カードからの気づき

人にも「脱皮」があること。

マルセイユタロットには「脱皮」をイメージさせるカードが幾つかあります。

典型的なのは「13」の人物、そして「」におけるザリガニのような存在です。

ほかにも「吊るし」の人物も、ある意味、脱皮前のような印象を受けますし、その他、これは秘密になるので言えませんが、数枚、脱皮を彷彿させるカードがあります。(ぱっと見ではわかりません)

そしてそれらのカードの続き番号のカードには、必ずと言っていいほど、殻を破る激しさと、脱いだあとを癒すかのようなカードが配置されているのです。

やはり、皮を破る勢い、強さのエネルギーと、そのあとの傷を保護したり、癒したりするエネルギーの両面あってこそ脱皮がかなうのでしょう。

現実的には、人は脱皮をしませんが、象徴的に考えれば、脱皮現象はいろいろなシーンで行われているといえます。

精神的には幼く・古い自分から、強く新しい自分になる成長かもしれませんし、体でいえば、細胞の増加、再生、体躯の発達でしょう。

実際に体の細胞は見た目はわからなくとも、毎日死んで新しいものになっているようですし、数年のサイクルで入れ替わっていくと言われていますから、甲殻類や爬虫類的な脱皮ではなくても、私たちは脱皮を繰り返していると言ってもよいのかもしれません。

ところで人の記憶やデータというものは、一般的に脳にあると考えられていますが、最近はでは腸(に住む微生物も含む)にもあるのではないかと言われたり、心臓など、ほかの体の部分にもあると推測されたりしています。

私はさらに、タロット的に考えて、細胞ベースみたいなものにも記憶のようなものが宿っているのではないかと想像しています。

汎神論のように見れば、どんなところでも「神」が存在し、ほんのわずかな細胞にも神性と意識のようなものがあるのではと思うのです。

ミクロの細胞ではなくても、現実的には体の個人的な特徴・癖・傾向として考えてみてもわかります。

もちろんそれは長年の姿勢のようなものからでしょうが、精神的なもの、感情や思考の癖によっても体は個性(いい・悪いを含む個人的特徴)をもって作られてしまうことがあるように思います。

意識と体はバラバラではなく、やはり関連があってつながっていると見ますと、象徴的には、意識の脱皮(変化)が行われる時、体(の細胞)の脱皮も著しく促進されるのではないかとイメージできます。

その反対もあり、体(や内部に取り込むもの)を変えていくと、精神的な脱皮も進むと予想されます。

皮は殻だとも考えられ、それは一種の鎧であり、自分を守り保護する防御装置でもあると同時に、重たい囚われ、枠でもあります。

脱皮をする生物を見れば、やはりどの段階でも、その姿になっているのには意味があり、それでないと自分を守れず、適応しない部分があると考えられます。

ですから無理に脱皮をすることは、逆に危険でもあるのです。

自分のブロックや枠を強引にはがすことは、まだ固まっていない内部の柔らかな体がむきだしになって壊れてしまうおそれがあります。

ちょうど、昆虫のさなぎの内部がドロドロに溶けて、まだ変容中である途中で開いてしまうようなものです。

つまりは変化の前の準備期間、一定の安静期間が必要ともいえます。

先述したように、脱皮には壊すエネルギーもいれば、癒すエネルギーも必要で、それは、両方とも他人の手によってなされる場合もあるでしょう。

どちらにしても人が介入し過ぎると、バランスが崩れ、当人には苛烈なものにあるか、過保護的なものになるかです。

マルセイユタロットの「」のカードには、ザリガニとともにそのカード名の通り、天体の月も描かれ、月の周期に生物的な産卵・懐妊・出産のようなリズムがあることを示唆しています。

変化(脱皮)の前の安定、安静、静寂は、時に人によってはうつ的な状態や、やる気のなさ、葛藤で前に進めない状態の場合もあります。

極端な場合は、まるで後退しているかのように感じることもあるでしょう。

脱皮なのですから、前に行ったり後に戻ったりして、モゾモゾと古い皮をはいでいくこともあり、それは後退しているように見えることもあるのです。

自分の、とくに心理状況や、変化のリズムというのはわかりづらいところがあります。

それでもマルセイユタロットのような象徴ツールがあれば、見えない意識層を絵のように見える形で顕在化することができます。

もし「脱皮」が示されるカードが出れば、シンボル・象徴的に、自分の状況も「変化」の時にあることが客観的に把握できるというものです。

さらに小アルカナというパートも使えば、そうした内面的変化を、現実的な世界、実際の世界においてどう調整、表現していくのかということがわかります。

例えば、「脱皮」は大アルカナでは象徴的であっても、現実的には仕事で表現されるのか、恋愛で表現されるのか、その期間はどれくらいか、実際の数値基準として、小アルカナで見ていくことができます。

さらに面白いことに(意図的ですが)、マルセイユタロットでは小アルカナの数カードと呼ばれるパートは、絵というより記号になっています。

つまり、余計なイメージが思い浮かばないようにそぎ落とされているわけです。

それは、さきほど言いました、現実世界での数値などとリンクさせるため、関係ない分野までイメージしてしまって混乱することのないようにする配慮だと言えます。

話が少しそれましたが、人にも「脱皮」はあり、それは誰でも繰り返し経験することなのです。

そして脱皮前のあなたは、それはそれで必要な形態(心・体)であり、あなたの「今」に適応したものです。

それが古くなって、バージョンアップを必要とするようになれば、脱皮の準備が始まり、いよいよ、次の新しいあなたに生まれ変わることになるのです。

逆に考えれば、苦しい時、つらい時、葛藤が続く時などは、ある意味、それはもう古いあなたでは対応できなくなっているということであり、脱皮が促されていると見ることもできるです。


人の重み、時間と体験

年を経れば誰でも経験を積み、知恵が付くと思われがちですが、決してそうではないことも、実際の世の中を見るとわかります。

反対に頑固になって、昔の考え方・見方にこだわってしまい、判断を誤ったり、鈍ってしまったりするケースもあります。

結局、時間という視点で見た場合にのみ、年齢による経験値や知恵が上がる(増える)ということになり、時間の概念をはずせば、まったく関係なくなるということになります。

以前の記事で、「継続による時間と空間の(増大による)効果」を書きましたが、今日は反対に、時間(の積み重ね)にとらわれないことの良さも述べたいと思います。

先述したように、年を取っても、悪い意味で、あまり重みのない人がいます。

昔の年功序列ではありませんが、以前は役所や会社などでも、ただ年が上、入社したのが古いというだけで、能力的に疑問があっても上司になったり、重要なポジションに着いていたりする人がいました。

こうした場合、当然、いろいろとその部署はおろか、組織全体にも悪影響を及ぼすことになります。特に直属の部下になった人には、たまったものではないでしょう。

このような、年齢だけで、中身がないように感じられてしまう人になったのは、どうしてでしょうか?

それは、毎日を軽く過ごしていたからだと言えます。もっと言えば、強烈で重要な経験がほとんどなかったのです。

以前の記事のように、たとえすごい経験がなくても、毎日コツコツと何かを積み重ねていれば、それだけ体積のような容量は増加しますので、何らかの重みは出たでしょう。

しかし、そうした継続もなく、惰性でただ生きてきてしまうと、やはり重みというものが出ません。

ということで継続ができない場合、言い換えれば時間の積み重ねの効果を期待しない(できない)場合、瞬間・瞬間の強力な加重体験が必要となるのです。

言わば、経験の時間の長さではなく、質を高めるということです。

仕事でも恋愛でも、たとえとても短い時間であっても、強烈な体験をした、濃密な時を過ごしたというものがあれば、それは強く自分の印象に残り、まさに「経験」として息づきます。

忘れたくても忘れられないほどのものは、強い圧力によって心に焼き付けられ、刻印されているものと言えるでしょう。

そうすると、安全な日々、オートマチックに進む毎日、楽に生きる道ばかり選んでいると、圧力のかかる体験がなかなか得られず、生きた経験(強い記憶・データ)もない、軽いままの自分になるおそれがあるわけです。

体験する時間の長さよりも質が重要となりますと、それは時間にこだわらないということです。それは通常(普通に流れる時間・継続する日常)とは異なるはイレギュラー感覚を体験することでもあります。

先行きに不安やおそれを抱いて、石橋を叩くかのように生きていこうとすると、どうしても時間(の長さ・期間)を意識してしまいます。

逆に起きてしまったことに囚われ過ぎても、過去という方向に自分を向け続けますので、それだけ「長さ」を意識してしまうことになります。

時間の質を高めるとなれば、今、現在に意識を集中させる体験が重要となります。いい意味で後先を考えずに飛び込み、濃密に体験を味わう感覚です。

タロットの思想に流れている四大元素(風・水・火・地)というエレメント・エネルギーでいえば、「火」が重要となります。

自分が燃焼する体験をすると、心や感情としての「水」が沸騰し、それが気化して、「風」となり、知識として普遍化のうえ、応用が利くようになります。

また燃焼によって刻印された型(経験)は、実績として残り、のちに形(現実)として実りをもたらせます。これが「地」とも言えましょう。

時間を忘れるほどの体験は、逆に言えば、意識的に本当に時間がなくなっている体験であるといえ、それは時間による蓄積という概念を超えたものなのです。

言い換えれば、一瞬に間に、数年、数十年の体験に比例するものを得ていると表現することもできます。

寝食を忘れて打ち込む体験、ものすごくインパクトのある体験、とてもつらく苦しい体験、涙が出て感極まる体験、感動の渦中に飲まれるような体験・・・これら濃密で大変な体験は時間は超越し、大きな圧力をもってあなたの心に刻まれます。

そうは言っても、何もつらいことによって質の高い(圧力の高い)経験をする必要はありません。

要するに、心が動き、時間がなくなるくらいの体験をすればよいのです。

ただ面白いことに、そうした経験は喜びであっても、不思議と苦しい体験と隣り合わせやセットによって得られることが多いのも、また人生です。

その苦しさが自分の魂まで苦しめるものでは問題で、あくまで感動体験のための反転部分(喜びの過程、感動の糧のための苦しみ)のようなものだとよいわけです。

時間に囚われない強い体験は、時間には関係ないのですから、年齢も関係なくなります。

若い人はもちろんのこと、年を取っている方でも、今この瞬間に味わうことはできるのです。


「恋人」「運命の輪」から見る「縁」

マルセイユタロットの「恋人」カードと、「運命の輪」は、私の中では特別な関係性を結ぶ場合が多いような気がしています。

もちろん、どのカード同士でも関連があり、そうしたコンビネーションによって生まれる象徴性と気づきもまた、マルセイユタロットならではの魅力です。

ほかのタロットや、タロット以外のカードでも、複数のカード同士から思い浮かぶことはあるでしょうが、マルセイユタロットの場合は、カードに実際に描かれている細かい図柄によって、それが立証される(イメージだけではなく、実際的に目でも確認できる)ことが面白いと私は感じています。

それはともかく、「恋人」と「運命の輪」です。

このふたつは特に、人間関係におけるのようなもの、運やタイミングみたいなものを表しているように思います。ふたつが並ぶと人間同士という側面が強調されるように見えます。

「運命の輪」には、その名の通り、運命を象徴するような「」が描かれており、「輪」なので「」というものがイメージできます。

一方、恋人カードでは、三人の人間が、上空に現れている天使(キューピッド)には気づかず、誰を選ぼうか、何を話そうか、迷ったり、話し合っているように見えます。

そこに人間と天使という、異次元の存在はあっても、この両者にはコミュニケーションは直接介在せず、人間同士のコミュニケーション、つきあい、結びつきのほうがメインのように表現されています。

人間の結びつきなので、そこに人の縁が生じていると見て間違いないでしょうし、楽しく会話していれば和やかに、文字通り「和」があり、「輪」となっていることでしょう。

また人の集まるところ、たとえそこで激論が交わされているとしても、そこには会合としての人の「輪」ができていると言えます。

「恋人」カードの上空の天使は、人の縁の実際の鍵(矢)を握っていると考えられますが、ここ(「恋人」カードの描き方)では「人の縁」のほうがウェートを占めていることがうかがえます。

一方、奇しくも「輪」という言葉が出たように、「運命の輪」においても、運の巡り、時やタイミングの巡り、つまり回転によって出会いや別れが生じていることを表しているように見えます。

「運命の輪」の中の二匹の動物などは、そうしたことを感じさせます。

「恋人」カードの天使と、「運命の輪」の「輪」の上に君臨するキメラ状の動物(スフィンクスと言われています)は、カードの位置的にも同じようなところにおり、関連性が想像できます。

それはさておき、人間の縁によって運(運命)が回っていくことが二枚のカードからわかりますし、象徴図形として、まさに「縁」と同じ音である「円」が重要なのも浮上してきます。

人と人とが出会い、縁を生じさせる時、一対一の場合もあれば、一対多になることもあります。

一対一とは、自分が誰かほかの一人と一対一で知り合う、出逢うようなケースで、一対多とは、セミナーや教室、組織など人が多く集まる場所で、自分が多くの人と一度に知り合う、その機会を得るような場合を指します。

後者の場合、場所やシチュエーションが一対多の関係性、縁を生み出すと考えられがちですが、また実際にそうではあるのですが、別の視点で見ますと、結局、そこには自分のほかに、(場所や機会を提供している)中心となる人物がいることがわかります。

その中心となる人物こそ、実は「恋人」カードでは天使(キューピッド)であり、「運命の輪」ではスフィンクスだと考えられます。

ここで、さきほどの「円」の図形を持ち込みましょう。

言わば、一人一人縁による「円」を持っているのですが、交際範囲が狭い人は、それが当然小さいものとなります。しかし、小さくても回分数を上げ、猛烈に回して行けば、人と出逢う機会も多くなるでしょう。

そして多くの人とすでに知り合っている人(いわゆる人脈の豊富な人)は、すでに縁の拡大によって、自分の円も大きくなっており、その人(の円)と接触することで、あなたの円も影響され、広がりを見せたり、回転が変わったりします。

言い換えれば、多数の円とつながっている円と自分の円とが結びつけば、それだけ多重の円、無数の円と共鳴しあう仕組みになっているということです。

小さな円が集まれば、その全体を含む「ひとつの大きな円」での回転が始まり、ある種のサイクル(回転数)とリズム(回転率)を生み出します。

運の善し悪しや、運の変転は、この円(輪)の回転で決まってくると、「運命の輪」からは推測できます。

従って、人との縁は、極めて自分の運勢的にも重要なのです。

自分が人を紹介していくことで、最初は小さかった円も、広げることが可能になります。すなわち、「恋人」カードでいえば、自分が天使役(キューピッド)を担うということになります。

意識しなくても、実は、人は知らず知らず、生きている間、あるいは亡くなった後でも、人との縁を結びつけていく存在となります。(物故者でも、その人の縁で結びつく関係はあります)

行ってみれば、人生は様々な円が重なった、とても美しい幾何学的な美・芸術作品なのかもしれません。

おそらく亡くなった時、その自分が描いた美しい模様を知ることになるでしょう。

円は回転もするので、たぶん音も聞こえるはずです。とすれば、音色・音楽としても、自分の人生を「聴く」ことができるかもしれないのです。

生きている時は不協和音にように聞こえていた音でも、実は壮大な音楽を作曲していたことに感動するもしれません。

現世でじっとてしていては始まりません。

多くの人、体験、機会を通して自分の縁・円を広げ、やがてそれは園となり、エデンの園として永遠に至る道となる可能性を秘めているのです。


「神の家」に思う積み重ね・継続。

まずお知らせです。

今年初期(3月くらいまでに開始するもの)のタロット講座の予定をお伝えしておきます。

すでに確定していますのは、マルセイユタロット基礎講座ハイクラス、土曜日開催バージョンです。

基礎講座ハイクラスは、マルセイユタロットの基礎を深く学ぶコースで、いちから(まったくマルセイユタロットを知らない状態、あるいは少ししか知らない状態から)タロットを学び、急速にタロットの象徴知識とリーディング技術を高めていくという内容のコースです。(ある程度ご存知の方でも、別の視点が得られると思います)

日程的には来月、2/20から隔週おきに土曜日で行い、5月までの合計6回コースとなるものです。場所は新大阪です。もう少ししましたら、正式に募集開始いたします。

これとは別に毎年春4月開始で定期的に開催している基礎講座も行う可能性があります。その場合は、土日連続ワンセットの3ヶ月(合計6日)か、日曜日中心、または要望があれば平日コースでとなります。

今ならスケジュールを調整できますので、ご希望の方はご連絡ください。

これとは別に、入門コースも来月からで企画しております。こちらは気軽にマルセイユタロットを学ぶというもので、料金もリーズナブル、日程的にもライトなものとなっております。こちらも、後日詳細を発表いたします。

その他、個人で講座を受けたい方も随時承っております。遠方の方には、スカイプでの講座もあります。

講座等、お問い合せはこちらです。(このブログの上のメニューバー「お問い合せ」からでもOKです)

さて、本日の記事です。

マルセイユタロットには、「神の家」というカードがあります。

ほかのタロット、特にウェイト版(ライダー版)を習われた方には、このマルセイユ版の「神の家」、一般的には「塔」と呼ばれるカードの読み方と解釈に戸惑われる人も多いです。

というのも、絵柄からしてまったく違うからです。

確かにどちらの版にも、塔のようなものが描かれていますが、ウェイト版のそれは明らかに稲光のようなものの衝撃で塔が崩れているのに対し、マルセイユ版のものは、稲妻のようなものはあるにせよ、塔は堅固に建っており、崩れている様子は見えません。

ですからその解釈や意味に違いが出るのも、むしろ当然とも言えます。

ということで、絵柄の特徴から見て、マルセイユ版の「塔」、すなわち、「神の家」(カードに書かれてあるフランス語の名前を直訳すると「神の家」となります)は、崩壊というより、建設的、組織的、段階的という印象が出ますし、大アルカナで最終的なカードである「世界」ほどではないにせよ、一種の完成状態(を目指す、に近づいていること)が示唆されます。

ちょうど今は新年1月ということで、こういった「神の家」のイメージを見て思うのは、西川きよしさんではありませんが(笑)、「小さなことからコツコツと」という意外に地味な内容です。

もちろんドカーンとインパクトあることも、「神の家」からは想像されますが、建物(塔)の構造を見ると、ひとつひとつ積み上げて完成させるという印象が、特に一年のスタートであるこの時期には浮かんでくるわけです。

ところで一年というのは、一日の繰り返し、積み重ねにあります。

一日はまた一時間の積み重ね、一時間は一分の、一分は一秒の・・・と細分して行けばいくほど、結局どんな長い時も小さな一瞬、刹那の継続と積み重ねにあると言えます。

時間というのは、本当は流れのようなものはないと言われていますが、私たちの現実認識では、過去・現在・未来という区分で、日に日に継続し、積み重なって時間と歴史が出来上がっています。

言わば、一瞬の創造の連続で「歴史」や「人生」、「積み重なってできた何か」があるのです。

創造ですから、そこに神なる力(宇宙の創造力)が働いていると見ることも、スピリチュアル的には言えます。

ほんのわずな一瞬にも「神」が宿ること、これはまた奇跡の連続であり、時間があると思えるのも、連続した感覚や意識がつなぎとめているからだと考えられます。

そうさせて(感じさせて)いるのは、自分の中にある神なのかもしれません。

さて、時間は一瞬の積み重なりであるのなら、ある意味、時間があると言うのは距離がある(積み重なった長さがある)ということでもありますので、それだけ空間的、あるいは心理的な容積として大きなものが存在していると考えることもできます。

このことが継続するということに意味を持ってきます。

それは毎日の積み重ね、わずかなことでもずっと継続していると、とてつもないパワー(空間に溜められたパワー)を持つということです。

継続は力なり、とよく言われていることですが、「神の家」のカードを見ると、それが実感できます。

興味深いことに、マルセイユタロットには「」(フランス語でフォルス)という名前のついたカードもありますが、この「力」のカードと「神の家」が、ある関連性をもって描かれているのを知ると、マルセイユタロットのすごさに思い至ります。

マルセイユタロットにおけるリーディングも、特別な能力があったり、直感力にいつも驚異的な冴えがあったりする人は別として、普通は練習し、実践を積み重ねないと上達しません。

それもいきなり高度なものからやっていくより、基本となるものからコツコツと継続してやっていくことで磨かれるように思います。

まさに「神の家」を構築する要素の「レンガ」のひとつひとつが、その「小さなこと」であり、レンガの積み重ねが、「継続した作業や習練」となります。

そうすると、巨大な王冠が「神の家」の絵柄にも現れているように、あなたは成してきたことの王(支配者・完成者)となるのです。

一足飛びに、または安易に特別な境地や技術を手に入れようとすると、危険なこともあります。それがマルセイユ版の「神の家」にも描かれる二人の人物です。

ですが、コツコツとやってきた、積み重ねてきたことは、なかなか壊れることのない、強い意志と実力を蓄えていくのです。

この1月のスタートの時期から、なんでもいいので、毎日できることを必ずやり遂げると決意して、やりきってみましょう。

お勧めは、何かを唱えることですね。書くというのもいいのですが、やはりちょっと面倒で、つい怠けてしまうこともあります。

その点、言うだけなら簡単です。フレーズも短めのものがいいでしょう。マントラなどでもよいのですが、パワーのあもの、自分に勇気や強さを与えてくれるもの、自分に価値を感じさせてくれるものがよく、いわゆるアファーメーション的なものと考えてもOKです。

たいていの人は、毎日鏡を見るはずですから、その時に唱えてみるのもありです。

タロットを持っている人、習った人は、毎日カードを引き、どんなカードが出たか、記しておくとよいです。(別に読む必要はありません)

こうした小さなものでも、コツコツと積み重ね、一年など長期をやり通すことで、自分の中に「神性」の力を発現させることができるのです。


物事や人生を重たく考える人に。

タロットリーディングをしていますと、クライアントとしても、タロットリーダーとしても、どちらにしても、問題を大きくとらえてしまう人と、逆に楽観的に見てしまう人の、ふたつの傾向があるように感じます。

総じて、一般的な価値観で見ますと、問題を比較的軽く考え(この場合の軽くというのは、事をないがしろにしたり、適当に扱ったりするというのではなく、重く考えないという意味です)、楽観的に人生を思う人のほうが幸せであるように見えます。

人は自分の思い方によって自分の人生を決めている、創造しているとも言え、ある意味、当然といえば当然なのですが、「人生は楽で簡単だ、シンプルだ」と思って生きているほうが、まさに人生は楽で簡単なものになり、「人生は大変でつらいものだ」と思っている人は、その通り、苦しく大変なものになるのでしょう。

言ってみれば、自分の思いや考えを証明しようとするために、外的な環境を、その自分の思いに沿うように自分が選択し、創り上げているようなものです。

鶏が先か、卵が先かの話みたいですが、「苦しく思うから苦しいことが起きる」のか、「苦しいことが起きているから、苦しく思う」のか、普通は後者と考えるわけなのですが、スピリチュアルや心理の世界では、割と前者の説が言われているものです。

そういうわけで、普段から心を軽く、楽しく、シンプルにできれば、人生そのものもワクワクで楽なものになっていくのだと主張する人も出てくるわけです。

確かにこれも、人生を楽しく生きるためのひとつの手段・方法と言えるでしょう。

日本語(の音)は面白いもので、「思い」というのは「重い」に通じ、つまりは重さ・重力のようなものも思考によって現れると感じます。

楽で軽い思いは、本当に重さも軽く、心が重たく感じるほどの思いは、文字通り、実際に重いわです。

ですから、思いが強くて重いものは、かなりの重力を持ち、プレッシャーのかかる人生環境が自分に創られるということになります。

それではやはり軽く楽しく考える・思うのがいいとなりそうですが、私は必ずしもそうとは言えないのではと考えています。

と言いますのは、自我といいますか、表面的・社会(世俗)的自分で見た場合は、確かに楽しく重たくない人生でありたいと思えますが、魂レベルで見た場合、果たしてそうなのかということなのです。

もしかすると、重たくプレスをかけたほうが、本当の意味(魂)でワクワクし、楽しんでいるのかもしれないのです。

人生をゲームで例えますと、ゲーム(クリアー)があまり楽にスイスイと進んでしまっては面白くないでしょう。

逆に難易度の高い、ちょっと障害やブロックがあったり、ハンデがあったりしたほうが、それを乗り越えた時の楽しさや爽快感も段違いかもしれないのです。

これに関係しますが、マルセイユタロットに込められている思想や、宇宙神話を考察していますと、かつてダリル・アンカ氏のチャネリングでバシャール(宇宙存在・宇宙人と言われている波動)が述べていたことを思い出すのです。

それは、「地球人は、自分たちのことを、まだまだ未熟で、学校でいえば幼稚園や小学生レベルだと思っているかもしれませんが、実は大学生、いやそれどころか人生のマスターとして、自ら意志で選択して地球に降りた魂の人たちなのです」というような内容のものでした。

つまり、私たちは、宇宙的にマスタークラスの魂をほとんどの人が持つのですが、そのために、あえて困難な条件と設定の星(地球)に生まれることを選んだのだというわけです。

そう考えると、重たく人生を見てしまう人、深刻にとらえてしまう人、つらく困難な人生を送ってしまう人、何かいつも人生に空虚さを感じ、真理や真実を追い求めてしまう人などは、本当は簡単に人生を楽に生きていくことができるはずなのに、あえて魂レベルで困難さを選び、その経験とエネルギーを宇宙全体にデータとして残そうとしているのではないかと思えてくるのです。

強烈な重力に対抗できる力を得る時、どんなネガティブなものが宇宙にあってもそれを打ち消したり、浄化したりする能力を獲得できるかもしれないのです。

「地球での経験のことを思えば、これくらいは何でもないさ」みたいなことです。

マスターのマスターたるゆえんの修行(使命)と、宇宙貢献のために派遣されたのが我々、というように思っていれば、大変な人生も何か面白くなってくるものです。少なくとも、自分の生きている価値を思うことはできるでしょう。

もちろん、別に人生を重たく考えず、現実的な意味で、楽に生きることは悪いわけではなく、そのほうが楽しいはずですから、重たい人でも途中からそちらに切り替えて、選択していくのもありでしょう。

宇宙人とか言い出すと、眉唾でとんでも説みたいなものになりますが(苦笑)、言いたかったことは、人生を深刻に重たくとらえてしまう人がいても、それは魂レベルで見ればむしろ喜びのようなことがあり、自分の人生を嘆いたり、必ず修正しなくてはならないと思いこんだりしなくてもよい場合もあるということなのです。


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