カードからの気づき

待機モード

物事にはふたつのエネルギー、状態のようなものがあると考えられます。

いわゆる陰陽とか、能動受動とかいう類でも表現されているものです。

人間の生活や活動においても、積極的に動く場合と、消極的に籠るかのように待つケースがあります。

性格にもよるとはいえ、誰しも、そのふたつの状態があり、どんな人でも活動期・休息期はあります。例えば、一日のうちでも起きている時間と寝ている時間があるのです。

さて、マルセイユタロットの大アルカナを見ていますと、絵柄の特徴から、そのふたつの状態に分けて考えることもできます。ただ、単純に分けられるものではなく、不活動に見えて、内的には活動的というようなものもあり、それは複雑です。

しかしながら、あえてわかりやすく、特に今回は、待機モードのカードについて、取り上げてみます。

待機モードのカードを大アルカナ(マルセイユタロット)で具体的にあげるとすれば、数の少ない順から、2「斎王」、9「隠者」、※10「運命の輪」、12「吊るし」、※15「悪魔」、※17「星」、18「月」といったところでしょうか。

このうち、※印のものはどちらとも取れるもので、場合によっては能動的、行動的でもあると言えます。

上記以外でも、実はどんなカードも逆の意味も読め、例えば、「皇帝」でさえ、国を治めるためには実りを待つということも考えられます。しかし、今回は絵柄の見た目を重視して選んでいます。

ではもう一度、待機モード的なカードとして取り上げたものを見ます。おそらく「斎王」「隠者」はわかりやすく待機、あるいは蓄積している印象は誰にでもつかめるでしょう。

「運命の輪」チャンスをつかむ、好転させる意味では行動的と言えますが、反対に機会を待つというこでは、やはり待機的なカードになり得ます。

「月」は、前にも書きましたが、月のサイクルによって物事が成就(あるいは解消)するための期間を待つという意味が出ます。その意味において、実は「星」も共通しており、妊娠している姿の女性から見て、その子供(象徴的な意味ですが)が育つ期間の待機があると言えます。もちろん、育むということでは、能動的・行動的とも言えますが。

「吊るし」については「斎王」「隠者」よりも、もっとわかりやすく待機モードととらえられるでしょう。いわば、22枚の中で、もっとも外的には動きがないカードで、停止と言い換えてもよいくらいです。ただ、逆さであるということが意味深で、単に待つということだけではないところもあります。

さて、上にあげた中でも、「悪魔」がなぜ待機的なのかと、思った方が多いのではないでしょうか。確かに、一見、待機というより、何かを仕掛けている風で、能動的と見えます。とはいえ、「悪魔」につなげられた人も見受けられ、そのままの状態を(悪魔も人も)待っているようにも思えます。

マルセイユタロットの「悪魔」の意味のひとつでは、誘惑により人をつなぎ止め、この先の進展を阻む役割があると言われます。このことからすると、「悪魔」はむしろ、(つなげられた)人々の覚醒を待っているのかもしれないのです。

もし悪い意味に取ると、「悪魔」は、捕らえた人々から、悪魔に必要な何かを奪うための準備をしているとも考えられ、それは待機とも言えるわけです。あるいは人と契約をして、人の願いを叶えることをするので、契約した人から見れは、それが実現されるまでの待機モードにもなります。

実際のリーディングとか、自分にとっての個人的な意味とかは、カードの象徴から考察していく必要はありますが、上記の待機モードたちのカードが出れば、何かしら、待つことが示唆されていると、一面では見てよいでしょう。その待つことの意味や性質が、それぞれカードによって異なるということなのです。

そして、これが実はもっとも重要なことなのですが、そうしてカードの表す性質を実践で知ることにより、世界(宇宙)のエネルギー表現の性質と種類を理解することにつながるのです。それは問いや問題をタロットによって読むという方向性ではなく、逆の、タロットが表すことが、こちらの世界の構造を理解する手助けになるというものなのです。


レベルの上昇 「1」のカードから

マルセイユタロットの大アルカナで、数の「1」を持つカードは、「手品師」「力」「世界」です。

それぞれ、1,11,21という具合に10単位で数が上がっています。

ちなみに、10という単位は、小アルカナの数カードの単位(ひと組)になっており、それが4つあることで、合計40枚になっています。

大アルカナは22枚なので、10の数を基本とはしない(10で割り切れない)のですが、あえて10とのシンクロを見るとすれば、こうした「1」をベースにした分け方もひとつの方法となります。

さて、その1の「手品師」、11の「力」、21の「世界」について、今日は10よりも、1の象徴とも言える「始まり」というものをポイントとして、ひとつの見方、話をしたいと思います。

マルセイユタロットでは、上記、三つのカードは、数の共通性だけではなく、図においても共通のシンボルが描かれています。それは秘伝的なものになりますので、その意味も含めて、ここでは指摘しません。(ひとつだけではなく、複数あります)

ですが、このことから、三枚が数の1を元にしながら、共通したものを持っているという証拠になります。

マルセイユタロットには、数が上がる度に、上昇や発展、完成に向かっていく(大アルカナにおいてはで、小アルカナでは逆の発想もできます)という考えがあり、従って、この三枚では、「手品師」→「力」→「世界」と、レベルが上がって行くと見られます。

まず、絵柄的に見まして、「手品師」はその名の通り、テーブルの上に道具を並べ、手品を披露している姿になっています。おそらく、手品を見ている観客たちはいると想像されますが、それは描かれておらず、もっぱら手品師一人が強調された図像になっています。

次に、「力」ですが、「手品師」が男性的な人物であるのに対し、「力」では女性がメインとなり、しかも、ライオンという動物も描かれています。人間とモノだけだった「手品師」と違い、人間と動物という図像になっているわけです。

しかも、よく見ると、「力」の女性は、たてがみのある雄ライオンをいなしており、大人のライオンから想像すると、女性はかなり大きな人であると考えられます。

私たちマルセイユタロットを学ぶ者からすれば、この女性は人間ではないという説が話されており、そのことは実は深い意味を持ちます。今日はそれが本題ではないので、ふれませんが。

さらに、最後の「世界」になりますと、真ん中の人の周囲に動物たちが囲み、また人間と動物だけではなく、天使のような超越した存在も出てきています。

これも、秘伝的には、中央の人物は人間ではない(たとえ人間であっても、通常の人間レベルではない)と言われており、男性とも女性とも取れる両性具有的な人物になっていて、「世界」全体からすると、その特徴的な絵柄から、一種の天国のような、かなり現実離れした雰囲気を漂わせています。

つまり、簡単に言えば、ただの人間レベルから、次第にそれを超え、最後は神レベルまで到達していく流れが、この三枚からだけでもうかがえるのです。

もしこの世が地獄とまでいかなくても、なかなか悩み多き世界だとすれば、天国というものは、そういったものがなくなる、最高の世界だと言えるでしょう。

「手品師」の段階では、いわば、この世て生きる普通の人間としての困難さを表し、やがて成長した者が「力」の状態となって、まさに、ある種の“力”とコントロールの術を得て、雄ライオンさえ簡単に操れる能力を手にし、それはもう通常の人間を超えた者と言え、最後は「世界」として、さらなる究極の成長(完成)を得て、天国入り(悟り化)するという感じでしょうか。

この成長段階は、よく考えると、宗教的には、死を経て、さらに別の生を受けて繰り返される、言わば、輪廻転生システムにおける魂の成長過程とも取れます。

すると、もしかすると、タロットのストーリーは、生の期間だけはなく、死後も含めて、トータルな人の成長と完成を表しているのかもしれません。

たとえ生きている間のことのみを示唆するにしても、普通の人間が死後にようやく気付くものを、生きているうちに想像して思考体験していくような代物かもしれないのです。

三枚には、こうした壮大な物語も見えてくるのですが、一方、現実的レベルの話にしますと、また別の見方もできます。

「手品師」「力」「世界」、その進みによって、初心からベテランになり、また初心に戻るも、そのレベルは、当然、初心は超えていて、別の新たなレベルへの挑戦に進み、それを受け入れ、最終的にはその道の高度な完成に至るという、いろいろな学びや技術の習得というものに共通する「過程」を考えることができます。

「力」がちょうど中間で、この地点から、また新しい段階を迎え、再スタートとなりますが、その時点で「手品師」レベルは凌駕しているので、次の上の段階(レベル)にいる状態となっています。

そこでまた10の段階を経て、レベルがさらに上がり、「世界」としての完成を迎えるという流れです。

わかりやすく言うと、アマチュアレベルからセミプロレベル、そして本当のプロレベルへという成長過程です。

また、人間の交流過程と見ることもでき、ただの一人から、動物も含めて、周囲のものと交流し、最後は目に見える存在以外のものとさえ交流可能になるレベルになっていると考えることも可能です。

どの三枚も「1」という数があるのですから、いつも始まりですし、加えて「力」と「世界」においては、10の段階を経る(経た)ことにより、ひとつのシリーズは終わり(完成)にもなります。

言ってみれば、1から始まったものが10で終わって、11で新たなレベル・次元のスタートとなり、これがまた20になって終了し、21になって完成と、さらなる高次元のスタートということにもなるわけです。

このことは、実は「世界」であっても「手品師」であると言え、逆に「手品師」であっても「世界」でもあり、それらの鍵となるものは「力」にあるという話になってきます。

謎かけみたいな文章ですが、これが理解できた時、マルセイユタロットのすごさに改めて気づくことでしょう。

あなたの中には、神も天使も人間も悪魔もおり、それらがレベルや次元を変えて、縦(垂直)にも横(並列)にも存在し、関係・呼応し合っている世界と言えるのですが、それをわかりやすく伝えてくれるのが、マルセイユタロットなのです。


お墓の問題

父が死去したこともあり、いろいろと人間の死や、死後の(残されたほうと、亡くなったほうの両方)のことなど、再び考えることが多くなりました。

もともと父はお寺の出であり、僧侶にはなりませんでしたが、昔から何かと仏縁というものを私自身も感じておりましたので、普通の人より、生と死というものを考える環境にあったのかもしれません。

というより、私自身の性格もあったでしょう。タロットを習うことになったのも、今で言うスピリチュアルへの関心が、普通の男性よりかはあったからと言えます。

さて、人の死を考えた場合、実はすべての分野で言えることではありますが、物質と精神、平たく言えば、モノと心目に見える面と見えない面、現実とファンタジーなど、ふたつの側面から見る必要があると思えます。

実は、意外にこのふたつは混交してしまい、整理がつかなくなっていることもあると考えます。

また、どちらか極端になって、死んだら終わりと見てしまうか、逆に、やたら死んだ人の気持ちや思いに囚われ過ぎてしまったり、ということも場合によっては結構あるでしょう。

ここはまず、物質的なことと精神的ことを分けて考えつつ、最終的にはそれらを統合していく(本質的には実は同じと見る)境地に導かれればいいのではないかと思います。

そこで、物質と精神の意味でも、人の死(後)で、顕著に出て来るのが、お墓の問題ではないでしょうか。

日本では、仏教式のお墓が多いですが、もちろんお釈迦様が説いた本当の仏教とは違って、そこには日本独特の、先祖信仰が入っており、さらには中国からの陰陽思想などの影響もあると考えられます。

唯物主義的に言えば、人は死ねば、ただの骨や肉となるだけで、放置すれば、自然の循環に入るものでしょうから、お墓はいらないことになります。

それでもお墓が必要とされるのには、やはり、死後も何らかの意思とか魂のようなものが残っていると見るか、たとえそういうものがなかったとしても、残された生きている者が、故人を振りかえってコンタクトしたり、偲んだりするための施設として建てるか、ということになるでしょう。

また常識的に、お墓がないと周囲の人たちからおかしく思われるかも、という世間体もあるかもしれませんが、これも突き詰めてしまえば、精神的な話となります。

そうすると、ほぼ、お墓を建てる(持つ)理由は精神(気持ち・心)から出ていると言えます。

しかし、現実面では、死体をそのまま放っておくと衛生的にも問題があり、勝手に自由にお墓を作ってよいとするわけにも行きません。

そして、お墓自体も物質であり、現代では、そこそこのお墓を建てるための、土地と建築の費用を合わせると、なかなかの値段となりますので、「お金」という極めて物質的・現実的な要素とも関係します。

となりますと、お墓は結構、現実的なものとも考えられます。

言わば、精神(裏・本質)を核としながらも、表現(表)は物質的なものとなるのがお墓です。

そのため、三次元的(現実的、物質的表現)に問題が起きるのが厄介でもあり、人を悩ますことにもなります。

ですが、本質的には精神、気持ちの問題なので、墓などいらない、あるいはあっても質素でいいとか、精神を自由にすれば、その物質的表現ももっと広く軽やかになると言えます。

そこで、最近は、お墓の保守ができなくなる人が多くなってきた理由もありますが、海に散骨とか、樹木葬などの、自然に骨を返す方法も取られるようになり、そうした選択をする人も増えてきていると聞きます。

精神(心)を自由にすれば、そういう自然葬もありだと思えますが、一方で、陰陽思想的な、別の精神世界の考えを入れると、そのようなやり方は、納得行かない(不安がある)人もいます。

陰陽思想的には、お墓は陰の家であり、生きている者の住む陽の家とセットになる代物です。

つまりは、見えない世界(陰)においても家とか基盤がないと、対となるべき陽の家(生きている者の生活)も不安定になるという考えです。

その陰の基盤となるものが、骨だという説があります。すると、いきなり散骨して自然葬にしてしまうと、帰る(陰として安定する)拠り所がなくなり、陽のほうもおかしくなるというように見てしまうわけです。

よって、骨が安置される、きちんとした墓は重要だということでしょう。

中国の影響のある沖縄などは、確かお墓は大きく立派に作られていたと記憶しています。

まあしかし、これもあくまで“思想”で、精神世界であり、ファンタジーといえばファンタジーです。

死んだら終わりで、骨も肉体もただのモノだと見れば、それをどうしようが、別に何の問題もない(衛生的とか場所的問題とかは別にして)と言えます。

すべては宇宙であり、宇宙の中で循環しているものだと考えれば、死んだ人のお墓も、生きている者の生活も、まったく宇宙というものの中のひとつの表現とか、ポイントに過ぎないわけで、埋葬の仕方とか宗教のこだわりとか、供養法など、どうでもいいことなのかもしれません。

ただし、それは次元を思いきり上にした時の話で、人は想念や思い、感情というものを持ちますから、たとえ、本当に死後、ただの物質になるだけだとしても、そうは思えない気持ちがあるがために、サイキック(精神エネルギー)的世界が構築されて、その世界の影響を、生きている者(考えている者)自体が受けるということになると想像できます。

結局、魂があろうがなかろうが、生きている者が思う世界により、ほかならぬ、(生きている)自分たち自身が影響を受けるという話なのです。

ですから、やはり、お墓の問題も、究極的には、個人の意識とか感情の問題であり、自分が気にするものが、まさに「気(氣)」として影響してくるわけで、自分の思い次第だと言えます。

こう書くと、「では、お墓なんかいらないんだ」とか、「自由にお墓は作ればいいんだ」とか、思う人もあるかもしれませんが、真にそう思える人はその通りでいいですが、おそらく、ほとんどの人は、自分の家の宗教とかしきたりとか、世間体とか、個人の思いとか、何かしら、自分以外のことから精神(心・気持ち)に影響を受けていて、それが思考・感情に出て来る(よぎる)ことは普通かと思います。

その限りにおいては、サイキック的には影響が必ずあると考えられ、だから、なかなか自由にも行かないところがあるのが、お墓とか死んだ人への扱いの問題となるのだと予想します。

ともあれ、現実(物質)面を踏まえながらも、あまりガチガチに因縁や因習に縛られずに、かと言って、自分が気にしていることは無視せず、うまく折り合いをつけた視点で、お墓の問題に当たるとよいのではと、個人的には思います。

ところで、マルセイユタロットでは、死の象徴が「13」として特徴的ですが、お墓と関連させると、建物のあるカードが出てきて、例えば、「神の家」「月」「太陽」などがあげられますし、「星」とか「審判」「世界」も結構関係します。

言ってみれば、終活カードというような感じのものが、見ようによってはあるわけです(苦笑)。

なお、西洋魔法とタロットカードも関連するものですが、西洋的なサイキック観点からは、死後の準備としてタロットカードを使う方法があり、タロットは生きている間に、死への準備をするため(特に霊的な意味で)のカードと言える部分もあるのです。

また「死」への準備ですから、逆に「生」に対しても考察が及ぶのです。


グノーシスと陰謀論について

いろいろな考え方はありますが、私自身は、マルセイユタロットはグノーシス書の一環ではないかと考えているところがあります。

グノーシスを定義するのは難しいのですが、一言で言えば、自身の神(神性)を認識するという言葉になるでしょうか。

ただ、一口にグノーシス思想と言っても、原理的で過激なものから、比喩的、象徴的で穏やかなものまで様々です。

グノーシスの神話には、一般的に言われる(西洋的な)神が、実は悪魔であり、本当の神は隠されている、という話があります。

実はこれ(グノーシス神話の構造)が、最近では、やっかいなことになっていると聞きました。

それは陰謀論(者)に、どうやらグノーシス思想が使われているようで、あたかもグノーシス主義者は陰謀論者のように思われている節もあるようです。

つまり、グノーシス(神話)では、キリスト教など、世界で信仰されている教えと神が、実は悪魔なので、この世界がおかしい(間違っている)のも、本当の神ではなく悪魔が世界を創り、支配しているからだという理屈になって、「ある勢力が世界を牛耳っている」と唱える陰謀論者にとっては、都合のいい話になってしまうからです。

グノーシスの、「本当は皆が思っている神は悪魔であり、その悪魔によって世界が創られた」という思想は、この世界(のルール)に悲惨さや理不尽さ感じる人にとっては、救いになる面もあります。

それは、自分が間違っているのではなく、世界そのものが間違っていたんだと思うことで、自分(の人生がよくないこと)には責任がないという気持ちで楽になれますし、何かそれに気づくと、自分は救世主とか世界の秘密を握った選ばれた戦士のような気分になって、自分に価値を見出すこともあるからです。

この世が生きづらく、そのために自分を必要以上に貶めている人には、そのような考えも、時に救いになるかもしれません。

しかし、私が考える、そしてマルセイユタロットが伝えるグノーシスとは、そういう責任転嫁の思想ではありません。

そもそも、グノーシスは、最初にも言ったように、自分自身が神であることを知るものであり、言い換えれば、深い自己洞察と改革の作業なのです。

まず、自分(だけではなく、様々なこと)を知ろうとしなければ、自分の中にあると言われる深い叡智に目覚めることもないからです。

本当のグノーシス的態度とは、問題を誰かや世界のせいにするのではなく、自分自身も含めて、私たち人類全体が陥っている誤謬や偏りに気づいていくものだと思っています。

グノーシス神話の言う、「神は悪魔である」というのは、私たち自身が悪魔を生み出していること、そして自ら悪魔の視点に陥ってしまって、その観点から世界を扱おうとしていること(すなわち、自分や人類全体としての創造意思が、その(悪魔的)観点になっていること)を象徴的に示しているものと思っています。

換言すれば、次元の劣化、逆シフトのようなことが、おそらくかつて人類に起こったのではないかと考えられますが、そのことは、決して悪いことではなく、人類進化のための、あえての措置とか変化だったと思われます。

それが物質中心次元への下降(シフト)であり、それがあってこそ、私ちは自我に目覚め、個人の権利とか所有などの概念と、それらによる制限の障壁、逆の快楽も同時に味わってきたものと推測されます。

個々の自我なしで、一挙に一体化を迎えてしまうと、おそらくそれは脆弱な洗脳集団状態と変わらず、真の意味では人類の進化とは言えないものとなるでしょう。

そう考えると、大きな流れで言えば、極めて合理的に人類は進展してきているのでしょう。

グノーシスも、反グノーシス(グノーシス側から見た一般的な一神教的世界観や思想のこと)とともにあることで、言ってしまえば、反グノーシス的な、外的な神を置く思想によって、一時的に自他分離を経験し、個我や物質性を強めたものと思えます。

ただもう、時代は、それらの統合(グノーシスと反グノーシス)に移行しようとしていて、言わば、次元の上昇へと向かっており、それが新たな人類の進化の期になるものと予想されます。

マルセイユタロットで例えれば、「吊るし」状態を作って、「13」で壊し、変容していき、「節制」の天使へと変わる過程です。

話を陰謀論とグノーシスのことに戻しますが、私からすれば、安易にグノーシス思想、グノーシス主義者を陰謀論者として誤解しないように願いたいと思います。

陰謀論が全く悪で、間違いだという凝り固まった考えもどうかと思いますが(陰謀論自体にも気づきになるところはあると思えます)、陰謀論の問題は、下手に救世主を希望したり、選民思想的に、自らの立場を過度に持ち上げたり、自己責任を放棄してしまったりすることにあると言えます。

仮に陰謀論者の言うような、世界を支配している層が存在したとして、その支配理由が単純にお金のことだとか、権力のことだとか、支配層の私利私欲みたいな形の、まるで勧善懲悪、幼稚な善悪二元論で見てしまうのは、もっとも低レベルな話だと思います。

また、よく、心理系やスピリチュアル系の方が言うような、世界は自分が作っているとか、自分が幸せになれば世界も幸せになるとか、そういう話も、陰謀論者に本質的には似ているように感じます。

要は、レベルとか次元をすべて同じもの(段階・オーダー)で見ているから問題であって、上記のことでも、確かに、あるレベルでは自分がすべて、自分によって世界が救われるということもあるでしょうが、その他のレベル、一般認識のレベルでは、他人や外の世界があるわけで、それらとの交流、相互作用によって、世の中は成り立っており自分だけでどうにかなるものでありません。(自分だけで変わる次元と、そうでない次元との区別が必要であるという話)

対岸の火事と言う言葉があるように、しょせん他人事として、たとえ自分は幸福な生活を送っていても、実際、ほかの国、地域、世界では、戦争ほか様々な問題が日々起きているわけです。それが幻想であると言うのならば、それはまた別の話になってきますが。

グノーシスは英語ではknowの言葉に関係しますから、知るということが大事になります。ですから、自分だけの小さな世界に閉じこもって、何も知ろうとしない態度も問題でしょう。

かと言って、情報を採り入れすぎ、ガセネタや洗脳情報に踊らされるのも、これまた問題です。

結局、グノーシスは、内と外、自分と他人、精神と物質、感性と論理、主観と客観、これら両方をきちんと考察し、認識していく作業になるのだと考えます。

それが、神が悪魔となっていることからの脱却、解放となり、(それまで信じていた)神と悪魔が統合された次元へと、導かれる(導く)ことになるのでしょう。

ということで、グノーシス=陰謀論ではないということを、今回は、改めて強調しておきたいと思います。


タロット展開から テーマ「感情」

父が10/5に亡くなった関係で、慌しく、しばらくブログを休止しておりましたが、落ち着いてきましたので、少しずつ再開いたします。

さて、今日は皆様へメッセージ的な意味を込めて、タロットを展開し、そこから感じたことを書きます。

メッセージと言っても、よくあるように「今月はどうか」とか、「今後はどうすればいいか」という類のものではなく(それは先月書いています)、出したタロット展開から考えた内容、思いついたものを記す形です。

展開されたカードは、星、月、女帝、悪魔、13、節制ということで、全体を眺めていても、非常に興味深いものとなりました。

マルセイユタロットは、出たカードの内部に含まれる図像の細かな象徴を拾い集めて行くことで、一種の論理的・客観的読みが可能ですが、本日、あえて直感的・イメージ的なもので探ります。

すると、浮かんできたのは、水、感情、欲求、整理、浄化というようなものでした。

一言で言えば、感情とどう向き合うのかという展開のように感じます。

よく、感情の発散や、逆の抑制について言及されますが、やはり、私も感情に関しては、その両方が必要であり、同時に、その扱いを間違えると、感情に支配されがちになると言えると思います。

マルセイユタロットから伝わるものでは(これは私自身がタロットから受け取り、読み取ったものですが)霊的(成長)には、感情体験は欠かせないということです。

端的に「月」のカードがそれを示し、「月」が数の順に並べても、最後の方に位置することからも、実は感情の高次機能や役割を、「月」が示しているように思います。

ですが、感情はやっかいな面があるのも事実で、ほとんどの人間は、肉体ベースと感情の欲求とが結びつき、時に、それらの作用に従わさられる(オートマチックに)はめにもなります。

だからと言って、感情を切り離すと、余計に深刻な問題が「人」として出てきます。

それから、実際の体験や経験がないと感情も動きません。(バーチャルでも感情は動きますが、実体験とは質が違うと考えられます)

じっとしていれば気持ちは安定するように見えて、感情エネルギーの自他の交流がなく、電気で言えば発電する機能が未熟で流路も詰まることになるため、大きく成長(受信と発信が)できないというおそれもあります。

つまるところ、暴走させずに感情を味わい、堪能するということが、人間として必要なのでしょう。

また、特定の事柄が感情と結びついている場合が結構ありますが(トラウマ・事件・無意識の反応)、それらをデータとした場合、そのデータをうまく処理・変換していく必要もあるでしょう。

だからやはり、自分と向き合い感情的に反応してしまうようになっているデータ(出来事、無意識の記憶など)を浄化しておくことは有意義と言えます。

そのことで、感情の暴走を防ぐことができ、よい意味で、感情をノーマルに味わうことができるのだと想像できます。

簡単に言えば、詰まりをなくす作業であり、感情とデータの掃除、パソコンの最適化とかクリーンアップみたいなことです。

マルセイユタロットはそうしたことにも使えると思いますし、特に「月」を中心にして、ほかの大アルカナカード21枚を結びつけて見て行けば、感情の整理に役立てることができるでしょう。


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