カードからの気づき
おかしな思い、世界観が自身を救うこともある。
人は前向きで、積極的な態度に魅力を感じたり、それがいいことだと思ったりします。
後ろ向きな態度、消極的、さらには引きこもりや逃避という行動は、ネガティブで悪いものだという思いすらあります。
しかし、考えてもみてください。
ずっと積極的で前向きな人などいませんし、その反対に、一生引き籠もっている人などなかなかいないでしょう。
ただ、その傾向や程度・表現・レベルの違いがあるだけなのです。
例えば、全員、引きこもりで、家の外にはほとんど出ないという人の集団の中で、一人だけ、一日一回くらいは外に出るという人がいれば、その人は集団からは「行動的・積極的」な人と映るでしょう。
しかし、その外に出る人は、週に1回しか外に出ない人なのですから、普通の生活をしている人から見れば、消極的なニートの人だと思うはずです。時には病的な人と見られるかもしれません。
また、この一日一回程度だけ外に出る人は、その集団の中で食料調達とか、ニート生活の中で生きるためにやむを得ない役割があり、渋々出ているのかもしれません。
ならばその人は積極的とは言えないかもしれないのです。
さらに、一般的にも、人生で消極的な傾向にあった人が、何かのきっかけで積極的に変わることもあれば、その反対もあり得ます。
こうやって見ていきますと、積極的とか消極的とか、活動的とか受け身であるとかは、片方に偏っているわけではないのがわかります。大切なのは、どのレベルでどの程度の表現をするか、選択したいかということになるでしょう。
そして、これらのことはマルセイユタロットでも描かれていることです。
さて、実は今日書きたいことは、これだけではありません。むしろ本題はこちらです。(笑)
それを簡潔な文章で表してみまと、
「正常な範囲での異常は、その人の精神を守ったり、浄化することができる」ということになります。
これは逆も言えて、「一見、異常な世界観を持ってはいるけれども、正常にふるまうことができる範囲であるならば、それはその人の救い(の世界観)になる(こともある)」ということです。
平たくいえば、妄想や洗脳でも、その人にとっては救済や浄化になることがあると言っています。
科学的な目線では、天使とか神とか悪魔とかなど、そうした存在を証明したり、論じたりすることはできません。
スピリチュアルなことが現実離れしていると批判される所以でもあります。
しかし、例えば、「天使」という存在を仮定し、その人が自分の世界観の中で、天使がいると本気で思うことで、その人の精神バランスが働いたり、本当の意味でおかしくなってしまうのを防いだりすることがあるのです。
しかも「天使」という特性・存在を、たとえ物語や空想の世界から引用して意味づけや性格付けをしたとしても、その人がリアリティを持って天使存在を感じるのであれば、その人の中の何かを浄化したり、天使の表す援助やクリアーな気持ちを、自分や他人にもたらしたりすることが実際に可能になるのです。
常識的な言い方をすれば、何かを信じることでの行動のきっかけになっている、と言えますが、実はそういうレベルではなく、本当にエネルギーのようなもので、その人を動かし、その人を浄化し、守るのです。
ただ、これも考え方の違いでしかありませんが、天使という存在からのエネルギーというより、自分が天使の特性を発動させることができたということになります。つまりは自分自身の力です。
けれども、注意しないといけないのは、それは自分の力とは言っても、自分の普段意識しているような自分のパワーではなく、タロットでいえば、「力」のカードの象徴する「フォース」のようなものです。
内に眠る高次とリンクして生ずる力であり、自分であって自分でないものですし、またやはり自分でもあるものです。
ということは、その力をどう使うか、どんな精神性で発動するかによって、フォースに取り込まれるか、そうでないかの違いを生むと考えられます。
※余談ですが、映画「スターウォーズ」は、一面ではこのことを描いています。
天使のようでいて、悪魔になったり、悪魔のようでいて天使になったりという言い方にも置き換えられるでしょう。
ということで、一般的には変な妄想をしているとか、おかしなことを信じているとか、洗脳させられているのではないかという状況でも、その人がそれにより、きちんと社会生活や人との普通のコミュニション・思考ができるバランスにある場合は、むしろ重要な守護や救い、拠り所になっていることもあるわけです。
それを信じていない状況のほうが、本当にその人がおかしくなってしまうこともあります。
従って、ニートや引きこもり、消極的、逃避、ちょっと人とコミュニケーションが取りにくい人の行動においても、ある世界観を信じることが、その人の救いになることがあり得ます。
ただ、病と紙一重のところもありますので、統合失調気味(昔でいう分裂気質)の人、そういう傾向の人は、行き過ぎると病的なレベルに墜ちてしまうこともあるので、注意は必要ですが。
人の救済やバランスは、まさに千差万別であり、個性があるものです。
一般的な価値観とは正反対のものでも、その人には幸せとか成功だと感じることもあることは、知っておいたほうがいいと思います。
そうすると、自分自身の本当の幸福感への選択ができます。
ただし、社会(他人との共同)生活でのルール・法律・常識の中で生きていることも忘れないようにしないと、極端なことを言えば、自分が幸せなら何をしてもいいという自分勝手、さらには犯罪をしてもよいとさえ思う論理になりますので、気をつけましょう。(笑)
本当は誰に何を話したいのか、してほしいのか。
よく例えられる話があります。
男の子が好きな女の子の気を引くために、わざといじわるしたり、関心がないかのようにぶっきらぼうにふるまったりするという、この手の話です。
つまり、本当は関心があるけれども、素直に相手に言えないので、別の形で注目してもらおうと表現するスタイルのことですね。
これが大人になった私たちでも、結構、よくある話ではないかと思います。
別に男性が女子にというものや、恋心だけでの話とは限りません。
このパターンを拡大しますと、結局、自分をアピールするために、本当の気持ちとは裏腹なことや、誰かや何かに注目を浴びたいということで、突飛な行動・問題行動をしてしまうというものです。
問題行動だけではなく、成功する自分になろうとお金を稼いだり、人とは違った特異な分野を探究して発表したりするようなこともあるかもしれません。
となると、問題が繰り返し起こったり、自分がうまく行かないようなことが続いたり、何かをやっていてもどこか空しくなったりするような場合に、実はこのようなシステムが働いているのではないかと疑ってみることもできます。
自分は気がついていないのですが、無意識に、失敗したり、ダメな自分になったり、変わった行動を取ったりすることで、誰かや何かの注目を引くことができるメリットがあるのです。
マゾの人ではありませんが(^^;)、「あなたはだめよねぇ」とか、「そんなこともできないの」「あ~またやっちゃったんだ」と言われるような状況になることが、実は当人にはうれしいこともあるわけです。
なぜなら、まずはそれだけどんな形であれ、相手から注目されることであり、また甘えることができている(甘えの表現が出せる)からです。
大人であっても、親との関係に問題があったり、自分にとって厳しい環境や人と接している状態があったりすれば(外で戦っている状態、これは当人比なので、ほかの人から見れば大したことないという環境でも、当人が大変だと感じていれば、それはシビアなのです)、やはり甘えたい欲求も出るのが人間と言えます。
ともかく、自分の行動原理の奥底には、意外にも単純な注目欲求や、本当に語りたい、話したい、したいことが行えていない、言えていないことが原因ということもあるわけです。
先述したように、そういう欲求や抑圧感情は、たいていは養育歴における自分の親との関係から生まれてくるものですが、もちろんそれだけではありません。
過去に恋愛した相手であったり、上司であったり、友人や知人であったり、昔の何らかのタイミングの自分であったりするのです。
ところで、マルセイユタロットでの展開で、過去パートを見ることがあります。
この過去パートをリーディングする意味については、いろいろとあるのですが、そのひとつには、こうした過去に置き去りにしている、あるいは表面意識的には忘れていても、しっかり奥底にくすぶっている感情や思いを映し出すという機能があるからなのです。
私の採用しているマルセイユタロットの展開では、一応、時系列別にカード展開のパートは分かれるものの、ある部分からは過去も現在も未来もつながっているようになる展開になります。
つまるところ、無意識の上では時間は幻想となり、現在においても過去と未来が同時存在しているようなものと言えますので、過去の自分と今の自分、そして未来の自分とを連関して見ることで、自己の総合時間(幻想とはいえ、事実感覚としては存在します)においての別存在である自分を癒したり、解放させたりすることが可能となるのです。
いわば、各時間存在における自己の統合です。
実は気づくだけでも、相当な癒しや浄化、統合的働きになります。
それは、例えれば、見える世界と見えない世界の境目が、「気づく」「気づいた」というその瞬間になくなるためです。
つまり、今まで「気づいていなかった」ということは、その気づいた事柄が隠れていて「潜在的」だったということであり、今度は「気づいた」ことで、その時点で潜在から顕在へと変化したのであり、その内容において両者を陰陽(明らかと不明)で隔てていた壁は消えたことになるからです。
これは二元統合の形式のひとつです。
「気づく」ことの重要性はいろいろなところで、様々なセラピスト・アドバイザーが語っているところですが、このようなシンプルな理由があるのです。
しかしながら、隠れているものを発見することは、探し方を間違えれば、すごく時間がかかったり、手間がかかったりします。
また時には(タイミング的には)、探さなくてもよい場合もあります。逆に、一刻も早く見つけなければならないケースもあります。
マルセイユタロットの展開とリーディングでは、そうしたことも見ていくことがあるのです。
「悪魔」と「太陽」の強い絆
マルセイユタロットの「悪魔」と「太陽」については、束縛と解放ということで、特別な関連があります。
絵柄的には、「太陽」はいかにも明るく開放的に見え、「悪魔」はやはり悪魔なので、束縛しているように誰もが感じるでしょう。
ところが、裏を見ていけば、それが逆転することもありえるのです。
マルセイユタロットの重要な示唆のひとつに、二元や二重、別のものにも同質があり、同質にも異質があるというものがあります。
マルセイユタロットは見た目の判断もそれなりの意味を持ちますが、同時に、象徴の意味が伝えられて初めて意味がわかるという「裏の教え・意味」も内包されているのです。
さらにはそれにも、人から教えられるものと、自分で気がつく内的な確信の性質のものとがあります。
さて、「悪魔」と「太陽」に戻りますが、やはり、誰しもが明るい印象を持つ「太陽」に比して、「悪魔」のほうはポジティブな意味を見出すのが難しいと言えるかもしれません。
しかし私の教えているマルセイユタロットでは、カードにはいいも悪いもなく、それぞれのエネルギーや表現、質と見ますので、立場や環境・状況・個人などによって、その意味はネガにもポジにも変容することはあっても、基本的なものは不変であり、いい・悪いを決めるのも、「人間」だということになります。
従って、「悪魔」がネガティブに思う人は、逆のポジティブな意味を悪魔から見出せた時、両者のバランスが取れて(中立になり)、本当の「悪魔」のカードが示すエネルギーを素直に理解することができるのです。
おそらく、普通、なかなか「悪魔」に対するネガティブさの印象は強いので、そのバランスを回復させるためには、相当の時間と努力が必要かもしれません。ですから、「悪魔」の真の理解は、かなり高度なものと私は考えています。
では「太陽」との関係について戻ります。
「太陽」と「悪魔」を「束縛」という意味合いで見た場合、両者には共通点が実はあるのです。
「束縛」と言ってしまえば悪い印象になりますが、「強い絆」で結ばれていると見れば、それは「束縛」ではなく、「結束」というものに近いかもしれません。
ふたつのカードは、この「結束」の意味で共通しているわけです。
ここに、このカードたちに関連して、あまり普段意識しない重要なことを言います。
結束や絆の強い関係・グループには、カリスマ的リーダーの力のほかに、強固な目的意識やイデア(理想・ビジョン)の共有、集団と個人のそれぞれが利益になる実際性があることなどが考えられますが、もうひとつ、集団や組織だけにある秘密、秘匿すべきもの、守るべきものがあると強くなります。
マルセイユタロットに流れる言い伝えでは、キリスト教では異端派とされるカタリ派とかテンプルナイツ(神殿または聖堂騎士団)との関係性があり(このことは講座でお話しています)、これらの集団や信仰する人たちの間で、やはり何か秘密、もしくは強烈な信念(信仰)体系があったものと推測されます。
「悪魔」と「太陽」には、そうした結束のもとになる秘密や秘儀が描かれていると考えられるのです。
それはインナー(信仰する)世界では、外やほかの人との違いを生み出して、集団内における自由(な精神・活動)性をもたらせますが、一方ではその秘密や理想の守護のために自己を犠牲にしたり、集団のために命を捧げたりするみたいなことになって、かなり束縛の要因にもなります。
つまり、「秘密」とそれに関係する「集団」には、「束縛」と「自由」のふたつの相反するものがいつもつきまとうわけです。
秘密を持つ集団への裏切りはネガティブさを持ちますが、反面、裏切った側からすれば、集団からの解放にもつながるわけで、ポジティブとも言えます。
秘密が本当に保持すべきものなのか、守るべきもので皆を縛リ過ぎるようなことになっていないか、集団そのものより、いつも自分自身、個人として注意しておく必要はあるでしょう。
ただ、逆に言えば、組織や集団を強固にしようと思えば、秘密や隠匿すべき内容を持てばいいのです。それは事実である必要はなく、抽象的であっても、シンボル・象徴的に全員が共有できればよい性質のものです。
といっても、秘められたものはいつかは破られたり、漏らされたりする運命にあります。
宇宙のバランスからして、完全に守られることはありえないでしょう。秘めようとすればするほど、外に出そうとする力もバランス的に働くからです。
また守るべきものが、実は本当は何もなかった(よく漫画とかであるように、秘伝書を開けてみれば、何も書かれておらず、見つけるまでの時間と過程が重要だった)ということも結構あります。
さらには集団組織や独裁者の安定・維持のために、ある秘密が利用されてきたということもあります。(「悪魔」とも関連)
低いレベルでいえば、「ここだけの話ですが・・」「これは、あなだけに伝えるよ..」「あなただから信頼して話すね」「あなたは選ばれたからこれを伝えます..」と言われると嬉しい反面、怪しいことも多いということです。(笑)
人は特別でありたいと思いつつ、しかし特別な責任は持ちたくない(普通でいたい)という矛盾の多い面白い生き物なのですね。(^_^;)
それが「秘密」とも関係し、カードの「悪魔」や「太陽」の象徴する意味や世界ともリンクしてくるのです。
タロットから見るバレンタインデー
最初にお知らせです。
最近、タロット講座のお問い合せがちらほらありますので、今後の予定概要など書いておきたいと思います。
まず、本格的にマルセイユタロットを学びたい人のためのクラス・基礎講座(ハイクラス)は、現在1月からの講座が開講中のため、次回は4月からとなります。
日にちの詳細ははまだ決まっていませんが、土曜か日曜を中心に3ヶ月間、月2回ペースでの講座を考えています。
もし今の時点で4月からの受講を検討されている方は、その方の希望日を優先的に配慮しますので、ご連絡ください。場所は新大阪を予定しています。(受講者の希望や人数との関係で、場所の変更もあり)
土日にではなく、平日を希望される方もお知らせくだされば、平日開講も検討いたします。
また経済的・日程的に基礎講座ハイクラスの受講が難しい場合は、特別にノーマルクラス(ハイクラスより内容を少なくし、料金がリーズナブルになるもの)も提供できる場合があります。お問い合せください。
入門クラスはカルチャーセンター(京都新聞文化センター・よみうり神戸文化センター)で開講するものと、新大阪教室で開講するものとがあります。レベルや内容はほぼ同じですが、カルチャーセンターは募集時期がまだ未定で、開講されないこともあります。
新大阪の入門コースは4月や、ほかの時期からでも開講を検討しています。
その他、出張講座や個人(マンツーマン)講座(個人の場合は調整すれば、いつからでもご希望の場所で可能です)、スカイプでの講座(枠が極めて少数ですが、ただ今空きがあります)も随時受け付けておりますので、詳細はHPのこちらをご覧ください。
マルセイユタロットはかなり縁の働くタロットだと考えています。大量の人に一斉に講義するというような傾向には向いておらず、お一人お一人とか、少人数での講座形式が適していると思います。学びたくても学べない時がありますし、反対にふと開いたネットのページやインスピレーションがもとで、縁が運ばれてくることもあるのです。
タロットで未来を当てたり、運・不運を見たりする「占い」としてではなく、自己や他人の気づき・心的整理と発展、サポートや癒し、統合ツールとして活用することに興味がある人に、特にご縁が賜れば幸いです。
さて、今日はバレンタインデーですね。
現在はキリスト教と結びつけられていますが(と言っても、祭日のもとになった人は今は正式な聖人ではないようですが)、この日のもとになったのは、女神ユノーとも関係するローマ時代の豊年祈願のお祭り(ルペルカーリア祭)だと言われていることもあるようです。
興味深いのは、この時期(ある暦の新年的な時期や春の先駆けとしての訪れを感じさせる時期)であること、前述のルペルカーリア祭で神託的な男女の縁結び行事があったと言われていること、バレンタインデーが14日という日、14の数に現在は設定されていることです。
ただしどうやら、ローマ時代の男女の縁結び的な行事は、後世の人の創作であるというのが定説になってきているようですね。まあ、たいていは、伝説的なことも、作り話や、後の人の脚色になっていることがほとんとですから、そういうこと(ほぼ創作)なのでしょう。
それはそうとしても、火のないところには煙は立たず、伝説やお伽話であっても、その奥底には何かしらの象徴的真実、あるいは象徴的な示唆のようなものがあります。
カーニバルもそうですが、洋の東西を問わず、春を祝う(あらじめ豊作や吉年を祝う)ことは民俗行事として行われていることであり、季節的なものの内的外的実感を強め、また先に祝う(未来完成の型を踏む)ことで、それを実現させる効果もあり、古代の人はその意味を知っていたことでは、なかなか実は興味深いものなのです。
また季節や暦というものは、結局地球と太陽(または月)などの天体の運行で生ずるものですから、そのエネルギーとも関係している(関連づけようとしていた)こともわかります。それが太陽信仰にもつながっていると考えられます。
先述のルペルカーリア祭での男女の縁結び行事も、作り話かもしれないとはいえ、桶に名前を書いた紙を入れて、抽選みたいにして男女ペアを祭りの期間に決めていたというのも、占いではありますが、そこに神聖な神の力(女神的な力)が働くと考えられていたからではないかと想像がつきます。(一種の神託)
言ってみれば、タロットの「恋人」カードに描かれている「キューピッド(クピドー)」の縁(矢)の力なのです。
ともすれば、私たちは何気なく人と出会っていると思ったり、自分の力で出会いを起こしたと思ったりしがちですが、実はそこには目に見えない力も働いているのです。
昔の人は、今の人以上に、神聖な力、神が選ぶ縁というものを大切にしていた(信仰していた)ことがわかります。ですから、その後の関係も人と人のものだけではなく、その人と出会ったということでも、人と神との縁も思っていたはずなのです。
「私たちが出会い、仲良くなれたのも神様のおかげ」という厚い信仰感覚です。
とすれば、相手に対しても神の力の働きを見ることができ、結局マルセイユタロットでいえば、人間関係が「恋人」から「神の家」に行き着くような体験となります。
さて、「14」という数ですが、これはタロットでは「節制」というカードが持ちます。
このカードの絵柄の中心は天使であり、それも救済や援助、交流を示唆するものです。先述の「恋人」カードのキューピッドも天使(ではないですが)として見ることがあります。
たまたまのようでいて、14日のバレンタインデーは、やはり特別なシンクロも感じさせる行事となっているように思います。
恋人同士はもちろん、人と人の関係性に神が働いていること、言ってみれば神と人の関係性も再認識させられる日であり、その神聖さや高次の関連性を思い、出会いや別れにおいてさえも感謝したいところです。
バレンタインデーは恋人だけではなく、パートナーや友人・知人など、自分と関係する人に、
「あなたに会えて良かった」「この人との縁が結べて、神様・天使たち、ありがとう」
反対に、「別れてくれてありがとう」「終わってくれて良かった」(笑)
゜
そんなことが思える日でもあると言えます。
隠れる時と出る時
今日タロットから浮かんできたのは、「隠者」と「法皇」でした。
マルセイユタロットではすべてのタロットカードが有機的につながり、関連し、共鳴しあうような仕組みになっています(それも知識的側面と感覚的即目があります)が、この「隠者」と「法皇」も強い関係性を持つカードとなります。
両者ともに年を取った男性的な姿で描かれています。
しかし、「隠者」はその名前の通り、目立たず、ひっそりと隠棲している様子で、一方の「法皇」は弟子か聴衆に対して法話を伝えており、表に出ていると言えます。
そこから私が思ったのは、人は隠れている時と出ている時があるということです。
そんなことは当たり前で、誰も出ずっぱりのことはないですし、またずっと隠遁しているわけでもありませんよね。(笑)
私の言っているのは、これが象徴として、個人の人生のタイミングや状況に応じて入れ替わること、しかしそれは社会や宇宙というもっと大きな括りで見ると、うまくバランスが取れているのではないかということなのです。
例えばあえて極端な話をしますと、ニートの人はずっと隠れているような状態かもしれませんが、その分どこかに自分の中で「出たい」という欲求や願望を持っていたり、親や他人からは「出てほしい」という希望も抱かれたりしています。
実際の現象や行動面から見ると、隠れている人とそれを見守っている人という対比になりますが、精神的なエネルギーの願望方向で見ますと、実は結構「出る」「出ている」というイメージがあるのかもしれないのです。
隠れれば隠れるほど、出たい、出なければ、出てほしいというエネルギーも増すと言えばいいでしょうか。
今はインターネットとつながる機器が発達していますから、たとえニートで引き籠もっていたとしても、ネットを通じて仮想的には自分は外に出ているという体験・感覚を得ることができます。
また昼は人目があって出ていなくても、夜にはコンビニに行くなどして、雑誌や食べ物を物色したり購入したりして、自分(の欲求)を出しています。
つまりは完全に隠れているわけではなく、どこかで出ているというエネルギーの表現はしているのです。
おそらくネットでの漂流はニートになれば激しくなる可能性もありますし、広範囲に出るというだけではなく、深く入り込むこともあるでしょう。
入るということは、逆側から見れば、「出てきている、突出している」と見ることもできるからです。
タロットの世界に足を踏み入れるということでも、通常や常識の世界(観)から逃げる意味もありますし、日常から隠れようとしていると見ることができます。
反面、タロットの霊的な世界側からすると、向こう側(日常世界)からこちら側(非日常世界)に出てきている、目立って来ているというように見えるでしょう。
マルセイユタロットでは「愚者」と「隠者」の関係性が深いのも、上記を示唆しているように思います。
さて、さきほどのニートの人の話になりますと、結局エネルギーを反転させて、実際の外に出るようになるためには、引き籠もっている世界での「出る」ことをなくす必要があるかもしれません。
内側の中で「出る」表現ができない場合、外側で「出る」しかバランスが取れなくなってきます。ネット環境とかないほうがいいわけです。
しかし、だからといって、いきなりそれらを取り上げても、爆発的に外に出ようと、暴力や自傷・他傷行為に及ぶこともあるかもしれませんので、注意は必要です。
また周囲の人が過剰に「出る」イメージやエネルギーを想像し過ぎると、「出る」という状況が精神的に達成してしまうことになりますので、あまり強く出てほしい願望を抱かないほうがいいかもしれません。もちろんケースバイケースの話ですが。
話は変わりますが、タロットリーダーで営業をしたい時、隠れていては当然ですが、クライアント・お客様は来られません。自分で「出る」表現をしないといけないのです。
ただ、隠れることと出ることのバランスが、人の意識によっても違ってきますので、自分なりのペースというのも考慮する必要があります。
今までかなり隠れる傾向にあった人は、いきなり出ると言っても難しく、すでにたくさん出ている人からすれば簡単で、大したことのない「出方」ではあっても、隠れているのが強かった人には、それだけでもすごいエネルギーがいり、その時点でギリギリのバランスであったりするのです。
ですから、いかなる人も隠れる・出るのバランス比率では同じかもしれないのですが、そのバランスの規模や表現の違いに個人差があると考えられます。
お金のバランスでも隠れる・出る、つまり収入・支出バランスはもとより、お金の扱い自体に対するバランスもあると言えます。
見た目の傾向で、隠れることが強く、出ることが弱い(しかし本人には、その時点ではそれでバランスが取れている)と、お金の隠れる出るバランスもそれに呼応するでしょう。
つまりはお金は自分にとって隠れている状態、あまりお金が現れていない状態になります。(もともと貯金や遺産などがある場合は別でずか)
なぜならお金はエネルギーであっても、物質的なものだからです。物質的というのは、見た目(でわかるという意味で)の世界に強く関係します。
ということで、今の自分に経済的・環境的・精神的に満足していない場合は、自己表現において、隠れる・出るのバランスの質を変えていくほうがよいことがわかります。
まあ、自分が何もしなくても、自分の思いに応じた隠れる・出るのバランス世界が自動的に組まれていくというのが、この宇宙でもあると想像できます。
要するに、自分の意志で創造していくか、宇宙の全体意志のひとつとして創造してもらうかの違いみたいなことです。