カードからの気づき

一人の時間、非日常の時空を持つ。

世の中には、「パートナーを作るにはどうすればいいか」とか、「人脈を広げるにはこうしなさい」みたいな、人付き合いの獲得路線のようなものがよく言われます。

しかし反対に、「孤独になるにはどうすればいいか?」とか、「一人身のススメ」みたいなものはあまり見かけませんよね。

まあ、最近はシンプルな生活も推奨されているところですし、一人でもいろいろと不便なく生きていける時代ですから、あえてそうしたことを言わなくてもいいのかもしれません。

そこで、この流れからして、「人とは無縁に、孤独に過ごしましょう」ということを言いたいのではありません。(笑)

ずっと孤独でいるのではなく、「一人になる時間や空間を持つ工夫をしてみましょう」ということです。

私たちは本当に、「いつも通りに進む」ということを無意識に望み、やってしまいます。

そのほうがエネルギーをあまり使わずに済むからであり、一言でいえば楽だからです。

また特に問題もないと思っている状態で、あえて変化をもたらせようという人も少ないでしょう。

従って、そのままいつもの通りの日々を過ごしていくことになります。

ところが、私たちはかなり外部からの刺激を毎日受け続けています。いわゆる広告や宣伝も含めて、ありとあらゆる情報のシャワーに打たれているようなものです。

意識的には自分はこれらを取り入れていないと思ってはいても、無意識の中では取り込んでいることもあります。

サブリミナルではありませんが、意識はしていなくても自分に影響を及ぼしているものもあるのです。

ですから、ここで情報を遮断した時空(時間と空間)を持つためにも、非日常的な「とき」が必要とされます。

同じパターンで自動的に、まるでロボットのように動いている自分を、あえて特別な時間にさらす(ひたる)ことで、自己に創造的な変化や、新たなパターンを作り出すことも可能になってきます。

その過程では、一見問題のないように見えた日常生活が、すでに洗脳のような形で自分が動かされていることに気付き、愕然とする場合もあります。

洗脳とは大げさかもしれませんが、身近なレベルでいえば、親や上司、先生、友人、パートナーなど、誰かの(期待する、支配する)人生を自分は歩まされていた・・というものです。

ところで、非日常的時空を創造するのに、何も必ず瞑想などをしなくてはならないというわけではありません。

とにかく慣れている状態、パターン、通常の過ごし方とは違うことをするとよいのです。ただ、できれば静かに自分のことが考えられる「とき」と「場所」を持つとよいでしょう。

それから、実はこのことが一番述べたい事柄になるのですが、こうしたいつもと違う、静かに沈思できる時空を持とうとすること自体が非常に大切なのです。

「静」になるには「動」が必要というわけであり、また「静」によって新たな「動」が生まれると言ってもよいでしょう。

マルセイユタロットでも「隠者」と「運命の輪」、「吊るし」と「13」、「手品師」と「斎王」など、その対比は数によって隣り合うカード同士で象徴されています。

自分はとてもそんな時間や空間など作ることができないと思っている人は、そう考えている時点で、ある次元に囚われていると言えます。それ(そのような思考)こそが「日常」なのです。

「そんなこと無理・・」というあなたは、すでに創意工夫の意志を捨てています。それでは創造的な自分と生活を見つけることは難しいのです。

さて、非日常的時空(を持つ)ことで、もうひとつ重要なことがあります。

それは自分の中で神聖なものを意識するということです。

単純に言えば、神や天使・仏や菩薩などの存在を想像しておく(非日常時に)ということになります。

別に神聖な気持ちになれるのならば、「神仏」でなくてもよいのですが、そのほうがイメージしやすく、意識も変わりやすいということがあります。

深くには、そういった高次のエネルギー・質・表現によって、自分の俗なる部分を浄化する、あるい俗から聖に引き上げてもらうという感じになります。

日本の伝統的な村々の祭りにも、こうした日常から非日常へ、神聖なものの力を借りて自分(居住地域も含む)を高めたり、浄化したりする意味合いがありました。

今は日常と非日常が混沌としている時代ですので、むしろこういう時こそ、自分の生活サイクルに短期的にも長期的にもメリハリをつけることが大事になってくるのです。

陰陽・聖俗の循環ともいえる意識的な切り替えのリズムが、自分のエネルギーのバランスを保つのにも有効なのです。


「審判」に見る「祈り」

マルセイユタロットに「審判」というカードがあります。

一般的なタロットもたいていはこのカードがあります。その名前からしてキリスト教的な意味合い(最後の審判)が強い気がしますが、本来的には別のことが描かれていると考えられます。(マルセイユ版の場合)

また「審判」といえばジャッジする(される)ような印象もありますが、確かにそういうことも象徴されるのですが、同じ大アルカナでも「正義」もジャッジ的な色彩があり、その違いを理解することで、「審判」でのジャッジの意味が際立ってきます。

それはともかく、今回はまた別の観点を述べたいと思います。

マルセイユタロットの「審判」の絵柄をよく見ると、二部構成になっていることがわかります。

それは下の人間のように見える人たちと、上のラッパを鳴らしている巨大な天使との構造です。

実は上に天使、下に人間たちという形では、「人」カードも同じで、従ってこの両者には密接なつながりがあります。

しかし「審判」の人間(と見える人)たちは、天使を仰ぎ見ています。手を合わせてまるで祈っているかのようにも感じられます。

ここから、「天使に祈る」という行動が読み取れます。

ここで言う「天使」とは象徴であり、必ずしも天使そのものを表しているのではありません。さきほど二部構成になっていると指摘したように、「天使」とはつまり、人間を超える意識や表現・エネルギーを示すと考えられます。

ある意味「」といっていいかもしれません。

そこで「天使」を「神」に変えると、前述の文章は、「神に祈る」という言葉になります。これにより、いわゆる「神頼み」がイメージできます。

私たちは何か心配ごとがあったり、叶えたいことがあると神に祈る行為をします。

現実的な人はそんなことに何の意味があるのかと、いぶかしく思う人もいるでしょう。

しかしながら、祈りの効果は結構本当にあります。

たとえ現代の科学的なことで証明されなくても、祈りには心理的には有効な部分があると考えられます。

まず、祈ることで、特に願望の場合は特別に意識することになりますので、ターゲットがオン状態になり、何も考えていない時よりも実現力は強まります。

またこれが最大の効果だと思いますが、「神」という何か崇高で超越的な存在を想定することで、自らが謙虚になり、「預ける」という感覚と安心感が出ます。

 

もちろん神や天使に願ったからといって、すべて思い通りにはならないでしょうが、少なくとも祈ったことによる安心感(それは何か行為をしたという達成感にもつながります)が得られます。

そしてこれも重要なことなのですが、神のような大パワーと存在を信じることで、実は自分自身が大きな存在と力を得ることにもなるのです。

これは祈ることで神を知り、自分の存在の小ささを知って謙虚になることと矛盾しているように思えますが、実は同じことなのです。

謙虚になるということは、神や宇宙、大自然によって生かされているという意味での謙虚さであり、卑屈になることとは違います。

そして祈らせていただく対象である神を想う時、すべてをお任せする境地に至ると、自分自身を神の大きさに投影した巨大な時空が創造されます。これは、マルセイユタロットでは「愚者」や「吊るし」にも語られている心境です。

結局のところ、神へ祈り、神へ自分をゆだねると、端的に言えば「自分自身が神になる」のです。

ですから祈る時は神と自分を区別するのではなく、聖く巨大で完全な神に自分を預けゆだね、その力が自分とともにあることを感じるとよいのです。

区別しなくてはならないのは、利己的な欲による低次の自己とクリアーな高次の自己(神)です。

従って、祈りの行為は、自己の清浄で崇高な部分と低次で濁っている部分とを選別する行いでもあるのです。

自分と神を低いレベルで区別し、あるいは同一視し、ただ自己の願いを叶えようと祈る時は、「神」に自分をゆだねることができません。この時は先述した選別作業は行われず、形式的な祈りに留まります。

このようなことを考えずとも、単純に「神なるものに祈ることのできる心理的環境を持つ」人と、「神や仏もあるものかと秩序なきこの世と思って、反応のままに生きる」のとでは、生き方や過ごし方、苦楽の感じ方さえ変わってきます。

大いなるものを意識することは、生きる知恵としても実は有効なのです。


自分のためか人のためか、愛の広げ方。

私たちは、「他人ためか自分のためか」と、何かをする時に悩むことがあります。

ただ、おそらく悟りを開いたくらいの超越的な人間でない限り、そのどちらかが100%になることはあり得ないのではないかと想像できます。

なにがしかの割合で、人のためか自分のためかが含まれ、それが混交していることが普通でしょう。

ところが、この「人のためか自分のためか」という定義も、深くつきつめていくと、結局どちらも同じことであることに気がつきます。

100%の自分のためは、100%の人のためになっているということです。

ただしこの「自分」というのは、世界や宇宙的な規模での自分まで拡大した意識であり、エゴや欲望で固められた狭い範囲の自分ということではないのです。

ですから人のためであれ、自分のためであれ、それがリンクしていること、関連していることを見い出して行動する必要があります。

つまり、自分のためが他人のためであり、他人のためが自分のためになっているという「その関係性」を発見することが重要なのです。

普通はその関係性をつなげる発想が思いつきません。

ですが、たとえば自宅近くの道路の清掃をするという場合でも、もちろん自分の家の近くですから、そこを掃除することは自分が気持ちよく過ごしたいという「自分のため」がありますが、広く考えると近所やその道を通る人たちの「他人ため」になっていることにもなります。

この時、「関心ですねぇ、お掃除されるなんて」と人から褒められても、へそ曲がりのように、「いや、私はただ自分のためにしているだけです」と言うと(考えていると)、狭い世界のままに閉じこもったままになります。

また、「オレが近所を掃除してやっているんだ、有り難く思え!」という「人のため」を極端に強調する場合も無論、狭い世界から抜けられません。

それから自分ではまったく自分のためと思っていた行為が、人からは感謝されたり褒められたりすることがあります。その場合は、やはり見方を変えればあなたの行為は人のためになっていたのです。

反対に、人のため世界のためと思ってやっていたことが、ほとんど感謝や注目もされず、かえって批判されるようなことがあるなどして、結局ものすごく利己的だったということもあります。

自分のためにやっていても、人や世界のためになっているその関連性を意識して行動すること、その反対の、人のため世界のためと思って行うことでも、それは自分のためにもなっていることを発見すること、その両者を意識して繰り返しして行うことで、狭い範囲の愛から大きな愛に無理なく広がっていきます。

自分の気持ちを殺して利他的にふるまうことや、損得ばかりで自分中心に動くことは、結局自分の小さな世界観から脱出することができなくなるのです。

自分のためと人のためとの「つながり」と「関連性」を見つけるには、整理された「象徴体系」を使うと便利です。ここにマルセイユタロットが活かされるわけです。


タロットカード「悪魔」から「笑い」を見る。

元旦にお知らせしました「お年玉プレゼント企画」その2の、「マルセイユタロット入門講座無料プレゼント」の当選者が先日決定いたしました。

神奈川県のN様がご当選されました。おめでとうございます。講座実施日はこれから調整していきますので、よろしくお願いいたします。なおご応募いただきました方には、全員に結果の通知をいたしております。

では本日の記事です。

タロットの「悪魔」のカードといえば、あまりよいイメージが一般的にはないのかもしれません。

ただマルセイユ版では、絵柄をよく見るとかわいらしい感じさえします。

私の伝えるタロット観では、タロットカードは本来どれも中立で優劣や吉凶はないと考えていますので、ことさら「悪魔」をネガティブなイメージで解説することはありません。

とはいえ、「悪魔」という、大げさに言えば人類の共有するイメージにより、その言葉だけで悪い印象になってしまうことも仕方ない部分は最初はあります。

マルセイユタロットでは、「悪魔」の象徴的意味をきちんと理解していけば、やがてネガティブなものは去り、中立に戻って、さらにはポジティブなものさえ出てくるようになります。

ですから「悪魔」は、タロットによる宇宙や真理理解のバロメーターみたいなところもあります。

さて、そんな「悪魔」のカードのポジティブな意味の中のひとつに、「笑い」というものがあります。

これは少し特殊な読み方なので、これが「悪魔」のポジイメージのメインだとは思わないでください。

ところで「笑う」こと、「笑い」は、一般的に考えられているより、実は深くて高い、様々な効果があります。

まずはなんと言ってもリラックス効果です。

「笑い」によって体の緊張が解け、柔軟性が出てきます。

体と心に密接な関係があることはもはや常識ですが、身体が緩めば心も緩まります。(その逆もあります)

そうなると血流をはじめ、心(精神的なもの)でさえも滞っていたものが流れ出して、スムースで開放的な状態になります。

それから、実は霊的な効果も非常に高いと言われています。邪気を寄せ付けず、まさに福の神が住まうような空間と人に導きます。

ムラの年中行事などでも、古くから「笑い」を(神社や集まりの場所で)行う儀式的なものが行われてきました。

「笑い」は明るいバリアーを作るとも言えますし、凝り固まった(物理的・精神的)なものを流す浄化的な役割も持っていると考えられます。

ということで、「笑い」を生活に採り入れることはとてもお勧めです。

単純に笑うことでもよいのですが、もう少し工夫していくと、そこ(笑い)にはタイミングとセンスが要求されてくることもわかってきます。特に他人に対してはです。

内容がくだらなくても、タイミング的によければ、ツボにはまって大笑いすることもあります。

しかし、基本的にあまりにしょーもない、ベタなものはネタとして笑えるどころか、人を不愉快にしたり、センスが問われてバカにされたりすることもあります。

ということは、「笑い」にも品(格)やレベル、質があるということです。

同じレベルの者は同じ笑いを求め、それで笑い合うことが可能ですが、異なるレベルにあれば、すれ違いで、笑いは起こりません。

つまり、「笑い」も波動なわけです。

このように難しいところも「笑い」にはないわけではないのですが、タイミングとセンスを磨いて行けば、それこそコミュニケーション力を上げるばかりか、精神的・霊的な力も得ることができる優れものなのです。

マルセイユタロットにおいて、「愚者」とともに「悪魔」が出る場合は、この「笑い」を思い、通常からの「脱力」「逸脱」「超越」的事柄を思い浮かべると、リーディングのヒントが得られるでしょう。


「太陽」のカードから見る自由

マルセイユタロットでは「自由」を象徴するカードといえば、「愚者」が挙げられるかもしれません。

また「太陽」もある意味、解放された自由表現でもあります。

ただあえて記しておきますが、どのカードにも自由の部分と、反対の束縛的な意味はどこかに描かれていたり、位置的なことで出てきたりしますので、このカードはこうだと決めつけてはまずいです。

さて、「自由」という言葉を出したように、今日はこの「自由」を、先程の「太陽」のカードとともに考えたいと思います。

マルセイユ版の「太陽」は二人の裸の人物が手を取り、肩を組んで喜び合っているように描かれています。

名前の由来ともなっている太陽も、それこそ極大というくらい、さんさんと輝いています。

この太陽には顔が描かれており、どうやら通常の太陽と違う意味もありそうですよね。カードの象徴や意味自体の詳しくは、講座でお伝えしています。

ところでマルセイユタロットでは大アルカナのカードの番号自体にも象徴性があり(小アルカナの数カードも無論あります)、その数の大小には成長や発展の度合い、個別・具体と抽象・統合の比較などの意味があります。

そして、単純に言って、数が多いほどいろいろと遍歴を重ねてきていると取ることもできるのです。

翻って「太陽」の数を見ますと、そこには「19」(本来はローマ数字表記ですが、文字化けのおそれがあるので算用数字表記としています)の数が見て取れます。大アルカナは22枚ですので、かなり後ろの数となります。

つまり、それだけ経験値も高く、蓄積も多いと言えるのです。

ということは、太陽は一見、絵柄から開放的で自由な雰囲気を漂わせていますが、ここに至るまではきっと大変なことがたくさんあり、気づきと実行も多く重ねてきたということが推測できます。

そう、私たちの獲得する自由と解放の意味も、ここに価値があるのだと考えられます。

自由というのは言葉で言えば楽しく簡単なようですが、そこには束縛されていることの自覚が必要であり、ただ快楽に溺れていたり、逃げたりしているのは自由を味わっているとは言えません。

自由と解放に至るには、時には迷路をさまよったり、もがき苦しむことを経験したり、逃れようにも逃れないしがらみを味わったり、反対にとても心地よいと感じる偽物の「本質世界」の幻想に泳がされたり、まさに様々の過程があるのです。

自由のためには物事の受容とともに、疑いと探求の姿勢も求められます。

何を言っているのか、わからない人もいるかもしれません。

それは一般的に、ジャッジすること、疑いを持つことはスピリチュアル的な成長のためには障害になると思わされていることもあるからです。

また気持ちよいこと、心地よいことが推奨され、それが高次であると誤解を植え付けられていることもあるでしょう。(これは間違ってはいないと思うのですが、心地よさの質が問われます、欲求を満たす快楽との違いを明確にしないといけません)

私はマルセイユタロットの「太陽」を見ていると、本当にここまで来ることの大変さを感じ、それだけ逆に、「太陽」をもって非常な喜びと解放感をカードから感じることができます。

カードの象徴的な意味を知識と感覚でとらえないと、底の浅いものしかカードからは得られません。

いや、カードから得るというより、カードを触媒として、自分の内から認識できるものを得るということであり、それこそがグノーシス(霊智・神性なる自己の認識)の一環でもあると思っています。

単なる気分でカードを見ていても深くには到達しません。やはりそこには知識を働かせ、自分の経験と感情とともに観察していく態度が求められます。

「自由」に行き着くためには、それなりの努力と責任が問われるのです。


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