カードからの気づき

使命はあるのか、ないのか。

使命」という言葉があります。

ビジネスをしっかりやっていらっしゃる方や、強い意志を持たれた人の中には、結構この言葉を使う人がいます。

反対に、自分がよくわからないと思っていたり、自分は何のために生まれてきたのかと疑問を抱いていたりする、いわゆる「自分探し」をしている人にも、「使命」を使いたがります。

いえ、むしろそれを求めていると言えましょう。

前者の人たちは「使命」が見つかった人、後者は使命を探し、追い求めている人と言えるかもしれません。

では、使命はどうのようにして見つけたのでしょうか? また見つけるのでしょうか?

そして、本当に使命というものはあるのでしょぅか?

これらの質問に答えることは難しく、私にもわかりません。

ただし、言えることがあります。

まず使命の発見ですが、これはつまるところ、思い込みの世界と紙一重だということです。

「これが私の使命」と心の底から思えたものが、つまりは使命の発見といえます。

要するに、自分の使命として信じられるかどうか、その信念の強さ・濃さによるということです。

言い方を換えれば、自分を信じる、ある種の自己ストーリーの創設(創造)です。

ところで、マルセイユタロットには「審判」というカードがありますが、このカードは、上空から大きな天使がラッパを鳴らして、下の人たちにまるで何かを告げているように見えるので、「使命」とか「天命」といった意味も象徴されます。

使命とは、このように超越的(神や天使的)なものから下されているもの、運命的に自分が今生で成すべきと決められているものと思いがちですが、実はこの「審判」のカードの奥義では、それとは別の解釈があります。

そこから、使命とは私たちが創造するものという反対の見方も可能です。

「使命」は信念や思い込みの世界に近いと言いましたが、それ(使命は創造されるということ)も同じ意味になります。

言わば、「自分が使命と思えたものは本当に使命となる」ということです。

「使命」というものが「与えられるもの」「特別に選ばれて下されるもの」と考えている限りは、おそらくいつまで経っても、自分の使命は見つからないでしょう。

使命は自ら生み出し、同時に天地人(霊・精神・現実)に相呼応するものであると考えられるからです。

「使命」と「単なる目的」との違いは、その呼応の統一感にあると思います。

つまり、自分だけとか、人だけとか、心だけとか、物事だけとか、一部の目的と満足・達成感で終わらず、自分と人と世界というように、小さなフィールドから大きな範疇へと一本の軸が透徹しているもの、または自分の中で実際の現象と心の中の思いと成長、そして大きな全体性への貢献と発展に寄与していると同時に思えるものだと考えられます。

簡単に言えば、使命をもってやっていることが、単なる自己満足(自己満足は大前提でもありますが)で終わらないということです。

「これがあなたの使命ですよ」と言われるまで待つのは、迷路に陥っている人です。

そうではなく、「使命」を探究しつつ、使命を創造していく見方の逆転も起こして行き(生き)ましょうということです。

タロット的には「使命」は、現実と精神と霊的な世界の三層を貫くので、現実の結果がすべてではありませんし、逆に心のイメージだけのものとも限りません。

誰もが最初は使命を探します。いえ、意識することすらないかもしれません。

最初に述べた、しっかり使命感を得ている人たちでも、初めからそうだったわけではないでしょう。

ですから、使命を探す姿勢が悪いわけではないのです。時には人に尋ねたり、自分が向いているものについてアドバイスを受けてもよいのです。

ですが、使命は与えられるものという受動的姿勢だけではなく、使命を創造することが使命の発見につながるという、逆説的・能動的観点を持つと、使命は得られやすくなるということも意識しておくとよいです。

実は、使命発見(創造)のヒントは、この世界、あなたの生きている現実の世界に無数に存在しています。

とても抽象的なこともあれば、まったく無関係のように配置されていることもあります。

しかし、それらを拾い集める(統合する)視点を持てば、帰納的にひとつの「何か」が光り輝いてきます。

ヒントをたくさん集めると、はっきりとはしなくても、共通事項の核のようなものが現れてくるのです。

その核こそが「使命」として、あなたが信じ、創造したものとも言えます。

使命感を得ることは、自分の人生に意味をもたらせて、情熱をもって生きる礎(タロット的に言えば「神の家」)となります。

自己存在の価値の発見と確立の過程と言ってもいいでしょう。

それは究極的には思い込みの世界ではあるかもしれませんが、人生に意味と自分の存在を思うことができなければ、自分が無価値なものとして世界から扱われる(自分が扱う)ことになるので、空しいことにもなりかねません。

ここはまさに、タロットで表される四組の「杖」「バトン」「ワンド」ともリンクします。

ちなみにタロットの大アルカナで、最初の数を持つ「手品師」はバトンを持ち、最後の「世界」の人物もバトンを持っています。

「世界」のひとつの手前の数を持つカードには、使命と関係する「審判」のカードがあります。

「使命が与えられないと自分は特別ではない」あるいは、「特別な使命が私にはあり、私はそういう選ばれた人間のはず」・・・というような思い上がりは、自己価値が低い人だと言えます。

この考えは、自他を比べて評価を下す相克の世界に囚われます。

先述したように、使命を作り出すヒントはすでに現時点でもたくさんあるのです。

人は皆個性を持ちますから、真の個性を発見(発揮)できれば、それはまた使命(に生きている)とも言えます。

言い換えれば、個性を発揮することが使命の創造であり、さきほど述べたように、使命に生きることと同意義になるのです。

これまて言ってきたように、真の個性とは全体とも呼応したものです。自分勝手とは違います。

使命をもし天命的なものとして考える場合は、すでに自らが生まれる前からプログラミングしておいたものを、その後の人生の中で、散りばめられたヒント(自分が蒔いておいたもの)とともに発見していく作業になっていると言えましょう。

パーツを拾い集めて、ひとつの形にするという表現に例えることができます。

ですから、使命はあるといえますし、ない(発見するその意識がないとないものとなる)とも言えるのです。

「使命は自分によって創造される」

こう考えるのも面白いと思います。


ふたつの枠

近頃は、親や他人に植え付けられた「枠」「フレーム」「考え方」「ものの見方」によって、自分が苦しめられているということを訴えたり、その解放を述べたりする意見が多くなってきましたね。

それは私も頷ける部分があると思っています。

確かに、そのようなことで、自分で自分を縛って、不幸な人生にしてしまうようなこともあるでしょう。

しかし、何事もそれが「絶対」だと見たり、極端に一方向に傾いたとらえ方をしたりすれば問題です。

人から「押しつけられた」と見ると、それは弊害とか悪いものとしか考えられませんが、「人から与えられた」「教えられた」というように表現を変えてみるとどうでしょうか?

私はマルセイユタロットによって、自分や人には同じ部分と、違う個性表現とでもいうべきものが、次元を変えて同居・存在していることに気がつきました。

つまり、違っているけど同じ、同じだけれど違っているということです。

別の言い方では、人間として根本は同じだけれど、多様な表現と個性を持つ「世界」であると述べることができます。

さらに、タロットから示されるのは相互交流や影響の及ぼし合い、それによって新しいものが創造されたり、葛藤が統合されたりする現象です。

それを踏まえた上で、話を戻します。

私たちは人から影響を及ぼされますし、人に影響を及ぼしもするのです。

コンピュータ的に言えば、人の見方や考え方をダウンロードしたり、アップロードしたりするわけですが、それはいい面も悪い面もあるということです。

最初にも述べたように、悪い面については多くの人たちが指摘し、その呪縛ともいえるものからの脱却・解放を謳っています。

ですから、ここではよい面にもふれてみましょう。

そうですね、恋愛がわかりやすいかもしれません。

男女ではもともと、もの見方やとらえ方が違っています。それでも恋愛関係になり、お互いが濃密に交流しようとすると、いろいろなことが起こってきます。

そして、相手の「枠」(見方、感じ方、価値観など)に気がついてきます。それは恋愛によって、相手のことを知りたい、理解したいという欲求が出るからです。

一緒に話をしたり、過ごしたりする時間も増えるので、相手の行動や思いのパターンを見ることも頻繁になってくるというのもあります。

まあ、ここでよく言われるのは、熱愛の時は相手のよい面ばかりが見え、気持ちが冷めてくると悪い面がクローブアップされるということです。

それはもう、ほとんど知らされていることなのでここでは説明しません。

重要なのは、相手に近づきたいと思う気持ちにより、そして相手と交流していく機会を多く持って行くことにより、相手の考え方や物事のとらえ方、つまり、相手の「枠」「フレーム」を知ることになる(相手目線を知る)ということです。

知るだけではなく、やがて自分にダウンロードして行きます。(全部ではなく一部)

そうすると、今まで自分が知らなかった枠・フレーム・ビジョンを獲得することになり、これまでとは違う世界を経験するようになります。もちろん相手もそうです。

相手が自分と似たところがあるのもうれしいことですが、たとえ近接点ではあっても、逆に違う見方を得て、「そういうとらえ方もあったのね」と、感動することもあるわけです。

恋愛では相手のことが好きな分、相手の考えは受け入れやすく、同調(ダウンローのことド)したいと素直に思うので、別の見方があなたにも出現することになります。

別の見方というのは、究極的には別の世界のことですから、あなたは(彼、彼女が経験した)新たな世界の旅のチケットを手に入れたことにもなります。

たとえ恋愛がうまく行かず、二人の関係が終わったとしても、あなたが見る新しい世界のフレームは残されたままなので、あなた自身の経験と幅は広がったことになります。

その時、「あの人に逢えて良かった」と思えることができます。

関係がうまく言っている人はなおさらで、まさに今、「あなたに逢えて良かった」と、今まで以上に感謝の気持ちが起こってくるでしょう。

極端な言い方をすれば、「あの人の枠を押しつけられて、ありがとう」という感じでしょうか。(笑)

人の枠・フレームを自分に入れることは、一面では、とてもよいこともあることがおわかりいだたけるかと思います。

枠は自分と人のものとがあり、また人のものであっても、それによって自分が支配されるのか、自分に多様さをもたらせるものとして、選択できる形として活用するのかによって、まったく意味が違ってくるのです。


「節制」に見る助け合い

タロットカードに、「節制」というカードがあります。

カードの名前だけを聞くと、厳しいイメージもありますが(実際、そういうニュアンスで象徴させられることもあります)、絵柄はいかにも典型的な「天使」の姿であるので、助ける、救済といった意味もあります。

ということで、今回は「助ける」「助けられる」といったことをテーマにしたいと思います。

いきなりですが、私たちは皆、助ける側か助けられる側、どちらかであると言えます。

どんな人間でも生まれてきた直後は赤ん坊であり、親や人の助け(まれに動物の助け)がないと生き延びることはできませんし、成長もできません。

ということは、全員助けられる側から出発だということです。

そして、大きくなるにつれ、誰かしらを助ける側に回ります。

普通の人間関係においても経験することですし、直接的ではなくても、何かを買ったり、利用したりしてお金を支払うことも、ひとつの助ける行為だと言えましょう。

ここで大切なのは、助ける数ではなく、誰もがこうして必ず助ける側にも回るという事実です。

助ける行為や意味を拡大すると、赤ちゃんの頃でも、親や他人に安らぎと希望・勇気などを与えることもありますから、存在だけで助けている場合もあると考えられます。

大人になっても助けられることは多く、仕事やプライベートで誰しも助けられた経験はあるでしょう。

怪我をしたり、病気になったりすれば、医者に助けてもらいますよね。

商売はボランティアでない限り、助け助けられていると言えないかもですが、そのサービスがないと人生が味気なくなったり、生きていけないものもあったりしますので、やはり助け助けられていると商売でも言うことができるでしょう。

すると、本当に誰もが、どの場面でも、助けられ、助けていると考えることができるのです。

「節制」のカード(マルセイユ版)の特徴は、2つの壺を天使が持ち、壺の水を交互に移し替えているところです。

つまり、助け合いであったり、助ける側・助けられる側の関係が入れ替わることを示唆しています。

もしかすると、私たちは誰もが助ける側と助けられる側になるのは等量なのかもしれません。

そんなはずはない、私は助けられる側ばかりだとか、助けているほうが多いかなあ・・など思うでしょう。そもそも、そんな比率を計ったことがないという人がほとんどかもしれません。

しかし、私は「節制」のカードの象徴から、その関係は同じなのですよ、と言われている気がするのです。

問題はその等量バランスに気がついていないことなのです。また、実は同じこと(気がついていないことと同じ)になるのですが、等量バランスのレベルが低いという問題もあります。

例えばいつも助けられていると思っている人は、自分で自分をそう規定してしまって、だから自分の認識や行動も「自分が助けられている」となるよう振る舞います。

結局それは、「自分は助けられなければならないほど、無力なのだ」と思っているということです。

逆に、自分はいつも助けているという思いが強い場合は、自分が助ける側に回る機会を持つことに傾注し、言わば、助けられる側を無意識的に探し出し、あるいは、もっと悪いケースでは、弱者になるよう相手の力を奪ったり、そう決めつけたりして自分を優位な立場や上にいるようにする場合があります。

「いえいえ、そんなことは思ってませんよ、実際に私は力がなくて助けられるしかないんです」とか、「困っている人を助けるのは当たり前でしょ」だとか、自分の経験している事実を見て、そう主張されるかもしれません。

確かにそれはそれで事実だと思います。あなたは弱いかもしれないし、上から目線などなく、純粋に困っている人、弱い人を助けるサポートをしているということもあるでしょう。

私が言いたいのは、どんな人、どんな人生であれ、言ってみれば「神目線」であれば、助け・助けられるバランスは同じではないかということなのです。

個人個人の認識は違っていてもです。(違っているというのは、助けるほうが多いとか、助けられるほうが普通だとかいう偏りの認識)

こう考えてみましょう。

例えば病気がちでずっと助けられて生きている人であっても、反対に、自分の存在でサポートをする人を創造していると見ることもでき、サポートしている側の「救う」という意志・エネルギーが、ほかの人や人類全体に寄与しているのではないかと考えるわけです。

また助けられる人に必要なものは、物理的にも製品・商品として使われるので、それを製造している者や会社に貢献しているとも言えます。

では仮に、人は誰でも助け・助けられる関係として等量バランスにあると見ると、何もしなくてもいいではないか、特に助ることは無意味ではないかと思うかもしれません。

ここに個人のレベル・次元の問題が浮上するのです。

だいぶん長くなっていますので、簡単に言いますと、助ける・助けないを何も意識せず、ただ流されるままで動いていると、その人のレベルに応じたバランスの取られ方になってしまうということです。

有り体に言えば、成長しないのです。

救う量も少なければ、救われる量も少ないと言えばわかりやすいでしょうか。

だから救う範囲やレベルが上がれば、その分、(自身の)救われる範囲やレベルも拡大するということです。

逆に言えば、「救われた」という実感と自己認識が深くて大きければ、それに匹敵する救う行為にも発展していくということになります。

そして、さらに重要なのは、人を救うその前に、いや同時に自分を救うこと(を意識すること)なのです。自分を救えば、人は救えます。※自分を救ってからでないと人を救えないわけではないことに注意。

人を救う機会がある時、自分を救っていることを意識すると、自分には救済者の部分があること、その行為ができたり、表現できたりする自分がいることを確認できるからです。

自分が救済者であるのなら、自分を救えないわけはないのです。

たとえ最初のうちは自分を救う自分の力が弱くても、人の救済に自分の救済力を見ることが増えれば、自分の救済力も上昇していきます。(傲慢になること、自分を驕ることとは別なので注意)

そうすれば、自己の救済はきっとできるでしょう。

「節制」はまさにそのことを象徴していると考えられるのです。


経年と人生の逆転(反転)

8月になりましたね。

ちょっとお知らせです。

先月、渋谷のアップリンクさんで行われました、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「リアリティのダンス」上映会と、氏の使うマルセイユタロットについて語る会前回の模様はこんな感じです
)が、今度は京都(映画館・京都みなみ会館)で開催されることになったようです。

トークをされるのは、同じく、京都のカフェ・オパール
店主で、マルセイユタロットリーダーの小川トモコさんです。

マルセイユタロットに関心のある方、ホドロフスキー監督が好きな関西の方は、是非参加してみてください。

イベントの詳細についてはこちら。

http://kyoto-minamikaikan.jp/archives/16635

さて、記事に移ります。

思えば、私も今年で50歳(誕生日は11月後半)になります。

ほんと、えー年で(笑)、年下の妻からは、「あんた、もうすぐシニア割引使える年齢やね、どこか行く時は、ちゃんとチェックしといてね」と言われます。(^_^;)

40代、ミドルエイジクライシスから続く後半として、50代も危機が訪れる年齢と言います。

まあ、これまで私は何度か危機がありましたが、やはりうつ病と神経症になって、ほとんど宙に浮いたような時期(あるいは、底に張り付いたような時期)が一番の危機だったと言えるかもしれません。

とはいえ、それでもほかの人に比べ、私など大した危機も迎えておらず、中途半端な人間だと自覚しております。

昔に比べて、今はやはり全体的に年の取り方が遅いと言いますか、悪く言えば未熟なままに進んでいる気がします。私も例に漏れず・・でしょう。

ですが、そうは言っても、人は必ず年を取り、老います

マルセイユタロットでは、人や物事の成長を示す過程が描かれていますが、それを改めて観察してみますと、意外にも絵柄的には、あまり孤独を示すようなカードは少ないと言えます。

単独の人物は多いのですが、よく見ると、そうでもないのです。動物が描かれていたり、見ようによってはほかの人であったりするものが発見できます。

しかし、全体の構成から見てみますと、大きくわけて3つのグループと段階があります。

そのひとつのグループでは、明らかに孤独とその時期による変容が示されています。

さらに観察すると、結局ふたつ、「自立」と「共生」のバランスに分けられることに気がつきます。

もっともカードは象徴なので、一枚のカードに、どちらの意味もとれる場合があるのがタロットの難しいところではあります。

ともあれ、タロットの図から、人の成長には、ほかの人といる時期と孤独な時期、自立と共生の両方が必要ではあるのがわかります。

そして自立の中でも二集類あり、物理的(経済的)・現実的・固定的な自立と、精神的・理想的・可変的な自立が示されているのが面白いのです。

つまり、私はたちは形の上で自立することと、心の上で自立すること、ふたつが求められるのと同時に、多くの人がいても束縛があり、反対に孤独でも自由という矛盾するような世界を認識(経験)して、本当の意味で自らを自立・解放させていくことが示唆されているのだと読み取れます。

そこで年齢の話になりますが、年を取ってくると、物理的・身体的なことがいろいろと問題となってきます。

要は誰でも体の自由が利かなくなってくるわけです。

ということは、若い頃は体の自由は利くけれども、束縛の多いと感じる世界の経験があり、それはある意味、反対の状況ではあるものの、老いの予行演習でもあると見えます。

なぜなら、今度は実際に束縛される身体になるからです。

簡単に言えば、束縛(枠)の中で、いかに精神を自由に羽ばたかせることができるかが試されているということです。

精神的な意味での、重力からの解放を目指すと言ってもいいでしょう。

ところで今は「好きなことをする」「自分に正直になる」ブームみたいなところがあり、自分に素直になれば幸せになれるということがたくさんの人からお話されています。

それはかなり確かなことがあると私も思っています。

けれども、そのような観点と行動も大切ではありますが、現実や物理・身体的問題も年を取ってくれば顕著になってきます。

好きなことをやろうとしてもやれない、自分の正直な思いと行動が、機能的にブロックされてしまうこともあるわけです。(表現しづらくなる)

そのため、もうひとつ、規則やルールの中でも自由になる心の方法や状態を、なるべく実践していくとよいのではないかと考えています。

例えば誰もいなくて、車もほとんど通らない状態で、信号をきちんと守って青になって渡る。無理矢理やっているのではなく、自然に楽しんで。

本当は道路交通法からして、それが正しい渡り方ですが、無人や車が皆無に近い状態で、そんなにまで信号を遵守する人もまれではないかと思います。

かたくなに守るような人は、むしろ、守りすぎるがこそ、自分を型にはめ過ぎたり、守っている人=自分はいい人アピールしていて、うざかったり、本当は信号無視したいのに自分に偽って、自分とは違う自分になっていたりして、自分を苦しめていることもあります。

私の言いたいのは、そういう、ルールを絶対に守りなさいとか、くそまじめになれ(笑)、ということではありません。

物理的身体的制約がかかってくる状況に対して、前倒しで心の(自由を感じる)トレーニングをしていく機会を意識するということなのです。

そしてそれは単純に老後の備えというのではなく、霊肉統合(スピリチュアリティ向上)のトレーニングにもなるのではないかとタロット的に述べています。

若い人がやる型破り的なこと、ルールや規則を無視して「オレかっこいい」というのは、簡単なことです。

しかし、ルールや規則を守りながら逸脱せず、本人は自由さを感じているというのはなかなか難しいものです。

物理的には自分の行動自体は世の中のルールを超えないのですが、超えているようにほかの人も感じる(何か飄々としている、世間を超越した人のように感じる)というものでしょうか。

鍵となるカード(マルセイユタロット)は「吊るし」だと私は思っています。

世の中を反転したとらえ方をするため、私たちは年を取りますし、年齢が上がると、今までとは逆の思考や行動(制限も含む)にもなっていくわけです。

それこそが、先にも言いましたように、自己成長、本当の自立(それは本当の共生と同意義)の過程と言えるのです。

中高年の人は、人生を逆転させて行き(生き)ましょう。


「ホドロフスキーのDUNE」から思ったこと。

先日、映画「ホドロフスキーのDUNE」という映画を見てきました。

私の中ではちょっとしたホドロフスキー氏ブームが起こっていて(この前、来日されたこともあります)、いわばその当然の流れみたいなものです。

アレハンドロ・ホドロフスキー氏については、このブログでも再三取り上げていますし、今更語るまでもないのですが、カルト映画の巨匠であり、タロット研究家、サイコセラピスト、漫画原作者等、様々な顔を持つ多彩なお方です。

まあ中でも、当たり前ですが、タロットをする私としてはタロット研究家、タロットリーダーである氏の部分にとても関心があります。そもそもホドロフスキー氏が復刻したマルセイユタロットを私は使っているわけですから。

と、ここまで書けば、その映画とタロットの解説をするのかなと思われるかもしれませんが、今日はそうではありません。

映画「ホドロフスキーのDUNE」を見て、私が個人的に映画とは別の意味で思ったことを記したいということです。

その前に、「ホドロフスキーのDUNE」とはどういう映画なのかを簡単に説明しておきますと、監督はホドロフスキー氏自身ではありません。

むしろホドロフスキー氏を被写体や役者・テーマとして出演させた映画と言えます。

1975年、映像化不可能と言われたフランク・ハーバートの小説「DUNE」を原作に、ホドロフスキー氏が企画したSF超大作映画「DUNE」(完成していた場合、上映予定時間が12時間とも20時間とも言われています)があり、その計画の進行と中止に追い込まれた経緯を、当時関わった人たちを中心に、ホドロフスキー氏自身のインタビューも交えて作られたドキュメント映画です。

ホドロフスキー氏の企画した「DUNE」は、この「ホドロフスキーのDUNE」の映画を見てもらえればわかりますが、非常に壮大で哲学的、宇宙船やコスチュームのデザイン、さらに出演者や音楽も、当時の蒼々たる面々がクレジット、参加予定されていました。

アップリンクさんの、この映画の公式HP http://www.uplink.co.jp/dune/introduction.php
 から引用させていただきますと、

『バンド・デシネのカリスマ作家メビウス、SF画家のクリス・フォス、『エイリアン』『トータル・リコール』の脚本で知られるダン・オバノン、画家、デザイナーのH・R・ギーガー、73年の『狂気』をはじめ現在まで絶大な人気を誇るサイケ/プログレの代表的バンド、ピンク・フロイド、キャストにシュルレアリスムの代表的作家サルバドール・ダリ。『市民ケーン』など映画監督としてのみならず俳優としても知られるオーソン・ウェルズ、ミック・ジャガーダリ、ミック・ジャガー、ギーガーなど・・』

と書かれています。いかにすごい人たちで固められていたかがわかりますし、その人たちを口説き落としたホドロフキー氏自身の魅力も相当うかがえる逸話です。

さて、映画の説明が長くなってしまいましたが、ここからが本題です。(笑)

この映画は結局壮大すぎて現実には映画として生み出されませんでした。

マルセイユタロットで言えば、女帝(企画)から皇帝(現実)の段階の途中で終わったということです。

しかし、この映画でも語られていましたが、ホドロフスキー氏が企画した映画は「DUNE」は死んでおらず、ここに参集した当時の若きデザイナーやクリエイターたちは、やがてハリウッド映画やほかの映画・創作物で「DUNE」で得たクリエイティビティとインスピレーションを発揮させました。

(ホドロフスキー氏は、「DUNE」の主人公がラストシーンで死ぬが、それは登場人物や生きとし生けるもの全員に転化され、すべて主人公になる(意識の共有化)と語っていたのが印象的です)

また「DUNE」に直接関わらなくても、ホドロフキー氏の残した絵コンテや企画書があり、これを見た映画関係者・クリエイターたちが、やはり影響を受けたものを創造しています。

さらには、「DUNE」から影響を受けて生み出された作品からも二次的に影響が波及して、次々と新たなものが創り上げられていく循環現象さえ見いだせます。その影響は今も続いてるのです。

とすると、現実には出現しなかった(映画として完成されなかった)想像(創造)の世界のものであっても、現実世界には確実に影響を及ぼすことができるのだということであり、もっと言えば、生まれたものは決して死ぬ(消失する)ことはなく、ほかの形やエネルギー、インスピレーションの源泉として生き続ける(成長することすらある)ことになります。

マルセイユタロットには「死」をもっとも象徴するカードとして「13」(名前がなく数だけ)というカードがあります。

そして、創造を象徴するカードには、さきほど述べた「女帝」があります。このカード同士は、互いに「」という数を持ちます。

創造と死(破壊)は表裏一体の実は同じものであり、逆に言えば死は創造で、恐ろしいものでも悲しいものでもないのだという示唆も受け取れます。

ただ、現実化することで、確実な収穫(と感じるもの)を得たり、見たり聞いたり触ったりする実質の体感も人は必要とするのでしょう。

自分や自分の生み出したものがこの世には存在しない、誰からも認められないというのは、現実感覚において寂しいことなのかもしれません。

いわば、生きる実感、生きている実存証明の欲求と言い換えてもよいものが人にはあります。それは私たちかまさに肉体をもって現実世界に生きているからにほかなりません。

それでも、現実化しない創造の段階ではあっても、それが極めて高度で崇高なイデアに近いものであるならば、それは想像の世界で生き続け、魂を持ち、神殿・宮殿として輝き続けるのだと感じます。

想像することが創造につながり、その創造は自分の希望通りに現実化しなくても、情熱と純粋な魂に裏打ちされたものならば、何世代にも渡って生き続ける「力」(永遠性)を持つのです。

逆に言えば、私たちはそのような想像(創造)を自ら行うことで、ある種の宇宙を作り出しているともいえ、その根源的なエネルギーを自身に降ろしているのだと言えます。

つまり瞬間「神」になっているのです。レベルや規模の違いはあれ、その経験は人として重要ではないかと思います。

ホドロフスキー氏が御年85になってもエネルギッシュに活躍できるのも、ひとつにはその理由があるからではと考えられます。

もうひとつ、「ホドロフスキーのDUNE」を見ていて思ったのは、偶然のように、ホドロフスキー氏が会いたいと思っている人、この作品に関わって欲しいと思う人に出会えているということです。

その過程は神秘的ですらあり、何か超越的な存在の意図を感じさせます。いわゆるシンクロニシティも頻繁に起こっているわけです。

こうなると、スピリチュアル系統の(傾倒でもある)人には、自分らしさを最大限に発揮し、シンクロも起こり、大いなるものの意志も感じるとして、「映画は間違いなく完成する」と直感的に思うかもしれません。

おそらくホドロフスキー氏自身も、当時はそう感じたことがあるのではないかと思います。

しかし、映画は完成しなかったのです。引き寄せ的には完成して、現実化してもおかしくはない状態です。

ここを考えることも、本当の意味でスピリチュアルだと私は感じました。

ホドロフスキー氏はこの見た目には大失敗の結果に、かなり当時は落胆されたようですが、反対に、この経験によって、ある種の悟りを得られたような気が、この映画を見ていて私はしました。

それがおそらく本当の答えであり、「DUNE」という映画の真の意味(神の意図)ではなかったかと思うのです。

未完こそ完成であり、また完成は未完でもある、これは永遠のダンス、マルセイユタロットでは、ある象徴(あえて述べません)とも言えるのです。


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