カードからの気づき
「戦車」でも自制の場合があります。
マルセイユタロットの「戦車」や「力」などのカードを見ると、いかにも勇ましく、力強い印象を受けます。
そのため、一般的には積極的でイケイケゴーゴー!(笑)みたいな意味にとられることが多いのですが、象徴をよく理解していくと、自制やコントロールといった内容も見えてきます。
これはこの二枚に限らずですが、タロットから得られる示唆・意味がまったく矛盾するようなことであっても、実は奥底ではつながっており、そのリンク性・関連性のコアを把握することが、カードの本当の理解の意味では重要だと言えます。
それにはちょっとした考え方のコツがあり、その見方を得ないと、結局カードを二元にわけて、吉凶的意味合い(いいか悪いか)でとらえてしまうようになります。
それは言わば、おみしくじ的な解釈であり、実はとても楽な読み方になります。
しかし、ずっとそれを続けていくと、カードの意味づけが決定してしまい、エネルギー的にもそういうものを呼び寄せる(リンクする)ようになるので、例えば、これは「不吉なカード」「悪いカード」だと決めつけると、その通りのことが起こったり、生じたことの意味を確定させたりすることになってくるのです。
これは、カードの当たる原理のひとつです。(当たる原理はほかにもいろいろと考えられます)
それはさておき、本題です。
先述したように、「戦車」や「力」にも、自制・コントロールする要素が働いています。
カードを展開してこれらのカードが出ることはもちろん、カードを扱わない人にとっても、自制すること、ちょっと間を置いて考えてみることは重要です。
最近は、情報過剰な世界になってきており、世間の広告も含めて、煽るようなことがたくさんあります。
たいていはお金やエネルギーの消費に向けられるものです。
また巧妙にカモフラージュされていたり、知らず知らずにそうしたものの片棒をかつがされていたりすることもあり、注意が必要です。
「自分らしく」とか、「やりたいことは今やらないと損」とか、「人生、後悔しないように」とか、はたまた「心にブロックをかけないように」「直感が導くままに」「ワクワクを信じて行動」とか、そういううたい文句でもって、煽る場合もあります。
もちろん、それらの中にも、魂やスピリチュアル的な面で、よいことを述べている場合もありますし、それに従うことが今の自分にとって正解だということもあるでしょう。
しかし、すべてが合っているというわけでもありません。
やりたいこと、見たいこと、経験したいことが、単に表層的な欲求から出ている場合もあります。
また自分の願望や欲求ではなく、先述したように、宣伝・広告として煽られたり、他人や組織から洗脳のように動かされたりしていることもあるのです。
そこで、「自制すること」「もう一度よく検討すること」「選択に時間を置くこと」「直感だけではなく、理性を働かせること」が求められます。
すると、自分が何者か(他人の欲求や感情も含む)に動かされていたことや、瞬間的な欲求(たいていは肉体的・感情的アンバランスや欠乏感がら出ています)にふりまわれさていたことに気がつきます。
二度・三度試みようとしてもうまく行かない時は、また別の機会を考えたり、今回は見送ったり、やめたりしてもよいことが、意外に多いものです。
本当に必要であれば、またスムースにできるようになる時がやってきます。
簡単に諦めないということも大切ですが、急がば回れ、無理にこじあけようとしないことも、時には重要なポイントになってきます。
まあ、たいていは今まで慎重気味だった人は、必要以上にブレーキをかけているケースが多いので、思い切ってアクセルをふかすことで人生が好転することがあり、反対に、ほとんど何も考えず、パッと思ったままに動いていてきた人は、ブレーキをかけたほうが無駄が少なく、次のレベル・次元に自分を進ませることが容易になっていくものです。
私たちはほとんど寝ているということ。
顕在(表面)意識と潜在意識ということがよく言われます。
スピリチュアルや心理の分野で大流行(おおはやり)の枠組といってもいい概念かもしれませんね。
そして大体は、潜在意識をどう扱うか、そこに刻印されていることをどのように知り、変えていくかみたいなことがテーマとなっているように思います。
それも大変興味深く、確かに潜在意識のデータとコントロールで、無意識に私たちは生かされているところもあるかもしれず、問題解決や自己変容にも貴重な分野・情報を、潜在意識へのアプローチで提供してくれるかもしれません。
しかしながら、やはり「潜在」という言葉が使われているように、それは奥深くにあって、普段は認識できないものであり、実際には潜在意識のことを読み解いて、データを入れ替えるというのも難しいことではないかと思います。
潜在意識には生きることそのもののシステムが自動的に働いていることもあって、無闇に簡単に扱ってよいものとも言えないところがあると考えています。
ということで、今回は逆に、顕在意識・表面意識のほうで見てみたいと思います。
ところで私たちはいったい、自分の意識について、どれほど自覚した時間があるでしょうか?
仕事をしたり、家事をしたり、遊んだり、いろいろと日常的に私たちは活動しているわけですが、「あれをしよう」「これをしよう」と意識的に思うことはあっても、いつの間にか忘れていたり、何かに集中して無意識的になったりしていて、今考えていることを自覚する(している)という瞬間は少ないのではないかと思います。
そして実際、私たちは、そのほとんどを自動的・無意識的に動いていると言えます。
何か意識的になる時は、たいてい、切り替え時、意図をもって特に何かをしなくてはならない時だと思います。
一日の大部分は、実は自覚的でなく、意識的でもないのです。
しかもおよそ一日の1/3から1/4くらいは睡眠がありますから、睡眠中もほぼ無自覚と考えれば、自覚時間は極めて少ないと言わざるを得ません。
ただ、無意識・無自覚とは言っても、潜在意識的にどうこうということとは必ずしも一致しないと思っています。
例えば、毎日の食事や着替え、洗顔・歯磨きなどは、もしかしたらすでに潜在意識に刻み込まれていて、動かされているのかもしれませんが、自覚することはでき、いつでもパターンを変えたり、止めようとしたりはできます。
このように、意識すればいつでも変えられるもの、自覚可能なものを、ここでは対象としています。
言い換えれば、顕在意識化することができるものと言ってもいいでしょう。
そのほうが潜在意識よりも、まさに自覚しやすく、コントロールしやすいからです。
顕在意識はそのほとんどを自分でコントロールすることができます。「変えられるもの」と言ったのはそういう意味もあります。
先述したように、私たちのほとんどは、オートマチックに動いており、一日の大半を無意識的・無自覚的・習慣的に過ごしていますが、そのために、何の変化もない日が続くことにもなるのです。
言い換えれば、自分を変容・成長させることが毎日遅れていくようなものです。
これはいちいち何かを気に留めていたら、無駄に体力と気力を消耗し、生きる力に影響を及ぼすことから、人に備わった防御機能とも言えますが、それだけに曲者でもあるのです。
自分を守ってくれるものではあっても、あまりに無意識的になると、その機能が人の快楽反応(痛みを避け、快・楽を取る本能的な反応)に結びつき、無自覚な時間はそのまま積み重なって、ひどい時には一生続いてしまいます。
そうすると、主に外側の起こったことに反応するしかない人生となり、いわば自分の力を他人や外の偶然の現象に明け渡す結果ともなりかねない危険なものと言えます。他人の支配や洗脳にもつながるものです。
そこで、まずは一日のうち、時間単位で意識的な時を作ります。
具体的には、時間やポイントを決めて、自分の行っていることに意識的に注目し、何をしているのか具体的に自覚したり、今後やろうとすることを計画的に俯瞰したりします。
西洋魔法の修行では、逆向き瞑想というのがあり、一日の終わりにその時点から遡って思い出し、一日の始まりまで瞑想によって想起します。
こういうのも、自覚の時間(意識的な時間)を増やすことに、目的のひとつがあるように思います。
ちなみにタロットで、一日のあるポイントを心でマーキングしておくと、意識的な時間に戻りやすくなる方法もあります。
いずれにしても、自分は今何をしているのか、何をしようとしているのか、何をしてきたのかをはっきりと思い出したり、自覚したりすることが、眠っている意識を覚醒させるきっかけになるのです。
自分で眠らせているだけではなく、人から眠らされている場合もあるので、意識的時間をもって自己を覚醒させることは、自分の人生を自分のものにするためにも重要なことです。
マルセイユタロットの「手品師」から「斎王」「女帝」「皇帝」という流れにも、そのヒントが隠されています。特に「女帝」は、この意味において極めて重要です。
結局、そのまま普通に生活していると、世界はあなたのエネルギーを自動的に奪っていくようになります(世界があなたを動かすようになります)が、意識的に生きることを選択していくと、あなたが世界となっていく(あなたの思いが世界となっていく)ように変化していきます。
春先の睡眠や、休みの日の眠りのように、いつまでも惰眠をむさぼるのは気持ちのいいものです。(笑)
しかし、ちょっとつらくとも、意を決してベッドから抜け出していくことで、新しい世界へと旅立つきっけとなるのです。
カードはどんなものでも当たる説
今回の話は気軽に、ライトに読んでいただければと思います。
いわば、タロットに関する「よもやま話」です。(笑)
タロットを学んだり、活用されたりする人の中には、以前にも書いたことがありますが、いろいろなタイプがあり、そのひとつに、「カードコレクター」や「カード類が好き」というタイプの人がいらっしゃいます。
そういう人はタロットはもちろん、ほかの癒しやセラピー系、時にはゲーム系のカードでさえ広く扱い、興味をもちます。
もし、条件さえかなうのなら、おそらくこのタイプの人は、カードをいくらでも買い集め、ひとつの部屋とか館とかにコレクションして眺めたり、使ったりすることでしょう。
私自身はこうした人たちとは別のタイプで、マルセイユタロットだけに特化した特殊人間(笑)ですから、それ以外のカードにあまり関心がなく、極端なことを言えば、タロットにさえ興味はありません。
あ、かろうじて、トランプには少し興味というか、実際に占いとして使うこともあります。
とにかく、たまたま自分が強くひかれたのが「マルセイユタロット」だったので、「タロット」という分野に接しているというだけに過ぎないのです。
それはさておき、先述の、とにかくカードが好きというタイプの人からは、いろいろなカードを紹介されることもあり、実際にそういったカード類を使ってのセッションを経験したこともあります。
それで、最初のうちは何とも思わなかったのですが、よく考えてみると、不思議にどのカードであっても、今の自分のことを表していると思えるカードが出る(もちろんこちらはカードの意味を知らないので、お相手の説明にもよってのものなのですが)ことに気がつきました。
ということは、タロットであれ、誰れかが創作したカードであれ、何でもツールとして、セラピーやセッション、相談に活用できる可能性があるということです。
もしかすると、自然に転がっている石や草木ですら、そうしたツールになりえるかもしれません。(実際に加工され、象徴の文字や絵が入った自然物ツールは存在します)
さてさて、ではなぜ、カードや道具の種類に関わらず、引いたもの、選択したものが自分の状況と合っているものが出るのかということを考察してみましょう。
ひとつは「思いこみ」があると考えられます。
そもそも前提からして、ツールは何か自分に示唆を与えてくれるものだ、意味があるものだと思って引けば、そういうように見えてくるものです。天井のシミさえ、その人が今思っているものを投影するからです。
あとは、巧みな相手の誘導ということもありえます。
一時期よく言及されていたコールドリーデイングみたいなもので、これを無意識的に術者やリーダーがやっていることがあるということです。
しかし、もちろんそれだけの理由ではないでしょう。
ここで一気に大きな話になります。
実は私たち自身も、目の前にあるものも、作られたあらゆるものも、すべて宇宙の一部と考えれば、当たるのも当然になってくるわけです。
イメージとして、宇宙という巨大な子宮の中にいる私たちそれぞれとその活動という感じです。
何をやっても、何であっても、宇宙、つまり神の一部や表現であるということです。
私たちが自分を知ろうと思うことは、神(宇宙)を知ろうということと、究極的な意味では同意であり、そもそも宇宙の創造の原理も、神が自分をほかの観点から知ろうと発起したことから始まったと象徴的に伝説的に言われているくらいですから、自分を知ろうとすると、神の恩恵・サポートが働くと考えられるのです。
ですから、セラピーや癒し、自己変容、自己改革、占いなどに使おうと志すと、その時点で、その人が作る、あるいは使用するツールは神の道具(自分を知る、神を知る道具)となるのです。
そうなれば、もはや、当たること(当てること)も、意識とリンクさせることも可能になってきます。
いやいや、そんなでかい話にはついていけませんよ、ファンタジーでしょう、てな思いの人は、別のストーリーを用意してあげましょう。(笑)
ある人が何かのカードを、「これは宇宙のすべてを象徴している」と信じれば、その通りの働きをするように見えるようになります。
つまり、カードなり、道具なりの製作者の思い(確信)が強ければ強いほど、その道具はその人の思いのままのツールとなり、その人の世界観で、まさにツール化、その人から見る宇宙の表現として、人とモノが融合します。
言い換えれば、ある種の意味とエネルギーを持つようになると述べてもいいでしょう。
カードや道具を使ってセッションしたり、相談したりする人に対して、クライアントの人は、相手の思いでできた空間(世界)に入ることになりますから、セッションを受ける時点で、すでにほぼそのツールが(術者・リーダーの思いが)活きる世界に取り込まれたことになります。
ただ受ける人が、非常に自分という存在を強く実感し(個性を持つ)、強力なエネルギーと磁場を形成していると、逆転現象が起き、相手のツールが無効化されることもあります。
こう考えると、いわば、すべて幻想であり、錯覚なのです。
ツール自体に意味はなく、単に絵があったり、形があったりするように見える、そういうものに過ぎません。
そこに人間の意識と思いこみによって作られた世界が生じ、それによる操作と投影が出現してきます。
ということは、タロットも含めて、実は何の意味もないのではないかと思うかもしれません。
そう、全くその通りです。
カードを使った相談やセッションは、究極的には何の意味ありません。それも錯覚であり、幻想です。
しかし禅問答のようですが、だから(幻想だから)こそ、それをする行為とツールにも意味があるのです。
何を言っているかわからないと思います。だから最初に「よもやま話」として、気軽に読んでほしいと言いました。(笑)
ヒントは人の意識です。形があるものが本物とは言えず、また目に見えないものだけに本質があるものでもありません。
しかし、思考し、感じ、目に見えたり、見えなかったり、私たちは現実の世界で、自分の価値観に従い、また他人の影響も受け合いながら、生きています。
それらは実体と実感はありますが、本物かどうかは言えないところもあるのです。
言ってみれば、私たちの現実・リアルも錯覚・幻想の可能性があるのです。
ここまで言えば、もうタロットやカードを使うことに「意味がないようであること」がわかってきた人もいると思います。
よくわからない人は、もっとご自分で考えてみてくださいね。(^^;)
あ、それからたくさんのものがあっても、やっぱりマルセイユタロットが、ツールとして(それ以外でも)利用しやすいなと思う私の考えがありますが、それは講座でお話しさせていただきたいと思います。
タロットの絵柄から見る3つの様相
マルセイユタロットには、2、3、4そして7、さらには10の数の原理が、あるグループごとに隠されていたり、重要な意味をもっていたりします。
タロットは絵柄ののカードですから、私の考えでは、基本的には図像に重きを置くのが第一だと思っていますが、数についても無視することはできません。
そこ(タロットにおける数)にも当然、何らかの意味や意志が込められていると見えるからです。
ただ、先にも述べたように、タロットは図像がメインですので、数秘的なことを中心に考察し過ぎると、逆に本質を見失い、その理解に混乱を来することになるでしょう。
それはともかく、今回はマルセイユタロットの図像における3の数で象徴されるものを取り上げ、少し意味を考えてみたいと思います。
マルセイユタロットの大アルカナでは人物や動物を含めて、3つのモノが描かれている図像が比較的多くあります。
その多くは1対2の関係になっており、突出した一人や一つに対して、同等の二人やふたつという関係性でくくられているパターンがよく見られます。
ということは、そのひとつ、大体は真ん中に描かれることが多いのですが、その中心の一つと、ほかのふたつが、異質かニュアンスが違っていることを示していると言えましょう。
たとえ3つが本質的に同じものであっても、位置的に違うので、何らかの入れ替え、立場の違いはあるということです。
ところで、3といえば、キリスト教的には三位一体という言葉が思い浮かびます、
これは父なる神と、子であるイエス・キリストと、聖霊とが一体である、3つのようでいてひとつである(ひとつとして働きかけがある)という、実は、少しわかりづらい表現です。キリスト教の中でも、解釈はいろいろとあるようですね。
構造的にはカバラーの生命の木の「三角形」と真ん中のセフィロトとの構図に似ているところもあり、本当のところは頭の理解というより霊的な理解によってわかるというものだと思っています。
さてキリスト教の三位一体(の意味)とは違ってはきますが(しかしつながってはいると思っています)、自然界においても、ひとつのものが3つの様相を示すということはあります。
サイクルとして見た場合、始まり、ピーク、終わりという状態を3つで表すことができます。
言い換えれば、創造・維持・破壊ということになり、インドではこれを神として表し、それぞれに名前があります。
インドに限らず、世界各地で、この3つの性格をもった神々は出てきます。
要するに、私たちの住む世界・宇宙では、物事が始まり、維持されピークに達し、やがては衰え滅び、また新たに創造される(再生とも言える)という変化性と循環性があるということになります。
これは物理的にもそうですし、精神的にもそうでしょう。
例えば精神的に見た場合、感情での「怒り」を見れば、まずは怒りが発生し(始まり)、それが爆発し(ピーク)、やがては静まります。(終わり)
また、とてもポジティブになっていても、やがて平静になり、さらには落ち込んでいくこともありますし、その反対に落ち込みから普通になり、嬉しくハイに変わっていくこともあります。
会社でも売上のよい時もあれば、落ち込むこともあり、スポーツ選手でも優勝するくらいの勢いがある時と、負けが続く時と、勝ったり負けたりの両方の日々もあります。
芸人でも、そのサイクルやピークの度合いに違いはあるとはいえ、売れる時と売れなくなる時、そのどちらでもない時があるはずです。
いわば、どんな人も、またどんな分野においても、3つの様相やサイクルは繰り返され、まるで円が回転しながら進んでいく、あるいは後退していくように見えます。
「巡り」という言葉がぴったり当てはまる感じですね。
そこで最初の話に戻りますが、マルセイユタロットでは3つのものは同じ描き方ではなく、1対2の関係になっていることが多いと述べました。
3つのものを同じことの様相の違いと見ることもできますが、実はどちらでもない中間(中立)のものに対して、どちらかに偏ったふたつのものがあるという見方もできるのです。
偏りのふたつのどちらかに引っ張られすぎると、うまく調和せず、問題のように感じる、現実に問題として認識される状態になる(不調和)と考えることもできます。
円の中で、等しい角度できれいな正三角形(60度のそれぞの角度を持つ)になっていれば、3つの様相は等しく、ただ状態や位置の違いでしかないとなり、図形的にも調和したものとなります。
しかし、三角形の点のひとつが異常に拡大されたり、強調されたりすると、歪なものに三角形は見えてしまい、調和が保てなくなります。
ここは矛盾するような話ですが、だからこそ、あるひとつのポイントを中心にして、ほかのふたつをコントロールする必要があるのです。
ほかのふたつが行きすぎないように、逆にひとつ地点をコントロールセンターとして意識する、こういった感じになるでしょうか。
始まりとピークと終わりという3様相がある中で、始まりは終わりと結びついていて(終わりは再生、始まりでもある)、そのどちらも方向性の違いでしかなく、またピークも反対の方向のピーク(山が逆のもの)もあって、それも結局上下の振り幅に過ぎないと見れば、ひとつの直線を中心として、私たちは上下や左右に揺れ動いているだけだと見ることができます。
結局1対2の関係に行き着くのです。
つまりところ、振り幅で遊んでいるのが人生であるということです。
こう考えると、少しは気が楽になってくると思います。
直線やコントロールセンターに当たるものが何であるかを見極め、そこに意識を戻すことができれば、振り幅を楽しむことができます。
センター・中心がわからないままだと、振り幅そのものに振り回され、悩み多き人生となってしまうのです。
マルセイユタロットの図像は、これらの秘密を解き明かしてくれるでしょう。
人や環境を変えるチャレンジ
これはマルセイユタロット、「運命の輪」の法則のひとつみたいなものですが、人付き合いが変わると、自分も変わります。
もちろん。反対も言えますので、自分が変わりたければ、人付き合いを変えればいいわけです。
余談ですが、これもカードの「吊るし」の法則というようなものですが、逆転して見る、反転して見る、逆もまた真なり、ということがあります。
さて、とにかく、人との関係が自分自身にも「関係」してくるわけです。
これはなぜなのかと言えば、いろいろと考えられるとは思いますが、一言でいえば、「周波数」の影響かもしれません。
ただ、これもエセ科学(笑)というか、ちょっとわかりづらいので、単純に今は固有の「雰囲気」「状態」と言います。
場所にも人にも、ある種、独特の雰囲気・状態というのがあります。それが自分や人にも移ったり、転写されたりするのだと考えられます。
似たような状態のもの(人)が集団となれば、さらに大きな力となり、影響も強くなります。
ある集団全員が強く信じ込んでいれば、自分もそこに入ると、その雰囲気に飲まれて信じてしまうようなものです。
「雰囲気」「状態」は、わかりやすくいえば、「データ」や「ある情報で形成されたフィールド」みたいなものと言ってもいいかもしれません。
この「ある特定の雰囲気・状態、つまりデータ」を利用すれば、いろいろと面白いことができます。
よく言われるのには、成功者や、自分が目標とすることを実現している人たちのグループに入れば、自分もそれになじんで、目標達成がしやすくなるというものです。
自分が望ましいと思う人のデータや情報量は、今の自分よりも巨大で、レベルが高いのかもしれません。
コンピュータもそうですが、扱える情報量が多ければ、データもその分多くなりますし、当然、それを活用する能力、処理速度も速くなければなりません。
まあ、自分が「すごいな」と思う人は、言ってみれば、自分より精度の高いコンピュータになっているということですね。(全部の性能ではなくて、部分・部分の可能性もあります)
機械だと性能を上げるのには、機械を壊したり、新しい部品を追加したりしなければならず、またそもそも土台が違うと、飛躍的に性能をアップさせることは難しいものです。
しかし、これが人のすごいところでもありますが、人の場合はそれが可能なのですね。
というのは、土台・作りにおいて、皆同じところがあるからです。
潜在的性能は誰もが同じで、大げさに言えば、無限大の可能性が誰しもあるわけなのですね。
とはいえ、現実的・物理的法則も働きますので、特に肉体的・物理的・目に見える部分では制約はあるにはありますが。
あと、機械と同じように、壊したり、追加したりすることで、象徴的に、やはり人間の性能もそうやって上がります。
壊すとは本当に壊すのではなく、考え方や囚われを壊すということで、追加は創造、新しいものを生み出す(ためのアイデアや創意工夫)というのに近いです。
そういうようなことで、自分よりも性能のいい人たちのデータや活用(インプットとアウトプット、OS)を自分にもダウンロードさせたり、性能そのものも鍛え上げたりして、一気に自分も向上させるという方法になるのですね。
あと、あえて、違和感を持つグループや場所に入るというのも、自分に化学反応を起こさせる手段です。
同じ雰囲気・データ・性能を持つ人たちの間では、心地よく、いつまでもそこにいたいという気分になるかしもれませんが、反面、ぬるま湯のようなもので、刺激による成長・促進ができません。
ということで、たまには全く考えや雰囲気の違う人たちと交流(交流できなくても接してみる、近くに行ってみるなど)してみるとよいです。
人だけではなく、場所にも言えるので、一番いいのは海外とか、やはり全く普段雰囲気の違う場所に行くことですね。
海外が無理ならば、自分の属する「なになに圏」というところから離れた場所がいいかもしれません。
言葉とかイントネーションがかなり違う(言葉や音は、雰囲気の設定に結構重要な役割がありますので)ところもいいでしょう。
そうして、普段とは異なる人、場所とまみえることで、違和感・反感も含めて、様々な思いが自分に出てきます。
やがて、データ交換が行われて、そうした違和感も慣れに変わって来ることがあります。
例えずっと違和感を覚えていても、そのことで、自分の大切にしているものとか、価値観というものを、今まで以上にくっきりと浮かび上がらせる役割もあります。
別種のものと交わったおかげで、かえって「自分は何者かわかった」とか、「自分が本当にしたいことがはっきりした」とかになる、コントラスト作用みたいなものです。
この場合は、異質なものとのぶつかり合いで、もともとあるものが磨かれ、純度が上がったという例えでも表せるでしょう。
いずれにしても、違うものとの交流で、自分の中の何かが変わるのです。
ただ、あまりに激変であると、変化やデータ交換の激しさについて行けず、本当に自分が壊れてしまうことがありますので、かけ離れすぎているものにチャレンジするのには注意が必要です。
人と自分の感情に敏感で、ナーバスな人は特にですね。
日本では春は年度末・年度初めとして、環境が変わることが多いです。
ですから自分が変わる(バージョンアップする)チャンスといえばチャンスの時期なのですが、同じくらい、危険でもあるのですね。
やはり、チャレンジには、自分を労ったり、守ってくれたりするサポートも併せて必要です。