カードからの気づき

「1」と「世界」のカード

タロットカードと、そのカードについている数との関連については、以前にも何回か取り上げました。

私の個人的見解では、マルセイユタロットにおいては、それは意味がある(数とタロットとの関係で)と考えられるものと、また一般的な数秘術でいわれる数の意味とは異なる部分があるのと、両方でとらえています。

要するに、マルセイユタロットの場合、必ずしも、そのカードに持っている数が、そのまま絵柄を直接意味するわけではないということです。もちん関連はありますが。

しかし、「1」という数においては、結構、その数を持つ絵柄のカードは、「1」という数の意味をよく象徴していると感じます。

大アルカナの場合、「1」(正しくはローマ数字での表記)を持つカードは、「手品師」「力」「世界」となります。

やはりそれぞれ新しさや始まり的な意味合いが見えてきます。絵柄というより、順序の位置的なもののほうが強いかもしれません。

実はこの三枚は、ある段階や次元における始まり・出発を意味すると同時に、到達や完成をも表していると見ています。

しかし、数的には、10や20、つまり大アルカナで言うと「運命の輪」と「審判」も似たようなところがあります。

これは4と10の世界観でとらえるか、3と7の世界観でとらえるかの違いによって変わってくると言ってもよいでしょう。

何のことを言っているのか、わかりづらいと思いますが、詳細は基礎講座ハイクラスでお話しています。

とにかく、「1」を持つカードに、始まりと同時に終わりの意味もあり、しかし終わりではあってもやはり始まりでもあるという、いささか謎めいた意味合いが内包されているということは述べておきます。

ここで、最近の傾向ですが、私が人にタロットを引いたり、またリーディングのために引いてもらったりするカードに、「世界」がよく出る現象が続いています。

タロットカードは、個別の象徴性と全体性の象徴性、ふたつを同時に表します。(表すことがあります)

従って、ここの場合、私自身の個別での「世界」の意味と、受講生やクライアントの「世界」の意味、さらにはみんなが持つ「世界」の意味の三つが現れていると言えます。

そして、ここがとても重要なのですが、個別の意味は一見それぞれ違っているようでいて、全体性の意味と深くでは呼応し、共通しています。

つまり、「世界」を引く人が多いということは、全体的に「世界」の意味合いが強まっている、求められているということになります。

一般的なカード解釈では、「世界」は他のタロットもマルセイユタロットもほぼ同じだと思います。絵柄もよく似ています。

すなわち、完成、達成、成就、完全、永遠、宇宙、多様性・・・といったものです。

多くの人が」「世界」を引くということは、端的にいえば、まさしく世界は「世界」(カード)の意味に向かっているということです。

ただ、ここで最初に「1」の数のことを取り上げたのは、「世界」は完成で達成してしまったかのような錯覚にとらわれますが、やはり新規性・開始性・新しい動きと展開性を同時に持ちます。

そして、「世界」(のカード)による「完成」のイメージは、通常意識やこれまでの目標のイメージではなく、もっと拡大した、あるいは超越した、自分の想像以上のものであることが多いのです。

もしくは、そうした意識を持ちなさいということです。

「世界」は終わりのようで、実はもっと先があり、それをあなたは進める資格を得たというように、想像している世界よりももっと広い世界と可能性が広がっているということを示唆しているのです。(タロットの象徴性はいろいろとありますので、全部が全部そういうことではありませんが)

「世界」を引いたあなたは、「1」という数とも関連し、すでに新たな段階がその瞬間に始まっていると言えます。

その動き出す部分は全部の要素のこともあれば、ある1つである場合もあります。

これは「世界」に描かれている周囲の動物たちの意味とリンクし、そのどれとあなたや事柄が強く関連するかによって決まります。

「世界」を引いたあなた、もっと大きなイメージを自分に持ちましょう。

自分が(潜在的な心理も含めて)想像できないものは、現実にも起こりません。

現実はイメージの世界よりも縮小され、形となって固定されるからです。(逆にいえば削ぎ落とされ、効率的・実際的になる)

あなたは完全であり、完成のできる、拡大人間(神といってもよい)であることを「世界」は述べているのです。


上昇と下降 昇天と堕天

先日、少しだけフェイスブックで書いていた(というよりつぶやいていた)、「運命の輪」のについての、ある見方を書いてみたいと思います。

ところで、「運命の輪」というのは、タロットの大アルカナ22枚の中でも不思議な部類のカードです。人間ではなく動物のようなものが輪に乗って回っているという絵柄で、ちょっとつかみどころがない感じもあります。

余談ですが、先日NHKの大河ドラマを見ていましたら、語りの人が「運命の輪を回した」というような表現を述べてました。思わず、「タロットかい!」とツッコミを入れてしまいましたが・・(笑) それほど普遍的に、「運命」というものを表すたとえなのかもしれません。

さて、今日は「運命の輪」のカードがテーマですが、「運」「運命」のことがテーマではありません。主に、輪の中にいる二匹の動物に象徴させられることについてとなります。

(あらかじめお断りしておきますが、何度もこのブログで書いているように、ここでいう「タロット」とはマルセイユタロットの絵柄のことですから、そのつもりでお読みください。カード種によっては絵柄が異なる場合が多々あります。それから、ここで書いているカードの考察は、カードの意味として普遍的・一般的なことではなく、私個人がカードから得た示唆がほとんどです。ですからタロットカードの意味の学習で見るのではなく、特別な見方・こういうとらえ方もあるのだと思って読んでください)

この二匹の動物は、一応便宜上、向かって右側の上を向いているのを「犬」とし、左側の下に向かっているのを「猿」とします。今回に限り、犬か猿かなど、動物の種類に関係はなく(本来はその意味があります)、方向性が重要です。

犬は上に行き、猿は下に向いています。これを私は上昇と下降の快楽と見ました。もっと言えば、昇天と堕天です。

すなわち、人の快楽の方向には浄化したり成長したり、精神的高みに登りたいという上昇方向へのあこがれ・望み(と実行)による快楽と、逆にどんどんと自分が落ちていく、深みにはまる、欲求にまみれてそれをむさぼるような、ふたつの快楽方向があるということです。

一般的には上昇・昇天のほうがいいように思われがちですが、私自身は結局のところ、これは同じ性質のもので、方向性が逆なだけではないかと思うことがあります。(ともに見方による裏返し構造になっている)

なぜならば、簡単にいえば、上昇・昇天の究極は「死」(肉体を捨て、あるいは超えて魂が上昇)をも意味するからです。

反対に、下降・堕天は一般的・キリスト教的には悪魔的なイメージがありますが、方向性としては「大地」や地上、地球を意味し、ある意味、生きている現実性、物質性を最大尊重する方向だと言えます。

つまり、上は天ですが死であり、下は地で生の欲求につながるのだということです。

ということは、むしろ下降・堕天のほうが生のエネルギーに満ち、実存の形が明確であり、生きるという意味ではポジティブだと考えられるのです。

もっとわかりやすいレベルでいえば、上昇・昇天は現実逃避で、下降・堕天は人間である現実に生きることと表現してもいいかもしれません。

と、あえて上昇をネガティブ、下降をポジティブに書いてみましたが、これは実は一時的なものです。

私たちは天に昇ること(上昇方向)が、さもいいような幻想を植え付けられているので、そのバランスを修復させるため、あえて書いたまでです。

もちろん下降にもネガティブはあります。それはやはり生・人間の欲求にあまりにも忠実になり、それにおぼれて自分を見失い、さきほどとは逆説的ですが、結局破壊、大地に還るための死に至ることもあるからです。

しかし人間は「落ちて(堕ちて)いる快楽」も快楽の種類として、登る・上昇の快楽の対極で、同じくらい気持ちよさを感じる生き物です。

たとえば、遊園地の遊具を想像してください。ジェットコースターはいったん上に上がってから急降下するスリルがあり、フリーフォールなどでは、完全に落ちる恐怖が快感に変わっている施設です。(フリーフォールも、一瞬浮かび上がることで快感を得ていることに注目)

エレベーターでも一気に上昇していく浮遊感・一瞬の無重力感の心地よさもあれば、逆に急激な下降による、気持ち悪いような妙な快感も覚える人もいらっしゃるでしょう。

ところで生は「」とも結びつきますが、男女の和合において、昇天的(天に昇るような)快楽を味わう人もいれば、ひたすら谷底に落ちていくような、でもそれでいて極めて深く気持ちの良い状態というのを経験する人もいると思います。

それから人は、自分がもっと成長し、精神的に高次になろうと学び努力する過程で、自分の成長と幸せ感の充実に酔いますが、一方でお金やドラッグ、性、犯罪などで快楽を覚える人もいます。どちらも陶酔と言えば同じです。その素材やきっかけが違うだけです。

堕落の陶酔がそこまでひどくなくても、たとえばジャンクフードや揚げ物・ラーメンなど、体に悪いとわかっていても、たまに食べたくなったり、規則正しい生活とはまるで反対の、昼夜逆転とか、だらだらした生活と期間を送ったりして、それが楽しいこともあります。

自分が落ちている、悪いことしている、ダメであることの楽しさ、喜びというのが不思議に存在するのです。

これには、大きくは人間としての自由選択の幅の広さというものがあると考えられます。

平たくいえば、昇るも自由、落ちるも自由なのです。

堕落することは、簡単なようですが、実は難しいところもあります。そこには動物的のようでいて、人間としての自由意志が働いているからです。完全に堕落した生活は送りにくく、どこかで上昇反転のきっかけが起こります。堕落を選ぶというのも、ある意味弱いようで、別の強い意志と言えます。

成長を拒否するのでも、悪人になるのでも、快楽や欲求にまみれる生活を行うのでも、それは結局のところ、強制ではなく自分の意志と選択です。

堕落さえ選択の自由を与えられている、まさに「自由な」喜び、これがひとつにはあるだろうと想像できます。だから人間であり、また無限の創造性を持つ神の似姿の存在でもあるのです。

もうひとつは、堕落は先述したように、一方では大地や生・性の希求につながっており、一見自分を崩壊・破壊させるような「死」をイメージしながらも、その奥底には「生」への限りないあこがれ、賛歌と謳歌の気持ちが内在していると考えられます。

最終的には自分をとことん大地と融合させ、地球そのものとしてずっと安定してしまいたいという欲求も働いているのです。簡単にいえば母親の子宮回帰に近いです。

一方、上昇・昇天は肉体から逃れ、精神・霊的に高みに昇り、悟りというような方向性に向かいますが、それが現実(物質)世界とのしがらみで葛藤し過ぎると、前に述べたように「死」の願いに変わってしまうことにもなります。

しかしながら、肉体次元から抜け出る快感は、おそらくたとえようもないもので、これもまた早く味わいたい、そうなりたいという強い欲求を生み出すことになります。これも宇宙の子宮回帰と言えなくもなく、上昇・下降はつまるところ同じものだと考えられるわけです。

まとめますと、、味わえる・触れる・見られる・聞こえる・匂えるような五感的楽しさの海で泳ぎ、いつの間にか、「ああ自分は海そのものだ」と巨大な感覚を味わうのと、五感を超えた直感的・精神的・象徴的世界において、天や宇宙そのものになって、風のような希薄で軽やかな一体感を味わえるものとの、下降・上昇の快楽が、人間には自由に選択可能とされているということです。

どちらがよくて、どちらが悪いのかというのではありません。おそらくそのバランスや活用の力(パワー)の問題でしょう。

いずれにしても、どちらかに偏重し過ぎるのは、望ましくないようにも見えます。しかしながら、一方で極端に偏るのも、ひとつの解脱の道かもしれないのです。

「運命の輪」には、もう一匹の動物、仮にスフィンクスと言っておきますが、これがいます。この存在こそが、今まで述べてきたことを解決したり、その次元を超越するための大いなるヒントとなっています。

また「輪」が「回転するもの」であることも重要なポイントです。

皆さんも上昇と下降の快楽について、考えてみてください。


女性性・男性性の一考察

先日6/1,2の二日間、作家・カウンセラーである夏目祭子先生
をお呼びしての、「性に秘められたスピリチュアルパワー」セミナーを行いましたが、無事盛況のうちに終了いたしました。

ご参加いただきました皆様、そしてお招きに快く応じてくださり、充実のセミナーを講義していただいた夏目先生には改めて感謝申し上げたいと存じます。ありがとうございました。

さて、せっかく「性」「セクシャルパワー」のセミナーを開催したところですので、今回のセミナーからの示唆や、マルセイユタロットによって得られた「女性性」「男性性」というものに対しての考察の一部を書いてみたいと思います。

まず私が言いたいのは、「女性性」は究極の癒しの性質を、それ自身が持っているということです。人間ならば、もちろん「女性」となります。

ですから女性の皆さんは、あるコツと考えを採り入れれば、すぐにでも自己を解放し、自分自身を自分で癒すことができます

しかしながら現代社会では、様々な洗脳ともいえる誤解と知識・認識で、それができないようにされています。

まず大きな誤解は、いわゆる「常識」と、世間一般イメージでの「よい人になる(社会規範から見る自己の理想的役割設定の)」思考・枠組だと思っていただければよいでしょう。

これを解き放つには、言い意味で我がまま(我のまま)になること、非常識を採用すること、マルセイユタロットで言えば、「愚者」になることが最大の秘密であり、最初で最後の答えと言ってもいいです。

そしてもうひとつ、「自分に自身を癒す力がある」と信じることであり、このことは特に女性には、もっとも重要な自分に対する決意事項だと言えます。

女性は自分一人どころか、もっと多数、いえ地球や宇宙を癒してしまえるほどのパワーを潜在的には有しているのです。

また波紋のように一人がそれに目覚めると、周囲を波動によって広げ、ある範囲を大きく包み込み、それ全体を癒してしまうと同時に女性性を共鳴させ、ほかの人たちも覚醒させることができます。

これが古代で言われている女性性の力なのです。

ところが、自分の力を確信できない時、依存になりがちなのも女性(性)です。

それは女性性が受け入れることのエネルギー性質を持つので、受容性が自分や他者をスポイルし、ただ受け身に、ある範囲を極度に限定させることに力を費やしてしまうことがあるからです。

そこで男性性の力・エネルギーが必要になってくるのです。

女性の本当の力を目覚めさせるには、男性による着火が求められます。溶鉱炉に火入れを行わなければ、それは眠ったままです。

しかし、つけ方が無謀であったり、タイミングが間違っていたりすると、火は暴走したり、まったく灯かなったする場合もあります。不調和ともいえる女性性と男性性のミスマッチです。

それから男性(性)による女性(性)の尊崇と信仰が、実は女性性の女神性ともいえる大きなパワー・性質を発現させます。

女神は拝み(男神)によって、自身が役立つことを自らで感応し、大地的なパワーを目覚め興し、発揮させるのです。

従って女性性を稼働させるのは、男性性の働きかけが極めて重要なのです。

これを人間にして考えれば、男性は女性を愛し、大きな父性をもって相手を尊重する時、その注がれた大きさ・エネルギーに応じて、女性側も自身の内奥の扉(ヴェール)を開き、癒しと昇天(覚醒)の力を発揮することができるということになります。

女性は自らを自分で癒すことができると先述しましたが、実はこれも男性性が鍵になります。

現代社会では女性も「男性的」になろうという力が社会制度の影響で働いており、女性の皆さんにも過度に、あるいはアンバランス的に、自分の男性性を知らず知らずに強められている状態となっています。

言わば、女性の中で間違った男性性を過剰に出している人が多くなっているのです。そしてこれは、男性に対抗しようという競争的な男性性・思考中心の性質です。

このようなものとは異なり、自分の大いなる受容と癒しのエネルギーを自覚し、女性(性)としての本来の感覚的性質をもっと表現していくことが大切なのです。

ここで「表現してく」「出していく」と言いましたが、これが能動であり、男性性と結びつきます。

つまり、同じ男性性でも、自分本来を出し、抑圧せずに言いたいことを声に出したり、好きなことをして行ったり、感じたり、創造したりすることを「表してみる」というようなものでの、外向けのエネルギー、積極性の「男性性」が求められるわけなのです。

対抗する・争うのではなく、自分本来、女性性そのものを「出す」という男性性を表現することです。

それはまた本当の意味での自分への自信・自立精神ということにもつながります。

女性(性)は受け身だから、ただ待っていればいい、控え目にしていればいい、我慢していればいい、誰かが私を救ってくれる、王子様が連れ出してくれる・・・と考えるのではなく、自分の中の男性性と仲良くし、自己表現を素直に外に向けること、自分の足で立つというような自立精神を持つことで、より女性性が輝くのです。

そのような気持ちが無意識的にも働いてきた時、女性はまず自分の中にあるブロックやとらわれを解放しようとする方向に向かいます。それは自浄作用が働くからです。

そこでカウンセリングを受けたり、セミナーに参加したり、スピリチュアルな方向への関心が目覚めたりするのです。

最初は依存的になることもあるかもしれませんが(それはある意味、必要なことでもあります)、自浄作用が促進され、ブロックが解除されて行くと、自らの女性性の癒しの力が覚醒され、自分を癒すことが簡単にできるようになってきます。

次に、自分が癒されると、他者に向かって癒やす方向に向かいます。それも自然な女性性の流れです。(一面では男性性でもあります)

自らが癒された(と言っても段階がたくさんあります)女性は、相当強くなります。いわば女神性が目覚めた状態になってきます。

このような女性は、男性に対して無理に伍していくというのではなく、柔軟かつ自然に男性や周囲の人を惹きつけ、コントロール(調和的なコントロールを)していけるようになります。これがマルセイユタロットでいうところの「」の女性です。

また男性もこうした女性に包み込まれる時、失った自信とエネルギーを取り戻すことができ、さらには女性という宇宙の偉大なる箱船によって、天に通じる真の知性を得る(象徴的には悟りを得る)ことができると言われています。

男性は女性によって表面的なプライドを崩壊させる必要があり、これはマルセイユタロットの「神の家」にも象徴させられていることです。

ただ男性のプライドは、それ自身が生きる基礎となっている場合があり、下手な破壊と崩壊は、男性自身を本当に死人同然(実際に死ぬこともあります)にさせますので注意が必要です。

真に崩壊させることができるのは、マルセイユタロットでいう「星」の女性であり、女神性を回復させた女性です。

崩壊と言っても、崩れるのでなく解ける(溶ける)のであり、溶けて流れた表面上のプライドはエゴで武装したハリボテであったことに気がつきます。

そして本当に現れるのは、錬金術(男性性女性性の融合・統合)で培われた輝く黄金の柱に例えられるものなのです。

かなり象徴的な書き方となりましたが、皆さんも自分で考えてみてください。

マルセイユタロットを学習した(している)方は、タロットを見ると気がつくことも多くあるでしょう。


睡眠時の夢と現実のヒント。

物事をとらえるのには、二元の見方をするとスピリチュアル的にも現実的にも便利で、視点が広がります。

そして、今日は睡眠の二元論を考えてみたいと思います。

睡眠の二元て何?・・(笑)と思われる方もいらっしゃるでしょうが、結構まじめな話です。

二元というのは、要するに、ひとつを二つのモノ(視点)で見ることです。大きなたとえでは、「世界」を「陰・陽」ふたつで見みるというような方法ですね。

この発想は、占いやスピリチュアルでは実は当たり前なのですが、意外に現実的にも知らず知らず採用されている見方なのです。

それはさておき、睡眠です。

睡眠は、体の活動的なものの停止と言えますから、誰でもわかりますが、活動に対して休息・充電的な二元で見ることができます。

エネルギーの消費と蓄積と考えることもできますね。また、たいてい人は昼に活動して、夜に眠りますから、これも昼夜視点の二元と言えます。

では精神的にはどうでしょうか? 眠るということはまさに眠ってしまうわけで、現実の周囲の状況は見えませんし、自覚できません。

ということは、起きている時が覚醒かつ意識(自覚)的であり、寝ている時は文字通り、睡眠無意識(無自覚)状態にあると言えます。

ところが、寝ていても私たちは時折、夢を見ています。実は夢は誰でも見ていて、それを記憶していないだけという説もあります。

ということは、睡眠(状態)はまったくの「無」「停止」といわけではなく、逆に何らかの「覚醒」状態であると言えなくもないのです。

さあ、おかしくなってきましたね。

寝ているのに覚醒している、 ん? ならば、起きている時は睡眠状態のこともあるのでは・・・!?

ここにスピリチュアル的な視点変換・世界逆転のヒントがあります。マルセイユタロットでいえば「吊るし」のカードに象徴されます。

さて、その寝ている時に見る「夢」ですが、夢にも楽しいものと、つらかったり、恐かったりする悪夢があります。

しかも悪夢にはさらに、まったく非現実的なものと、自分がかつて経験したことが題材になっている、いわば恐怖や不安シーンの再現というような悪夢があります。

なんと、何重にも「二元」なのですね。

ここでちょっと、面白いことを言いますと、自己の体験に基づく(シーン再現のような)悪夢には、これまた見る理由を二元的に考えてみることが可能です。

ひとつは記憶の整理で、そしてもうひとつはトラウマや抑圧している心理の浄化です。

さらにこれに、「起きている時」と「寝ている時」の二元の見方を入れると、理由を強化することができます。

悪夢といえど、結局は寝ている時の「夢」なので、現実に目が覚めると、「ああ、夢だったのか、良かった」と人は安堵します。

つまり、夢は現実ではないという認識が働き、「あの恐いことはもう済んだことなのだ、今は現実ではないのだ」と思い直すことができます。これは記憶のリセットであり、整理なのです。

そして夢に出てきたことで、それをイメージで明確なものとして自分が認識できたことになります。

さらに言えば、それは自分が起床する(目が覚める)ことで、本当に「夢なのだ」と自覚し、「明確」なものになっているのです。

人は奥底で抑圧しているもの、混沌としていて要因や原因のわからないもの、目に見えず自覚できないものには不安を覚え、恐怖します

ところが、認識できたもの、理由がわかったものは自分がコントロールできる支配下に収まり、その瞬間、データは変換され、いわば浄化されるようになります

従って、嫌だったり・あせったりしたかつての経験の「記憶」を、悪夢によって蘇らせ、再び現実に目覚める(普通に起床する)ことで、その浄化を自ら図っていると言えるのです。

何度も出てくるのは、それだけその人にとっては無意識下では重要な記憶である(あった)ということですね。

ついでに言いますと、起床した時に、「やれやれ夢でよかったよ」と思うだけではなく、その記憶と夢で再生できた(させた)自分の修復機能・浄化機能に感謝すると、さらに浄化は加速されるでしょう。

嫌な記憶自体も、時間が過ぎて当事者でなくなっていれば、ドキドキした楽しさだけが味わえるものです。

こここのところは、グノーシス的には極めて重要で、現実での起きていながらの私たちの意識も(人生そのものと言ってもよいです)、実は睡眠と覚醒を繰り返しているという、私たちの状況を一面象徴しているのです。


プライドによって癒されている人がいます。

セラピーを行う前に、自分が癒されていなければならないとよく言われます。

確かにその通りの面もありますが、人間、完璧な人はいないので、セラピストでありつつも、自分も成長している段階なのだと思うことで、妙な気合いが抜け、逆に自然体で相手を癒すことができる場合もあります。

私はタロットリーダーではありますが、「セラピスト」としては標榜していませんので、セラピーのことをあまり詳しく言うつもりはありません。

ですが、癒しやセラピーということを考えたり、見つめたりすることは、立場上も機会としてよくあります。

そこで思うのは、意外に人は「癒され下手」なのだということです。

ただし「依存」と「癒されること」は別で、依存上手というか、依存で中毒になっている人は多くいると思います。しかしながら、「依存」そのものが必ずしも悪いわけではありません。

それはさておき、人を癒すことは結構できても、癒されることは苦手だったり、照れてしまったり、避けてしまったりする人は少なからずいます。

だいたいにおいて、自己評価が厳しい人、または素直ではない人、人生は単純ではないと思い込んでいる(難しく考えがちの)人などにその傾向は強いように思います。

また、男性や男性性のウェートが高い女性の人でも、その特徴はあるように感じます。

これには奥底に「プライド」というものが隠されているでしょう。プライドが破壊されことを何よりも恐れているのです。

それは信じている(きた)自己のアイデンティティ拠り所を失うことになるからです。極端にいえば、生きている意味さえ喪失しかねないものです。

ここで重要なことを言いますが、「そんなものは手放してしまえばよい」と気楽に言う人もいるかもしれませんが、その自分を守るプライドやプログラムといったものは、それ自身がもはやその人にとって「癒し」(厳密に言えば偽の癒しで快楽)にもなっているのです。

「プライドによって癒されている」なんてことがあるかと思うでしょうが、あるのです。

だからこそ、真の癒し・溶融とも表現できるセラピーの受け入れを拒否します。

と言うより、むしろ拒否している自覚はないので、「自分は癒されているので必要はない、だから人に癒しを与えるほうを選択する」となる場合もあるわけです。

この幻想の癒しと癒着したプライド崩させるには、自己の全部をゆだねられるほどの信頼できる相手や場といったものが必要です。

まさに「ゆだねる」ということがキーポイント・状態であり、ゆだねる対象は必ずしも人ではなくても、大自然や宇宙というものを感じることができるのならば、それは同じことになります。

つまりは全面降伏(笑)するくらいの、自分よりも大きな存在が実感できればいいのです。

ただ、自分より大きな存在となると、悪意のある者が意識的に精神をコントロールして、相手より大きく見せて自分の支配下に治めようとすることもあります。

これがマルセイユタロットでいえば、「悪魔」の状態です。

本当のいい意味でのプライドの破壊と真の誇りの獲得、そして癒しの受容は、「神の家」と「」で象徴されます。

実はあまり知られていませんが、女性性の中には、究極の癒しのパワーが内在しています。

女性は自身の女性性を認識することで、男性は自分と女性に内在する女性性を知ることで癒しの流入が起こり、さらなる自己の解放に導かれるのです。


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