カードからの気づき

外見の重要性

マルセイユタロットの「女帝」というカードを見ていて、感じたことを書きたいと思います。

その前に、以前もお話していますが、私がここに書くタロットの、特に意味などを記すものは、いわゆるそのカードの一般的・普遍的・基礎的な意味とは異なることがほとんどですので注意してください。

ですから、記事を読まれて、そのまま鵜呑みに「このカードの意味はこうなんだ」と思わないことです。

むしろ、ここに書くことは少しうがった見方に近いので、タロットの意味に関しては直球ではなく変化球のような記事内容だと考えていたほうがいいでしょう。

しかし、それだけにマルセイユタロットの基本を学ばれた方には、新たな示唆を提示している面もありますので、参考にしていただけると思います。

それでは記事に戻ります。

女帝」はその前の数を持つ「斎王」と比較すると、その違いがわかります。

「斎王」がどちらかといえば、女性の精神的な部分を象徴するのに対し、「女帝」は現実部分を表すという考え方もできます。(これは「ある」見方の場合です)

タロットは「象徴」ですから、必ずしも両者ともに女性を示すということではなく、男性にもあてはめることができます。

さて、そうした見方をした「女帝」ですが、そうなりますと、現実部分での女性の表現に注目せよということになります。

最近は男性もあまり変わらなくなくって来ましたが、女性は化粧を施したり、肌や服装に気遣い、いわば外見の美しさを追い求めます。

外や人からの見た目というものの大切さと価値を理解しているわけですね。

よく、「内面が美しければ外面も自然と輝く」という言い方をされますが、それはある意味真実ではあっても、だからと言って、外面をまったく気にかけなくてよいという意味ではないと思います。

精神世界では特に内面や心が重要視されますが、外からの影響というものも考慮に入れる必要が時にはあります。

見た目がよいとどうなるかといえば、誰でも理解できると思いますが、よい印象を人に与えることができます。

たとえば服装も肉体的にもまったく無頓着で何も手入れせず、お風呂にも入らず、ボロボロで疲れ切った風体で人前に現れるのと、すべてに気遣い、活き活きと美しい姿で現れるのとでは、印象は180度違うはずです。

どちらの人が好きか?と聞かれると、ほとんどの人は後者だと答えるでしょう。

「外見ではなく、本質を見てくれればとよい」という人もいるかもしれません。

しかし、ここで私が言うことは、「外見にとらわれずに人を判断せよ」ということではなく、人から見られること自体の影響力を指摘したいのです。

極端なことを言えば、人から悪意をもって見られるのと、好意を持って見られるのとでは、あなたに及ぶ影響がおそろしく違うことになるのです。

つらく厳しい視線と、暖かで穏やかな視線では、どちらがよい気持ちがしますか?ということです。

あなた自身が人目や外からの影響をまったく気にしない、我が道を行くタイプ、タロットでいえば「愚者」的人間だとすれば、さほど問題はないかもしれません。

しかし通常の人間では、「人目は気にしていない」といっても、やはり多少は気になるものです。

この「気になる」「気にする」ことが、たとえわずかでもあれば、そこを入り口として、人の意識の影響があなたに流れ込んできます

これは目に見えないものなので、あまり重要に思われていませんが、こういった人の意識・思いというものこそ、実は大きな影響力を持つのです。

ネガティブな思いで見られ続けていれば、ひどい時にはあなたの健康や運に支障を生じさせ、よくない状況を現出させることになります。

反対にポジティブな思いで見られている人ならば、人のよいエネルギー受け、ますます自身が輝き、幸運ともいえる人生につながって行きます。

このように、人からの視線、そこから流れて来る思念・情というのは、見られる側には多大の影響を及ぼすことがあるのです。

従って、見た目・外見というものはないがしろにできるものではなく、少なくとも不快感や場違いにならないよう、気遣う必要はあると考えられます。

もちろんそうした意味では、人によい印象を与えるために着飾ったり、言葉を工夫したり、肉体の健康美を追求したりすることもよいことになります。

同時に、やはり外見だけではなく、素直に自分の良さを表現できる内面の浄化と研磨を行えば、二重の意味で、あなたは輝いて行けることになります。

内面が重要なのは、外見をよくしようと思ってもそういう気持ちになれないという場合があり、そこに問題があるからです。

ただしそれほど深刻ではない時は、外見からよくしていけば、周囲のあなたへの見方が変わり、そのポジティブなエネルギーによって内面を変えることが可能な場合もあるのです。

強い信念やオーラがない限り、人目や環境は想像以上に内側にも影響しているものなのです。


占星術の象徴の入り口として。

現在、風邪で体調不良のため、もしかすると、ここ数日で定期的なブログ更新がストップすることがあるかもしれませんが、ご容赦くださいませ。

さて、諸説ありますが、タロットには(西洋)占星術の象徴や知識も織り込まれていると見る向きがあります。

まあ、占星術を主としますと、逆に占星術(的知識)がタロットを作ったという人もいらっしゃるかしれません。

それはともかく、やはり私自身もタロット(マルセイユタロット)には占星術と関連したものがあると思っています。

そのため、占星術についても、学んだり親しんだりすることがあります。

ただ、ここでも何回か書いてきているように、私自身の立場としては、占星術をやはり占い的には使わず、自己探求や自己の向上「モデル」や「地図」「指針」のように見ています。

そのほうが自分としては面白いですし、そういったことに関心と価値を置いているからです。

とはいえ、入り口としては星の動きの影響を占い的に見たり、ゲーム的に遊び感覚で親しむこともいいと感じています。

そのひとつに「曜日」と惑星の関係を見るというものがあります。

あまり知られていませんが、現在使われている曜日も、星(惑星)の象徴として見ていくことができるのです。それは曜日の成立自体、惑星(の名前)と関係しているためです。

惑星の名前がギリシアやローマでは神の名前になっているように、古代の人は惑星に神のエネルギーや力・働きを見ていました。

そのため、その名を宿すものにも、それと同質のものがあるとされていたのです。曜日はその典型的なものと言えるでしょう。

月曜日には月が支配し、火曜日には火星が支配し・・・みたいなことですので、ある曜日には「その惑星で表されることを行うのがよい」と考えられていたわけです。言い換えれば、その惑星に象徴されるエネルギーのサポートを受けるということです。

これを今の人たちが行うと、少し違和感があると思います。

というのは、多くの人の仕事と休日のリズムによって、土日が休みで月曜から仕事が始まるというパターンに慣れているためです。

しかしながら、それでもその奥底に流れる惑星の象徴性を曜日に見ていくことは、今でも興味深いことです。おそらく今までとは違った観点が見いだせるでしょう。

また自分の生まれた日が何曜日であったかとか、自分にとって変化があったり、特に記念となった日が何曜日になっているのかを調べてみると、自分がどの曜日(惑星)に守護され、どの曜日に変化や問題がありがちなのかもわかってくることがあります。

やはり人によって縁のある曜日、すなわち惑星やエネルギーがあるものです。

もちろんホロスコープを見ればもっと詳細に理論的にわかりますが、こういうゲーム的な見方も楽しくて、惑星(のエネルギー)を象徴として感じるのにはよい入り口です。

慣れてくれば、これら惑星の諸力を、私たちの住むこの世界のあらゆる事象に表現されていることを見て取れるようになってくるでしょう。

これは「惑星」の部分を「タロット」と置き換えれば、同じ意味になります。


違和感を大切に。

違和感というものがあります。

これは漢字をバラバラにしますと、「和」とは「違」う「感」じということで、マイナス的なイメージが出ますが、しかしそのまま解釈しますと、まさに調和である「和」から「違」っている「感」覚ということなので、バランスセンサーみたいなものとも言え、役立つプラス的イメージも出ます。

つまり違和感を覚えるということは、調和からはずれている何らかのサインだということです。

ということで、何事も「違和感」があるのならそのままにせず、少しチェックを働かせてみる必要があると言えます。

しかし、実はこの違和感、「悪魔」による巧妙な別の違和感もあるので注意が必要です。

言ってみれば、違和感の基準になっているものが、エゴによる願望になっていることがあるのです。

換言すれば、快楽や低次の充足感をイメージしていて、それからずれている(願望とは異なる)ため違和感が生じているというものです。

本当の自分を大切にしている「真我」のような心からずれている時の違和感は、ある意味、「正義」の違和感だと言えます。

しかし、低次の心から来るものとのズレによる違和感は、「悪魔」の違和感と言えます。

ここを取り違えると、本質からはずれた選択をしてしまいがちです。

自分の「本当の心」「真実の気持ち」と思っていたものが、実は悪魔によって生み出されていたものであったとなるのです。

ここで言う「悪魔」というのはマルセイユタロットの「悪魔」にも関連しますが、実際の悪魔的な存在というのではなく、象徴的なものです。

ですから、たとえばマスコミが作り出した商業イメージとか、他人からの影響とか、極端な物質または精神主義による成功イメージによるものとかの場合があるのです。

とにかく違和感を覚えたら、そのもとになっている「基準」を思うことです。

何からズレているので違和感となっているのか、その何かとはいったいどんなイメージで、どんな状態であるのか。

これに遡ることです。

そうすると、自分が抱いていた違和感が、偽物の違和感(本来違和感を覚える必要のない違和感)であることに気がつきます。

実は悪魔の違和感の目的はこれ(偽物に気付く、言い換えれば本物に出会う過程)にあると考えられます。

よって、マルセイユタロットで象徴される「悪魔」も、本当の意味では高次の存在となります。

結局のところ、すべての違和感は、自分を成長させるための重要な手がかり・指針であることになります。


ガラガラポン!

昨日の「運命の輪」と再生過程の記事を書いていますと、「運命の輪」が音を立てて、ガラガラポン!と回るのを聞きましたので、また続きのような記事を記したいと思います。

先日は、精神的な学びを始めると、自分の再生の道が新たに進み出すという話をしました。

それが「運命の輪」とも関係しているということにもふれました。さらには、それによって生み出される事態が、カードの「13」にもつながるようなことも指摘したところです。

「13」とは何でしょうか?

「13」も実は大きな再生に関連するカードです。大鎌を持ち、骨と皮だけになった人物が何か作業をしているように見えます。

それだけ「大変」であり、大変は「大きな変化」と書くように、大変化のための過酷な環境と作業(実際的なこともありますが、精神的なことも多い)を象徴していると言えましょう。

しかしながら、それは終わりのないものではなく、むしろ終わらせるための作業です。

何を? 今までの自分を、です。

今までの自分を終わらせるわけですから、そこにはつらさや苦しみもあります。

前の方がある意味、楽で快適だったかもしれませんし、以前の方が変化はないにしても安全だったかもしれません。

しかしながら、自己変革を志す者には、その仮の安住の地から抜け出すと決意した時、あるいは、改革の道に入ってしまった時、「運命の輪」が回り、ガラガラポンと一気に新旧の入れ替わりが始まるのです。

その間の過程がかなり当人とってはつらいことであったり、たくさんの問題が噴出したかのように見えたりします。

しかし、それはすべてひとつのこと(根本的な問題)でつながっているのです。これが浄化されたり、解決されれば、今までどこか不安や恐れを抱いて、欺し欺し生きてきた自分と決別することができます。

そのために、ずっとあなたがしまい込んでいて、見えないようにしていた問題、気付いてはいたけれどそのままにしてきた問題や課題、自分でもわからないくらいの奥底に眠っていた問題や記憶・・・これらが現象として次々と連鎖反応的に起きてきます。

まるでスクリーンによって目の前に映し出されるかのような感覚の時もあります。

場合によっては、まったく以前と同じシチュエーション(設定)で、舞台や登場人物が入れ替わっているだけのこともあります。

実は、それは根本の、ある核のような問題が、あなたの今いる場所、思っている事柄などを材料にして、先述したようにスクリーンのように現実に投影(演出)して、実際のことが起こっているように見えるのです。

そうやって考えますと、「運命の輪」は回転する映写機のようにも見えてきます。

ということは、逆に映画ではなく、振り返って映し出す映写機のほうを見れば、あなたに起きている問題は映画のように様々で数も多いかもしれませんが、根本は映し出す機械とフィルムひとつであると例えることができます。

ガラガラポン!の「ガラガラ」がこの根本を拡大投影して演出された映写機によって起こる映像であるならば、「ポン!」はこの根本問題に行き着いた時に入れ替わる(変化する)、自身の心の(浄化・気化した)音だとも言えます。

簡単に言えば、ガラガラポン(死と再生入れ替え)のために、困難に思える事態が生じているのです。

ですから恐れず、きちんと立ち向かうべきです。また、起きている現象すべてにとらわれてはいけません。

「いったい起こっていることが、究極的には何を意味しているのか?」「何を象徴し、自分の何を変えればいいのか?」「何を残し、何を捨てればいいのか?」ということを考察するのです。

混乱し、自分だけでできない場合は、対人援助のプロや客観視できるツールを使う人の助力を得るのもいいでしょう。

あきらめず、自暴自棄にもならず、自分の解体と再生が始まっているのだと受け止め、できることは淡々としながらも、なるべく根本を追求し変化させる姿勢を持つことです。大元を浄化したり、断ったりすれば、一気に問題は解決に向かいます。

よく「どんな状況も楽しむとよい」などという言葉がありますが、苦しい時、大変な時に楽しめるわけがありません。そのような感情が納得しない言葉や状態は採り入れず、つらい時はつらいと思えばいいのです。

ただ、その痛みやつらさの感情の波と事態に溺れないよう、もうひとつの分析的な自分の視点を持って取り組むことです。その場合は「吊るし」と「」がカードの象徴的なものとして活用できます。

特に「正義」から「節制」の7枚のカードは、こうした自身の変革の調整とバランスには、大変重要なカードとなってきます。

「節制」のカードが示すように、まさにあなたの救済役ともなるのです。「13」と「節制」が向き合っているのには、こうした理由もあるのです。

あなたのガラガラポン!がすっきりと終わるように、マルセイユタロットの精霊たちとともに祈っています。

※ちなみにガラガラポンは、その言われとともに「手品師」とも関係し、結局やはり「運命の輪」、そして「世界」とも関連することになってきます。こうした他のカードとの関連が、絵柄の象徴とともに論理的に発見できることが、マルセイユタロットの醍醐味でもあります。


自分の起こっていることを理解するもの。

マルセイユタロットを学び始めた人や精神や心理、スピリチュアルなことを知って、自らを向上させたいと決意した人には、自分の新たな再生の過程が動き出すことがあります。

これはマルセイユタロットの「運命の輪」を見ていればわかることです。

このカードの絵には、「輪」につかまっている二匹の動物が描かれています。かたや上に行こうとする動物、かたや下に向いている動物です。

これらの動物たちが何を象徴するのかは別としまして、ただ絵を見ているだけでも、上に行けば下に行き、下に行こうとすれば上に上がる・・・というシステムになるのはわかると思います。

そして、「運命の輪」にはクランク(輪を回すハンドル)がついています。このカードは「運命の輪」という名前ですから、文字通り、自分の運命を回すハンドルだとも言えます。

自分がこのクランクを回す時(あるいは誰かに回されることもあり)、そこには先述したよう、二匹の動物で象徴されることの、上や下への変化が起こるのです。

ここからは秘伝や秘密になってきますので、詳しくは言いませんが、この状態では確かに変化が生じ、一時的な混乱を迎えます。

中には相当大きな問題や、一度にどっと課題が噴出してくることもあります。

それの「現象」に振り回されていると、いつまでも輪の中で右往左往し、何がどのようなことで起こっているのか、何の意味があるのかということもわからず、ますます混乱するばかりとなります。

そうすると、自分はまさに「運が悪い」「悪い運勢が来ている」と思ってしまうわけです。

実のところ、これは自分で「運命の輪」を回し起こしている現象に過ぎません。

しかしながら自分の統合的発展と成長を志している者ならば、その奥底には、一番最初に述べたように、自己の再生(の過程)が回転し始めたと取ることもできるのです。

ほかのカートでいえば、「13」に象徴されることの場合もあります。

一般的には、人生に起きるただのイベントや問題として認識されることもありますが、インパクトは強く、やはり現実的にも大変さがあります。

これを二匹の動物の立場として、ただ自分が渦中で経験しているだけの状態でいると、その意味についてわかるのは、かなり後になってからとか、時には自分が亡くなる間際、亡くなってからということもありえます。

人はよくわからないこと、不透明なこと、先行きが見えないことに、かなり不安や恐れを感じます。

ですから、ただ起こっている現象に振り回され、意味を考えることもなく、その対処だけにとらわれていると、結局のところ「運」とか「霊」とか、「神」や「悪魔」のせいにしてしまいます。

そうしないと納得できない(心が落ち着かない)からです。

これを学びの観点や、広く高い視野で見ていると、起こっていることの意味、方向性などもわかってきます。

ただそれには道具や道しるべがいります。その有効なものがマルセイユタロットなのです。

なぜならば、この記事自体、マルセイユタロットの象徴から得たことによって書かれていることであり、このように、マルセイユタロットがあれば、見えないこと、わかりにくいことを絵柄によって整理・理解することができるからです。


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