カードからの気づき
思いを実現させるには。
私たち人間は努力家の部分と、その逆にとても怠惰な性質のところとを併せ持っているように思います。
そして、通常では無駄な力を使わないようにできているせいか、人は現状維持や何もしない選択をしがちです。
そのままでとりあえずは命が奪われるわけでもなく、生活が何とか普通にできていれば、ことさら何かを変えたり、自分が行動したりして新たにエネルギーを消費することもないと、人の防衛本能のようなものが判断をしていると考えられます。
従って、たいていは以下のような言葉をもって、事態を先お送りにします。
「いつかやってみたいね」「そのうち何かなるでしょう」「退職して、自由になったらやってみます」「お金がもっと貯まればやってみようかな」「今は無理だけど、将来はそうなってほしいね」「いつか、○○になれたらいいな」「私を救ってくれる人が現れるといいな」「ソウルメイトと将来出会えるかも」・・・などなど。
実際、現時点では実現困難なことというのはあります。それでも、きちんとしたビジョンや計画性があれば、確かにそれは「将来に」叶っている、「未来に」実行できる性質のものとなるでしょう。
しかしながら、ただ漠然と思っているだけの場合は、ほとんどそれは実現することはないと言っておきましょう。この時に使われる「将来」や「未来」はポエム的なものであり、実現性は乏しいと言わざるを得ません。
なぜならば、人の思い(の強さ)は行動に結びつき、それが現実での材料を集める(建築・構築・構成)ことにつながり、最終的に思いに起因した結果を生み出す仕組みがあるからです。
よく「思考は現実化する」と言いますが、ある面それは真実のところがあると私は考えています。(ただし、単純に思いがすべてその通りになるという意味とは異なります)
私たちが何かの結果を出す際には、イメージや心、思いから入って行動します。それは日常的で簡単なものには、ほんの一瞬で終わることなので、わからないだけです。
これとは逆に、行動していれば目的が見つかり、結果も出るという考え方もあります。
実はこれも行動の前には何かの小さな目的やイメージがあり、次にひとつひとつの行動による結果の確信(結果が目的とつながっていく確信、結果と目的の関連性の把握)があって、次第に大目的(本当にやりたいことなど)が見えてくるという順になっていると想像できます。
すなわち、大なり小なり、思考が元になって行動とともに結果が生み出されるということなのです。
ということは思考がいかに結果を出すには重要かということです。
これ(思考)も強ければよいというわけではありません。大切なのは望む思考が整理されているかということです。
強い願望(望みの思い・考え)を抱いていたとしても、それが罪悪感やトラウマ、反対に自分の良心や道徳心と葛藤していたならば、それは整理された望みとは言えません。
葛藤した想念の場合、その強さは思わぬ方向(自分の理想とは違う結果)に導かれることもあります。
この思考の整理には、思いを純粋化するということと、望む目的をいったん抽象化し、さらに具体化していくという作業が有効です。
純粋化するということは、相反する望みや心の声を整理し、時には削ぎ落としたり、葛藤を中和させたり統合させたりする作業のことを言います。
抽象化させたのち具体化するというのは、マルセイユタロットがあれば説明しやすいのですが、簡単にいえば大目的と中目的・小目的にように望みの実現段階をわけるということです。
さらにもっとも大切なのは、目的と同じ質が表現されているものを、現状で発見することなのです。
おそらく最後の文章は何を言っているのかわからないと思いますが、この解説は以前、私のメルマガ(タロット受講生・修了者用)で行いました。マルセイユタロットを習っている方に説明すれば、実はわかりやすいものなのです。
いずれにしろ、ただなんとなく、「いつか実現すればいいなあ・・・」と思っているのではなく、本当にそれが望みならば、その行動を今からでもできる範囲でやっておく必要があるということです。
そうしないと、一番最初に言いましたように、人間は現状を保存・維持する自動機能のようなものがありますので、本当に「気がついた時が棺桶の中」ということにもなりかねないのです。(生きている時に気がつく重要さは、マルセイユタロットの「審判」のカードにも描かれています)
繰り返しますが、今すべてが実現できるのではありません。(それは「望み」ですから、今に実現できていない、すぐに実現できないのは当たり前です)
それであきらめたり、漠然と先送りにしたりするのではなく、少なくとも、その種を蒔いていく思いと行動をするということなのです。
「幸せ」をタロットともに考える。
今日は何となくですが、「幸せ」というものをテーマに書いてみたいと思います。
まず意外にわかっているようでわかっていなのが「幸せ」という概念です。
みんなが幸せになってほしいという言葉や主張がありますが、一方で全員が全員、幸せになれる思想というものはあるのかと問われれば難しいものです。
幸せと思うことというのは人によって違いがありますよね。
たとえ等量のものに囲まれていたり(たとえば同じ量のお金を持っていることなど)、同じ状況にいたりいたとしても、ある人にとっては幸せと感じるかもしれませんが、別の人には不幸だと思うこともあるからです。
こうなると、幸せというものは結局、個人の思い方・感じ方にあるということになりそうです。
ということは、どんな時にでも幸せと感じる気持ちを持てるようできればいいことになります。
これには前にも書きましたが、知識や経験を増やして意識を拡大させることによって「こういう楽しさ、見方もあるのか」ということでできますし、反対に自分がこれて不幸せだと感じていたことを思い直すことができたり、浄化・中和したりできれば、過剰な分のマイナス感が消えますので、その分幸せと思うプラス感は増えることになります。
それはさておき、タロットをしてきて思うのは、今より幸せを感じる早道は、案外「正義の問題」と関係しているということです。
これは簡単に言えば、正しいか正しくないかを求めるより、それが自分にとって幸せ(別の表現にすれば心地よいとか楽であるとか)である(になる)かどうかを選択するほうよいのではないかということです。
ただし幸せと感じる方を選択すると言っても「逃避」とは違うので、注意が必要です。とはいえ、時には逃避でさえ、正義を求めるよりも幸せに近づく場合もあるように思います。
実は本当の正義とは、まさに自分の奥底のもの、神性ともいうべきものにとっての正義と考えられ、それは自分の心を痛める正義ではないということになります。(心痛める正義とは、その時に「常識」と言われていることや規範、誰かの決めたこと、心を閉じこめるルールのようなものです)
ですから、真の意味で正義を求めることは、幸せに近づくことと同意義だと私は考えています。
このことはタロットの並びや、「正義」のカードとの関連を考察していくとわかってきます。
それから、まずは人の幸せより自分の幸せを追求し、実践していくことだと感じます。
あまりにもバランスの崩れた利他主義は過度の自己犠牲につながり、それが心からのものであればよいかもしれませんが、たいていはどこかに損得勘定が働いています。(それが悪いと言っているのではありません)
「これだけやっているのに、どうして私に見返りがないのか」という思いです。
そういう気持ちが起こるのならば、単純に自分の幸せを先にもっと求めたほうがいいです。誰のための人生でもなく、自分のための人生なのですから。
自分のための人生を、しっかりと責任(これは他人への責任という意味ではなく、自分が選択し実行することへの自分への責任)を取って歩めば、結果的にそれが他人や社会への貢献につながっていくものです。
ことさら人のためということを意識せずとも、素直に自己表現を行っていくことで、他人のためになるのです。
それにはやはり自分が幸せと感じるシーンが多くなることが大切です。
自分が幸せと感じれば感じるほど、他人の幸せを感じることもできます。そしてまだその人が幸せと感じていないことも発見して、それを伝えることも可能になってきます。
これがまさに「幸せの輪」が広がるということではないかと私は思っています。
マルセイユタロットは、自分のモノの見方・考え方を変えます。そして幸せ(究極の状態は「世界」のカードが示しています)に至る道筋やあり方をカードが示唆します。
これによって、自分の幸せと感じる質と量を増やすと同時に、先述したように他人への幸せを見つけ、そのことを伝えていくこともできるようになるのです。
「運命の輪」はひとつではない。
マルセイユタロットの大アルカナと呼ばれるカードは人の意識の元型であったり、宇宙や世界の普遍的なシンボルであったりしますので、見ていてあきることがありません。
ただ見るだけではなく、感じる、考えるという思考と感覚、その他を総動員して観察することが大切です。
私の開催しているタロット講座(基礎ハイクラス)では、最初にこの「タロットを純粋に観察してみる」ということを受講者に行ってもらいます。
さてマルセイユタロットは人類の共通的な意識を表すと同時に、個人個人の感じ方・見方も映し出すという機能があります。ここがマルセイユタロットのとても面白いところです。
ということで、いろいろな知識を入れつつ日々タロットを眺めていると、毎日のように新しい発見や気づきがあるものです。
そうしたことで得た内容をひとつを披露いたします。
マルセイユタロットの大アルカナは多くは人物が描かれているのですが、人物以外で構成されているカードもあります。
その中で動きも面白いカードとして、「運命の輪」が挙げられます。
「運命の輪」には、文字通り「運命」を表す輪が回り、その輪には人物ではなく、動物(とおぼしき)生物が3匹が描かれています。
輪はそのほかにも時間を象徴していることがあり、そうするとこの輪は、一人一人の運命時間とでもいうべきものが象徴されていると言えます。
実はその鍵は、描かれている動物たちによるところも大きいのですが、今回はあえて省きます。
普通、「運命の輪」のカードを見ると、輪を一輪(ひとつの輪)だと見ます。しかし、私が得たタロットからの示唆では、この輪は複数あるということです。
それもまさに次元や世界、個人別にも存在し、さらには個人の中にもたくさんの「運命の輪」が回っているとスフィンクス(「運命の輪」の頂上に座る動物)は言います。
その個人にある複数の回転円とは何か? ということですが、この秘密はさすがにスフィンクスから口止めされている(気がします)ので、詳しくは言えません。
ただヒントを挙げるとするならば、人間は見えている肉体だけで構成されているのではないということになります。
この個人の中に回る複数の輪をいかにコントロールするか自覚するかが、まさに個人の運命に関わってくることになります。
少なくとも通常意識している「自分」というものだけで輪が回っていると思うと、この意味はまったくわからないと思います。
さらにいえば「運命の輪」はほかのカードの回転やビジョン(空間)ともつながっており、その二枚や三枚が出現した時に、どの回転や輪をコントロールすればよいかなどもタロットから提示されます。
このようにタロットと関係させなくても、私たちには普段意識しているリズムと意識していない無意識のリズムによって動かされていることを知ると、少しずつ気づきや覚醒が始まるでしょう。
恋愛や趣味志向など、何かに熱中したり、頭ではわかっていても動かされたり、逆に気持ちはあるのに体が動かなかったりするような時がありますが、それはあなたの中にある複数の回転の輪のバランスが乱れているか、どれかによって強力に支配・コントロールされているかでしょう。
「運命の輪」を理解することは、自分の運命をコントロールすることにつながります。
それゆえ、数ではひとつの段階の区切りを示す「10」というものを持ち、大アルカナでも半分の「11」の一歩手前にあるのです。
「世界は完全」と見た場合の世界観
精神世界の考え方に、「この世界は完全である」というものと、逆に不完全であるという見方があります。
これはどちらが正しいというものではなく、個人的には「世界」のとらえ方によって変わってくると思います。
ですからよくこのブログの比喩でも出てきますが、やはり「禅問答」のようなもので、世界は完全でもあり不完全でもあるというのが答えだと思います。
さて、ここで今回はあえて世界は完全であるという見方を採用します。
そうすると、過去だろうが今だろうが未来だろうが、私たちは完全な世界に住んでいるということになります。
こう言いますと、「えぇ、それはないですよ、とごが完全なんですか? 問題なことばかりの世界じゃないですか」と述べる方もおられるでしょうし、個別にも「完全どころか、私の人生は不幸そのものでしたよ」と言われる方もいらっしゃるでしょう。
ですが、ここはあえて前提として「世界は完全はである」と仮定してみてください。
すると、たとえばあなたの周囲にいる人間、もっと象徴的に言えば「あなたが認識している人間」はすべて存在価値があるということになります。世界は完全だと想定するのですから、当然誰一人として無駄な人いない、全員あなたの人生劇場の必要な役者であるとなります。
ですからたとえあなたにとって避けたい人、嫌いな人でもあっても、その人はあなたには何らかの必要価値があって存在しているわけです。
これは人で言っていますが、モノや環境でも同じでしょう。つまりは事の良し悪し・大小にかかわらず、すべて完全世界の完成形パズルとしては必要なピースだということです。
ここで大切なのは、「世界」の範囲とレベルです。
さきほど私は「あなたが認識している世界」と表現しました。これは逆にいえば、「あなたが認識していないものは“あなたの世界”にならない」と言い換えることができます。
実は世界が完全だとすれば、その完全性はどの局面(フィールド・範囲)でも成立する理(ことわり)となりますが、まずは見ておかなくてはならないのは「自分が認識している世界」という範囲内の完全性です。
ここ(自分の認識している世界)での完全性が理解できれば、あなたの認識力と完全性の範囲はさらに拡大をします。もしくはレベル(次元)が上昇します。
図で説明すればわかりやすいのですが、1つの小さな円を想像してください。その円こそがあなたの認識している世界であり、また運ばれたり動けたりする「縁」の世界なのです。
ここであなたがこの円の中での完全性を発見しない限り、あなたはその範囲内の円でしか活動できないことになります。
というのは、世界がどの局面でも完全であるとするのならば、その小さな円内の世界の完全性が認識できなければ円のエネルギーが満たされず、円の範囲そのもの(枠)を打ち破ることができないからです。
円は縁と言いましたが、運ばれる縁もその円内の中に限られるようになります。
今の円で完全性が発見できていない状態というのが、自分にとってその世界(円内世界)が不調和ということであり、時には不幸や大変さを人生で感じてしまうことになります。
円の中での完全性に目覚めると、円の中は調和し、さらに円は拡大して新たな縁が運ばれ、あなたの人生は変わります。これはすなわち、あなたの認識していた世界の変容と発展・拡大・上昇を意味します。
具体的には問題の人と自然に別れるようなことになったり、反対に信頼できる人や自分を成長させてくれるような人に出会ったり、苦しい環境からよい環境に変わる機会が得られたりすることとして生じます。
言ってみれば、いかに今の認識している世界「円」をすばらしい「園」(パラダイス・完全性)として意識できるかが鍵と言ってもよいでしょう。
それにはやはりモノを多方向から見る術(すべ)が有効です。マルセイユタロットはそのよきツールとなります。
これは世界が完全であるという仮定に基づく話ですが、反対に世界は不完全であると想定した場合も、「円」をイメージして面白い話ができるので、皆さんも考えてみてください。
ちなみマルセイユタロットに流れる思想と言われる「グノーシス主義」は、「世界は不完全である」という前提に立っていますが、本質的には実は「完全である」ととらえています。やはり禅問答ですよね。(笑)
頭の理解と心の理解 梯子の表現
マルセイユタロットでは梯子の表現が何枚かのカードでよく出てきます。
また、ある法則に基づく複数のカード群が、まさに梯子のような階梯(段階)を示唆していることもあります。
それを見ていて感じたことのひとつを今日は書きたいと思います。
ところで物事を本当に理解したというのは、どういう状態だと思いますか?
多くの人が勘違いしているのは、「頭(思考)でわかった」ということが理解だと思っていることです。
ですが、最近は頭の理解ではなく、心と言いますか、まさに「腑に落ちる」と表現できるような、実感としての理解が大事だと話されることも多くなってきましたので、頭の理解ではまだ中途半端なのだとわかっている方もたくさんいらっしゃるでしょう。
となれば、結局は心や体験で理解しないといけないのか・・・と疑問がわきます。
たとえばこちらは必死で勉強しているのに、ある人が突然、「ああ、こういうことなのね、わかったわ」とふいに「真から理解した」ような言葉を口にしたとしましょう。
自分は一生懸命努力しているのに、さほど熱を入れているようにも見えない他人が、急に先に悟ってしまったようなことに対して、あなたは嫉妬や自分自身のふがいなさを思うことがあるかもしれません。
そこまでではないにしても、頭の理解を飛び越えて、ダイレクトに(直感的に)物事の本質に到達してしまった人に、何か自分にイライラしてしまったという経験はあるのではないでしょうか。
これには才能の違い、人生においてのほかの物事の経験の違い、感性の鋭さの違い、さらにはもし過去生を想定するとすれば、その過去生での経験値による相違も含まれることがあります。
ですから頭の理解の努力(知識を入れること)はほとんどせず、天才的に真の理解に早くたどるつく人がいるのです。
一方、思考で理解することの問題としては、結局頭で考えようとすればするほど、これまでの自分の思考の枠でとらえようとしますので、まるで思考が堂々巡りしているかのようになり、特に新しい物事の本質的な理解には行き着きにくい場合があります。
そうなれば、「直感こそすべて」「直感を磨くことが第一」だと思われがちですが、確かに思考の罠にはまらないようにするためには直感力を重視することは大切ですが、過度の直感主義も問題です。
まず直感を精査するものがないということです。
「感じ」はあくまで「感じ方」ですから、それがヒットしているかどうか(正誤ではなく、フォーカスするものに対して適切な情報にヒットしているかという意味)を判断するのは難しいところです。
さらには感度にも体調や環境によるブレがありますから、精度の面では問題がないとは言えません。
さて、ここでようやく梯子のテーマが出てきます。
いきなり結論から言えば、頭で考えたり学んだりすることは、物事の真の理解のための梯子なのだということです。
知識があるからこそ、そこに梯子がかかるのです。つまり梯子の一本一本があなたの学んできた頭の知識と思考です。梯子はまた石段と言ってもいいでしょう。
これがあるので、探求の方向性(梯子の上段方向)にはブレがなく、しかも梯子として登り方がわかっていますから、一定の段階までの到達は早く、一からやり直しということもありません。登った分だけは何度も簡単に行けるということです。
これに対して、直感のみに頼っていると、梯子なしでいきなりジャンプして上がるようなものなので、運良く天(真の理解であるゴール)から下がっているひも(実はこういうものもあると仮定します)がつかめればいいのですが、別のところから下がっている偽物のひもをつかんでしまうことがありますし、ひも自体をつかみ損ねることもあります。
もちろん直感も修練によって、いわば「直感の梯子化」ができ、それを登っていくことで安全さと確実さを増すことはできます。
いずれにしても、頭の理解、知識での理解も悪いわけではないのです。それは真の理解に到達するための梯子(ステップ)なのです。
梯子の頂上があまりに遠大な場合、時には挫折しそうになるかもしれませんが、ある地点まで登れば、必ず天からのひもが見えてきます。
実は梯子の途中でも、そのひもは見えることがあるのですが、慌ててつかむのではなく、梯子を登りながらひももつかんでいくとよいのです。
これが頭と心、思考と直感を融合していく方法で、マルセイユタロットの学習自体がそれに近いものです。
そして融合したものが「直観」と呼ばれるものです。
直観に至れば、その物事の本質は瞬時に理解することができます。
マルセイユタロットをやっていくとわかってくるのですが、物事は際限なく分かれているようで、その本質は極めてシンプルなので、それさえつかめれば、すべてに応用は可能となります。