カードからの気づき

自分は何者でもないと思う時

皆さんは、「自分は何者でもない」と悲観したり、孤独感を覚えたりしたことはあるでしょうか?

自分の価値が自分自身で認められないと、時にそういった心境に陥ります。いわゆるセルフイメージとも関係します。

しかし、今日はその手のお話ではありません。

何と言いますか、自己尊厳を高める技術とか、心理とか、そういう次元での話しをしたいわけではないのです。

実は私は思うのですが、この「自分は何者でもない」という感覚は、マルセイユタロットに教義として描かれているグノーシス(自身の神性を認識すること)的なことと強く関係するのではないかと思っています。

自己価値うんぬんの話ではなく、ともかく自分が何者でもないという実感に戻ることが重要なのだということです。

人は自分が何かに所属していたり、何かの専門家や資格者、誰かのパートナーや友人、ある種の地位や社会的立場、そういうものがあってこそ、自分というものが「何者であるか」を感じます。いえ、正確に言うと、決めている、選択している、さらには、決めさせられていると言っていいでしょう。

しかし、そう書くとわかるように、結局、何か創り上げられたひとつの世界での「役割」が、自分を自分として認識させているものだとわかります。

しかしながら、本当にその役割を持つ者が「自分」なのでしょうか?

ここで、危険なのは、今の自分が本当ではないと思い始めると、ほかの世界に自分の居場所を求めようとすることです。

はっきり言えば、現実逃避です。

例えば、極端なケースでいえば、自分はもともと地球外の星の生まれの魂であり、何らかのことで地球という星に生まれてしまい、そのため地球の人たちの生活や考え方にはなじめないのは当然だとしてしまうようなことです。

私の言っている「何者でもない」というのは、そうした逃避で生み出す幻想感覚のことではありません。

言ってみれば、自分の仮面・ペルソナ・役割をはずしていくと、そこに残るものはまさに「何者でもない自分」であるということなのです。

そう、これはマルセイユタロットでいえば、「愚者」に戻ることと言えます。

愚者は、大アルカナにおいて、このカードだけ数を持ちません。すなわち、「何者でもない」のです。

逆説的に言えば、何者でもないということは、何者でもある(何者にでもなれる可能性を残す)ということになります。

もしも、「愚者」が「運命の輪」というカード(に描かれる象徴の理解)にたどり着けば、その時、自分の運命は、まるで「輪」というロータリーに進入した車のように、別の道に乗り換えることができるかもしれません。

ですから、「自分が何者でもない」という無力感に苛まされた時は、反対に自分のカラーを無色にするというチャンスでもあり、振り出しに戻ることを意識すればよいのです。そうすれば、自分の運命が切り替わる可能性も出てきます。

他人には他人の役割があるでしょう。自分の役割が見つからなくても、むしろそれは将来や大きな意味では好都合のこともあるのです。

大切なのは、何かを見つけようとあせらないことです。もともと人は、誰でも何者でもないのですから。

そして、「何者でもない」と思った時は、何者でもなれるというチャンスなのです。

もちろん人は、ほかの人や社会に求められ、それらに貢献していることに実感を得ることで生き甲斐を持つことも承知しています。

しかしながら、この世の中、誰もが成功し、誰もが貢献感を持てる環境にあるとは言い難いところもあります。

ですから、極端に言えば、人は本来何者でもないのだと思えば、下手なあせりや落ち込みも避けられる場合もあると提案しているわけです。

むしろ何者でもないのは、マルセイユタロット的には「愚者」として自由であるとも言えます。何者でもないことを牢獄とするか、反対に解放のツールとするかはあなた次第です。

ただ、だからと言って、私は人の感情や愛情を無視せよといっているのではありません。

実は、「何者でもない」と思いつつも、人と人との間に交換されていく「愛の受け渡し」を発見すること、これが非常に大切です。それが自分の中を通しても繰り広げられていることも実感することです。

どんな人にも愛の受け渡し、リレーはあります。それに気がつかないだけです。

あと、さきほど、逃避の例で、自分は地球人ではないというように思うケースを言いましたが、実はこれも逃避ではなく、本当の感覚というのもあると私は信じています。

別に漫画的な宇宙人を想定するのではないのですが、グノーシス的にはこの世の中には欺瞞があり、真の還るべき世界があると説明されているからです。

そこに気づこうと努力する時、一時的には自分の居場所を、この現実世界から失うかのような感覚を持つこともありうると考えています。

まあ、この話は普通では荒唐無稽なストーリーになってしまいますので、あまりこれ以上はふれませんが。タロット講座ではお話しておりますので、興味のある人は聞きに来てください。


マルセイユタロットの安全弁と次元深化

このところ、マルセイユタロットに描かれている(象徴されている)さらなる深い部分に入ることがあり、それはカードでいえば、「悪魔」や「月」に隠されたことなのですが、そこはいわゆる「暗い闇」にも関係し、うかつにふれると、自分の存在も危うくなりかねないものでした。

ところで、先日、私は整体に行きましたが、その整体の先生は、私の体を見て(触って)、「普通の不安ではない、得体の知れない不安を感じている時に出ている反応がありますよ」と言われました。

さすがに先生で、体を触っただけでお見通しなんですよね。

また興味深いのは、やはり心の不安や葛藤は、身体反応にリンクしていて、影響は必ず出るということです。

整体の先生のお話を聞いていますと、自分の感じ方によって体の反応も変わってくるのがよくわかります。

ここで重要なのは、人によって感じ方は違いますが、反応する体の部分は同じだということです。

よく人それぞれと言いますが、確かにそれはその通りで、人によって個性があり、思い方・感じ方はみんな違っています。

ところが、感じ方は違っても、例えば深く傷ついた場合はここに反応し、軽い心配程度ならこちらに反応する・・・というように、やはり体の反応としては皆共通であるようなのです。

ということは、逆に考えれば、体の反応を見れば、その人があることに対してどう受け止めているのか(実際にどう感じているか)の程度や状況がわかるということです。

まったく同じ(外部的な)体験をしたとしても、人によって感じ方や受け止め方が異なるので、それぞれで体の反応が違い、同じ経験や問題でも、病気になる人もいれば、何事もないという人もいるわけなのです。

問題などの悪いことだけではなく、あることに対して、深い感動をしているか、そうではないかも体に蓄積されるのだと想像できます。

まさに、物事の受け止め方が、かなり体や健康にも関係していることが改めてわかります。

ですから、外の環境や起きる事件だけ見ていては、物事の本質はわからないということです。その反応や処理が重要でもあるのです。

さて、話は戻りますが、冒頭の「闇」のことです。

このような深いところの問題は、準備不足であったり、無理したりして扱うことはよくないと思います。

マルセイユタロットはの場合、私があくまで感じていることですが、セーフモードというのがあり、その人の至っている力以上の問題に踏み込もうとすると、ストップがかかったり、混乱しても初期の状態に戻してくれたりする事態が訪れます。

安全弁みたいなものです。これは「正義」のカードにも象徴されることです。

安全弁の作動が現れると、タロットが急にやりたくなくなったり、妙なやる気のなさを感じたり、考察を深めようとすると頭にもやがかかったみたいにあまり考えられなくなったり・・・と人や程度によっていろいろです。

これは無理がかかって、心身や霊的なものを壊さないように、マルセイユタロットがそのように働いている(できている)と私は思います。

今回のことは、私もまだまだ力不足を実感しました。ただ、深い葛藤を経験したことにより、そこからの出口と言いますか、光も期待できるもので、その手がかりの一端はつかんだ気がします。

どんな牢獄でも、必ず脱出口はあるものだと実感します。それはこの世界のことでもあるのです。

あなたが過去や現在において、あるいは予想される未来においても、どうにもうまく行かないと思ったり、閉塞感を覚えていたり、何度もループのように同じことが繰り返されていると感じたり、実際に不幸であるような状態にあったりしても、出口や脱出する方法は必ずあると、私はマルセイユタロットから感じます。

マルセイユタロットの「吊るし」は三方が囲われて、手足を縛って吊されている(本当はそうでありませんが)ような人の絵柄です。

ところが、この人物とて「囚われの身」ではなく、すでに自由性を獲得しようとしているのが、タロットの暗号を知るとわかります。

本当の意味で誰が設計したのかは不明のマルセイユタロット(の図像と構造)ですが、やはり人にとって真に必要な情報が、ただのカードゲームのような形で残されていることに、偉大さを感じるのです。


梯子をイメージする。

マルセイユタロットには、梯子がいくつか描かれています。

それには重大な秘密(アルカナ)を含むため、ここでは詳しくふれられませんが、伝えられているアルカナとは別に、私自身、その梯子を見ていて観じた(感じた)ことを話したいと思います。

ちょっと皆さん、ここで梯子をイメージしてみてください。

さて、どんな形の梯子をイメージしましたか?

イメージ(像)を描く時、その元型は、たいてい経験によるものが多くなります。つまり自分が実際に見たり、聞いたりしたシーンをもとにしているということです。(もちろんそうでないものもあります)

ですから、梯子と言っても、それを知らない(見たことがない)人は当然イメージできませんし、知っている人は、以前自分が作業で使ったとか、何かの映像で見たとか、近所のおじさんが使用していたのを見たとか、そういうものの記憶から出すことになるでしょう。

とはいえ、梯子でもまったく同じもの、同じシーンを見続けたわけではないはずです。少なくとも、別の何個かは見ているでしょう。

それなのに、今あなたがイメージした梯子はなぜその形だったのか、それを考えると面白いです。きっと理由があるのです。

それから、その梯子の間隔(横木の縦間隔)はどんな感じだったでしょうか? 

緻密で隙間があまりない状態ですか? それとも結構広いものでしょうか? また中には整然と横木が並んでいるのではなく、斜めになっていたり、ランダムに並んでいたりするものを想像した人もあるかもしれません。

実はイメージした梯子の形式や構造は、自分を変えたり、新しいものに出会って行動したりする自己のパターンや思いを象徴していることがあるのです。

緻密な横木をイメージした人は、まさに着実に歩みたい、きちんと理解してから進みたいという傾向が強く、梯子を登らせてくれる師の登場を待っている場合がありますし、そういう人に出会うと、進歩は早いです。

横木の間隔は広いものをイメージした人は、大きく分けて二通りのタイプが考えられます。

ひとつは、割と冒険やチャレンジを好む人。少々の無理があっても飛び越えたい心理があり、さらにはその過程を思うこと自体、ワクワクするというものです。

あとひとつは、逆に、今進みたいけれど進めない何らかの抵抗や距離感を感じている人が、横木のスペースを広くイメージする場合があります。梯子に手や足がかかりそうでかけられない状態を象徴しているのですね。

あと、全体的には窮屈さや、押しつけを嫌う傾向があるかもしれません。

最後に、まさにランダムとも言える梯子をイメージした人です。

しかも横木だけではなく、梯子全体も曲がっていたり、複数からんでいたりのものをイメージした人は、タロットで言えば「愚者」タイプの人だと言え、まさに枠に囚われない人と言えましょう。

お決まりの道や方法では満足せず、いつも変化や自由を求め、楽しむタイプです。

横木の間隔が広いものをイメージした人よりもさらに押しつけを好まず、このタイプは自分から常識や既成概念を壊すことに躊躇しないというところが、第二番目のタイプとは異なります。

ただし、いくつもの重なったり交錯したりする梯子をイメージした人は、反対に神経質であったり、袋小路に陥っていたりすることもありますし、やや統合失調気味の傾向にあるとも考えられます。

さて、ここからさらにイメージを膨らませます。

あなたが想像した梯子を使って、どんどん自分を登らせます。あるいは横の梯子をイメージした人は、それに乗って歩いて行きます。

頑張って梯子の最後(上か端)まで行ってください。何が見えてくるでしょうか?

誰か人がいますか? それは普通の人間ですか? それとも神様や天使のような存在ですか? あるいは亡くなった親しい人かもしれませんね。

また何もない空間とか、宇宙そのものとか、スペースをイメージした人もいるかもしれません。

それはあなたが今、求めているもの、助けてほしいと思っている人、合いたい人など様々ですが、やはり自分にとっては必要なエネルギー(現況を超えるもの、補完するもの、救済するもの)なのです。

登り切るだけではなく、誰かや何かに会えた後、また地上に降りて来てもいいのです。

その時はきっと梯子の横木の間隔や形式も変わっていることでしょう。


「好き」を増やす

マルセイユタロットには「吊るし」という逆さ吊りのカードがあります。

これにはいろいろな象徴と意味があって、なかなかに面白いのですが、そのひとつに、「反転して(逆に)見る真実」というものがあります。

簡単に言えば、本当のことを知りたければ反対のことを考えろ(思え)というようなことです。

例えば、自分の好きなのもは何だろうと考えるより、嫌いなものを思い浮かべて、それ(嫌い)ではないものとか、その反対のものを考えれば、意外と出て来やすいという感じです。

ここまで書くと、「吊るし」をもとにしての「逆転の発想」ネタかと思うでしょうが、今日の話題は実はそのことでありません。

さきほど述べた、好き・嫌いの話なのです。

私たちは、人生で嫌だとか嫌いだと思う時間、人、事件というものは案外と多いのではないでしょうか。

たぶん一番多いのは、好きでも嫌いでもない瞬間なのでしょうけれど。

ま、いずれにしても、「好き」と思う時は、意外と少ないものです。ましてや、言葉に出して言うことなど、夢中になる恋愛でもしていないと、なかなかないでしょうね。

ただ言葉だけではなく、好みとか、自分が好いている時間・状態・フィーリングというものを感覚として自覚することは先述したように少なく、そのために人生タイムを必要以上に空しくしたり、意味のないものにしてしまったりしているおそれはあるかもしれないのです。

ほっとしたひととき、お茶を飲む時間、仕事でうまく進んでいる時、友人と話をしている時、おいしいものを食べている瞬間、旅の過程、家族との団らん、芸術や美術・映画の鑑賞時間、パートナーとのふれあい・・・本当に一瞬を切り取れば、人によってたくさんの種類の好きな時間・瞬間があるものです。

そうした「時」に、「ああ、これが好きだな」「こんな時間・空間が好き」「こういう会話が好き」というようなことを少し自覚するとよいのです。

好きな感覚は、人とは違っていて当たり前です。いわば全部自分と同じ感覚で好きという人は、一人として存在しないでしょう。それが個性なのです。

ですから、自分の「好き」は自分だけの「好き」でいいのです。

そうして、「好き」の瞬間を自覚していくと、「私はこれを楽しんでいる」「この人生や世の中で好きな“時間・空間”がある」という思いが、不思議な感覚を呼び起こしてきます。

ひとつは、好きのフィーリングが次第に明確にわかるようになり、今度はその感覚を別の場所や時間に増やすことができることです。

言い換えれば、本当に好きなこと(状態)がわかってくるので、好きへの選択眼・選択する力が増して自分の好きな時間を自ら多く選択できるようになるわけです。

好きな「時」そのものが増えるわけですから、それだけ好きな人生になっていくという仕組みになるのですね。

もうひとつは、「瞬間」を自覚するようになるので、まるで映画や写真の一カットを切り取ったような感覚が現れ、日常とは超越した意識が醸成されやすいことです。

達観した見方と言いますか、「好きな時間を楽しんでいる私」みたいな、「観察しているもう一人の私」のような感覚が生まれてくるわけです。

こうすると、「人間や世界って面白いな」と思うようになり、その人間というものが自分のことも指すので、自らを客観視して、落ち込みの場合は浮上させ、異常なハイ状態の時はグランディング(地に足をつける)させることになります。

言葉には出さなくても、「あの人、好きだなあ」とか、「これは好き」「この場所は好き」とか思ってみるだけでも、「好き」波動というものが自分を波に乗せていくようになります。

好きは愛するとは異なりますが、一部愛することに似ている部分もあります。

人は人生での授業を受けており、いわばその修行をしているとも言えます。

ならば、好きということが心の中でもたくさん言えることは、やがては多くの「愛する」ということにつながってくる可能性もあるのです。人生、どれだけ「好き」と言えるかで決まるみたいなものかもしれません。

まあ、アニメなどでよく出るツンデレキャラではありませんが(笑)、言葉や態度は嫌だとか嫌いだと言っていても、心の中はは好きだということもあり得ますから、言葉より、その奥底にある「好き」波動・エネルギーをとらえることが重要だと言えます。

あなたの「好き」を増やしましょう。


目・視線、そして世界

人間の視線視力というものは重要です。

マルセイユタロットでも、カモワン流から入った私としては、その流派の特徴ともいえる、カード人物の視線を追ってリーディングするということを訓練してきました。

そうしていると、実際に人間の視線や目の象徴性に注目せざるを得なくなってきます。

秘密結社や古えの秘儀伝承、神話等にも、シンボルとして「目」が描かれることは多いものです。

「目」とは何でしょうか?

それは個人の視線もあれば、大きな神の目線もあるのです。

意味するところは様々ですが、 「見ること」と、そこから「ある世界」が生まれること、逆に「ある世界」は「ある目(視線・見方)を持つ」ことは、象徴的に共通していると言えます。

つまり、われわれは「目」を通して、自分の世界をまさしく生み出している、創り上げていると言えます。

「目」と言っても物理的・光学的な作用で見るだけではなく、今の科学では捕らえきれない霊的な世界を見る目や、心の目といったものもあるでしょう。

しかし、自分が今開眼している「目」でしか物事を見ることはできず、そのレベルや段階によって、世界が新たに現れる(捕捉できる、創造できる)と言ってもよいでしょう。

たいていは、普通の「目」しか開眼していません。当たり前のモノを見る視力です。

ところが、これさえも例えば近視になったり、老眼になったり、眼病になったりすれば力は衰え、または歪(ひずみ)になり、今までの見ていた世界とは異なってくるわけです。

客観的に言えば、それだけ視野と見る世界が狭くなっていると言えます。

とはいえ、これまでの蓄積された経験もあるので、見えなくなった分、推測や想像で補うようになるとも考えられます。それだけイメージの力として、もしかすると心の目は開眼していくのかもしれません。

ということは、目の病気であっても、老いて見えにくくなっても、冷静に内なる方向に開眼を目指せば、また新たな世界や境地は切り開かれる可能性があると思えます。

さて、タロットに戻りますと、さきほど、タロットの人物の視線を重視するというようことにふれましたが、その後、自分なりにマルセイユタロットを研究していくうちに、人物の視線だけではなく、絵柄そのものにもいろいろな「目」が隠されていることに気がつきました。

さらに、その目の種類によって、ヒーリングに機能したり、オーラのような別体を視ること(意味と方法)を示唆していたり、未来予測に関係するものがあったり、洗脳を思わすものがあったりするのもわかってきました。

またカード単体だけではなく、カードが連繋することによって、目が新たに出現し、複眼ともいえる視線によって、問題や課題の本質を読み解くケースもあるのです。

そうやって見ていくと、私たちは「目」をもっと多重な意味で活用しないといけないことがわかります。

逆に言えば、「目」の機能はほんの一部しか使っていないのです。目を目としてそのまま使うのではなく、違う身体や心の部分と連動させ、別の目のエネルギーにして見るという感じでしょうか。

それはともかくとして、マルセイユタロットでは、特に人物の視線が鋭くなっています(厳密にはマルセイユタロットの種類やタイプにもよります)ので、その方向やカードの組み合わせによっては、特別な意味が示されることがあり、単純にカードの意味を読むのとはまったく違う回答が得られることがあるのです。

カードと自分、またはクライアントと一体化するように展開を見た時、カードの視線の力は現実にも効力を持つ仕組みになっているのだと考えられます。

それにはカードとのつながり・関係性の濃さと、カードに展開される世界が象徴として、リアリティを感じることができるかによります。タロットリーディングの極意は、タロットを信じられるかにかかってくるからです。

それもまた、タロットと現実を結びつけられる「目」が持てるかということになります。

結局、見方を変えれば、マルセイユタロットは「目」の力(単純な視力の話ではありません)を拡大させる訓練機能があるのだと考えられるのです。


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