カードからの気づき
責任の負い方・取り方、バランス。
今日はタロットをしていて浮かんだことがあったので、記したいと思います。
●過剰な責任の負い方と、不足な責任の取り方
これは「正義」のカードが端的に象徴することですが、責任(の持ち方・取り方)のアンバランスという観点では、
1.自分の現状や今の能力を超えて、必要以上に責任を負おうとする人(状態)
2.本来やるべきことや、取るべき責任から逃げている人(状態)
が挙げられます。
「(状態)」と書いたのは、これは特定の人のことを言っているのではなく、結構誰にもそのようなことが、時と場合によって起こる(起こしてしまう)からです。
さて、面白いことに、私の見るところ、日本人では1は個人に起こりやすく、2は組織や集団に生じやすいと言えましょう。
1ですが、注目を浴びれば浴びるほど(または周囲を気にすればするほど)、自分自身のイメージや状態よりも、外(他人)の周囲のイメージが優先されるようになり、その投影された巨大で高いレベル(他人や大衆が求めている幻想レベル)に自分を合致させようとして、個を超えた自分の力を信じて、実際にはできないことも多いのに頑張ろうとしてしまいます。
こうなると、いつも強いプレッシャーを感じることになりますし、できないことをやろうとするわけですからつらいです。
「達成しようと頑張る」→「できない」→「もっと頑張ろう」という悪循環にも陥り、それは結局不幸と言えます。
それで自分を見失い、失敗(本当は失敗でもないのですが)を繰り返して、疲れ切り、自滅することもしばしばです。(このあと、プレッシャーを与えた対象(相手)か、逆に応えられなかった自分を責めるようになることが多いものです)
2は、特に組織の場合、内部集団に紛れることで、責任をあたかも分担したかのような錯覚になって、本来その組織の長や担当者が取るべき責任が軽くなってしまうことがあります。ひどい場合は、意図的に責任者が組織を隠れ蓑にして、隠蔽したり、逃げたりすることもあります。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というような具合ですが、自然発生的な個人のバラバラな状態ならば仕方ありませんが、もしこれが組織の団体行動で、赤信号でも渡らせた(それで事故が起こったという場合)組織のリーダー・責任者も責任を取る必要があります。
まあ、このあたりは今までもよく言われているので、「そうそう、日本の組織はそういうとこあってダメなんだよね」と思っている人も多いでしょう。
ところが、実は私たちは個人レベルにおいても、この組織的責任回避(というより逃避)をイメージでしてしまうことがあるのです。
それは、本来自分(個人)が行うべきことであるばすなのに、何かと理屈をつけてやらない場合に起こりやすいものです。
簡単に言えば、自分ができない理由を正当化するために、ほかのできていない人を見つけて、「ほら、あの人もしていないよ」という、似たもの疑似集団を自分で作り出すわけです。
やっかいなのは、これがイメージの世界なので、事実よりも自分の都合のよい解釈によって、時空さえ超えて理由や共通点を見つけ出そうとすることです。
時空を超えるというのは、たとえば 成功者とか今はうまく行っている人の過去に遡って、「今の自分と似たところがあった」としたり、空間は言わずもがなですが、場所を飛び越えて実際に会っていない人、知らない人に対してでも、「きっとそうなんだろう」とか、「この人の言うことが、私の今の状態でもいいことを許してくれている(と自己解釈する)」と思ってしまうことです。
いわば責任逃れのための理由を、勝手な解釈でグルーピング化(人や理由の、組織化や集団化)してしまうということです。もっと平たく言えば、個人の問題なのに一般化(全体の問題化)しているのです。
前にも書きましたが、「怒り」や「悲しみ」がある場合は、個人的問題が一般問題化されて隠れている場合が結構あります。
さて、最初に書いた責任の取り方のアンバランス「1」のケースに戻ります。そう、自分を追い込んで責任を取り過ぎているパターンのことです。
これの判断は、自分が楽しんでいるかどうか。あるいは、やればやるほど心と現実(形あるもの)が消耗しているかどうかという点が見極めのポイントです。
何かを達成したり、結果を出したりすることは快楽的(気持ちいいこと)なことだけではできないのが普通です。そこに何らかの熱意ある働きかけや行動(努力の場合もある)が必要です。時には苦しいこともあるかもしれません。
ただし、やっているのに結果も出ず、心身が消耗し、お金もなくなり、人間関係もおかしくなっているものは、やはりそこに“過剰な”何かがある証拠です。
たいていは、先述したように、本当の自分の気持ちや現状の能力・扱える範囲ではなく、誇張され、自分ではないほかの人から拡大投影されたイメージの「自分」を演じようとして、自分を超えた責任を背負い込んでいる場合が多いのです。
この時は、フラットな自分に戻るため、自分を甘えさせてもいいわけです。
そもそもが「自分以上のこと」をしようとオーバーワークになっていたわけですから、甘えるというより、本来の自分相応に調整すると言ったほうがいいです。
注意すべきは、自分が演じているだけではなく、誰かに対してそうした「過大な人になること」を要求していないかという点も大切です。
すごく単純なのですが、「何かが変・おかしい」と自分が感じているのなら、やはりそれはバランスの意味で正しいことがあるわけです。
ここがマルセイユタロットで言えば、「月」とも関係するのです。よって「月」と「正義」はバランスの意味で関連しあうカードとなります。
サッカーW杯、日本代表の結果を見て。
日本サッカー代表、W杯では残念な結果になりました。
私はスポーツの中でもサッカーが好きなので、当然のように注目はしていました。
ただ、タロットをするようになって、何事も様々な角度から見る傾向が強くなり、時が経つにつれて、単純にサッカーの試合やイベントに興奮するようなことも少なくなってきました。
それは試合過程と結果、選手の技術や戦術だけではなく、イベントのからくりや仕組み、宣伝・広告の世界、選手環境や心理状態なども考慮するようになったからです。
言わば、冷めた視線とサッカーというスポーツそのものにワクワクする自分とのせめぎ合いで、最近はいつも見ているようなものでした。
私自身は、これは悪いことではなく、バランスとしてどちらも必要な視点だと感じています。
こうしたことで考えると、今回のW杯での日本代表の結果は、ある程度予想できたものでした。ですから結果自体にショックはありません。
しかし同時に、今回はサッカーというより、日本全体の問題も浮き彫りになったのではないかと感じることがあり、それはそれでよいことでもあるのですが、根の深さと言いますか、かなり全体的なことでもあるので、気持ちがいいものではありません。
詳しくは書きませんが、やはり一番今回感じたのは、本質を見誤らせる全体的な仕掛けというものです。
サッカーにあまり関心がない人でも、FIFAというサッカーの世界的組織があることは知っている人もいると思います。そこが国別にランキングしている現在の実力順位というものがあります。いわゆる「FIFAランキング」です。
もちろんこの計算方法もあてにならないこともあるのですが、まあ、ともかくは一応は公式な国別のサッカーランクです。
そして今回のW杯で日本が入った一次グループの国々のランキング(現6月時点)は、上からコロンビア(8位)、ギリシア(12位)、コートジボワール(23位)、日本(46位)で、これが先月の5月であっても同じ順で、5位、10位、21位、47位となっていました。
これを見ると、いかに日本が下なのかわかると思います。むしろ、今回の一次リーグの結果は極めて順当・妥当であったということも言えるかもしれません。(決勝トーナメント進出はコロンビアとギリシアでした)
ちなみに日本は、ここしばらく40位から50位の間に留まっています。
これだけの情報でも、過大な期待はかけられないことはわかったはずです。さらには監督のここ数年の采配を客観的に見ていれば、本番での危険性はかなり強いと予測できたでしょう。
確かに現代表のレギュラーと言える選手たちには、ACミランとかマンチェスターユナイテッド、インテルなどのヨーロッパの有名・強豪クラブに在籍する人がいますが、実体は試合に出ていなかったり、不調であったり、怪我があったりと、万全でない人がいたことも、サッカーの世界では普通に知られていることでした。
ところが、多くの人たちは「何か」(あえて指摘しません)に幻惑され、本質的なものから遠ざけられたり、幻想や過剰な期待を抱かせられたりしています。それによって何をさせられたのか、どんな気分になったのかを分析してみるとよいでしょう。
気分を高揚させたり、盛り上がることが悪いと言っているのではありません。無理矢理に、あるいは意図的にそうし向けられていることもあると、どこかで思っておくとよいと言っているのです。
今は冷静でバランスの取れた情報というものは、ほとんど知らされないのが現状です。
これは何もサッカーに限りません。ほぼすべての分野、とりわけ、日本や日本人の全体に関係することでは顕著だと言えます。
現代はインターネットや情報機器、伝達スピードの急速な発達によって、様々な情報が飛び交う時代になりました。
しかしながら、それらを利用して、ある方向性に導いたり、バイアスがかかった情報を多量に出したり、本質的なことから目をそらしたり、見えなくさせられたりしていることが、逆に強くなっているのではないかという気がします。
マルセイユタロットの教えでは、この世界は幻想で満ち、私たちの神性の覚醒を阻む仕掛けや仕組みが施されていると言われています。(ちなみにこれは、一般の「正義」に対する「悪」の概念を言っているのではありません。しかし「悪魔」というの名前のカードはあります)
情報がたくさんあるからこそ、その中から峻別し、物事の本質やバランスを見る目が、ますます大切になってきていると感じます。
文明や社会が発達した割に、逆に、私たちの奴隷的な状態は、一面では昔より進んでいることもあるのかもしれません。かつてのような、見た目の奴隷ではなく、精神的・霊的な奴隷と言ってもよいでしょう。
従って、情報やメディアに流されず、自分主体で物事を見る(分析する)必要があります。
主体的に見るということは、情報は入れながらも自らで分析し、冷静さと自分の感性や情熱性も融合させるということです。
今回のW杯の結果で、すべてを一般化して、Jリーグや学生サッカー、また個人個人の頑張りや努力の世界、果ては今後の日本代表やスポーツ全般まで否定しまうのは問題です。
もちろんサッカーに一時的に関心を寄せて、今回のことで興味を失ったというのも、その人の自由と好みです。
ですが、自分が何かに踊らされ、自分の主体的な見方と感性ではなく、誰かや何かの言いなり、志向性によって奴隷のように動かされたとするならば、今後は注意したほうがよいでしょう。
私は純粋にサッカーというスポーツが好き(その歴史的な普及経緯等では、手放しで喜べるものではありませんが、球技スポーツとしては個人的には面白いと感じています)で、これからも代表やサッカーをする人を見守ったり、応援したりしたいと思います。
一方でサッカーやスポーツを利用しての操作や、幻想装置としての働きの部分には注意したいと考えています。
これ(サッカー)に限らず、ダメなものはダメ、いいものはいいときちんと自分なりに評価したり、意見が言えたりする自由な社会であってほしいと願いますし、また社会や外に期待するのではなく、実はそれぞれ自分の問題としてとらえるというのが本質ではないかと、タロット的には思うのです。
頑張る、頑張らない。
最近は「頑張らない」ことをよしとする人が増えてきた感じがしますね。
ブログやSNSでも、そうしたことを主張する人も多くなった気がします。
いわば「頑張らない教」といったところでしょうか。
一方、相変わらず、頑張って・頑張って生きてしまう人も少なくありません。頑張らないと結果は出ない、成長できないという趣旨です。こちらは「頑張る教」ですね。
まさしく、世は「頑張らない教」VS「頑張る教」という様相を呈しています。(笑)
ただ、これは当たり前ですが、どちらがよくてどちらが悪いというものでもないと思います。
重要なのは、何を頑張り、何を頑張らないのかの区別と基準、そしてバランスだと言えましょう。
頑張らないのがいいという人でも、努力しなくていいよとか、一生懸命やることを否定しているわけではないと思います。
また頑張ることをよしという人でも、心身を故障させてまで、死ぬまで頑張れと言っているのではないでしょう。
頑張る・頑張らないで重要なことは、それが本当に自分のためとなっているかどうかという点です。
誰かや何かの洗脳で頑張ることで報われると思わされていないか、その頑張りは人のためになっていても、その人のためというのが純粋にその人のためではなく、その人に認められて自己の存在と評価を高める(安心させる)という他者評価が基準になっていないかというところをチェックすべきでしょう。
外の見返りを求める努力や頑張りは、それを得られなかった時の無力感と、たとえ得たとしても際限のない拡大欲求のために、いつまでも内に安心・安寧を得られることがないという万年欠乏・飢餓感に苛まされます。
その頑張りは、まさに自分のためであると自覚できて初めて正当な頑張りになると思います。
それから、世の中は二元のエネルギーの循環とバランスであることは、マルセイユタロットにも説かれているところです。
集中と解放、緊張(収縮)と弛緩、制限と自由・・・あらゆるふたつの相反するエネルギーがバランスとして存在するのがこの世界です。
どちらか一方だけで終わることは、どの局面も、誰も、どの世界でも不可能です。
頑張らないことを決めると、その瞬間、頑張ることがどこかで発生する仕組みになります(それが望ましい頑張りか、望ましくない頑張りかは別です)し、その反対もあります。(「頑張らない」ということを維持するための、「頑張る」状態が生まれることもあります)
もしそれ(すべてがバランス状態であること)に気か付かない時は、自分の中の幻想(アンバランス)を修正するために、身体を壊したり、対人関係や仕事に問題を生じたり、お金に困ったり、何らかのアンバランス・問題を強く感じて意識させられたりして、自らの幻想を解くための事態が発生します。
今まで頑張り過ぎた人は、そのアンバランス表現として、自分の窮屈さを感じたり、心身のトラブルとして出たり、パートナー問題として続いたりします。
頑張らなさ過ぎの人は、お金に困ったり、友人や知人に恵まれなかったり、簡単に誘惑に引っかかったりします。
頑張らないのがいいと言っても、力を入れたり、集中したり、努力したりするということが悪いわけではないことは理解する必要があります。頑張らないことと、楽に逃げること・何もしないこととは全く別です。
無駄な頑張りや、自分のためにならない頑張り、人や世のための頑張りでも、結局見返りや自分を承認してもらうためにやってしまうものは問題だということなのです。
ですから、ここぞという時、これは純粋に自分のため、家族のため、組織や会社のため、社会のため、地球や宇宙のためにやらなくてはならないことは、やはりその時その時に訪れ、あるタイミングでは頑張らないといけないことも当然あります。
頑張ることで結果を出し、鍛えられたり、今までの限界を突破したりすることも可能になります。
要は頑張る(あるいは頑張らない)ということの、ポイント・方向性・理由のバランスの問題です。
また結果と過程(プロセス)、どちらも重要ですが、結果が求められる時と、過程が重要視される時とでは、やはり場面や状況が異なります。これもふたつのエネルギーの表現なのです。
ですから、頑張る教の信者の人は、たとえ結果が出なかったとしても、「頑張った分だけは評価してくれ」「結果と同じくらいの価値のもの(端的にお金や見返り)をくれ」と言う人がいます。(反対に結果こそすべてという人もいます)
これは注文した商品ができていないのに、「商品の製作は頑張ったんだから、お金ください」と言っているようなものです。やはり頑張った見返りを望んでいるのです。
反対に、頑張らない教の人の中には、積み重ねや経験によって人間の成長や幅ができ、蓄積そのものが結果の中にも目に見えない力として入っていることがわかっていない人がいます。(これも逆に結果には意味がない、過程のほうが大切と決め過ぎる人もいます)
苦労した人の言葉に厚みと重みがあるのはそのためです。(かと言って、苦労しなければならないというのではなく、自分に圧力をかけることはバランス的にも必ずあって、重要だと言っているのです)
集中と収縮(圧力)が、物事のある力を何倍にも凝縮させるのです。爆発や飛躍のためには圧縮が不可欠です。
ということで、頑張る・頑張らないは、適切に場面に応じて選択して行き(生き)ましょうということです。
奇跡はない世界
よく、「一瞬であなたは変われる」という人がいます。
そういうこともあるのかもしれませんし、そのような体験をされた人もいらっしゃるでしょう。
ただ、私は本当の意味での「一瞬で変わる」というようなことはないのではないかと考えています。
つまり奇跡的な変化はないということです。
もっと言えば、この世の中には奇跡は起こらないと私は今は思っています。
「えっ、タロットなんかやっていて、その考えはないでしょう、奇跡を信じないなんて味気なさ過ぎます!」と言う方がおられるかもしれません。(苦笑)
まあ、話を聞いてください。(^_^;)
例えば、さきほど言った「一瞬の変化」
これも人のことだけではなく、一瞬に画面が切り替わったり、外の様子が突然に変わるというようなことは実際にあります。
しかし、映像画面にしても、人の気分にしても、本当に一瞬に変わったのでしょうか?
確かに時間的には一瞬の変化のように見えますが、そのプロセスは一瞬のものとは限りません。
画面を変化させるためにはプログラムの存在もあれば、システムや電気の流れなど、複雑な仕組みが構築されて初めて、見た目の画像の変化が生じます。
気分にしても、脳内の電気信号や感情の流れ、肉体反応等、いろいろなものが複合して、人体の仕組みの結果として「変わった」のです。
そこにはシステマチックなものや組織的なものが必ずあります。
ということは、「一瞬」という時間の感覚はあるものの、そこに至るまでの見えない時間や積み重ねも、やはり同時に存在しているわけで、これを想定すると、一瞬で変わることは見た目にはあっても、理由なく一瞬で変わることはありえないと思ってしまうわけです。
まあ、あくまで個人的な考えに過ぎないので、その点はご了承くださぃ。
この考え方を推し進めると、結局、世の中にまったくの「奇跡」「ミラクル」はないのだと見ることもできます。
つまり、そこには何らかの理由やシステムがあるととらえ、それが今の自分の能力や感性・知性では見ることができないために、奇跡のように感じてしまうのだということです。
もし、何かのことで突然自分が変わったとか、自分が良くなったというようなことがあっても、たぶんそこに至るまでのあなたが気がついていない蓄積(もしかすると現世的なもの以外のことや、他人や周囲・世界の影響もあるかもしれません)や理由があり、そのタイミングと、ブレイクする効果的な方法が合致したということかもしれないのです。
これは実は重要な示唆を秘めています。そして、今日、私が言いたかったことでもあります。
それは、あなたの経験は決して無駄でないということであり、たとえ苦しいこと・つらいこと・悲しいこと・不幸に思える体験があったとしても、実はそれ自体があなたに新たな変化をもたらすための糧(素地・蓄積・変容の宝物)になっているということなのです。
マイナスと思えることの積み重ねがあるからこそ、プラスに転じる力となっているわけなのです。
ですから、あとはタイミングとプラスに転じるための情報や方法を得るだけです。
溜まったものが多いほど、その反転するエネルギーは莫大になり、あなたに大きな気づきをもたらせるでしょう。
修行者が自らにあえて負荷をかける理由はいろいろとあると思いますが、ひとつにはこうした反転エネルギーを蓄積しているとも考えられます。
ただ、ずっと同じ状態のままを信じ込んでしまうと、反転する機会を今生では失い、別の人生の機会か、あるいは今世でほかの人に刺激を与えたり、気づきを無意識のうちに与える役割として、自分自身は気がつかず(変わらず)、一生が終わってしまうかもしれません。
今の時代、たくさんの人が反転する方法や手段を伝えてくれています。情報とその適切な選択は、人や次元を変えます。
奇跡は厳密な意味ではないのかもしれませんが、あなたが意識を変えて、エネルギーを反転する方向に歩み出した時、その時の自分にはわからないかもしれませんが、見た目の現象的には、“奇跡的”なことが起きるのです。(自分では「奇跡」だと感じることが起こる)
まさに、「奇跡なき奇跡」が生じます。言い換えれば、すべては理由があるから奇跡ではないけれども、あなた自身には奇跡と思えることが起きるということです。
それはまた神性的な力の発動という意味の、「奇蹟」にもつながることなのです。
ちなみに、マルセイユタロットの「力」はこのようなことを象徴しているとも言えます。
「自分探し」について
「自分探し」という言葉があります。
ひと頃、その言葉も流行り、発展途上国を回ったり、聖地などに行ったりして、「自分」を見つけようとした方もいらっしゃったでしょう。
しかし、最近は、「幸せの青い鳥」ではありませんが、「結局、自分というものはどこかにあるものではなく、自分の中にあるものであり、自分が認めるだけである」という考え方が増えてきて、自分探しで放浪したり、旅をしたりするのはばかげているという見方も多くなりました。
まあ、確かに本質論として、「自分というものは、外にあるものではない」という考えは、私もその通りだと思います。(実は外にもあると考えることができるのですが、それはまたの機会にお話します)
ただし、だからと言って「自分探し」全否定という立場ではありません。
いや、むしろ、やはり人は時として、「自分探し」の旅に出るものではないかと考えることがあります。
では改めて、簡単ではありますが、自分探し(の旅)とはいったい何なのかを考察してみることにしましょう。
「自分を探したい」ということは、自分が「今ここ」にはいないと感じていたり、自分が充実して生きている実感がないということでもあるでしょう。
つまり、自分を見失っている状態とも言えますし、今の仕事や生活環境、生き様に満足していないということになりそうです。
いずれにしても、何か(それを「自分」と見ている)が「ない」と感じていたり、「不足」であったりするわけです。ここが非常に重要です。
「今ここ」には何かが「ない」ということであれば、人は主に、ふたつの方法で対応します。
ひとつは「今」ではない時間に行くこと。
そしてもうひとつは、フィールドを実際に変えて、ないものを探しに行くことです。
言わば、時間移動か物理的移動による発見に期待するという方法です。
しかしながら、時間移動は現実には自由にできませんので、自ずと場所移動という物理的な移動の選択にならざるを得ません。そうして、人は「自分」を探しに、外国や地方を放浪していくわけです。
ただ時間移動もできないわけではありません。
さすがにタイムマシンのように、自由に過去と未来を行き来することはできなくても、心理的に過去に戻ったり(退行や引きこもり状態)、そのままモラトリアムの時間を過ごしていくうちに時間経過によって、「未来」に自然に行くことができます。
そうして、「ない」と思っているもの、「なくした」と思っているものを探すわけですね。
とにかく、「ない」「不足」を補うために、自分探しの旅に出るわけですが、その結果、見つかった人もいれば見つからなかった人もいるでしょう。
見つかった人というパターンは、外国での暮らしぶりに刺激を受けて、日本の豊かさ、自分が恵まれていることを実感して、生きる力を取り戻したとか、日本ではあまり経験したことのないような仕事とかボランティアなどをして、そのままその内容にひかれ、現地あるいは日本に戻ってからも続けることで、使命感や生き甲斐を見い出すというようなことがあるでしょう。
もちろん外国に限らず、都会から地方、逆に地方から都会へと国内で移動したり、いろいろと見聞したりすることで自分の興味の発見があり、自らの目指す道や考え方に出会った、気付いたという人もいらっしゃると思います。
これはどういうことかと言いますと、外からの刺激(目新しい体験・経験、人との出会い)によって、それまで隠れていた自分、自分では気付いていなかった自分の興味や関心の傾向が引き出されたのです。
そう、「自分が見つかった人」というのは、人やモノ・土地との交流、体験等によって自分の変容が促され、もともと持っていた自分の完全性から、ある要素や部分が露わになったということなのです。
つまりは、「不足している」「ない」と思っていた自分の感覚に、新たな体験や情報・刺激によって、「ある」「あった」という実感を見い出したということになります。
一見、それは外国や自分が経験したそれ自体に存在していたかのように思いますが(つまり外側にあったと思うこと)、実は自分の中にもともとあったものなのです。
しかしながら、その性質・要素を引き出す体験や刺激があったからこそ、自分にすでに存在していたものを外に出すことができた(気がつくことができた)のです。またどう表現していいのかわからなかったことが、モデル・現象として見えたということでもあるでしょう。
マルセイユタロットの教えにも、人はもともと完全であるという考え方があります。タロットカードは、そのことを思い出すための象徴装置だとも言われています。
カードには、旅をして人間を完成させるという発想があり、それをもっとも象徴しているのは「愚者」のカードです。さらにそのほかのカードは、いわば様々な「旅の体験・経験」の舞台・演出・登場人物とも言えます。
そうしてあなたが旅の舞台に立ち、様々に変化していくシーンで自らも自然に演じていくことで、いつの間にか、あなたは本来の「自分」というものを思い出す仕掛けになっているのです。
「自分探し」は、実は人生そのものを凝縮した言葉でもあったわけです。実際の旅をするのもよいかもしれませんが、人生それそのもの、生きること自体が、どんな状況であれ、あなたにとっては自分を見つける旅なのです。
確かに自分はもうすでに完全として存在しているのですが、一種のゲーム、楽しみとして、あえてわからないようにしているのでしょう。
人生の旅で自分がたとえ見つからなくても、見つけようとするそのプロセス自体が目的と考えると、見つかる・見つからないという結果より、今この瞬間に意味があることに気がつくことでしょう。
そうして結局、物理移動や時間移動よりも、「自分」を探すことの最高の方法とは、「今、ここに生きる」ことになるのです。
