カードからの気づき
月の秘密に少しだけふれます。
この前は立春で満月でした。
最近、と言いますか、まあ、昔からですが、月にまつわるエネルギーの活用法や願望達成法などが巷でさかんに紹介されています。
中には、月に向かってお財布を振ると金運アップ!みたいなものもあるそうですね。
ところで、マルセイユタロット(というより、一般的なタロットはだいたいですが)においても、「月」という名前のカードがあります。
マルセイユタロットの中でも「月」は、絵柄的にも意味がわかりづらく、解釈にも多様なものがある、なかなかに手強いカードです。
しかし個人的には、かなり高度な内容を象徴しているカードだと考えています。
まさに「月」のカードを本当の意味で読み解くことができれば、この世の中の大きな謎や、からくりを解明することになると推測しています。
それは同時に、自分自身を高次に導くことにもなります。
ということで、私なりの「月」の解釈(「月」のカードから得られた象徴やエネルギーとしての「月」の考察の一部)を披露したいと思います。
まず、「月」にかかわらず、宇宙の星・天体とその影響を考える場合、占星術もそうですが、星を物理的・天文学的なものでとらえないということです。
一言で言えば、「象徴」で考えることです。
何の象徴かといえば、これもシンプルに答えれば「神」「全」「一なるもの」完全なるものの惑星的表現と言えましょう。
「象徴」となれば、本質は同じでも、その適用範囲はレベル(次元)ごとに意味が異なってくるのです。
例えば「熱い」という本質があっても、それは実際に温度のこともあれば、感情としての情熱ということもあるでしょうし、病気で熱が出るということも言えます。
ですから、本質で示される象徴は、その核心は同じであってもレベルの違いにより、小は個人個人の生活的・世俗的・吉凶的運命レベルから、中(ちゅう)は人々の心理構造、果ては地球全体、宇宙という大きな範疇という次元において、それぞれ別の意味や表現を取りながら影響するという感じになります。
逆に言えば、それぞれのレベルによって、受け取り方や、影響の範囲、意味の扱い、実際の現象などが異なってくるというわけです。
このあたりは象徴と現実をどう考えるかという問題になり、説明が難しくなりますのでこの辺にしておきます。
では、もっとわかりやすく、「月」の影響はどのようなものなのかということを、簡単なレベル別で示してみましょう。
事例は、ちょうど皆さんにも興味があるかもしれない(笑)「財布を月に向かって振り、金運を上げる」という行為にします。
これの一番低いレベルは、まさにお金儲けと「月」が関係していると思いこむ迷信レベルです。
結果と起こる現象のみにフォーカスし(関心があり)、たとえ一般的に違和感を覚えたり、おかなし方法であったりしても、「とにかくお金が入るんだったら、何でもやるよ、やったもんがちでしょ」という具合に行うレベルです。
そこに因果関係や論理はなく(深く思考せず)、人が言うからとか、誰かがそれをやったらお金が入ったから信じてやってみるという形です。
これは「月」の影響レベルというより、「月」というものを迷信的に道具のように見ているということになります。
まあしかし、とにかく「月」に関連させているので、「月」の影響を受けている「ある次元」といえばそれになります。
注意してほしいのは、別にいい悪いの基準で言っているのではないということです。あくまで次元・レベルの表現として書いています。
次に、心理的効果レベルです。
例えばお金(を稼ぐ、受け取ること)に強く罪悪感があったり、月に向かって財布を振って踊りましょうみたいなことをするのがかっこ悪かったりして、とても自分にはできないという人が、いたとします。
それでも、友人などから、「とにかくやってみなはれ」(笑)みたいに誘われて、いざやってみると、最初は恥ずかしかったものの、意外にスカッとして気持ちよくなり、時にはバカやったり、はめをはずしたりするのがいいと感じてしまうことがあります。
これは人にもよりますが、心理的・潜在意識的にブロックされてきたものが、財布を振ったり、踊ったりすることで強制解除や解放に向かい、その後の思考や行動に変化を与え、今までより自由に生きることができて、結果的にお金回りがよくなったという場合が時に生じます。
しかし、これも実を言うと、「月」(のエネルギー)が影響しているのかはわからないところがあります。
「月」には関係なく、自分の信念に関わるブロックや解除の効果とも言えるからです。
とはいえ、満月の夜の心理的効果は昔からあり、どこか開放的気分・興奮気味になるとも言われています。
潮の満ち引きが「月」の引力と関係していることや、生物の生殖・生死リズムとも関わる「月」の波動が、満月に最盛期を迎えて潮力も大きくなり、人間の「水」的(「水」はタロット的には感情の象徴でもあります)なものに影響を及ぼしているとも考えられます。
上記でいうと、普段は踊らない堅いまじめな人も、思わず集団心理とともに踊ってしまうようなことも、「満月」ならではあるということです。
なお、心理・潜在意識的には、金運的には逆効果もあるので注意が必要です。
それは「お金がほしい」という「思い」、つまり金欠な状態を「月」とともに潜在意識にさらに刻印することになるからです。
このことは、潜在意識を読み、よい方向に活用していくシンボリックリーディングメソッドで有名な、マルセイユタロット講師である「はるひなた」さんも書かれていたことです。
また古代ギリシア・ローマ神話における、ディオニスやバッカスの神(お酒や酩酊と関係)の信奉者として、月夜に踊り狂う女性狂信者マイナスたちの集団・マイナデスも彷彿させ、一種のトランス状態・変性意識作用を月の波動と集団効果とともに表出させると考えられます。
まあ、これがいいのか悪いのかは、マイナデスの伝説を調べて、自分で判断してみてください。
人は特別な意識になった時、超越的な力を得ることもありますが、同時に洗脳や盲信の危険性もあります。
さて、ここからが本題というかマルセイユタロットの「月」とも関連する事柄です。
最後のレベルといいますか、グノーシス的宇宙観にまつわる「月」のエネルギーと働きです。
ただこれはかなりの秘密になり、カードからも気安く言わないようにと感じられるので、さわりだけでお許しください。
結論から言いますと、「月」はエネルギー的に人々の思念・情念・感情を増幅させる働きがあると考えられるものです。
まあそれくらいは普通に言われていることで、不思議でも秘密でもないのですが、そうなる仕組みが重大なのです。
もしあなたが「月」を利用しようという思いで、「満月に財布を振る」ようなことをしていると、たいていの人は、自分で自分をますます縛っていくことになります。
なにをどのように縛っているのか、そもそも自分で自分を縛るとはどういうことなのかは、詳しくは申し上げられません。想像していただければと思います。
とにかく、最初のほうにも述べたように、「月」も神(全)の一部であり、「月」としての神なる表現で神聖なものなのです。
ですから古代より洋の東西を問わず、「月」には女神的(つまりは神)なものを当てはめてきたのです。
神様ですから何でも叶えてくれるかもしれませんが、地上的・人間的レベルでの世俗的なことが叶えられるとは限りません。そんな細かいレベルで対応していたら、神様も大変です。(笑)
しかし、一方で自らの内に神がいるという考え方もできますから、「月」と呼応して、自分の内なる「月の女神」を起動させることで、「月」の影響・エネルギーを個別レベル(生活レベル)で発動することも可能です。
従って、きちんと「月」に神なる性質と表現を見て、礼拝するかのように神聖に扱えば、それは自分の中に神を見ることになりますから「月」といい意味で同調していくことにもなります。
これがただの金儲けや金運アップのおまじない的な使役感で「月」を扱えば、自分の別の側面の「月」を強めてしまうことになります。
その別の「月」(実は女神性の月と表裏一体です)は、あなたを「月」の幻想の世界に閉じこめてしまうのです。
まあ、結局、自分の信じたものが「世界」になりますから、「満月に財布を振ってお金を得て、お月様に感謝!」みたいな世界が自分にはあると思えば、その通りの自分の世界に移行します。
それがいいか悪いかは関係ありません。人の望むレベル次第です。
引き寄せ合うもの、類は友を呼び、自分の欲するところに応じて、仲間も集団も集まり、また変化していくのです。
自分の力を拡大する方法
マルセイユタロットで、もっとも自由を象徴するカードとも言える「愚者」と、その名の通り、ある種の力を示す「力」のカードを見ていますと、まさに自由における力の拡大ということが思い浮かびます。
ただ、面白いことに、「力」のカードの番号(11)に至るまでには、「正義」(8)という責任を表すようなカードも含まれていることです。(マルセイユ版)
つまりはやはり、マルセイユタロットにおいても、自由の獲得にはそれなりの責任が及ぶということが示唆されるのです。
最近は自由になることと楽(堕落)になることが混同されて、責任もすっ飛ばして、とにかく駄々っ子のように、何でも思うようにしたいという方が増えてきたり、解放だと勘違いされたりしている人もありますので、タロットからもふれてみた次第です。
さて、話は変わりまず、この「力」と「愚者」について、また別の話をしてみたいと思います。
マルセイユタロットにおける「力」のカードの絵柄には、ライオンを子猫のように操っている若々しい女性が描かれています。
どのカードもそうですが、これも非常に象徴的です。タロットカードを解釈する場合、そのまま見ては何もわかりません。
ですから、本当は口伝や伝承、神話や言い伝えの形で伝達される内容や暗号、さらには象徴解釈に伴う知識が必要なのです。
とはいえ、それらの前にもっと大切なことは、絵柄の印象を受け取って、それを比喩的に考察する・イメージするということです。
例えば、「力」のカードを見て、「女の人がライオンを触っている、すごい!」という、見たままの感想を抱く人や、「素人の女性がライオンを抑えられるわけないだろ!」と、絵柄それ自体で考える人もいるわけです。
そのどちらも素朴で常識的な感想です。(笑)
ま、よく言えば童子レベルの素直な印象、悪く言えば、見た目そのままの単純な反応です。
ですから、ここ(タロットの絵柄)から比喩的・隠喩的・象徴的に絵を読み解いて、想像していかなくてはならないのです。
例えば、普通の女性がライオンを扱えないのは当たり前なのに、なぜそのように描かれているのかということ、
ライオンを従えている女性の動作、視線、そもそもこの女性は本当に普通の女性を示しているのか?
あるいは女性という存在に、何か秘密の力が隠されているのか?
いやいや、ライオンも動物のライオンというわけではないだろう・・、これは猛々しいものを表しているのかもしれない、もしかして男性のこと? 荒ぶる魂?
どうも力づくでライオンを押さえているわけではないようだな・・これは力の使い方を示しているのか?
・・・など思考も入れていろいろと想像していくわけです。
そうやって出てきたひとつの考え方が、今から言う「愚者」と「力」の話になります。
「愚者」は旅をしている人を描いていますが、私たちが旅や移動をする時、知っている土地と知らない土地とでは、当然移動のスタイルや方法も違ってきますし、何よりも意識が異なります。
何度も行き来しているところだと慣れていますので、効率的で安心して旅や移動ができます。
逆にまったく知らない土地では、土地勘もなく、人も知らないので、不安で迷うこともあります。
つまり、どれだけそこになじんでいるかという意識の違いがあるわけです。
結局、それは自分として日常的な範囲として認識しているか、あるい未知の場所やまだ慣れていない非日常の範囲かという区分けになります。
そして、自分にとって日常の範囲だと思っているところが活動(生活)範囲にもなり、そのまま自分の意識の広がりや、その場所にある人やモノを活用できる広さにもつながっています。言い換えれば資源や能力にも関係します。
ですから「力」のカードと関係するのです。
例えば、もし「力」の女性がライオンではなく、子猫を扱っているのなら、それはほんの小さな範囲でしかコントロールできていないことを意味します。
わかりやすく言えば、町内レベルの範囲です。まさに小学生くらいの認識でしょうか。
しかし成獣のライオンまで来ますと、それはかなり広い範囲にまで日常として拡大しています。
日本はおろか、世界まで普通に日常レベルの範疇に入っているという感じかもしれません。
猫しか扱えない人から見れば、ライオンを扱える範囲にいる人は奇跡的ともいえることを成し遂げられます。
ただ、ライオンを扱えている人でも、最初からライオンがコントロールできていたわけではありません。それこそ子猫の扱いから始めている人がほとんどです。
ただ、そういう人は子猫レベルで満足せず、扱える範囲を次第に広げ、自分の日常感、つまりはリアリティ(現実感)ある範囲を普通の人より拡大してきているわけです。
子供の頃は町内でしか一人で移動できなかったものが、大人になれば認識と知識・経験が増え、国内なら自由に一人で行けるようになっているというようなものです。
ということで、できるだけ拡大した範囲を何度も行き来する(現実感が出るまで活動する)ことにより、自分の日常認識範囲が広がって、それこそ子猫からライオンへと、扱える範囲と能力も変わって、あなた自身の豊かさや心の充足、またはそれらへの多様な方法の選択を増やすことになるのです。
単純に「愚者」のように、旅も自由に、もっと広い範囲に出てみることを何度か繰り返すだけでもよいです。
いつもせいぜい本州が普通だった人は、九州や沖縄、北海道などにも行くことを繰り返すことです。
国内だけの人は、海外というパターンもいいでしょう。
ただ、いきなり範囲を広げすぎると、子猫からライオンをぶっつけ本番で対応するのに等しくなって大変ですから、無理なく、少し冒険するような形で少しずつ拡大していくとよいでしょう。
「世界」のカードと自分の無知
タロットには21の数を持つ「世界」というカードがあります。
だいたい、どのタロットの種類でもこの「世界」は完全性や目的達成、完成みたいな意味合いを持ちます。
マルセイユタロットにおいても、人が目指す、あるいは到達できる最高の境地を示すと言われています。
ほかのカードもそうですが、特にこの「世界」に描かれている図像は、とても象徴的であり、何よりも人や動物(聖なる生き物)たちも相まって、とても多様性があります。
ということは、「世界」のカードが完全性を象徴しているとするのなら、つまりは完全とは多様であり、逆に言えば、多様表現から完全を見ることができると考えられます。
例えば、私たち人間も、一人一人個性を持ち、皆違っていますが、全員が存在していることで、それこそ「世界」が実は完全であることが示されていると言えます。
また、一人一人単独であっても、そこに完全性が宿ると見ることも可能です。
この完全や完全性を「神」や「仏」という言葉に置き換えてみると、すべての局面にあまねく世界に神や仏が存在し、行き渡っていて、いわゆる汎神論的な思想にもなってきます。
ということは、どこでも、いつでも私たちは神(仏)と会うことができ、また会っているのです。
先ほど言ったように、神(仏)は完全性の象徴ですから、私たち自身、いついかなる時も完全なるものを見ることができるのです。
それなのに、日々悩んだり、困ったりするのは、とらえ方や見方、反応の仕方に偏ったものがあったり、一部しか見ようとしないかったりするからだと言えます。
または完全(性)をとらえる能力や知性、感性などが未熟であるとも考えられます。要するに、無知であり、仏教でいうところの無明、本当の智慧に照らされていない状態です。
しかし、それがまた普通の人間の状態でもあり、そのことに意味を見出すと、苦しみや悩みも客観視する機会が得られるのです。
とはいえ、ずっと普通の状態(無明・無知)で居続けるというのは、言わば、何も考えずに人生に起こる現象だけに反応して(振り回されて)一生を過ごすようなものです。
せっかくの無知を自覚する機会も活かすことができず、原因不明のまま、わけがわからない状態で人生を終えてしまうことにもなりかねません。
先述したように、(普通の状態にある)人は完全性をとらえる(認識できる)力が足りない(それは無知である)ので、混沌した中に人間はいると言いました。
マルセイユタロットでは、「世界」のカードの状態になるためには、ほかのカードの象徴性で示されることを学ぶ必要があると言われています。
別にタロットでなくてもいいのですが、無知の状態から脱するには、単純に考えても、何かを知る必要があるのです。
近頃、学ばなくてもいいとか、自然体でいればいいとかいう人もいますが、何もしなくてもいいということとは別です。
言い方を換えれば、自然体や、何もしなくてもいいと信じられるようになる自分への変革がいるのです。
自分のありのままや自然体を取り戻せるよう、学んだり、感性を磨いたり、何かを捨てたり、力みを抜いたり、そういう何かの取り組みが「無知」から自分を救います。
また一度気づきや解放、変革があったとしても、解放や向上レベルの階梯は何段もあったり、何重にも柵が施されていたりするので、油断してはいけません。
まあ、あまり考えすぎたり、追い込んだりしても、それ自体が縛りや枠であることが多いので、どこか違和感の覚える状態は、自分における何かの過剰さを疑ってみる必要はあるでしょう。
この「違和感」というのは意外に重要で、人間にはもともと調和に戻るセンサー、完全性を表現したり、気づいたりするための装置があると考えられ、それらが「違和感」という感覚で知らせているのだと想像できます。
違和感と言っても、今の状態、その状態が間違っていますよという通知だけではなく、「違和感を持つことそのもの」がなぜなのか?ということを考える機会を与えられている、とも言えるのです。
後者はどういうことかと言いますと、その状態(外側のもの・状況)が間違っている、自分には合わないというお知らせではなく、その状態になじめない、あるいは認められない、受け入れられないというあなたに、何か偏った問題がある(完全性から遠ざかっている)ことを知らせているというケースです。
ではどちらなのかをどう見極めるのかという疑問もあるでしょうが、それを自分で判断できるように感覚を磨いていく、取り戻していくということ自体も学びです。
実はタロットを使うと、その学びを促進したり、センサーの感度を上げたり(タロットの出方によって、問題や偏りを認識することが)できます。
リアリストとロマンチスト
先日、京都でタロットの受講生の方々とともに新年会を行いました。
その時に語った内容の一部を、ブログ記事に書き換えて、ご紹介したいと思います。
それは、今回のタイトルにもあるように、ロマンチストとリアリストということがテーマです。
言い方を換えれば、理想主義と現実主義みたいなことですが、厳密な英語の意味でのそれではなく、和製英語と言いますか、もっといろいろな意味を含めてのふたつを表しています。
ロマンチストとは、まさにロマンや夢があったり、ちょっと普通ではできにくいようなことをしたり、語ったりする人をここでは言うことにします。
逆にリアリストとは、現実的に物事を考えがちな人、実際やリアルなこと・結果を重視する人、普通やルールに従って生きることをよしとする人、またはそうなってしまう傾向の人などとします。
さて、このところ、自分らしく自由に生きるということが、とみに叫ばれています。
やはりこれまで画一的で、生き方の選択肢もそれほど多くなく、自己表現や個性を発揮することが許されなかったり、自分そのものを追求しなくても良かった時代があったりしたことの影響があると言えます。
しかし現在、ネット社会の普及によって、個性ある生き方、意見、主張もどんどん発信されていくようになってきました。社会そのものが大きく変化してきていることも挙げられます。
そうして、今まででは考えられなかったような仕事や職業、生活スタイルを実践している人、目から鱗のような思想、新鮮であこがれるような考え方と行動というのが、人々の目にふれることになりました。
その結果、世の中のリアル(現実感覚、重要と思う実際の価値)というものが揺らぎ始めました。
つまりは、これまでの常識が非常識であったり、非常識と常識の境目がなくなってきたりしているわけです。
このことで、感覚的には夢か現実かの区別がつきにくくなるとも考えられます。
ここでいう「夢」とは、夢想・幻想的な、例えば夜、私たちが見る夢のようなものではなく、いわゆる「ドリーム」としての夢、希望や願望、理想として思い描くイメージみたいなものと思ってください。
現実と夢との境目があいまいなネットにおいて登場する人物たちは、現実の人物ではあるでしょうが、この人たちの見せるものは、現実ではないのかもしれないのです。
とはいえ、全くの嘘やデタラメでもなく、それどころか、きちんと実在している人が、実績や結果を残している場合も多いわけです。
そこで、人々はロマンを思いながらも現実感を持ち、「ああ、こんなスタイルで生きている人がいるんだ」「こんな仕事ができるんだ」「こんな方法で成功している人がいる」「この人のような考え方や生き方だと楽になれる」「幸せはこんな感じでつかめるんだ」・・・と思うわけです。
自分たちがネットで見ているものはすばらしいものであり、そこにはロマンがあると感じます。
ロマンを見せている(魅せている)人たちは、たいてい既成の枠からはずれ、思い切った考えと行動をしています。そこは魅力的であり、あこがれる要素でもあるでしょう。
マルセイユタロットで言えば、そのような人たちは「愚者」です。
「愚者」は型にはまらず、自由であり、楽天さをもった、普通の人にとっては一種のロマンの存在と言えましょう。
一方、ロマンを見せられている側は、多かれ少なかれ、現在の生活やスタイルに、不満や未熟性(もっとよくなるという思い)を抱いていることでしょう。
そうでなければ、人のことでロマンを感じることは難しいです。ですからロマンを生きていないという意味では、リアリストであるのです。
ただ、先ほど、ロマン性(夢や理想性)とリアル性(現実性)の境目が、特にネット社会ではなくなりつつあると指摘しました。
そう、リアリストである人たちも、ネットの情報洗礼を浴びているうちに、いつしか、自分にもロマンが宿り(復活し)、ロマンチストへと変貌し、ロマンを見せてくれる人の門下に入ったり、真似をしようとしたりします。
ところが、このロマンを見せてくれる「愚者」タイプの人たちは、もともと「愚者」気質を多分に持っており、型破りなことを平気で行えるところがあります。
こういう人たちはロマンチストではあるのですが、そのロマンは実はリアルなのです。
「愚者」タイプの人は、夢はかなうと本気で思っていたり、普通の人が夢やロマンのように感じるものでも、リアルに思ったりすることができるのです。
言い換えれば、ロマンのようなことでも、それを実現する可能性とその確信性を、広く強く持っているということです。
あるいは、もともと普通のタイプであっても(「愚者」タイプではない人)、ある事件や自己改革を経て、自分の中にある愚者性を目覚めさせたので、今は人(様)変わりしてる可能性も高いのです。
つまりロマンを見せている人は、ロマンチストのように見えて、実は当人たちの範囲では非常にリアリストであるのです。
またリアリストなので、この人たちの「現実」も、当人たちの思う(願う)状況を現出させやすくなっています。
しかし普通の人(普通のリアリスト)にとっては、ロマンはリアルではなく、あくまでロマンのままです。リアルと感じている(確信している)部分が、狭く浅いのです。(極めて常識的であるということ)
しかも、文字通り「ロマンチスト」であり、狭いリアルを生きながら、「いつかは脱出できる、変わる、救ってくれる」というような願望で、まじないのように何かをランダムに試したり、ただ夢を見ている状態の人も少なくありません。これはリアリストのようでいて、本当はロマンチストということになります。
しかし、だからと言って、ネットなどで活躍している魅力的なロマンチスト(実はリアリスト)の方々のようにならなければいけないというわけではありません。
実はロマンを見せている人の言いなりでは、普通の人(狭いリアルを生きている人)が、ロマンをリアルに変えること(実現すること)は難しい場合があるのです。
メーターでいえば、極端に針が振っている地点の人がロマンを見せている(魅せている)人であり、普通の人との位置の間には、結構な距離があるのです。
その距離をどうする(詰める)かが、非常に重要です。
ロマンは意志や行動力のエネルギーになりますが、ジャンプしても届かない距離の場合は、その距離を縮めるテクニックが必要です。
あこがれへのエネルギー(ロマン)だけでは、何度かチャレンジしているうちに、エネルギーを消費してしまい、飛び上がれなくなります。
ここでリアルな視点を入れます。
メーターの例えを出しましたので、それで続けますと、メーターの目盛りを刻むステップを取り入れるというのがひとつの方法です。
ロマンを見せてくれる人で、良心的な人ならば、そのステップをうまく指示してくれたり、導いてくれたりするでしょう。
または、目盛り移動やステップは、自分でコントロールすることも可能です。
ロマンのようなリアルを実現している人は、ロマンチストでありながらロマンをリアルと感じる力と範囲が大きいリアリストだと指摘しました。
マルセイユタロットに従えば、その過程(普通の人がロマンをリアルに変えていく道筋)も自然に描かれていることに気がつきます。
マルセイユタロットを知らない人でも言えることは、ロマンをリアルに、まずは心(思い方、考え方、感じ方)から変えていくテクニックと実践を行うことが鍵です。
何もしなくても、人生に起こる(経験する)大変な出来事によって、思考と感性は変化し、いい意味でも悪い意味でも変容します。
そのことで、人によっては、これまでのロマン(性)を、リアル(現実)に変貌させていくことがあります。ただそのリアルは、いいことも悪いことも含みます。
悪いことというのは、例えば、今までは思いもしなかった悲劇のパターン(不幸、不運、問題)を、自分が経験によってリアルに信じ込むようになり、それに現実感が出て、悲劇(と同じ性質もの)をまた実現させてしまうようなことです。
しかし、できればいいほうに変えたいですし、大変な経験をせずとも、意識的に学べばよいわけです。
そして精神や考え方がまずは重要ですが、次にはスモールな規模でも実践し、結果や成果を確認することも大事です。これは先述した「目盛り」を移動していくことと同意です。
要するに、「愚者」は「愚者」でも、まさに「愚か者」のような夢想的ロマンで動くのではなく、今あなたが感じているリアリティ(リアリスト的な要素)をロマンと融合させ、そのロマンをリアルと感じる力と実行力を拡大させていくことです。
簡単に言えば、意識の拡大と言えましょう。それは覚醒のステップでもあるのです。
マルセイユタロットで説明すれぱ、自分の中にある「愚者」にフォーカスし(それはロマンを見せてくれる人によって蘇らせることができます)、それを活性化させ、同時にカードでいえば、「手品師」や「皇帝」「吊るし」などの部分も重要視します。
狭いリアリティの範囲で生きている常識人(私たちのほとんどです)は、その意味で、「愚者」的精神と行動力が必要となるのです。とはいえ、一足飛びににロマンを目指すと、危険や欺瞞に囚われます。
ということで、「愚者」を目覚めさせながら、安全にロマンのリアル化を進めるとするならば、「できない」と思っていたことを、自分の今の現実の範囲内で、できると思うことに少しずつでも変えていくことだと表現できるでしょう。
一気にロマンチストになって、すべてがロマンになってしまっては問題です。マルセイユタロットでいう「悪魔」につながれる危険性もあります。
その(カリスマや「愚者」を色濃く表現できている人、先導的役割のある)人だからできている部分と、自分ができる部分と方法は、区分けしておくことも時には大切です。
誰も他人であるその人そのものになることはできませんし、その必要もありません。
なぜならば、究極的には皆同じでも、個性表現としては、一人一人全員違う存在だからです。(そのことに宇宙的価値があります)
そして人は皆、ロマンチストなリアリストであり、リアリストなロマンチストなのです。極端が似合う人もいれば、少しずつや、穏やかさが合っている人もいるのです。
「自分らしさ」で生きることは、自分の生きている実感と心地よさが多く感じられるものだと思います。
成功や幸せを求めている今の自分が、何だか苦しくして、つらい、腑に落ちない、違和感があるということは、自分らしく生きていると言えないこともあるわけです。
何かにならねばならないということを、肩の力を抜いてあきらめた時、光や答えは意外に出てくるものなのです。
「名前」の不思議
まずお知らせです。
今週末から始まる新大阪のマルセイユタロット基礎講座ハイクラス(あと残枠1名程度です)のほかに、気軽にマルセイユタロットを学んでいただく入門コースも、今月下旬から開講いたします。詳細は近日中に発表しますので、お待ちください。
さて、本日の記事です。
皆さんは名前について考えたことがありますか?
子供さんができて命名する時や、運勢について思った時に、姓名判断などで気にされる人もいるかもしれません。
私も、以前占いをしていた頃は、姓名判断について研究したことがありました。
以前にも書いたかもしれませんが、その時思ったのは、やはり名前は何か人生に影響はあるということです。
しかし、その後、またいろいろと考察してくる中で、結局、信じたものがその世界(それが通じ、影響する世界)に移行するという考え方に、今はなっています。
要するに、自分の確信次第だということですね。
とはいえ、名前の影響は無視できないものがあります。それは現実世界でも、人やモノの名前をまったく考慮せず生活することは不可能だからです。
当たり前ですが、誰しも名前を持ち、それを呼んだり呼ばれたりします。意識しないことはないわけです。
ですから名前を意識する限り、名前からの何らかの影響は受けるはずです。
まだ厳密にはわからない部分は多いですが、名前からは「音」が発生しますから、その音の波動が作用することも考えられます。
画数、漢字の意味、これらも考えようによっては意味を持つものですので、やはり「意味を持つ」とする分だけ、「意味のある」ことになるとイメージできます。
タロットにおいても、カードの名前によって意味合いが変わることがあります。
もちろんタロットはカードの図像が基本ですので、その図像が名前を持つわけですが、いつしか逆転して、名前自体がカードの意味を規定してしまうこともあるのです。
例えば、マルセイユタロットとほかのカードでの一般的な呼び名が違うものかあり、それは本来、図像の違いから来ていることなのですが、その呼び名に慣れてしまうと、ほかのカードでも自分のカードの名前を当てはめてしまうことにより、カードの図像とは切り離して見るケースがあります。
ウェイト版を習ってそれになじんでいる方が、「塔」という呼び名でマルセイユ版の「神の家」を呼ぶ時、それはマルセイユ版の「神の家」ではなく、ウェイト版の概念での「塔」になってしまうことがあるのです。(その逆も当然あります)
「名は体を表す」ではないですが、もう名前に力やパワー、意味がこもっているようになっているのですね。
「神の家」が出たので、ついでに言いますと、神や悪魔などの超越的存在の真の名前を呼ぶことができれば、その力を得たり、そのエネルギーを自分のものとしてコントロールできたりすると言われます。
それほど名前は重要でもあるのですね。マルセイユタロットの「13」のカードに名前がないのも、ひとつには、そうした名前の力に関することがあると言われます。
ところでタロットの世界とコンタクトするための瞑想法がありますが、そのイメージの世界で、タロットカード自身が名前を述べることがあります。
それはいわゆる「皇帝」とか「審判」とかの一般名ではなく、カード自身の持つ名前であり、それは瞑想者個人にとっての重要な鍵となる言葉(名前)でもあるのです。
それゆえに、一人一人、カードの名前は異なりますし、時によって名前自体変わることもあります。
さて、ここで話を変えますが、名前にまつわることで、面白い見方を披露しましょう。
それは、過去、自分に関わった人の名前を挙げていくというものです。
特に友人とか恋人(片思いの人でもOK)とか、先輩・上司、後輩・部下とか、先生とか、とにかく強く自分に影響を与えた人の名前を思い出します。
すると、ある共通点を見つけることができるかもしれません。
不思議と似たような名前だったり、漢字は違っても同じ「音(オン)」だったり、明らかに数種類のパターンに分かれていたりするとか、そういうことに気がつく事があります。
それから地名とか出身校を遡ってみてもよいです。それぞれ全部の校名とか地名とかではなく、その最初の1文字とか終わりのほうの文字とか、目立つ文字とか拾っていくと、漢語的な意味ある文章のようになることがあるのです。
偶然といえば偶然のようですが、この世に偶然はないという考え方も一方ではあります。
そこから自分の生きている道筋、大きな方向性、天の意志のようなものが見えてくることもあるわけです。
名前とはやはり、不思議なものなのです。