カードからの気づき
天使のカードと愛
以前、アメブロの時にも、何度か取り上げたことがありますが、マルセイユタロット・大アルカナのうち、天使が明確に描かれているカードは4枚あります。
一番天使らしい「節制」、大天使を彷彿させる「審判」、四つの生き物のうちのひとつとして天使が描かれている「世界」、そして上空に矢をつがえた天使のいる「恋人」です。
もっとも、「恋人」の天使はクピドー(キューピッド)、あるいはエロースの神とも目されますし、「世界」の天使も人間として見られる場合もあるので、厳密にはそれらのカードにいる存在は天使ではないかもしれませんが、見た目上の、天使的カードということにしておきます。
マルセイユタロットにおける天使の象徴性は、四大元素では「水」、大きなことで言えば、ズバリ「愛」でしょう。
愛の定義は、この際、置いておくにしましても、20の「審判」、21の「世界」と、大アルカナの最終ナンバーに向かって二枚、天使が続くところからしても、「愛」が、過程と目的で大きな意味を持つことが示唆されます。
結局、「愛なんだよ」(苦笑)ということなのですが、それは自分を救い、他人を救う原義とも言えます。
この「自分を救い(救う)」という部分が、愛の目覚めで、とても重要だと考えます。
それは、月並みな言葉ではあるのですが、「自分を愛する」ということで、しかしそれは他者への愛、他者の救いの意識も同時に起こしていかなければならないのだと思われます。
しかし、「自分を愛せ」と言われても、なかなかできないですし、わからない人が多いのも事実です。ましてや、苛酷に他人と比べられてしまうこの現実社会において、自分の無力さ・弱さを思い知らされる人は、かなり多いのではないでしょうか。
そんな状態で、自分を愛せと言われても、難しいものです。自分を卑下したり、貶めたりすることに慣れてしまって、むしろそうしたほうが心地よい、責任からも逃れられる…というような心境になってしまっている方もいらっしゃるかもしれません。
それを一概に責めることはできません。それほど、理不尽な世の中とも言えます。
ですから、自分を愛せないものは、他人も愛せないとよく言われますが、そうとも限らないと思います。
他人への愛があることで、自分を愛することに気づく場合もあるでしょう。自分だけではどうにもできない時は、他者の力を借りることです。
それは、他人からの援助を実際にしてもらうという意味もないわけではありませんが、ここでは、他の存在と他者への愛を意識することという、心理的なものが主です。
「自分は一人ではない」という、当たり前のことを思い出し、自分一人で紋々としていて、始まりも終わりもできない時、他者という存在を意識して、心理的なフィールドを拡大するわけです。
すると悪い人ばかりではないことにも気づけるでしょうし、家族や友達、知人の大切さに、改めて思い至ることもあるでしょう。言葉で言えば「ありがとう」の気持ちです。
一人ではすべてできるわけでもないこと、また逆に、自分でやらねばならないことを他人任せにしたり、他者からの救済を望み過ぎていたりしていたことに(自分でやれることがあると)気づく場合もあるでしょう。
自分を愛せなくても、他人、あるいは動物やモノ、作品、とにかく自分以外のものに向けて、愛情を注げることができた時、それは円や輪となって全体を見た場合、自分への愛に最終的にはなっている構造に見えてきます。
それでも、それを無理にせよ、というのでもないのです。
そんな中で、せめて、「私(俺)、よく生きているよな」「まあ、頑張っているな」みたいな、慰めみたいなものあっても、自分に対して別の自分が声掛けしてもいいのではないかと思います。
そういうものも、小さいけれど、自分への愛のひとつでしょう。そこから転じて、わずかばかりの愛を他者、あるいは、自分とは別のものに向けても愛の波動が生じることになります。
アニメ「輪るピングドラム」でも表現されていた「りんご」の受け渡し。まさに愛の循環の波動が、運命や世界そのものを変えることになるわけです。
つまるところ、自分と他人は同じであるということが広義の「愛」につながっていくのでしょう。
最終的には、宗教風に表現すれば、「神の愛」に気づく、「神の愛」が自分の内にあることに目覚めるということになり、それが宇宙の意識や真理ともまたつながることになっていると推測されます。
ところで、カモワンタロットでは有名なタロットマンダラという、いわゆる「愚者の旅」として、大アルカナの数による成長を見て行く手法と図がありますが、先述した4枚の天使のカードは、タロットマンダラの図では、「13」のカードの周囲に位置することになります。
これは死と再生的な意味にも見えきますし、愛の目覚めには、厳しいことや、一度(ならず何度も)古い自分の死を迎えねばならないということのようにも感じます。
そして、地獄に仏というように(笑)、どんな苦境や試練にも、天使的な愛の意味が含まれており(救いとセットになっている)、反転すれば、ほかならぬ(自他の)救済の種になっていることに気づくのだと思います。
カバラーと小アルカナ
78枚の、いわば、伝統的構成のタロットは、大アルカナ、小アルカナというパートに分かれています。
伝統的タロットの典型版ともいえるマルセイユタロットは、当然、そのふたつの構成になっています。
マルセイユタロットの小アルカナは、一般的にわかりづらいとか、読みにくいとか言われます。
それは、特に数カード(数札)の絵柄が記号的で、具体的な絵ではないことが大きな理由でしょう。
一方、同じ小アルカナでも、宮廷(コート)カードは、大アルカナと同じ絵柄の質であり、ずばり人物画と言えますから、これは見た目通りでわかりやすいと言えます。
ということで、マルセイユタロットにおける小アルカナの難解さの問題は数カードにあるわけですが、日本の今のマルセイユタロットを扱う人たちは、奇しくも「カモワンタロット」をやっている人が多いので(これは旧タロット大学の活動の影響が大きいと思います)、製作者の一人、フィリップ・カモワン氏の教義・技術の特質上、あまり小アルカナは使わないことがあり、そのため、マルセイユタロット使いの者は、余計に、数カードが使われない傾向があるようです。
もちろん、ほかのマルセイユ版をやっている方もいらっしゃいますし、同じカモワンタロットを使っても、ホドロフスキー流(カモワンタロットの共同製作者、アレハンドロ・ホドロフスキー氏)の場合は、小アルカナの活用を示唆されていますから、数カードをよく使っている方もあるでしょう。
私は旧タロット大学出身ですから、カモワン流ベースから入ったことで、やはり、当初は小アルカナ、そして数カードはあまり使いませんでした。
しかし、カモワン流の範疇からはずれ、フリーでマルセイユタロットを実践、講義していくようになりますと、タロットは78枚で構成されているわけですから、小アルカナの活用なしくてタロットとは言えないと思い至り、自分自身で小アルカナについて探求するようになりました。
その結果、やはり、小アルカナ(当然数カードの件も)は、とても重要で、リーディングや目標達成などに、非常に活用度が高いことがわかりました。大アルカナと併用することはもちろん、単独で使うことにも意味があります。
小アルカナをさらに見て行くと、これまでの大アルカナで象徴されていた次元やレベルが、小アルカナでも可能であることもわかってきました。それは文化的背景にも関係します。
ところで、タロットはカバラー(ユダヤ神秘主義思想)と関係があるとかないとか、いろいろ説がありますが、ウェイト(ライダー)版系では、普通に関係させているように思います。
ただ、本当の意味でのカバラー、イスラエル・ヘブライ民族に伝わる古来のカバラーと関係しているかと言われると、それは難しいところではないでしょうか。
そうした本来のカバラーではないにしても、キリスト教圏、ヨーロッパに流れて他民族にわかりやすく改変され、普遍化・簡略化したようなカバラーの教えが、私たちもふれることが可能になりました。
その教義やシステムから、カバラーには「4」の体系が見て取れます。特に「生命の木」などには顕著です。(「10」の体系とも言えますが)
「4」(そして「10」)の体系となりますと、タロットでは小アルカナが当てはまります。(大アルカナでもそうした考えができないわけではありませんが、22枚の大アルカナでは、やはり少し無理があります。もっとも、「生命の木」のパス(小径)は22本あるので、大アルカナとリンクさせる考えもあるにはあります)
としますと、カバラーとタロットは、特に小アルカナを通して関係を見ることができるかもしれません。
カバラー発祥のイスラエルの土地は、ヨーロッパとは別です。宗教的にもユダヤ教で、古くから、また現代においても、その周辺国はほとんどイスラム教です。キリスト教圏のヨーロッパとは違うわけです。
それらの宗教では偶像崇拝は禁止されていますので(キリスト教もそのようですが、多くはイエスや聖人たちの図像に祈りますよね)、神を具体的な絵では表せなかったと思います。
このように考えますと、マルセイユタロットの小アルカナ・数カードは、偶像崇拝を排して、崇高な神(の世界、宇宙)を表現したものと見ることもできます。
タロットの小アルカナは、いわゆる4組として、剣・杯・杖・玉、一般的には、ソード・カップ・ワンド・コインと呼称され、それは、四大元素として、それぞれ、「風・水・火・地(土)」を示すと言われます。
しかし、カバラー的に考えますと、四大元素だけではなく、四つの次元や階層(天上・地上、宇宙の)として見ることも可能です。
こうすると、現代の私たちと言いますか、おそらく人類の今までの歴史の中において、この4つの順序や階層が乱れ、破壊され、さらには、鏡像のように逆さまに映し出されたものを現実として見ていることに気がつきます。
グノーシス的に言えば、悪魔の牢獄の中で、本物が隠され、嘘の世界で奴隷として存在させられているようなものです。
その救済には、大アルカナとのリンクも必要で、タロット全体の構成を見て、ひとつひとつ、再構築していく必要があります。
大アルカナの数の順序が、マルセイユタロットとは変わってしまっているものでは、システム的に整合性が出ない(あくまでマルセイユタロットにおける霊的体系のうえでの話)ので、やはり、マルセイユタロットそのもので、大も小も見て、自分の中の再構築が求められます。(他のタロットと混同されると、余計混乱してしまうという意味)
ウェイト版とはまた違った方法で、カバラーの生命の木とリンクさせ、私たちが、地上の人間から天上の神に戻る意識を回復させる試みができるのではないかと思っています。
その鍵は、意外に小アルカナにあるのです。
タロットマンダラ
前回、カモワンタロットで言われている大アルカナの絵図、いわゆる「タロットマンダラ」について取り上げることを予告しました。
とは言え、タロットマンダラについては、カモワンタロット的に秘伝的な内容を多く含みますし、私自身は、今はカモワンタロットの認定講師の立場にありませんので、詳しく話すことはできません。
ですので、ヒントのように、におわすような形で、ここではふれさせていただきます。
タロットマンダラとは、カモワン流における、大アルカナ22枚を数の順に並べた全体絵図のことです。
マルセイユタロットの大アルカナを、数の順に並べて、ある図にする手法は、このタロットマンダラに限らず、昔から伝承されていることだったと考えられます。
逆に言えば、大アルカナの数が、何かの順を示していることは明らかであるということです。
しかも、タロットマンダラでもそうですが、大アルカナのセットとなる基本数が「7」であり、つまりは七枚ずつのセットに分かれ、都合、三つのグループとなり、全部で21枚と「愚者」という構成になるわけです。
大アルカナの数が何らかの順番、段階を表していることは推測されますが、それが何なのか?というのは、実は、絵を見ているだけでも、何となく推し量ることも可能なのです。それくらい、マルセイユタロットの大アルカナの絵は、普遍的で元型的な描かれ方をしています。
タロットマンダラが、ほかの大アルカナの数の順を追った絵図と少々違うのは、「愚者」の位置かもしれません。
カモワン流のタロットマンダラの場合、「愚者」は最初の出発点のような位置に置かれます。出発点というより、ほかの大アルカナを旅する(「愚者」の人物は旅人の姿を象徴しています)当事者として見たほうがわかりやすいでしょう。
このように、タロットマンダラは、「愚者」を主体として、ほかの21枚を旅するような図になっています。3×7(7枚ごとに3グループ)+1(愚者)という構成です。
このような構成を見渡しますと、横の3段グループ(七枚ごとにセットになるグループ)のほか、縦では、7つの列(三枚ごとのセットが七つ)にまとまっているのもわかります。
この、横である3段のグループと、縦の7列のグループには、それぞれ意味があります。わかりやすいのは横の段のほうですが、縦にも、もちろん意味があります。
この縦列の解読は難しいところもありますが、わかってくると、とても興味深く、いろいろな気づきや知識が入って来るようになります。
例えば、真ん中の列ともいえる、「月」「力」「皇帝」の縦の並び。(それぞれ「18」「11」「4」と7つごとの数の増減グループになります)
一見すると、まるで関連性のない三枚に見えますが、「月」から「皇帝」、「皇帝」から「月」、間に「力」のカードをはさんで考察していくと、想念世界と物質世界の関係性がヴィジョアライズされてきます。(ほかの意味合いも考察可能です)
三つ目の列、「星」「運命の輪」「女帝」をこの順で見ますと、まるで、「星」から流されるエネルギーが「運命の輪」を通って(回して)、「女帝」に流れ落ちて来るかのように見えます。
もしここで、「運命の輪」の回転が変われば、「女帝」はどうなるでしょうか?・・・などと想像すると、面白い発見ができるかもしれません。
このように、7つごとにまとまったタロットマンダラの縦も横も、とても示唆があるものです。
ほかにも斜めや隣同士など、様々に考察が可能なのがタロットマンダラの絵図です。
ある意味、タロット界の至宝図と表現でき、まさに仏教界の曼陀羅図同様、私たちに大いなる智慧と気づきの示唆を与えてくれるものと言えましょう。
このタロットマンダラを知るだけでも、マルセイユタロットの価値があると思います。
「じしん」と神の家
日本語は面白いもので、「自身」と「自信」は同じ音になりますよね。
さらには、「地震」もそうですね。なんだか、自分に揺らぐ感じがあるのは、自らが信じられない、すなわち自信がないという、うまい具合に言葉のだじゃれ感も出てきます。
ほかにも「磁針」とか「時針」など変換で出てきますが、これなども、中心に磁力のような何かひきつけるもの、安定するものがないと自信につながらない気もしますし、時の針の示され方で、いちいち(その時々で)フラフラしていては、これまた自分の安定感がなくなる感じもしますので、一層、言葉遊び感が増します。(笑)
「じしん」という言葉で遊んでみましたが、「じしん」と言いますと、マルセイユタロットのイメージとして、「神の家」が浮かんできます。
マルセイユタロットの「神の家」は、実は解釈が難しいカードのひとつと言えます。
一見、絵柄的には建物が崩れているかのようで、どこも崩れておらず、それどころか頑強な塔がきちんと建っているイメージが、よく見るとうかがえます。
私たち、マルセイユタロットを使う者は、このカードを崩壊とは取らず、むしろその逆で、完成に近い構築、積み上げという意味をメインで取ります。
「神の家」というからには、神と関係するのですが、人が建物を建てて、そこに神様に住んでもらうというような概念ではなく、自らが神となり、そして家(この家も普通言われる意味での家ではありませんが)となるという、自分の神性なるものへの変容、簡単にいえば神化(これも言葉遊びですが、進化がすなわち神化するようなもの)の状態を示していると考えられます。
もっと現実的でシンプルに言えば、さきほどから述べている「自信」の確信という意味にとってみてもよいと思います。
ただ、一口に「自信」と言っても、実は「自信」にも種類と性質があり、この神の家で構築する自信は、単なる一般的に言われる(獲得する)自信とは性質が異なるでしょう。
人が何かを得たり、他人と比べたりして持つ自信とは違い、もともとある自信というもので、それは自らの中に神性(完全性)、あるいは大いなる平和、天国があるという観念のようなものだと私は考えています。
それは誰しもが最初から持っているものなのですが、現実世界に生き、肉体と精神が癒着しつつ、一方では分離した状態にある時、本質の神性的なものは忘却され、体や心、周囲の環境、状況による反応によって、恐れ、不安、苦しみ、あるい反対の喜び、幸福感、高揚感のようなものも人は自分に巡らせることになります。
マルセイユタロットにある「運命の輪」の輪にいるに二匹の動物状態とも言えます。
しかし、そういうものとは別の、何ものにも動じず、汚れず、染まらず、輝きを放ち続けている天上的ともいえる「魂」が人にはあり、それが神性を持っているといってもよいでしょう。
ライトスピリチュアル的には、それとつながる平穏状態と表現できるかもしれませんが、結局、そのようなコアなものに自分の中心がシフトする時、まさに自分が神となって、当然のような自信が出るということだと思います。
「自身」が「自神」となって、本当の「自信」を思い出すといようなニュアンスです。ここでも言葉遊びが有効ですね。
そして、もともとは「神」のような魂を持つ我々人ではあっても、現実世界で生きていくことにより、忘却の幻想世界に閉じ込められ、(あるいはゲームし)、現実での様々な体験・経験・気づきを積み重ねていくことで、まるで、ひとつひとつ石やレンガを積み上げていくかのようにして、自身の神を見出していく(思い出していく)ことになるのです。
学びながら思い出していくようなイメージでしょうか。
または、マルセイユタロットの「手品師」のように、タネ(仕掛け)ある手品であっても、それを味わい、楽しみ、苦しむ世界を経験しながら、本質(偽物から脱却する世界)に目覚めていくという二重ゲームのようなものとも言い換えられます。
その経験、すなわち石積みの過程が、「神の家」の建物(塔)に描かれています。
そうなると、結果というより、積み上げていく作業そのものが重要であり、プロセスと結果の両方が神性開花には必要であることがわかります。
現実の実際世界では、完璧になることなど、誰しもあり得ません。必ず、何か悩みや苦しみもありますし、何らかの喜びや楽しさもあるでしょう。
人生が思い通りに、うまく行っている人もいるかもしれませんが、大半の人はそうでもないはずです。
宇宙人的な比喩で言いますと、この地球に慣れ、うまく暮らしていくことは案外難しい(簡単な人もいるでしょうが)もので、どこかの星ではまあまあバランスが取れていた人でも、この地球・地上世界では、アンバランスになってしまうことも多々あります。
(住む世界のルールが違えば、あるところでは完璧でも、別の場所ではマイナスになる場合もあります)
よって、うまく行かないことで、自分を責めなくてもよいかもしれないのです。あなたの能力やバランス性が、この地球の地上性、現実世界では、歪となってしまうこともあるからです。
ですが、この星(地上)に来ている人は、神性を帯びていると、グノーシス思想では言います。
難しくても、「神の家」の構築、その本質を思い出すようにしていくと、安寧は少しずつやってくるように思いますし、ここ(地上、地球)に来た何らかの意味や(意味付けでもあります)、思いを持つこともできるでしょう。
ワンダーランドでありつつ、牢獄でもあるこの星の世界を、いかにあなたらしく生きるか、過ごすか、「神の家」に限らず、ほかのマルセイユタロットのカードたちが示しているように思います。
あなたはどのカードになることもできますし、どのカードの生き方を選ぶこともできるのです。
時間 量と質
マルセイユタロットの「運命の輪」のカード。
このカードは、「時間」を象徴するカードとも言われます。
ところで、時間にも種類があることはご存じでしょうか?
その分け方にはいろいろとあると考えられます。例えば、占星術的に見ると、それぞれの惑星を主体とする時間があると言えます。木星の時間とか水星の時間とかという感じです。
そもそも時間は惑星の回転によるところがありますから、そのような観点もありかと思います。
そして私たちは当然ながら地球時間に生きており、基本は地球が自転する時間と、太陽を公転する時間の周期、つまりは一日と一年と言えます。また月を考慮すると、厳密には今の月単位とは異なりますが、月の時間も示されます。
もし自分が他の惑星の住人だとした場合、やはり、その惑星主体の時間に支配されることになり、見方や考え方も地球とは違ったものになることが予想されます。
地球にいること自体が、私たちの生活の特質を決定づけていると言えるかもしれません。
その地球に住む私たちでも、ほかの時間の分け方を考慮すると、不思議な感覚にとらわれます。
それは、先ほど述べた自転や公転周期による時間単位とは異なる、個人の精神に流れる時間があるということです。
ギリシア神話風に言いますと、時計で計れる万人共通のクロノス時間と、人によって異なるチャンスやタイミングのようなカイロス時間です。
「運命の輪」はどちらも象徴していると考えられますが、やはり、このカイロス時間の象徴性を見るほうが、よりこのカードの本質を表しているのではないかと個人的には思います。
今、世界はコロナ禍にあります。
昨年から始まった新型コロナウィルスによる生活全般の変貌は、どの人においても、これまでよりも変化、というより、辛抱や不自由を感じさせる状況となっています。
次々と現れる変異株とワクチン接種との競争みたいにもなっていますが、重症化することが少ないと言われる若者層が、自由にふるまい過ぎて感染を拡大していると批判されています。
もちろん、社会全体での公共性を見た場合、年齢に限らず、感染対策をしっかりとっていくことは、パンデミック対応としては必要かと思います。
しかし、若者層を一方的に責めるのはどうかと思います。ここで、なぜ時間の話をしたのかと言いますと、それは先述した一人一人の違うカイロス時間的観点からすると、時(とき)は全員に同じではないということを考えてほしいからです。
別に中高年を批判したり、差別したりする意味はありませんが(私も中高年の年齢です(苦笑))、若者たちの一年と中高年の方の一年とでは、質的にかなり異なることを考えたいところです。
青春時代の中学・高校生とか、自由を謳歌できる大学生の年代の人たちの一年が、コロナ禍によって、ほとんど何もできず、我慢を強いられた場合、その損失は中高年の方たちが思うよりも、もっと計り知れないものがあると想像します。
時計時間のクロノス時間で計っていては、その損失感覚はわからないでしょう。
ですから、もはや2年になろうかというコロナ禍での失われた若者たちの時間というものは、精神時間的には一般層の10年くらいの濃さが失われているのかもしれないのです。
そう思うと、彼らのふるまいも、わからないではないところがあります。
若者に限らず、カイロス的な精神時間は、伸び縮みするのですから、それは気持ちにより変化すると言えます。
誰でも苦しい時、先行きが見えない時、絶望した時というのは、時間が長くなったり、(悪い意味で)止まったりしたかのような感覚になります。
反対に、楽しい時、何かに熱中・集中している時は、よい意味で時間がなくなるか、かなり速く進む感覚になります。
コロナ禍で、特に日本において、未来に希望がない、対策も行き当たりばったり、(自然の状態ではなく、人の為すこととして)出口の見えない閉塞感・・・このような状況では、精神的な時間が苦しく、長くつらいものになっているのは当然と言えます。
もし、何かの明るい展望や、きちんとした政策・対策による期限を決めた未来展望を踏まえた制約などがあれば、それは先が見えているので、時間的にもよい意味で制限がかけられ、精神的に短いものとなるでしょう。
つらいマラソンでも、ゴールが見えてくればスパートもかけられ、勢いが出るというものです。逆に目標もゴール何もない状態で、ただダラダラと進めと言われても、同じ時間の経過でも、長時間の拷問のように感じてしまうことでしょう。
これは、コロナ禍の問題だけに限りません。私たちは、(精神の)時間感覚が変えられるように、ある種の設定を行っていくことにより、牢獄のような時を過ごすことを、避けられやすくすることも可能です。
例えば、一年のうちに楽しみの機会を具体的に細かく計画・設定しておくことで、そこまでを目標として、つらいことに当たることもできるかもしれません。
スピリチュアル的には、人は皆同じだという考えがありますが、一方で、多様性といわれるように、この世界では、一人一人、個性を持ち、個人的世界が異なるのだという認識も必要です。
それは、時間ひとつ取っても言えることです。
質と量、この両方でバランスを図っていかないと、私たちはとんだ間違いを犯してしまうことになるかもしれないのです。