カードからの気づき
過去の再現に存在する創造性
心理や精神の世界でよく言われていることに、自己ドラマの再現というものがあります。
これは幼少期などに受けた心理的トラウマや、他人にとっては何気ない体験・言葉ではあっても自分の心にはショックな出来事として記憶されたものが、その回避や解消のために、同じシチュエーションを自分が後の人生で再現するという仕組みです。
よくあるパターンとしては、親との関係を恋人や配偶者、職場の人間関係等で再現させようとするものがあります。
いわばこれは、うまく行かなかった親との関係を、自分にとって今濃密な関係者で再び投影させて、その問題を見つめようとする自浄作用だとも考えられます。
たいていはそのことに自身が気がついていないので、また昔のうまく行かなかった状態をも「再現」させてしまい、当人とってつらい人生の繰り返しのようなことになりがちです。
セラピストなど他人の力を借りて初めて自分のパターンを知る場合も多く、「知る」ことで本当の浄化や解消の道に進むこともできるようになります。「知る」のと「知らない」とでは、根本的に大きな違いがあるのです。
私はタロット講座でグノーシスということを伝えていますが、この言葉も「知る」「認識する」ということから来ており、意味は違うとしても、やはり「知る」ことがいかに大事かがわかります。
話を戻しますが、このように過去の自分のドラマの再現というテーマでは、マイナス(よくないもの)として取り上げられます。
もちろん、「同じパターンを繰り返す」ということは、ある種の自分の枠や縛りともいえるもので、人生においての内なる障害であると言え、それを解消しておく意味で、自己ドラマの再現のテーマを考察するのは有意義なことです。
それでもこれを違った観点で見ますと、プラスの面白いことがわかります。
人が同じパターンを繰り返すということは、言い換えれば「自分の過去を違うシチュエーションで再現できる能力がある」ことになり、すばらしいクリエイティビティが人には存在することになります。
そうしますと、たとえば「大切な機会を失った」とか、「もう二度とチャンスはないだろう・・・」というような悔恨の状況があっても、実は、再びそれを違う形(シチュエーション)で再現することは可能なのだというポジティブな見方をすることができます。
人には、そういった物事を「創造する力」があるのです。
さらに考えていきますと、結局その創造には、自分が潜在意識で強く思い込んでいること(心が感じている印象深いこと)に基づくということが見えてきます。
マイナスのことが再現されるのは、マイナスの記憶が非常に心底では強いということです。
ですから逆に、「またいいことが起こる」「またチャンスは来る」という強い信念と確信があれば、まったく同じ人や状況ではなくても、別のエネルギー表現として、人や場所を変えてそのことは再現されるということです。
あなたも過去を振り返ってみてください。
あなたが強く想っていた人、エネルギーを傾けた出来事で何かまだ思いを残しているような場合は、別の人物や出来事で同じことが起こっている(遭遇している)ことを確認することができるでしょう。
そう、過去の再現は、ある意味、自分が起こすシンクロニシティなのです。
マルセイユタロットでは「運命の輪」とその他のカードで象徴されることでもあります。
外見の重要性
マルセイユタロットの「女帝」というカードを見ていて、感じたことを書きたいと思います。
その前に、以前もお話していますが、私がここに書くタロットの、特に意味などを記すものは、いわゆるそのカードの一般的・普遍的・基礎的な意味とは異なることがほとんどですので注意してください。
ですから、記事を読まれて、そのまま鵜呑みに「このカードの意味はこうなんだ」と思わないことです。
むしろ、ここに書くことは少しうがった見方に近いので、タロットの意味に関しては直球ではなく変化球のような記事内容だと考えていたほうがいいでしょう。
しかし、それだけにマルセイユタロットの基本を学ばれた方には、新たな示唆を提示している面もありますので、参考にしていただけると思います。
それでは記事に戻ります。
「女帝」はその前の数を持つ「斎王」と比較すると、その違いがわかります。
「斎王」がどちらかといえば、女性の精神的な部分を象徴するのに対し、「女帝」は現実部分を表すという考え方もできます。(これは「ある」見方の場合です)
タロットは「象徴」ですから、必ずしも両者ともに女性を示すということではなく、男性にもあてはめることができます。
さて、そうした見方をした「女帝」ですが、そうなりますと、現実部分での女性の表現に注目せよということになります。
最近は男性もあまり変わらなくなくって来ましたが、女性は化粧を施したり、肌や服装に気遣い、いわば外見の美しさを追い求めます。
外や人からの見た目というものの大切さと価値を理解しているわけですね。
よく、「内面が美しければ外面も自然と輝く」という言い方をされますが、それはある意味真実ではあっても、だからと言って、外面をまったく気にかけなくてよいという意味ではないと思います。
精神世界では特に内面や心が重要視されますが、外からの影響というものも考慮に入れる必要が時にはあります。
見た目がよいとどうなるかといえば、誰でも理解できると思いますが、よい印象を人に与えることができます。
たとえば服装も肉体的にもまったく無頓着で何も手入れせず、お風呂にも入らず、ボロボロで疲れ切った風体で人前に現れるのと、すべてに気遣い、活き活きと美しい姿で現れるのとでは、印象は180度違うはずです。
どちらの人が好きか?と聞かれると、ほとんどの人は後者だと答えるでしょう。
「外見ではなく、本質を見てくれればとよい」という人もいるかもしれません。
しかし、ここで私が言うことは、「外見にとらわれずに人を判断せよ」ということではなく、人から見られること自体の影響力を指摘したいのです。
極端なことを言えば、人から悪意をもって見られるのと、好意を持って見られるのとでは、あなたに及ぶ影響がおそろしく違うことになるのです。
つらく厳しい視線と、暖かで穏やかな視線では、どちらがよい気持ちがしますか?ということです。
あなた自身が人目や外からの影響をまったく気にしない、我が道を行くタイプ、タロットでいえば「愚者」的人間だとすれば、さほど問題はないかもしれません。
しかし通常の人間では、「人目は気にしていない」といっても、やはり多少は気になるものです。
この「気になる」「気にする」ことが、たとえわずかでもあれば、そこを入り口として、人の意識の影響があなたに流れ込んできます。
これは目に見えないものなので、あまり重要に思われていませんが、こういった人の意識・思いというものこそ、実は大きな影響力を持つのです。
ネガティブな思いで見られ続けていれば、ひどい時にはあなたの健康や運に支障を生じさせ、よくない状況を現出させることになります。
反対にポジティブな思いで見られている人ならば、人のよいエネルギー受け、ますます自身が輝き、幸運ともいえる人生につながって行きます。
このように、人からの視線、そこから流れて来る思念・情というのは、見られる側には多大の影響を及ぼすことがあるのです。
従って、見た目・外見というものはないがしろにできるものではなく、少なくとも不快感や場違いにならないよう、気遣う必要はあると考えられます。
もちろんそうした意味では、人によい印象を与えるために着飾ったり、言葉を工夫したり、肉体の健康美を追求したりすることもよいことになります。
同時に、やはり外見だけではなく、素直に自分の良さを表現できる内面の浄化と研磨を行えば、二重の意味で、あなたは輝いて行けることになります。
内面が重要なのは、外見をよくしようと思ってもそういう気持ちになれないという場合があり、そこに問題があるからです。
ただしそれほど深刻ではない時は、外見からよくしていけば、周囲のあなたへの見方が変わり、そのポジティブなエネルギーによって内面を変えることが可能な場合もあるのです。
強い信念やオーラがない限り、人目や環境は想像以上に内側にも影響しているものなのです。
占星術の象徴の入り口として。
現在、風邪で体調不良のため、もしかすると、ここ数日で定期的なブログ更新がストップすることがあるかもしれませんが、ご容赦くださいませ。
さて、諸説ありますが、タロットには(西洋)占星術の象徴や知識も織り込まれていると見る向きがあります。
まあ、占星術を主としますと、逆に占星術(的知識)がタロットを作ったという人もいらっしゃるかしれません。
それはともかく、やはり私自身もタロット(マルセイユタロット)には占星術と関連したものがあると思っています。
そのため、占星術についても、学んだり親しんだりすることがあります。
ただ、ここでも何回か書いてきているように、私自身の立場としては、占星術をやはり占い的には使わず、自己探求や自己の向上の「モデル」や「地図」「指針」のように見ています。
そのほうが自分としては面白いですし、そういったことに関心と価値を置いているからです。
とはいえ、入り口としては星の動きの影響を占い的に見たり、ゲーム的に遊び感覚で親しむこともいいと感じています。
そのひとつに「曜日」と惑星の関係を見るというものがあります。
あまり知られていませんが、現在使われている曜日も、星(惑星)の象徴として見ていくことができるのです。それは曜日の成立自体、惑星(の名前)と関係しているためです。
惑星の名前がギリシアやローマでは神の名前になっているように、古代の人は惑星に神のエネルギーや力・働きを見ていました。
そのため、その名を宿すものにも、それと同質のものがあるとされていたのです。曜日はその典型的なものと言えるでしょう。
月曜日には月が支配し、火曜日には火星が支配し・・・みたいなことですので、ある曜日には「その惑星で表されることを行うのがよい」と考えられていたわけです。言い換えれば、その惑星に象徴されるエネルギーのサポートを受けるということです。
これを今の人たちが行うと、少し違和感があると思います。
というのは、多くの人の仕事と休日のリズムによって、土日が休みで月曜から仕事が始まるというパターンに慣れているためです。
しかしながら、それでもその奥底に流れる惑星の象徴性を曜日に見ていくことは、今でも興味深いことです。おそらく今までとは違った観点が見いだせるでしょう。
また自分の生まれた日が何曜日であったかとか、自分にとって変化があったり、特に記念となった日が何曜日になっているのかを調べてみると、自分がどの曜日(惑星)に守護され、どの曜日に変化や問題がありがちなのかもわかってくることがあります。
やはり人によって縁のある曜日、すなわち惑星やエネルギーがあるものです。
もちろんホロスコープを見ればもっと詳細に理論的にわかりますが、こういうゲーム的な見方も楽しくて、惑星(のエネルギー)を象徴として感じるのにはよい入り口です。
慣れてくれば、これら惑星の諸力を、私たちの住むこの世界のあらゆる事象に表現されていることを見て取れるようになってくるでしょう。
これは「惑星」の部分を「タロット」と置き換えれば、同じ意味になります。
違和感を大切に。
違和感というものがあります。
これは漢字をバラバラにしますと、「和」とは「違」う「感」じということで、マイナス的なイメージが出ますが、しかしそのまま解釈しますと、まさに調和である「和」から「違」っている「感」覚ということなので、バランスセンサーみたいなものとも言え、役立つプラス的イメージも出ます。
つまり違和感を覚えるということは、調和からはずれている何らかのサインだということです。
ということで、何事も「違和感」があるのならそのままにせず、少しチェックを働かせてみる必要があると言えます。
しかし、実はこの違和感、「悪魔」による巧妙な別の違和感もあるので注意が必要です。
言ってみれば、違和感の基準になっているものが、エゴによる願望になっていることがあるのです。
換言すれば、快楽や低次の充足感をイメージしていて、それからずれている(願望とは異なる)ため違和感が生じているというものです。
本当の自分を大切にしている「真我」のような心からずれている時の違和感は、ある意味、「正義」の違和感だと言えます。
しかし、低次の心から来るものとのズレによる違和感は、「悪魔」の違和感と言えます。
ここを取り違えると、本質からはずれた選択をしてしまいがちです。
自分の「本当の心」「真実の気持ち」と思っていたものが、実は悪魔によって生み出されていたものであったとなるのです。
ここで言う「悪魔」というのはマルセイユタロットの「悪魔」にも関連しますが、実際の悪魔的な存在というのではなく、象徴的なものです。
ですから、たとえばマスコミが作り出した商業イメージとか、他人からの影響とか、極端な物質または精神主義による成功イメージによるものとかの場合があるのです。
とにかく違和感を覚えたら、そのもとになっている「基準」を思うことです。
何からズレているので違和感となっているのか、その何かとはいったいどんなイメージで、どんな状態であるのか。
これに遡ることです。
そうすると、自分が抱いていた違和感が、偽物の違和感(本来違和感を覚える必要のない違和感)であることに気がつきます。
実は悪魔の違和感の目的はこれ(偽物に気付く、言い換えれば本物に出会う過程)にあると考えられます。
よって、マルセイユタロットで象徴される「悪魔」も、本当の意味では高次の存在となります。
結局のところ、すべての違和感は、自分を成長させるための重要な手がかり・指針であることになります。
ガラガラポン!
昨日の「運命の輪」と再生過程の記事を書いていますと、「運命の輪」が音を立てて、ガラガラポン!と回るのを聞きましたので、また続きのような記事を記したいと思います。
先日は、精神的な学びを始めると、自分の再生の道が新たに進み出すという話をしました。
それが「運命の輪」とも関係しているということにもふれました。さらには、それによって生み出される事態が、カードの「13」にもつながるようなことも指摘したところです。
「13」とは何でしょうか?
「13」も実は大きな再生に関連するカードです。大鎌を持ち、骨と皮だけになった人物が何か作業をしているように見えます。
それだけ「大変」であり、大変は「大きな変化」と書くように、大変化のための過酷な環境と作業(実際的なこともありますが、精神的なことも多い)を象徴していると言えましょう。
しかしながら、それは終わりのないものではなく、むしろ終わらせるための作業です。
何を? 今までの自分を、です。
今までの自分を終わらせるわけですから、そこにはつらさや苦しみもあります。
前の方がある意味、楽で快適だったかもしれませんし、以前の方が変化はないにしても安全だったかもしれません。
しかしながら、自己変革を志す者には、その仮の安住の地から抜け出すと決意した時、あるいは、改革の道に入ってしまった時、「運命の輪」が回り、ガラガラポンと一気に新旧の入れ替わりが始まるのです。
その間の過程がかなり当人とってはつらいことであったり、たくさんの問題が噴出したかのように見えたりします。
しかし、それはすべてひとつのこと(根本的な問題)でつながっているのです。これが浄化されたり、解決されれば、今までどこか不安や恐れを抱いて、欺し欺し生きてきた自分と決別することができます。
そのために、ずっとあなたがしまい込んでいて、見えないようにしていた問題、気付いてはいたけれどそのままにしてきた問題や課題、自分でもわからないくらいの奥底に眠っていた問題や記憶・・・これらが現象として次々と連鎖反応的に起きてきます。
まるでスクリーンによって目の前に映し出されるかのような感覚の時もあります。
場合によっては、まったく以前と同じシチュエーション(設定)で、舞台や登場人物が入れ替わっているだけのこともあります。
実は、それは根本の、ある核のような問題が、あなたの今いる場所、思っている事柄などを材料にして、先述したようにスクリーンのように現実に投影(演出)して、実際のことが起こっているように見えるのです。
そうやって考えますと、「運命の輪」は回転する映写機のようにも見えてきます。
ということは、逆に映画ではなく、振り返って映し出す映写機のほうを見れば、あなたに起きている問題は映画のように様々で数も多いかもしれませんが、根本は映し出す機械とフィルムひとつであると例えることができます。
ガラガラポン!の「ガラガラ」がこの根本を拡大投影して演出された映写機によって起こる映像であるならば、「ポン!」はこの根本問題に行き着いた時に入れ替わる(変化する)、自身の心の(浄化・気化した)音だとも言えます。
簡単に言えば、ガラガラポン(死と再生入れ替え)のために、困難に思える事態が生じているのです。
ですから恐れず、きちんと立ち向かうべきです。また、起きている現象すべてにとらわれてはいけません。
「いったい起こっていることが、究極的には何を意味しているのか?」「何を象徴し、自分の何を変えればいいのか?」「何を残し、何を捨てればいいのか?」ということを考察するのです。
混乱し、自分だけでできない場合は、対人援助のプロや客観視できるツールを使う人の助力を得るのもいいでしょう。
あきらめず、自暴自棄にもならず、自分の解体と再生が始まっているのだと受け止め、できることは淡々としながらも、なるべく根本を追求し変化させる姿勢を持つことです。大元を浄化したり、断ったりすれば、一気に問題は解決に向かいます。
よく「どんな状況も楽しむとよい」などという言葉がありますが、苦しい時、大変な時に楽しめるわけがありません。そのような感情が納得しない言葉や状態は採り入れず、つらい時はつらいと思えばいいのです。
ただ、その痛みやつらさの感情の波と事態に溺れないよう、もうひとつの分析的な自分の視点を持って取り組むことです。その場合は「吊るし」と「力」がカードの象徴的なものとして活用できます。
特に「正義」から「節制」の7枚のカードは、こうした自身の変革の調整とバランスには、大変重要なカードとなってきます。
「節制」のカードが示すように、まさにあなたの救済役ともなるのです。「13」と「節制」が向き合っているのには、こうした理由もあるのです。
あなたのガラガラポン!がすっきりと終わるように、マルセイユタロットの精霊たちとともに祈っています。
※ちなみにガラガラポンは、その言われとともに「手品師」とも関係し、結局やはり「運命の輪」、そして「世界」とも関連することになってきます。こうした他のカードとの関連が、絵柄の象徴とともに論理的に発見できることが、マルセイユタロットの醍醐味でもあります。