カードからの気づき

「過去」「現在」「未来」意識の活用。

私たちが時間をとらえる時、「過去」「現在」「未来」という時間軸やレッテルをイメージします。

そうやって、ある「時」を色分けしないと、時間というものの実感が湧かないのです。

しかし、逆に考えますと、時間はその三つによって、人の意識内では無理矢理区分けされていると言えます。

本当は刻々と移りゆくなかでは、「今現在」も少し前では「未来」であり、それもあっという間に「過去」になることから、「時間」は厳密に三つの分類でとらえることはできないものなのでしょう。

さて、それをふまえながらここで皆さんに質問ですが、普段の私たちは、この三つのうち、どれをよく意識して過ごしていると思いますか?

「いや、それは『現在』に決まっているでしょ」と言われるかもしれませんが、よく考えてみると、「過去」と「未来」のほうが心のうちを占めているウェートが大きいと思いませんか。

人はだいたい、いつも「未来」のことを心配しています。

「未来」と言っても遠い将来のことばかりではありません。あと数時間後や数分後のことを考えていることはかなり多いのではないでしょうか。

仕事をしていたり、家庭で家事をしたりしていても、「あれをどうしよう?」「どうなるのかな、あれは・・」と、私たちは気になるのは「未来」のことばかりです。

子供の将来のこと、これからの取引先とのつらい交渉のこと等で悩みもすれば、今度の休みに旅行に行こうとか、おいしいもの食べようとか、楽しいことを思って「未来」のことに意識が向いているシーンは少なくありません。

一方、「ああすれば良かった」「どうしてあんなこと言ってしまったんだろう・・」「あんなことをしなければ良かった・・」と「過去」を後悔することもよくあります。

これらを思うと、いったい私たちは普段、どれだけの思考エネルギー(創造エネルギーでもあります)を「未来」や「過去」に振り分けているのだろうと、ぞっとする気持ちにもなってきます。

よく「今に生きろ」と言われますが、まさにそれは言い得て妙で、私たちはこのようにほとんど今に意識を集中していないので、「未来」や「過去」のことで悩んだり迷ったりして、「現在」をうまく生きることができなくなっているのです。

つまり、悩みは「過去」と「未来」(を思うこと)から発生していると言い換えることもできます。

もちろんその悩みの原因(「過去」や「未来」に思いを馳せるようになってしまった要因)は「今・現在」にあると考えられるので、その意味でも逆に「現在」を意識することは重要だと判断できます。

とはいえ、ただ漠然と「意識を今に集中しなさい」と言われてもわかりづらい面があります。

そこで提案したいのは、どうせ、「過去」「現在」「未来」と時を意識する構造があるのなら、これをうまく利用すればよいのではないかということです。

言わば、その三つへの意識の向け方を変えてみるということになります。

具体的には、たとえば嫌なこと(つらいこと、悲しいことなど含む)があった時は、意識は「過去」に向かいますので、これを「未来」に方向性を転換します。

心の痛みであれ、肉体の苦痛であれ、不快なことであれ、起こったこと、起こっていることに対して意識が向くのは当然で、そのことを気にしすぎるようになってしまうのが普通です。

「嫌なこと」であるだけに「現在」という2文字が、まるでブロックのように横に連なり、どんどんそれが「過去」に積み重なっていくイメージをするとわかりやすいでしょう。

まあ、簡単にいえば嫌なことはいつまでも残りやすい、思い続けやすいということです。

ですから、それがわかっているので、「もう済んだこと」「起こってしまったことは仕方ない」「くよくよ考えていても仕方ない」と、意識を「過去」・「現在」から「未来」にシフトさせます。嫌なことがあれば、「現在」と「過去」に意識が向くのは当たり前だと認識することが大事です。

それを理屈のうえで思いながら、ここからまったく別のことでの「未来」を、いつものように考えイメージします。「いつものように」というのが鍵で、普段あれこれ「未来」について考えていることを思えばいいのです。

反対にまだ起こってもいないことに取り越し苦労のように、あれこれ想像して悩んでいる場合は、意識を「過去」に向けます。「現在」を飛び越えて、「過去」に向けるのです。

すでに自分がやってきたこと、起こった事実、実績、これまでのパターンなどを想起することで、意識はある程度収束してきます。すると、自然に次は意識が「現在」に向かいます。

あるいは、「未来」に意識が飛びすぎているなと自覚した場合、今自分がやっている行動そのものを言葉で表現します。(心の中でもOK) 

たとえば「道を歩いている私」「コーヒーを飲んでいるオレ」「パソコンのキーを私は打っている」という感じです。これはある瞑想法のテクニックでもあります。

あと、これは究極のものになりますが、よくイメージができる人は、時間軸を円でとらえることです。

つまりは三つ(過去・現在・未来)を意識しない方法です。これは三つを意識し活用することとは違うもので、今日のテーマと矛盾しますので、これくらいにしておきます。

ともかく、自分の普段での「過去」「現在」「未来」の意識・イメージをただ勝手に流すままにしておくのではなく、意図をもってとらえ活用していくことで、時間のコントロールが次第にうまくなり(ここでいう時間コントロールとは時間の有効活用の意味とは異なります)、自分の力が蘇ってくるのを感じます。

そう、このことがマルセイユタロットの「運命の輪」と「力」の秘密のひとつでもあるのです。


人生の主人公になる。

今日はマルセイユタロットを通じて得られた考察のひとつを披露いたします。

一人一人は自分の人生を生きていますが、世の中にはたくさんの人がいて、多彩な環境とシチュエーションが用意されているように、たった一人で何もない空白の世界を生きることは、誰もできません。

逆に言えば、どうしたって、人は人と関わり、様々な体験をするようにできていると言えます。

人生とは何か? 生きるとは何か?と、私もよく考えるテーマですが、つまるところ、シンプルにこの世界を見れば、上記のことが答えとして導かれます。

すなわち、もう一度言いますが、様々な体験(経験)をするために生きているということです。

もちろんこれはひとつの見方であり、生きるというテーマの答えは、各個人それぞれが持っていると言ってもよく、数学の答えのように決まるものではありませんが。

さて、そうした中で、私たちは自分の人生では自分が主人公であると言えます。

ここが大事なことですが、意外にも、自分が主人公なのに、意識的には他人や運などの外のもの、すなわち映画の舞台設定のようなものに自分を明け渡していることがあります。

簡単に言えば、主役なのに主役の自覚がなく、端役や舞台ばかり気にしてしまっている状態です。

これでは自分の人生が人任せ、舞台任せで動いてしまうのも仕方ありません。

ですから、まずは自分の人生は自分が主役であり、主人公なのだということを意識することが大切です。これが過去や未来に気持ちが行きすぎず、今・現在に自分を生きるという根本にもなってきます。

その上で、自分が関わる色々な人たちが登場してくるのをまた意識します。

この人たちはあなたから見れば、重要な相手役だったり、単なる通りすがりの通行人だったりしますが、たとえモブシーンや背景の一人であったとしても、その人にスポットを当てれば、当然その人自身が主人公の人生となり、あなたが端役になったり、時には重要な役割になることもありえます。

言わば一人一人が主人公の劇を、同時進行で同じ舞台を利用して、すべてが関係している複層劇を皆が演じている状態なのです。これは極めて高度なシナリオが要求されます。これができるのは、まさしく神業としか言いようがないものです。

あなたが何気なく通勤している途中のワンシーンを切り取っても、何かお菓子でも買おうとコンビニ入ろうとしている人もいれば、携帯電話で取引先に重要な電話をしている人もいます。

朝帰りのカップルがうつろながらも幸せそうに歩いているかもしれませんし、老後を楽しんでいるおじいさんが犬と一緒に散歩しているかもしれません。子供たちがゲームの話をしながら、にぎやかに通学をしている状況にも出会うでしょう。

それぞれの人はそれぞの人生において主役であるので、周囲の人はみんな舞台設定の登場人物になります。でも、おそらく一人として欠けてしまえば、あなたのその日の通勤におけるワンシーンという「絵」にならないのです。

ここで映画のように、一人一人セリフと行動が大まかに決まっているとして、もしいい加減に演じる人が何人かいたとしましょう。

そうすると、せっかくのあなたから見た通勤シーンという情景が、たちまちリアルなものでなくなり、それなりに朝の風景として緊張感や調和のあった感覚が、ものすごく違和感のあるものに見えてくるかもしれないのです。

どんな役であれ、真剣に演じている人が多ければ多いほど、そのシーンは迫力を増します。いわば、映画や劇が成功に近づくわけです。

ということで、私たち一人一人が(あなた一人でも)、もし自覚をもって人生を真剣に生きるならば、自分の人生劇場だけではなく、人の人生劇場の価値(質)も上がるのです。

ただ真剣に生きるというのは、固くまじめに生きるということではありません。人生を全うするというか、エンジョイする、精一杯味わうという感覚に近いものです。

自分が人にとってどんな役になるのかはこの世界ではわかりませんが、それでも漫然に生きるのではなく、「私の人生を思いっきり生きよう」と思うだけで、神なるシナリオライター・映画監督は瞬時にアドリブや変更を利かせながら、あなたとあなたに関わる人たちに奇跡を起こしたり、人生の充実幸せを感じさせるシーンを多く配置していくことになるでしょう。

まさに、自分を力強く生きることで、それぞれの人の人生の質向上にも貢献するという仕組みです。

そして、スピリチュアル的には、他人も全部自分の創造したものであり、すべてを総合的に設計演出しているシナリオライターや映画監督、プロデューサーに当たるのは、ほかならぬ自分自身なのです。

このようなことを考察していくと、まさに毎日が奇跡(奇蹟ということのほうが近いです)ということになるのです。


まっすぐ進んでいても・・実は。

地球が丸くできているように、私たちはずっと直進していても、結局元に戻るかのように巡り巡ってある地点に還って行きます。

しかもその軌道は直線ではなく、です。

もし地球が丸いということを知識として知らなければ、どこまでもまっすぐ進んでいるとしか思えないでしょう。

直線ではなく円状に進んでいるというのは、今述べたように、自分にその知識があるか、進んでいる自分自体(中心)の視点から離れ、包括的・客観的・巨視的視野をもって見なければ理解できないことです。

このことを思うと、普段の私たちも、何事もまっすぐ進んでいるようで、そうではないのかもしれませんし、決してそのまま(自己・エゴに浸かっているの)では本当の自分が見えてこないのだという示唆にも至ります。

おそらく、マクロ的にはすべてのものが円(球)であり、円運動していると想像できます。ただ空間的・運動的には螺旋と見たほうが正確かもしれません。

ところで先日、ある動画を見ました。

それは、従来考えられているような太陽が固定されて銀河の中心を回っているような感じではなく、太陽そのものが直進して進むイメージで、さらに太陽の移動とともに太陽の周りを回っている惑星、つまり太陽系全体としても太陽に対しての公転軌道を取りつつ、太陽についていくかのように宇宙を進んでいるように見える映像でした。(すると惑星の公転が円ではなく、スピン・螺旋の動きになります)

おそらく直進しているように見える太陽も、何かの巨大の円(球)を回っていると思えるので、スピンしているのでしょう。

さらにもっとマクロになれば、銀河系とか、ある範囲内・ユニットの天体系それ自体も、何かの周りをスピンしながら移動していることが考えられます。

これを無限に想像していくと、宇宙がどれだけの広さで、すべてが移動しながらスピンして回っていることか!?と驚嘆しますし、いったいその中心とは何なのかということも考えます。

不思議なことに、上記をもとに宇宙のことを想像すると、当然ながらどんどん拡大していくのですが、逆に縮小していくことも感覚的に起こってきます。(広がる分だけ中心を考えるようになるから)

以前「ウロボロスの蛇」のことについて書きましたが、それと似ています。極大と極小が同じ構造で、どちらかに行こうとすれば、同じところに行き着くというものなのです。

とすれば、まさにつまるところ、思考している自分そのものが宇宙であり、中心点であるという感覚に至る気がします。

古代の宇宙観は地球や自分を中心としてすべてが回る天動説がメインですが、それは肉眼と体感による観察からすれば当然で、しかし哲学的に見た場合は、ある種の真実を内包していると考えられます。

つまり、科学が発達していなかったから天動説になったのではなく(それも事実の面はあるでしょう)、別の視点でとらえれば、天動説も真実であるという実感から出ていたものではないかと思います。

私も最初にマルセイユタロット、もしくは西洋占星術の知識として、古代の宇宙観を自分に仕入れましたが、タロットとともに思考したり、イメージしたりしていくうちに、この古代の宇宙観が知識を超えて実在的な感覚になっていくのが感じられます。

この見方(古代の宇宙観)は、限りなく自分の内側に根ざして中心軸を自らに打ち立てる方向性と、逆に自分を外側に極大化して、あるいはバラバラに分散化して、包括的・大局的に見る方向性との両方を得ることができるとわかってきました。

内側に見るというのは、いわゆる瞑想などによって自分の中の宇宙を見るというようなものですが、意外に外側に自分を解放・投影することのほうが楽な場合もある気がします。

占星術では結構占いで誤解されているところもあるのですが、各惑星もサインも自分に根ざすものだと思います。特に惑星は自己の分身だと見ていくととても面白くなってきます。

自己の分身でありながら他人の分身や集合体でもあるのです。これはタロットカード(特に大アルカナ)にも言えることです。

タロットにしろ占星術にしろ、まったくもって自分や人の運勢を占うために使われる現状というのは、何かすごく局所的・一面的な見方と使い方だとわかります。

ただ占うために学ぶイメージと理論は非常に重要だと思いますし、占って運勢の向上や選択をよくするという使い方も、何度もこのブログでも書いていますが、最初の段階では辿ってよい道だと私は考えています。

問題は、その次の段階と感覚を得ることができるかにかかっています。

さて最後に、最初に戻りますが(笑)、自分の道(進んだり、辿っている道)は、まっすぐではなく「円」だと想像すると、いろいろなものが見えてくることは強調しておきたいです。

そうなると、変革する前とか、自分のステージが変わる直前に、同じ円周状の性質(ポイント)や対極の位置と関連してくることが理解でき、たとえば「昔と似たことが起こる」「懐かしい人に出会った」など、シンクロじみたことが発生するわけです。

あなたの次元が変わっていたら(円が上昇していたり、下降したりしていたら)、同じことであっても、別種の体験としてあなたは感じることになるでしょう。それが螺旋の動きです。


メリハリ、リセットの必要性。

お盆の時期ですが、仕事がお休みで家や実家でゆっくり過ごされている人もいるでしょう。

本来は祖先信仰、先祖や亡くなられた人への供養と交流の意味がある期間ではありますが、まず日常とは違うこと、霊的な意味も強められるなどのことで、自分を見つめる時間としても使えます。

そこで考えたいのが、「リセット」の意識です。

現代人は常に忙しい状態にさせられたり、気持ちを高揚させられたりしますので、多くの人はなかなか落ち着く暇がありません。

つまり、いわゆる「そのまま流される」ということになりやすいのです。もっと言えば、メリハリがない状態です。

昔は季節感のある生活や行事があり、半ば強制的・習慣的にもそうした行事に参加することで、周期的なものの中にもメリハリを感じさせるような仕組みになっていました。

メリハリがあるということは、終わりと始まり、進行と反転、仕切り直しなどの特異点が認識されていたということです。

エネルギー的に見れば、充電と放電、またその逆の放電と充電の切り替えポイントでもあります。総合的にはリセットすること、あるいは原初の状態に戻すと言ってもいいでしょう。

タロットリーディングにおいても、儀式をすることで、前のリーディングから新しいリーディングへの切り替え・リセットを行います。

何事も同じ状態は続かず、放置していても、自然に状況は推移・変化していくものですが、ただ外(環境や他人)に任せるのではなく、自分(内)から心境や体調をリセットして変化させたり、元に戻したりすることもできるのです。

大きなスパンで言えば、人生そのものもリセットすることもができますし、短ければ一日の期間でもできます。

人生のリセットと言うと大げさで、何か「死ぬ」ことではないかと疑う人もいるかもしれませんが、そういうことではなく、「人生これから」「今から新しい人生が始まる」という意識と行動のことです。

ただ象徴的には古い自分が死に、新しい自分が生まれるとも言えますので、リセットはどんな場合でも、「死と再生」が内包されていると言えます。

細胞も新陳代謝として毎日新しいものへ変わっているのですし、「生きる」意味で、毎日を新しくしてもよく、また思いついた時から再生した人生になると決意してもよいわけです。

そもそも古代では、日が昇り新しい日になる度に、世界が再生され、自分も新しくなるのだという考えがありました。太陽信仰の基盤には再生復活の象徴が込められています。(タロットでは「太陽」の次に「審判」のカードが来ているのは興味深いです)

過去の経験や体験は今の自分を創っているという意味では大きなものではありますが、逆に多重宇宙や多重世界を想定すると、過去の自分と今の自分は別人であって、その瞬間瞬間に、そのエネルギー状態として存在した人間だと考えることができます。

そこから考えますと、いつも新しい自分が生まれている(選択されている)ことにもなります。

また、過去にこだわり過ぎるのも解放や自由な人生を歩む上で足を引っ張ることになりかねません。くよくよと起こってしまったことに悩むより、今と未来に意識を向けたほうがよいでしょう。

ここで必ず出てくるのが、「もう年だから・・・」というような年齢の問題です。

しかし、人生は「終わりよければすべて良し」みたいな一面もあります。亡くなる時に「ああ、良かった」と思えればいいのです。

過去の恥ずかしいこと、失敗、怠惰、悪習慣、しがらみ・・・これらはその時点では確かにまずかったかもしれませんが、振り返って「あれがあったから今の私がある」とか「あれも止むを得なかった」「あれも経験のうち」というように思うことができれば、過去の問題も肯定的にとらえることができます。

そしてそれは、振り返る時点が自分にとって充実していたり、ある種の悟り状態であったり、穏やかであったりした時に言えることなのです。

ということは、過去のすべてを受け入れられるためには、自分が その過去を許容できる精神状態(心境の拡大、心のとらわれの解放)か、現実環境(成功や余裕の状況)にあればよいということであり、特に精神のそれは、死の間際でさえ可能だということなのです。

ならば、年齢は関係なくなります。

あなたがリセットの意識を持ちさえすれば、そこから人生は変わるのです。

この「リセット」をもっとも象徴するマルセイユタロットのカードは「13」です。その次の数を持つ「節制」は救済の天使です。そう、リセット後、あなたは再生され、救済に導かれるのです。


救済の要素や力を発見する。

今までの私の浅い人生経験(^_^;)からですが、地獄に仏とか、苦しい状況にも救済があるというのは、結構信じられることです。

マルセイユタロットでいえば、「13」から「節制」という大アルカナの数の順序そのままで表現されます。

そして、それほど大げさ(極端なピンチ・危機・非常な苦しさ)ではない場合の落ち込み程度であっても、何かしらの救済や癒しは、この宇宙(その時)に存在しています。

ただ残念ながら、それに私たちは気付こうとしないですし、自分が大変なので、過度に救済を求めてしまっていることで、かえって自分の目を隠している状況になっているのです。

いわば依存することで、ノーマルな視点が失われていると言ってもいいでしょう。

そんなことを言っても、苦しい、大変、しんどい・・と人がなっている時に冷静な気持ちになることのほうが難しいので、依存になったり、視点が偏ったりするのもやむを得ないことではあります。

ですから、普段の何でもない平常な時から、自分が危機に陥った時のモノの見方、救済(があることの)視点の獲得を培っておいたほうがよいのです。

それは、一言で言えば「吊るし」の視点であり、また「愚者」思考であるとタロット的には言えます。

要は普通とは違った見方を普段から養っておくということで、多角的多層的視点のことです。

具体的にひとつ挙げますと、起こっている現象それ自体にとらわれすぎないという方法です。

私たちは何か自分にとってよいことでも悪いことでも、インパクトのあることにはそれに意識を向け、集中します。

これが悪い意味では、視野の狭さを生み出します。もちろん注視することで、喜びが倍加したり、反対に危機や苦難といったものを取り除いたりすることもできるのですが、反面として意識が狭まることも事実です。

そのため、ほかで同時に起きている現象に意識が向きません

たとえば人に怒られていると、その人のことばかりに注意が行くのは当たり前なのですが、同時にほかのあなたを中心とした範囲では別のことも発生していることには気がつきにくくなります。

もしかするとその瞬間、SNSであなたが投稿した記事に、誰かが大変よい評価をしていたり、つけていたテレビで、あなたが探していたニュースが流れていたりすることがあるかもしれないのです。

気分が落ち込んでいても、視野(と感覚)を広げてよく観察してみると、空がきれいだったり、雲の形が龍に見えて勇気づけられたり、風が心地よかったり・・・そういうことはあるものです。

自分を分化させることで複数の見方が可能になり、ひとつの現象にどっぷり浸かって感情の波におぼれて、別のよい意味や真の大局的な神意のようなものを見落としてしまう危険性から逃れられます。

(漫画アニメの「ナルト」の影分身みたいな存在を作り出すようなものです(笑))

重要なのは、目の前に起きている悪いことばかりではないと信じること、たとえ嫌な状況であっても同じことがずっと続くわけてばないと、物事の変転をイメージすることです。

なぜならば、信じたことによってあなたの世界が創られるので、そう思うほうが思わないよりも、実際に救済の要素を発見しやすくなります。いや、本当に生み出されるのです。(想像されたことが創造される)

前言のような言い方では、ちょっとスピリチュアルすぎて受け入れられないという人は、心理的に言い換えてみます。

それは、「物事の意味づけを自分で変えることができる」ということです。

あなたが経験していることの意味づけは、意味が付される前まではそれ自体は中立です。よくも悪くも、地獄でも仏でもないわけです。

しかし、それにあなたという人間が価値をもって意味をつければ、そこで初めて中立から変化して意味を持ちます。

実は意味だけではなく、パワーを持つようになるということが重大なことなのですが、今回は詳しくはふれません。ただ力・パワーを意味や言葉を付与すると持つことは覚えておいても損はありません。

何でもないことでも救済や癒しになるのだという意味と認識があなたに生じれば、それ以降はたくさんその意味を持つものが出てくるようになります。

これは象徴の使い方にも似ています。今まで何とも思わなかったもの(形・現象)が、ある意味をもって認識されれば、その人にとってそれはその意味になるというのが、シンボル・象徴の働きでもあります。

これは洗脳にも使えますので、使用法によっては悪用にもなってしまいますが、それくらい力を持つということです。

それはともかく、モノの見方を増やしたり、次元を複数持った立場を想定したりをすることで、あなたの「地獄に仏遭遇度」は増していくことになるでしょう。

そして次第に悪魔も神もあまねくどの局面にも遍在することに思いが至り、世界や宇宙のホロン構造(相似形)に驚嘆することになるのです。

マルセイユタロットは、そのモデルとして宇宙の構造を見事に表現してくれています。


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