カードからの気づき
その怒りは何(誰)に対してですか?
最近はインターネットを利用して、ブログやSNS、動画サイトなどで、とにかく自己表現する手段が増えましたし、簡単に、しかもすぐにできるようになりました。
そのため、自分(の考えや思い)を聞いてほしい、見てほしいという人も爆発的に増加しています。
その(自分を知ってほしい)欲求は、現代のツールによって楽に叶えられるというのに、なぜか、以前よりも、その欲求が増大している人が多いように感じます。
これはやはり、刺激を受けた分だけ、もっともっと・・という人間の欲求が膨らんでいくということを示しているのと、一見、自分を知ってもらっているようで、その実、誰にもわかってもらえていない、自分が受け止めてもらえていないという思いが、たくさんの人の奥底にあるからではないかと想像できます。
後者は特に、仲間や大衆に向けて自分を発信しながら、それは実体のない相手という感じに近いものに向けて、行っているようなものとも言えます。
それはさておき、もうひとつ強く感じていることがあります。
それは人々の「怒り」です。(同時に悲しみも付随していますが)
そしてその怒りは、本当はかなり個別(個人)的なものなのに、社会的・宇宙(地球・惑星)的規模に無理矢理拡大して、ぶちまけているように思うのです。
これはどういうことかと言いますと、フィールドを拡大して主張すれば、それはあたかも多くの人の主張のようになって、いわば虎(多数や巨大な集合観念)の威を借る狐状態になり、自分の言い分をかりそめの正義にできるからです。
以前、私は自分の生き方を、個別・社会・宇宙の三段階の次元として整合性や関連性が取れるスートリーを作れば、主体的に生きることができるということを、マルセイユタロットの表す三つの次元になぞらえて説明したことがありますが、今回述べているのは、反対にネガティブエネルギーにおける三段階(次元)の悪用という感じになります。
例えば、最近話題の漫画「美味しんぼ」の作者による鼻血シーンの問題。
これに対して、弾圧を図ろうとする政府や東電・原発による恩恵を持つ組織VS事実を隠蔽されて犠牲になっている一般市民という構図がネットをにぎわせていますが(この図式も注意する必要があり、このような単純なものとは言えません)、この一般市民側に自分が当たると見ている人達の中で、激しく国や政府を非難している方を多々見ます。(その逆側の人の怒りの場合もあります)
しかし、そうした方々の怒りは当然のところもあるとはいえ、本当に原発問題で怒っているのかどうかわからないところがあります。
いや、原発のことで怒っていることは確かなのでしょうが、実はその奥底には、自分自身の個人的な怒りと混交されていることがあるわけです。
怒りそのもののエネルギーとしては同質なので、あたかも、すべては原発問題への怒りというように、自分自身でも信じて疑わない状態になっていることがあります。
これより前に、ひと頃にぎわせた、小保方さん問題についても同様です。
小保方さんを擁護する人たちの中に、あるいは逆に非難する人たちの中に、まったく実際の社会的・科学的な問題とは別に、個人的な怒り(例えば、女性が抑圧された社会であるという自分の個人体験による怒りとか、部下や上司、同僚などが行っている不正や理不尽(事実というより、あくまで自分が思っていること)での怒りであったりとか)を混同して、社会問題の怒りとして仮託している場合があるわけです。
この外、「地球の問題」だからと環境や人類の行いについて怒っている人も、ほんのささいな、でも個人的には極めて大きな「個別的」な怒りが実体であるケースも考えられるのです。
ネット社会で、自分の感情や気持ちをすぐに表現できるような状態になっている今、こうした自己の正当化(正義)のため、あるいは怒りへの慰めのため、社会や地球・宇宙まで怒り(問題)を拡大して、他人に自分のネガティブさを、それこそ大きな「ネット」のように広げて、気持ちを共有しよう(巨大な傷のなめ合いをさせよう)とする方法を取っていることに、ほかの人も気がつく必要があるでしょう。(本人は無意識のことが多い)
もちろん、社会・地球・宇宙規模の問題はそれぞれ存在するでしょう。でも、自分の怒りはいったい何に対してなのか、詳細に分析したほうがよいこともあるのです。
あと、スピリチュアル的には、実は個人的怒りと全体的怒りは、逆に繋げたほがよいこともあります。(違いをわかったうえで) これは今まで述べたこととは正反対のようでいて、実は同じことなのです。
欲求や願望を叶えようとしてみる。
世の中、人間の欲望や欲求を刺激することにあふれています。
言ってみれば、それが商売の種、原理ともなっているので、四六時中、私たちは興奮(を起こすため)の波にさらされているようなことになっています。
これを避けるには、まずは物理的に自分を刺激の波から遠ざけておく(隔離しておく)必要があります。
刺激はどこから来るかと言えば、テレビや新聞雑誌などの広告、今はインターネットからも大きいでしょう。もちろん街中を歩けば、広告や看板の山ですし、電車など乗り物の中でもしかりです。
やっかいなのは、人を介しても持ち込まれるということです。
その仲介者自身に自覚がないため、やっかいなのです。
SNSなどでは、実はそれ(知らず知らず、広告の片棒をかついでいる)になっている人も多いものです。
ということは、なるべく外界や人との接触を避け、引きこもっていれば、かなりは逃れられるということです。
もしかすると、最近の引きこもり者の増加は、ひとつには、こうした無意識の自己防衛の形が出ているのかもしれません。
しかし、人は社会的な生き物であることを忘れてはなりません。
引きこもっていると独善的になります。
それはそうでしょう。自分しか世界にはいないみたいな状態になってくるわけですから。
また、考えることが「自分だけ」となりますから、「私はどう生きればいいのだろう?」「オレってそもそも何者?」というような、「私」「自分」の存在意義(宇宙とか世界とか大きな意味での)にこだわるようになり、それが悩みにもなって、結局答えの出ない袋小路のような迷路に彷徨うことになります。
それは一見哲学風な悩みではありますが、実(現実)よりも理想を追求することになるので、どんどん現実離れしてきます。(これが悪いわけではなく、いいところももちろんあります)
そこで、マルセイユタロットでは「悪魔」と「神の家」の関係が意味を持ってきます。
つまり現実の状態からただ自分を隔離して逃げるのではなく、欲望や欲求への刺激を受けていることを自覚し、それらをエネルギーに変えて、これまでの自分枠からの脱却を図るという方法です。
それには、一時的に欲求・願望を叶えるため、忠実に動いてみるという方策があります。
法律を犯したり、犯罪になったりすることは論外ですが、なるべく自分の欲求を叶えるよう気持ちのままに動いてみるということです。
それによって、結果がどのようなものになるのか、叶える過程において内外の状況はどう変化したか、これらを事後検証します。
結局、結構な形で、欲望に忠実になると、心身にダメージがあることがわかります。
物質的にはお金というエネルギーが消費されますし、メンタル的には一時的に満たされる感覚はあっても、次なる飢餓感、もっと大きな欲求に広がっていくことを実感します。
人間関係的にも、あまりよくならないでしょう。ただし素直に伝えたり、表現したりすることで、両者の真の理解を生むこともあります。
まあ、やってみればわかること、動いてみて気付くこともあるということです。
そうして、欲求の充足によって、自分の器とか、求めている本当のものについて知ることになるのです。
そこから、自分の欲求が起こる根本を浄化したり、変容させたりして、次の段階に移ることができます。(ここでまた新たな欲求も起きるでしょう)
この過程がマルセイユタロットの「悪魔」と「神の家」で象徴されます。
欲求の中には、自分への不足感(完全性への疑い、隔離の不安)があり、それをほかで補おうというる行為になりますが、誰でもそれ(不足・欠乏感)はありますので、ある意味、必要なものと言えます。
大切なのは、何を欲求によって求めているかを見つけることです。
人に対してだと、その人に何を求めているのか、モノだと、そのモノを手にして何を得ようとしているのかです。
逆に言えば、自分に欠けていると思っているものが欲求で出るということになります。
ところが、本来はそれ(欠けているもの)が自分にあるというのが真理だと言われていますから、自分の中にあることを自分の欲求から気付いていくための仕組みだとも言えるでしょう。
またたとえ全員が完全であり、すべて備えていたとしても、その現実的表現は様々な形になっており、皆個性を持っています。
「ああいう方法や形もあるのか」と、自分にあるものを出す表現というものを、欲求は知らしめてくれます。
つまり、完全ではあるけれど、表現的には未熟だったり、知らなかったりすることを、人それぞれの欲求とその解消で、より「完全な世界」として整えてくれるよう、存在するシステムだと考えることができます。
ですから、味わう、欲求を叶えるということも、悪いわけではないのです。
欲求を叶えるために社会に生きる時、孤独から解放され、引きこもりにならずに済みます。
ただし、ストレートに欲求がすぐ解消できるような社会になっていないのも、それはご愛敬であり、またゲームとしての楽しい世界なのです。
「変わらないために変わる」「変わるために変わらない」
今日、タロットを見て浮かんできたことは、「変わらないために変わる」「変わるために変わらない」というフレーズでした。
特に「吊るし」というカードを見ていて思ったものです。
「吊るし」に描かれている人物の姿勢は逆さ吊りであり、そのことからマルセイユタロット以外のタロット種では、犠牲や苦しい状況、時には磔(はりつけ)みたいなイメージで語られることもありますが、マルセイユ版は、「逆さ」という姿勢の能動さ(積極さ)に注目します。
すると、前述したように、「変わらないために変わる」とか、「変わるために変わらない」という言葉が出てくるのです。
「変わらないために変わる」とはどいうことでしょうか。
例えば、あるポリシーを持っていたり、自分軸というものがしっかりあったりする場合は、本来は変わる必要はないのかもしれません。
けれどもやはり時代や人は変わっていきますし、そもそも宇宙のサイクルは変化していくものです。いわば状況が変わっていく自然の流れというものがあり、それに対して抵抗するかのように頑固に変わらないのも問題といえます。
たとえば老舗のお店があるとして、ご主人が変わらない店の本質は守っていきたいと思っているとします。
ただこの時代、HPなどネットの告知をまったく持たず、味も店のすべて何もかも昔のままで変えずに商いをするのは難しいでしょう。
これは実際に聞いたことがありますが、老舗の味でも時代によって微妙に味を変えているということです。そしてそれは決して店の軸を曲げることではなく、お店として商売・繁栄を続けていくための方法であり、何よりもお客様に喜んでもらうものを提供したいという変わらない精神のためでもあるということでした。
自分の本質が変わらないためにも、何か外や対応を変える必要もあるということですね。
言い換えれば自分や相手を守るために、表現や外向きには変えることもある・できるということです。
愛する人のためには、いつも同じやさしい態度で接するだけが行動ではなく、時にはあえて厳しくすることで、本質の愛を貫く場合もあります。相手側からすれば、態度が変わったように見えるかもしれませんが。
これはいわば自分を持ちつつ、臨機応変に行動する態度と言ってもよいかもしれません。こうなとる、マルセイユタロットでは「手品師」とも関連してきそうです。(マルセイユタロットの「手品師」と「吊るし」は格好が似ています)
一方、「変わるために変わらない」ということも面白いです。
こちらのほうが、よりスピリチュアルかもしれませんし、「吊るし」の意味の原義に近いでしょう。
ひとつは、変わる準備のために今はあえて変えないのだということです。
今、不安定だからこそ、大きな改革が予定されているのなら、それを急にやってしまうと、組織自体衝撃でガタガタになってしまいます。従って、何が必要で何が不必要か、どこを改革すればよいのかなど見極めと準備のための調査・安定・保存期間がいると言えます。
お金が不足してきたり、人間関係や恋愛で問題があったりすると、人は外側のことで動揺します。
しかし、内外(自分の内と外)が呼応しているというスピリチュアル的信頼を得ていると、物事の原因は自分にあることがわかり、やたらと外側に働きかけて動いてしまうということを避けます。それよりも内なる平安を取り戻そうとします。
これは一見、変わらないようなことに見えて、自分を変えているものでもあります。
それは外側の問題を自分の総合的な発展拡大の課題(恩恵)としてとらえ、これまでの自分より内なるものを大きくしていくことで、心のバランスを回復させ、適切な対応をしていくことを可能にするというものです。
つまり、それまでの自分では問題になるところを、自分が内的に変化することで、問題を問題ではなくしていくということになるのです。
変わるのは内であり、変わらないのは見た目なので(無闇に動かないので)、何も変化していないように外的には見えるのです。
「変わらないために変わる」
「変わるために変わらない」
この両方を必要に応じて採択していけば、結局、「吊るし」の意味でもある「不動の精神」で生きていくことができるでしょう。
自分を変える時の注意
「自分を変えたい」と志すことはとても大切です。それ自体が、すでにチャンスだと言ってもよいでしょう。
そうした気持ちになる場合、今の自分の現状に何かの不満を抱いているということもあるでしょうし、特に不満はないけれども、もっと自分を拡大させてみたい、いろいろな経験をしてみたいと思ったからというのもあるでしょう。
物事には創造・維持・破壊のサイクルがあることは、以前からも述べておりますが、宇宙がそのような本質を持つのなら、私たち人間も、いつまでも同じだということよりも、別の自分を求めていくようになるのは自然だと考えられます。
ただし、自分が闇雲に拡大を目指そうとしている時は、そこには何かをごまかしていることがないか気をつける点があります。
今の自分にとても満足しているというのであれば、何も変える必要性はないわけで、ただ先述した宇宙の流れに調和しようとすると、自分が自然の形で変化していこうとするようになるでしょうから、そのパターンではOKだと言えます。
そうではなくて、とにかく不満や欲求が強く、しかしそれを無視するかのように、別の自分になろとうとするのではあれば、それは問題になります。やたらと経済的成功を目指そうとしていたり、恋愛・結婚の相手を見つけようとしたりしている時など、起こりやすいです。
結局、このパターンでは逃避であり、苦痛や不満を快楽(新しいもの)によってごまかそうとしていることになるからです。
言わば痛みに麻薬を使っているようなものですから、いずれ痛みがふくれがあがった時、快楽や別のものでは補い切れなくなり、不満や欲求は際限のない渇望となって、自分を苦しめ続けることになります。
それが具体的にはギャンブル、恋愛、成功幻想、人への依存、放浪、責任のなさ等につながってきます。
従って、不満が何であるのかを認識し、なぜ自分を変えたいと思うのか、原因に向き合ってからでないと、危険ということになります。言い換えれば、現況の満足を味わう(実感する)必要があるわけです。感謝が大事というのにも、ここにひとつの理由があります。
もうひとつ、これはマルセイユタロットに描かれていることですが、人には「個性」があり、自分の拡大・発展・変化には、普遍的(象徴的)な同じパターン(型)はあっても、一人一人の実体験は違うものであると意識することです。
つまり、先生やコンサルの人が言われる通りが自分にあてはまるわけでもないですし、前にも書きましたが、自分がモデルとしいている人の体験がそのまま自分に再現されていくわけでもないということです。(もちろんあてはまることもあります)
あなたはあなたなりの成長の仕方があります。それはあなたの「枠」や「ブロック」とも関係します。
では、人の言うことは関係ないのかと言えば、それも違っていて、先程も述べたように、「象徴的な意味」では人類は皆同じパターンをもっているのです。
ここを誤解していると、何事もそのままの解釈(言った内容そのままを信じること)になってしまい、「やってみたけど効果がなかった」とか、「言われたその通りだったけれども、なぜなのか意味はよくわからないの・・」ということなるのです。
この、言われたまま・そのままを適用するような思考は、○か×か、0か100かの思考法に近くなり、グレーゾーンや多くの視点、回答が複数あるという考え方ができにくくなります。
実は現代は、ネットによる情報氾濫によって、逆にあまりにも思考・知性が簡略化し、波動の低い感情(高いものは別にあります)によって判断してしまう傾向が強くなっています。簡単にいえば、「好き嫌い、かわいそう、腹が立つ」というレベルでの基準です。「
すると真の自主性を失い、誰かの言うことを鵜呑みに信じてしまうことが一層強くなり、「自分を生きる」ということができず、誰かやその時の社会の正義、大衆の志向によって動かされやすい人間になるのです。
そして、この世は、私が思うに、わざとそうし向けられている面もあると思います。(加速している気がします) それは人の生きるエネルギーに関係すると思っています。
その少しつっこんだ話は、今後創刊されるメルマガと、すでに発刊している講義修了者・受講者用のメルマガや講義で語りたいと思っています。
モデルの人と自分は同じで違う。
成功している人や有名な人、意識の高いと思えるような人などの言動から、人はよい影響を受けることがあります。
モデリングと言って、自分がなりたい人物を意識して考え行動することは、スピリチュアル的にいうと、波動転写という作用に近くなり、自分の枠を拡大させることにつながることもあります。
しかしながらも、物事には二面が必ずあります。
マイナスとしては、もしその人のようになかなか自分がなれなかったり、思うように行かないことが続いたりする時は反作用も大きく、モデルにした人自体を批判したり、自分はダメだと自らを責めたりするようになります。
結構、カリスマ的な人物は、「成長意識のない人、行動しない人は一生そうやっていなさい、自分を怠惰なままダメ人生で生きてください」など辛辣に言われる人もいるので(^_^;)、つらいと感じる人もいるでしょう。
頑張ったけどうまく行かないと落ち込んだり怒ったりして、モデルの人を批判したり自分を責めたりすることも、結局、自分の怒りや悲しみを他者に向けるか、自分に向けるかの違いだけであって、構造的には同じものと考えられます。
どちらにしても、実は自分を責めていることになるのです。
前者は他者(モデルにした人)を批判しているのに、どうして自分を責めることになるのかと思われるかもしれませんが、これはつまるところ、自分を投影した人物を批判していることなので、理想の自分になれない自己に怒りや悲しみを覚えていて、鏡映しの自分に文句を言っているようなものなのです。
人の人生を考察していくとわかりますが、どんな人にも感情の波はあり、いつもポジティブであったり、意識が高かったりするわけではありません。平坦な時もあれば、輝かしく何も問題がないような時代もあり、また苦しく失敗だと思う時期もあるはずです。
あなたがモデルにしたような理想的な人であっても、そこまでたどり着くのには、数々の大小の波を渡ってきたわけです。
いきなりその人のレベルの波をあなたが乗りこなそうとしても、やはり今のあなたの段階では難しいことがあるのです。
もっと正確にいうと、難しいと「感じる」段階があなたで、簡単であると思えるレベルがモデルの人だとなります。そのこと自体が平易かそうでないか、実行可能か不可能であるのかの問題よりも、「感じ方」のギャップのほうが大きいのです、
よくモデルになるような人は言います。
「私だからできたのよと言われるかもしれませんが、これは誰でも、あなたにだってできることなのです! 以前のダメな私にだってできたのですから」と。
これは真実でありながらも、嘘になってしまう部分があります。
というのは、この人の中では本当にそのように思っているので、この人としては「真実」なのです。そして「ダメな自分」と表見しているように、この人もあなたのレベルや次元にいたことがあるから、真実だとこの人なりに言うことができるのです。
しかし、前述したように、成功や成長したために、当時の自分の感性・感じ方と今ではすでに違ってきていることに気がついていない人たちがいます。
生まれた瞬間からスーパーな人だった人は誰もいません。みんな赤ちゃんで保護者に育てられます。
そのため、こういう人は「昔の自分を思えば、今こうして現在の自分を見ても、本質的には何も変わってないし、確かにそれなりに努力はしたかもしれないけれど、私って特別の人間じゃないし、やはりやれば誰でもできるはず」と感じるわけです。無力な時代は通っているのですから。
ところが、梯子の上と下ではやはり高さの違いがあります。
モデルのことを理想だと思っている人が、「やっぱりすごいな、この人は」「でも私にはできないわ・・」「この人だからできるんだよね」と感じるその心も実は本物なのです。
上から見下ろすと誰でもできるように思うかもしれませんが、下から見ると、やっばり高くて遠い道のりということもあります。
結局、モデルも、モデルを理想とする人も、どちらも言うことや感じることはそのまま真実と言えます。嘘はついていないのです。
しかし不思議なことに、次元やレベルが異なると、それが時に嘘に思えるようにもなるのです。
そこで、モデルにあこがれている人(ああいう人になりたいと思ってる人)で大切なのは、必ずしもモデルや尊敬する人の言うことに、自分がその通りにできなかったり、考えに至らなかったりしたとしても、自分を責めないことです。
落ち込むことは普通にあるのが人間ですし、あなたはモデルの人そのものではなく、あなたはあなたなのです。モデルの人はあなたの投影の部分もあるでしょうが、やはり個人としては別です。
あなたはあなたなりのペースで、魅力を感じた人の要素を真似したり、採り入れたりして、モデルの人に見た「あなたの個性」を生かすようにすればよいのです。
個性があるということは、それだけ違うペースや進み方、発展性があるという意味にもなります。教科書通りの進展にならないほうが当たり前です。
時間がかかり、変化の度合いが言われるようなものでなかったとしても、それも自分の表現です。
「成功」という面で考えても、マルセイユタロットは成功を、現実レベルと精神レベル、さらにスピリチュアルレベルがあると説き、少なくともこのように三層あるわけですから、どの分野で成功しても、それは確かに成功といえます。
個性を持って生まれた時点で成功という人もいます。人はすべてはひとつかもしれませんが、誰一人同じ人はいませんから、あなたの生き方が成功と述べてもよいのです。
ただし、あなたが「自分を生きていない」と思えば、それは「個性を生きていない」ということなので「失敗」だと自分で決めているようなものであり、それは、つらいと感じる人生となるでしょう。