても、その階層において「完全」だということです。

しかし、次元や階層が異なれば、それぞれでは「完全」であっても、まるで「世界」「宇宙」そのものが違っているように見え、別世界としての「完全」レベルがたくさんあるということになります。

おかしな言い方になりますが、「完全」というものは、何種類もあるということです。

換言すれば、完全性とは、本質は同じでも、スタイルと表現に違いがあると言えます。

ですから、一人一人の意識が変わっていけば、全体としてのレベル・次元のバランス性・完全性の表現もシフトしていき、別の宇宙・世界を経験することになると考えられるのです。

今のような表現の世界でいいのかどうか、今の日本のスタイルでいいのかどうか、ここに来て真剣に考えないといけない時期に来ているよう思います。


自身や運命の大きな変化のためには。

マルセイユタロットの「運命の輪」を見ていますと、人間、または運命と呼ばれるものの変化についてのことが浮かんできます。

自分を大きく変えたい、運命を変えてみたいと思うことは、誰でもあるでしょう。

しかしながら、私たちは変えたいという気持ちと同時に、変えたくないという思いも抱えています。

その相反する思いに、葛藤したり、悩んだりします。

変えたくないのは、まず、よく言われるように、そのほうが楽だからです。そのままだと、エネルギー消失が少なくて済むという効率の問題もあるでしょう。

それと、やはり、どこか奥底の部分で、変えたくない、そのままのほうがよいと思っている部分(無意識的なことが多い)があるのです。

それは、おそらく、その人における、「変えないことによるメリット」があるのが理由でしょう。

ところが、世界や宇宙は、変転していく、つまり変わっていくのが「常」でもあります。

何かが生まれると、やがて死に、滅びて、また新しいものが生み出されるという大きな自然の流れ・サイクルがあり、ずっと同じ状況ということはあり得ないわけです。

人にある「変えたくない思い」にすがり、それに執着していると、自然の流れのサイクルから乖離して行き、ズレが大きくなります。

マルセイユタロットの「運命の輪」は、その名の通り、「」のようなものが描かれています。

もし「輪」が宇宙や自然のサイクルの回転を象徴していて、もうひとつ、私たち個人個人の思いの「輪」の回転も表しているとすれば、そのふたつの「輪」のズレが大きくなると、きしみの音も大きく、個々の「輪」は破壊されてしまうかもしれません。

ということは、やはり、自然の流れに沿って生きていくほうが楽だとわかります。

話を戻します。

確かに、自然の流れに沿うことはいいい感じに見えますが、大きく変化させたいという場合は、自然のサイクルを待ってはいられないこともあるでしょう。

そこで、先ほどの「輪」の例えを逆に取ります。

自然のサイクルと、自分の思いの抵抗(個人的な輪の回転)とのズレが極大化すると、個人の輪はおそらく壊れてしまい、自然の流れに合うように作り替えられるとイメージできます。

しかし、壊れるギリギリのところで抵抗を止め、自然のサイクル(輪)に準じると、溜めていたズレのパワーが解き放たれ、ものすごい回転が一時的に個人の輪に生じると考えられます。

やがては自然のサイクル・輪のほうに同調して穏やかになるでしょうが、それまでの間、猛スピードで個人的な輪が回転し、運動エネルギーのようなものに変換されると想像されます。

これが、まさに運命を変えたり、自分自身を大きく変化させたりするのではないかと思います。

これをもう少し、具体的に言うと、何かやりたいこと、望み、願望、欲求みたいなものを強く願い、それを何としてでも叶えるぞと、実際に動いたり、働きかけたりします。

それでスムースに叶う場合はそれでよいのですが、なかなか自分の思い通りに行かない時もあると思います。

何回かチャレンジしても、邪魔が入ったり、天候や何か事件のために実行できなかったり、そんなことが続くと、たいていの人は、「これはダメだ」というメッセージだと思ってしまいます。

確かに、そういう意味もあるのかもしれませんが、ここで言いたいのは(テーマとしていることは)、運命や自分自身の大きなシフト、変化です。

それでもあきらめず、もう一回くらいは頑張ってみます。

それで、ふと、チャレンジ中にあきらめます

あるいは、最後のチャレンジだと思ってやってみて、それでもうまく行かなければ、本当にスッパリとあきらめます。実現の願望を手放すということです。

言ってみれば、ギリギリまで粘って、ふいに手放すということを行うわけです。ゴムを伸ばしきってから急に放すみたいな感じです。(笑)

すると、「運命の輪」の抵抗やズレが解き放たれ、先述したように、回転に拍車がかかります。

そして、今まで経験したことのないような状況が、突如現れます。

それは、思っていた以上の状態で願いが叶うことだったり、まったく別次元での喜びや、解放・自由の状態だったりします。

これとは別に、ずっと大切にしていた、これがないとダメだと思っていたものを手放すということでも、同じことになるかと思います。

こちらのほうは、マルセイユタロットでいえば、「13」で表現され、こだわっていたものを手放した時(強い言い方をすれば破壊した時)、実は、自身への救済が訪れるという仕組みにもなっています。(マルセイユタロットに象徴されるストーリー)

逆に言うと、こだわりは、まさしく囚われでもあるわけです。

けれども、それを愛している分だけ、手放し、解放することは難しいでしょう。

それは愛というより恋であり、恋愛のピークを過ぎないと手放しにくいからです。ピークのためには、迷い・悩むくらいの経験をすることも大切です。

このあたりもマルセイユタロットのストーリーには描かれていることです。

言えることは、何かに熱中したり、首たっけ(笑)になったりすることは、こだわりの面では悪いことかもしれませんが、実は、自分の変容、運命の変化のためには、チャンスになっているということなのです。


時間と空間 ふたつの視点

マルセイユタロットには、この世界における様々な質、エネルギーといったものが、絵柄の形で表現されています。

これはつきつめると、「様々」ではなく、たった「ひとつ」の違った見え方に過ぎないとわかってくるのですが、「ひとつ」のものが多様に分かれていく時、必ず通る道があります。

それは、ふたつに分かれるという、考えてみると当たり前の話です。(笑)

「二元論」という言い方をする場合もありますが、すべてはふたつのものに分かれ、それがひとつとなって完全性を持つという見方があるわけです。

ということで、何事も、ふたつの視点で見ると、いろいろと面白くなってきます。

さて、ここで時間と空間(場所・フィールド)という概念を持ってきましょう。

私たちが現実で生きている世界は、この時間と空間を意識しないではいられません。

それらは、究極の世界では「ない」と言われるのですが、現実感覚としては無視できないものです。

いわば現実は、時間と空間(の意識)にあると言ってもよいでしょう。

そして、これも「ふたつ」の観点です。

まず時間ですが、これはよくいわれるように、2つの時間があります。

ひとつは物理的な全員の共通時間、言ってみれば時計時間です。そして、もうひとつは一人一人の個人的な時間、心や精神で感じる時間です。

これも「ふたつ」ですね。

マルセイユタロットの、「斎王」とか「隠者」とか「吊るし」のような世界観では、一人時間のようなものが示唆されます。

これらのカードを見ると、たいてい孤独や通常の世間とは隔絶された雰囲気を持っています。

私たちは日常的には、時計時間を気にして、一日などの「時間」を有効に活用しようとします。時には無駄に過ごしてまって、反省することもあります。

しかし、あえて日常とは切り離し、自分だけの世界に籠もると、時計時間よりも精神時間のほうが意識されやすくなります。

言い換えれば、自分が感じる時間のほう強くなり、時間の長さや進み方が感覚的に変わるということです。もちろん、一般の時間(時計時間)は変わることはありませんが。

それでも、例えば、今までの日常時間より、時がゆっくり進んでいるように感じられれば、心に余裕が出るのは予想できます。

本当は24時間だけれども、感覚的には36時間あるような感じとなるわけですから。

すると、スローモーションのように景色も見えてきて、いろいろなものの移り変わり、変化、瞬間・瞬間をとらえやすく(感じやすく)なるように思います。

異質な時間は、異質な精神を生み出し、その逆もまたありだということです。

では、空間(場所)はどうでしょうか。

これも、場所が変われば、感じ方も変化することがあるのは、皆さんも経験済でしょう。

今の場所と新しい(移動する)場所、前の場所と移動した現在の場所、これも実は「ふたつ」なのです。

加えて、時間もかけると、同じ場所であっても、時間が経過した場所は、もう前の場所ではなくなっていると考え、まるで違う場所に移動したかのように感じられます。

何が言いたいのかと言いますと、「ふたつ」という視点を入れることにより、ふたつの時空を意識的に行き来することになり、自分に変化を起こしたり、バランスを保ったりすることができるのです。

それは、現実(に生きる私たち)だからこそ、できる技なのです。

言い換えれば、日常と非日常が感じられる、時間の変化か場所の変化で、ふたつの異質なものの相互交流(移行と回帰の反復)をし、リズムを保ったり、取り戻したりするとよいということです。

まあ、私たちは言われなくても、旅行したり、趣味の時間をもったりして、自然にそれを行っているものですが。

また、これまで自分が思っていた非日常的なものを日常にし、反対に日常を非日常にすることで、一種の修行状態(覚醒を促す状態)に自分を置くことができます。

これはマルセイユタロットでいえば、「吊るし」であり、「隠者」だと言えます。カードを見ていると、そう彼らが伝えているように感じます。


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