カードからの気づき
「自分を愛する」ことの考察
精神世界や心理の世界では、「自分を愛しましょう」ということが言われますが、これは簡単なようで難しく、逆に難しいようで簡単でもあります。
タロットリーディングでも、この問題が現れることがあります。
タロットにはエネルギーや表現として、二元のものを象徴的に表している構成になっています。その二元とは簡単に言えば、能動性と受動性、陰・陽などで表される「質」です。
これが例えば、カードの数の順番として交互に表現されていたり、実際のリーディングにおいても、どちらかがその人の問題の解決・調整には必要だと示されたりするのです。
さて、「自分を愛する」ということになりますと、「愛する」という言葉ですから、能動的なものとなります。積極的なのですね。
しかし、「自分を愛する」必要がある人というのは、だいたいにおいて、能動的になれないから問題になっているのです。
あるいは、本来受動的になったほうがよいところに能動的になっていたり、その逆ということでのアンバランス状態でもあったりと言えます。
もう少しわかりやすく言いましょう。
「自分を愛する」には、「誰かから愛される」という「受動的な」経験が必要なのです。愛されていないと愛することがわからないとも言えましょう。
いわば、能動・受動はセットであり、その両面があってこその調和と言えます。
ということで、自分を愛することに向かわせるのには、人から愛されることを体験するということが一番良いわけです。
しかし、それが実感できていないから「愛する」ことの問題が生じているのだとも言えます。愛されていれば、そもそも愛する問題も起きないよと言われるかもしれません。
ところで「愛」の定義は難しいものです。愛情とか愛着とかの表現になりますと、また少し違ってくるようにも見えますが、「愛」という言葉がついているので、それらは愛における次元の違うものなのかもしれません。
また「好き」と「愛」は厳密には異なりますが、どこかニュアンス的に同じものが入っているのは誰でも感じられるでしょう。関西人は「愛している」というより、「好き(やねん)」と言われるほうが実感があるとも言います。(※関西人は皆そうだと誤解なきように(笑))
タロットでは象徴を駆使することを学びますので、象徴というのは次元操作に結びつき、必ずしも=(イコール)ではなくても、似たようなことから象徴的に本質に行き着く手助けとなる場合があります。
ということは、「好き」ということにも「愛」が隠されているかもしれず、「好き」の表現が「愛すること」に移行していくこともありえます。
また、人間の表現する「愛」にこだわるから範囲が狭くなることも考えられ、たとえば動物・ペットによって、自分が愛される経験をすると(「気にしてもらえる」というだけでも、象徴的には「愛」が含まれている可能性があります)、反対にペットを愛したくなり、それが人同士の愛の交換として自分に拡大されていくこともあるでしょう。
動物だけではなく、植物でも、あるいモノでさえも、自分が好きな表現をすることで、そのものからの愛を感じ取ることは不可能ではありません。
なぜならば、スピリチュアル的には唯心論(モノにも心があるというとらえ方、「ただ心あるのみ」の世界)が通じ、もっといえば自分自身が世界に投影されているに過ぎないので、たとえモノであっても、自分の感情が入ると、それは自分の分身(人間的なもの)として考えることができるからです。
ということは、自分が愛せなくても、誰かを愛し、何かを愛すれば、終局的には自分を愛していることにつながるということなのです。
摩訶不思議と当然性・必然性
人は未知なるものを探求しようという思いがあると、好奇心が起き、心が躍るものです。
簡単に言えば、知らないことを味わうと気分が高揚すると言ってもよいでしょう。
そのため、不思議なこと、もっと言うと、摩訶不思議、魔法、ミラクル・・みたいに思うような現象に遭遇すれば、より一層興奮することになります。
実は占いや、一般的に言われる「スピリチュアル」なことが流行る要因のひとつは、そこにあると見ています。
しかしながら、確かにそれは面白いことかもしれませんが、一歩間違うと、迷信や盲信の世界に陥り、ただ興奮するためだけのショーを味わう結果となりかねません。
マルセイユタロットで、最初の「1」の数を持つ大アルカナのカードに「手品師」というものがあります。
その名の通り、手品をしている人物が描かれているカードです。
手品を見せられると、一般の観衆はその不思議さに興奮し、驚きます。もっと見たいと思うでしょうし、その面白さにお金や物品も提供するかもしれません。
手品のタネを知らなければ、それは魔法だと人々には見えるでしょう。特に手品を初めて見る人や純粋な子供たちは、そのままの手品として見せられた(起こった)現象を信じます。
しかしながら、手品ということを知っている人・大人たちは、それにはタネがあり、本当に何かが消えたり、突然出現したりするわけではないことはわかっています。
それでも興奮するのは、そのタネがまったく想像できない「手品」であり、手品で起こされている事柄が「現実」と錯覚してしまうほどのものを見せられるからです。
一言で言えば、タネや仕掛けがわからないからです。
もし、タネがばれてしまうと、手品師にとっては致命的であり、観衆にとっては興奮は冷めますが、冷静な自分に戻ることにもなります。
ここで考えてほしいのは、手品師も人間であり、一般観衆との違いは、そのタネを知って技術として習熟しているかどうかです。
観衆も訓練すれば手品はできますし、少なくとも、その仕組みや理由が、摩訶不思議な魔法ではないことは理解できます。
手品師も素人ではタネがばれてしまう未熟性がありますが、プロになれば死活問題ですので、決してタネはばれないように演じます。
さらなる有名プロともなれば、手品そのものだけではなく、ショー全体の構成・魅力も増していることでしょう。(「悪魔」のカードと関連します)
要は上には上がいて、その手品は、まさに上に行けば行くほど一般人には魔法と変わらなくなるレベルだということです。
ここで私が述べていることは、「手品師」を例にした、この世界(宇宙)の仕組みを解き明かそうとする順序や心構えを語っています。同時に、人がフレッシュな気持ちに恒常的になるための秘訣にもふれています。
簡単にまとめますと、未知なることに対して関心を抱くことそのものが、人を興奮させ、楽しませるものだという点。
そして、未知なるものにも仕掛け(タネ)があり、ただ表面的に起こっていること、人が言うそのままを迷信的に信じることが成長・真実とは言えないという点です。
ある到達点の先には、さらなる未知なことが出てくることが、ある意味、この世界の「お約束」のようであり、それが「神」の思し召しのようにも感じます。
だからといって、仕組み(理論)を探求していくことが無駄なのではありません。
未知が未知を呼ぶ構造そのものが宇宙であるならば、その意図はただひとつ、好奇心による探求と発見、そこから結果的に拡大・成長・発展している自分自身を見ることだと考えられるのです。
科学の発達とスピリチュアルが、ここに一致するわけです。
「不思議だなあ、面白いなあ」という思いと、「ではなぜなのか?調べてみよう」「理由を説き明かしてやろう」という両方の思いが必要であり、自然に人はそれが生じるようになっている(全体バランスとして)とも言えるのです。
反省をして後悔をしない。
元旦にお知らせしました無料講座プレゼント企画
ですが、今ならば、お申込みされるとほぼ決まりになりそうなくらいの状況ですから、とてもチャンスです。
今回は「タロット講座」のプレゼント企画としていますが、講座は希望せず、「無料出張リーディング」だけでよいという方も特別に可といたしますので(この場合の場所は喫茶店などでも可能)、ご応募をお待ちしております。締め切りは1/6です。
さて今年は、私自身も強く心がけようと思っていることがあります。
それは一言で言うと、「後悔しない」ということです。
私の選択するタロットリーディングの技法には、時系列的に現在・未来部分とともに、「過去」パートも同時にカードで展開するものがあります。
人生で悩みがちの人に、たいていカードから読み取れることは、多大もしくは深い思いを過去に残しているのが伺えるということです。
要は過去を悔いていたり、いつまでも重く心に置いているわけですね。
精神的には時間を超えます(時間は関係なくなる)ので、過去に思いが強く残っている場合は、その時点で時が止まっているようなものであり、少なくとも今に全力では生きられない部分があるわけです。
すると、創造的に未来に向かってよいイメージを抱くことができず、将来も暗いものになりがちです。
あのタモリさんは、出演番組での自分を反省しないというお話を聞いたことがあります。
まあ、まったく省みないということではなく、おそらくつまらないことは気にしない、過ぎたことに心を痛めないということだと思いますが、まさにこれだなと私も思います。
私たちは普段、いかに過ぎたことにこだわり、「ああすればよかった」とか、「あれはいけなかった・・」「あれは許せない」などと悔んだり、恨んだり、残念がったりしています。
もちろんそれにはその人なりの強い意味があり、簡単にあきらめたり、水に流せることではないのがあるのも理解できますが、一方で、よくよく考えてみると、それほど時間をかけて思い続ける必要があるのか?という事柄も少なくありません。
「気づき」という言葉がありますが、私たちは何か新しい次元の思考を得たり、多様な物の見方を獲得したりした時、いかにつまらないことにそれまでこだわっていたのかを悟ることがあります。
でもそれは、その時までは「意味がある」と、「思い込んでいた」ことです。ですが、「気がついた」時は、そうではなくなり、無駄なものとなるのです。
このように、自分の変化によって、過去への思いが軽くなったり、意味が変化したりすることはありますが、普段から癖のようにして、すでに行ってしまったこと、もう終わったことに対して思う時間を少なくするようにする訓練をしていけばよいように思います。
悔やんでいる自分、終わったことを気にしている自分に気がつけば、すぐにその思考を切り替え、未来思考に変えます。
すると次第に「現在力」と未来への「創造力」が高まってくるでしょう。それは運の良さや幸せ力の向上にもつながってくると言えます。
これは、過去や自分の行いを反省しないということではありません。
反省して修正しなくてはならない点はして行きますが、現実時間としては過去に戻ることはできませんので、「悔やむ」ということでの後悔はしないということです。「反省」しても「後悔」せず、です。
私たちは「今」「ここ」に生きて、「これから」を生きるのですから。
絶対と絶対。ふたつの「絶対」
年末と言うことで、変則的になりますが、今年最後のブログとなります。今年も拙ブログをお読みいただきありがとうございました。
メルマガ(講座受講・修了者限定)登録者の方には、31日にメルマガを配信いたしますので、そちらもご覧ください。
来年は元旦に、恒例のプレゼント企画など交えまして、ブログを書かせていただきたいと思っております。
では記事に移ります。
タロットは占いという認識が一般的に高いですので、どちらか言えば、タロットは未来(の選択)がどうなるのかという点に使うと思われがちです。
しかし、ここでもずっと述べていますように、タロットはそういったアテモノのツールではありません。だからこそ、過去を観察することにも使えるのです。
過去の事柄をタロットが示していると見て、自分を整理したり、認識を新たにしたりするための道具として使うわけです。
このようなことを行っていると、結局、周りや人ではなく、自分視点が大切だと気がついてきます。
それを一言で言うのならば、「絶対視点」と表現してもいいでしょう。すなわち他人や周囲などと比較せず、あくまで自分がどうなのか、自分がどう成長したのかという観点で物事を見るということです。
私たちの不幸は、実はほかと比較することで始まっていると言われます。ほかの人より不足している、劣っている、損をしている、ほかの状況より深刻である、間違っている、バランスがおかしい・・・という具合です。
ここで言う「ほか」や「ほかの人」とはいったい何を・誰を指しているのでしょうか? 意外に漠然とした抽象的な「ほか」というイメージ的な総体によるのではないでしょうか?
それならば、その、言わば実体なき集合体のようなイメージは、自分自身の幻想や思い込みではないかと疑うこともできます。
逆に、「○○さんと比べて・・」というような、非常に限定された「ほかの人」という場合もあるかもしれません。
これにしても、特定の人やモノと限定されているわけですから、考えてみれば、その人を比較対象として見ることから脱却して客観的になれば、案外あなたの不幸(な気持ち)はすぐに消失する可能性もあるのです。限定的なので、取り組みも具体的にできます。
またこのケースでは、その人以外の、もっと別の大きな対象として相対的比較対象を広げると、問題に思わなくなることがあります。
いずれにしても、あまり他人やほかのものと比べると、自分の気持ち・精神状態が落ち着かなくなるのは確かです。さらに他人との比較が煽られると、消費や思想の植えつけに利用されやすくもなります。
ですから、人は人、自分は自分という「自分に対してフォーカスする」ことを常に心がけると、気持ちは楽になりやすいのです。この点では、よい意味での「わがまま状態」を作る、自分を通すと言い換えてもよいでしょう。
結局、相対比較ではなく、自分との比較をすればよいということになります。人や周囲がどうのというより、「自分が成長したかどうか」「自分はどうしたいのか」 この点で見ていくだけでも、ずいぶんと世界は変わります。すなわち、自分という絶対評価の視点です。
ここで「絶対」という言葉が出たので、ついでにお話しておきますと、心や行動では、反対にこの「絶対」という思いはなるべく抱かない方が生き方としては楽になります。
「絶対にこうしなければならない」「絶対にこの人しかいない」「絶対にダメ」とか、絶対という言葉をつけてしまうと、自分を縛ることになるわけです。
縛られると、当たり前ですが、思考と行動が限定されます。またそこに縛りという規則も生まれていますので、その規則に反する人や事柄は「許せない」「相容れない」「排除すべし」ということになりがちです。
もちろんよいこともあります。
それは「縛り」の良い面を見ればいいのです。縛ることで制約が生まれ、自分を鍛えることができますし、制限された環境で、逆に創造性がより発揮されることになる場合もあります。あと、ルールに従うだけの判断ですから、思考自体は単純で選択は楽になります。
ただ、やはり、総体的には自分を押し込め、つらくなる生き方になってしまうことが多いように思います。
ということで、思い方や行動では、「絶対」はなるべくなくしたほうがよいでしょう。
まとめますと、比較の際は「自分」という絶対で見て、思考や行動では「絶対」を止め、広く相対的にいろいろなことを見たり、認めたりしていく方向が望ましいということです。
ふたつの「絶対」 覚えておいて損はないでしょう。
あえて、幸せの「質」より「量」を見る
幸せの感じ方というものについて書いてみたいと思います。
「幸せ」という観念については、人それぞれであることは皆さんおわかりいただけるかと思います。
まさに人の思う数だけ「幸せ」の「感」と「観」があり、言わば価値観の相違によって千差万別に幸せという定義が出てくるわけです。
これ(価値観の異なりによる幸せの違い)については、よく語られているので今更指摘しません。
今回述べるのは幸せの「質」というより、「量」からの観点です。
一番いい例が、お金の消費による幸せの感じ方でしょう。
例えば、海外旅行で何日間もリゾートに行って、幸せを感じる人がいたとします。
一方、国内の温泉旅行で幸せと思う人もいるでしょう。また、同じ旅行でも日帰りで十分幸せと考えている人もいれば、やはり宿泊してホテルや旅館などで、ゆったり過ごすほうが幸せだとイメージする人もいます。
ここで、ほとんどの人が日帰りで旅をするより、海外のような豪華リゾートで滞在するくらいのほうが、幸せと感じる量も多いのではないかと思うかもしれません。
ただそれは同じ自分とか、同じ人間で見た場合です。自分にとっては、定食屋より一流レストランの食事のほうが幸せと感じるというようなものです。
ここで例えを変えます。
もし大金持ちの人がいて、その人の普通の食事は、とても貧乏な人から見れば、非常に贅沢なものに見えるかもしれません。
同様に、いつもリゾートで過ごす人の幸せと感じる量は、一般の人が国内旅行に行くくらいの幸せ量かもしれないのです。
それがどうしたと言うの?と思われるでしょうが、実は非常に重要なことなのです。
人は、実際の活動や表現の違いはあれど、実はまったく同じ幸せの量を感じているのかもしれないということです。
Aさんの幸せと感じる量の表現は、Bさんとは現実的にはかけ離れた表現の違いがあるけれども、心の中の幸せと感じる量や振り幅をもし観察できるとすれば、AさんもBさんも同じのこともあるわけです。
特に幸せ感の麻痺ともなってきますと、いくらお金を使っても、麻痺していない人のわずかのお金の使い方による幸せ感にも適わないことすらあります。
だから「お金持ちは許せない」とか「贅沢しやがって」とか妬みを抱いても、自分を傷つけるだけで、意味はないのです。
お金持ちの方の贅沢というのに嫉妬していても、それはあなたの幸せ表現やお金の使い方(量)がお金持ちの人と違うだけで、あなたのコーヒー一杯が、お金持ちの方にはフルコースの料理の幸せ価値に当たるというようなものなのです。
別にお金の使い方だけではありません。
要は幸せの感じ方の問題ですから、独身の人でも十分日常に幸せと感じられる人もいれば、何人もの友人やパートナーに囲まれても(そもそも複数の時点でパートナーとは言い難いですが・・)幸せを感じられないという人もいます。
このように考えていくと、エネルギーと幸せのバランスが見えて来て、あなたの現時点での幸せ価値度がいかほどのものなのかというのもわかってきます。
私はここで、「だから小さな身近な幸せを感じることが大切」と言いたいわけではありません。それももちろん重要なのですが、そんなことは結構言い尽くされていることであり、当たり前のことだからです。
本質は別のところにあります。
皆さんも考えてみてください。いろいろとヒントはちりばめています。
あと、付け加えるとすれば、本当の公平さ、自由・平等・博愛とは何かというテーマにもなってくるでしょう。マルセイユタロットでは「正義」や「太陽」とも関係してきます。
もしかすると、私の考えていることとは違うこともお気づきになるかもしれませんね。このように、物事は多様と多層に見ることで、とても面白くなってくるのです。