カードからの気づき
自分の「運命の輪」を回す。
マルセイユタロットで、「運命の輪」というカードがあります。ほかのタロット種類でも同じカードや、これと似たモチーフのカードはたいてい存在します。
このカードは、まさに運命といったものを回転する輪で象徴しているものであり、人における運命というもののとらえ方をよく表していると思います。
運命は不思議と考える人は多く、またこれをつかむこと、解き明かすことは人生に成功をもたらすとして、運命を研究したり、自分やほかの人の運をよくしようと頑張っったりする人はよく見かけますよね。
ところで、マルセイユタロットにおける「運命の輪」のカードをよく見ますと、輪を回すためのクランクがあることがわかります。
この輪はただ自動的に回転しているだけかもしれませんが、一方でクランク構造・持ち手のための柄があるわけですから、輪(運命)は回される、回すものだとも考えられます。
おそらく、多くの人は、運命は回されていると受動的にとらえていることでしょう。
運勢に興味があって見る人も、自分とは別に、「運命」(特に運)は流れたり、回ってきたりするものだという感覚でいます。
ですから、その運気なるものの法則や流れを読み取ろうとするわけです。
それはそれでありだと思いますし、そう感じてしまうのが普通でしょう。
しかし、さきほどの述べたように、「運命の輪」について、誰かに回されていると見るのではなく、自分が回している、自分によって回すことができると考えるとどうでしょうか?
マルセイユタロットにおいては、常に2つの見方ができるように作られており、この「運命の輪」のシャフトとクランクについても同様だと思われます。
普通に生活していると、自分の運命は、他人や神など、自分以外のものによって回されている、与えられている、影響を及ぼされていると、私たちは見てしまいがちです。
「あー、今回は運が良かった」とか、「ほんと、今日はついていない、運が悪いよ」なんて述べる時も、運は自分とは無関係に、まさに「運次第」で、いいも悪いも含めて回転しながら勝手にやってくるというような感じでしゃべっています。
そこには運(命)に対する主体性がありません。
実は、運に限らず、私たちは自分の力(タロット的にはフォースと呼ばれるもの)・能力を外側に明け渡しており、自分は無力で、ほとんどコントロールできない小さな存在であるという思いでいます。
ゆえに、運勢にしろ、力にしろ、他人任せ、環境任せ(外側任せ)、外在する神や天使・精霊・悪魔任せとなり、いつしかそれらに翻弄される人生となってしまうのです。
これが自覚と主体性をもっていれば、翻弄されるようでいて、波乗りのように、人生の波(運命)を楽しんでいるということになります。
波にただただ翻弄されて、その刺激でもって右往左往して生きるのと、波は波として認めつつ、あくまで主体性は自分にあり、波をどのように乗りこなし、楽しむのかを考えるのとでは、大きな違いがあります。
自分に力がない、運命には逆らえない、というようにしておいたほうが都合のよいと思っている人たちや、社会システムというものも奧には隠されています。
占いで例えれば、まさに占いが外側の神となってしまい、占いに自分自身が奪われ、占いや占い師のいいように使われる人間(つまり占い依存)になってしまいます。
占いはあくまでひとつの情報です。主体はそれを活かす人間であり、自分自身なのです。
マルセイユタロットを持っている方は、是非、「運命の輪」を見ながら、シャフトとクランクを回すのは自分だとイメージしてみてください。
弱気になったり、運勢が落ちていると思ったりする時は、自分の力をひどく外側のものに委ねてしまっているものです。
運も力も自分にあるのだと強く思い、それを取り戻してください。
タロットを持っていない人でも、運命は自分が動かすという意識を持つとよいでしょう。
誰かほかの存在に、自分の運命を動かされてはならないのです。それは、自分がただの機械・歯車になっていることを意味します。
マルセイユタロットでは、「運命の輪」の次の数を持つカードが「力」になっているのも、運命が回されていると思っている状態から、自分で回すことへの転換を、ひとつは示唆しているからです。
(占い)依存の中に隠れているもの
占いをうまく活用すればいいのですが、時に占い依存になる方がいらっしゃいます。
それには様々な原因や要因があると考えられますが、実は占いうんぬん以前に、一部の人の中には、本人の依存気質・自立恐怖あるいは自立拒否が問題になっていることもあります。
それがたまたま、「占い」というフィールドや対象で出ているわけです。
そういうタイプの人でも、よい人生をもちろん望んでいますが、どこかで、それは自分で得るものではなく、他の人、外側のものからもたらせてくれるという受動意識が主となっている部分があるのです。
そして、もっと怖いのは、さきほど述べたように、自立への恐怖、もっと極端に言えば自立への拒否という問題が隠されていることがあります。
ここでいう自立の定義には経済的な面もあるにはありますが、それより、どちらかと言えば精神的なものです。
なぜ自立を嫌がるのでしょうか?
いえ、表向きは自立を願っていたり、それにあこがれていたりします。
ところが自分でも気がつかない部分で拒否感があり、これは、自立したくないという心のほうが、真の意味で本人をコントロールしているためです。
人は実は、自分の得になったり、メリットになったりすることを望み、行動します。
ということは、自立することで失われるメリットがあったり、逆に自立しないことで得られている特典やメリットがあったりするのです。
例えば、親子間、夫婦間、恋人間、友人間などの、特に濃い人間関係において、自分が自立することで失ったり、非自立状態で得られているよい状態(あくまで本人が思うもので、常識や他人の判断からのものではありません)があったりします。
自立していないからかわいがられる、経済的に楽でいられる、注目してもらえるなどの心理が働くのですね。
こうなってきますと、いくら占いで幸運の選択やいい人生になるようアドバイスされても、一時的はそれを認めますが、後に自らそれを放棄したり、受けた鑑定に不満をもったりして、また別の占い師のところにアドバイスをもらおうとします。
賽の河原ではありませんが、自分で積み上げては自分で崩すというループ状態に陥ります。
幸せを望みながら、不幸せを創造するという奇妙なことをしているのです。こうしたねじれ構造に気がつかないと、ループが止まらない場合があります。
あと、これはあまり聞いたことがないというパターンを示します。
それは魂があえて依存を望んでいるというものです。
このことは真実かどうかは別として、ある時タロットリーディングをしていて、そのように感じたことがあるので、あくまで参考として聞いていただければと思います。
自立より依存を欲する人生を選択しがちな人は、どこか、目に見えないデータで、共生というテーマをプログラミングしていることがあり、そのため、自分を実験台のようにして、どこまで人に頼れるかテストしていることがあるのです。
これはその人個人の問題として他人が見れば、甘えとしか映りませんが、とても深い部分の目的では、実はまったくの逆で、自分に厳しい修行を課しており、他人のほうが試されているのです。
試されているというのは、どこまで援助できるか、助けられるか、そして拒否できるかという線引き(責任分担)試験であり、つまるところ人類の助け合い、共生の拡大というテーマで、関わる人双方、学んでいることになります。
だからと言って、現実的に甘えていい、無責任でいていい、依存気質のままでいいと言っているのではありません。
「どうして自分は、こうも、人やものに依存してしまうのだろうか」と悩んでいる人に、性格、生育歴、人間関係から来る問題とは別に、高次のためのデータで動かされていることもあると知ると、かえって楽になって自立が促されることがあるので述べています
いずれにしても、人は一人で生きていくことはできず、強い独立心だけがよいわけでもなく、適度な依存、正しくは人に任せる気持ち、共存への入り口としての依存が必要です。
自らの依存が、最終的には人の弱さ・痛みを知ることになり、自立したあとでも、人に手を差しのばすことができます。
人間の生活には必ず二面(二元)があり、依存が強過ぎれば独立・自立を促す厳しい状況が訪れ、独りよがりが過ぎれば、他人との共生・共存・依存を促す出来事(つまりは自分の力だけでは解決しないこと)が発生します。
見事に人の人生は、ある意味自動的に修復されようとするのですね。
ただ、せっかくのこのような装置・恩恵にも気がつかず、ねじれたまま、バランスを崩したままがよいことのように錯覚してしまうのもまた人間です。
マルセイユタロットでは「運命の輪」や「月」で象徴されることでもあります。
役割・使命を、持つこと・持たないこと
人(人生)にはそれぞれ役割というものがあるのかどうか、結構、皆さん、考えたり、思ったりする話題ですよね。
この「役割」を、もっと大げさに言えば、「使命」とか「天命」といった言葉になるでしょうか。
今回は、自分の(人生においての)「役割」について、「あるのか・ないのか」という観点ではなく、「持つ・持たない」のとではどう違うのかについて考えてみたいと思います。
まず自分(の人生)に役割や使命のようなものがあると自認(自覚)した場合はどうでしょうか?
これもいい点と悪い点から見ることができます。
よい点としては、まず人生に目標や張りができることでしょう。
「自分は何のために生きているのか」自分だけではなく人にも言えるくらいのものを持っていれば、目的意識も明確で、長期的にも短期的にも、自分がどう行動すればよいのかがわかります。
何よりも、最大の長所は、選択に迷いがあまりなくなることでしょうか。
たとえ迷っても、選ぶモノサシとしては、自分の役割・使命に叶っているか、沿っているか?というもので考えればいいわけですから、その意味ではブレがなくなります。
そして、自分の役割に合致した人との出会い、集まりが演出され、さらにはそれぞれ(他人と)の役割分担もはっきりしてくることになります。
ではマイナス点は何でしょうか?
これは役割がひとつだとか、変わらないものだとか、言い切れないところにあると思います。
「これが自分の使命・役割だ」と思っていたものでも、後々、「どうも考えていたものとは違うかもしれない」と感じる出来事があったり、違和感を覚える体験をしたりというようなことはあると考えられます。
またあまりに強く自分の役割を決めすぎて、「ほかの役割は人がすること」「その仕事は私のすることではない」みたいに、自分で人生の幅や経験を狭くしてましう場合があることも予想されます。
どんな役割も人には可能性があるものですし、決めてしまうことが、かえって自分を縛ることにもなりかねないケースはあるでしょう。
次に、役割や使命なんてものは最初からないと想定する場合です。
これのよい所は、前述の「役割がある」と設定するケースの逆になり、あまり考えすぎることもなく、人生を自由に泳げる気風が得やすい・持ちやすいと言えましょう。
まさに臨機応変、なるようになる、何でも来いみたいな感じで、楽に生きることができるのではないかと想像できます。
言い方を換えれば、「今経験していることが自分の役割と言えば役割だ」「人生そのもの、生きることそのものが使命」というような感覚です。
欠点としては、反面、迷いやすくなったり、中途半端になったり、人生の選択が快楽を基準としたりするところでしょうか。
使命感がないと、他人や社会、さらには宇宙まで広げるような全体への貢献感に乏しくなり、ただ個人的な思惑の範囲で、流されて生きているという空しさを感じるおそれもあります。
マルセイユタロットで言えば、「杖」のない人生であり、そのため、一見、風来坊的な旅姿で描かれるマルセイユタロットの「愚者」のカードにも、きちんと赤い(情熱的な)「杖」を持っていることが描かれているのです。
さて、このように、自分に(人生としての長期的な視野においての)役割を持つ場合と、持たない場合とを比較してきましたが、これは言わば、「自分(の人生)」をテーマにした考察です。
一方、私自身が面白いなと思っているのは、自分の役割とか使命を考えるより、ほかの人はどんな役割があるのか、使命を持っているのかと見た場合なのです。
自分のことは誰でもわかりづらいものですが、人の事は「人ごと」であるだけに、客観的に見えやすく、わかりやすいのです。
またマルセイユタロットをやっていると、とても興味深いのは、使命とか役割のテーマでタロットを展開させなくても、何度か、その人自身に関する問いの展開カードを観察していますと、同じカードがよく出たり、象徴的に意味が似通っているカード(群)が登場してきたりします。
それが言ってみれば、(象徴的ですが)その人の役割みたいなことになってるいような気がします。
もちろんそれが絶対ではありませんし、変化する(させる)ことも可能です。
そうして人の役割が何かを観察しているうちに、自分のものも逆に見えてくることがあるので、結局、人を見ることは自分にも繋がってくるのです。
ところで、マルセイユタロットでは、選択する役割(人縁)と、選択できない使命(天縁)ということで、対比させられるカードがあります。これもきちんと、ある共通点で結びつけられながら、その違いも描かれているので、非常にシステマチックです。
ここから考えてみても、自分で選べる役割・使命と、選べない天命的なものとが存在するのかもしれませんね。
エネルギーには色がある(と考える)
まず、お知らせですが、10/31(土)に開催いたします神奈川県藤沢市でのマルセイユタロット体験会の募集残り枠が、あとわずかとなっております。参加ご希望の方は、お早めにお願いいたします。
当日、ちょっとしたサプライズも用意していますよ。
では本日の記事です。
科学的に眉唾ものの話になりますが(苦笑)、エネルギーにはカラーがあると私は考えています。
例えば、マルセイユタロットでもエネルギーの象徴と考えますと、大アルカナと小アルカナのエネルギーは違う色ですし、大アルカナは22枚に分かれ、それぞれカラーが違うように感じます。
実際に目に見えている「色」は波長の違いでもあるわけですが、タロットカードにも一枚を全体としてとらえると、青ぽく見えたり、黄色ぽく見えたり、明るい感じとか、暗い感じとかあります。
それはその色が多く使われているという事実と、人の見る感覚によって決まります。
いわば客観的な部分と主観的な要素で決まるようなものですね。
最初に述べているエネルギーの色というのは、どちらかというと、主観的なものなので、人によって違うことになります。
さて、色があれば性格もあると考えることができます。
人を例える時に「あの人のカラーは、色は・・・」みたいなことを言いますから、色を性格的に表現することもできるわけですね。
そうすると、伸び伸びしているとか、窮屈そうだとか、強引とか引っ込み思案とか、まあ、人の性格みたいにも感じられてくるわけです。
つまり、感情によってもエネルギーは変化するということでもあります。
しかし、感情的に見過ぎると、その感情表現に引っ張られて、本質と言いますか、エネルギー自体のカラーがわからなくなることがあります。
例えば、見た目、怒っているように思えても、その奧では悲しみや存在のアピールみたいなことが隠されているようなことがあり、爆発的な色のようで、本質は沈んでいる色のこともあるわけです。
そういえば、オーラソーマのボトルは二層に分かれていますよね。オーラソーマを詳しくは知りませんが、二層に分かれていることは、表と裏の離別性と一体性が示唆され、なかなか興味深いです。
それで、一度感情や表に見える状態とを切り離し、ただ純粋なエネルギーとして見れば、それを変換させたり、コントロールしたりすることもできやすくなるのではないかと思っています。
言ってみれば、エネルギー自体にはもともとカラー・色・性格がなく、それを色づけているのは、実は自分だったみたいなことなのです。
ですから、普段自分がよく意識する世界の色を認識すれば、それに沿って自分の世界が構築されていることがわかり、これが極端だと、まさに何かの色一色な世界になります。
あるいは人から受けるエネルギーのようなものも、その色がわかれば、違う色に自分が塗り替えるような意識を持つことで、色が変化したり、中和したりすることができます。(本来のエネルギーは無色なため)
ところで、「バラ色」とか「真っ白」とか、頭の中や心が色で表現されます。
それは普通は、外側の(起こった)世界が楽しいからバラ色に見えるわけですが、これを逆転して考えることもでき、自分がバラ色だから(バラ色になれば)(外の)世界がバラ色のようなことが起こるというようにも言い換えられます。
逆もまた真なりが、結構マルセイユタロットでも表現されていることなのです。
そういう意味では、自分が各色を、どのように性格付けているか、どのように感じているのかを分析・認識することは大事です。
一般的・客観的な色の意味・性格ももちろん存在しますが、それに囚われすぎると、色から自分や世界を変えるということが難しくなります。
ただ、個人ではなく、全体性(人類の思い描くある種の共通パターンや型・アーキタイプ)を考察し、個と全の関係を色で見ていく場合は、自分の感じている意味と、カラーセラピーや一般的に言われている色の意味との比較は有用です。
単純なことでも、自分の好きな色が、相手もその色がスキだというと、相性は一時的にはいいと取ることができますし(ただし、平凡な関係になることもあり)、実は同じような色が好きなだけなのに、相手のこともスキと錯覚してしまうこともあります。
よく例えられる「相手の色に染まる」「自分色に染め上げる」みたいなことは、見えない世界では本当にあると言え、そうなると二人の間で世界観はエネルギー・色的に共通して、心が通じ合いやすくなるでしょうが、これを意図的に行うと、ある種の洗脳にもなって、怖いことになります。
いずれにしても、エネルギーに色がある、または色をつけるということ意識すると、結構面白い見方ができます。
白天使 黒天使 灰色天使 透明天使
マルセイユタロットには、「天使」の絵柄と象徴がいくつか描かれています。
その表現方法はふたつあり、ひとつは、いわゆる皆さんがイメージする羽のある「天使」が直接カードに描かれているというものです。
そしてもうひとつは、「天使」には見えないけれども、象徴・意味的に「は天使」になるというカードがあります。
そうしたもの、特に後者を見ていて、私たちの人生においても、「天使的」と呼べる人や状況に遭遇していると考えることができます。
つまり、ここでいう天使的な人というのは、現実の人間です。
私は、人の人生において出会う「天使的」な人物を幾つかの種類で分けて考えており、これを白天使、黒天使、灰色天使、透明(無色)天使と表現しています。
では、それぞれ説明しましょう。
●白天使
あなたにとって、まさに救済や恩恵を直接与えてくれると感じる人です。「この人のおかげで救われた」「この人のおかげで成長できた」「この人から愛を教わった、愛を感じる」と思えるような人ですね。
文字通り、「天使のような人だ」と感じる、あなたにとってわかりやすい「良い人物」となります。
●黒天使
この黒天使が実は曲者ですが(笑)、やはり天使なのです。
表現上は、あなたに厳しくしたり、いじわるなことをしたり、悪い状況を経験させたりする人ですが、実はこの人からもたらせされた経験が自分の成長を促していた、自分を鍛えていたと思わせるような人物です。
当人自身も意識してやっているわけではないので、魂の記憶というか、生まれる前のセッティングによって、あくまで「役割」として、あなたの前に現れているという感じです。
人生、つらいことや苦しいことがあるからこそ、逆に楽しいこと、面白いこと、ワクワクすることがコントラストとして実感できるわけで、そういう意味では、喜びをあなたにもっと感じてもらうために、あえて悪役に徹していることもある(本人は無自覚です)というのが黒天使でもあります。
●灰色天使
黒天使は、その役割を自覚していませんが、この灰色天使は意識して黒天使役をやっているような人です。
と言っても、魂的とか、スピリチュアルな意味で自覚しているというのではなく、あくまで現実の人生において、その人(あなた)に成長していもらいたい、きちんと人生を歩んでもらいたいがために、厳しく接しているという頑固オヤジ的なタイプで、愛情の裏返し、「隠れた愛のある人」と言えます。
またもうひとつの灰色天使のタイプは、最初はあなたにとって白でも黒でもない状態なのですが、やがてどちらかはっきりする人や、明確に白とも言えないし、黒でもないし、という微妙でどちらでもあるという、まさにグレーゾーンなタイプも入ります。
さらには中心となる白天使や黒天使の関係者、グループ、取り巻きの人ということもあります。
●透明(無色)天使
どの色でもない無色の役の人で、あなたにとっては何の色も感じない、いわゆる通行人Aというような、背景・舞台演出上の「人間」です。
しかしながら、モノではなく、人であることに意味があります。
あなたにとって何も影響のない人でも、その他大勢ということや、「みんなが・・・」とあなたが言う時・思う時、その存在感は増すのです。
このほかに、本当の天使の存在を信じる人にとっては、天使はその人にとって実在することになります。
それは目に見えない霊的な存在とも言えますから、これまで挙げてきた実際の人間とは異なりますが、そういう存在が感じられる人、その存在にリアリティが持てる人にとっては、先述した人間天使に加えて、現実の世界にも「天使」が登場していることになります。
なお、マルセイユタロットにも3タイプの霊的な天使的存在が描写されています。
典型的な天使、妖精的な存在、悪魔的な存在です。マルセイユタロットでは羽の違いで示唆されています。
個人的には、「羽」というのも次元の異なるという意味での象徴だと考えています。
相違次元の認識(別の次元の存在をキャッチする能力)がいい加減な場合、今述べた3タイプの存在を混交(誤認)して見ている人がいると感じています。
極端なことを言えば、悪魔を天使と見てしまっている人もいるというわけですね。
それはともかく、象徴的には、私たちが接している実際の人たちが天使として表れていると見ると、至る所に天使がいるわけです。
白天使に出会うことはすばらしいですが、黒天使にも気をつけてみると、人生は面白くなりますよ。
なお、自分を中心とした場合は、天使の色での役割は決まりますが、別の人からすれば、白の人が黒になることもありますので、役割自体は流動的なものだと見ておくとよいでしょう。
もちろん、あなた自身も、誰かにとって、何らかの天使なのです。