カードからの気づき

新年になる人、ならない人。

タロットを持っている皆様、新年のタロット展開はされてみましたか?

前回の記事のように、大きな目標と各月別にわけてもいいですし、まずは今年の自分のテーマとして、カード展開して示唆を得るのもよいでしょう。

そんな私自身は、今年は変革が求められそうです。それが実は足下の身近なところからという印象ですね。

それは講座内容の改革ということにも言えるのかもしれませんが、ほかにも環境的にも生き方的にも、もしかすると大きなチェンジがあるような気もします。

さて、このように年が変わりますと何か目標を立てたり、自分を変えようと気分を新たにしたりするのが普通です。

ただこれからは、あまり周りがこうだから・・・とか、習慣だから・・・といったことで行うのでなく、自分(の内面・気持ち)を確認したうえで実施したほうがよい時代になってきていると感じます。

今では新暦通りに1/1元旦から年が改まると思っている人がほとんどかもしれませんが、もしかすると、「自分は旧暦的な感覚のほうがぴったり来る」という人もいらっしゃるかもしれませんし、「誕生日から気分が変わる」という方もおられるかもしれません。

そして、年が改まるからと言って、何も自分もまったく新しくしなければならないとか、計画を絶対立てなくてはならないというものでもありません。

よく自分自身を振り返ってみれば、気分を一新できない人も少なからずいるはずです。

それは積み残しの仕事があったり、まだ未完成のことがあったり、葛藤が続いていたりする場合などの理由ということもあるでしょう。

その気持ちを分析したり、深く探究して行けば、結局浄化やクリアーにしなければならない問題・課題が残されていることに気がつきます。

新年になったからといって、それらが急に蒸発してしまうわけではありません。

従ってまだ何か、もやもやしていることがあったり、どうも新しい計画を立てる気分ではないという時は、それはそれでいいわけで、無理矢理改まるより、継続した意識と行動を取ったほうが自然にかなっていて楽です。

いわば、成長のための前からの課題の継続(段階的に解決・浄化を図っている過程)という認識です。

人には人のリズムやサイクル、タイミングがあり、もちろん集合意識としての全体的なものもありますが、やはりまずは自分個人のペースを重視するとよいです。

自分がうまくペースをつかめば、実は周囲もスムースな回転に変化していくもので、それぞれのペースで、無理なく回っていく現象を見ることができます。タロットでいえば、「運命の輪」の象徴となります。

全体を変えるには個別から」というのは、マルセイユタロットにおいても、構造的にわかることです。

全体の「運命の輪」、中間の「運命の輪」、個別の「運命の輪」のそれぞれの回転ペースは違うものの、時にすべて、もしくはふたつ以上が一致する瞬間があります。

それがまさしく、その人にとっての大きな転換点になると同時に、地域や国、地球、星というレベルでも変革のポイントになるのです。(占星術でもこのことを見ることができます)

それは一般的に言われる特別な日のこともありますが、実は個人でも決める(決まる)ことができるのです。むしろ個人の特異点のほうが重要です。

なぜならば、マルセイユタロットでいう「吊るし」の視点では、自分こそが世界や宇宙の中心で創造者であるからです。


ピンチや問題の時に試すこと。

タロットには「運命の輪」というカードがあります。

普通の形式のタロットならば、たいていデッキには存在しているカードです。その名の通り、「運」を象徴するカードなので、それだけ普遍的なカードと言えるかもしれません。

さて、人はうまく言っている時というのは、何事もスムースに進むものです。反対に何かギクシャクしたことがあると、それに釣られるかのようにほかのものもおかしくなってきます。

これが「運命の輪」においては順回転と逆回転、あるいはカードの正逆などで表されることがあります。

ところで、あるカードは、ほかのあるカードとの組み合わされると、新しい気づきや意味をもたらす場合があります。

カードをコンビネーション(組み合わせ)で読むというのは、皆さんが思っている以上に非常に神秘的で、暗号的なのです。

いわば、鍵と暗証番号がつながって、ある秘密が開示されるというシステムに近いです。特にマルセイユタロットはその傾向が強いと私は考えています。

そこで、「運命の輪」もその他のカードとつながると、あることがわかってきたりするのですが、その中でも「吊るし」のカードと組み合わせると、とても面白いことが見えてきます。

と、ここまでヒントを申し上げて、話題をあえて少し転換させます。とは言え、先程の話と関連することです。

人はうまく行っている時はいいのですが、なにかまずい状況や動揺するようなことが起こった時、それまでの流れや回転が急に止まったかのように感じ、そこからますます悪い回転に入ってしまうことがあります。

ただピンチはチャンスと言われるように、このような時にこそ、日頃学んでいること、身につけていることを試す機会なのです。

たとえば心理的なことを学習している人は、どのようにピンチの時の心理を平穏な状態や、いい方向に持って行くことができるのかが自らで実験できます。

またビジネスの問題解決を学んでいる人は、ビジネス的にピンチに陥った時、どのように立て直すのかが試せます。

そしてスピリチュアルなことを探究している人には、危機がどんな意味なのか、どう自分に統合して学びや気づきを得たり、昇華させたりできるのかと言ったことを経験可能にさせます。

それだけではなく、自分の学んだり得たりした技術が、実際に使えるのか効果があるのかどうかを判定することもできます

自らのピンチであればこそ、リアルでシビアに評定できるのです。

そこで残ったり、使えたり、修正・回復できたりするものは、「あなたにとって」本物だと言えます。

起こったことの現象にただ振り回され、右往左往する人が一番まずいです。それをマルセイユタロットの「運命の輪」では、輪の中にいる動物二匹で象徴しているのです。


「手放す」と入ってくる理由の一考察。

精神世界では、「手放す」と「入ってくる」と言われています。

極端にいえば「捨てたのに戻ってくる」みたいな形で、まるで不可思議、禅問答みたいなことです。

従って、普通の目に見えている物理的な法則と常識で考えていては、なかなかこのことを理解することができません。

しかしながら意味はわからずとも、「こだわりをなくした時に、思っていたものが手に入った」という経験は、比較的多くの人が体験しているのではないでしょうか。

これについて、私が(タロットを見ていて)考えたことの一部を披露したいと思います。

「手放すと、逆に手に入る」ということは、最初の段階を見れば、「手放せない」状態であると言えます。

これは、いわば、あるものに「こだわり」や「執着」があるとも換言できます。

そして、それらを手放した時、反対にこだわっていたものが入手できるのです。

逆に言えば、「こだわり」や「執着」があると、それ自体を得ることが難しくなるということですが、ではなぜ、こだわると入りにくくなるのでしょうか?

先程言いましたように、こだわりは何かを手放していない状態なので、言い換えれば「何かをつかんでいる」状態だということです。

ここで執着している対象物ではなく、その行為に焦点を当ててみます。すると行為的には「つかんでいる」ということになりますね。

簡単にいえば、「つかんで離さない」状態です。

さて、ここでちょっと考えてみてください。

あなたはその「つかんで離さないもの」を本当に実現させていたり、存在させていると認識しているでしょうか?

たとえばお金がほしいと思っている人の場合、実際にお金をつかんで離さない行動を取っているでしょうか? 「ほしい」のですから、「ない」とその人は思っているはずです。ということは、お金の存在を認めてないと極論することができます。

お金が少ないから「つかんで離さない」ように見えても、「ほしい」と思っているのなら、「足りない」「ない」と本当は認識していて、それは言ってみれば空白や空っぽをつかんでいることにもなります。

たとえお金をたくさん持っていても、「失いたくない」と思って「つかんで離さない」のなら、それが自分にあるとは本当は思っていないのかもしれません。(失うおそれがある→流失してしまうものと思っている→なくなって存在しないと認識している)

同様に愛する人を失いたくないと思ってる場合は、実際には愛する人はいますが、失いたくないと思うと、「失うこと」自体に強い関心がある(おそれというネガティブな関心ですが、関心自体にはポジもネガもありません)ということになります。

つまり、執着は反対に失うことのエネルギーや表現を強く発していることになりますし、しがみついて離さない状態は、すでに存在しているもののエネルギーを囲い込む行為となり、宇宙に循環させない独善的な行為ということになります。

またすでにあるものを幻想としてつかんでいるだけに過ぎず、逆に何もないものをつかんでいる錯覚に陥っているとも言えます。

お菓子を両手に持っているのに、さらに「お菓子をちょうだい」とねだっているようなものです。そのお菓子を食べてしまうか、どこかに置かない限り、新しいお菓子を入手することはできません。

囲い込むとスペースはその分狭くなり、すでに存在している大きなものを認識することがてきず、また流入してくるスペース(空間)も狭くなって(時にはなくなって)、ただ囲いの中でよだれを流しているだけの状態になります。

ということで、こだわりを手放したり、何も思わなくなったりした時点で囲いは解き放たれスペースの確保とエネルギーの循環が再開されます。

実はこだわりが悪いのではありません。意識を合わせること、焦点を持つことは自分の認識可に入る(つまり実現)上でも必要なことです。

しかしそれは最初の段階だけで、あとは必要以上に(執着的に)思い続けないことが肝心です。理由はこれまでに書いてきた通りです。

執着を解くと、願ったエネルギー(焦点化エネルギー・存在の確信の意味でもあります)は解放されて、循環し、形となって自分の認識する世界に具現化します。

結局のところ、執着によって物事がかえって悪くなったり、実現しにくくなったりするのは、自分自身が望んだことを自分自身がつかんで離さないからなのです。それは宇宙が「自分」だからです。

マルセイユタロットでは「月」や「力」、「吊るし」や「世界」などでこれらのことは表現されています。

つかんで(圧力をかけながら)ばっと離す、一言でいえばこれが引き寄せのコツなのだと感じています。

と言いながら、私自身は、よく言われる「引き寄せの法則」は、理由あって使いません。(笑) その理由とは、「ゲーム」ということがキーワードとなるのですが、あとは秘密です。(^_^;)


「隠者」のランプ 内なる光明

マルセイユタロットに、「隠者」というカードがあります。(ほかの一般的なタロットにもたいていあります)

彼は老賢人の姿で描かれており、見えにくいですが、右手にはランタン・ランプを持っています。

ところで、今、クリスマスシーズンということで、町中はイルミネーションがさかんです。

節電が叫ばれる昨今ではありますが、それを忘れたかのように、年々イルミネートする場所や機会が増えている気がします。

その良し悪しについては各人の考え方なので、ここでは取り上げません。でも見ていてきれいですし、ロマンチックな気分になるのはありますね。

余談ですが、ロマンチックというと女性の気分のように思われがちですが、実は私が思うに、男性のほうがロマンチックなことにあこがれる傾向があり、それを現実的に表現しようとします。

女性と男性は心と体が反転構造できているので、表面的にロマンは女性を象徴しますが、逆もまた真なりなのです。このことはまたいつか機会を改めて書かせてもらいましょう。

ともあれ、女性であれ男性であれ、光にある程度魅了されるのは人として当然のこともあります。

原始的なことから考えれば、光はであり、太陽であり、でもあるので、それがあることは自分を守り、食べ物を加工したり、恩恵をもたらせてくれたりする意味でも重要なものだったので、人の記憶に刻み込まれているのかもしれません。

それはよいのですが、外側の光・イルミネーションはあくまで外のものに過ぎません。

本当は内なる光、自分の中に光明があることに気がつく必要があります。

外側の刺激よりも内側の穏やかさ・智慧に気付くと言ってもよいでしょう。それは豊かさにも通じることです。

昔、タロットリーディングで、こんなことがありました。

その人(クライアント)は、「相手(恋人)ともっとよい関係になるためにどうすればよいか?」というテーマで質問をされました。

聞けば、記念日デートの演出(過ごし方・場所)で悩んでいるということでした。

カードを展開してみますと、その中で、鍵となる重要な位置に、「隠者」が登場したのです。

私は全部の展開とポイントである「隠者」を見ていて、彼(隠者)からの声を聴きました。

内なる光を見よ」と。

これだけでは抽象的な答えですが、クライアントとさらに話すうちに、クライアントの具体的な答えが出てきました。

クライアントは恋人の時間をロマンチックに過ごしたいため、雑誌や人から聞いた情報で、夜景の美しい場所などに行くことを考えていたのてすが、そこは遠い場所で、いろいろと実際的に行くのには問題があるようでした。

そこで「隠者」が出たことで、私はクライアントに訪ねました。

「あなたや相手は、確かにきれいな夜景を見て語り合うとロマンチックでよいのかもしれませんが、本当にそうでしょうか? もしかすると心の奥ではもっと違う過ごし方をお互いに望んでいるのではないですか?」

というように語っていくと、普段なかなか時間の取れない二人にとっては、静かに穏やかな場所で、ともにふれあい、語り合う時間がほしかったことがわかってきました。

つまり、二人には内なる自分たちの光(愛)を見るほうが、「幸せ」と感じられる「とき」だったのです。外のものはあくまで演出道具にしか過ぎず、本質は二人でいること、愛と真実を確かめ合うことでした。

そうすると、夜景は別の機会に、改めて行ってもよいということもわかってきました。

外側のムードやシチュエーションも大切ですが、それぞれの内なるもの、本当の思いや、やすらぎを見る(探求する)ことのほうがもっと重要です。

そこ(内)には、外のイルミネーションより明るく美しく輝く光があることを確認できるでしょう。それこそが叡智であり、でもあります。

このことを気づき、お互いにそれを発見した時、自分も相手もそれぞれにとって「光明」となり、愛のオーラで包まれることになるのです。さらには相手は結局自分のことだったと知る時が訪れます。

それゆえ、「隠者」は光(ランプ)を持ち、一人でいながらも、深い体験をしているのです。


ハンディのある世界による発展性

能力開発法のひとつに、あえてハンディを背負うというものがあります。

たとえば、利き手を使わず、食事や作業を行うといったことや、目隠しをして歩いてみるとかです。

アニメとかスポ根物語等でよくある、「負荷を極端にかけて練習する」みたいなこともそうですね。

これには、ふたつの能力の発展が予想できます。

ひとつはハンディを背負うことで、普段使いの能力がさらに鍛え上げられること、そしてもうひとつはハンディにより、別の能力が開花することです。

前者は、たとえば鎧を着て日常生活(笑)したあと、それを脱いで見たらすばやい動きができるようになったとか、重たいものを持ち上げられるようになったとかいうものです。

後者は、例にすると、視力にハンディがある場合、聴力やほかの感覚によって代替され、ある部分が通常を超えた能力になるというようなものです。

いずれにしても、ハンデイや負荷が、これまでを超えた状態に移行させるという点では同じです。

これは肉体的・物理的な面でなく、精神的なことにも当てはまる場合があります。

いわゆる人生で起こる様々な悩み事・問題というものが、これに当たるかもしれません。

思うようにいかないこと」それ自体が、人生のフィールドにおける成長装置ということです。

逆に考えれば、人生はそのようにできており、私たちを成長させるために障害やハンディ(と思えるもの、問題)が存在していくのだと見ることができます。

それでは、「すべてがうまくいく」と望んではダメなのかといえば、それもまた違うと言えます。

ハンディはあくまで道具やツールであり、目的は私たちが成長することです。

この目的というのが結局、「すべてうまく行く」「幸せ」「完全」と表現されるものだと思えます。であるならば、それを望むことは悪いわけではないのです。

これは段階やステップ・過程の話であり、そしてここがもっとも重要なことですが、その過程をいかに楽しむかということが試されていると言えます。

実はもともと私たちは「幸せ」であり、「完全」であり、「すべてうまくいく」存在であるとスピリチュアルな世界では言います。(私の考えるマルセイユタロットの世界観も同様です)

そう、すでに目的は最初から達しているのですが、あえてそれを忘却し、ハンディをつけことで、どこまで回復できるかをゲームしているのだと表すことができます。

従って、次第に段階別に問題(ハンディ)を克服し、クリアーにしていく順番にもなりますし、ゲームと同じく、それ自体が楽しいこと(遊び)になります。

ところでゲームに熱中する子供に対して親が注意をしますが、この理由のひとつには、ゲームは現実世界ではないと親が理解していることにあります。

つまりいくらゲームで高得点し、難しいものをクリアーしても、学校の試験という現実での高得点・クリアーを獲得しなれば意味がない、価値がないと親は思っているからです。

もしゲームの世界も現実の世界とがリンクしていれば、ゲームに熱中することは健康問題などでは注意するかもですが、ゲームをすること自体を咎めることはまずないでしょう。

何が言いたいのかと言えば、ゲームが最初からゲームだと知っていて、しかもそれが自分の思う現実・リアリティとは何の関係もなく、無価値だと思ってしまうと、ゲームを楽しむとごろか、興味さえ失ってしまうということです。

これと同じように、私たちが最初から完全であり、人生(のフィールド)がゲームだと思って参加してしまえば、これほどつまらないものはありません。ドキドキもワクワクもないでしょう。

それゆえ、おそらく私たちはほとんど忘れてこの世界のゲームに参加していると考えられます。

まれにそれを少し知る人などいたり、ゲームルールを管理したり、説明したりするような門番の存在もいるのが面白いところです。

私たちは、自分の人生を価値あるものにしたいと思い、生きた証を求めて、人生のイベントの意味を自他ともに求めようとしますが、これまで述べてきたように、究極的には起こるイベントには意味がなく、いいも悪いもないと想定されます。

それらはすべて、私たちの完全を思い出すゲームにおける演出道具だということです。

だからと言って、生きること、起こった出来事、経験したことに意味がないと言っているのではありません。むしろ大いに意味があるのです。矛盾しているようですが、深く考えていくとわかってきます。

このような、右のようでいて左でもあり、上のようでいて下でもあるというような矛盾(を統合する)考察こそがマルセイユタロットの世界でもあり、私たちの宇宙を知る手がかりでもあると私は考えています。


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