カードからの気づき

思いの現実化とリアリティ

以前、私がタロットをしていると言うと、ある人に、

「僕、ジャニーズに入れますかね?」

と聞かれたことがあります。

年の頃は40代手前と言ったところでしょうか。またちょっとイケメンとは言い難い、普通のおじさんです。

と書くと、皆さん、「無理!無理!」と思うでしょう。

この人は本気? いえいえ、さすがにその人の冗談での話でした。

しかしながら、このことは当時、「引き寄せの法則」などが公に出始めた頃と言うこともあり、私には重要な示唆を与えてくれました。

そこから、「思うことと現実になることの関連」について、マルセイユタロットを介しながら、考察していたことがあります。

その過程で少しわかったことがあります。今日はそれについて書こうと思います。、

結局、言えることは、「本当に自分で可能だと思わないと、それを実現することは(ほぼ)不可能である」ということです。※ほかの、偶然性での実現もあるのて、必ずしもではないのですが、「思考の現実化理論」面としてとらえてください。

このことは、今や半ば当たり前のように、精神世界や超心理においては語られることですよね。

ただし、これはそのままで解釈しないことです。

それについて(そのまま文字通りの解釈では通じないこと)も、たぶん皆さんは、こんな風に理解している人が多いと思います。

曰く、「潜在意識において、本当に自分が信じているかどうかによって(実現度)が決まる」と。

これはある意味、言ってみれば、「潜在意識」や「深層心理」というような、ブラックボックス的なものに託して、あるいはそれですべて片付けてしまって、理解を終えてしまう(思考を止めてしまう)ということに近いと思います。

ですから潜在意識にすり込むとか、本当の気持ちになるまで思い込むとか、イメージするとかという方法論になるのだと想像できます。

とはいえ、難しいのは、どこまでが顕在意識で、どこからが潜在意識なのかは、それこそわかりづらいところです。

そこで、私が考える「本当に自分で可能だと思えば、それが叶う、現実になる」ということの基本は、本人のリアリティ(現実)感にあると思っています。これは潜在意識というより、顕在意識、自分でわかっている部分においてを主に指します。

言ってみれば、潜在意識理論と結局は同じことなのかもしれませんが、顕在意識も明らかに矛盾せずに認識しているという点ではちょっと違うかもしれません。

実現したいこと、願望が、本当に自分にとって現実感となっているかどうか、これが重要です。

現実感なので、「感覚」ということがメインになりますが、「思考」も関係します。それについてはあとで述べます。

感覚が大事だというと、よくあるのが、写真とかイメージを使って「すでになっている」「すでに実現している」ことを思い浮かべたり、イメージを濃くするために利用したりする方法です。

これも一理あるとは思いますが、肝心なのは、その方法で本当に自分にリアリティが出ているのかどうかということです。

このリアリティとは、そのことができる(達成されている)普遍感(普通感)とか、(外にあるまだ未達成の願望というより)自分の中に取り込んだ「できるという、手が届きそうな実感覚」と言ってもよいでしょう。「無理だ」というのではなく、明らかに「できる」「できそう」と思える感覚です。

単にイメージしても、「自分にはできそうもない」と思っていたり、イメージすること自体を楽しんでいたりする状態(イメージ遊び)程度ではあまり効果はないでしょう。(イメージ力を向上させるためには、それは無駄ではありません)

イメージングによって、自分に願望が達成できる確信や自信、色の付いた夢のような世界にどっぷりと移行できる人は(まれにいます、イメージ力がとてつもなく強い人です)、実現の可能性も高いです。

それは達成したいそのこと自体に、すでにリアリティを感じているからです。

しかし普通の人はなかなかリアリティを保ち続けることができません。

スピリチュアル的に言えば、波動(周波数と呼んでもよい)が、まだ願望の状態の表すそれとは異なっているままだからです。

一時的にイメージングや他の方法でもって、波動をそれに近くしたところで、またすぐに今の自分の状態の波動に戻ってしまうのです。

ここに、感覚だけでは(願望達成や思いの現実化は)難しいということがわかります。

ではどうすればそのリアリティを持続させられるのかと言えば、それに「思考」の変化と維持が加わってくるのです。

言い換えれば「情報」の収集と扱い方と言えましょう。

つまり、思いを実現できる可能性のための方法であったり、コネであったり、場所や時間であったりすることに関心を寄せていくということになります。それは行動にしなければならないこともあり、現実の情報である必要性もあります。

情報は現実とリンクさせ、妄想やファンタジー的な感覚で集めないことです。

そうして自分の思いが実現できそうだと思える段階まで、その関連情報にふれ、自分の思いの「達成リアリティ」を増していきます。

一時的に望みの波動・周波数に合わすことができても、常の今の状態にリセットされがちですから、いわば「常」状態の波動を、情報によって段階的に上げていく作業をすると言い換えてもよいでしょう。

「できる」という可能性の思いを、確信に変えていくための情報と行動ということになります。

それによって思考(の波動)が変わり、10よりも20、20よりも30という世界観になっていきます。

目指すものの指数が仮に「100」レベルであれば、感覚的に「100」の世界を味わったり体験したりすることも大切ですが、まずは自分が今「10」ならば、「30」、「50」という状態が普通の、つまりリアリティ感があるように持っていくことのほうが重要だと言えます。

電波に情報が載っているように、波には情報があります

波動のレベルが変化すると、それだけ情報の質と量も異なりますし、逆に今までとは別レベルの情報を入れ蓄積していくと、波動も変わっていくのです。

ただし、入れるだけではなく、目的をもって、「望むリアリティさを自分にもたらすため」というように活用していかないと、現実の変化は望めません。

「思いの現実感」をいかに獲得するか、維持して常態化するかによって、まさに現実になるかどうかが違ってくると言えます。

さらにわかりやすく整理しますと、「願望達成状態の感覚になじめていない」という部分と、「願望達成の現実的方法がわからない、知らない(知らないからイメージもできない、現実感がわかない)」というふたつの(理想と現実の)乖離があるため、望みへのリアリティ感が持てず、今の自分の状況に留まっているということになります。


受け入れることを「斎王」に学ぶ

本日、マルセイユタロットのことを考えていますと、「斎王」(ほかのカードの一般名称では「女教皇」)が特に気になりました。

そうすると、あるメッセージ的なものも心の中で浮かび上がってきます。まるでタロットから言葉や智慧を伝えられているかのような感覚です。(これは逆から見れば、自分の中に存在していたものが、タロットという象徴図柄を通して整理され、取り出されたと考えることもできるのです)

余談ですが、タロットを扱うようになって、このようにして私はインスピレーションを受けたり、物事を整理したりすることが増えました。

タロットから示唆を得る方法としては、ある法則に基づくタロットの並びや展開(これをスプレッドと言います)からの解釈もありますが、カードを並べなくても直接カードから得られるやり方もあるのです。(それにはタロットの表す象徴性を学ばないと、効力は十分に発揮されません)

むしろその方が、「自分使いのタロット」としては有効なのではないかと思っているところもあります。

さて、話を「斎王」に戻します。

「斎王」にはその絵柄の特徴から、「受容性」ということが主なテーマとして象徴されてきます。(もちろん、ほかにも多くの意味があります)

「受容」をそのまま平たく書き換えれば、「受け入れる」こととなります。

しかし私たち人間は、なかなかの素直に物事や他人を受け入れることができません。

できる時は、やはり受け入れるようとする対象や相手になじみがあったり、理解していたり(知っていたり)、もっと言うと「愛」を抱ける場合です。

究極的には最後に述べた「」があるかどうかということになってくるのですが、もう少し次元を落としまして、(対象に)愛を持つためにはどうすればいいのかと考えますと、この「受容」を目的とした場合、先程書いた文にもあった「理解する」、あるいは「知る」ことが、まずは必要ではないかと思われます。

なにはともあれ、相手であれ、対象物であれ、そのものを知ることが受け入れるための準備となるのではないでしょうか。

つまりは受け入れたいと思うものに関心や興味を持つということです。

ただ関心を持って知った結果、到底受け入れられないという判断になることもあるでしょう。

でも、それはそれでいいと思います。

何もわからず、ただ「受け入れよ」と言われて、無理矢理盲目のまま受容したところで、あとで違和感が出たり、抑圧した感情が爆発したりで、最終的には受け入れどころか吐き出す結果が目に見えるからです。

食べ物でも実際には毒や体に害になるものがあります。それを知らないで、おいしそうだからと、たとえばフグを全部食べてしまったら、その毒で死んでしまうことになります。

でも、モノと心は違うと言う人もいるかもしれません。特に精神世界やスピリチュアルのことに関心のある方はそう感じる人もいらっしゃるでしょう。

いわく、受け入れるということはそういう判断のことではなく、純粋にあるがままの状態になることなのだと。

そう、私も実はこれはその通りだと思っています。

そこで、もう少し別の観点で「受け入れる」ということについて、考えてみます。というより、感じてみます。

すると、出てきたのはこういうことでした。

結局、受け入れる・受け入れられないということも、やはりひとつの判断ということになります。

感情であれ理屈であれ、何かをもとに評価しているわけですね。ですから、二択の言い方(受け入れられる、受け入れられない)になっているわけです。

ここをですね、二択や二元的言い方からはずしてみます。

すると、どこまでも「受け入れるのみ」か、「受け入れないのみ」かということになります。

今は「受け入れる」ことをテーマとしていますから、あえて「受け入れる」の言い方しかしないとしていきますと、面白いことに気がつきます。

結論からいえば、それは(受け入れるのみの考え方・回答方式は)可能です。

簡単なことですが、たとえば、何かを受け入れようとして、受け入れられないという感情や判断が出たならば、それ自身(受け入れられないという感情や判断)を受け入れるとするだけです。

そしてまた、その自分の「受け入れる」態度や方法に疑念や疑義が生じたら、またその疑いや違和感を覚えている自分を受け入れるということを繰り返します。

ま、簡単に言えば「受け入れられないと思っている自分を認める、自覚する」という作業になるでしょうか。

受け入れられないものを受け入れろと言っているではありませんから、これは誰でもできると思います。

「それは嫌だな」「受け入れられないよ」という「思い」があるのを、ただ「受け入れる」だけですから。

これはですね、やってみるとわかりますが、案外すごく楽しいものです。否定することがないわけですからね。

否定は時に冷静なったり、客観性を持ったりするためにも必要なものですが、やはり否定自体は、多くの人にとって感情的には気分のよいものではないですからね。

そうして、受け入れ循環をしていくと、段々いろいろなことが笑って見られるようなってきます。そうなると受容の成功といえるでしょう。

この特徴は、決して自分の信念や教義・価値観などにおいて相手に屈したり、迎合したり、考えを曲げて受け入れるというのではなく、自分は自分の信じるところのまま、それでも受容という作業は行っているということにあります。(ところが、受容作業が進むと、やがて自分の信念さえも溶けていくということが起こります、そのひとつの兆しが「笑い」です)

実はマルセイユタロットにおいて、「斎王」と「吊るし」はある共通するものを持つのですが、この観点から見ると、「吊るし」の人物が笑っているように見えるのも、すごく象徴的だと感じます。

それから先述したように、「知ること」「関心を持つこと」も受容の準備には関係することを、頭の隅に置いておくとよいです。これはマルセイユタロットでは「手品師」と「斎王」との並びに例えることもできますね。


自分が新しくなるという表現

セラピーを受けたり、癒し・サポート的な仕事に関心を持つようになったりしますと、ある変化が生まれます。

また精神世界やスピリチュアル系と呼ばれる人たちでも、似たようなことが起こります。

それは、「いつも自分が新しくなっている」という思い(あるいは期待)です。

これをあえて悪く言いますと、思い込みから来る「新しくなりたい病」「自分は人とは違っているのよ」的な期待の裏返し表現ということもできます。

こういうタイプの人のブログやSNSの発信などを見ましても、「変わりつつある自分」「新しい段階に来た自分」「またひとつの気づきを迎えた自分」・・などという言葉を、頻繁に見つけることができるでしょう。

人間はそんなにいつもいつも大きく変わるものではなく、微妙なアップグレードとダウングレードを繰り返している存在だと見ることもできます。

従って、大げさに「また変わった!」「新しい次元にキター!」などと騒ぎすぎているのも、どうかという思いがあります。

やはり、冷静に本当の変化やステップアップする自分の、内的に見分けていく観察眼も必要でしょう。

本質的な変化と表面的な変化の見極めと言い換えてもよいです。

と、ここまで書くと、なにやら変化やフレッシュな気づきに否定的に言っているように思うでしょうが、実は今日言いたいことは逆なのです。

ただし、その発想が少し違います。

自分が新しくなることを頻繁に思う、書くということは、一面はそうなりたいけれども、あまりなっていない自分への裏返し表現のこともありますし、たいして大きな変化でもないのに、大げさに言ってしまっている(注目してほしい、人と違う自分をアピールしたいなどの)ところもなきしもあらずだと思います。

しかし、よく考え見ると、日常生活でただ流されるままに生きている時よりも、何か学びをしたり、セラピーを受けたりすることで、「自分の変化」というものに、意識をこれまで以上に及ばせる時、やはり、常に「変化」「新しさ」というものに注目しないわけにはいかなくなります。

そう、大げさだろうが、できてないことから来る裏返しの願望であろうが、とにかく「変わる自分」「新しい段階へ進む自分」という「概念」「コンセプト」に関心がある状態になっているのです。

人には、意識するものに対して、情報をより多く採り入れる機能があります。さらには、採り入れた情報による現実の創造も、その関心度合いによります。

簡単に言えば、「変わる」「新しくなる」「今よりも、もっと幸せになる」などの「関心」と「意識」を持てば、それを現実化させることは、まったく意識していない時よりもかなり違ってくることになるということです。

マルセイユタロットを学んだ人も同じです。

マルセイユタロットには自己の変容や完成の道筋・アプローチ、及びその象徴的方法が描かれています。

言い換えれば、今の自分をよい意味で変えていく絵図です。ですから、マルセイユタロットを活用していく場合、新しくなること、気づきのあること、成長することは普段でもずっと意識していくことになります。

そうすると、「あなた、この前も成長したとか、新しい自分になっている、と言っていたけど、今日もそうなの?」と人に言われるほど、「新しい自分」が何回も訪れるようになるのです。(逆に言えば、人の変化にも敏感になります)

もちろん、例えば昨日の「春分の日」など、時期的に見た変節点や重要な変化ポイントもあります。それと同時に、自己の変容ポイントも無数かつ限定的に存在します。

無数かつ限定的というのは、大きな節目と毎日や毎時間のような細かな変容ポイントということです。

人間の細胞も常にリフレッシュされているように、どんな小さな局面でも、また大きな宇宙的規模においても、すべてが新しく生まれ変わっています。

ただ気がつかないだけなのです。

ということで、誰かが「自分は変わった」とか、「新しい段階を迎えている」「大きな気づきがあった」と言っている時は、本当は祝福されるべきことなのです。

しかしながら、注意したいのは、それが人や外への依存や洗脳になっている場合です。

自分はそう思わないのに誰かに強く言われたとか、言わされている(本人は意識なくても)とか、ある組織や団体に入ることで、さも変わったかのように思い込まされているようなケースですね。

何事もバランスというは大事です。

変化していることは、何かを捨てたり、切らねばならなかったり、終わらせたりする必要もあるわけです。「楽しい」と感じることばかりが変化や新しいこととは限りません。

また維持していくこと、守っていくこと、安定していくことも、特に日常的には大切です。

何を守り、何を捨てるのか、これが人には自由意志でできることが、神(神性なる自己)の愛だと例えられるでしょう。


再び会う(遭遇する)出来事の意味

タロットの読み方について、普遍的な意味と個別的な意味(個人特有の意味)があることは何度かお伝えしてきました。

私の場合でも、「このカードが出るとこういう意味になる」とか、「こういう並びになると自分にとってはこうだ」というケースがあります。

最近、そのあるパターンを自分使いのタロット(自己リーディングや自己活用で使うこと)で登場していたので、注意していますと、やはり、という感じでそのことが生じました。

そのパターンとは、以前繋がっていた人で、しばらくは疎遠になっていたような人から再び何らかの形でコンタクトがあったり、自分がその人と遭遇したりすることです。

タロットの話とは別にしても、皆さんにもそういう経験はあると思います。

あくまで自分のこととして、これまでの似たような体験のパターンから分析しますと、こういう時はたいてい、自分の変化が起きるタイミングであると言えます。

逆に言えば、相手の方にもステージの変化や環境が変わっていくサインである場合も多いでしょう。

ただ、なぜに「再び」、そして今なのかということです。

これはいろいろなことが考えられますが、出現するタロットカード(ただし自分のパターンでの展開ですので、普遍的に全員に当てはまるとは言えませんが)から伺えることは、その人物との関係性の問題ではなく、その人物と一緒に過ごしたり、仕事をしたりしていた時代における自分の問題が鍵だということです。

つまり、相手はあなたの問題・テーマを表す「象徴」であり、それは過去の問題のようでいて、実は今の問題(テーマ)でもあるわけです。

例えば、その当時のあなたのテーマが仕事の拡大となっていたのなら、今また、仕事を大きくしたり、変革したりするようなことの問題が再現されてきているということです。

ただし、かつての時代のそのまま(の問題・課題)でははなく、種類的には同じであっても、別のレベルでの課題やテーマであるということがポイントです。

例示すると、前の時は100万円の規模を課題としていたものが、今度は1000万円で思案しているというような感じです。

恋愛結婚などで言えば、以前は結婚相手を探す事がテーマだったのが、今回は結婚したけれども、パートナーとのさらなる発展的な関係性について課題としているという具合です。

現在、あなたが再び、何らかの形で、以前の課題やテーマに取り組んだり、向上させたりすることが起こっており、その自覚やサインとして、当時の人が現れてくると考えられます。

簡単に言いますと、宇宙(自分でもあります)からの「頑張れ!」メッセージ(笑)みたいなものと言えます。

まれにレベル上昇や発展とは逆の、下降・退行的に課題レベルが落ちることもあります。これは「注意せよ!」という警告的なものでしょう。

もちろんこのような意味だけではなく、久しぶりに人と再会するパターンが増えるということは、思い出さねばならないことがある(それはよい・悪いの内容を問いません)という象徴だったり、ストレートに、その人との関連で未処理だった自分の問題を完結させたり、終わらせたりすることの意味の場合もあります。

「未処理の問題の完結」と書くと、ネガティブな、積み残し的問題の処置みたいなイメージがありますが、例えば、その時は本当はつきあうべきだった相手なのに、勇気がなかったり、タイミングが悪かったりしてつきあえなかったため、今再びチャンスが訪れたということもあり得るのです。

カードの展開にしても、実際の出来事においても、シンクロニシティ(偶然の一致、偶然のような必然)として、複数回登場する現象というのは、何か特別な意味が込められていることは多いものです。


理屈と神秘性をタロットに見ること。

最初にお知らせです。

4月からのカルチャーセンターにおけるマルセイユタロット講座開始にあたり、一日(と言っても一時間くらいですが)体験会が行われます。京都文化センター
では3/18(火)、よみうり文化センター神戸
では3/21(木)です。参加してみたい方は、各センターに直接お問い合せください。

さて、マルセイユタロットで人や自分をリーディングしていると、いろいろと不思議なことを経験します。

その中の1つで、よくあるのが、リーディングしたことによって希望していたことの実現が早くなったり、問題解決が早まったりすることがあるということです。

これは結構、タロット講座を受講された皆さんからもご報告いただいていますし、受講期間中でも、実践トレーニングの次の月とかで、結果からわかることもあります。

たとえその時(タロットを展開した時)はあまりわからなかったとしても、あとで見ると、やはりそのままタロットが示していたということもよくあります。

これは「あと付け解釈」という心理的な偏りの見方もあるにはありますが、それでも不思議と思えるくらいピッタリのカードが出ていることを実感します。もちろんあとではなく、タロットリーディングしている最中に出たカードのあまりの自分とのリンク性に、その場で驚く場合もしばしばです。

ここにタロットのすごさを感じるのですね。常識や理屈を超えた何かがタロットにはあるのではないかと。

ただ、中には、わけがわからないまま不思議さに驚いて、何でも信じ込んでしまうのは愚かではないかという人もいらっしゃるでしょう。ただの偶然とか迷信に過ぎないと。

はい、私もそのような見方でタロットを最初は見ていたことがありますし、現在でも、何でも起こっている事そのままを何の疑いもなく信じてしまうことは、盲信的態度であり、危険でもあると思っています。

従って、「不思議」と思えることがあるのなら、それを「なぜなのか?」という探究心・好奇心をもって解き明かそうという姿勢は必要だと考えています。よい意味での疑いの目を持つことです。

タロットにおいてもそうした視点をもって見ています。

ただ、一方で神秘性といいますか、単なる不思議さを超えた凄み、驚嘆、感激ということが起こるものも、その感動を覚えさせる「」があるのだと見ることもできます。

神秘・不思議を感じて、心を動かす(動かされる)その経験自体と、動かされた対象の奥にある「魂」のような何かにふれることは、単純に情動的な意味でもすばらしいことではないかと思うのです。(情動があるのがすじらしいというのは、例えればモノクロがカラフルになるような体験であるからです)

心の震えとでも言いましょうか、それが起こる体験は、人には無駄でないどころか、豊かさの源泉とつながるものと私は思っています。

人は「感動」「情動」によって、味気ないものに味をまさしく添えるのです。機械的にただ生きるだけが面白いとは誰もが思わないでしょう。

理屈や論理をもって探究していく視点と、神秘や不思議に心動かされる体験、このふたつが人を本当の意味で均衡に保ち、成長と豊かさ(経済的な豊かさだけの意味ではありません)もたらせるものではないかと想像できるのです。

マルセイユタロットはそのふたつ(理知的な探究心と感動)を見ることができます。(正しくは、自分のタロットに対する見方・考え方が決めます) 

特に論理的思考も醸成することができるのは、マルセイユタロットが綿密で合理的な象徴体系を持っているがゆえです。

話が神秘性と論理性のことになりましたが、最初に戻って、タロットを展開すると「実現が早くなる」「問題解決が早まる」ということについて、ただ「不思議だなあ・・」と言っているのではなく、今度は「理屈的」に検証してみることにしましょう。

その記事は次回にて。


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