カードからの気づき

人の相性はあるのか? あるとすれば・・・

私は占いをするわけではありませんので、占い的に見た人の相性というものには、あまり興味がありません。

ただ、占いブースに出たていたこともありますし、タロットを対外的に使っていくとなりますと、どうしても一般的には占い分野と関係してくることになります。

そこで占い的な見方も学んだり、体験したりします。

そのような、いわば「現場」の必要性から、私はタロットで人の相性を見るスプレッドも作り、占いの場所では使うこともありました。

この技法はオリジナルなので、どの本にも当然載っていません。

今は、私のタロットリーダー養成コースのポジションにある「発展コース」において、使えるスプレッド(展開法)のひとつとして教えています。

とはいえ、あくまで占いの現場に立つ必要がある方の、副次的なスプレッドとしての位置づけです。

本来、究極的には、人の相性などないと言えますし、相性の善し悪しは自分がつくる(つくっている)ものだ考えられます。

平たく言えば、「あの人がいい人だ、自分に合う人」だと思えばそうなり、「嫌いな人だ、悪い人」だと思えば、またそのようになるみたいなものです。

けれども、ここで、そういう元も子もない話(笑)とは別に、ミクロ的な観点でもって相性を考えてみましょう。

ミクロ的といっても、実はマクロ(宇宙的と言ってもいいもの)につながる話です。

この世の中には、いわゆるエネルギーというものが存在していると考えられますが、私たちにもわかりやすいものとして、電気(的)エネルギーがあります。

その性質については、一般的にはマイナスとかプラスとか、単純にしか思いつきません。

しかし、おそらくまだはっきりと種類分けできない多くの性質が、電気的なものにはあると想像されます。

それはさておき、とにかく、電気的エネルギーを想定しますと、私たち人間自体も何らかの状態で帯電していると考えられます。

言ってみれば、誰もが何らかの電気的性質を持つ(たぶん物理の世界では当然のことなのでしょうが)ということです。

ただ、それがまだ一般的には未知なる性質(計れない性質)もあったり、見た目にはわからなかったりするということです。

これは男性はプラス・女性はマイナスというような単純なものではなく、人によって個性や性質の色合い(帯電の状態)が異なるとイメージされます。(もちろん大きくは、男女でのマイナスプラスみたいなことはあると思います)

人間の身体はまず、骨や筋肉、皮膚みたいなものの「」があり、それは「物質」と言えます。

また体内には血液・体液をはじめ、ホルモンなど様々な液体・物質が流れています。そして神経も走っています。

水に電気が流れるように、そして神経が電線みたいになるように、私たちの身体は電気的なものが流れる仕組みになっていると想像できます。

表面は電気は通さないかもですが、違う性質の精妙な電気的なエネルギーでは、流れる(流れている)のかもしれません。(肉体というより、別の見えない身体に流れるものという感じです)

そうしますと、一人一人電気的エネルギーの帯電状態は異なると考えられ、それが感情によっても変化すると見ることもできます。

なぜ感情にって電気的なものが変化するのかといえば、例えば怒りが爆発みたいに思えば、電気の火花が散るようなイメージが出ると思いますので、まあ、そうした感じから想像されることです。

簡単に言えば、発電機みたいなところもあるのが人間だということですし、その発電やコントロールには、実は感情(人の気持ち)が影響しているかもしれないということです。

以上のことから、人の持つ電気的エネルギーの性質と個性による特徴から、人同士の相性・関係性に影響することが予想され、それはまた大きくふたつのことが挙げられます。

それは以下のものです。

1.肉体的な通電性
(ここでいう肉体は、物理的な目に見えるものだけではなく、それに付随する見えない肉体も関係します)

2.心理的(感情的)影響による通電性

要するに、相性とは電気的にみての通電性(電気の通りやすさ、交流性)と考えられます。

抵抗が多いと相性がよくないと言えますし、通りやすい、あるいは交流しやすいということは、相性がよいと感じられるわけです。

ただ、2があるように、それは心の思い方次第では変えていくこともできるというのが人の場合(人の相性)の特徴です。

単にまったくの物理現象というより、感情や心が影響するということです。

ですから、相性は良くもなったり、悪くもなったりして、自分と「氣」の合う人は、相性がよいように感じられもするのです。

また男女において、心と肉体が一番近距離で密接に交流する(あるいは抵抗する)のは、セックスとも考えられますから、セックスにおける相性も、肉体的なものと、そしてやはり感情的(愛情・心)なものとが影響しあうことが説明できます。

肉体的(物理)なものと感情的なもの、どちらが上かは、おそらく人の場合は感情的なもののほうが影響が強いでしょう。それができるから人間なのです。

ですから、人との関係において(だけではありませんが)、自分の心が重要なのです。

自分の心や感情が暴走してしまう人、それに引っ張られる人は堕落や自滅・破壊の道を歩み、それをコントロール(きちんと見つめることができる人)は、実は人との関係においても穏やかな関係を構築したり、時には奇跡的なことが起こったりするのです。

まさにマルセイユタロットでいえば、「」のカードの象徴性と言えます。


様々な正義 タロットの「正義」のカード

タロットカードには「正義」という名前のものがあります。

マルセイユタロットのそれは、8の数を持ち、まさしく裁判官のような厳格な面持ちの人物が、剣と天秤を持って座っています。

「正義」というものは実はやっかいです。

まず定義が難しく、古来より論議され、現代でもテーマとしてよく登場します。

マルセイユタロットの「正義」が何を表すのか、諸説あるとは思いますが、個人的には人間レベルの正義ではないと考えています。

従って、個別正義や、それぞれの正義というより、普遍的・宇宙的とも言える正義であり、人間レベルではないのですから、通常の私たちの状態では理解ができないと言えます。

もしかすると死んでからわかるのかもしれません。

しかしながら、逆に、先述した個別の正義、人間それぞれが思う正義というものがイメージでき、いわば、宇宙的にひとつの正義に対し、現実レベルの多数の正義があると考察することができます。

多数の正義、個別の正義は、皆さんもわかると思います。

つまりは、一人一人が正しいと思いこんでいることです。

個人の価値観とも言えますし、個人のルールや決まり事、自分の指針みたいなものになります。

誰でもこれを持っていますし、一人としてまったく同じ「正義」はありません。

たとえ考え方が同じグループに属していても、その信じる程度・解釈は皆、微妙に違うからです。

「正義」はまた社会に対してだけではなく、ある個人に向けてのものもあれば、ある集団や組織、さらには衣食住における正しさの考えという意味では、あらゆるものに自分の「正義」があると考えられます。

さらには、時代によっても、場所によっても、グループや社会によっても「正義」は変わってきますから、一層複雑になります。

そのひとひとつが人によって違ってくるのですから、本当に個人の正義なんて、バラバラだということがわかるでしょう。

ですから、正しさの意味で争うことは、もともと、収まりはつかない(個人レベルでは、全体としてひとつの「正義」はない)ようになっているのです。

個人レベルにおいては、結局、仕方なく、双方の妥協点によっての新しい「正義」・ルールをもって創設し、お互いを納得しているわけです。

しかしながら、ここが非常に重要な点ですが、個別の正義はバラバラだとしても、だからこそ、一定の時間や場所、範疇での正義が設定されてもいるのです。

※現実の世界だからこそ時間と場所があり、その一定の範囲では「ある正義」も意味を持つということです。(逆に言えば、現実以外の精神や量子的世界では、個別や特定の正義はまったく意味をなさないことになります)

「正義」の仮設定みたいなもので、わかりやすいものは、明文化された法律や規則です。

バラバラな正義で皆が暮らしていくのでは、とても面倒だからです。

そこで共通理解の合意形成がなされ、特に法律として決めごとをはっきりさせることで、守るべき正義が、一定の範囲で出てきます。

ただ、明文化されている場合はわかりやすいのですが、難しいのは、明文化されていない集団や範疇の正義みたいなものがあることです。

それでも、一応、それが常識やそこの範疇で守るべきものとして、皆に認識されています。

こうした一定の範囲での正義と、自分個人の正義が著しく異なってくると、その範疇から自分が逃れるか、反発するか、あるいは範疇・集団からはじかれるかになってきます。

人は自由を求めるものですが、こうした範疇の正義、一定の正義というものも形成し、守ることもできるところが、人であることの証しともいえます。

この範疇の正義があるのに、やたらと無責任な自由を求めてそれを理解しなかったり、守らなかったりしたばかりに、自分の居心地を悪く感じてしまう人がいます。

騒いではまずいところに、「自分の正義は、ここでも騒いでもいいのだ」と個人の正義を押し通し、顰蹙を買うような場合です。

範疇の正義を破ること、いわばルールを破ることでの自由を味わうのは、簡単なことです。

しかし本当の自由は、個人の正義、範疇の正義を理解し、そのうえで、多数の正義から導かれる一なる宇宙の正義を浮かび上がらせ、洞察し、理解することで得られるのです

それは現実の正義を拒否したり、不自由だと思ったりせずに、自分の思いと行動のままが、ほかの個別正義や範疇の正義と干渉せず、自由を実感することにあります。

結局、私たち人間は、たくさんの皆さんの正義を観察することで、ひとつの正義に思い至るように遊んでいるのだと思います。

間違っていると攻撃したり、拒否したりするのではなく、全員が一人一人、自分が正しいと思う、まさに個別の正義を持っている、信じていると理解していくことで、マルセイユタロットカードの「正義」の意味もわかってくると考えられるのです。


みんな同じで、みんな違う世界

マルセイユタロットをやってきまして、いろいろと気がついたり、勉強になったりすることがあります。

別にそれがマルセイユタロットでなくても、ほかのカードでも、色でも、数字でも、人でも、なんでもツールとしてはよいわけで、たまたま私はマルセイユタロットが合っていた、縁があったというわけです。

人によって、自分自身や世界を整理したり、理解したりする(相性のよい)ツール・象徴は、それこそ人それぞれだと感じます。

それはこの世界が全体としてはひとつではあっても、個人個人としては皆違っているからでもあります。

この全と一、個と無数という関係性は、すべてを貫いている原則だと私は思っています。マルセイユタロットはそのことをカードの構成としても、象徴・シンボルとしても実感させてくれます。

そしてこの、全と個の使い分け(または統合)こそ、うまく世の中を渡っていく術のひとつでもあると考えることができます。

なぜなら、先述したように、それがこの世の仕組みでもあるからです。

特に現実的・物質的・肉体的に、われわれは実在として生きていますから、抽象的で、空虚(非物質的なもの)で、すべてがイコール(共通性)というものとは、相反する状態にあります。

逆に言えば、個別視点では具体的であり、違い・異質性があるわけです。

ここが安易に、話せばわかるとか、ほかの人も同じ思いであるはずとか、愛はひとつ、宇宙はひとつとか唱えて(思っても)、現実的にはうまく行かない面のポイントなのです。

抽象的・象徴的・全体的にはその通りであっても、具体的・個別的には、やはりわかりあえないと言いますか、そもそもが、その次元では皆違っていますので、まったく同じと考えること自体が間違っている(間違っているというより、そう見ることができない)わけです。

大事なのは、どの次元(レベル・範囲・段階)で統一や共通点を見るか、話し合うかです。

例えば、戦争したくない、死にたくない、殺したくないという点では、ほとんどの人が大元では同じ思いでいます。

しかし、個人レベルや事情別レベルになってきますと、殺したい、死にたい、戦争も辞さないとなってきます。

普通は死にたくないというのが人間ですが、うつ病になったり、自分に生きる価値がないと感じたりするようになれば、死にたいという衝動も出ます。

相手をひどく恨んでいれば、殺人がいくら頭で悪いことだと常識的にわかっていても、殺したいという思いに駆られる人もいます。

反対に、個別事情の次元ばかりに固執し、それに囚われると、自分本位の短期的で衝動的な見方と行動になりがちです。

「現実を見ろ」とよく言われますが、現実はあくまで今の状態であり、それがいいとは限りません。

もちろん現実・今を無視すること(逃避すること)はできませんが、現状の考え・アイデア・解決策・対応ではまずいから、現実に問題としてあるわけです。

そのため、今の状態や現実を超えた発想、理想からの創造、次元の高次化が必要となります。

マルセイユタロットで言いますと、「手品師」とか「皇帝」だけの世界では先に進まないし、発展性がないのです。同じ次元であっても、「女帝」があり、「法皇」があり、「恋人」のカードがあるからこそ、成長することができると言えます。

ということで、私のマルセイユタロット講座でも、特に全体性と個別性に注目して行っています。

全体性として、象徴ツールとしての共通性(ユング的には元型)を解説すると同時に、最近は個別性も重視し、個性に配慮してマンツーマンなどの講義にも力を入れています。

遠方の人にも受けていただくことが可能なのが、スカイプ講座です。

基本、一対一なので、マルセイユタロットの全体性・共通性を講義しながらも、その人に応じたものを、こちら側が配慮することができます。

タロットを学ぶ講座でありながら、個人コンサル・相談を兼ねるみたいなものです。

興味のある方は、こちらをご覧ください。


「13」の愛

今日カードから浮かんだのは、「13」の愛というものでした。

マルセイユタロットには、「13(番)」という、名前のない数だけのカードがあります。

名前のないことには諸説あり、本当はあるが隠されている、その名前を呼ぶとすさまじいエネルギーが巻き起こるため、コントロールできるものしか明かされない、そもそも本当に名前はないのだという説など、いろいろです。

それはともかくも、見た目、鎌を持つ骨と皮の人物が描かれ、西洋風な死神的な絵柄であり、怖いという印象が最初は強いかと思います。

ほかのタロット種では、この数「13」を持つカードは、文字通り「死」とか「死神」として名前をつけられている場合もあるほどです。(ただし絵柄は違いますが)

ということは、名前というより、13という数に大きな意味があることが示唆されます。

13と言えば、これも一般的には不吉な数のように思われていますが、12を超えた数(12はひとつの完成された・固定化された世界を示し、それにひとつ加わった数)として、大きな力を象徴させる数となります。

ですから、いい意味でいうと、創造の数となるのです。ただ、悪い意味(あくまでとらえ方の違いでしかないのですが)でいうと、破壊ということになります。

そんなところから、怖い数として誤解されているところがあります。

さて、最初のテーマ(愛)に戻ります。

そういった「13」のカードですが、果たして、「」ということと、どう関係するのかという点では不思議もしれません。

それどころか、愛とは全く無関係で、先述したように、死や恐怖というようなものと結びつけられがちです。

しかし、「13」に愛を見ることで、実はタロットで物事の本質を見るという意味合いも含まれてくるのです。

以前に、片思いも「愛」のひとつの形・表現であるという記事を書きました。

愛は広義の意味で見るか、狭義の意味でとらえるかによって変わってきますが、本質として、そのエネルギーのようなもの、形のないコア・象徴(行動や形式そのものではなく、その奧にある元型的な意味のあるもの)として見た場合、すべては同じ、愛はひとつということに行き着きます。

恋人同士に見せる愛の形も、母親が子供に見せる愛情も、先生が生徒に、上司が部下に、自分が友達に、または友人や仲間が自分に、人がペットや動物に、育てる植物・作物に、作業を便利にさせてくれるモノに、経験させてくれる自然や環境に、命を継続させてくれる食べ物に、生き物に、それらを生み出す人や自然、宇宙、神なるものすべてに、私たちは愛を見ることができます。

つまり、形や行動、表現、現実的現象の奧に込められた元型的エネルギー、大元から変容したエネルギーを感じてみると、原初に行き着くということなのです。

原初というのは、神のようなひとつの大きなものと言ってもいいでしょう。抽象概念の最大化のところです。

ただ、私たち人間や現実の暮らしレベルになってきますと、元型的エネルギー、つまり神なるもののエネルギーが表される場合、人の想念とか個人的な願望・欲求・価値観などによってねじ曲げられ、変化させられ、弱められたり、裏返されたり、別の色が加えられたりして、見た目がまったく変わってしまう場合があるのです。

言い換えれば現象(現実次元)としては、本質とはかけ離れたように見える(感じる)ということです。

逆にいうと(抽象化・統合化していくと)、元に戻す、純粋にする、原初に還るような視点で物事を見ることになり、それは愛だった(本質が愛だった)ということに気がつくわけです。

その純化作用、原初還元作業に効果的なのが、タロットのような象徴ツールを使うということなのです。

象徴は抽象と具体とを往復することが可能だからです。

そして「13」は、鎌でもってそぎ落とし、骨や皮、言わば本質に行き着こうと作業している姿でもあるのです。

愛に気づいていない人が、今の現象に振り回され、苦しめられています。その状況も、「13」は絵柄で表しています。

先の見えないような中で、もがき苦しみ、自分の経験していることに愛や救いなどないように感じている、これは言ってみれば「13」のカードを問題状態と見た状況です。

しかし、起こっている現象をそぎ落とし、究極まで本質を見ていく時、そこには愛が現れてくるのです。

自分にも人にも愛があったことを掘り起こし、発見することができます。

その証拠はここでは言いませんが、13の絵柄の中にきちんと描写されていますし、タロットの大アルカナを並べた特別な絵図によって、その位置関係からも、愛というテーマは見えてくるよう設計されています。

あなたが苦しみ、傷つくのも、それはあなた自身に愛があるからなのです。

それに気づくために、また苦しみから愛の本質を抽出するために起こっているということも、「13」を通して悟ることができるでしょう。

そこから見れば、「13」はなんと愛にあふれたカードだと感じることができます。

これはもちろん、「13」だけに限らず、すべてのカードに言えることなのです。


手品師からの伝言

マルセイユタロットでは、大アルカナと呼ばれる22枚のカードがあらゆるもののモデルや象徴を示すと考えられています。

大アルカナにふられている数も無造作に当てはめられているわけではなく、その数と絵柄との対応、順序にも、システマチックなところがあります。

さて、その大アルカナで最初のナンバー「1」を持つのは「手品師」というカードです。

ウェイト版や一般的な名称では「魔術師」と呼ばれることが多いですが、それは絵柄の違いがあるからであり、マルセイユタロットのそれは「手品師」と呼称するにふさわしいことがわかります。

「手品師」は、最初に登場することと、手品を披露するスタイルによって、なかなか面白い演出方法をとっています。

そして、言ってみれば、この「手品師」は、これから歩んでいく自分自身の人生について、どう考え、どう扱っていくかを語っている(問いかけている)ように感じるのです。

同時に、マルセイユタロットという不思議なもの(ツール)の扱いについても、示唆しているものと考えられます。

先日、この「手品師」の持つサイコロについて、ブログに書きました。

サイコロが六面体できちんとした(規則的な)立方体を表すと同時に、出目自体は、振られる毎に偶然のものが現れるという二面性があることを語ったわけです。

このように、「手品師」には、その遊び感覚・ゲーム感覚ともいえる楽しさと、反面、何かを学び、熟達していくような修業的な意味合いが含まれている気がします。

タロットも、実は一般的には私たち日本人がイメージする「トランプ」のような、ゲーム(道具)として広まっていった面があります。すなわち、遊びやゲームとしてのタロットの側面が大きいわけです。

一方、これはたぶん日本人に多いと思いますが、タロットは占いの道具だと考え、そのために使うという方法もあります。

そして、精神的、統合的、秘教的、密儀的、霊的な象徴ツールとしてタロットを考察・使用する向きもあります。

ところで、タロットで占いをしたり、リーディングをしたり、タロットを教えたりする人で、商売として行っていいのかと悩む人がいます。

これもシンプルに「手品師」的に考えれば、比較的簡単に割り切ることができます。

それはゲームやアート(芸)をやっている、教えているという見方を採用することです。

タロットによる芸の披露とその方法の伝授です。そして、お客様にはその芸を楽しんでもらう。

楽しみと言っても、この芸はお笑いの意味の楽しみではなく、喜怒哀楽、発展と解放など、人生絵巻の縮図のような体験を、絵で理解してもらう(味わってもらう)性質の「楽しみ」です

タロットによる(お客様の人生の)紙芝居と言ってもいいかもしれません。

ただし、商売とするには、芸を行ってお客様からお金をいただくわけですから、お金をお支払していただくレベルにある「芸」でなければなりません。

芸として人に見せ、お金をいただく状態ではない(と認めている)のなら、まだ商売としてできません。「手品師」のカードのひとつの意味である、芸の習熟、芸を磨くことに力を入れてください。

しかし、商売ではなく、純粋に自分も人も楽しんでもらう芸の見せ方もあります。

その場合は、芸のレベルより、芸を行うことそのものに意味があるでしょう。

さて、もうひとつ、人生と「手品師」についてです。

人生は、設定されたひとつの「あるゲーム」だととらえるか、何かを達成したり、得たりするための修業の場だとみるか、「手品師」からは両方汲み取ることが可能です。

その選択も人それぞれです。おそらくマルセイユタロットで象徴する場合、それについて選択がきちんと決まるのは、「恋人」カードに象徴されるものに出会う時でしょう。

ただ、修業とゲーム、両方選択する(両方の意味合いでとらえる)こともできます。

それから、「人生は何でもできる、どんなことでも可能だ」という人がいますが、「手品師」を見る限り、現実的なフィールドにおいては、様々な絶対的(制限的)な法則が働くことが想定されます。

いわば、物事には限界がある(現実世界において)こと、カードの絵柄では「手品師のテーブルの範囲」のようなものがあるのです。

また、限界がある中て、生きるための道具は、例えば肉体とともに与えられていることも、「手品師」のテーブルに置かれた手品道具類から想像されます。

私たちは、その絶対的ルール(設定された世界)の中で、道具をうまく使いこなし、できるだけ自由に生きることが重要でしょう。そういう意味ではまさにゲームだといえます。

「手品師」のように、私たちはサイコロを振りながら、4つの道具で象徴される特質・ツールを持って、ゲームや学び・修業を楽しんで行くわけです。

それらの4つは、またほかのカードで表されているように、様々に変化していきます。

だからこそ、「手品師」は言います。

人生を歩むことでは、「タロットカード」を使うといいよ、と。(笑)


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