カードからの気づき
バージョンアップに伴う現象
パソコンでもソフトやOSにバージョンアップがあるように、人にもバージョンアップやレベルの向上があります。
自分の持っている技術や仕事の技量のアップ、また人として総合的な魅力の向上、人間的な成長ということでそれらは現れてきます。
もちろんそれにはたゆまぬ努力や、蓄積される経験が必要となってきます。
ところがただ漫然と生きてきても、自分に起こる事件や出来事(不幸や試練、災難と呼ばれるものが多い)によって、強制的にバージョンアップさせられる時もあります。
ということは、神様というものがもし存在するとすれば、人間は成長しないといけないように設計されたか、そういう環境に置かれる設定なのだと考えられることができるかもしれません。
ですから強制的にアップさせられるより、事前に自ら発展に取り組む姿勢が、実は大きな意味での調和に合致し、自然の流れでもあると言えましょう。
このあたりは、マルセイユタロットでは「悪魔」「神の家」「星」などで象徴されているようにも感じます。
ところで、「神の家」でも示されているように、神のエネルギーは雷のようなかなりの衝撃をもって出現することが描かれています。
それをダイレクトに受けるとなればまさに「雷」級なのですが、自然現象の「雷」を考察すればわかるように、これは電気的なエネルギーと置き換えることができます。同一かどうかは別として、表現としては電気と似ているということです。
個人的には電気は、タロットで表現される四大元素の「風」のエネルギーだと感じることがあるのですが、場合によってはやはり「火」であるともとらえられます。(どっちが正しいかということを考え出すと、四大元素の本質をとらえることはできなくなります、このことはタロット講座で説明しております)
私たちの住む現実世界でも、電気は生身の人間が直接簡単にふれることができません。弱い電流でもビリビリと感じますし、ましてや強いものだと感電して体にダメージを受けたり、場合によっては死んでしまったりすることもあります。
それだけのパワーがあるということですね。
そして霊的なパワーにも電気エネルギーの性質を持つことがあり、これはやはり根源的な神のエネルギーも電気に似た表現部分を持つとするのなら、霊的なパワーも同様になるからではないかと推測できます。
そこで最初の話に戻るのですが、人も霊性と神性を有していると考えられていますから、自分がバージョンアップや変化を迎える時は、自分のエネルギーの質(表現)も変わりつつあるということが予想され、それが電気的エネルギーの変質ということで自分や周囲に現れるのではないかとイメージできるのです。
これが実際の現象では、体調や精神の不調・違和感あるいは逆の高揚感、電気製品の故障や急な作動(突然スイッチが何もしないのに入るようなことがあります)、人間関係の突然の変化なとで出ることがあるようです。
もちろん、自分からのものだけではなく、他人(生きているものだけとは限らない)からのエネルギーの攻撃(意識・無意識に関わらず)や放出の影響ということもありえますから、必ずしも自分だけの変化による理由ではありませんが。
それから何事もそうですが、大きな変化やバージョンアップのためには、新しいものへデータを書き換えたり、整理したりするための時間と空間が必要です。
古いものから新しいものへの変化の期間というのは、すっきりと移行することもあるにはありますが、たいていは実は不安定なものなのです。
そこで不安に陥り、ジタバタあがいてしまうと、せっかく整理しかかったものを本当の意味で破壊してまうことになります。
「本当の意味で」と言っているのは、変化の移行期間も裏を返せば、同じように「破壊」期間でもあるからです。これは本当の破壊ではなく、再生のための準備ともいえる破壊ですので、よい「破壊」なのです。
そうとも知らず、あせって動いたり、逃げたりすると、自分で本当に新しく生まれる再生の芽をつんでしまうことになります。
ですから、こういう時こそ落ち着き、体力・精神力も保つように、バランスのとれた生活や休養を心がけるとよいのです。
脱皮を静かに待つという心境でしょうか。これらのことは、マルセイユタロットでは「隠者」や「月」で象徴されることがあります。
「世界」の幸せと「悪魔」の幸せ
マルセイユタロットは、どのカード同士でもペアとして見ていくと、いろいろな気づきが起こるような仕組みになっています。そのことはここでも何度か実例をもって書いていますよね。
今日もその類の話になります。
「世界」のカードと「悪魔」のカードには、一見ほとんど関係ないように見えて、象徴の絵柄の意味を知ると、その関連性を発見することができます。
それはひとつやふたつではないのですが、今回取り上げるのは人の「満足」と「幸せ」に関係することです。
「悪魔」の幸せと、「世界」の幸せではどちらが上かといえば、一般的な想像と同じく、それはやはり「世界」の幸せでしょう。
ですが、マルセイユタロットのひとつの考え方では、すべては「世界」のカードに至る過程や表現としてとらえるものがあります。
この見方に立てば、「悪魔」の幸せは「世界」の幸せの前段階になるので、確かに劣っていることにはなるのかもしれませんが、逆にいえば、「世界」の幸せに至るためには「悪魔」の幸せを経験(理解)しなくてはならないという意味にもなりえます。
「世界」の幸せが究極で完全なものだとすれば、それは神の幸せ(の境地)と言ってよいものかもしれません。
では、「悪魔」の幸せとは何でしょうか?
マルセイユタロットの解釈やリーディングにおいて、わからなくなったり、迷ったりした時は基本の「絵柄」に立ち返ることです。
ここで両者のカードの絵柄を比べてみますと、「悪魔」は悪魔を中心とした人物に、二人の小さな人間らしき人たちがつながれて、笑いあっているような図柄になっています。
一方の「世界」は、周囲を4つの生物に囲まれ、真ん中の人物が軽やかに踊っているような姿で描かれています。
形でいうと、「悪魔」は三角形、「世界」は四角形と円が浮かんできます。
ここから見れば、「悪魔」はまさに悪魔が中心で、悪魔の幸せこそが大事だと感じられます。つながれている二人の人物の幸せと、悪魔の幸せはおそらく異なるものです。(悪魔が舌を出していることに注目)
逆に「世界」は内と外、周囲の自分との幸せが一致して、さらに拡大しているイメージがあります。
こう書くと、やっぱり「悪魔」は不完全で「悪」なのだと思う人もいるかもしれませんが、先にも言いましたように、「悪魔」が「世界」へのステップだと考えれば、まずは「悪魔」的な幸せ感・満足感を人は得る必要があるとも言えます。
一見エゴを満たしているとも思える「悪魔」の幸せと満足ですが、悪魔と一緒の二人の人物たちもやはり満足しているように描かれていることが重要で、人を幸せするには、なにはともあれ、自分の満足・充足を感じることが大切だと示唆しているように見えます。
そう思うと、本当は自分は幸せではないのに、無理矢理納得して演じたり、人にも自分の価値観を押しつけようとしたり、共有させようとしたりしていないかということが思えてきます。
自分がまず幸せになること、自分を満たすことを目指し、その姿でほかの人たちも喜びを感じるというイメージが「悪魔」の図柄から浮かんで来るのです。
それでもまだ「悪魔」がいわゆる悪いイメージの悪魔に見える人は、こう考えるとよいです。実は「悪魔」の中にも「世界」(のカード)があり、「悪魔」のレベルで「世界」の象徴を実現していくことができるのだと。
それは「世界」そのものの象徴とは異なるけれども、次元や表現を変えた「世界」にほかならず、それが「悪魔」(「悪魔」だけに限りませんが)のカードの段階レベルで成すことが求められているということです。
簡単にいえば、世界平和を願う前に、自分の身近な範囲の平和に向かってできることから始めるということでしょうか。
エゴを捨てるということばかり言われますが、「悪魔」の二重の意味は、エゴを満足させる仕掛け(フリ)をして、実はエゴを欺く(「悪魔」には欺す、欺瞞的な意味もあります)ようにエゴを浄化するということも考えられるのです。
ちょうど、仮面にエネルギーを注入すること(仮面を意識すること)で、仮面が仮面として独立し、だからこそはがれやすくなるというのと似ています。
「自分を愛する」というと難しく高尚になってきますが、その低次の段階では、エゴに近くなってくることもあるのです。でもそれが自分を(他者も)愛するという高次のことにもつながっています。
この低次と高次の表現方法の違いと、高低を貫いている同じ原理・柱を見破ることが非常に重要です。それはマルセイユタロットのような高度な象徴道具を手に入れるとわかってくるようになります。
「愚者」タイプの人へ。
先日、四国高知に、スタッフとして協力していただいているマルセ氏とともに行ってきました。
これは「旅+タロットお話会」企画として実施されたものです。タロットを習われた方の呼びかけで、大勢の方に集まっていただき、楽しい時を過ごすことができました。高知の皆さん、ありがとうございました。
また今後、全国各地、皆さんのところにもタロットをかばんに入れて参るかもしれません。こうなると、まるでカードの「愚者」ですね。(^^;)
ところで、「愚者」の話が出ましたので、今日はカードの「愚者」に関連する話を書きたいと思います。
「愚者」はまさに「旅」を象徴している絵柄であり、このカードを引く人は、たいてい自由な精神をもっているか、実際に旅や移動を繰り返す人生・仕事であったりします。
もちろん、普通の生活をしている人、ちょっとお固い人物でも、時と場合によって「愚者」のカードを引くことはあります。
言ってみれば、誰にでも「愚者」(の心)は備わっているのです。
ただやはり、明らかに旅や放浪が好きな「愚者」タイプの人と、通常の暮らしをメインとするそうではないタイプの人がいるのも事実です。
どちらのタイプにもそれぞれの良さがあり、いいも悪いもありません。大切なのは、自分がなぜそのような傾向やタイプであるのかを思い、その特質を活かした生き方と貢献を考えることです。
つまり、自分の個性や持って生まれた気質というのは天から与えられたものなので、無理に修正したり、忌避したりするのではなく、いい意味で伸ばすこと、活用することを目指すのです。
「愚者」タイプの人が実際に若くして旅を繰り返し、全国どころか世界中を回り歩くということも珍しくありません。いや、むしろ「愚者」タイプであるのなら、ほぼ必ずと言っていいほど「旅」の遍歴を重ねていることでしょう。
それが自分探しの旅のこともあります。そもそも「愚者」もある目的に従って旅をしており、旅をすること自体が目的ということもあるのですが、それとは別に本当の目標も存在するのです。
それはつまるところ、自分の、人間としての崇高なる完成にあります。
このことをカードから学べば、「愚者」タイプの人ももちろん旅をすることはよいことなのですが、いつまでもふらふらと無目的に続けているのではなく、旅をしながらでもよいので、自分の完成に至る真の目的を発見する、あるいはそうした気持ちを持つことが大切だと考えられます。
そして「愚者」というのは各地、各レベルを探訪している人なので、固定された場所(定住)や考え方(常識)にいる人にとっては、異色な存在となります。
民俗学でも言われていることですが、昔から、ある区域(ムラ)に来訪神(人のこともあり)が現れ、その地域内にインパクト・刺激・外からの情報を与えて去っていくというパターンがあるのです。
これは良いものと悪いものがありますが、いずれにしても既成概念を打ち破る外からの衝撃となります。この意味では、カードでいえば「神の家」や「13」も関係します。
「愚者」タイプの人はこの役割があると自覚することです。いわば、膠着した世の中・人々に自由と解放をもたらすイノベーターであり、教育者でもあるのです。
「何を自分がしたらいいのかわからない」「自分が何者なのか探したい」と言って「愚者」タイプの人は旅を続け、放浪して行きます。
しかし、その旅をする姿そのものがあなたであり、いろいろなことを見聞するために「旅をさせられている」のです。
もうすでにあなたはあなたであるのですが、簡単に「自分」ということがわかってしまえば、旅をしなくなるかもしれないので(笑)、神様はあなたに旅の衝動が起こりやすいよう、人一倍の好奇心と自分探しの欲求を植え付けていると言えましょう。
ここでは横の移動による「旅」について主に言及していますが、それだけではなく、縦の次元の旅をする人もおり、これはその場にいながらも自分の経験(レベル・次元)が変わっていくような人です。こういう「愚者」タイプの人もいます。
ともかく、ずっと旅をしてきた「愚者」タイプの人は、そろそろ立ち止まって、ある「場所」やある「人たち」のところで、あなたの経験したきたことを話す必要があります。
もちろん根が「愚者」のあなたは、そこの場所に安住することなく、再び旅を続けることにはなるでしょう。それはそれでよいのです。
そうしながらも、あなたが旅をしていること、そういう気質であることを振り返り、それを社会や世界に貢献する方法も考えるとよいです。
「愚者」のカードを見ると、「愚者」は決してひとりぼっちではなく、後ろに「犬」がついてきている(あるいは引き留めている)ことを考えると、「愚者」タイプの人にとっては何かの示唆になるかもしれません。
自分の状態による時間と外の時間との調整
マルセイユタロットでは、時間を特に象徴するカードは「運命の輪」といえますが、ほかにももちろん複数ありますし、時間をテーマにして22枚の大アルカナでそれぞれ考えていくことも可能です。
その中でも、「運命の輪」以外で特に取り上げたいのが「節制」です。
詳しくは述べませんが、「節制」も「ある時間」に関係するカードです。
ところで、私はうつ病や不安神経症を経験したことがありますが(その頃の話は記事カテゴリ「うつ 心の健康」をご覧ください)、このような心の不調で顕著に見られるのが、時間感覚のズレです。
私の場合は、おそらく脳内ホルモンの何らかの不調和によるものと推測される、安心・穏やかさを感じさせる物質分泌が不足し、激越なイライラ症状が出現しました。
こうなると、外の時間は止まったまま、内の時間は著しく進んでいるような感覚で、生き地獄のようなことを経験することになりました。つまりはイライラがとてつもなく激しく内には起こり、めちゃくちゃ心はあせっているものの、外は何も変わっていないという状況です。
これは極端としても、一般的に不安が増すとあせりも増加して、内なる時間感覚を急速に進ませようという意識が働きます。有り体に言えば、あせりのために待てない状況になるのです。
これはビジネスなどでも利用され、「残りあとわずか!!」と書くことによって、見ている人、迷っている人に心理的あせりを生みだし、時間を速めて決定を急がせようとします。
反対に心に満足感・充足感を感じている人は、たいてい内なる時間はゆっくりと流れ、穏やかになっています。究極的には眠りのようなことになる場合もあります。
ただ外の時間は普通に進んでいますので、いい意味で外とのギャップが生じ、つまりは心理的には年を取ることが遅くなります。このため充実した人生にいる人は、若く見られることもあるのです。
しかし逆に少年少女期に贅沢な満足を味わいすぎると、内なる時間は遅く進んでいますので、精神的に幼いままということにもなります。
実はこうした内と外の時間を調整することを見るのが、「節制」のカードだといえましょう。
「節制」のカードの大きな意味のひとつには、「救済」というものもありますから、この時間調整が働くと、自他の救済にもなることが示唆されます。
自分の心の状態を思い、あせりや不安がある場合は自分の感じている時間を遅らせ、逆に満足に浸りすぎている時や保守的な気分で満たされている場合は、もう少し判断を速めたほうがよいと言えます。
別に外の時間(一般に流れている時間、クロノス時間)と内なる時間(自分の感覚時間、カイロス時間)を一致させよと言っているのではありません。
この違いを意識して生活していくと、自分の調和の方法もわかってくるということなのです。
ですから、あえて内外時間を一致させなかったり、自分時間・カイロス時間で過ごして行ったりすることもありなのです。
ただまあ、時間(クロノス時間)は等しく万人に流れていますから、大幅に遅刻しても、「オレ時間(ワタクシ時間)ではOKなんですけど・・」と弁解しても、もちろん世間には通じませんので注意してください。(笑)
幸せを得るためには。
マルセイユタロットを見ていますと、ここでも何度か書いていますように、全体思考と個別思考の二面をいつも想起します。
それは方向でいえば、上と下、天と地となりますし、表現を変えれば抽象と具体、統合と分離というような言い方にもなるでしょう。
この考え方・見方を知っておけば、何かと便利で整理がつくのですが、それが絵となっている(象徴画の)マルセイユタロットを学べば、さらに知識として実感として、理解することができるようになります。
さて、今日の記事もそうした二面の考え方に基づくものです。
ところで人は皆、幸せになりたいと思っていますよね。
わざわざ不幸になりたいと思って生きている人はほとんどいないでしょう。(心理的には実は「不幸を無意識的に望んでいる」こともありますが、それは今日のテーマではありません)
そうして、皆、幸せになる努力をします。それでも結構何かしらの悩み事はいつもあるものです。
思えば人は、この世界に生きている限り、何も心配や問題がないということは一生のうちではないようにできているのかもしれません。
それでも何も問題はなく、ずっと今も幸せだという方もいらっしゃるでしょう。
ですから「自分もそのようになりたい」と願って、幸せになることを実践したり、学んだりします。
しかし、ここで落とし穴があります。
一足飛びに幸せを願うと、多くの場合、先ほど述べたように、「一切問題が生じない状態」になることを夢見てしまうのです。
家族も家も仕事も経済も趣味も・・・何もかも恵まれて幸せで、まったく心配事や問題はないという天国状態のイメージです。
これは最初の二面思考からすると、天にいきなり昇って、すべてを統合化したような様態です。
言ってみれば、急に範囲が限りなく極大化してしまったのです。
範囲が大きくなれば、その分見るべきあなたの範囲も拡がります。
従って、目についてくること、気になることも当然たくさん増えます。その「たくさん」の事柄すべてに「問題がない」「調和している」と見ることは、まさに神視点(悟り)を得ないと難しいことです。
中途半端に自分が進化したとか、スピリチュアル的に向上したとか勘違いしてしまうと、意識が広がった分、あなたの見るもの(扱うもの)も増えてきて、それをどう処理(調和認識)すればよいのかわからなくなります。
つまり、あなたはまだ大きな全体を見るのには力不足(意識だけが飛んでいる状態)なのです。
そのため、安全なのは、自分の身近な範囲から調和を図っていく、幸せを感じていく、幸せになるということなのです。
「足るを知る」という言葉があるように、自分の今の器において、いかに恩恵に気付き、感謝できるかということが大切になります。
これは二面思考では、地、下の方向性を見ることになります。ですからより具体的でもあります。
ところが、これも面白いことなのですが、一番身近なこと、もっとも具体的で細部なことは、逆にもっとも遠くて大きなものにつながっているということが宇宙の真理(の予想)として考察できるのです。
素粒子の世界の研究が、全体としての大きな宇宙につながるようなものです。
ですから、意外にも夫婦とか親子、恋人同士などのかなり身近な関係の調和が実は難しく、でもそれが調和すれば全体も調和してくるということになるのです。
一番物質的なもの、つまりお金があれば、対極の心や全体としても潤ってくることが言えるのもこの原理で説明できます。だからお金は大切なのです。
精神世界系(に関心がある人)では、いきなり全体性に飛ぼうとしすぎるので、自分の中の調和していないほころびを見つけて、かえって苦しんでしまうことがあります。
それは範囲や対象が(世界とか宇宙とかに)拡大するので、むしろ当たり前のことです。
ですから再び地上方向に意識を向け、お金であれ、身近なできる範囲のことから調和を図り、それができていることを実感すると、自分の幸せも「安全に」拡大していくのだと考えられます。
今日のタイトルは「幸せを得るために」ですが、実は「幸せであると(自分の今の範囲で)知る」ことが重要で、得るのではなく知ることが真の得ることの意味だとわかるのです。