カードからの気づき
自分の支配とコントロール、「力」のカードから。
私たち自身の存在について考えてみますと、面白いことがわかります。
まず、一人一人、自分がいる(一人の自分として存在している)と誰しも思っているでしょう。(仮想現実とか、スピリチュアル的な話とか用いだしますと、存在も幻という話もありますが)
次に、言わば、「役割」や「関係性」として見ますと、必ずしも一人の自分という存在とは限らないということにも気がつきます。
つまり、自分にもいろいろな顔があるということです。換言すれば、たくさんのパーソナリティを持ち、自分は複数いる(存在している)とも言えるわけです。
一人なのに複数、複数なのに一人という奇妙な存在性です。(笑)
まあですが、本質と仮のようなことで考えれば、常識的にも理解はできます。
今日は、その本質と仮の違いとは何かとか、本質の自分とは?みたいな話ではありません。(苦笑) それはそれで興味深いテーマなのですが、それは別の機会にするとします。
本日は「仮」のほうがテーマと言え、それは関係性、タロットカードで言えば「力」にまつわる話です。
マルセイユタロットの「力」のカードの図像を見てみますと、ライオンを女性が制御している姿があります。
女性が大人の雄ライオン(たてがみがありますので)を生身で抑えているとは、すごいですね。
もちろん、ライオンや女性には、特別な象徴性の意味があり、単に女の人とか動物のライオンそのままを示しているのではありません。
例えば、タロットを知らない人でも、ライオンというものが、なにがしかの象徴性や意味合いを持っていることは、古代の文化とか伝統性などで知っている方もいるでしょう。
ですが、そういうことは自分で調べるとか、講座を受講するなどで学んでいただければよいです。
今回は、見たままから推察される、この女性とライオンの関係性を敷衍して、自分と他者(あるいは物事)との関係を考えたいというわけです。
ライオンが女性の支配下に治まっているのは、女性の力のほうが明らかに上であるか、何かのコツをつかんでいるかで、いずれにしも、ライオンは女性にはかなわない、または抵抗できないという、上下、力関係みたいなものを自覚していることになります。
飼い主とペットという関係性にも似ているかもしれません。絵柄的にサーカスの猛獣使いのようにも見えますね。(余談ですが、ホドロフスキー監督ではありませんが、サーカスの芸とか表現は、結構マルセイユタロットのものと似ているところがあるように思います、逆を言えば、サーカスは西洋的な人間模様の元型があるとも言えます)
もし、ライオンが、女性には力がない、抵抗可能と思えば、たちまちのうちに女性はやられてしまうかもしれません。
ということは、女性は意識的か、無意志的にも、ある「力」をライオンに示す必要性があるのです。
その「力」とは、いろいろな解釈ができ、本来はフランス語では「フォルス」、英語では「フォース」と呼ばれる、映画「スターウォーズ」でもおなじみの、宇宙的で、かつ、人に内在する力とも言えます。
ですが、ここでは、単純に意思とか、実際的な力になるものと見ます。“実際的な”というのは、体力とか、能力とか知力とか経済力とか、およそ“人の力”になるものです。
ただ、大事なのは、そういう物理的な目に見えるものより、最初にあげた「意思」の力ではないでしょうか。
ともあれ、女性のように、ライオンのような強いもの、侵入をしてくるもの、つまりは自分の権利やテリトリーを侵してくるものに対して、抵抗する姿勢とか、物理的な力とか、何よりも強い意思が必要だということなのです。
他者軸で生きてしまう人は、言ってみれば、ライオンに支配されてしまうようなタイプです。
実はそのほうが楽なこともあるのです。
しかしそれは、「力」のカードで言えば、「自分は、か弱き“女性”なので、“ライオン”君に任せておけばよいし、そもそもライオン君に抵抗する力もない弱い人間です」と表現しているようなものです。
(八方美人的に)優しくしていればすべて丸く収まる、あるいは、問題に対処せず、じっと耐えていることで過ぎ去る、みたいな態度を続けていると、一時的にはよくても、結局、どんどん弱みにつけ込まれ、ライオンは狂暴さを増し、自分のテリトリーに侵入してきます。ひどい時には、自分だけではなく、自分以外の大切な人・モノまで、食われることになります。
自分(と大切なもの)を愛し、守るためには、力の女性のように強くあらねばなりません。
いや、強くなくても、自分の領域が侵されないよう、自分自身がコントロールすることが重要なのです。このことが、今日のもっとも言いたいことです。
だから、繰り返しますが、自分が強くあろうと頑張る必要はありません。大切なのは、自分自身がコントロールする意思と実行性を持つということです。
相手や外側(ライオン)に支配の実行性を持たせるのではなく、できる範囲で、なるべく自分の意思と判断で決定や取り消しなどができる状態を作るわけです。
簡単に言えば、物事の主体は自分にする、自分の力を取り戻すということです。
私たちは、意外に外部に決定権を委ねてしまっている場合が結構あります。
もちろん、仕事などで、どうしても自分だけでは決められないこともありますし、最初の話に戻りますと、世の中にいる自分(パーソナリティ・仮の自分)というものは、他者との関係性でできいますので、相手あってのものであることもわかります。
それでも、相手あってのものだからこそ、力と決定権を相手(外)に全面的に渡すのではなく、自分自身で行えるように取り戻す(コントロールする)ことが大事です。
相手ではなく、自分がコントロールするのだと決めると、力関係が次第に実質的にも変わってきます。
恋愛でも、「自分のコントロール」ということを意識すると、相手に振り回されにくくなります。(まあ、惚れたものが負けと言われているように、好きの比重によって、関係性が決まってしまうこともありますが、その中でも、相手任せにしないことを少しでも心がけ、実行することがポイントです)
なお、マルセイユタロットでは、「力」のカードは11で、次の12は「吊るし」「名前のない13」と続きます。ここからすれば、関係性において、どうしようもなくなった時は、ペンド(吊るし・保留状態)と、最後は「13」として、覚悟して割り切り、切り離す(断ち切る)こともありだと言えます。要は捨てる、逃げるということです。
ライオンを、いつまでもかわいいとか、私を守ってくれるものとか、逆に、私に危害を加える、逃げられない怖いものと見てしまっては、関係性が悪い意味で癒着し、悪い状態で固定してしまうことにもなりかねません。
だから、自分のコントロールができないとなれば、最後はとにかく逃げて、関係性自体を捨てることも考えたほうがいいです。
タロットでは、名前のない「13」のあとは、救済を意味する14の「節制」が待っているのですから。
私たちの苦しむ原因のひとつは、自分の力を必要以上に外に明け渡していることにあり、そのまた反対に、全部自分で何とかできる、何とかしなければならないと過剰に思いこんでいることにあります。
本質は変わらないにしても、人との関係性で形成されるパーソナリティ(役割)は仮のものですし、自分で変えることができます。
そこに「愚者」的な自由性がある(どんな数になることもでき、どの数でもない)と見ることで、もっと楽になれるはずなのです。
自立には他者の助けと受け入れも必要
ブログを再開して、主題的には、自立(霊的な意味を含む)ということを底流にして記述しています。
しかしながら、逆説的になりますが、自立には他者の力も必要だと言えます。
何もかも自分でできればいいのですが、そういうわけにはいきませんし、自立していく過程には、人(やモノ・制度等)に頼ったり、助けてもらったりしなくてはならない場合も多々あります。
いや、むしろ、それが普通で、王道なのではないでしょうか。
人の一生を見てもわかります。生まれた時は赤ちゃんで、誰も一人では生きていけません。親の力、または世話をしてくれる人がいてこそです。
これは精神的な面でも、さらには霊的な面でも同じだと考えられます。
精神的な面(自立に向けてのプロセス)については、多くの心理系の方が語っているので、もはや言うまでもないとは思います。
それで、あまり言われないのが、霊的な面でしょう。
おそらくここがはっきりしていないので、下手なスピリチュアルにはまり、余計に(霊的な)自立が遅れ、依存性や停滞、あるいは幻想に囚われてしまう事態を生み出してしまうのだとも考えられます。
ここでいう霊的な面(霊性)とは、英語的に言えばスピリチュアル・スピリットということではありますが、わかりやすく言えば、体と心も含むトータルな面・本質の自分と言えましょう。
日本人的には魂・霊という言い方となります。(厳密には魂と霊は違うものとも言えますが、便宜上、同じようなものとしておきます)
霊性・スピリチュアルとは、目に見えないことや、不思議なことを言うのではありません。世間でいうスピリチュアルという言葉には、悪意も含まれており、それに関心を持つ人・はまる人を軽蔑のまなざしで見ている言い方となります。
ですが、それは依存性をもったライトスピリチュアル(自我の願望・欲求を叶えるため、あるいは、嫌と思っている現実から逃避する方法やその世界)のことで、本当の霊性・スピリチュアルとは異なります。
マルセイユタロットで言えば、最終的には「世界」に象徴される境地に達するものと言えますが、別の表現では「神の家」を構築することとも言えます。
マルセイユタロットにおける「神の家」は、ゆるぎない堅固な建物を建設・完成していくことの象徴性があります。
描かれている天からの光は、その構築された建物(ゆるぎない自分自身)ができて、天から降りて来る(あるいは自分が流入させる)神の意識・エネルギーのようなものです。(大いなる自分自身(宇宙)を自我が受け入れるようなもの)
しかし、そのためには、マルセイユタロット的に言えば、15のプロセス(「神の家」は16なので)が必要となります。
それらは、言わば、「神の家」に積み上げるレンガのようなもので、一朝一夕には築き上げられるものではありません。
物質的にも精神的にも、何かを強固にするためには、何度も繰り返し、固めていくことが求められます。
このように、霊的な成長においても、ひとつひとつプロセスを経て、それを自覚(自分のものとする)ことが大事だと言えるのです。
結局、すべて同じ型のようなものがあり、現実(物質)だから、精神だから、スピリチュアだから、目に見えるから、目に見えないから・・・という区別があるわけではなく、どの分野も本質的には同じなので、それがわかれば、無駄をことをしたり、回り道に誘惑させられたりすることも少なくなるということです。
さきほど、霊的なこととはトータルなことだと言いました。
ですから物質(現実)も精神(心)も含んで「霊」(の全体性)になるわけで、実際の経験・出来事とそこから生じる心のとらえ方、感じ方なども、すべて「霊」の体験と言いますか、霊(の成長・完成)につながっていくわけです。
逆から言えば、霊的(スピリチュアル的)な成長・発展は、現実やモノ、心を無視したり、切り離したりして進むわけではなく、全部関連するので、ひとつひとつ対応していくことが重要になるわけです。
言い換えれば、現実や自分(の心も含めて)としっかり向き合うということです。
逃避的にとか、欲求をかなえたいとかの意味で、スピリチュアル(この場合はライトスピリチュアルになりますが)に関心をもっても、目に見えない領域の神とかパワーとかで何とかなると思い、受動的(時には依存的)になって、本当の意味での霊的自立から遠ざかってしまうことになります。
とはいえ、最初に述べたように、そんなことはわかっていたしても、人は現実の生活で悩み、苦しみ、迷う存在です。
だからこそ、実は神なる次元・レベルからすると(これも便宜上、神と表現しています)、この私たちの通常認識の現実世界において、救済過程を用意してくれているのです。
それが他者の力を借りる、援助してもらういう意識と実際の効力です。
私たちは無力感にとらわれてしまうことがありますが、それは、自分の力が足りないという不足感、劣等感のようなものに起因しているところがあります。
この世は、人と比べてしまう、ある意味、不公平な世界です。
誰一人として同じ人はおらず、だから他人と比較して、反対に自分という個性、アイデンティティを自覚する仕組みになっています。全員が全く同じなら、それは個性のない(自分と他人の区別がない)世界ですから。
これが悩みの原因にもなっていますが、一方で、同じ人はいないのですから、逆に、自分の問題は自分では解決できないところも当たり前に生じることになります。
自分とは違うのが他人ですから、自分で無理な場合、誰かほかの人ならば解決してくれる可能性が高まります。
このように、実のところ、この世は助け合いが必須と言える構造になっています。
一方で、スピリチュアル・霊性の(ひとつの)完成には、自分の完全性(神の性質は完全性)を認識するということが求められます。
しかし先述したように、この世は一人一人が完全ではないので、ほかの人の助けで補い合うということが必要になります。
霊的に一人の完全性が求められつつ、不足ある自分を常に現実では思い知らされるこの世で、この矛盾を統合(理解)していく智慧・認識が生まれた時、次元が上昇し、世界(現実)は大きく別のものへとシフトするでしょう。
それは自分の不足感・不完全性の経験をして、他者と補い合う体験をし、自分と他者の間に不変と普遍のもの(言葉では愛と言えます)を見る時、完全性のヒントが生まれると言えましょう。(ちなみに、これはマルセイユタロットの「恋人」カードに大きく関係します)
簡単に言えば、よくスピリチュアル系の人が言うような、自分=他人みたいな感覚の想起です。(本当は感覚ではなく、高次の思考というべきものに近い)
ただ、それに至るには、自分(たち)の不足感を味わい、自分だけではできない経験もし、他者から素直に助けてもらったり、逆に自分ができることで、他者をサポートしたり、そういう交流をしていくことで、完全性が何かということを次第に知って行くことになるのだと考えられます。
また別の記事でいずれ書きたいとは思いますが、今日言いたかったのは、霊的(トータル)な自立のためには、現実や心と向き合う必要もある反面、自立の過程として助け合っていくところもあり、一人で悩み、苦しんでいても、余計つらく、迷路に彷徨うことにもなるので、助けてもらうこともありだということなのです。
単純な自己責任論に終始したり、現実や自分自身と向き合えと強く言われたりしたところで、不足感のある状態(自信がない、自分なんて取るに足らない者だと思うなど、多くの人は程度の差こそあれ、そう思う時はあるでしょう)では、余計につらくなるだけで、逆に依存性や逃避性を高めてしまうおそれもあるのです。
弱い段階の自分がいきなり強くなれるわけではありませんし、人には個性があるので、同じ体験でも、へっちゃらだと感じる人もいれば、心が折れてしまう人もいます。
ですから、自分を必要以上に貶めず、できない自分、弱い自分を責めず、そいう個性段階(自分固有の基準で見る、成長していく段階や過程)にあると思い、でもあきらめずにコツコツと、できることからやっていき(あれもこれもと完璧を思わず、本当にできることだけにまずは集中する)、助けを受けられるものは広く利用していくということも(ただし特定のものに依存せず)、結局それが、自分自身の救済と自立への過程になっていくということなのです。
今悩んでいる人は、せめて、物事をバラバラに考えるのではなく、すべてはつながり、トータルな意味で起こっているという姿勢を持つといいでしょう。そして、行動は逆に全部を考えず、自分が今できる簡単なことからやっていくのがよいです。
言わば、心はトータルに、行動は分けてという感じです。
トータルに見ていくと、つながりの糸が少しずつわかってきて、まさにスピリチュアル・霊的な意図としての自覚も始まり、現象としての物事(あなたが経験している事態)も変わって行く(やることもわかってきますし、シンプルになっていく)のです。
マルセイユタロットと年代の象徴性
マルセイユタロットのカードは、時代をも象徴していると言われています。
例えば、一枚が一世紀とか、ある期間を表しているという話があります。
またそれらの一枚が束や組になり、宇宙的・長期的とも言えるスパンを表現していると見ることも可能です。
大アルカナは22枚あり、それらが仮に100年単位だとすれば、全体で2200年になりますが、構成的に大アルカナは「愚者」とその他21枚のカードに分かれますので、「愚者」を除いての21枚が期間を示すとすれば、2100年、まあ、端折っておよそ2000年のスパンを大アルカナが表していると見てもいいのかもしれません。
そして、「愚者」は数を持たないカードですから、その人物の絵姿からしても、ほかのカードで示す時代を渡り歩く旅人という感じになるでしょうか。
約2000年のスパンは、占星術的にも意味がありますし、歳差運動から来る、いわゆるプラトン年の1/12、プラトン月のスパンにも該当しそうです。
ということは、「愚者」はプラトン月を移動する主体で、私たちのひとつの時代を形づくる意思とか魂のような集合体かもしれませんね。
21枚のアルカナナンバーを渡り歩いたのち、ひとつの時代の完成を見て、まさに、“ある「世界」”に行き着くのでしょう。それがふたつのミレニアム(1000年)期を重ねる(一枚が100年とした場合)というのも興味深いことです。
宇宙の本質は一元的なものといわれますが、そこから二元分離の運動や相違が芽生え、つまり二元的になることで、見るものと見られるものの世界が現れるようになったと考えられます。
それは言い換えれば、実体として把握できる主体と客体を持ったとも言えます。要するに、観察できる世界が現れたということです。
逆に言えば、分かれた(ように見える)二元が一元に戻る(統合される)時、そこにさらなる高次の宇宙、元の世界に移行するとも言えます
いずれにしろ、ふたつの、本質的には同じではあるものの、表現の異なる別のものをもう一度経験することで、完全性になるという示唆がうかがえます。
ということは、先ほどの、ミレニアム二回でひとつの時代期間を経て、ある世界の完成がもたらされるという考えに妥当性が出てきます。
面白いことに、マルセイユタロットでは、小アルカナの数カード(数札)は、10枚ずつの構成(4組で40枚)になっています。
大アルカナは22枚なので、ふたつのグループに分けることができるのですが、先述したように、「愚者」は特殊なカードですから、「愚者」を除くと21枚となり、割り切れません。
しかし、ある考えを導入すると、「愚者」と「世界」を例外にして、20枚でふたつに分けることができます。
このふたつのグループが、ミレニアムの二回を意味するとあてはめることができ、さらに小アルカナの数カードをこれらに振り分けた構造で見る(10枚ずつなので)ことも可能です。
ともあれ、タロットを用いて、時代の流れや象徴性を読み解くというのも、面白いかもしれません。
もし、大アルカナの一枚がおよそ100年を表しているとすれば、今はどのカードと言えるでしょうか?
普通に西洋暦をあてはめた場合、現在2022年ですから、すでにひとつの時代は終わり、新しい時代の最初の100年(次のバージョンの「手品師」)を進んでいると言えましょう。
ただ、西洋暦はキリスト教的なものですから、それではない紀元というものを見れば、また今の時代は違うカードになるのかもしれません。
さらに言えば、一枚が100年を示すのではなく、10年かもしれませんし、50年かもしれません。
大事なのは、そうした細かな具体的年数設定ではなく、本質的な型(周期パターン)のようなものを、タロットと時代の象徴から見て抽出するということだと思います。
その同じ型・パターンのようなものが見えた時、巨大な時間の流れから、中間的なもの、個人的なものまで、実は一致したものになっていることに気づくでしょう。
宇宙時間、地球時間、国時間、個人時間など、いわば次元・レベル別とも言える時間や成長の流れはあるものの、それらは実は同じ型を経験しているということです。(カードで言えば、「運命の輪」が無数にあるものの、同じ回転をしているというような印象です)
こういうところは、シュタイナーの宇宙発展論に、とてもよく似たものになりますね。
そうやってみると、やはり私たちは単独や個人で生きているのではなく、ある意味、宇宙の意思と言いますか、呼吸のようなものがあり(ということは生命的)、それらが全体と個を動かしているように思えてきます。
古代の宇宙天球論の感覚がリアルになり、それぞれの惑星に回転を与えている第一の存在、「第一動者」という象徴性も理解できてきます。
そして回転そのものが、次元やレベル違いを生み出ししているものであり、私たちに均衡やバランスをもたらしつつ、その次元に閉じ込めておく(閉じ込められる)感覚と、脱出する(覚醒する)ヒントを同時に与えているように思います。
このあたりは、古代のグノーシス論の本質に迫ってくるものだと感じます。
本当に、マルセイユタロットは様々なものを多層・多元的に考えさせてくれる、優れたツールだと改めて思います。
一般的に、タロットは個人的な占いに使われることが多いですが、このように、本来は(本来かどうかはわかりませんが)、長期的なものや、個人を超えたレベルや次元を考察したり、その感覚を想起させたりする意味で作られている(または使う)ものなのかもしれないのです。
ただ、漠然とタロットを眺めていても、そうした感覚は芽生えないでしょう。
当然、占いで使い続けても、占いの精度が上がったり、当たる神秘みたいな不思議さを思うことはあるでしょうが、今の時代感覚(または今の自分の思考レベル)だけに終始するものとなりがちです。
やはり、タロットの象徴性を、知的に、そして感覚的に同時に学び、検証していくことで、まさに象徴の図柄としてのタロットの力が発現するのだと思います。
そして、その使い方に適しているのは、マルセイユタロット(の精巧にできたタイプ)だと個人的には思うわけです。
梯子、段階、引き寄せの法則
口伝等あるので、明確には避けますが、マルセイユタロットには梯子の象徴がいくつか描かれています。「梯子」ということから何かを上り下りするわけです。「何か」とは皆さまの想像にお任せします。
そして、その梯子の象徴を見ていると、段階というものをやはり思います。
梯子は階段と言ってもいいわけで、何事も、ひとつひとつ習得したり、クリアーしたりして、次の段に移ることができるのだと考えらます。
階段とか梯子とか言いますと、つい、昇ることばかりをイメージしがちですが、当然、降りることもあります。
上り下り(昇り降り)両方とも、一足飛びには行かないものです。(まあ、特別な能力とかツールがあれば可能かもしれませんが、それは反則みたいなものです)
ところで、「スピリチュアル」という言葉が、今は一人歩きして、何やら不可思議なこと、見えない存在との交流が可能なことのライトな意味に思われてしまっている節があります。
本来は「霊性」と訳してもいいもので、かなり統合的・包括的・象徴的概念で、現世利益的なことからは離れているものとも言えましょう。
しかし、ライトな意味合いでのスピリチュアルは、かなり現実的な利益性と結びつけられているところがあるようです。
例えば、「引き寄せの法則」という考えと言いますか、“信仰”のようなものがあります。
簡単に言えば、願えば叶う(強く思ったことは引き寄せられ、現実化する)というものです。
これは、個人的には、まったくの嘘ではないとは思います。
しかしながら、ライトスピリチュアル界隈で例えられている「引き寄せの法則」となりますと、かなり安易で、楽して儲けたいとか、簡単に夢を叶えたいというもののように見受けられます。
もちろん、心理的なブロックして、自分の観念に「成功は苦労しなければ手に入れられない」とか「お金は汗水たらして稼ぐもの」とか、「幸せのためには不幸も経験しなければならない」という掟・ルールのようなものがあれば(つまりはもうそれが信念、信仰になっているわけです)、その通りになるよう、無意識的に自分をそうさせてしまうこともあります。
けれども、私たちは、肉体を持ち、物質の世界で精神を抱いて生きる存在です。要するに、物理的法則のようものが必ず働く世界にいるわけです。
思ったことがそのままダイレクトにすべて実現すれば、とんでもない世界になります。それゆえ、時間的・物理的干渉があるのです。
ただ、時間的なことでも、ライトスピリチュアル界では誤解があるようで、願ったことが叶わない(引き寄せられない)のは、時間差があるからだ、と思っている方もいるようです。
深く考えると、確かにそれはそう(時間差・タイムラグがあること)かもしれないのですが、やはり、時間だけではない制約・ルールがこの(現実)世界にあることが無視されているように感じます。
そこで梯子や階段なのです。
物事が成就するには、すべて段階を踏んでいると考えられます。これはおそらく精神世界においても同様でしょう。ただその表現が異なるだけだと思います。
マルセイユタロットのみならず、占星術、カバラーなど、古代思想・体系においては、皆、一様に「段階」や「レベル」のようなものが想定されています。
たとえ魔法世界であろうと、そこにはルールがあります。
魔法の力を行使するには、それなりの準備と段階を経なくてはならず、その過程があって初めて発動されるわけです。
ですから、「引き寄せの法則」であっても、そこには段階があると見るのが、ライトスピリチュアル的な考えであっても、持っておいたほうがよいように思います。
引き寄せには、イメージとか思いが大事だと言われます。
それならば、何かを得たいのであれば、それが得られるイメージを段階的に思い描くことも必要でしょう。
望みや願いの最終結果だけイメージしても、その途中・過程のイメージが省略されてしまっていては、まさにイメージにおいての「段階」をすっ飛ばしてることになり、それでは、叶いにくくなるのも、仕方ないと言えるわけです。
「イメージ」の中でも、ひとつひとつ梯子を上って行く、梯子に手をかけて行くような“段階別イメージ”を形成していく必要があると考えられます。
この努力を怠っていては、普遍的な物事の成就ルールというものからはずれていることになり、引き寄せの法則ようなものでさえ、その実現と効力発揮も難しくなる言えます。
ただし、これとはまったく逆の発想・方法もあります。
それは結果のイメージを強く持ち、あと(過程)は自分の無意識の領域に任せるというやり方です。言わば、梯子や段階をあえて飛ばすようなものです。
ただし、これが可能なのは、私が思うに、梯子作業がある程度できるようになってからではないかということです。
それに、これには、絶対なる自分の信頼(自分を神と認識する自信、言い換えれば自分の中に宇宙を持つこと)が必要だと思います。
たいていの人は、引き寄せ作業を行っても、自分=宇宙の信頼が中途半端なため、無意識領域で創造やお膳立てが行われることに疑念が生じます。
自分=宇宙などと表現しますと、それこそライトスピリチュアルそのものみたいな感じ(笑)がしますが、ライトスピリチュアルでよく言われている「自分=宇宙」のようなことは、実は宇宙を何か(万能に叶えてくれる)外の神のように見て、むしろ自分と切り離してしまっているのが実情のように見えます。
自分が宇宙や神であるということは、おかしなことに聞こえるかもはれませんが、自分が悪魔であるということにもなるのです。
自分が宇宙や神であると認識するには、まずは自分が悪魔であることも自覚しないとならないわけです。(これは私のマルセイユタロット講座を受講している人なら理解できることだと思います)
そのような人は、引き寄せで、あえて段階を飛ばしてイメージしても、願いは叶いやすくなると思います。
そうでない人は、まず、物理法則世界のルールも勘案して、同じようなルールが精神の世界にもあると想定し、イメージにおいても段階を踏んでいくことです。
もし、その過程において、どうしてもイメージ(想像)しにくい部分があれば、それこそがあなたの限界であり、あなたの夢を実現することを阻んでいる部分、あるいは弱点(補強しなくてはならないもの)とみなすことができます。
そして、それは他者や他の情報からトレースすることも可能なのです。
自分の限界は自分が超えていくことになるわけですが、超えるための情報は、今の状態の自分以外のもの(人)が持っていることがほとんどです、つまり、宇宙(自分)は「全体(他者も含むもの)」なのです。
単純に願えば叶う、思えば引き寄せられる、という幼稚園児的な発想から脱し、現実逃避や過程を省略することに注意したいものです。(※繰り返しますが、「引き寄せの法則」を否定しているのではありません。この法則そのものは真理を含むところはあると考えています)
「月」のカードと夢の話
人間、夢をかなえたいと思うものです。
若い人は特に夢があり、それも大きいものを持っていることでしょう。
年を経てきた者は、これに対して、「現実を知りなさい」とか、「そんな絵空事」とか言って、若い人の夢を否定する人もいます。
かつての自分がそうであったのに...です。でも、だからこそ、夢を追い続けて、失敗した人生にしたくないという老婆心的な助言の意味もあるでしょうし、実は、若い頃の昔の自分自身に対して言いたいということもあるのかもしれません。
さて、タロット的に夢を考えてみましょう。
日本語で「夢」という言葉には、大きくわけてふたつあります。
ひとつは、今述べたような、かなえたい希望や願望のようなもの。もうひとつは、私たちが眠っている時に見ている映像や幻のようなものです。
どちらも「夢」という言葉を使うということは、本質的に、ふたつは同じものではないかということが考えられます。
マルセイユタロット的には、おそらく「月」のカードと関係するのではないかと思います。
「月」(のカード)は、夢の両方を表し、実現したいイメージということもあれば、睡眠時に見る混沌としたイメージという印象もあります。
実際、「月」には、水滴が月に向かって吸い寄せられているかのように描かれているので、それが夢のエネルギーだとすれば、願望の夢も、夜見る夢も、等しく月に向かうと想像されます。
いや、逆に考えることもできるでしょう。「月」というものから降り注ぐエネルギーが、夢という形(イメージ)を与えていると。
水滴は普通、下に落ちますので、当然、下部が膨らんでいるようになります。しかし、もし水滴というよりも、何か矢のようなエネルギーであれば、むしろ向かう先のほうが尖り、やがて相手に刺さるようにもなるでしょう。
こう考えると、マルセイユタロットの「月」の水滴は、月の毛髪・触覚のようなものが地上に発射されている図と見ることもできます。
ということで、どうやら、夢は月という存在(これは天体的な月というよりも、象徴的な月の意味)から、私たちに投げ与えられたもののようであり、月によって私たちは動かされている(踊らされている)ところもあるのかもしれません。
ただ、それは現実の世界を面白くする効果もあり、夢を思い描くことて、私たちはまさに希望を持ち、願いをもって活動し、生きることができます。人生に彩りを与えると言ってもいいですし、生きる原動力にもなるでしょう。
一方、夢破れることも多く、望みとしての夢はなかなか叶いにくいものです。
しかしそれは、月から見れば、面白いことなのかもしれないのです。
個人の人間の範囲では、夢がかなわない、夢が破れることは悲しいことですが、夢を持ってあれこれ思い、動き、それが実現しようがしまいが、月の視点からは関係なく、上から眺めていると、そうした過程こそが楽しい・面白いみたいな感覚です。
心や感情の操作と言いますか、その波を作り上げているという感じでしょうか。
でも、だからこそ、私たちは喜怒哀楽を持ち、現象について色々と感じることができ、この世は、はかなくもあるし、楽しくもある(エンターテイメント性がある)と見ることができます。
しかし、現実に生きている昼間の時間では、夢や感情を持って、いろいろと考え、思いながら生活していますので、それがずっと続くと身が持たないことになるのでしょう。
従って、睡眠時は、別の「夢」を見ることによって、心身が整われ、再び起きている時間に夢を追うこと、感情の起伏をもって生活することができるようにされているのだと考えられます。
睡眠時の夢は時間軸もバラバラで、混沌としたものが多いですが、逆説的にはなりますが、混沌としたものだからこそも混乱したものを整理することできるのだと想像します。
マルセイユタロットの「月」の数は18で、まだ大アルカナでは、残り三つ、19「太陽」、20「審判」、21「世界」が残されています。
ですから、この夢(月)の(操作の)世界では完結せず、究極的には、ここから脱出する必要も、グノーシス的にはあると言えます。
とはいえ、夢のエネルギーの力も現実には必要で、私たちが人間であることの原動力のひとつとなっていることも間違いないでしょう。
夢なき生活は味気ないものですし、また夢(特に幻想)に溺れていては、現実性を失います。
ところが、「月」のカードを見ていると、「夢うつつ」と言われるように、夢と現実は同じで、ただ作用が違うだけであり、夢を見ることは、実は現実を活かすことと同意義になる次元があるのだということがわかってきます。
うまく「月」を理解し、「月」を能動的に見ることが重要です。その意味では、「月」は「悪魔」のカードとよく似ていますし、「運命の輪」とも強く関係してくると言えましょう。