カードからの気づき

運をよくする方法 異説

運を良くしたい・・と誰しも思うかもしれません。

巷の占いでは、悩み事を相談するために占い師に相談するということもありますが、運勢を見てほしいとか、運を良くしたいと思って訪れる方も少なくないでしょう。

タロットカードにも「運命の輪」という名前のついた、まさしく「運」を象徴したようなカードが存在しております。

タロットカードはある意味、あらゆるもののモデルや構図・元型として描かれているところがありますので、そこで運を象徴するカードがあるということは、運について見たり考えたりすることは必然であるとも言えるのです。

ここで運とは何か?という話を、それこそタロットカードの「運命の輪」を元にして、私なりの考えでお話したいところではありますが、長くなりますし、実用的にはあまり意味のないと感じられることになるかもしれませんので、講座などの機会でそのお話は譲るといたしまして、今回は別の観点で述べたいと思います。

一般的に、運を良くしようと思うと、外に働きかけるか内に働きかけるかの区別になると思います。

外側というのは、外的な部分、環境と考えてもいいでしょう。

例えば風水などの考え方を利用して、建物やモノの配置を変えたり整えたりする、方位学から割り出された吉方位に旅行する、引っ越しする、よい気に満ちていると思われるパワースポットに行ったりする・・・などのことがあるでしょう。(それが実際に効果があるかどうかの議論はここではしません)

また、自分自身をよい状態にしていくことで、運が良くなっていくことも考えられますので、健康に気遣う、食事・睡眠など基本的な部分でよいものを採り入れるなどの方法もあるかもしれません。

その他、運のよい人に会う、その影響を受けるということでもいいでしょう。

さらには、自分が活き活きとして存在できるような趣味や生き甲斐を持ったり、自分が楽しいと思える人との交際(恋愛、友人関係、グループ活動等)をしていったりすることで、運気も向上することが考えられます。

この、外に働きかけるアプローチでは、創造と破壊という観点で見ていくと面白いです。

つまり、今より何かもっと加えるか、逆に削ぎ落としたり、シンプルにしたり、壊したりすることでよくなるかという見方と行動です。

現在運が悪いなあと思っている人は、何か新しいことをしたり、加えたりすればよい方向と、もうひとつ、いわゆる断捨離したり、縮小したりする方向で運気を変えるということです。

さて、まあ、こういう外に働きかけることは、よくいろいろな人もお話されていることであり、それ相応の専門家の人もいらっしゃり、相談することもできると思います。

一方の、「内に働きかける」ということが、意外に語られていません。いや話されてはいますが、もうひとつ踏み込まれていないことがあるのです。

それは言わば、「運」というものを意識しない方法というものです。

私たちが運がよいとか悪いとかの視点で「運」を考える時、結局、自分にとってよいか悪いかという見方をしており、その基準は自分の価値観(それが自分が信じている社会・組織の価値観の場合もあります)になります。

そこには自分のルールや自己の決めた法律(思い込み・信念みたいなのものも含む)に基づいた、白か黒かの色分けがあるのです。

よくスピリチュアルな世界では、物事は中立だと言います。起こっていること自体は中立で、いいも悪いもなく、それを決めているのはあなた自身だということです。

例えば出勤前につまずいて「運が悪い」と思うかもしれませんが、つまずいたおかげで忘れ物に気づいたとなれば、「運が良かった」と思うかもしれません。

ここにあるのは、つまずいたということと、忘れ物を思い出したという事実だけで、別々に純粋に考えると、運がいいか悪いかは決められないものです。

また人は時間に縛られている世界に住んでいますので、過去をふりかえり、「あの時、あちらに行っていれば・・・」「あの時、あの人を選んでいれば・・・」「あそこで止めておけば・・・」と後悔しますが、それもその時の選択であって、たとえ別の選択をしていても良かったかどうか、あるいはあなたの想像通りに行っていたかは本当はわからないものです。

むしろ失敗と思う選択をしたからこそ、失敗そのものにも今気づくことができたと言えますし、あなたが変われるチャンスを得たということもできます。しかしそれさえもいいか悪いかはわかりません。

というような話は、たぶんよく聞いたと思います。「だから物事を中立なので、思い方次第だ、運は気にするな」という内的な部分に関する理論です。

私の言う、「内に働きかける」というのは、確かにこれと同様で基本にはなっていますが、少し適用に違いがあります。

すごく簡単な言い方になりますか、先述した理論だと、要するに「物事は中立だ」と思えればいいわけなのです。

ところがそうは思いにくいのが実状で、やっばりは運の良し悪しはあるよねぇ・・と見えて(思って)しまうのも人の常で、この世で生きている感覚でもあります。

ということで、運の良し悪しはあるように感じるのが、どうしても人間としては起こると前提したうえで、それでも物事をできるだけ中立に見る方法はどうすればよいかと考えます。

そして出てきたのが平凡な答えでもあるのですが、「モノの見方をできるだけ多様する」ということです。

要するに、物事を一方向や少ないとらえ方で見るから、白・黒と見えてくるわけです。

それは何かを決定したり、意志を統一したりするのではよいことでもあるのですが、偏りも出がちになります。

いろいろな方向から見る癖をつけておくと、白と黒の間のグレーがグラデーションのようにたくさん出てきて、その色の数だけ答えがあるように思えてきます。

究極的に色なんてないのかもしれない、色を決めているのはその時その時の気分の問題みたいに思えてきます。

これらは例え話ではありますが、この色というのが見方・考え方に当たります。

できるだけ多様で拡大した意識と考え方を身につけて行けば、物事に対して中立に見ることに近い感覚も出てきます。完全に中立になるのは難しいかもしれませんが、何もしないよりかははるかにましだといえましょう。

この方法でやっていくと、「運」は「気」にしなくなります。文字通り、「運気」というものが自分の世界観の中ではなくなって行き、別の境地へとあなたの世界は移行します。

と言っても、それ(完全に気にしない状態)は理想で、「運気はある」と自分が思って気にしている限り、その気にしている程度に応じて、確実に運はあなたに影響を及ぼします。

まあ、そうやって運を気にしていくのも人間だもの・・(笑)ということで面白いのですが。

ということで、もう一度、言いますと、「内側に働きかける」という方法は、自分の思い方・考え方に作用させるということで、多様な見方(それはつまり多様な世界観ということでもあります)を獲得していく意味になります。厳密に言えば、運を良くする方法ではなくて、運を忘れる(笑)方法と言えます。

こうすると運の良し悪しの「良し悪し」のレベルの範囲があやふやになっていき、どちらでもいいや、みたいなことになり、運に振り回されることが少なくなるということですね。

マルセイユタロットを知っている人は、これが「運命の輪」に関係するということが、よくわかると思います。


自分の使命や役割を考えること

人は、自分に何かの役割や使命があるのではないかと思いたい時があります。

自分の生きている意味が知りたい、何か自分が役に立つ存在でありたいと、人は願うわけです。

それは当然の気持ちとも言えるでしょう。

何かの使命感や、生きている意味・役割を自分が持っていたほうが、やはり人生はそれだけ文字通り「意味ある」ものに見えてきますし、充実感も違うからです。

しかし、一方で、自分をひとつの役割・使命に限定させてしまう危険性もあります。

タロットを見ていて思うのは、人間の中にある可能性であり、宇宙(神と呼んでよいもの)とリンクする完全性です。

人にはすべての可能性があり、誰しも役割はひとつとは限らないということです。

ただ、確かに物理的制約や、ある一定のルールのもとで、叶わないものもあります。

とはいえ、あまりに自分の傾向を分析し過ぎたり、役割や使命というようなものをひとつに絞り過ぎたりすると、かえって自らの可能性を狭めてしまうことにもなりかねません。

「これだけ」という強い思いは、物事を成し遂げたり、改革して行ったりする強力な意志と行動力を生みますが、自分の信じていたものが間違っていたとか、価値観のまったく異なる世界に周りが変貌するような時、自分の中の柱がポキリと折れ、立ち直ることができないおそれもあるのです。

思えば、モノでも見方や考え方を変えれば、複数の機能(役割)が出ます。

例えば一本の木の棒、これは登山者や歩行者にとっては杖となるでしょう。

また、寒い時にはたき火の火種にもなります。

何か、机のような土台を支える柱になるかもしれませんし、杭になって、境界を区切る線になるかもしれません。

もちろん身を守ったり、相手を打ちのめす武器としても使えます。

このように、モノでもたくさんの姿があるわけです。ましてや人間なら、なおさら多くの姿があるはずです。

ですから、今の職場や家庭でのあなたの姿、もしくは役割・機能がすべてでは当然ありません。

もしかすると、自分の使命をすでに発見している人がいるかもしれませんが、見つかっていない人が問題でもありませんし、見つかっていても、それだけとは限らないのです。

途中で使命や役割が変わるケースはいくらでもあるでしょう。

「役割」ということで見れば、状況・環境によっても刻々と変わります

あなたが伝えたり、教えたり、導いたりする役割になることもあれば、逆に導かれたり、教えられたりする側に回ることはあります。

あえて悪い言い方をすれば、人に迷惑をかけることもあれば、かけられることもあるわけです。

子供の頃は子供として育てられたり、教育させられたりしますが、大人になれば、反対の立場・役割になります。(まあ、大人になっても子供の役をしている人はいますが・・(^_^;))

それから、自分の個性・特質を知るということが、自分の役割や使命を知ることでも有効ではありますが、それも落とし穴があり、個性を活かす(活かすというより拘るという)ことが、逆に自分を枠内に押し込める結果となることもあります。

例えば、占星術でも、出生ホロスコープを超えることがひとつの目標であると言われ、星を使うのではなく、星を超えることが本当の目標と言え、そのための過程として自分のホロスコープをよく知る必要があるというものになります。(これはあくまで私の考えで、占星術的には異なる意見もたくさんあります)

しかし、自分の特徴に拘るあまり、星の象徴するエネルギーを、星々の運行状況によって、自分の運をよくするためだけに使おうすることがあります。

そうすると、逆に星に操られるといった表現に近いものになり、自分に刻まれた星々のエネルギーに衝動的に動かされる自分のままになることがあります。

結局、使命や役割にこだわるのも、この現実世界だけの話ということが多く、現実をたくましく生きる術としては大変優れたアイデアと言えますが、囚われすぎると自己の真の解放から遠ざかることもあるということです。

まあ、そういった面では、自分の役割や使命は自分が決めればよく(可能性はたくさんありますので)、決めればその通りの世界観を自らが構築していくことになりますので、使命に生きることができやすくなるとも言えます。

あと、ひとつ留意しておきたいのは、未来や過去にあまり執着するのではなく(それに意味がないわけではありませんが)、自分が置かれている環境や状態、自己の経験が、実は使命や役割として、もっとも注力しなくてはならないことなのだと気づくのは、重要だということです。


依存心と独立心のバランス

人の中では、依存する心独立したいという2つの相反するものが、いつもせめぎ合っていると言えます。

マルセイユタロットカードにおいても、そのことは描かれています。

頑張りすぎたり、ひとつのことに拘りすぎたりするようなタイプの人は、「自分軸」で思い過ぎ、結局、過剰な独立心で自らを疲弊させてしまいます。

このような人は、もっと依存心を正直に出し、誰かや何かに依存する心でもって、行き過ぎた独立心、過剰なる責任感を和らげる必要があります。

誰にも頼れない、頼ってはいけないと思い込んでいるのです。

人は一人では生きていけませんし、どんなモノでも状態でも、他人の手やエネルギーがかかっています。

自分一人でやったと思っていても、今の社会、他の人の手によらず、道具も使わずで一から創造することはほぼ不可能です。

と思うと、誰もが依存しあって生きているようなものです。

過剰なる独立心と責任感を持ってしまっている人は、勢い、行動もそうなりますので、以下のような問題が生じがちです。

●自分を縛っていくことになる

●他人の責任・力を奪うことになる

●人を支配するようになる

ほかにもありますが、代表的なものではこれでしょう。

「自分を縛っていく」というのは、言わなくてもわかることですが、「ねばならない」と思う心が次第に増えてきて、それがますます自分を縛り、アイデアや思考も硬直して、行動や活動するフィールドもワンパターンになってしまうことです。

人間、視野が狭くなって、「これしかない」という限定的になり過ぎますと、実は恐るべき事に、それに依存してしまうようになります。過剰な独立心や責任感が、逆にある依存を生み出すのです。

「それ(これ)しかない」ということは、それを失ったり、それができなかったりするということへの強い恐れを生じさせ、自己への呪いとも言える強制力を自ら働かせることになるからです。

二番目の、「他人の責任・力を奪う」というのは、本来、人には関係性において、応分の取るべき責任があるのに、その人の分まで自分が負うことで、かえって人の成長する機会・能力を奪ってしまうということです。

過保護な親が子供に何でも世話をやいてしまい、かえって子供をダメにしてしまうようなものです。

そうすると、いつか子供がその親を逆に恨むようになることがあるように、自分が家族や社員のために頑張ってきたはずなのに、家族から反抗されたり、社員が会社を辞めていったりするようなことが起こるのです。

三番目の「人を支配する」は、自分がすべてやらねばならないと頑張っていると、周囲をコントロールしていくというパワーゲームに取り憑かれことにもなり、うまく行かない状況が続くと、さらに自分のコントロール力・影響力を強めようとし、それが誤って支配につながるということです。

結局、どの問題でもバランスが鍵となり、適度な依存心、自分より相手に独立してもらう気持ちも大切となるのです。

一生懸命やってきたのに、環境や人も変わらず、自分が疲れてうつ病や不幸な状態になるのも、過剰なるエネルギーのバランス回復のため、自分がもっと依存できるような環境を自ら創出すると考えられます。

タロットにおいても、杖や寄り添う動物が描かれています。

これは独立していくことも重要ですが、その過程では、杖によって支えていくこと(支えられること)誰かに補助・サポートを受けて成長していくことも示唆されているのです。

そして、これもバランスですが、ひとしきり依存を味わったら、再び独立に向けたエネルギーの転換が生じます。

いつまでも依存が続くと、今度は反対に依存が強すぎて、自分の創造と実行する力(独立する力)を失って行き(生き)ます。誰かや何かがないと生きていけないという状態です。

それはまさしく堕落や麻痺・中毒・幻想の道に陥ることになります。

タロットカードの「運命の輪」は見事にそのことを象徴しています。(運命もそれで変わる)

どちらにしても、「素直な自分になる」ということがキーワードかと思います。


マルセイユタロット そして「13」

私はずっとマルセイユタロットを扱い、教えても来ましたが、最近、とみに感じるのは、このタロットに出会う縁の不思議さや深さです。

個人的にはマルセイユタロットは、「タロット」という名前がついていますが、世間一般の思う「タロット」という代物とはまったく違うものだと感じています。

ですから、何か別の名前をつけたいくらいのものなのです。

そして、このマルセイユタロットを本格的に学びたいという人も、実はすごく限られているような気もしてきました。

これまではマルセイユタロットの叡智を幅広く、皆さんにお伝えしたいという気持ちがありましたが、前述したように、実はマルセイユタロットはそういうものではなくて、ゲームとしての体裁は別としまして、もともと口伝や秘儀として伝えられてきたこともあり、ご縁というものを大切にした、狭く深い形での浸透が求められるのではないかと思ってくきたのです。

ところで、マルセイユタロットには「13」(正式にはローマ数字)という数を持つ、名前のない大アルカナのカードがあります。

一般的にはこの数を持つ同じポジションのカードは「死神」と呼ばれ、嫌悪されがちなのですが、そもそもそういう名称自体が、マルセイユタロットから見た場合は誤解を生じているように思えます。

それはともかく、この「13」のカードの象徴のひとつに、「究極や本質が残るまで削ぎ落としていく」というものがあります。原初や無に近づけると言ってもいいでしょう。

その過程では姿・形(スタイル)思考、これまでの信念も変えていく、変わっていくことも当然考えられます。

この作業は、簡単に言えば、それまでの自分の否定であり、もっと強い言い方をすれば、自己の破壊(解体)であり、(これまでの)自分を殺すことでもあります。

それまではむしろ、自分の肯定、今年流行った言葉でいえば、「ありのままの自分」を認めていく過程を通過していたわけですが、この「13」で象徴されるプロセスでは、それさえも疑い、否定し、破壊しなくてはいけないこともあるという大変厳しい作業になってきます。

「ありのままの自分」「自分をついに見つけた」と思っていたものが、この作業によって、実はまだ奥があった、いや、無駄な自分を演じていた(しかしそれは必要なプロセスでもあります)ということに気がついてくるのです。

自分だけではなく、周囲に対する世界観さえ変容することになり、かなりの混乱も迎えます。

「13」の前の、それまでの作業では、自分を見つけた喜び、自分は生きていていいんだという自己肯定感を持つことができます。

それはそれで大変重要なことであり、まずはその実感が必要です。

しかし、さらに改革を進めて行けば、突如物事や思考は反転し(マルセイユタロットでは「吊るし」で象徴される)、今度は自己否定につながり、とてもつらい暗い部分に突入します。

そうして、真に自分が必要なもの自分の奥にあった輝きが現れてきます。

それはまるで凝縮され磨かれ、蒸留されて、浄化の過程を経て純粋物が抽出されたかのように、本当に大切なものが見えてくる感覚でしょう。

その時、自分は今までとは違った状態と喜びを経験するはずです。それは、かつての喜びとは比較にならない次元のものだと思います。

マルセイユタロットを学ぶ縁は、この「13」過程も意識したものとなります。

従って、今後は、本当にこのタロットの叡智を必要とされる方、このタロットと出会い、学びを深めたい方に、これまで以上にご縁の意味を思い、今までもそうでしたが、さらに心を込めて伝えていきたいと思います。

入り口にはいろいろな形はありますが、このタロットと縁のある方は、きっとどこかで出会えることになると思っております。


法則・規則・ルール 「正義」からの考察

タロットカードに「正義」というカードがあります。

タロットは象徴を示しますので、たくさんの意味が生じますが、「正義」は規則とかルールとか法則とか、そういうものも象徴するカードです。

そもそもが裁判をしている裁判官のような人物像で描かれているからです。(マルセイユタロット)

さて、このカードから「法則」というものを考察していますと、法則のレベルや次元、適用分野ということが浮かんできます。

私たちは、普通、自分たちの住む世界とフィールドにおいて適用される法則・規則を気にします。

ちょっと難しい表現をすれば、「自分がリアリティ(現実)を感じている時空間範囲において」と言うこともできます。

いずれにしても、ルールや規則を気にしないと、ルール違反となって不利益を被ることもあるからですし、法則や規則に則らないと、社会生活もまともにできないからです。そもそも他人に迷惑もかけてしまいます。

規則や法則は明文化された「法律」「条例」のようなものもありますが、やっかいなのは、文章化されていない暗黙のルールとか、「ここではそういうことになっている」みたいな習慣のような「目にに見えない規則」があるということです。

ここにも目に見える世界(表)と見えない世界(裏)の二元があるわけです。

私たちはいつも、どのような分野においても、実はこのふたつの世界(二元)を意識(潜在意識で意識している場合もあり)しているのです。

さて、目に見えない法則は難しいですが、目に見える(明文化される)法則や規則がわかりやすいかと言えば、必ずしもそうとは限りません。

いわゆる法の抜け穴を狙うという表現があるように、解釈や意味も幅が広くなることもあるからです。

また、所変われば法律も変わるということで、自分の地域や国には適用されても、他の所では非常識な法律になることもあります。

そうすると、世界ルールとして共通認識のあるものは、存外少ないものなのかもしれません。まあ、それは極めて当たり前であったり、抽象的な表現になったりするものなのでしょう。

ここで言いたいことは、個人(小さい範囲・個別認識)になればなるほど、ルールは複雑化し、細かくなっていくということです。

従って、一人一人の意識していたり、守っていたりするルールは、実は一般に思われているより、相当数が多いということなのです。

さきほど、目に見えないルールもあると言いました。それらも含めると、一人の人間が遵守している、あるいは守らされている規則やルール・法則は、いったいどれだけあるのかと思わせるものであり、言わば、人は、自分をがんじがらめに縛って人生を歩んでいるようなものです。

ですから、今一度、本当に守らなければいけないルールなのかを、大きな視点から思い返してみるのもよいでしょう。

あと、これは、スピリチュアル志向の人には特に言いたいですが、目に見えない世界にもきちんとしたルールがあるということです。

目に見えない世界に関心が行きすぎると、「奇跡も魔法もあるんだよ」みたいな感覚になり、摩訶不思議なことが起こせると妄想的に信じ込んでしまう人も出ますが、私が思うに、どんな世界においてもちゃんとした法則があり、それに従っていないと起きるものも起きないと考えています。

私たちがあることを魔法や奇跡に思ったり、見えたりしても、それは別の次元や世界ではルールに則った現象なのだということです。言い換えれば、論理的なのです。

ただその論理が、私たちの知っているルールや法則と違うだけです。

だから、できないものはできないですし、起きないものは起きないのです。逆に言えば、きちんとその世界においての理屈が立てば、起きるものは起きます。

ということは、盲目的に何でも信じ込んでしまうのではなく、私たちがこの世界でのルールに則って科学的態度で物事を探求していくように、別世界においてもその規則やルール・法則を知ろうとして、不思議と思えるものの成り立ちや発現の真理を理解する態度も大事なのではないかと、私自身は思っているのです。

ですから、信じることと疑うことのバランスは重要なのです。


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