カードからの気づき
常識ある人の存在で成り立つ「愚者」
タロットカードに、「愚者」というカードがあります。
このカードには数がなく、ただ名前だけがあります。ということは、特殊なカードであることがわかります。
数がないということは、どのカードにもなれる、トランプゲームでいえはジョーカーのような役割になることもあれば、反対に、だからこそ、どのカードとも違う異質性や自由性があるとも言えます。
ただ、私が思うのは、タロットの世界は78枚全体でひとつの世界・ワールドを象徴しており、それはすなわち、私たちのこの世界や宇宙も表しているのだと思っています。
ですから、78枚全体をもってひとつの世界(宇宙)と見た場合、「愚者」単独で存在することはできず、「愚者」も全体の一部であり、また、一つによって全体を表すカードだと考えることができます。
すると、面白いことが見えてきます。
「愚者」と書けば、その名の通り、愚か者を意味します。
愚か者、悪い言い方をすれば、馬鹿であり、アホです。(笑) よい言い方では、常識とは違う考えや行動をする人間で、冒険者や自由人とみなすことが可能です。
このような人に、私たちはあこがれたり、嫌悪したりします。
その理由は、通常、私たちは常識ある固定的ルールある世界(社会)に生きざるを得ず、そのため、自分たちと真逆の存在ともいえる「愚者」に、共感と反感、嫉妬とあこがれのような複雑な感情を抱くようになるからです。
つまり、私たちの中には、いくら常識的・固定的生き方をしていても、自由・解放・冒険・無軌道的・非常識的とも形容される愚者的性質に感応する(良きにつけ・悪しきにつけ)心があるということになります。
マルセイユタロットでは、「愚者」を含む22枚の大アルカナに、人の元型とも言えるパターンやモデル的人格を認めることが可能です。
従って、「愚者」が自分の中にいるというのもうなずけますし、逆に、「愚者」を否定したい気持ちになる自分も存在するわけです。
さて、話を元に戻しますが、「愚者」は78枚の宇宙・世界の一員でもあると言いました。
ということは、平たく言えば、ほかのカードあっての「愚者」なのです。
「愚者」が「愚者」であるためには、賢者や常識人、特定のルールに従う真面目な人たちがいてこそ成り立つわけです。
全員が「愚者」であれば、「愚者」という人(性格・個性)は存在できません。
「愚者」はその自由性、非局所性、移動性を表すために、一般的に旅姿で描かれています。
どこなりとも自由に放浪する人物であり、それに不安や恐れもなく、むしろそういった行き当たりばったりの人生を心から楽しむことのできる者です。
しかし、マルセイユタロットで見た場合、「愚者」が進んでいく(旅をする)とするのなら、それは、ほかのカードたちのところとなります。
もしほかのカードに入らなければ(移動しなければ)、「愚者」はほかのカードに変わったり、ほかのカードに象徴される経験をしたりすることができません。
また「愚者」以外のカードから認識されることもなくなります。
「愚者」はほかのフィールドに旅をしてこそ、「愚者」として実体化するとも言えます。
さて、ここで象徴世界から現実世界へ次元を下降します。
すると、世の中には実際に愚者的な行動や考えをしている人物がいることがわかります。
一方で、多くの人が、たまに愚者的になったとしても、「愚者」とは異なる常識人として、ほぼずっとふるまっている(生活している)ことが理解できます。
さきほど、タロットで象徴的に例えた場合、「愚者」はほかのカードが存在してこそ、「愚者」として成り立つと言いました。
実は現実でもそうだと言いたいわけです。
一人の変わり者が、変わり者として存在できるのは、多くの常識的で普通な人の暮らし・生活・人生があってこそなのです。
10人普通の人がいれば、一人くらい、何もせずブラブラしていても、皆からの援助で食べていくことはできるでしょう。
その代わり、「愚者」たる人物は、皆が普通ではできないことを経験してきて、楽しいお話や斬新な考えを伝えたり、ピエロ的になることで人を楽しませたりすることが可能です。
昔、日本でもお伊勢参りなどの参詣旅行において、村や村落・町内の講と呼ばれる組織を代表して、やっと一人か二人かの人物が行くことができていました。
この時、弥次さん喜多さんではないですが、代表の旅人は、「愚者」となるのです。そうして「愚者」となって異質な経験をして村に帰り、それを普通の人々と(精神的に)共有します。
こうして閉塞的な村や組織に新たな息吹を入れていき、全体として活力を取り戻させ、成長発展も見込まれる(見聞が技術や知識も拡大させる)ように変化してくるわけです。
ハレとケの循環サイクルから考察すると、「愚者」となった人物は、言わば神様の化身と言ってもよいでしょう。
大切なのは、皆が「愚者」になることではなく、全体として、「愚者」とそうではない人とのバランスで生じるのだということです。
「愚者」がその日暮らしの自由な生活ができているからと言って、あなたや全員が、いきなり、行き当たりばったりで暮らしていけるわけではありません。
「愚者」の行動をそのまま真似するのではなく、「愚者」が示す、自由の表現、精神・エネルギーを、常識の世界に住む者たちが受け取り、行き詰まった社会に改革のくさびを打ち込むことが重要なのです。
もちろん、役割として、自分自身が「愚者」となるという選択もありですが、全員が行動や現実として愚者化できないのは言及した通りです。
「愚者」の心は皆が持ちますが、社会の中で、その人の個性に応じた「演じる」役割があると思えばよいでしょう。
手品師とサイコロ
マルセイユタロットの大アルカナ、1の数(本来はローマ数字ですが、文字化けの可能性もありますので、普通の算用数字で表します)を持つカードは「手品師」です。
一般的タロット名称では、「魔術師」とか「奇術師」とか呼ばれているカードです。
ウェイト版の場合は、文字通り「魔術」を行っている様子が描写されていますので、「魔術師」で妥当でしょうが、マルセイユ版だと、やはり手品とか奇術を行っているように見えるので、「魔術師」というより「手品師」と呼ぶほうがいいかと個人的には思います。
実はこのカードにおいて、「手品師」も魔術とつながっていると考えられるのですが、それはここでは言及しません。
とにかく、「魔術」と表現するより、「手品」とか「奇術」と言いますと、表記的にも、言葉の意味的にも、どこかうさんくさいもの(笑)が漂ってきますし、また一方で、ひょうきんで、ちょっとかわいげがあり、憎めないところも感じます。
一見、巧妙に人を騙しているようで、ちょっとネタとかバレそうであり、手品であることを自分も客も理解したうえで、場を楽しんでいる雰囲気もうかがえます。
「手品師」はテーブルの上に、さまざまな道具を置いています。手にも棒(杖)を持っています。これにはひとつひとつ、見た目の道具としての意味だけではなく、隠された意味もあります。
ぱっと見には、無造作で、デタラ目に置かれているように感じる道具類も、実は綿密な計算と巧みな配置によってなされていることが、後世の研究者によって解明されています。
その図像を見れば、地球に張り巡らされていると言われるグリッド線のように見えてます。
このことから、おそらく、「手品師は」私たちと地上(地球)の関係を示唆しているのだと推測することができ、またその魔術的な使い方(従って、やはり「魔術師」でもある)も、わかる人にだけ暗号のような形で残しているとイメージできます。
そして、地球は、私たちが普通に思っている丸いものとは別の、やや立方体的なものであることも語っているように思います。またそういうようにとらえれば、ある「力」の理解として効果的だとも言っています。
さて、これはマルセイユタロットの中でも、ホドロフスキー・カモワン版タロットの特徴と言えますが、「手品師」の道具のひとつに、サイコロが並んでいます。
ほかのマルセイユ系タロットの「手品師」にもそれ(サイコロ)らしきモノがあるようには思えますが、はっきりサイコロ・ダイスとは見えないものが多いです。
しかし、一応グリモー版には、ふたつのサイコロがあるように見えますね。
ホドロフスキー・カモワン版では、ふたつではなく、3つのサイコロがあり、それも出目がすべて同じようになっています。秘伝では、この出目や並びにも意味があることになっています。
サイコロは立方体であり、私たちはサイコロといえば正六面体を思いますが、多面体サイコロとしては、ほかにもいろいろなものがあります。
四大元素を立体で象徴させたプラトン立体との関連もうかがえます。
ところで、北海道の地方テレビ番組から全国区(人気)になった「水曜どうでしょう」という番組があります。
現在、映画などで活躍中の大泉洋氏を有名にさせた企画バラエティ番組です。
この番組の中でも、「サイコロの旅」という企画がありました。
これはサイコロを振って、出た目の数の行き先(フリップにあらかじめディレクターが書いている)に絶対行かなければならないというルールで、まさにサイコロ任せの行き当たりばったりの人気旅企画でした。まあ、最近ではこれを真似してのバラエティも増えましたが。
私はこれを見ていて、「手品師」のサイコロをイメージしました。
サイコロから出る目は何かわからず、そこにはリスクもありますが、何が出るかわからない面白さもあり、出た目の数に象徴されることを経験する悲喜こもごもの事柄があります。
すごろく遊びでも、サイコロの出目に私たちは一喜一憂します。
「そこのマスには入らないでくれ・・・」と願ったのに、なぜかピッタリの数の出目が出てしまい、吸い込まれるように入ってしまったとか、「6の目出ろ!」と念じたら、本当に出てゲームを有利に進めることができたとか、不思議な経験をされた人もいらっしゃるでしょう。
想念と現実の仕組みの象徴にも、サイコロは興味深いツールと言えます。そもそもサイコロという立方体自体が、現実を象徴していると考えられるのです。
つまり、「手品師」のサイコロは、私たちが自分で創造する世界での、ワンダーな体験・経験を示しています。※サイコロにはほかの意味もあり、ここではひとつの考え方を言っています。
テーブルの上にあるというのも、この地上の、ある法則(物理や時間)の中で制限されたものであるということが見て取れます。
その上で、私たちはサイコロを自由に振り、出た目の数で象徴される世界を体験するのです。それはワクワクもあればドキドキもあり、悲しみもあれば苦痛もあるでしょう。
「水曜どうでしょう」では、大泉氏と一緒にサイコロの旅をする“ミスターどうでしょう”こと鈴井氏の二人が、苦労すればするほど視聴している者からは面白く感じます。ただ、旅をしている当事者にとっては、テレビ番組の企画といえど、大変なことであるのは間違いありません。(同時に本人達も楽しんでいるところもあるでしょう)
言ってみれば、「手品師」とサイコロ、あるいは行っている手品のシーンによって、この視聴者(お客様)目線と「手品師」本人目線の両方の融合・統合で見る人生が語られているわけです。
タロットで「旅」といえば、「愚者」というカードがイメージされます。
「愚者」と「手品師」のカードを並べた特、「愚者」の持つ袋からサイコロや手品道具が取り出されたと見ることもできます。
手品道具を出し、サイコロを振る場所は、あなたの現実のフィールドです。
「愚者」のままでは夢想や想像の世界に遊んでいてもよいですが、ひとたび、「手品師」になれば、そこは現実世界のフィールドとなるのです。
「手品師」は、その現実世界であなたが選んだ(または選ばされた)所での、経験や習熟の可能性を秘めています。
そうして、また「手品師」は道具を袋に収めて、「愚者」として旅立ちます。次の新しいフィールドで芸を磨くのです。おそらく、今までのサイコロで経験したものは、袋の中に入っていることでしょう。
自分が今いる場所・環境・仕事・人間・・・ここにもサイコロの出目の数だけ経験する象徴的可能性があります。
たとえつらく苦しくても、手品をして芸を磨いているのだと思い、視聴者(手品のお客様)目線をもって臨むと、少しは楽になってきます。
また本当につらければ、「愚者」となって自ら旅立つこともできるのです。その選択と行使ができることも、ほかの一桁番台の数を持つカードが語っているのです。
幸せになるエゴの完成
■まずお知らせです。
先日告知しました「無料スカイプタロットリーディング」の企画ですが、複数の方にご応募いただきました。ありがとうございます。
そして抽選の結果、沖縄県のSさんが当選となりました。Sさん、どうぞ、よろしくお願いいたします。
選外の方も含めまして、ご応募された全員に、タロットからの一言メッセージをつけてご連絡しておりますので、ご確認くださいませ。
では本日の記事です。
マルセイユタロットでも、その大アルカナをメインとして、ひとつの人間成長の物語絵図のように見ることができます。
そして、それにも各種の段階があることに気づきます。
「スートリー」ですから、当然、ポイントとなる地点や転換点、ステップ・段階においての達成点ということも出てくるわけです。
私がこのところ思うのは、カードでいえば「運命の輪」の段階と、「悪魔」の段階が、とても現実的な意味で重要ではないかということです。
簡単に言えば、現実的な幸せを得ること、言い換えれば幸福感のリアリティは、まさにこの二枚の段階(目標)で言い表されるように思います。
現実的なことですので、物質と感情の満足にも関係し、それは言わば、「現世利益」の部分もあるわけです。
詳しくはマルセイユタロット講座のそれぞれのカードの解説、あるいは今後、新講座として企画している「自己実現をタロットで図るコース」で述べることになりますが、現実の幸せのために「運命の輪」と「悪魔」が象徴することは、自己認識の強化と拡大になります。
これも平たく言ってしまえば「エゴの完成」ということです。
エゴと聞けば、スピリチュアル的な用語の活用では、低次の自分、自分を囚われの状態に維持する悪もの的な扱いですが、ここでいうエゴは、まさに自分を自分と認識する思考・感情の集大成といったものです。
悪いとかいいとかという概念で計るものではなく、あくまで用法上の表現です。
この、自分が自分であることを強く意識する思いがエゴなわけですが、エゴが完成すると、究極的には世界は自分のものという感覚になります。
別の言い方をすれば、自分が世界になるのです。
それは自分の思考・感情で活動しても、誰の邪魔にもならず、また自分も迷いや葛藤もなく、やることなすことがすべて許容でき(許容され)、従って、何事もスムースに進み、それを楽しく感じられ、つまりは幸せになるという状態です。
なぜなら、あなたが世界であり、世界があなたになっているわけですから。(笑)
実際にはこのような究極は難しいでしょうが、少なくとも、自分のエゴが強くなればなるほど、世界があなたに近づいてきます。
世界はあなたのご機嫌を伺い、あなたに気持ちいい状態になってもらうよう、かしずいてきます。
でも、世界(あなたを中心とする世界)の人も無理矢理ではなく、それを喜び、楽しみます。
その人たちは、あなたのファンのようなものなのですから。
ということで、最初に戻りますと、幸せを感じる状況(世界)にするためには、エゴが強くなればいいということになります。
エゴを強くして、自分の価値観や信じる世界の色を濃くし、それを自分の周囲の世界に同調させていく(世界を自分に同調させる)という意味です。
イメージとしては、自分を中心としたドームが広がりを見せ、そのドームに入ったものは自分のカラー(世界観)に染まっていくような感じです。
たいていの人は、自分が人の世界観に取り込まれています。
そうではなく、今度は自分の世界に人を取り囲むのです。(それがいいか悪いかをここでは述べていません、あくまで幸せの実感の方法論で述べています)
ではエゴを強化するということはどういうことかと言いますと、一言でいえば、「自分らしくあれ」ということになります。
つまりは自分の個性を強く「個性」として認識することであり、自分が人と同じでありながらも、違っていることを知る気づきと理解です。
人は人類として皆基盤は同じですが、一人一人容姿や考え方もまったく違います。たとえ双子や似ている人がいても、細かい点ではやはり異なるのです。
それが人に与えられた個性です。
エゴの完成は、言い換えれば個の確立であり、統合よりも分離(一時的)の方向です。
ですから、スピリチュアルリストには否定されちがな方向性ですが、統合のためには分離が必要であることもまた段階や真理と言えましょう。
何より、この現実世界での幸福を願い、それを実現するのなら、個人個人のレベルで、自分というものを知り、その個性を際立たせることが求められます。
このことから考えれば、あまりにも自分を殺し、他人のために犠牲になったり、人の思想に従い、奴隷のように洗脳された生き方をしたりするのは、幸せとは逆方向であることがわかります。
そこまで極端ではなくても、自分の意見や主張、思いをあまり表現せず、ただ出されたもの、用意されたもの(状況)を容易に受け入れ、それを選択していくことは問題であることが理解できるでしょう。
個性を確立させるのには、自分を知り、他人を知らねばなりません。そのために自己探求や社会での経験・観察が必要なのです。
タロットはそのことで本当に役に立ちます。
ただし、マルセイユタロットは、「運命の輪」や「悪魔」の段階が本当の目的や最終段階ではないことは言っておきます。
エゴ・個性の完成は求められても、それが絶対や完全ではないのです。
要するにどのレベルまで自分を求めるか、ということになります。
実現可能か不可能かの問いは、合理的に見えて、それはあくまでやはり現実レベルでの閉じられた範囲での話となります。
「実現」(現実空間)という概念からも、はずれることが重要です。
ただ、普通に幸せを「実現」したいのは人としての当たり前の感覚・思いですので、それは人を動かし、自分が動く原点みたいなところがありますから、避けることはできないものです。
「人は幸せになるために生まれてきた」ということも言えますが、反面、「人は不幸になるために生まれてついている」とも考えられ、不思議な言い方をすれば、「不幸を実現することが幸せの近道であり、幸せの実現はすなわち不幸の固定」とも言えるのです。
それは表裏一体で、どれも真なり、かつ、偽でありだと私は考えています。
人間的に生きながら神(高次)を見る
西洋的にはタロットや占星術となりますが、その象徴性は極めて高度で、整理されたものと言えます。
しかしながら、一方で、人の現実的な悩み事や関心について、それらのツール・象徴性を利用して占いをしたり、具体的なことに当てはめることも可能です。
いわば、高度な理念(プラトン的にはイデア)と、低俗な人の欲求にも両方応えることができるものが、タロットや占星術などの象徴です。
ところで、現在の私は、マルセイユタロットを占いとして教えることはしていません。
しかし、一般で言うところの「占い」的な考えも大事だと思っています。
その大事さの意味が、昔よりも変化してきたことが言えます。
かつては占いとして使われるタロットから脱却することに力を入れていましたし、そういう理想を思って、教える際にも心がけようとしていた時もありました。
しかしながら、ことはそう単純なものでもないのです。
次第に私もそれに気がついてきまして、今は占いはしない、教えないにしても、占いを否定しているわけではなく(もともと否定していたわけではありませんが)、ただ、次元の適用の違いがあるだけだと、はっきり認識できるようになりました。
また講義でもリーディングでも、結果的には占いをしていることもありますし、プロセスとして、あえて占いを利用することもあります。
もちろん、占いの中にも高次はあり(もともと占いは高次なものから発生しています)、逆に高い理念を思っていても、その把握方法と適用を間違えると、やはり俗ぽいものとなってしまいます。
まさに「人間」と同じで、人は、神性と表現される高い次元の部分を持つと同時に、個人的な欲求や願望で活動したり、のまれたりする低次な部分、悪魔的部分、動物的部分も併せ持ちます。
それでも、マルセイユタロットで表現されていることですが、面白いのは動物でも、いや動物だからこそ純粋なものを持ち、また悪魔でも、悪魔だからこそ高い能力、高度な知性、輝くばかりの魅力、ほぼ神に近い完全性を有しています。
一概に何がよくて何が悪いかなどと言うことはできず、そのすべてが神なるもの、完全なるもの必要素や表現と見ることが可能です。
神秘思想に照らし合わせても、人の中には、こういった様々な要素が封じ込められていると言えます。
ですから、たとえ低俗に見えるようなものでも、そこには高次に至るヒントが隠されており、またやたらと高次や純粋なものを求めても、それだからこそ、もろく、すぐに折れてしまう(挫折や変節をする)ことがあると言えます。
人の相談や悩み事が、現実的で願望実現的なものになるのは当たり前です。
それに応えようとすると、例えば占星術において星の象徴性が、その運動性とともに、地上に投影されて(ハウスなどの手法でさらに現実化されます)、具体的なこと、個人的な関心ごとに、その象徴性の次元が落とされていきます。
タロットでも、抽象的で高度な意味が、卑近で現実的、二元選択・吉凶的なものへと変貌されます。
「魂が囚われている」と言われるより、「あなた自身が殺されている」と言われたほうがさらに強烈でわかりやすくなり、もっと現実的になれば、「今の会社はあなたに合っていない、辞めて別の●●のような仕事をするべき」となります。
人は一般的に、断定的・具体的・ストーリー的に述べられたほうが、わかりやすく思うものです。
言い換えれば、次元が低く、具体・個別レベルにひかれるということです。現実世界に生きているので、それは当然であり、悪いことではありせん。
問題はこの次元に固定された考えや生き方をして自覚できない場合であり、そうなると一生、その次元での世界で泳ぐしかなくなります。
それでも人生は悲喜こもごもで、それなりに楽しく、波乱もあって充実したところもある人生だと思います。
しかし、子供の時の世界観が、今見ればとても幼く純粋であったように、違う次元に至れば、それまでの世界の矮小さに気がつきます。
もっと言えば、それまでの世界で自分が騙されていたことに、気が付く場合もあります。
世界が拡大すれば、それだけ文字通り、自分の住む世界(リアリティを感じる世界)も拡大します。ということは、自分を活かす資源もや可能性も増えるということです。(危険や責任なども増えますが、その対応策もこれまで考えもつかなかったものが存在する世界になります)
インターネットがある世界と、なかった時代の世界と例えてもいいでしょう。
こうした次元移行のためには、実は、いきなり高次を目指すのではなく、一見低次とも思えるものを、高次に向かうためのエネルギーに変えていくことが求められます。
低次世界そのものに囚われるのではなく、その世界で自分が出すエネルギーを違うものに変換していくという意味です。
欲求や願望に対応しよう、かなえようという思いと行動が、実はエネルギーになるということです。
昔、「性の昇華」ということで、学校で学習した人もいると思いますが、あの概念に近いです。
そして、そのためには、高次とは何かということを想像できるイメージやモデルが必要です。目標がわからなければ、どうしようもないからです。
ただ、他の動物が人間の状態になれないのと同じで、高次そのものを、そこに至っていない者が体感することは難しく、そこで象徴をともなったイメージやモデル図が役に立ってくるのです。
神(の境地)とはこんなものではないか、と想像できるものです。
これが具体的すぎると、また低次になってしまうおそれがあるので、宗教によっては偶像崇拝を禁止しているところもあるわけです。(偶像は形や絵であり、具体的・人間的なものなので)
できれば抽象的で、自然や宇宙と同様、一貫し、透徹された規則性が内包されたものがよいと考えられます。
ただあまりに抽象的だとイメージするのも難しいので、そういう意味では、タロットは中間的によくできていると感じます。
とにかく、清く正しく美しくに徹するのでもなく、欲求や願望を満たす、現実を充足させることだけに取り組むのでもなく、理念を思いながら現実を生き、現実を生きながら(活用しながら)理念に飛翔するというのが、私の見るマルセイユタロットからの示唆です。
知ることの意味、再生と創造
人には知りたい、物事を明らかにしたいという欲求があります。
欲求なので、他の「欲求」と同様、暴走すると問題になりますが、本来は、やはり「人」であるところの特徴であって、そのために成長や発展も見込まれるものだと思います。
そもそも先述したように、ある意味、「欲求」は「人」たる証左のようなものであり、悪いものでもいいものでもなく、バランスの問題によってよくも悪くも変化するものだと考えられます。
知りたい欲求、知的欲求も同じで、情報や知識を過剰に入れ過ぎ、それに振り回されていては問題となりますが(現代はそれが顕著です)、その欲求があるからこそ、人類も進展していくものと言えます。
人に知りたいという欲求があるのは(知りたい欲求にかかわらずですが)、肉体を持って生まれ、自分が完全ではないと思いこまされている世界を、リアリティあるもの(つまり現実)と感じているから(言い方を換えれば「神」から切り離された状態になっている)にほかならないと思うのですが、これはマルセイユタロットに流れる「グノーシス」思想と関係する深い話となりますので、今回はそれにはふれません。
さて、知ることに対して、時に人によっては、「知らない方がいい」「下手に知るとまずい」「子供のような純粋な状態が望ましい」と言われることもあります。
もちろんこれに当てはまるケースもあるでしょうし、自分の段階やレベルを超えて知識を得てしまうと、その意味がわからず、うまく活用できないこともあります。
また、真実(この定義は難しいので、ここではまだ知らなかった事柄・事実という意味で使います)を知ったために、ショックを受けたり、裏切られたという思いをもったりするようなこともあります。
何か別のことが隠されいるのを薄々感じながらも、それに直面することが怖くて、あえて知らないフリをしている場合もあるでしょう。
そんな時は、例えばマルセイユタロットならば、「正義」のカードが出るかもしれません。
いずれにしても、知りたい欲求と、反面、知ってしまうことへの恐れ、知ることがタイミングとして適当ではない、知ったために純粋さが失われた・・・という「知ることにおいての葛藤」が誰でもあります。
ここで私が、タロットから見て思うのは、それでもたいていは知ったほうがいいということです。
前述したように、いろいろなケースがあって、必ずしも状況によって「知る」ことの選択がベストとは言いませんが、究極的な意味と言いますか、最終的には知ったほうがいいのでないかと述べています。
「知りたい、でも知りたくない」という状態は「葛藤」なので、それを乗り越えるために「知る」ことで葛藤の門をくぐり、新たな境地(統合・新しい創造の世界)へと進むことができるからです。
もっと別の言い方で例えましょう。
新しい情報なり知識なりが入って、一時的に混乱はしても、人間は何とかそれを調和させようと、融合作用を開始します。
すると旧バージョンの自分がバージョンアップされて、新しい情報も自分の中で収めたうえでの判断ができるようになります。
その新しい情報や知識が、自分にとってあまり有用ではない場合、切り捨てる(眠らせておく)ことも人は可能です。
何も付け加えることだけが創造ではなく、破壊し、捨てることも創造の一部です。
さらには、ヤスリやサンドペーパーで磨かれるがごとく、新しい知識などが、自分の今までのものを磨き、その新しいもの自体は使い終わったサンドペーパーのようになったとしても、残った従来のものは研磨されて、まさにブラッシュアップされた知識・情報として非常に効果的なものになります。
知らなければ良かった・・・と後悔することも人にはありますが、知るシーンや状況に遭遇することは、総合的・全体的に見れば、きっと意味があることだと思います。
それは自分の表面意識では知らなかった(自覚していない・認識していない)ことでしょうが、実はすでにあなたが奥底で、「知らなければならなかった事柄・知識・情報」「直感的に何かあると思っていたけれど、恐れで避けていたもの」として感じていたことだったかもしれないのです。
いわば、自分自身の「知りたい欲求」が自らを動かし、そういう「知る状況」に出会わせたと考えられます。
ですから、知ってショックなことではあっても、それは別の自分、奥底の自分、顕在意識ではない意識の部分が求めていたことかもしれませんので、どこかで満足している自分がいて、その新(真)情報によるカオスから、火の鳥のように新しいもの(解釈・選択・生き方など)が生み出されてくるはずなのです。
「真実はこうなのかもしれない」「もしかしたらああいうことかもしれない」「でも知るのは怖い」「まだ知る段階ではない」・・・という不安と葛藤の状態から、偶然であれ、意図的であれ、結局「知ること」によって、対立からの統合を果たし、新しい自分(の考え方)を創造していくのです。
それは象徴的に言えば、死と再生のプロセスであり、古いものからの囚われを解放し、自分らに革命を起こすことにつながるのです。