カードからの気づき

「自分探し」について

自分探し」という言葉があります。

ひと頃、その言葉も流行り、発展途上国を回ったり、聖地などに行ったりして、「自分」を見つけようとした方もいらっしゃったでしょう。

しかし、最近は、「幸せの青い鳥」ではありませんが、「結局、自分というものはどこかにあるものではなく、自分の中にあるものであり、自分が認めるだけである」という考え方が増えてきて、自分探しで放浪したり、旅をしたりするのはばかげているという見方も多くなりました。

まあ、確かに本質論として、「自分というものは、外にあるものではない」という考えは、私もその通りだと思います。(実は外にもあると考えることができるのですが、それはまたの機会にお話します)

ただし、だからと言って「自分探し」全否定という立場ではありません。

いや、むしろ、やはり人は時として、「自分探し」の旅に出るものではないかと考えることがあります。

では改めて、簡単ではありますが、自分探し(の旅)とはいったい何なのかを考察してみることにしましょう。

「自分を探したい」ということは、自分が「今ここ」にはいないと感じていたり、自分が充実して生きている実感がないということでもあるでしょう。

つまり、自分を見失っている状態とも言えますし、今の仕事や生活環境、生き様に満足していないということになりそうです。

いずれにしても、何か(それを「自分」と見ている)が「ない」と感じていたり、「不足」であったりするわけです。ここが非常に重要です。

「今ここ」には何かが「ない」ということであれば、人は主に、ふたつの方法で対応します。

ひとつは「今」ではない時間に行くこと

そしてもうひとつは、フィールドを実際に変えて、ないものを探しに行くことです。

言わば、時間移動か物理的移動による発見に期待するという方法です。

しかしながら、時間移動は現実には自由にできませんので、自ずと場所移動という物理的な移動の選択にならざるを得ません。そうして、人は「自分」を探しに、外国や地方を放浪していくわけです。

ただ時間移動もできないわけではありません。

さすがにタイムマシンのように、自由に過去と未来を行き来することはできなくても、心理的に過去に戻ったり(退行や引きこもり状態)、そのままモラトリアムの時間を過ごしていくうちに時間経過によって、「未来」に自然に行くことができます。

そうして、「ない」と思っているもの、「なくした」と思っているものを探すわけですね。

とにかく、「ない」「不足」を補うために、自分探しの旅に出るわけですが、その結果、見つかった人もいれば見つからなかった人もいるでしょう。

見つかった人というパターンは、外国での暮らしぶりに刺激を受けて、日本の豊かさ、自分が恵まれていることを実感して、生きる力を取り戻したとか、日本ではあまり経験したことのないような仕事とかボランティアなどをして、そのままその内容にひかれ、現地あるいは日本に戻ってからも続けることで、使命感や生き甲斐を見い出すというようなことがあるでしょう。

もちろん外国に限らず、都会から地方、逆に地方から都会へと国内で移動したり、いろいろと見聞したりすることで自分の興味の発見があり、自らの目指す道や考え方に出会った、気付いたという人もいらっしゃると思います。

これはどういうことかと言いますと、外からの刺激(目新しい体験・経験、人との出会い)によって、それまで隠れていた自分、自分では気付いていなかった自分の興味や関心の傾向が引き出されたのです。

そう、「自分が見つかった人」というのは、人やモノ・土地との交流、体験等によって自分の変容が促され、もともと持っていた自分の完全性から、ある要素や部分が露わになったということなのです。

つまりは、「不足している」「ない」と思っていた自分の感覚に、新たな体験や情報・刺激によって、「ある」「あった」という実感を見い出したということになります。

一見、それは外国や自分が経験したそれ自体に存在していたかのように思いますが(つまり外側にあったと思うこと)、実は自分の中にもともとあったものなのです。

しかしながら、その性質・要素を引き出す体験や刺激があったからこそ、自分にすでに存在していたものを外に出すことができた(気がつくことができた)のです。またどう表現していいのかわからなかったことが、モデル・現象として見えたということでもあるでしょう。

マルセイユタロットの教えにも、人はもともと完全であるという考え方があります。タロットカードは、そのことを思い出すための象徴装置だとも言われています。

カードには、旅をして人間を完成させるという発想があり、それをもっとも象徴しているのは「愚者」のカードです。さらにそのほかのカードは、いわば様々な「旅の体験・経験」の舞台・演出・登場人物とも言えます。

そうしてあなたが旅の舞台に立ち、様々に変化していくシーンで自らも自然に演じていくことで、いつの間にか、あなたは本来の「自分」というものを思い出す仕掛けになっているのです。

「自分探し」は、実は人生そのものを凝縮した言葉でもあったわけです。実際の旅をするのもよいかもしれませんが、人生それそのもの、生きること自体が、どんな状況であれ、あなたにとっては自分を見つける旅なのです。

確かに自分はもうすでに完全として存在しているのですが、一種のゲーム、楽しみとして、あえてわからないようにしているのでしょう。

人生の旅で自分がたとえ見つからなくても、見つけようとするそのプロセス自体が目的と考えると、見つかる・見つからないという結果より、今この瞬間に意味があることに気がつくことでしょう。

そうして結局、物理移動や時間移動よりも、「自分」を探すことの最高の方法とは、「今、ここに生きる」ことになるのです。


時間の「非」常識的なとらえ方

時間というものを考えると、実に不思議な気分になってきます。

マルセイユタロットにも時間を象徴しているカードがいくつかあり、特に「運命の輪」は関係が深いと言えます。

今日は、その「運命の輪」を見たり、ほかのカードの象徴から出てきたりしたもので現れた、ひとつの時間についての見方をご紹介します。

私たちは普段、時間を意識しているようで、あまり本当は意識していないとも言えます。

意識している時間というのは、実は何かの始まりや終わりの時間で、途中ということはほとんど気にしていないと思います。

たとえ、途中の時間を見ようとしても、それは今やっていること、拘束されている中での終わりの時間を気にしていたり、反対に、次に始まる何かに対しての時間に注意を向けていたりしているから、途中(経過)を確認しているのだと言えます。

ということは、私たちにとって日常的な「時間」とは、始点と終点、または区切りでの意味でしかいなという極論になります。

逆に言えば、始点と終点があって初めて、私たちは「時間」というものが意識できるのだということでもあります。

そして、始点と終点によって区切られた感覚時間が、「今」という意識を起こしていますし、もっと言うと、「ここ」に滞在している(過ごしている)という自分の感覚を植え付け、さらには、その区切られた時空間の「質」と色づけによって人生の意味が決まる(決めている)と考えてよいかもしれません。

時間を無機質に、始点と終点によって区切れた箱のようなものが並んでいるに過ぎないと見た場合、箱の積み上げ方による「効率性」を強く見ることになり、並んだ箱の数の多い少ないなど、蓄積と所有「差」で見るだけの、言わば日常は空しい作業の繰り返しというイメージになってきます。

しかし、箱の中身はひとつずつ違いますし、中に何が入っているのか、どんなものが入るのかと想像していくと、箱を積み重ねる作業は楽しくなります。

また、箱の積み上げ方、組み上げ方(横や直線だけではない積み上げも含む)によっては、始点と終点(箱の囲い)は箱ごとに確かにあるかもしれませんが、見ようによっては、三箱ごととか、四箱ごとかグループで分けると、小さな囲いは消えて、ひとつの塊の囲いが新たに見えてくることもあるでしょう。

箱の中身まで検討すると、別のところに積み上がっている箱同士でも、つながりを発見することもあるかもしれません。

つまり、これは、時間のとらえ方の違いであり、ただの無機質な箱を直線上に同じ方向に「区切られた時間箱」を並べるしかないと思い込んでいるものと、箱は縦にも横に斜めにも立体的にも積み上げることができるという感覚を持つのとでは、まるで異なってくるわけです。

前者が過去・現在・未来と一直線上にただ同じ時間が流れていくという見方であり、後者は円や立体的に時間をとらえ、時間の流れよりも、時間そのものの質に注目する観点です。

どちらが正しいとか間違いであるとかを述べているのではなく、こうしたいろいろな見方による時間のとらえ方・感覚があると言っているのです。

先程私は、私たちの日常時間は、実はほぼ始点と終点しか意識されていないものだと言いましたが、ということは、始点と終点以外の真ん中の時間(「今」と言い換えてもよいもの)への意識が希薄であるということにもなります。

いわゆるこれが、「魂、ここにあらず」状態になってしまう主な原因かと考えられます。

よく「今に生きよ」と言われますが、それは時間を始点(何かの始まりへの関心)か、終点(何かの終わりへの注目)かで見がちになり、それ以外の意識で時間をとらえようとしないところにあるからと言えます。

わかりやすく言えば、いつも「あの時はああすれば良かったな」とか、「あの時会ったあの人はどうしているだろう」とか、「次のの日曜はあれをして遊ぼう」とか、「あの時がやってくると困るなあ」とか、常に過去か未来かを思っているということであり、現在・この瞬間への意識が行かないことで、空虚な生き方をしていることが指摘されているわけです。

まあ、このようなこと(過去や未来に生きず、今この瞬間に生きること)は、今までもよく聞いたという人も多いでしょう。

ただ、それは時間を始点と終点で見過ぎているからという、極めてシンプルな理由で語られていることは少なかったのではないかと思います。

つまり、言ってしまえば時計の目盛りに支配されすぎているということであり、だから、もっと時間を先述した「箱」の一塊ような「集団・グループ」のように見ていくとよいのです。

一時間ごとの区切りとか、始まりとか終わりの区切りを当たり前のように意識せず、まずは午前中とか午後とか月の前半とか、比較的長いスパンからとらえていくとよいと思います。

それから、時計的な24時間区切りで見るのではなく、質で区切るような時計(時間の長短ではなく、時間の濃密度で考えるような異質な時計)のようなものを自分の心に作り、それで時間をとらえると、まったく別の世界が意識的には出現します。

確かに時計時間的な生活をしていないと、実際では困りますが、同時に別時計で考える自分も持つと人生は変わってくるのです。

例えば、活き活きとしている自分の心で図る時計であると、終わりや始まりの意味も変わります。必ずしも、時計時間の通りに始まったり、終わったり(見た目の行動はそうであっても)しなくてよいことになります。

これは「今」を生きるというのとは少し違いますが、時間を一般の人が思っているようなものではなく、もっと別のものとして、自分が意識できるようになる方法のひとつと言えます。

時間の縛り」は、私たちを、ある欺瞞の世界に閉じこめておくもっとも有効な幻想ツールのひとつだと言えます。(しかしながら、私たちを守っているものでもあります)

だからこそ、時間に関係するマルセイユタロットの「運命の輪」は、数の意味でも重要な位置に置かれているのです。また、そもそも名前に「運命」がついていることからしても、興味深いカードなのです。


何をやっても完璧な「世界」

私はタロットにおいては、人にモノを教えている立場ですので、一見、アウトプットが多いということになります。

しかし、ずっと講師的なことを続けていますと、まったく逆であることも強く感じています。逆とはインプットする側に回るということです。

最近は「バランス思考」も、結構いろいろなところで言われているので、「そういうこともあるでしょうね」と思う人も多いかもしれません。

すなわち、出すほうが多くなると、それに比例して入ってくるほうも多くなるという理屈です。お金のことでは寄付などの貢献の例でも言われていますよね。

ただ、私が感じているのは、そうした一面(言い換えれば誰にでもわかるような、目に見える分量的な要素)だけのバランスではなく、感情的・精神的・霊的ともいえる部分においてもバランスがあり、言ってみればすべての分野でバランスが貫かれているのだというものです。

例えば、私はタロットの生徒さんに、当然ながらタロットのことをお伝えしていますが、実はタロットのことをお話しながらも、人生や統合的な自身の発展について語っているところがあります。

そういう私でも、プライベートに戻れば、悩むこともありますし、落ち込むこともある人間です。そんな時、不思議なことに生徒さんからのメールが届いたり、会って相談したいとかの申し出があったり、偶然に生徒さんに町で出会ったりすることがあります。

内容は、やはりタロットに関する質問や報告であることが多いわけですが、その中身が結構自分に関係していたり、そもそも生徒さんからの感謝の言葉であったりと、生徒さんの意図とは別に、私を励ましてくれることがたくさんあるのです。

また私自身が、人生について教えていただくことも多々あります。それらのタイミングは、まさに奇跡としか言いようがありません。

本当にトータルな意味でのバランスが働いていることを、こうして日々実感するのです。

ただ、多くの人は、そのタイミング(バランスが取られていることのタイミング)に気が付いていないですし、バランスが見た目だけではなく、全体を通して働いていることに考えが及びません。(その情報を把握するテクニックや考え方を得ていない)

ここで言う「バランス」というのは、単に釣り合いの取れた天秤のようなものではなく、自分のしていることが、同じエネルギーと質で還元されてくるような、ダイナミックで立体的・流動的なものでもあります。

あなたの表現(アウトプット・インプット)は、別の人や形を変えて、等量に確実に流れているのです。これが、自分の外側のものが、自分の内なるものの鏡であることの理由のひとつでもあると考えています。

あなたのしていることは、あなたという世界のエネルギーにおいて(それがまさに「世界」でもあります)、一切の無駄はなく、バランスが完璧に取れていると言えます。

だからこそ、マルセイユタロットでは、「正義」と「節制」が、ある並びにおいて対極的な位置を取りながらも、深く関係するカード同士になっているのです。

こうなると、何をやっても「完璧」であるので、逆に言えば、人生は、好きな表現を選択して自分を生きていくことが、とても面白いと言えるのです。


神の住まう家、「神の家」と「神棚」

マルセイユタロットの「神の家」のカード。

ほかのタロットや、一般的なタロットカードの名称では「塔」と呼ばれ、絵柄から不吉なカードとされているものですが、私が伝えるマルセイユ版ではまったく逆の発想となります。

すなわち、神と関係する栄光や祝福というイメージになるのですが、ただ、素直に絵柄だけ見ると、たとえマルセイユ版であっても、雷光のようなものが建物に落ちていることから、やはり強烈なインパクトがありますし、怖ろしい雰囲気が漂うこともあります。

私が個人的に思うのは、このカードの解釈の鍵は、やはり「神」という言葉(概念)にあろうと思います。

神は文字通り神聖なものであり、私たち一般の人間にはうかがい知れぬエネルギーですが、それだけに大いなる恩恵を与えてくれる力があると同時に、天災のような、人ではコントロールできない巨大な災厄も起こす存在のようにとらえられます。

つまり、どちらにしても畏れ多いものがあるのです。

ただ、自分の内に神性があるという内的なものとして想定すると、また違った見方ができます。神の大きな力は自分にあるということになり、その力を引き出す、あるいは大いなるものと一体感を得るという方向になるでしょう。

もしそれを形として表現するとなれば、自分の神性と向き合うための、自分にとっての「神の家」を作るということになるでしょうか。

実は私たち日本人は、すでにこのことを古くから日常的に行ってきたと考えられます。それは、「神棚」の設置です。

私は「神の家」のカードを見ていて、そのように感じました。

このカードは前述したように「神」に関する様々なことを意識させますが、具体的に、「神の家」自体を自分自身や、今居る所に作るという意味もあるように思います。

つまりは神殿を造るということです。

とは言っても、実際にフルサイズで神社を家に建てるわけにはいきません。(民俗学的には屋敷神という概念があり、小さな社を敷地内に建てている場合もあります)

それでも、「神棚」というサイズのものを家に置くことで、それを神殿化して、神性を常に実感させることができます。(神の常駐)

これは神の御霊を分けいただいて祀るという意味もありますが、タロットカードの「神の家」的解釈で見れば、神棚に向かう時、自らの内なる神性を思い出し、それを回復させる効果があるのではないかと思います。

言ってみれば、神棚(神殿・神の家)と、神棚に向かっている自分とを融合するようなものです。つまり、自分自身を「神の家」とさせるわけです。

実際の神殿(神社)のほうがそれがしやすいかもしれませんが、距離的・地理的・時間的・スペース的問題があるので、そのミニチュア版、別の言い方をすれば「ひな型」として、自宅(家)に設置するのが「神棚」だと言えます。

日本人の場合は神棚のほうが感応を得やすいかもしれませんが、神殿ということであれば、別のものでもいいと思います。

そして、何より、マルセイユタロット自体が神殿にもなるのです。その理由は講座でお伝えしています。

「神の家」が出たり、そのカードのイメージが浮かんだりする時、やはり自分の神性(完全性、善悪や利害を超越した霊的素養)を思い、神なる気持ちで襟を正す必要が場合によってはあります。

神棚と自分という関係は、それに手を合わし、自分が神であること(これは傲慢になることとは逆で、自分がすべてとつながるということであれば、謙虚になるはずです)を認識し、宇宙の有り難さ、つまりは自分を含めたあらゆる存在への感謝を行い、尊い気持ちにリセットしていく機能があると「神の家」のカードを見ていて思います。

伝統的な行事や風習が、無駄なものと考えられたり、意味不明なものと廃止されたりすることが多い昨今ですが、やはりそれなりに意義があり、心のバランスや神性を回復していく装置や仕掛けが、実は至る所に昔はあったのではないかと想像しています。

学生時代、民俗学にふれ、こうして今マルセイユタロットに関わる私の中では、さらにそれが確信にも似た気持ちとして今存在するのです。


改めて、マルセイユタロットの全体構成を見る。

さて今日はタロット講座の入り口でも語っている「マルセイユタロットの全体構造」について、少しふれておきたいと思います。

マルセイユタロットの全体を見る時、大アルカナと小アルカナとでは、絵柄の質が異なり、そこに違和感や難しさを覚える人がいます。

というより、ほとんどの人は、最初にそう感じるのではないかと思います。

ただ大アルカナと小アルカナの宮廷カード(コートカード)は、人物像の絵柄や描き方の作風としてはよく似通っており、あまり違いはないと言えるでしょう。

問題は数カード(スート)のほうです。こちらは大アルカナや、小アルカナの宮廷カードと比べても異質で、いわば、絵柄というより、まるで「記号」です。

これ(数カードの絵柄)とよく似たものを探すと、私たちはトランプや、カードや石・貝などでできた「札ゲーム」(たとえば麻雀など)に、それを見ることができます。

ということは、おそらく起源は西洋だけに留まらず、イスラム・中東・インド・中国などのアジアまで、汎世界的規模の「絵柄」が組み込まれたのではないかと推察することができます。

つまり、マルセイユタロットの全体構成は、大きく分けて大アルカナと小アルカナというより、大アルカナと宮廷カードというグループと、「数カード」のグループという対比・ 構図も浮かび上がるわけです。

おそらく何のタロットの知識もない人や、初めてマルセイユタロットにふれる人の印象では、素直にそう感じるはずです。素朴な印象に意外な真実があるものです。

しかしながら、タロットに描かれている象徴を知っていくと、やはり大アルカナと小アルカナのグループ分けは適切であるように思えてきます。

その理由のひとつは、四大元素というキーワードになります。この四大元素という概念・枠組を通して見た時、小アルカナは4組という形でそれに貫かれていることがわかります。

一方、大アルカナは、四大元素・4組の枠で、それぞれのカードやグループに分けられるものではありません。(分ける流派や考え方もあります)

ということは、もう一度基本に戻ると、「四大元素」という概念を用いる時、大と小も明確に分けられるようになるということです。

そして、もし「四大元素」ということでの枠・括りではなく、別のルールや基準で分けていくとすると、前述したように、大アルカナ・宮廷カードというグループと、小アルカナの数カードという組との分け方も可能になってくるのです。

※こうして考えた時、「宮廷カード」の中間的存在・ふたつの間をつなぐ翻訳機能としての重要さにも気がつきます。宮廷カードは「ロゼッタストーン」的役割があるのです。

では、その分け方の基準は何かといえば、「絵柄」になりますが、もっと言うと、「」か「」かとつきつめることもできます。

これは結構重要な見方です。

この場合、「人」というのは、人間であったり、生物であったり、心であったりと言うこともできますが、私は「人やモノである表現」と考えます。ある意味、現実の世界です。(心であっても、現実に自分が思っている・感じていることを示します)

そして「数」は何かと言いますと、「」であり、「宇宙・自然のルール」「モデル」だと見ます。

こうして二元でとらえた場合、意外なことに、小アルカナ(数カード)こそ、「抽象的」「神的」「元型的」存在として現れてきます。

大アルカナと宮廷カードは、実は究極モデルの現実的あるいは心象的表現、実像のように投影されたものとして考えることができます。

本質は数カードにあるという意外な見方です。

まあ、私が言っているのは、この見方が正しいとか、間違っているとかではありません。

マルセイユタロットのすばらしいところは、こうした様々な見方・とらえ方・考え方がすべて「正解」のように見えてくるところで、それこそがこの宇宙の構造そのものではないかと想像できるツールであることです。

私たちはどの世界観(基準・オーダー)で見るのかによって、この世界そのものも変わってくるのです。

しかし、どのように見ても、本質と言いますか、本来はひとつでもあるのです。

ある基準に沿えば、それは他の基準から見た世界とは別世界となりますので、その意味では「間違い」だと自分や他人が感じます。

一方、ただある本質が存在し、それを違うそれぞれの基準で見ただけだと思えば間違いはなく、すべて正解だという考えになります。

こう書くと、一見、後者が正しいように思え、後者こそが目指すべき考え方だと感じられるかもしれませんが、マルセイユタロット的にはそうではないと私は思います。

うまく説明できないのですが、そう(あるゆる可能性や否定性)であること知る、受け入れるというのが、マルセイユタロットから見た今の私の答えと言えましょう。


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