カードからの気づき
健康について
先日、知人と話しをしていて、「やっぱり健康が大切ですよね」となりました。
まあ、お互い中年を経過中の年齢であり、健康がますます気になる歳になっているからでもありますが・・・(^_^;)
ところで、考えてみると、健康の定義は難しいものです。
問題が自分では何も感じられないというのが健康なのか、いつも活力に満ちて、何でもできる!と思える状態が健康ということか、どこかしか不調はあるものの、とりあえず病院へ行くほどのことでなければ健康と言えるのか・・人によって違うと思います。
さらには心身の病気の治癒度・経過度によっても変わってくるでしょう。
それはともかくとして、今度は健康の分野を見ていくと、まずは肉体の健康ということが挙げられるでしょう。
次に、一昔前から言われるようになった精神の健康です。肉体と精神(心)の両面の調子がよければ健康だと言えますし、どちらかが問題であれば不健康と言えます。
だいたいは、心を病むと肉体にも来ますし、肉体、たとえば怪我をすると思うように行動できず、心も暗くなるものです。つまり、心と肉体は文字通り一心同体のようなものです。
これに加えて、近頃では霊的な健康ということも言われるようになりました。
霊的というと何か不思議な気持ちもするかもしれませんので、あえて外国語で「スピリチュアル」な健康と言ってみましょう。
というのも、世界保健機関WHOでは、健康の定義を、
Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
と記しており、ここに spiritual とあるように、「スピリチュアル」が入っていることからも、それは伺えるのです。※もうひとつ、「社会的にも満たされた状態」ということも注目すべき事項だと思いますが、これはまた稿を改めたいと思います。
このWHOの言う 「spiritual」 を、日本語でどう訳すのかはいろいろ議論があるかと思います。
いわゆる最近流行の「スピリチュアル」という言葉とは異なることはニュアンス的にわかるでしょうが、それでも同じスピリチュアルという言葉を使用していることは、象徴的に根本では通じるところがあると考えられます。
WHOの定義とたとえ切り離したとしても、個人的には「霊的」な健康ということも、将来的には注目されていくようになるのではないかと考えていますし、スピリチュアルに関心のある人は特に、肉体・精神だけではなく、ここも注意すべき分野であると言えます。
霊的な健康とは、狭義的には、目に見えない部分の浄化とか、自分の(高次)意識の向上性(または到達)に関係することだと想像できます。
しかし目に見えない部分であるだけに、精神的な健康よりもさらに調子や状態を把握するのは難しいと思います。私も確固たるものとして理解しているわけではありません。
ですが、そういう「霊的な健康」というものもあるのではないかと感じたり、常識を疑ったりして自分の健康問題を考察するのも、ひとつの道かと思います。
もし霊的なものが第三の健康要素として考えられるのなら、マルセイユタロットの構造から想定して、それは肉体と精神を超えたところにあり、同時にそのふたつを統合した状態にあるとイメージできます。
ということは、肉体と精神の健康と調和を真剣に図って行った時に、やがて自然に霊的な健康というのも達成できてくるのではないかと思えることです。
時には肉体や精神を酷使して、霊的な実体の感応に行き着き、変容を果たそうとする修行もないわけではありませんが、なかなか健康という観点からは危険だと推測できます。
肉体を鍛えるのでも、少しずつ慣らして行かないと肉離れ起こしたり、骨折したりします。また精神でも、あまりにキツイ状況であれば、心が壊れたり折れたりします。
これと同様、霊的な分野も、急激なものは危険があると見てよいでしょう。
古代の象徴体系では、目に見えない分野を少しずつ開かせたり、鍛えたりする機能があります。その中のひとつにマルセイユタロットがあると私は考えています。
ちなみにWHOの紋章(杖と蛇)はギリシア神話に由来しており、その象徴はマルセイユタロットにも存在しています。
真実の接近
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さて、そのメルマガにも一部書いたのですが、最近は「正義」「真実」が問われる流れがあるように感じます。
マルセイユタロットで言えば、文字通り「正義」や「13」「審判」などとも関係するエネルギーです。
今起こっているホテルの食品誤表示(偽装という気もしますが・・)発覚など、典型的な事件ですよね。
私はタロットをするようになって、物事をそのまま受け取るということが少なくなり、「象徴」的に見る向きが増えました。
象徴的に見るというのは、もっと大きな背景や逆に個別的なものにも当てはまることがないかと、重層的・複層的に見る方法だとも言えます。
連想ゲームに近い感覚でもあります。
すると、今起こっている事件も、大きな正義・不正義、真実にふれる前触れではないかと感じています。
「確信と革新」という言葉も出ます。すごく抽象的な言い方ですかね。(笑)
象徴考察の欠点は、ある意味具体的ではないということで、上記のような書き方になりますが、さきほど個別的(具体的)リンクも象徴にはあると書きましたので、実は個人的には思うことはあるのですが、それはふせておきます。
さて、いずれにしろ、「真実」というものが知らされる時、一見よいことずぐめのように思えます。
しかし、確かに究極的には「真実が知らされる」「真実を知る」ということはよいと考えられても、初期や中途の段階では必ずしもよいとは限らないことがあります。
その最大のものは、ショックが大きいということです。
「知らなければ良かった・・」こう感じたことが、皆さんにもあったのではないかと思います。
ある程度予測できているものや、自分の許容範囲の真実というものは、うれしいことであったり、知的好奇心も満たされたりすることで、ポジティブにとらえられます。
けれども、考えもしなかったこと、とうてい受け入れることのできない真実には、人は拒否反応を示したり、受け入れようとしてもショックが大きく、混乱を極めたりしてしまいます。
単純に「図星」と表現される事実を他人から指摘されただけでも、人は怒ったり、反発したりします。
真実や事実を知ったがために、穏やかな人生が180度変わってしまったという人もいます。下手すると、あまりにつらく、死を選択する方も出るかもしれません。
それほど、真実には強い力があるのです。
しかしながら、これがきちんと受け止められた場合は、自己や社会を改革する巨大なエネルギーへと変貌します。
これを逆手に取れば、自分は真実を知る勇気を持つと決意すれば、あなたに変容をもたらす情報が開示される可能性もあるのです。
物理的・現実的な意味だけではありません。
そのような決意と覚悟が、あなたの潜在的パワーを解放したり、見えない領域からの情報を受け取りやすくしたりすることになるのです。
真実というのは、定義によって難しいものとなります。
人の見方は人の数だけありますので、どれをもって真実とするかは議論されるところではありますが、今までの見方とは異なる、あいるは知らされていなかったデータや情報として見ればよいかと思います。
受動的に知らされるものだけではなく、自分の決意によって呼び込むことのできる真実があると覚えておけば、きっと何かの役に立つでしょう。
わがままとわが・まま 自覚する人生
マルセイユタロットの「運命の輪」や「月」で象徴されることですが、スピリチュアル世界でよく言われるように、結局「気分」というものが現実的にも大変重要であると思えます。
もっと言えば「波動」とか「周波数」というものです。
この状態いかんによって、人の運や人生も決まってくると言ってもいいかもしれません。その意味で現実的なのです。
ですから、いわゆる葛藤状態であったり、何か抑圧したり、ネガティブな気分になったりするのが問題状況となりやすいと言えます。
とはいえ、人間は感情の生き物ですから、何も感じなくなるというのは、一面、生きるエネルギーを失うにも等しいことです。
ここは非常に重要ですが、感情を殺したり、感じていることを認めなかったりするのではないのです。むしろ感情は味わうことのほうが人としての命題・課題と言えます。
大切なのは、やはり感情を味わいながらも、それに振り回されない自分を作るということでしょう。
または迷ったり、葛藤したりする自分を早くスムースに動かしたり、決断できたりさせることもよく、さらには葛藤状態そのものが悪い状態であるという見方を転換させることで、意識も変わってくると考えられます。
その過程の上では葛藤要因を分析する、癒す、浄化するという作業も必要でしょう。
つまるところ、いかに自分がグッドフィーリング(高い周波数)でいられるかということなのです。
厳密にいえば高い次元・周波数と、気分がいいということとは別である場合もあると考えられますが、たいていは一致していることが多いものです。
ということは、手っ取り早くは、自分の心に嘘がない状態していく(素直になる)ということが求められます。心と行動(状況)が違うことが苦しさ(の感情)を呼ぶからです。
これは、言ってみれば、わがままになるというのに最初は近いこともあるので、誤解を受けることもあります。
わがまま=自分らしさのことは確かに一部はあるとしても、全部ではないということです。わがまま≒自分らしさであり、またわがまま≠自分らしさでもあると言えます。
人は一人で生きているわけでもありませんし、社会にはルールや規範があります。皆が皆、好き勝手やってしまえば、とんでもない社会・世界になってしまいます。
では我慢すればいいのかといえば、やはり社会で生きるためには我慢することも必要なのは当然です。ある意味、この世界は我慢・忍耐の世界であるとも言えます。
それが自分を鍛えることにもなりますし、あながち我慢・忍耐が悪いわけではありません。
問題は我慢・忍耐が自分を鍛える以上に自分を壊すことになっていたり、自分の心情が「我慢させられている」と被害者意識のような、完全受け身になっていたりする時にあります。
言い換えれば(逆に言えば)、自発的・意識的・自覚的・意図的になっていれば、我慢・忍耐はほとんど問題なくなるわけです。(苦しいことが変わるのではなく、受け止め方が変わり、気分の保ち方が変わる)
経験に対して自分が主体になること、これが苦しいこと・つらいことへの意識を変えていくコツだと考えられます。
まずは、環境や世間が自分に対していじめのように、あるいはただふりかかってくる災難のように無目的に来るものではないと自覚することが重要です。
簡単に言えば、学びの機会を提供してくれるもの、自分を鍛えてくれるもの、何かアンバランスな自分の状態を修正したり、気付かせてくれるものであるととらえることです。
ただそれだけだとまだつらいこともありますので、やはり発生する現象・人間関係から生じる「自分の状態」をコントロールしたり、物事を多角的に見る視点を得たりするとさらに楽になります。
人間関係・生き方、心理の技術を学び、実践するのもよいでしょう。単純に肉体・精神の安定を物理的に図る(健康をキープ、環境をよくする)ことも効果ありです。
困った時、落ち込んだ時に話をしたり、相談したりできる相手を持つ(友人・知人・プロ)のもよいですし、交際範囲を広げたり、深めたりすることで助け合いによって自分も救われるという環境づくりを行うことで、よい気分に戻しやすくする方法もあります。(普段の安心感にもつながる)
社会(仕事が中心になりますが)にもまれることで、鋼を鍛えるがごとく、心も鍛えられ、経験値も増して、いかなることにも動じない状態ができれば、それはそれで幸せ(平穏)な気分を持続させやすくなるはずです。これは一般的に、昔から日本人がやってきた方法です。
ただこれができない環境や難しい人もいますので、ひとつのの経験でも、多くの学びに活かす効率的な知的技術をマスターしたり、ワクワクしたりする気持ちを出しやすい自分にしていくやり方もあるわけです。
要は、周囲と軋轢を起こしたり、社会ルールをはずれたりせずに、自分がわがままになることのできる術を身につけるといいのです。
周りとトラブルを起こすと、どうしても自分も気分が悪くなったり、よい気分の時間が短くなったりしますから、そうならないようにするのがベターなのです。(自分勝手をやって、全く周囲や他人のことが、かけらも気にならない人は別です)
ただ、そのために、自分を押し殺すことは本末転倒であり、自分のよい気分が保てたり、自分が出せるようにしたりするために、同時に相手との調整・調和を計るようにすればよいということです。
人が中心ではなく、自分が中心なのです。これは人のせいにしないという意味でもあるのです。
相手や周囲も不快にならず、それどころか喜んでもらえるような、自分のわがままを通すことが一番いいわけです。(笑) まさにこれが本当の、「わが・まま」と言えます。
そんなことができるわけがないと思うかもしれませんが、それが可能になることが、マルセイユタロットでは言われています。
なぜならば、矛盾を統合することがタロつとに描かれているからです。
タロット以外にも、もちろんいろいろな方がおっしゃっている心や現実的技術があり、それらを組み合わせたり、実践したりすることで、少しでもその境地に接近し、実際に生きやすくなるのです。
何よりも、自分を生きる、自分の人生であることを自覚することから、すべては始まります。
国の誇り
私は特段右翼とか国粋主義者ではありませんが、やはり日本に生まれ日本人であることに誇りを持ちたいと思っています。
戦後は途中から、ある意味、極端な左方向に教育が傾き(あくまで私個人の印象です)、地球民意識と言いますか、国を超えた見方が広がったのはよいとしても、逆に自分の所属する地域や国という意識が希薄になりがちの面もありました。
とはいえ、大きな戦争を経験したあとですから、左方向に舵が切られるのもバランス的には当然だったと思います。もちろんそこにはアメリカに占領された国という事情、共産主義の当時の台頭というものなど、もろもろの政治的事情もあるでしょうが。
別に、ここで私は右や左の議論をしようというのではありません。
今回の主題は、「自国の誇り」というものが個々人のセルフイメージにもつながっているという「個人と国の連関」についてなのです。
一応、「国」をテーマにしていますが、これは「地域」とか「町」とか、逆にもっと範囲を広げて「アジア」とか「地球」「太陽系」「銀河系」となっても同じです。
しかしながら、まずは小さくもなく広すぎもせずの、「国」レベルくらいから考えたほうが適当ではないかと思って、取り上げています。
自分の国がダメな国である、ひどい国である、こんな国など滅んでしまったほうがよい・・などとネガティブに、貶めるかのように思っていると、それは結局自分自身に還ってきます。
自分の国と自分とが完全に切り離され、本当に他国や他人事のように思えるのならば、影響はほぼありませんが、「自国が嫌い」という感情は、自分と自分の住んでいる、あるいは国籍のある国との関係を強く意識していることを物語っています。
「気になる」ということは、文字通り「気にしている」わけです。そして気にしていると言うことは、自分とその対象物が見えない感情の糸のようなもので結ばれている無意識の感覚があるのです。
つまるところ、気になっている自分の国自体は、まさに自分自身の鏡・分身ともなってしまうのです。
自分の国がどうしようもなくダメな国だと思っていると、それは自分のセルフーイメージにも関係し、回り回って自分を貶めていくことになります。
もし小さい頃から、自国への自虐的教育と思想を植え付けられたら、究極のところ、自分さえも否定する存在となってしまい、それが集団化して大きなネガティブエネルギーとなり、まさに自分も国も滅んでしまうおそれがあります。少なくとも、「自分はよくても国は嫌だ」という葛藤を抱えなくてはいけなくなります。
国が滅んでも、国というものはもともと勝手に地球の中で線引きされたフィールドであり、なくなっても自分や本質(地球)がなくなるわけではないと思うかもしれません。
ところがそれが違うのです。
先述したように、国=自分というつながりがあり、国がなくなれば自分もなくなり、肉体的には存在していても、居場所のない放浪者となります。特に精神的拠り所がなく、不安定な人間となるおそれが大です。
実は物質と精神は密接なつながりがあり、物質的にもし何かがなくなれば、自分の所属する精神の世界での、あるフィールドも消失することになり、心の安まるところがなくなります。その逆もまた真なりです。
人は物質(肉体、目に見える世界)だけで生きているわけではなく、精神や霊的な世界観というものがあります。物心両面で安定してこそ、人として充実すると言えるでしょう。
ですからもし国境をなくしたければ、精神的に国境がなくても安定する境地を獲得する必要が多くの人の中で必要とされます。
すなわち、それは次元やレベルの上昇と言えましょう。
日本人だけがそれを納得できも、世界的に見ればまだまだ難しいかもしれません。どれだけの人が国境を無くした世界観を真に精神的に共有でき、安心できるかにかかっていると言えます。
それを無理矢理やろうとしても、そのまま「無理」が生じます。それならば、まだ段階として国の枠組みで安定している境地のもとで、しっかりと基礎を作った上で、個々人のレベルの向上を目指すほうが安全です。
普通の人は、「住む家もない状態で安心しろ」とか、「不安定でいながら上を目指せ」と言われても難しいからです。
あと、これはまた別の機会で詳しく書きたいと思いますが、自国に誇りを持つと言っても、自分のコンプレックスを隠したり、反動したりすることから過剰に国に持ち上げ、国に自分を仮託して、異常に興奮を得るというのとはまったく違うので注意が必要です。
この構造は国レベルだけではなく、国内の地域レベルにも潜在しているやっかいなものです。特定のスポーツチーム、国の代表チームを応援する心理にさえなっていることもあります。健全な誇りではないのです。
さて、今日書いたことは、一見タロットとは無関係に思えるでしょうが、やはりマルセイユタロットと大きく関連していることです。
綾なす「縁」の縦糸・横糸
人の縁というものは不思議なものです。
マルセイユタロットでは、「恋人」カードや「運命の輪」で、そういった「縁」の不可思議な働きを象徴しています。もろちんほかのカードでも見ることはできます。
ここで考えたいのは、縁が先か、人が先かということです。
人がいるからこそ、縁も発生すると言えますので、基本は人が先でしょうが、たとえば先程出た「恋人」のカードに描かれているキューピッドは、天使の羽のようものを持っていますので、「縁」が擬人化されたものと見ると、「縁」は羽をもって移動するようなものと考えられていたと想定できます。
つまりは、「縁」が先と見ることもできるのです。
「縁」を先に考えた場合、それは人間の力だけでは及ばないものがあるように思います。言わば、目に見えない糸のようなものが存在しているのだと。
それは、先祖からの縁かもしれませんし、もし輪廻転生を信じるとすれば、前世縁といったものもあるのかもしれません。
またこの10月に出雲に神々が集合して、あらゆる縁を結びつける会議をすると言われるように、神や仏から働きかけられる縁というのもありそうです。マルセイユタロットでは、「神の家」の縁みたいなものですね。
こうした超越的な縁もある一方で、もっと人間的なもので、それでいて目に見えない縁というのもあると予想されます。
それは人の思念(思考・想念・思い)によって形成される磁場のようなものに引き寄せられる、あるいは同じ磁力や性質によって集まってくる縁というものです。実はこれが結構、目に見えない類の縁としては多いような気がします。
これは縁が先というより、人が先のほうかもしれません。
この中には、いわゆる「類は友を呼ぶ」と言われる法則も入るでしょう。
いずれにしても、縁によって結ばれたその時の関係によって、いろいろなものが交流・交換されていくわけですが、その中で重要なものが「情報」です。
自分の想念によって形成された縁仲間は、同じレベルや自分の価値観のもとでの情報が交換されたり、入ってきたりします。
それは自分の価値観に基づくことが多いので、自分が信じていることを補強したり、確信させたり、安心させたりする情報が多くなります。そう、自分が情報を選んでいると言ってもいいでしょう。
ですから、実は自分の世界や信じている内容というものは、縁によって作られた「非常に狭い世界」観のフィールドにしかないと言ってもよいのです。
今はインターネットがあるので、あらゆる端末や機器、ソフトウェアによってたくさんの情報が入っては来ますが、結局のところは自分で自分の心地よいと思える情報と世界に落ち着く傾向があります。
ということは、自分自身のレベルを内から変えないと外の情報も変わって来ないと言え、その情報も「縁に」よって運ばれて来ますから、自分をもっと向上したり、あることのレベル(経済・知識・スティタス・霊性等)を上げたりするためには、これまでと違う情報(媒体・出所)と接触する必要があると考えられます。
ただ、これも「自分が変わりたい」という決心をせずに、そのまま放置している限り、今の自分のレベルや(信じている)世界を強めるための情報流入で続いていきますので、価値観を激変させたり、新しい情報に出会ったりすることは少なくなります。
たまたま特別な情報に出会って自分が変わるというような、外部からのことでの変化もあるにはありますが、それも突き詰めれば、現在の自分を超えたいという潜在的欲求や導きによるものと想像できます。
整理すれば、まず自分を向上させようと思うこと、次に今の縁からレベルアップさせるため、レベルや次元の異なる縁とつながるよう意識と行動を起こすこととなります。
よく言われるように、悪い仲間には悪い情報が集まり、いい仲間にはいい情報が集まっているものです。
このいい・悪いも、どう判断するかの問題はありますが、つまりは類友のように、情報も同質の情報が集まりやすいということです。言い換えれば自分たちを過ごしやすくする、肯定するための情報を持ちやすくしているからです。低次(高次)の属性ではそのレベルと同質でないと居心地がよくないのです。
ある人からとてもよい情報が得られたら、その人の紹介筋とか、その知り合いの人においても、自分にとってよい情報を持っている可能性は高いと言えます。
時には医師や治療法・病院などの情報で、「命」に関わることもあるくらいです。そう思うと、極めて縁は人生にとって重要な意味を持つと言えましょう。
ことさら縁を選ぶ必要はないにしても、自分がどうなりたいか、どういう人生を歩みたいかによって、縁づくりも意図をもってやってみるとよい場合があります。
意図は糸を呼び、さらには人間の努力に応じて、目に見えない(人を超越した)縁の働きやサポートも得られることになるでしょう。
この世の中は、私が思うに、「人が先」(によって発生する縁)のパーセンテージが高い世界だと考えています。それは「現実世界」だからです。でも、「縁が先」のものもあるのは確かでしょう。